孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

私は「楽に生きて」「楽に死ぬ」ことが出来ればそれで本望です。

2013年08月31日 | Weblog
大昔から引き継がれている神仏霊魂の世界の信仰宗教や巷の精神世界の不完全さからして、また完全な神や愛を説く完全真理にしても、また如何なる神懸り奇跡の超能力や霊力でもってしても、その不完全意識の人間をどうすることも出来ないその真実を知りました。

そうなるとそれら類は精神世界の入り口の扉を開ける役目だけで終わる事になりますから、思い思惑で願い期待すること無く、また思い込み盲信や陶酔や暗示や洗脳されないためにも、
然るに精神世界の扉を開けた後は各々のお似合いのその独自独歩でもってして気付きながらにして歩んでいくのが賢明だと思っています。

だから他力依存やその願望から卒業することにもなります。
また欲張り無理せずに小さく生きることになります。
しかしそれを怠ると自由を失いますから、然るに身軽さや気楽さが消えて思うがままには生きられません。

然るに此れまでの生き様からして間違っていただけに何もかも脱ぎ捨てて裸一貫から出直すくらいの覚悟も必要になるのです。
何故なら多くを持ち過ぎて拡大&大きくなっていますから、然るに精神世界の中に幾重にも張り巡らされてしかも奥に進むほどに網の目がきめ細かくなっていきますから、然るにそれをすり抜けていけるくらいにどんどん縮小&小さくなっていく必要があるのです。

然るにその精神世界の網の目の最初の関門は広いが次第に細かくなっていきますから、その途中で網に引っ掛かるとそこで抜け出すことに苦労します、
然るにそこで自分の生き様&精神&意識の過ちに気付くことができる仕組みになるわけです。

それに似た事例として「氷」「水」「空気」に例えているのが耕栄さんです。
然るに個体の「氷」が溶けて流体の「水」になり、その水が気体の「空気」になるように意識&精神を進化させる必要があるのです。

だから「結果」ばかりに拘っているその意識は「氷」のままですが、然るに結果じゃない原因意識を知る手立てとして生きていればその気付きからして固い氷が徐々に溶けて「水」意識に変わります。

然るに先ずは形を原因と見ないで意識が原因と見る意識体(命&魂)に進化することがこの先で仕組まれるはずです。
然るに原因では無くして「意識で生きる」ことになり、その気付きの積み重ねからしてやがて「水」から「空気」に進化して、然るに宇宙&神&愛意識で生きる意識体になるようです。

ところで人間生まれれば必ず死にます。
となると明日にでも死ぬ運命で生まれてきた事になりますから、然るにその死が悲しみであればその誕生も悲しみでなければ矛盾すると思いませんか、

また死ぬ運命だからこそ生きている内は精一杯楽しみたいのが本音でしょう。
然るに生きていても辛いばかりで楽しくなければそこで死にたい思いを持つことにもなります。

それが時代の支配者や権力者や長者やまた女帝や絶世の美女であれば然るに生きていることが楽しいから死にたくはありません。
然るに長寿の秘薬や不老長寿の秘訣や永遠の若さを保つ秘薬や秘訣を捜し求めることにもなるのでしょう。

それが世間的な暮らし振りであっても、然るに長生きしてその分だけ楽しみたいのは皆同じだと思います。

然るに私はそんなに楽しいわけでも無く、また生きていることが辛いわけでもないから、然るに長生きしたいとも死にたいとも思いません。
然るに死ぬ時が来たら未練を残さずに死ねると思います。

然るに現在の心境は、生きている内は心身ともに健康で死ぬ時が楽であれば、それに優る生き方&死に方は無いとさえ思えています。
然るに今は心身ともに健康状態ですから、今のままに「楽に生きて」然るに「楽に死ねば」私の人生に思い残すことはありません。

愛情や義理人情が人間関係の絆や信頼にもなっていますが、不完全意識だけに裏が必ず出るのです。

2013年08月29日 | Weblog
人間関係の中で優しさ思いやり感謝は必然です。
しかし問題なのは矛盾する不完全意識から出ていることにあります。
然るに表もあれば裏もあるのです。

然るに愛情や義理人情や温情&情けが人間関係の絆や信頼にもなっていますが、その私情が不完全意識から出ている限りその裏が必ず出るのです。
それが裏切りの思いです。

然るに不完全意識が消えて完全意識、然るに宇宙&神の愛意識にならなければその言葉に裏があるわけです。

ゆえに優しさ思いやり感謝の言葉や愛情義理人情の絆や信頼の言葉に偽善&裏が隠れていて当然なのです。
なのに「結果」を求めている人、然るに結果を前もって思惑期待している人にはその言葉に魅せられているのです。

ところで完全意識になれば「そのまま・このまま・あるがまま」ですから、然るに結果形がありません。
然るにそれら結果形を表す言葉も必要なくなります。

だからその完全意識からしてみれば、前もって美味しそうな言葉でもってして思惑期待させておいて、そして自分の都合がいいように動き働いてもらう目論見&皮算用からして使っている事になります。
然るに「海老で鯛を釣る」が如き思惑が隠れているのです。

ところがその思惑通りに事が進まなければ、その期待を裏切った人になったり、また期待を裏切られた結果の人にもなるのです。
すなわち両者に思惑期待の欲絡みがあってのその結果であり、然るに両者共に加害者でもあり被害者の立場でもありますから、然るにお互い様の裏切り関係になります。

然るに海老で鯛を釣り上げる如きの利口な輩もいれば、その美味しそうな海老に惑わされて愚かにも釣り上げられる人がいるのです。
然るに両者共に欲絡みであることは確かです。

だから欲絡みの思惑期待に惑わされないだけの精神力&自信と自力が必要なのですが、然るに他力依存の自力と自信の精神力の弱い人が惑わされているのです。
そしてその弱い者同士が群れ合うことにもなっているのです。
然るに赤信号の横断歩道にも例えられるわけです。

とにかく「結果」に魅せられ惑わされるのもその原因の意識の中に欲が隠れているからです。
然るに「結果じゃないよ心意識だよ」となるわけです。

なのに過去現在未来の結果に執着している人が大勢いるようです。
何たって結果なくしては生きられないと思い違いしているからです。

然るにその一過性の結果を出し続ける自己拡大の人生から一転して、その結果を気にしない生き様に変わったことで新たな人生が始まっているのです。

然るに結果じゃなくしてその原因にして生きるその精神世界を意識した生き方になっているのです。
然るにそれも本物&事実&真実の精神世界を学び知ったその自信からして(何が無くても&何か失うことが有っても)安心安全の心持で生きていけるのです。

自由&気楽であれば孤独感や不信感や正義感や価値観からの喜怒哀楽が出てこなくなります。

2013年08月28日 | Weblog
基本的に自由が無ければ真の精神世界で生きていることにはなりません。
ところがこの世の人間関係に自由がありませんから、その人間関係から離れた孤独が必然になります。
然るに人間関係が束縛制限支配関係にあることや自分に都合が悪いことは否定反発排除したがるその不自由が伴うことを学び合うのもその人間関係からです。

然るに不完全なこの世で真の精神世界に身を置くには自由&孤独&独自独歩の自力が必然だが、然るに巷の不完全な偽りの精神世界には不自由&不平等&他力依存が必然になっています。
然るに大勢の人が集り共に助け合い励まし合うが裏では欲張り競い合います。
然るに束縛制限支配し合ったり否定反発排除することにもなります。

ところが自由&孤独にも裏がありますから、それが孤独感にもなり然るにそれが不自由していることにもなります。
然るにその孤独感を癒すためには趣味嗜好娯楽に親しんだりその仲間の人間関係を求める事にもなります。

ちなみに田舎暮らしの中で絵画音楽陶芸彫刻から小物の創作手作りや料理やパン焼き野外パーティなどで親交を深めたりしている事例があることも承知していますが、それらが例え自由意識であってもその苦楽・喜怒哀楽が伴い精神が乱れます。

然るに私はヤギやニワトリを飼育したり自家菜園を嗜みましたが、然るに余計なことに無理してそれがストレスになっていたことに気付きました。
然るに相当な労力と金銭物質の浪費と無駄で終わりましたが(未だにその残骸後始末に苦労していますが)、然るに当時のストレスからは開放されています。

しかし以前に増して暇で退屈するようになりました。
然るに食ってばかりも寝てばかりもいられません。
然るに仲間との人間関係が必然になることも悟りました。

然るにそれが信仰宗教に人が集る原因でもあります。
また小グループのサークルやコロニー的な類があるわけです。
それでも人が集れば良いことも悪いこともあります。
然るに人間関係の欲が叶っても(自由平等調和がありませんから)精神の安定は望めません。

だからその人間関係に束縛制限や否定反発の無い自由意識とお陰様とお互い様の調和意識を持った者同士&仲間が集まることになれば申し分ないわけです。

しかしそれも無理ならば、然るに自力と自信の精神力の孤独と自由からして独自独歩に生きていくしかないわけです。
然るにそれでは片手落ちの不完全なことは承知の上のことです。

しかし不完全な矛盾のあるその欲絡みの人間関係を気にしないままに(巻き込まれないままに)然るに自由でもって気楽に生きていけますから、孤独感や不信感や正義感や価値観やの苦楽&喜怒哀楽で生きることにもならずにして、然るにそれが精神の安定&安心安全にもなり、然るに心に余裕が出てきての精神世界の気付きからしても、然るにその精神力&自信と自力でもってして独自独歩に歩んでいけるのです。

然るに不完全意識の人間である以上は(欲張り無理することにならない)孤独にして自由になれるその独自独歩の気楽な生き方しか他にはないと確信しています。

現われ出た結果のその原因意識に気付く&気付き続けることが真の精神世界であり人間の役割使命です。

2013年08月27日 | Weblog
日々実践意識にして気付いたことを書きながらにしてまた新たな気付きが起きていますから、然るにその内容が少しずつ変化&進化していると私は思っています。

然るに己の心意識を学び知り気付くための精神世界が歪められて欲絡みの結果を得る手立てになってしまったこと。
また人間意識が原因で摩訶不思議が起こる仕組みが有るからこそ、その人間意識を説き語るのが本筋なのに、それが特定の神仏霊魂が原因に思わせた輩がいること。
だから尚更に摩訶不思議の神懸り超能力やや霊力に魅せられてその結果を欲しがる人&期待する人が大勢集まりだしたこと。

然るに「結果じゃないよ意識心だよ」然るに「意識が原因のこの世界」然るに「すべてが意識の世界」と説くのが本来の精神世界であること。

また「良い悪い」で判断するのも、その良いとこ取りをしたい欲があるからです。
然るに優劣で判断するのも自分が得をしても損はしたくないの損得勘定でもあり、然るに欲絡みなので自己主張にも執着にもなるのですが、然るにその欲が出なければ良い悪いで判断する必要がなくなること。
然るに「欲」からして良い悪いで判断することにもなっていること。

だったら欲を無くすればいいのですが、それが絶対的に無理だと判りました。
然るにその欲の原因は不平不満にあります。
然るに満足していれば欲が出てきません。

然るに欲を持っていてもその欲が出ない生き方になれば然るに欲張ることが無くなります。
然るに今あるもので十分に思える、然るに価値観で判断しない、また今生きていればそれで十分に思えるようになれば欲張る事になりません。

それと欲張ると余計なことを無理して然るに無駄になることの事実を自らして味わい実感悟りを開いていれば、然るに欲が出てもその欲に執着しませんから然るにその欲が消えていきます。

然るに不完全意識が原因のその結果が不完全なことに気付いていれば、然るに「結果じゃないよ心意識だよ」と気付き悟りを開いていれば、然るに無理して欲張ることにはなりません。

然るに欲張りが出ることは「結果を求めている」その原因意識にあることに気付けば、然るに余計で無理で無駄になることを実感でもって味わっているだけに、然るにその結果を求める事に手出ししなくなります。
然るに楽チンな生き方にもなります。

然るに精神世界は「気付き」にあります。
その気付きのために結果が出ているとも言えるわけです。
しかしその結果は過去のことになります。
然るに結果を出し続けるその繰り返しからして苦を背負います。

ちなみに誰もが生まれながらにして持つ不完全意識はどうすることも出来ません。
だから生きながらにしてその不完全な結果を出すことでもなく、また他力絡みの結果を求めることやそれを期待することでもなく、然るに必然ご縁からして現われ出た結果からしてその原因意識に気付く&気付き続けることが真の精神世界であり、然るにそれが人間本来の役割使命なのです。

「結果じゃないよ心だよ」=無料動画ギャオ「チャングム」の中にそのシーンがありました。

2013年08月26日 | Weblog
「結果じゃないよ心だよ」と書いている最中に無料動画ギャオの「チャングム」の中にそのシーンがありました。
それは簡単で早くできて美味しい結果の出るその小手先で調理したことで競合に破れ、然るに何故その競合に破れたのか、その反省を兼ねて山寺へ出向させられるのですが、然るに其処でも小手先で本物を作ろうとして失敗したり、また美味しいものを作るその秘訣を見付けようと躍起になるのですが、
然るに良い結果を出すことばかり意識していたその過ちに気付かされ、然るに小手先ではダメなことや秘訣を探し出すことではなくして、時間や手間を惜しまずにして真心で料理することに気付いたのです。

然るに競合に勝つためでもなく、小手先で手際よく美味しい料理を作るコツでもなく、然るに秘訣を丹念に探り出すことでもなく、
然るに料理する人のその意識のあり方でその料理の結果が出てくることを描いたシーンでした。

然るに創意工夫することも必然だが、簡単便利で結果が速く出ることよりも、然るに時間や手間を省く手立てのために努力することでもなく、また手際よい他力を応用するのでもなくて、然るに持ち前の自力&自信を十分に活かすように工夫することであり、然るにそれが当たり前が如くにずーっと継続できるような形になればいいのです。

然るに創作ドラマだからその結果が出たという単純な意味あいでは無くして、その創作が現実に成り得ることであり、しかも精神世界の真実が描かれていたので紹介することになったのです。

「結果&姿形」「人間関係&しがらみ」から卒業し、真の精神世界&意識で生きる時が近づいています。

2013年08月26日 | Weblog
此れまでの史実を見れば人が集ることで何かが起こりそれが大きいほどに時代を動かしてきた事実があります。
その人が集まることは何らかの欲があってのことも事実ですから、欲絡みで時代が動いた事になります。

そして勢力争いで勝てば官軍負ければ賊軍になってきました。
然るに勝った方に英雄ヒーローや聖人君子が祀り上げられ、負けた方はサタンや魔女や罪人呼ばわりにされました。

然るに神仏霊魂の精神世界を説くことで勢力を手にした者が時代をゆり動かしてきた事実もあります。
然るに人の心意識を説くその精神世界の形でもってして人集め金集めして勢力拡大を図っているのが過去も現在も見てとれます。
その人を集めるのに最も都合が良かったのが人寄せパンダの如き神懸り奇跡を成す超能力や霊力でした。

然るに精神世界を語りながらにして「結果を見せて」人を寄せ集め、その勢力でもってして「目指す結果を得る」手法がまかり通り、然るにその勢力同士が私が正しいとして正義聖戦を掲げて争い戦うことさえもあります。

然るに己の心意識を学び知り気付くための精神世界が歪められて欲絡みの結果を得る手立てになってしまったのです。
然るに精神世界で「原因」を知ることが本来なのにそれが「結果」を得る手段になったのです。

だから尚更に摩訶不思議の神懸り超能力や霊力に魅せられてその結果を欲しがる人&期待する人が大勢集まりだしたのです。
然るにサイババや山田耕栄や伊勢白山道なるものに人が集るのです。

その精神世界でもってして結果を出したがることがまかり通る限り、然るに宇宙&神&愛の真実を学び知り気付くための真の精神世界が広く普及することにはなりません。
だから自由平等&調和の人間関係が始まることにはなりません。

ちなみに見えない世界の神仏霊魂のことを様々に説き語るのは必然にしても、それらを崇め奉ることで有り難いお陰様&御利益が有るように説いて魅了させ、また摩訶不思議を成して魅せて、それでもって人集め金集めの形にしたのが邪な意識の者たちです。

またこの世の事実にして摩訶不思議なことが起こる仕組みが現実にありますが、それも人間意識が原因のその結果ですから、然るに(良しかれ悪しかれ)それを特別&特定の神仏霊魂が原因とすることが間違っているのです。

しかも良しかれと思った結果が後に悪いことにも変わることがあることからして言えば、その不確かな結果のことはどうでもいいことになるのです。

然るにその人間意識が原因で摩訶不思議が起こる仕組みが有るからこそ、その人間意識を説き語るのが本筋なのに、それが特別&特定の神仏霊魂が原因に思わせた輩がいるわけです。

ちなみに私が宇宙&神の愛の仕組みの必然ご縁でもってして成るようになり、然るに今があることは事実です。
然るに巷では宇宙の法則&自然の法則とも言われています。

然るに特定の神仏霊魂が原因ではありません。
また摩訶不思議を成す神懸り奇跡の超能力者や霊能者のお陰でもありません。

然るに皆様も同様のはずです。
ところが邪な輩に洗脳されていたり自らが思い込み&妄想&盲信していれば別な理由になっても当然になります。

然るに「結果じゃないよ意識心だよ」然るに「意識が原因のこの世界」然るに「すべてが意識の世界」と説くのが本来の精神世界です。

なのに「結果」を意識しているのも、然るに見える姿形を気にしているのも、
然るに今の結果であるその人間関係や過去のしがらみを気にしているのも私達なのです。

だからその実践でもってしてそれらの真実事実に気付く必要があるのです。

然るに結果を気にすることから卒業する時、然るに真の精神世界&意識で生きる時が近づいているのです。

本来の精神世界は学び知り気付くため、然るに真実事実&本物を見極めるためにあるものです。

2013年08月23日 | Weblog
自己縮小して素朴に生きる、然るに気楽に生きる、然るに安心して食し安全にして寝る、然るに変化刺激も無く、然るに特別な盆も正月も無い感じにして、日々ほぼ同じことの繰り返しになる、然るに特別なことも無く、然るに成るようになる、その成り行き任せに生きることになります。

そして過去の苦楽で生きていたのと、今の平常心で暮らしているのと、その違いを実際に味わうことになるから、然るにその平常心で生きているその真価価値に目覚めることが出来るのです。
然るに欲張ることよりも常に平常心でいることの、その真価価値が実感で味わえるのです。

ちなみに肉体や感情や精神の起伏が無いだけ、然るにそれが心身の健康維持に係わるだけに、その肉体的な蘇生力や抵抗力やの生命意識エネルギーを浪費することなくして心身ともに疲れないですむのです。

そこで感情や精神面で自らを苦しめているその愚かさに気付かなければ、然るに自らが自らの首を絞めているその現実事実に気付かなければ、
然るに何をやっても無駄になるばかりか、その時の自己満足していたことでさえ不満に変わるときが必ずきますから、然るに過去の満足が消えて不平不満ばかりが表面的にも潜在的にも溜まってくるのです。

また不満を吐き出したつもりが更に不満を多くしていることさえも気付けないでいるのです。
然るにそれが原因からして自己拡大にもつながっている事実があります。
然るに何処かで止まらなければ自らを破壊する仕組みも止まらないのです。

然るに自己縮小が必然になるわけです。
ところがしかしそれが無理な人ばかりのはずです。
何故なら自己拡大ばかり続けていた人が多いからです。

然るに精神世界で言われている実践の必要性を知ってからその実践を始めたのでは既に遅いのです。
すなわち(私の事例のように)自己縮小に至るその原因意識が先にあったことからして(自ずと)その自己縮小の結果が出ていない限り無理だと言うことです。

然るに神仏霊魂の世界や宗教真理で説かれていることは、
目の前に現われ出た結果事実からして自らの「原因意識」に気付く手立てのためであり○、
然るに精神世界の「原因と結果」を学び知ったことからして、その「結果」を意識しての実践になれば、然るにその思い思惑&理想目的の結果を得るための実践になってしまいX、
然るに思惑期待の結果が先にあっての(欲絡みの)精神世界の学びになるのです。

だから何らかの欲からして神仏霊魂を信じて、祈って、願って、頼って、期待することになっているのです。
そして思いが叶ったら神仏霊魂のお陰に思い自己満足するが、その思いが叶わなければその信心が足りないとか、善行奉仕の真心が足りないとかで更に熱心に信じ祈り願い善行奉仕に励むこと(無理すること)にもなるのです。

然るに精神世界は己の意識心の有り様を学び知り気付くための形であって、
然るに何らかの結果&成果&御利益を期待するために(思惑期待の欲が叶うために)精神世界があるのではありません。

その事実を知らずにして神仏霊魂の世界に身を置いて信じ祈り願いまた思いを寄せてその期待を持つことにもなっているのです。
然るに精神世界が信仰にもなるのです。

しかし本来の精神世界は学び知り気付くため、然るに真実事実&本物を見極めるためにあるものです。

然るに完全真理がすべての真実を見極める手立てになっているのです。
しかし完全真理を全身全霊で信じていても己の思い思惑の結果が出ることは絶対にありません、何故なら実践真理だからです。
然るに山田耕栄さんやそのファバラを信じ期待することは他力依存の不完全な宗教&信者になるわけです。

然るに他力絡みの欲絡みの巷の精神世界ともなると、それは不純&邪心の不完全になるわけです。
だから精神世界に係わっているのに(身を寄せているのに)その不完全なる矛盾の喜怒哀楽&良かったり悪かったりの繰り返しを味わうことになるのです。

然るに喜怒哀楽が伴った生き方になっていればそれは真の精神世界にあらずにして、欲絡みの信仰宗教真理&他力依存&他力願望の邪な精神世界に親しんでいることになるのです。

だから喜怒哀楽が伴う自己拡大の過ちに気付き、そこで自己縮小の必然性に気付いたのなら、然るに思い思惑の欲が出ない生き方の実践、然るに無理無駄余計な事をしないままに、また不完全な人間関係を気にしないままの、成るようになるその成り行き任せにして楽に生きる実践が必要になるのです。

然るにその人の意識次第では清水の舞台から飛び降りるくらいの、または仏門に下り出家するくらいの、または艱難辛苦の修行をするくらいの覚悟が必要になるわけです。

だから物質金銭などの外見が大事な人には元々からして無理なわけです。
また外見メンツを保ちながらの(欲絡みの)二股では中途半端になります。

然るに真の精神世界を学び知り気付き味わいたい人であれば、然るにその外見メンツを気にしなくなれば自由&気楽を味わえるだけに、不完全意識ながらもその自己縮小の実践がどんどん進んでいくはずです。

そしてその自己縮小が自由平等&調和の宇宙&神の愛意識につながっていくのです。

自己中心の個人意識からして、私は正しいの正義感や価値観や孤独感で生きていることになります。

2013年08月21日 | Weblog
摩訶不思議のエネルギーからして霊魂&想念の世界につながりそして完全真理を学び知ることになりましたが、しかし完全真理が完全だけに不完全意識の人間には実践できない真理になりました。

然るにその不完全意識の人間が思い考え編み出した信仰宗教&精神世界は元からして不完全ですから、然るに邪な意識の者が操る余計で無理があって無駄に終わる不完全な精神世界の形を巷に普及させる結果にもなりました。

しかしそれでも完全真理によって巷の信仰宗教の信じる祈る願うのその不完全さや誰もが良いとこ取りしたがる人間関係の不完全さがハッキリしてきましたし、然るに余計なことや無駄になることや欲張り無理することのその愚かさやその虚しさを実感でもって味わってきました。

そこで自己縮小の実践、然るに素朴に生きる、然るに楽に生きる実践を書くに至りました。
然るに無理をしないで楽に生きることなら誰しも皆が実践できるはずなのに何だか手ごたえが感じられません。

そしてこの先に今の完全真理よりも優れたものが出てくるはずも無く、また本物の世直し人救いの神懸り奇跡の人が絶対に出てくるはずも無く、然るに「どうしようもない」人間界のままで終わるのでしょうが、然るにそれで宜しいのでしょうか、

ところが世界を見れば(不完全意識ながらも)素朴にして明るく楽しく生きている国家民族が見てとれます。
然るに文明の利器&他力よりも持ち前の自力とその自信と精神力でもってして生き生きと生活しているその様が見てとれます。

然るに別世界の事ではなくしてこの世の事実にあるのです。
更にそれらよりも過酷な居場所で生きるために一生懸命な人達も大勢います。

然るに私達はどうでしょうか、
然るに楽しく生きるための趣味嗜好娯楽を追い求め続けることに一生懸命になっていませんか、
然るにその原因は不平不満から始まる不安心配&不信感や怒りや恐れからして生きている「気がしない」から、その代替に趣味嗜好娯楽でその変化刺激快感快楽を味わって「生きている気分」を味わっているのです。

然るに生きている価値&本物ではなくして価値観&見せ掛け&豪華絢爛を求めてそれを味わたがっているのです。

然るに自由孤独が孤独感にもなっているのです。
然るに寂しくて人が集り集いそして枯れ木に花の如くに賑やかにしていたいのです。
ところが互いが束縛制限支配したりまた不信感からして都合の悪い者を否定反発排除したがるわけです。

然るにそれが正しいとして自己主張堅持することからしてその正義感まで持つに至りました。
然るに私は正しいの正義感や価値観や孤独感で生きていることになります。

ゆえに判断しないで事実で生きる、思い思惑を持たずに今を生きることが言われる由縁です。
然るに生きていくには十分すぎるほどに持っているのだから、然るに欲張り無理をしないで楽に生きることを書いているのです。

暗い闇の中で生きるのか、明るい未来に生きることになるのか、その分かれ道に立っています。

2013年08月18日 | Weblog
良い悪いで判断するその矛盾意識&不完全意識はどうすることも出来ないが、しかし意識することからしてその行動が伴いますから、然るに欲張らないで楽に生きることを意識して行動すればそれに無理が無いだけにその結果がすぐにも出てきます。

しかし趣味嗜好娯楽でもってして変化刺激に満ちた生き方を意識していればそれには無理が伴いますから、然るにそれを成している自己満足とそれが思い通りにならなかった不平不満からしてのその喜怒哀楽の矛盾を味わうことになります。

その中の自己満足は自惚れ慢心で終わりますが、しかし不平不満は不安心配&恐れ怒りの不信感となったり、またそれが妬み嫉妬のジェラシーにもなったり、またそれが仕返し報復や自己破壊&他者破壊の破壊意識にまで至るのです。

しかも自己満足の積み重ねから自惚れ慢心していても、心の奥底に満たされていない隙間があるからして何やら虚しくなったり、また良かったことが逆転したりまた裏切りられたりして、その思わぬ結果からして不満の挫折を味わうことになり、その挫折感からして怒り嫉妬仕返し復讐や自己破壊や他者破壊の破壊意識に至るかもしれません。

然るに自己満足も不平不満に変わるときが必ず来るのです。
然るに愛情がジェラシーや憎悪に変わるのと同じです。

然るに自己満足と不平不満の繰り返しの「時代の進化」が破壊意識につながり、然るに帝国が崩壊してその残骸が残るように、然るに巨大化されたままに推移する事無くいつしか滅びる時が来るのです。

それが予言とか予知ではなくして(信じるか否かでもなくして)(史実にも見られるように)遅かれ早かれ必ずそうなるのが宇宙の仕組みにあるのです。

然るにそれが終わりではなくして新たな始まりにもなるのです。
然るにその終わり始まるその繰り返しからして宇宙すべての「意識&命」(意識体&生命体)が進化しているのです。
然るにそれが地球人類の進化&宇宙の進化拡大につながっているのです。

ちょっと横道にそれたので元に戻しますが、
生まれながらにして持つその良い悪いで判断する矛盾意識&不完全意識を無くする事が絶対的に無理でどうすることも出来ないことも判ってきました。

然るに「どうすることも」出来ないのならば、然るに「どうにでもなれ」が如くに開き直り、そして運を天に任した如くにそのままに「ほっといて」その成り行き任せにして気楽に生きるほうが賢い生き方に思えませんか、

然るにどんなに欲張り苦労してその一過性の満足を味わったところでそれが虚しさ挫折から破壊意識にまでもつながるならば、然るに此れからの人生を成り行き任せにして「楽に生きる」ほうが賢明なのではありませんか。

そうなれば当然ながら欲張り無理したり余計なことにも無駄にもならずに、然るに不完全意識の人間関係もまったく「気に」ならなくなり、然るに束縛制限支配することも否定反発することも無くその自由意識にして必然のご縁の成り行き任せの人間関係が定着します。

ちなみに自己満足を求めて生きることはやがて自分の首を自分で絞める自滅&破壊意識につながりますが、
然るに自由意識にして成り行き任せの自然体で生きることは良い悪いで判断しない完全意識につながる宇宙の仕組み&宇宙人類の進化に添うことになります。

然るに不自由な立場でして満足と不満の繰り返しで生きるのか、
それとも自由な立場でして満足も不満も無い穏やかなにして楽に生きるのか、

然るに(進化できない)暗い闇意識でずーっと生きることになるのか、
それとも明るい光が射す未来に生きて「意識の進化」になるのか、
その分かれ道に立っているのです。

この世は己の意識が原因からして成る様になっていくその仕組みがあります。

2013年08月17日 | Weblog
良い悪いで判断しない完全真理を学び知り巷のあらゆる信仰宗教の不完全さを自覚することが出来ましたが、
然るにその完全真理が実践できないことも明確になりましたから、然るに完全真理であっても持って生まれた人間の不完全意識だけはどうすることも出来ないことが判りました。

しかも耕栄さんの超能力、然るにファバラエネルギーに期待できるのは姿形を変化させる、然るに摩訶不思議の結果が出ても不完全意識を変えるには至りません。
然るにその超能力の類、然るに耕栄さんの力に頼り期待するその他力依存が巷の信仰宗教と同じく不完全意識の(信じて頼りたがる)信者意識になります。

然るに残る道は無理をしないで素朴に生きる自己縮小の実践しかありません。
ところが此れまで自己拡大をしてきたのにそれらを捨てるその自己縮小の実践も無理があります。

何故なら自己縮小をしなければと思ってその実践をするのは、然るに結果を出すことが目的理想になり、然るに結果を出すために(わざと捨てる)無理をしなければなりません。
然るに目的を持つとそれは欲になり然るに無理をする事になるのです。

しかし私の場合は成り行きからしての結果ですから無理がありません。
だから最近の書き込みは完全真理の説明でも無くして、また実践できない精神世界のことでもなくして、
然るに誰でもが実践できる「楽に生きる」ことが主体になりました。

然るに無理することではなくして楽になる事ですから、然るに無理がありません。

然るにそれが無理なのは欲があるからです。
然るに元のままにして「楽に」生きられないだけです。

また不完全な人間関係を気にしていたら楽には生きられませんから、然るに気にせずに生きるしかありません。
しかしそれが気になるようであれば、然るに元のままにして「楽に」生きられないだけです。

また人間関係を気にしなくなれば自由になります。
然るに気にしていたら元のままにして不自由なだけです。

ところが自由を味わい続けていたらいつの間にやら欲が出てこなくなります。
然るに欲を出していれば元のままにして不自由なだけで何ら変わりません。

然るに元のままにずーっと推移するのか、
それともいつの間にやら無理する事無く自由を得ていた結果になるか、
その違いがあるだけです。

然るに私の場合は精神世界に係わるために生きていたのでもなく、また自己縮小するために過疎地暮らしを始めたわけでもありません。
然るに成り行き任せにして成るようになっただけです。

そして食って寝て糞をしながら生きているだけでも十分に思えるようになり、然るに人間関係を気にしないでいられるその自由のありがたさも味わえていることからして、
然るに欲があってもその欲を出さずにすんでいるだけです。

然るに個人意識丸出しの未熟ながらも「成り行き任せにして」「自由意識にして」「気楽に生きる」ことが出来るようになっただけのことです。

然るに(私の性分からして)人が集る所でいれば己の力無しさから孤独感や虚しさを感じることになるが、ところが現在の自由と孤独と静寂からして呑気気楽に生きていけるようになっただけのことです。

然るに私の意識が原因の(私にお似合いの)結果なのです。
然るに皆さんの今の結果の原因もその意識にあります。

然るにその結果を変えたければ自らの意識を変えるしかありません。
しかしそうは簡単に問屋が卸してくれないのが現実にありますから、概ねにして今のままがずーっと続く事になるでしょうが、しかしそれも真坂の有事で一変してそのどん底を味わうことになるかもしれません。

いずれにしろ己の意識が原因からして成る様になっていくだけです。