矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

宇宙・神・愛意識の仕組みからして「待って」いるのは=謙虚に生きる=人ではないのでしょうか!

2015年11月30日 | Weblog
天地を創造した宇宙・神の愛意識による、数々の仕組みのその選択を間違わずに従ってきたことで、現在の私があると確信しています。

然るに過去の釈迦やイエスがその釈迦やイエスで止まったのは、その仕組みによるその選択結果です。

然るに皆さんの現在があるのも、その宇宙・神の愛意識による仕組みのその選択結果です。

だから其れまでの経緯の中で別な方向性を選択していたならば、その別な釈迦やイエスや私や皆さんになっています。

然るに釈迦が釈迦になったのはその選択をしてきた結果なのですから、其れが別な選択していたならば、その当時の領主や貴族や王様やそれらの者を支える家来や軍人や商人や農民や一般庶民や奴隷などに、または牧師やお坊さんやその弟子や信者になっていたかもしれません。

だから私が数々仕組まれてきた中のどこかで別な選択をしていたなら、
例えば宇宙エネルギーで止まったままになっていれば、未だにその知ったかぶりで文書を書いて先生ぶっているかもしれません。

ところが宇宙エネルギーから離れることを選んで霊魂の世界の霊能者を選んだのは、現実的な金儲けの欲よりも未知なる霊魂の世界を「知りたがる、やりたがる」性格からして選んだからです。

ところがその霊能者=霊能者と思えないほど謙虚な人=も結果的には金儲けの方を選ぶことになったから、そこで何だか私と波長が合わなくなり、その旨を正直に文書でもって伝えたところ、そんなのはお伝えではないと否定反発されて結果的にはご縁が終わりました。

ところがそうなる経緯の中で娘からして=山田耕栄さんほどの謙虚な人は今まで居なかった=として、お父さんも耕栄さんから学べばいいのにと講演会の録音テープをどっさり持って来たことからして耕栄さんとのご縁がつながりました。

そして録音テープの中で素朴に生きる「自己縮小」の実践を説いていたことからして、地元の講演会があれば参加することになりました。
そして娘が言うように耕栄さんがいっとき謙虚に見えたのは確かです。

しかしその耕栄さんもファバラで金儲けすることに一生懸命になったことからして違和感になり、しかも自己縮小ならぬ販売促進の講演会ばかりが続くことからして嫌気がして離れました。

然るに霊能者も耕栄さんも欲ぼけしたことからして言えば、私はそれらの者を意識的に超えたとして、独自独歩にしてブログを書き続け、今では「謙虚に生きる」一点張りになりました。

そこでもう一度書きますが、釈迦やイエスが謙虚を選択していたなら、どうなったことでしょうか、たぶん静かにして仙人になったことでしょう。(だから仙人となりこの世を去って高次元界に行っている人もいることでしょう)

ところが釈迦やイエスらが謙虚を選ばずにして「此れではダメだ」「何とかしなければ」と余計な取り組みを始めて結局は中途半端なままに終わっています。

だから私は「謙虚しかない」と自信確信でもってお伝えしていますが、
皆さんは如何に思いでしょうか、

やはり生きていくために先ずは金儲けでしょうか、
何たって「謙虚」にして、この世で大成した人はいませんからね。

だから皆さんが此れから先を如何に生きていくかを選択するかで、
然るに成るようになって行くだけです。
そして今の皆さんが成るようになったその途中結果ですから、まだまだ先があります。

そこでこの世で目立つことも無く、名も無き仙人が如くに静かにして、謙虚に生きていた人ならば、
宇宙・神・愛意識の仕組みの愛からして暖かく迎え入れてくれるという自信確信があります。

然るに宇宙・神・愛意識の仕組みからして「待って」いるのは=謙虚に生きる=人ではないのでしょうか!
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SF映画如くに全裸の美女が宇宙船から降りてきて私の前に立つことでもあれば…

2015年11月29日 | Weblog
食は人間の本能です。
然るに方向性を間違えば大変なことになりますが、それが現実化する可能性が高まっています。

然るに飲食を丸ごと五感でしっかりと味わうにも健康体と精神の安定が絶対的に必要です。

今更って感じになりますが、食することは空腹を満たすだけではなかったのですね。
様々な味覚から、様々な見た目や色彩の視覚や食感や噛み応え・咽ごしで味わい、食感が聞こえる聴覚もあり、熱い冷たいの温感があり、様々な匂いを嗅ぎ分ける嗅覚も働きますから、それら全てで食しています。

ところが精神的にイライラしていたり、悩みにふけっていたり、不安心配や怒りをもっていたり、慌て急いでいたり、咽が痛かったり、胃の調子が悪かったり、足腰関節が痛かったり、目まいや頭痛があったり、持病の心配をしていたり、家族のことが気になっていたり、友人知人のことから世間や会社や後輩同僚先輩上司のことが気掛かりだったりして、
とにかく他ごとに気を取られていれば食が咽を通らないし味わいどころではありません。

然るに「健康体」で無ければなりません、そして「精神が安定」していなければ、何を食していてもその価値は味わえません。
然るに食事に満足できないし何やら中途半端で納得し切れません。
だから不平不満にもなりやすいのです。

然るに「食を侮る」ことなかれです。

生きていることの根本です。
遅まきながらやっと気付きました。

然るに私は暇で退屈していますから食することがいっときの趣味嗜好娯楽・変化刺激・楽しみにもなっています。
また健康体ですし精神も安定していますから食することを丸ごと味わえています。
然るにマグロでなくてもサバで十分なのです。

しかも付録のおまけが如くにして食事をしながら色んな小鳥のさえずりや秋の虫やカエルやセミやヒグラシなどの奏でる音楽も聞こえてきます。
時にはカップルになれなかった鶯の時期遅れの物悲しい鳴き声が聞けるときもあります。

またウッドデッキのテラスで食すれば自然界の音と調和して聞こえてきます。
そして空に浮かぶ雲を見て龍や熊や犬や鬼などに見立て思いにふけります。
また木々の枯れ葉が舞い落ちるのをよく見ると、まったく同じように舞い落ちる葉っぱは一枚もありませんから、何やら不思議と見とれてしまいます。
しかも風にあおられて無数の葉っぱがあたり一面に勢いよく舞い落ちる様を見れるときもあります。

と言うように書き出せばキリがありませんが、
それらが人為的人工的ではない本物だけに何とも言えないような感覚を味わえます。

ちなみに時間つぶしにギャオの無料映像・映画ドラマを見るとストーリー展開からして時には涙もするが憎たらしい人も出てきて(創作なのに)本気に見入っているときがあります。
然るに見ていただけなのに何やら要らん心配をしていたり、腹立ったような感じだったり、見終わっているのに何やらドラマ展開が気になって憶測推測したりするから、何だか頭の中がモヤモヤしている感じのときがあります。

だから暇で退屈なときは出来る限り野外に出ていればそこで何かと時間つぶしが出来ますから、
ここ近年いつの間にやらギャオ離れ・映像離れ・情報離れ、人為的人工的なものから関心が消えて卒業したようになっています。
然るに人間界に人為的に仕組まれている一種の洗脳から解き放たれたのは間違いありません。

後はブログを書くことから卒業できればいいのですが、暇で退屈するほど何かと気付くことも多くなり次々と更新しています。
ちなみにSF映画如くに全裸の美女が宇宙船から降りてきて私の前に立つことでもあれば…それに惑わされてブログ投稿が減ることは間違いありません。

何はともあれ=食=は人間の本能です。
だからその食を特別仕立てにすると病み付きになって、もっともっと特別にしたがることになり、止まる事無くキリがありません。
然るに飽きてくると満足していたものが不満に変わり、それ以上の優れ物をどんどん欲しがり続けます。
然るにそれが現在に見て取れます。

そしてその弊害が弱国の住民の食に大きく打撃を与えていますし、大量生産と大量消費のために他国の領土が開拓され続けて自然環境を破壊し続けています。

然るに昔で言う「罰当たり」なことを仕出かしていますから、そのしっぺ返し・どんでん返しが仕組まれて、いつしか日本の食を直撃する事態が予想されます。

然るに日本の食生活が謙虚にならざるを得ない事態が足早に来そうです。
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神様仏様からの「ご褒美」に何を望み期待していますか、

2015年11月28日 | Weblog
私は元からして神様仏様の精神世界には無頓着でしたから、映画で見るノアの箱舟やモーセの十戒や釈迦の奇跡といったくらいでした。

然るに神様仏様を信じて従っていればノアの箱舟が如くに大洪水から救われたり、疫病から難を逃れられたり、悪者から追われているときに助けてくれたり、また地に果てに落ちても助けてくれるといった、SFまがいのことくらいでした。

ちなみに今の私なら全裸の美女が宇宙船から降りてきて私の前に立ってくれるほうがSFらしくて、しかも大歓迎です。

ところで霊能者とのご縁からして教えてくれたのが宇宙の夜明け・地球維新・意識改革が起きて幸せになるといったことや耕栄さんも次元上昇が起きると似たようなことを言っていました。

然るにその日がマヤの暦で言われていた年月でしたが不発に終わりました。
またその年月を明らかにしないも、それと同じ似たようなことが起こると宗教でも言われ続けています。

然るにいつの間にやら洗脳されたが如くに神様仏様の仕組みからしての「ご褒美」を期待していたことになります。

また「飴とムチ」の使い分けでもって踊らされていたことにもなります。

だから多くの人が集まってくることにもなったのです。

ところでこのブログ全編をプリントすれば分厚い本くらいになると思いますが、それを読まなくてもかまいません。
然るに書店で何がしの専門書を買って読むこともありません。
まして講演会などに行くような無駄もありません。

しかるに巷に用意されている趣味嗜好娯楽・伝統風習や文化芸術や医科学の道であっても、人間の道として最終的に辿り着くのは「謙虚に生きる」ことになります。

然るに誰もが辿り着く老後であり、介護を受ける身になることであり、その死に際や死に様から、衣食住の無い・無いもの尽くしの・謙虚しかない死後の世界にまでついながっているのです。

だから今からでも遅くはありませんから、頑張り欲張り見栄張りしないで、余計なことを無理することも無く、素朴・謙虚・楽ちん・省エネにして生きていけばいいのです。

然るに謙虚の先取りで生きていけばいいのです。

そうなるとこの世の様々な人為的人工的な特別が必要なくなって、
然るに暇からして食って寝て糞をしながらにして生きていることの価値を十分に味わうことになり、その納得人生で終われるのです。

然るに不平不満の出ようが無くなり精神が安定してこの世が地上の天国にも思えるような精神体・意識体になってこの世の春を味わえるのです。

だから他力本願的な「地球の夜明け・維新革命」ではなくして、
自らが自己縮小に取り組むその自力でもって「意識改革」「次元上昇」を呼び寄せ・取り込むしか他に道はありません。

然るに先ずは謙虚にさえなっていけば自ずと気付きますから、その先々の道が開けて、それが自信自力の精神力を高めることにもなります。

然るに心意識がリセットされてゆっくり・おだやかに進展するも二度と逆戻りすることにはなりません。

然るに神様仏様のご褒美を自らの意識で呼び寄せ・取り込むことになります。
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私が思い描き理想とする「死に様」ストーリーの紹介です。

2015年11月28日 | Weblog
人間として生まれたからには当然ながら死にます。

そこで私の理想とする「死に様」ストーリーを紹介すると、
庭先のウッドデッキにトタン屋根をつけたその中に年中蚊帳を張りっぱなしにしているその蚊帳の中でボケーッとしているときに、たまたま遊びに来ている孫たちのその明るい声を聞きながらにして「ぽっくり」と死んで、
その内に孫たちが私が死んでいることに気付き、当たり前が如くに「爺ちゃんが死んでいるよ」と親に告げて、その親も慌てず騒がずに「じゃ~献体登録している大学病院に電話をして遺体を引き取ってもらいましょう」とあっさり一件落着して終わり、
後は大学病院で切り刻まれ、またそれを縫い合わせて元に復元してそして永代供養されながら棺桶と共に焼却されて灰となり、その遺灰を我が庭先の巨大なニョロの木の下に振りまけばそれで一巻の終わりです。

然るにそれ以後は供養することも無いから仏壇もお墓も遺灰も遺影写真も必要ありません。
きれいさっぱりと私のことは忘れてもらいます。

その死に様が思うように行かなくて山の中で遺体で発見されようが、我が家の中や庭先で死んでいようが、また木から転落したり崖下に転がっていようがお構い無しで、先ほどの手順で一巻の終わりになればそれでいいのです。

それと面白半分に言っているのが=私の死体を発見する「一発見者」となる人が=私とご縁が続いている誰になるのかと(此れまで訪れている人に)冗談半分に言っていますが、その「最後のご縁」が誰に仕組まれるのか、それを高みの見物にしたいと本気で思っているのも私です。

然るに死なんかどうでもいいのです。

だから死ぬ時が来たらあっさり死ねば一巻の終わりです。

ただ死に様がどうなるか、それを面白半分・冗談半分・真面目半分に思い描いているのが私です。

しかしそれも思い通りに行かないのが当たり前でもあります。

だからこそ謙虚なままにいて、見栄を張らない、そして死を恐れない、然るに死と闘わない、あとは成り行きに任せる、それが現在の私です。
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矛盾偽善に満ちたこの世で己が平穏に生き抜くには=謙虚に生きる=しか他に道はありません。

2015年11月27日 | Weblog
謙虚を言う者はその謙虚に生きることが概ね出来ていますが、しかし本物になっていない人が多いようです。

然るに伊勢白山道なる者が己の謙虚さをアピールしているが、
しかし人集めし目立つことをしていることは矛盾偽善があり、まだまだ謙虚さが足らないことにもなります。
だから不確かなことを、私は正しいとして、いかにも確かなことのように平気で説いている矛盾偽善が多く見られます。

ちなみに自己縮小を説きながらにして己が自己縮小できなかった山田耕栄さんも同類になります。
然るに脱税事件にもなりました。

また巷の神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなる者に謙虚さがあるようには見えません。
だから謙虚に生きることを説き説明することも無いはずです。
なのに謙虚を語っているならば嘘偽りの偽善を上塗り積み重ねしていることになります。

また元宇宙飛行士が自給自足しているという情報がありましたが、それが謙虚さから始まったことでも、たぶん自給自足という名目で余計な苦労をしているかもしれません。

ちなみに自給自足や田舎暮らしを自慢したがる人はその裏の苦悩苦労が伴っているはずです。

然るに謙虚な形にはなっているけれども「精神の安定」を味わっているとは思えません。

しかしそんな謙虚の真似事から始まっても見栄や欲張りが出なければそれが本物にもなりますから、やってみるのも悪くはありません。
然るに私は面白半分からして過疎地暮らしが本物になった経緯があります。

とにかく謙虚になるほどに世間に目立つことにはなりません。
そしてその謙虚を積み重ねるほどに納得確信・自信になりますから、その謙虚でない者を見極め見破ることも簡単になります。
然るに謙虚でない者を遠慮なくぼろかすに書くことも出来ます。

然るに超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなるものを施し成している者たちの偽善が丸見えになります。
またそれら輩に群がる者たちに謙虚さが無いことも判ります。

然るに矛盾偽善に満ちたこの世で己が平穏に生き抜くからには=謙虚に生きる=しか他に道はありません。

ちなみに謙虚さの実践がなかなか出来なくても、その謙虚の真髄を学び知ることで巷の神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなる形に惑わされたり、
また人為的人工的に自然界の一部を切り取ったり、表現したり、また複製模写や模造した形に心が揺るいだり惑わされたり、
また巷の趣味嗜好娯楽に惑わされて関わることも控えるようになれば、それだけ苦楽が減って心静かに生きていけますから、
それがいつの間にやら(自然体で)謙虚さにつながり、それが自分のもの・本物になっていくかもしれません。

とにかく謙虚さのない人の方がこの世を生き辛くなり、謙虚さがある人の方がこの世を楽に生きていけます。

だから私は今の時代・今の暮らしが何の苦労も無い地上の天国が如くに思えています。
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皆さんは「何の為に」生きているのですか? その真実を知っていますか!

2015年11月27日 | Weblog
皆さんが精神世界に関わるブログに来られているのは何の為にですか。

宇宙や地球・自然界・人間誕生の経緯や謎解きのためですか、
この世の様々な摩訶不思議の世界・見えない世界の事柄を知るためにですか、
古今東西の精神世界や哲学思想に関わることを学び知るためですか、

同じく古今東西の神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラー等を知ることですか、
そしてその他力に期待するのですか、

それとも医科学を知って少しでも長生きしたり死ぬのを遅らせたり病気の治療や予防を知るためにですか、
また空を飛んだり水の中に入ったり地底に入ったり宇宙から神秘な地球を見る(それらを映像で見る)ためにですか、

それとも己の特別な能力や技術技能や知識を世間に見せびらかすためにですか、
それとも己が開祖・教祖・学者先生、その弟子や信者や生徒になるためにですか、

それとも暇な時間つぶしに趣味嗜好娯楽が如くにして来ているのですか、
また人様の苦悩や生活ぶりをブログで覗き見して己と比較するためですか、

然るに私は「そんなことで大丈夫ですか」と問いかけ続けています。

そして私はこの世に生きながらにして素朴謙虚に生きるしか他に道は無いと書いています。

何故なら不完全で矛盾偽善のある中で居ながらにして、
それでも心穏やかに「精神の安定」でもって<生きて>いることの本物の価値を味わうのが人間本来の役割使命になっていると書いています。

然るに=何が無くても=「此れではダメだ」「何とかしなければ」と思わずに<此れでいいのだ>と謙虚にならなければ、
結果的には生きていても満足できずに何かと欲張り続けることになって、然るに「自分の首を自分で絞めて」「土壺にはまる」ことになると書いています。
然るにそれが現在です、とも書いています。

然るに食って寝て糞をしながらにして「生きている」ことでは物足りずにそれ以上の「特別」を欲しがり求めている特別意識を無くさない限り「不平不満」が出続けてそれが様々な問題となって出続けることになるのです。

すなわち「不平不満が諸悪の根源」になっている事実を自覚納得確信しなければどんな精神世界で居ても余計で無駄な苦労をすることになると書いています。

然るに謙虚にしていれば事実にして不平不満が出ないのです。

然るに「精神が安定」して生きていけるのです。

そして精神が安定しているからこそ「生きて」いることの価値・正味・本物が味わえるのです。

然るに巷の人為的人工的な変化刺激に富んだ諸々に惑わされ騙されないで、
元からして準備万端用意されている「自然丸ごと」を素朴に味わえるようになるとして書いています。

然るに多くを学び知りそれらを実践行動しなくても、
「不平不満が諸悪の根源」であり、その不満不足が出ないためにも=精神を安定さすためにも=<謙虚>に生きるしか他に道は無いと自覚納得して実践すればいいのです。

然るにキーポイントは「謙虚」「精神の安定」だけで十分なのです。

然るにどうしようもない矛盾偽善のこの世人間関係の中で居ながらにして=謙虚と精神の安定=でもって生きることを味わうために=人間として生まれてきたのです。
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この「お伝え」ブログで皆さんの老後や死に様や死後の先行きが=おぼろげに見えてきます。

2015年11月26日 | Weblog
私は必然ご縁で仕組まれ続けてきましたが、その過程の中に摩訶不思議の世界・見えない世界の宇宙エネルギーからして霊魂の世界や完全真理にもつながってきました。

その宇宙エネルギーに関わっているときも私の中にある知識や私の閃き感性的な思いを合わせて文書化したことが稀なる文書として関係者に配布されました。

然るにその後にご縁が仕組まれた霊能者が説く霊魂の世界・想念の世界も同じく、私の知識と閃き感性の思いを混ぜた文書内容が一般的でわかり易いと人気があって関係者に配布されました。

そんな私の文書を(宇宙エネルギーも含めて)読んでいた霊能者が=私には「お伝え」を書くお役目がある=と言われました。

と言っても、私には超能力的な特別能力はありません、ちなみに新物食いの私が発売初期の30万円近いワープロを使って文書化していた能力がPCになった現在でも役に立っているだけです。

そして摩訶不思議な効果が出る特殊サプリから宇宙エネルギーとなりそれが霊魂の世界になりそして完全真理になり、
それらを合わせて書き続けているうちに、今では自己縮小の素朴にして謙虚に生きることが主になって書いています。

ところで人為的・人工的な形に惑わされないように書いている内容に違和感や反発がある人もいるかもしれませんが、
私は育ち盛りの頃から豊かな自然界を相手にして遊んで楽しんでいたし、現在も自然界の中で稀なる自然現象や摩訶不思議の体験経験や異次元現象を含めて、それら本物の自然界を味わい続けているうちに、
いつの間にやら人為的人工的な創作物やまがい物に違和感が出てきて、今ではそれら諸々が必要なくなっているからです。

然るにあるがままの自然界の中の一部を切り取って模造したり拡大縮小したり、特別仕立てにして見せている、その「良いとこ取り」の形に惑わされ洗脳されたが如くになっていることに気付いたのです。

然るに暇で退屈したときに自然界と接し触れ合うことよりも、特別な人為的人工的な趣味嗜好娯楽に興じるほうがより変化刺激に富んでいるから、然るに自然界と接し触れ合い大切に思う心意識が次第に薄れてきたのです。

然るに自然界を真似た物や偽造模造のほうが手っ取り早く楽しめるし、そのほうがより楽しくより面白く思えるようになったのです。

そしてそれが文明文化となって進化してきましたが、その裏が出て困ったことになっているのが現在です。

それを「食」で例えれば、私が幼い頃の卵やバナナは高級品でしたが今では豊富に出回りしかも格安商品になっています。
何故でしょうか、自問自答すれば直ぐに判ることです。

然るに衣食住や趣味嗜好娯楽が豊富になった原因と結果が自然界の崩壊破壊になっているのです。
然るに「此れで十分」に思える謙虚さが無かったからです。

然るに「自分の首を自分で絞めて」「土壺にはまる」ことにもなるのです。

そして「自分のことが自分で出来ない」「自力でもって後始末ができない」「自分の尻を拭けない」そんな他力依存にもなっているのです。

しかも頑張らない、欲張らない、見栄を張らないで、余計なことに無理しないで楽ちんに生きることでさえ=自分の為になる=と判っていながらにして、
それでも「清水の舞台から飛び降りる」覚悟や勇気や決断が必要なんてのは、
ひょっとして「人間失格」「宇宙の厄介者」になるのかもね。

となれば=あなたの老後や死に様や死後の先行きが=おぼろげに見えてきましたね。
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常識離れ世間離れした生き様・意識の中にしか、心の拠りどころ・精神の安定はありません。

2015年11月25日 | Weblog
私が妻と離れて暮らしていることが不幸と思えば不幸になるし幸せに思えば幸せになります。
然るに人は己の思い・己の意識でもって生きていると言われるのです。

だから人様がどう思うとも関係ないのです。
然るに私は人様の思いを気にすることから卒業できました。
だから見栄も出なくなりました。

その見栄がなくなると妻や家族や孫のことも「どうでもいい」ことにもなり、余計なことに心配することも無くなり、その本人の自由に任せることにもなりました。

然るにそれが謙虚さにもなるのです。

と言うことは見栄を出すから、謙虚さが出なくなるのです。

然るに謙虚が出れば、見栄も出ないのです。

ちなみに見栄が高い人ほど何かと不満不足に思うことが多くなります。

然るにそれだけ苦に思うことが多くなるのです。

だからそれだけ文句を言うことも増えます。

然るに「私は正しい」の意識が強くもなっています。

だから己を守りたがる守り闘う意識も強くなっています。

然るに綺麗好きの潔癖症にもなりますし、自分に累が及ぶ間違いを許せない完璧主義にもなっているはずです。

そして優しさがあればそれと同じだけの厳しさも出てきます。

然るに「出す」だけに、それを「求める」ことにもなるのです。

然るに社長になるだけの器が出せる人は、それだけ人様に対しても同等なことを出すように求めたがります。
だから社長にもなれるのです。

然るに自分が苦労して事を成せば、その苦労を認めてもらい自慢したいが為にも、
それと同じように「苦労を買ってでも」しなさいと粋がったり、また同じ苦労を真似させたり、時には人様に押し付けることにもなっているのです。

然るにそれがこの世にある様々な名人や達人や創始者であり後継者でもあり、何らかの肩書きを持つ著名人や有名人にも見られます。

ちなみに自分がうまい具合になれば、それと同じように人様にもうまい具合になるようにと志ある者を集めて口出し手出し足だし・金を出して応援援助することもありますが、
しかしそれがお仕着せや恩着せや己の自己満足や自惚れ慢心にもなっていますし、その誉れを人様に自慢したがりますが、
しかし途中で雲行きが悪くなって自分の都合が悪くなると、誰か人様の性にしたり、その悪口を言ったり、また策をめぐらしておとしめたりと、手の平を返したが如く否定的になったり攻撃的にもなったりするし、
それが実質的に損な立場になると、裏切り者が出たとか、恩も義理も人情もないとか言いふらしたり、また自分を正統な立場・本家本元と正当化することにもなります。

とにかく何事かで自分が被害者に思うことが事実にあっても、その裏では(過去に)それ相当の迷惑を負わせていた加害者の立場でもあったことの「矛盾=カラクリ」に気付かない限り、
結果的には己が自傷するが如くに傷つき、また相手も加害的に傷つけることにもなるのです。

然るに「自分の首を自分で絞める」結果にもなるのです。

何はともあれ、裏表の矛盾偽善が出るのがこの世人間関係なのですから、お互い様とお陰様の意識にならなければ物事はもめ続けてそれだけ苦労も続くのです。

だから常識離れ世間離れした生き様の中にしか精神の安定が得られないとも言えるのです。
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「暇は恥」ではありません、だから偽善の積み重ねにならずに、心も穏やか軽やかになるのです。

2015年11月25日 | Weblog
人間意識の中に「良い悪い」で判断するその矛盾意識があります。
然るに過去の釈迦やイエスの類が天国&幸せを説くために、その相反する地獄&不幸を説くことにもなったのです。

然るに「少しでも良くなろう」からして、その相反する「悪い」ことも少しずつ増えてきます。

だから頑張ることになり、それが欲張りに変わり、それが見栄張ることにもなりました。

ところがその矛盾を見極められなかったことからして変な具合に進化してきたのがこの世であり人間界です。

ちなみに「誇り」に思うことの裏には「恥」があります。

だから誇りを持つために頑張ったことが、裏では恥を知ることにもなりますから、大いなる誇りも持った裏にはそれに見合うだけの恥を持つことになります。

然るにそれが「見栄」なのです。

だから不完全意識の者が何を成せども同じ不完全な結果が出ることに気付かないままに、その矛盾偽善の積み重ねをしています。

然るに「誇りと恥」の積み重ねをしているのです。
だから尚更に「見栄」が高くなるのです。

然るに少しでも良くなろうと頑張り無理することが裏では恥を積み重ねていることにもなるのです。
だから善意が偽善にも変わるのです。

然るに何をやってもうまい具合に進んでは行けないのです。

だからいっときの自己満足で終わるも、何だか虚しさも奥底に残るのです。

然るに「納得」出来ないままに続くのです。

ところが仕組まれたと言えども、私の見栄も外聞も恥じも捨てることからして、やっと納得人生になったのは事実なのです。

然るに矛盾の世の中だけに「捨てるものが無ければ得るもの」も無いのです。

また「得る」ことを先に思うから「損する」ことになり、それだけご苦労なことにもなっているのです。

然るに「成り行き任せ」が謙虚でもあるのです。
だから楽ちんにして生きていけるのです。
しかも「納得済み」ですから何の問題も無いのです。

ただ「暇で退屈」するだけです。

しかし多くの人は趣味思考娯楽で暇つぶしをするから「ご苦労さん」となっているだけです。

然るにその「ご苦労さん」を卒業しませんかとブログで促しているのも私が暇だから出来ることです。

然るに「暇は恥」ではないのです。

然るに偽善の積み重ねにならないから心も穏やかで軽やかにもなれるのです。
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謙虚になることで、派手な舞台の世間から離れた独自独歩で己の精神力を磨くことになります。

2015年11月24日 | Weblog
生きていくための仕事や家事以外に何かを成す事は暇で退屈しているからです。

然るにその中に趣味嗜好娯楽がありますが、人間が意図的に作った形には比較競争意識を高め、人の上に人が立つこと、人が人を束縛制限支配したがること、人が人を殺したがることにつながっているのです。

また情報でもって人を操る・集合意識で惑わし操作するのも、その奥底に人を惑わす邪な意識が闇で動いているからです。

しかも邪な輩が悪巧みをしているというよりも、何とか少しでも良くなればと思ってやっているから厄介なのです。

すなわち良いこともあれば悪いことにもなる、その矛盾に気付かない者同士が、此れではダメだ、何とかしなければと、少しでも良くなりたい思い思惑・理想目的・期待願望・野心野望でもって動いているだけのことです。

然るに元からしての悪人・極悪人は居ないのです。

然るに良かれと思った善人が知らない間に悪の働きを始めているだけのことです。

だからそんなに大ごとになるとは思わないままに始めたことが時と共に次第に思いもよらない大掛かりになっているだけのことです。

然るに矛盾偽善意識の者が=何を成せども同じ矛盾偽善になる=ことを学び知り自覚納得する必要があるのです。
そして人が多く集まるほどにその結果も大きくなって世間や国家国際をも揺るがす大ごとにもなるのです。

然るに不完全意識の親が子を育て、その子が親になって子育てするという循環繰返しからして次第に変な世の中人間関係が築かれてきたのです。

そしてそれが「此れではダメだ」「何とかしなけれ」の自己拡大に繋がり、それがピラミッド型支配関係の国家社会にもなったのです。

然るにこの世という舞台の上に立って踊る人になったり、またその舞台の踊りを見ている側になったり、またそれを指揮監督している人になったり、また指揮監督される側になったりしているだけです。

然るに皆が共犯者でありその被害者にもなっているのです。

然るに誰もが最初から指揮監督する立場や舞台で踊らされる側では無かったはずです。

だからドングリの背比べしている中の何処の位置にいるのか判りませんが、それが私であり皆さんです。

そして<謙虚>になることからしてピラミッド社会の派手な舞台から降りることになるのです。

然るに自由の孤独からして、独自独歩になって、常に自問自答しながらにして、己の道筋を決めているのです。

そしてこの先でどんな事になろうとも自分が招いた自己結果・自己責任だから納得できますから、然るに未練執着にならずにして精神が安定したままの生き様が続くのです。
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