孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

孤独感の原因になるのか、それとも自力自信の自己啓発となるのか、

2014年01月31日 | Weblog
私達人間は「良い悪い」で判断してその「良いとこ取り」したがる欲を持っていますから、然るに自己満足することもあるがその裏が出て不平不満になることも多くあります。

そして自己満足が自惚れ慢心になったり、それが「私は正しい」と主張堅持することになり、同時にその裏が出て「守り戦う」防衛本能&守り意識が強くなり、
そして自分に都合が悪いことならば否定反発したがる事にもなり、その私は正しいからして悪は排除しても良いという潔癖完璧主義や正義感にもなり、そして自分達に都合が悪いと思う形やその人達を排除したり抹殺することになり、
然るにそれが結果的には略奪侵略や人殺し戦争になっています。

また自己満足の裏側の不平不満からして不安心配恐れや苛立ち怒りや憎しみ嫉妬にもなり、それが腹いせ仕返しの報復復讐になり、そこで手当たりしだい何でもぶち壊したくなる破壊意識にもなり、然るにそれが他者破壊&自己破壊の他殺や自殺になっています。

久々にクソ丁寧に書きましたが、
要するに良いとこ取りしたがるその欲からしてそれが自己満足になろうが不平不満になろうが、いずれにしてもそれが原因からしてこの世人間関係がヘンテコな具合になっている事実があるのです。

然るに「小から大になる」その小さな事から大に至るその経緯を簡単明解丁寧に書いたわけです。

ところで以前に私が「静寂にして暮らしていてそこで客人が来て賑わい去っても元の静寂に戻るだけ」で済むことを書きましたが覚えていますか?

ところが(前項に書いたような)不平不満から始まる諸々の精神感情を抱いていれば静寂で穏やかな精神状態ではありませんから、すぐさまその苦悩する現実問題に直面しますから決して穏やかな精神状態とは言えません。

然るにどんな立派な仕事を成しても、然るに立派な肩書き名誉名声権威や権力や財を得て持っても、また贅沢で高度な多種多様の趣味嗜好娯楽を味わっても、とどのつまりは己の意識が原因のその不平不満生活がずーっと続くのです。

だから(不満不安不信からして)巷の趣味嗜好娯楽に興じていても何か心が満たされずに&味わいきれずに&中途半端に終わり不完全燃焼が如くの納得できないままに終わっているはずです。

然るにそこで何度も繰り返したがることになるし&依存する事になるし、また今以上の優れた結果を得られる形を欲し捜し求めるその繰り返しもずーっと続くわけです。

然るにそれで時代が進化発展して来ました。

また素晴らしい学業成績や仕事の成果業績を上げて一時喜ぶもすぐさま現実の精神状態に引きずり戻されますし、しかもそれを守り維持するためにまたしても頑張り続けなければあとは下降するだけになります。

だったら元から欲張らずにして(成り行きに任せて)(仕組まれながらにして)己に最も似合った居場所&位置にいた方が「楽だった」のではありませんか?

然るに欲張って苦労するだけで終わったも同然になりませんか?
そして自己満足なんてことは儚く淡いものだと思いませんか?

然るに虚しくなるだけです。
だから孤独感を持つことになるのです。

然るにどんなに賑わい華やいでいても内なる心は孤独だったのです。
だったら元からして「孤独の自由」を味わっていれば諸々の柵シガラミから離れた開放感&自由を味わいながらにして自己啓発することになり、然るにその自力自信の精神に見合った独自独歩の生き方になります。

然るに元からして孤独なのに皆して結果を出す競争に励みまた変化刺激&快感快楽を互いに求め合ったことからして結果的に虚しさを味わいそれが孤独感になったのです。

どうですか、未だ疑問違和感がありますか、
この文書をよく噛みしめて味わいましたか、
然るに誰のためでもない、貴方のためになることです。

※このブログを書きながらにして始めて「自己啓発」なる言葉が登場しました。
つまりは記憶の知識からして書いているのでは無くして私の実感からして書いている内に(成り行きからして)言葉が浮かんでくるのです。

成り行きの必然のご縁の仕組みには無駄が無いのです。

2014年01月31日 | Weblog
ブログのアクセスランキング解析が無料の時があるのですが、それを確かめてみて判ったのが、一日250人から150人で推移しており、その閲覧数は約3倍ですが、トップページを閲覧している人が思ったよりも少なく30人から50人と言うことは選り好みをしていることになります。

然るにタイトルの文言で自分の思いに似合った事柄を選んでいますから、然るに己の意識が原因の仕組みにあたります。

だから精神世界の極め付けの短い内容が時々含まれていてもそれを見逃している可能性があります。
また何度も同じ言葉が出てきますから知ったかぶりで早読みしたりすればその内容が以前より理解しやすくまた奥深くなっている事が読み取れ無くて、然るに納得実感することもそれだけ少ないはずです。

とは言っても退屈な時間つぶしに書いていることだけに押し売りしているのではありません。
ただ必然ご縁で仕組まれてこのブログにご縁があったのにその必然性が少ない人のその意識力がすこし気になっているのです。

またそれだけに私が実感していることを少しでも判りやすく詳細に書くことに繋がったのです。

と言うことは私が詳細に書くことが仕組まれた事によってこのブログを必然としている人には都合が良かったのです。
然るに意識力のある人に役立っように仕組まれた事になります。

然るに成り行きの必然のご縁の仕組みには無駄が無いのです。




「終わり良ければすべて良し」然るに過去は非なるものでも今は本物を味わっている事になります。

2014年01月31日 | Weblog
欲張ることがどんどん減ることでその分だけ暇で退屈する時間が多くなり、然るにどうすべきか考えるのですが、しかし何も浮かびません。

また常に真実の精神世界を意識していていますから巷の非なる趣味嗜好娯楽が色あせて面白く無くなっています。

しかも世間的な人間関係を求めることもありませんから尚更に暇な時間が多くなっています。

そこで(自問自答して)その思いを変えてみました。
然るに人間関係での修行(否定反発&束縛制限)が無くなったから、その裏の暇で退屈な事が修行に入れ替わったと思う事になりました。

そうなると暇で退屈な事が価値あるものに思えるようになりました。

そしてそれを乗り切れば何らかの仕組みが起きて新たに目覚め気付くことが多くなるかもしれないと思えるようになりました。

また過去の良いとこ取りしてきたその罪滅ぼし&しっぺ返しが仕組まれていると思うようにもなりました。
然るに過去の行いの反省とその謝罪&お詫びをしているように思えるようになりました。

また余計な心配もないその平穏無事な心のままで、しかも自然界の静寂からして精神世界に集中できることになり、然るにブログの文書制作がはかどる事も事実にあります。

然るに暇で退屈している事にそれなりの意味があることになり、然るにその意義が持てるようになりました。

すなわち暇で退屈していることが無駄ではなくて有意義になったのです。
また同じく、此れまで仕組まれ続けてきたことが無駄ではなくして「意義ある人生」になったのです。

だからこのままにして人生が終わっても悔いが無いのです。
然るに「終わり良ければすべて良し」となるわけです。

「欲張ることは罪悪」だと知っていて欲張っている(罪を重ねている)その矛盾に気付いていますか、

2014年01月30日 | Weblog
私達は自分さえ良ければで比較評価判断してその良いとこ取りをするために欲張って生きています。
然るに自分さえ良ければで欲張って生きているのに他の方面で思いやり優しさを出しているその矛盾があります。

然るに己の生活圏の中で奪い合いの喧嘩をしているのに他の方面で喧嘩して怪我している人達の傷を癒しているようなものです。
また同じ仲間で喧嘩したあとでその互いの傷を舐め合っている場合もあります。

然るに幼い子供同士が奪い合いをしているのを見てその親が欲張ってはダメですよと子供を諭すが、その親自身も欲張っているし、またその子に何かと欲張ることを前もって教えているそれらの矛盾があります。

そして今の現状&生活基盤が欲張り続けてきたその結果ですが、どんなに欲張ったところで今の結果よりも上に行けるチャンスは殆ど無くて、それより下っていく可能性が大きいのが現実にあります。

だから今の現状を守るためにも欲張り続けなければなりません。
だから心身ともに疲れるのです。

ところがその罪の意識&罪悪感から逃れるために巷の信仰宗教の神様に許しを請うお祈りをしたり豊かな食卓を囲める喜びを神様に感謝しているのです。
そして時たま慈善奉仕活動することで罪滅ぼしをしているのです。

※本来なら信じている神様では無くして、その欲張ったがために犠牲となっている人に対して許しを請い&アリガタイと感謝する方がもっと精神的に救われると思います。

然るに「欲張ることは罪悪」だと知っていて欲張っている(罪悪だと知っているのに更に罪を重ねている)その矛盾に気付いていないのです。

然るに信仰宗教に所属していない人でも欲張ることはよく無いと知っていながらにしてそれを必要悪にして欲張り続けているのです。
また自分が欲張っている事に気付いていない人も大勢いるのです。

そこで心を入れ替えるのなら先ずは欲張ることを止めなければなりません。
そうなると下り坂を転がり落ちるようなことにもなります。

そこで守り意識を捨てる事になり、然るにその見栄や世間体が気にならなくなれば上出来です。
然るに欲張らなくても十分に生きていける事実を味わい知ります。

そして比較競争評価し合うことから離れて心穏やかに過ごせることで人間性に落ち着きが出てくるのです。

然るに生きていることが素直に味わえるのです。

そして何事も無く、タダ食うだけ、タダ寝るだけ、タダ糞が出ること(健康)が幸せにも思えるように(時間は長く掛かるが)なっていくのです。

このブログは多くの事実を知ることが出来ます。

2014年01月30日 | Weblog
矛盾の無い完全なる宇宙&神&愛を知ることが出来ます。
然るに信じるか否かの見えない世界、不完全な神仏霊魂の世界、その信仰宗教や思想哲学や真理や巷の伝統風習や道徳や常識の間違いを知り、その真実を知ることが出来ます。

人が集る所に欲が渦巻いているその事実を知ることが出来ます。
然るにむやみやたらと人が集まる事に出向かないで済むようになります。

神懸り奇跡の超能力霊力を見せることは人集め金集めのための「客寄せパンダ」だと知ることが出来ます。
然るに憧れ敬い信じて頼ることにもなりません。

運勢占い予言予知は不確かです、なのにそれを言うからには世間に目立ちたがる欲が隠れていることを知ることが出来ます。
然るにそれら輩が竹の子の如くに現れ出るも自らの欲からして墓穴を掘ることにもなっています。

そんな世間に目立つ人を信じて頼るのは己の欲からですから、然るにその思惑期待を裏切られても、その責任&非は己自身にあることを知ります。
然るに他力に頼るよりも己の自力からして行動するようになります。

そして世間に目立つ人は己の欲からして人様を蹴落としたり他の人に行き渡るべき物や形を先取り横取りした欲の深い人だと知ることが出来ます。
なのにその目立つ人の下に集まることになれば、それは己も同じく人を蹴落とし横取りして少しでも世間に目立ちたいがためですし、しかもその目立つ人の下でしっかり頑張り踏ん張りその上の人を支えるその役目も同時にしていることになります。

しかしこの世で欲張った者が必ずしも得にならないことの事実を知ります。

然るに持ち前の欲の思いが出てきても、そこで欲張らなくなります。
然るに「楽に生きる」ことができるようになります。

しかも欲張ればそれだけ心身ともに疲労苦労しますから、何やら生きていても面白くありません。
然るに巷の趣味嗜好娯楽で憂さ晴らしをしたくなるのです。

ところがその変化刺激を味わったその原因からして、更にそれ以上の形結果を出せるものを欲しがりますから切がありません。

然るに持ち前の不信感からして「石橋を叩き」ながらも「皆して赤信号を渡る」ことになっているその矛盾の生き方が私達だと知ることが出来ます。

その矛盾の生き方から脱するには欲張らないことしかありません。

そして誰もが実践できる真理だと知ることが出来ます。

然るにこれ等の事柄を一つ一つお天道様が見ているわけでもないが、しかし己の意識からして仕組まれてその結果が出る仕組みがこの世にあることを知ります。

釈迦やイエスやサイババ&山田耕栄や伊勢白山道なる類が実践し味わっていない事実を書いているのです。

2014年01月29日 | Weblog
此れまで成り行き任せにしての必然ご縁が仕組まれ続けて今日に至っていることを書いてます。
また性格的には何でも知りたがる&やりたがる意識からして子供の頃から先駆けて遊ぶ事やそれを創意工夫することに喜び楽しさを見い出していました。

然るに成り行きで様々な遊びや仕事を先駆け、またその中で成り行きで見合い結婚し、また成り行きから副業的に日本初のネットワークビジネスを先駆け、それが健食になり→奇跡的効果の特殊サプリ→宇宙エネルギーの水→超霊能者とご縁があり→遊び半分からして過疎地暮らしになり→耕栄さんの完全真理にご縁があり→自己縮小の実践を先駆けていたので→その言い出しっぺの耕栄さんを尻目にして(誰もが追及しなかった)「欲尽くし」のブログを書くことになりました。

然るに完全真理が説くところの良い悪いで判断しないこと→宇宙&神&愛意識を学び知り実践すること→しかし無理→そこで自己縮小→良い悪いで判断するのはその良いとこ取りしたがる「欲」にあるとして→欲張らなければ良い悪いで判断しなくなる→然るに欲張らないで「楽に生きる」その実践を書いているのです。

然るに現在の欲尽くしのブログのままに終わり、然るにこれ以上の実践できる真理が出てくるはずも無く、然るに誰もが実践できる「欲張らない」その実践しか他にないと思っています。

まして人類を超えた超人&高次元意識体がこの世に表れる可能性も無く。
然るに人類滅亡のシナリオ通りにならなくても、皆して欲張り続けたそのしっぺ返しの天変地異や人が係わる真坂の有事でもってして「生き地獄」が如くを味わいながらにして死ぬ人が多くなるのは避けられないようです。

と書いても私に超能力&予言予知能力があるわけではないから、
然るに信じるか否かになりますが、いずれにしても欲張らなければ波風のないままに死に至ることが出来るは道理に合致しますから、
然るに事実を書いていることになります。

然るにその事実を私が既に味わっていて、その味わった事実を書いているのがこのブログです。

しかも成り行き任せの必然ご縁からして仕組まれ続けた結果であって、然るに私の思い思惑が先にあって始まったことではないのです。

然るに手前味噌ですが過去の釈迦やイエスやサイババの類や山田耕栄や霊能者や伊勢白山道なる類が実践できなかったことですから、然るにそれら類が味わってもいないその事実を書いているのです。

そして皆さんがやがて味わう事になるであろう「欲張らない生き方」を私が先駆けていることになるのです。

欲張ることが無くなって、然るに「食って寝て糞する」だけのその真価を再認識しています。

2014年01月29日 | Weblog
私も不完全意識丸出しで生きていますから一日2時間のパートに行っている中でオーナーの後片付けのお粗末さに時々不愉快な思いになるときがあります。
然るに私も人様が絡めば気にすることが出てくるのです。

ところが己一人で暮らしている中には心身ともに何の問題もありません。
然るに不満不足&不安心配も無くて平常心のままに時が経っているだけです。
そして寝不足だとか頭痛や足腰が痛むとか内臓の調子が悪いとかの病的症状が出たり、また気分が悪いとか体調が悪いとか憂鬱にはなりません。

然るに肉体的にも精神感情的にも「何事もなく時が過ぎていく」その感覚は誰もが味わえることでは無いと思っています。

然るに金銭物質の豊かさが味わえなくても精神的に満ち足りた感覚が味わえますから、然るにそれが精神的な贅沢を味わっている事にも思えます。

とにかく誰でもが人と出会えば何かと気になる事が増えてきます。
特に身近な家族ともなると持ち前の不信感からして余計なことが(過去現在未来までが)色々と蘇ったりまた思い考えることが(絶対的に)多くなります。

ところがそれはいつもの繰り返しだからいつの間にやら鈍感慣れっこになってしまって(潜在内心では気になっているのに)そんなに大したことでは無いと思いがちですが、しかし「何事無く時が過ぎていく」事を長く味わっていると(オーナーの件のように)それが結構気になっている(ストレスになっている)ことに気付きます。

ちなみに世間一般的であっても(気付かないうちに)ストレスが満杯になっていて「心が空っぽ」になっているといっても過言ではありません。

然るに虚しさが漂ったり蘇ったりしているはずです。
ただ日々の忙しさ(変化刺激)からして直ぐに忘れたりするのかもしれません。

然るに就眠前の孤独と静寂になった時に必ず出てくることでしょう。

然るに「寝付かれない」然るに深夜まで起きている、そして何事かをしていなければイライラして落ち着けない、それを翌朝までも持ち越すことになり、だから体調も悪く気分が憂鬱、然るに味気なく面白くない、そこで(味の強い)趣味嗜好娯楽で憂さ晴らしする、すると落ち着きがなくなりまた寝付かれない、そしてアルコールや睡眠剤に依存し頼る、その繰り返しをずーっとしながらの人生で終わるかもしれません。

然るに何事も無くそのままにして「タダ寝るだけ」「タダ食うだけ」「タダ糞するだけ」然るにそれで<十分に思える>のとは絶対的に異なるはずです。

途中結果が如何に良くても終わりがお粗末ならば、あの世でもそのお粗末なままがずーっと続くのです。

2014年01月28日 | Weblog
人が集る所に欲が渦巻いていますが、しかし欲張らない者同士が集ることであれば何の問題も起きません。

然るにルンペン生活者が集る所に誰か欲張る者がいれば何かと摩擦問題が生じやすいが、しかし欲張らない者同士が集っていれば穏やかな日々が過ごせて至福の時を味わえることもあります。
然るにそれが事実にしてあれば私もその仲間になって暫く一緒にすごしたいと思っています。

と言うことから、そこで何かと欲張らない事にして、それに(無理に)耐えるのではなくして、欲張らないでも生きて行けることを味わうことからしてそれが本物になっていきます。

然るにその本物を味わえるようになると(不完全意識ながらも)心が満ちてきますから、その環境立場がどうであれ、そのままがずーっと続く事になります。

然るに時たまに必然ご縁からして嬉しいこと楽しいことがあって、それを味わい終わっても、また元の生活に戻るだけで済みます。
然るに嬉しいこと楽しいことの後に何か困ったことが待っているわけではありません。
しかしその嬉しいこと楽しいことが起こることに期待&執着するようになれば、然るに元からして欲張る心がまだ残っていたことになりますが、しかしながら、そんなことを繰り返しながらも次第に欲張る心が薄れていけばそれが本物になっていきます。

然るに困ったことにもなりません、だから不安心配になることもありません。
然るに自然体の生き様が味わえますから、そこで変化刺激を欲して捜し求めることにもなりません。

然るに世間一般的な生活から卒業できれば、それが単なる言葉上のことではではなくして実質での新たな人生が始まった事になります。

然るに同じ似たような人生の繰り返しのままに終わることよりも、またと無い(今までに味わったことが無い)それ以上の価値ある意識の変化を味わう事になるのは確かです。

ちなみに私が過去の自己拡大&人間関係の柵シガラミから離れたことで、その過去の様々な不合理&矛盾や精神的重圧や感情的な苦悩から開放されている状況を仮に(皆さんが)想像したとしても、その想像しきれないほどの量と質のものを今も私は味わい続けています。

然るに人間として生きていたことに満足できるわけです。
然るに「終わり良ければすべて良し」となるのです。
だから死してあの世に行ってまでもその余韻のままに宇宙の時を過ごせます。

然るに途中結果が如何に良くても(過去が良くても)終わりがお粗末ならば、然るにあの世に行ってからもそのお粗末なままがずーっと続くわけです。

然るにあの世もこの世も「意識の世界」と言われるわけです。

皆さんは親孝行されている状況なのですか、親孝行をしている立場なのでしょうか、その予備軍なのですか、

2014年01月28日 | Weblog
人間として生きていれば必ず怪我をするし病気もするし年老いて行きそして死に至る運命があります。

またそれ故に「親孝行」が言われますが、然るに親孝行をすると言うよりも意識が原因からして親孝行が仕組まれて「親孝行させられる」と言っても過言ではありません。

そして(前世絡みもありますが)概ねにして親孝行を必要としていない者にはその親孝行をすることにはなりません。
然るに親孝行をされることを(潜在的にも)望んでいればその親孝行をする運命になりやすいようです。

そして親孝行が美徳のように言われていますが、実際は苦労することが多くて自己満足できることは少ないのが定番です。
然るに内心では悔やんでいるのだが仕方なく(見栄や世間体からしても)親の面倒を見ているだけです。

しかしそれでは己が惨めですから、然るに美徳(良いことをしている)という美しい言葉で慰めているのです。
然るに世間の人も同じ立場になるその仲間だから、然るにその世間も美徳にして飾っておきたいのです。

ところで皆さんは親孝行されている状況なのですか、それとも親孝行をしている立場なのでしょうか、それともその予備軍なのですか、

とにかく何れにしろ「順めぐり」で仕組まれることです。
そして確かな事にあるのが両者共に苦労することです。

また両者共に欲張っている度合い&感謝することの度合いによって、それに似合った状況&しっぺ返しになるようです。

ところで私の場合は両親に親孝行することなく他界しましたから、然るに私も親孝行をされずに(面倒をかけないままに)死に至ることを望んでいます。

然るに健康に過ごすことを念頭においています。
然るに欲張ることも控えています。

然るに此れまで大きな怪我も無く大きな病も無く現在に至っています。
そしてこの先で一般的になった欝ウツや痴呆症が待っているかもしれませんが、今の私の生き様からしてその心配はしていません。

然るに皆さんは如何ですか、
然るに大丈夫に思いたいところでしょうがそうは問屋が卸してくれない仕組みがあります。

そして年代が若い人ほど此れまでの生き様からして(近代社会のストレスからして)今よりも更に精神疾患が目立つようになります。

しかも介護することで(自力自信&精神力が弱いと)夫婦家族が共倒れになるその可能性も十分あります。

然るに金銭物質&生活に恵まれた環境で育つほどに(過保護ほどに)その心身の抵抗力や自然治癒力が弱くまた自力や自信など精神的にも弱いから、然るに巷の有事や真坂の有事に弱い体質&精神体&感情体になっていると思われます。

それでも国家社会から見捨てられない限り何とか生きていけますが、然るに「死んだも同然」や「生き地獄」のような生き様を味わい続ける事になるのは確かです。

然るにその事を皆さんも既に見通しているはずです。

それでも「私は大丈夫」然るに「私は正しい」と思いたがっているのでしょ、
しかしこの世が曖昧アイマイでも精神世界は完全ですからその白黒&意識が原因のその結果はハッキリと出てきます。

しかしそれでも欲張人生のほうが「得」だと思いますか、

どうやら「自らのため」に自問自答する必要がありそうですね。

「愛のキャッチボール」&「双方向の人間関係」

2014年01月27日 | Weblog
自分さえ良ければの不完全意識から出る優しさ思いやりは同じ不完全になることの事実を書いていますが、しかし生きていく中での人間関係では必然ですから、然るに否定反発はしていません。

例えば私の用事案件となる事柄で妻から電話があった時に、その案件用事の日時を聞く事になるのですが、時たまにその日の曜日が何となく気になって問うと、然るに忙しいのか愛想も無く「知らんわな」と一言で終わります。

それと同じようなことがご縁ある方の場合であれば、そこで大したことでもないのに隣部屋のカレンダーを見るためにチョコット席を離れて確かめてくれます。
然るにちょっとしたことに応えてくれることからしてそれが優しさ思いやりの心に触れる事になり、当然ながらそれが何だか嬉しくて自然と感謝の言葉が出てきますし心が何となく満たされます。
然るに相手側も私の素直な感謝の言葉で微笑を浮かべることになりますから、然るに双方の心が和み仲良くもなります。

然るにその事を私は「愛のキャッチボール」と称して書いています。
然るにそれが双方向の人間関係となるのです。

然るに世間では大きな事柄&目立つことに応えることが優しさ思いやりになりがちですから、然るにそこで親切を自らが買ってまで出しゃばることがありますが(私も経験済みです)、そこでそれだけのことをしたからには、それに見合った恩儀を返してくれると勝手に思うことにもなりますが、然るにそれが無ければその恩儀を忘れられた&裏切られたとして不満に思うことにもなっています。

然るに私の場合だと、人様の大きな願いからして私の自力で成せなければその道の専門家の他力を使うことを相手に勧めるだけですし、それが私に出来る事であれば(自力を使うことであれば)その相手の思い願いに応えることが出来ます。

然るに大きな事は成り行きに任すしかないが、それが無理なく出来る、然るに当然が如くに動くことが出来るその小さな事からして人間関係の良し悪しに繋がっていくのです。
しかも相手を「便利屋」如くに(双方お互い様では無くて)「一方的」になればエゴですから、然るにその積み重ねからして人間関係にひびが入ります。

しかし基本的には「自分に出来ることは自分でする」&「創意工夫する」その自力を使うことで己が「生きている」ことが味わえるわけです。

然るにそれらが無いと(生きている感じがせずに)自閉的になったり孤独感に繋がったりするのです。

然るに自力自信の精神力からして己の生き様が変わるのです。