天地を創造した宇宙・神の愛意識による、数々の仕組みのその選択を間違わずに従ってきたことで、現在の私があると確信しています。
然るに過去の釈迦やイエスがその釈迦やイエスで止まったのは、その仕組みによるその選択結果です。
然るに皆さんの現在があるのも、その宇宙・神の愛意識による仕組みのその選択結果です。
だから其れまでの経緯の中で別な方向性を選択していたならば、その別な釈迦やイエスや私や皆さんになっています。
然るに釈迦が釈迦になったのはその選択をしてきた結果なのですから、其れが別な選択していたならば、その当時の領主や貴族や王様やそれらの者を支える家来や軍人や商人や農民や一般庶民や奴隷などに、または牧師やお坊さんやその弟子や信者になっていたかもしれません。
だから私が数々仕組まれてきた中のどこかで別な選択をしていたなら、
例えば宇宙エネルギーで止まったままになっていれば、未だにその知ったかぶりで文書を書いて先生ぶっているかもしれません。
ところが宇宙エネルギーから離れることを選んで霊魂の世界の霊能者を選んだのは、現実的な金儲けの欲よりも未知なる霊魂の世界を「知りたがる、やりたがる」性格からして選んだからです。
ところがその霊能者=霊能者と思えないほど謙虚な人=も結果的には金儲けの方を選ぶことになったから、そこで何だか私と波長が合わなくなり、その旨を正直に文書でもって伝えたところ、そんなのはお伝えではないと否定反発されて結果的にはご縁が終わりました。
ところがそうなる経緯の中で娘からして=山田耕栄さんほどの謙虚な人は今まで居なかった=として、お父さんも耕栄さんから学べばいいのにと講演会の録音テープをどっさり持って来たことからして耕栄さんとのご縁がつながりました。
そして録音テープの中で素朴に生きる「自己縮小」の実践を説いていたことからして、地元の講演会があれば参加することになりました。
そして娘が言うように耕栄さんがいっとき謙虚に見えたのは確かです。
しかしその耕栄さんもファバラで金儲けすることに一生懸命になったことからして違和感になり、しかも自己縮小ならぬ販売促進の講演会ばかりが続くことからして嫌気がして離れました。
然るに霊能者も耕栄さんも欲ぼけしたことからして言えば、私はそれらの者を意識的に超えたとして、独自独歩にしてブログを書き続け、今では「謙虚に生きる」一点張りになりました。
そこでもう一度書きますが、釈迦やイエスが謙虚を選択していたなら、どうなったことでしょうか、たぶん静かにして仙人になったことでしょう。(だから仙人となりこの世を去って高次元界に行っている人もいることでしょう)
ところが釈迦やイエスらが謙虚を選ばずにして「此れではダメだ」「何とかしなければ」と余計な取り組みを始めて結局は中途半端なままに終わっています。
だから私は「謙虚しかない」と自信確信でもってお伝えしていますが、
皆さんは如何に思いでしょうか、
やはり生きていくために先ずは金儲けでしょうか、
何たって「謙虚」にして、この世で大成した人はいませんからね。
だから皆さんが此れから先を如何に生きていくかを選択するかで、
然るに成るようになって行くだけです。
そして今の皆さんが成るようになったその途中結果ですから、まだまだ先があります。
そこでこの世で目立つことも無く、名も無き仙人が如くに静かにして、謙虚に生きていた人ならば、
宇宙・神・愛意識の仕組みの愛からして暖かく迎え入れてくれるという自信確信があります。
然るに宇宙・神・愛意識の仕組みからして「待って」いるのは=謙虚に生きる=人ではないのでしょうか!
然るに過去の釈迦やイエスがその釈迦やイエスで止まったのは、その仕組みによるその選択結果です。
然るに皆さんの現在があるのも、その宇宙・神の愛意識による仕組みのその選択結果です。
だから其れまでの経緯の中で別な方向性を選択していたならば、その別な釈迦やイエスや私や皆さんになっています。
然るに釈迦が釈迦になったのはその選択をしてきた結果なのですから、其れが別な選択していたならば、その当時の領主や貴族や王様やそれらの者を支える家来や軍人や商人や農民や一般庶民や奴隷などに、または牧師やお坊さんやその弟子や信者になっていたかもしれません。
だから私が数々仕組まれてきた中のどこかで別な選択をしていたなら、
例えば宇宙エネルギーで止まったままになっていれば、未だにその知ったかぶりで文書を書いて先生ぶっているかもしれません。
ところが宇宙エネルギーから離れることを選んで霊魂の世界の霊能者を選んだのは、現実的な金儲けの欲よりも未知なる霊魂の世界を「知りたがる、やりたがる」性格からして選んだからです。
ところがその霊能者=霊能者と思えないほど謙虚な人=も結果的には金儲けの方を選ぶことになったから、そこで何だか私と波長が合わなくなり、その旨を正直に文書でもって伝えたところ、そんなのはお伝えではないと否定反発されて結果的にはご縁が終わりました。
ところがそうなる経緯の中で娘からして=山田耕栄さんほどの謙虚な人は今まで居なかった=として、お父さんも耕栄さんから学べばいいのにと講演会の録音テープをどっさり持って来たことからして耕栄さんとのご縁がつながりました。
そして録音テープの中で素朴に生きる「自己縮小」の実践を説いていたことからして、地元の講演会があれば参加することになりました。
そして娘が言うように耕栄さんがいっとき謙虚に見えたのは確かです。
しかしその耕栄さんもファバラで金儲けすることに一生懸命になったことからして違和感になり、しかも自己縮小ならぬ販売促進の講演会ばかりが続くことからして嫌気がして離れました。
然るに霊能者も耕栄さんも欲ぼけしたことからして言えば、私はそれらの者を意識的に超えたとして、独自独歩にしてブログを書き続け、今では「謙虚に生きる」一点張りになりました。
そこでもう一度書きますが、釈迦やイエスが謙虚を選択していたなら、どうなったことでしょうか、たぶん静かにして仙人になったことでしょう。(だから仙人となりこの世を去って高次元界に行っている人もいることでしょう)
ところが釈迦やイエスらが謙虚を選ばずにして「此れではダメだ」「何とかしなければ」と余計な取り組みを始めて結局は中途半端なままに終わっています。
だから私は「謙虚しかない」と自信確信でもってお伝えしていますが、
皆さんは如何に思いでしょうか、
やはり生きていくために先ずは金儲けでしょうか、
何たって「謙虚」にして、この世で大成した人はいませんからね。
だから皆さんが此れから先を如何に生きていくかを選択するかで、
然るに成るようになって行くだけです。
そして今の皆さんが成るようになったその途中結果ですから、まだまだ先があります。
そこでこの世で目立つことも無く、名も無き仙人が如くに静かにして、謙虚に生きていた人ならば、
宇宙・神・愛意識の仕組みの愛からして暖かく迎え入れてくれるという自信確信があります。
然るに宇宙・神・愛意識の仕組みからして「待って」いるのは=謙虚に生きる=人ではないのでしょうか!