矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全意識では無くても、その不完全意識を多く出さないままに過ごすことが出来るのが自己縮小です。

2012年03月31日 | Weblog
私が完全真理の実践意識でずーッと続けることが出来るのは、完全真理だけに絶対にその結果が出続けるからです。
そしてそれが不完全なことであれば絶対に解決する事になりませんから、普通ならそれを引きずって思い続ける執着にもなりやすのですが、(私には)その執着している事に気付けるだけの意識にもなっています。
また完全真理を知っている限りに於いては、それら不完全なことに迷い悩み思考錯誤や葛藤することにはなりません。
だからこんなに「アリガタイ」ことは他には絶対ありません。

しかも世間的な自己拡大をしているときは無理もあり、苦労もするし、思い通りに事が運ばずにイライラすることもあるし、その精神的負担から身近な人を巻き込んでみたり、またその途中結果が出るまでの苦労が多いし、その途中結果に自己満足することがあっても、それで終わったわけではないことからして、今まで以上の無理がまた出てくるし気苦労するし生活やの金銭的負担も増えるし、そんな甲斐あっての自己満足の途中結果が出ても、またそれを守り闘うことにもなって更に苦労や他力依存の経済的負担が増えたりもします。
ところがそこで進む事を止まれば、此れまでの事柄が忘れられたも同然になり(過去に葬られたも同然になり)、此れまでの実績・成果のままに維持し推移する事にはなりません。 
だから自己拡大を続けることにもなるのです。

それが仕事でも地域社会や家族やの人間関係であっても同じです。
何故なら皆が自分さえ良ければの「欲張り」だからです。
だから自己拡大を続けていなければ(相手からも自分からも)不平不満ばかりが出続けて世間も仕事も家族家庭も味気ないことになり、それが次第に虚しい人生・生活に思えるようになっていくのです。
しかもその中に会社倒産・リストラ・停職・賃金カット、また転職・職探し、また別居・離別・離婚・熟年離婚、また無理がたたっての通院生活・要介護や寝たきり、またうつ症状や痴呆症になる可能性もあります。

ところが完全真理が言うところの「自己縮小」なら自己拡大の逆ですから特別な能力も技術も相当な努力もいりませんし、何ら無理する必要もなくなり、また執着しないように平常心で生活していればいいわけですから、取り立てての難儀・困難・有事もなくなりますから、その自己縮小の「やる気」さえあれば誰にでも出来ることですし、無理なくずーッと続けることも出来るわけです。

そして実際に実践していれば先程に書いたように、その実践に見合っただけの答えが必ず出てきます。
その答えが自らの実践意識が原因の結果ですから、その全てが自覚確信納得できますから、前項のような、望んだことではないが「やむをえない事情の結果」による自己縮小とはまったく違いますから、その実践の結果の有難さが味わえますし、それが自信確信になっても「虚しい」ことには決してなりません。

その自己縮小の実践に欠かせないのが見栄や世間体・プライドやの欲を捨てることです。
そして不完全な人間関係を気にしないことです。
そこで親だから夫婦だから我が子だからと言うような特別な思いを捨てて、身近な人(他人)と一緒に過ごしている感覚になれば必然ご縁任せでそれ以上の事を無理に特別にせずに済むし、またその身近な他人がしてくれたことなら喜び感謝にもなるわけです。
また子育ても近所の子供と接し触れ合っているような感覚のほうが、その親子共々が拘り執着しないで上手い具合にいくのです。

そして容易く他力を使わないで可能な限り持ち前の自力を使うことです。
その自力を使うことが多くなることで、その分だけ物事の味わいが深く感じる事になります。
そして自力を多く使うことからして自分がいま生きていることの実感・感触感覚も味わえます。
また同じ自力であっても、自己拡大のときの複雑面倒で細心の注意力や集中力や根性や忍耐力やが必要な事とは反対の(特別な自力を必要としない)簡単・素朴な中にある、その隠れた未知なる・知らなかったことが味わえるわけです。

そしてその自己拡大に使った自力とその反対の自己縮小しての自力との、その両面・両方の自力の結果を自らが味わい知ることにもなるわけです。
そして自己拡大で使った自力は自己満足・自惚れ・見栄やプライドになるが、自己縮小してから使う自力は当たり前の自力を多く使うことからして、その普通に生きていることがしっかり味わえるわけです。

ところが少し困った事にあるのが、自分だけの事なら拘り執着しなくても済むのだが、接し触れ合う相手が執着していることがあってそれに巻き込まれることがあることです。
例えば私に執着が無いことが相手にとって都合が良いときはそれを喜び受け止めて(認めて)くれるが、それが相手の都合の悪い事になると「何とかしなさい」と責め立てられて、それが出来なければ無責任・無能なダメ男・夫・親に思われることになります。

またそれをほっとけばほっとくほどにその不満が高まりそれがずーッと続くことにもなり(執着されて)、しかもそれが妬み恨みにもなって仇討ち仕返し制裁・成敗されることにもなっていきます。
それが国家社会や会社・仕事職場であっても、また地域社会や親戚家族であっても同じです。
だから欲が無くなっても、その見栄や世間体を気にしない意識も必要になるのです。

もっとはっきり言えば、この世は執着で始まり終わることになっているようなものだから、その人間関係もまったく同じです。
その「どうしようもない」ことに意識が縛られ執着するよりも、また気兼ね遠慮するよりも、自分独りのことでも十分な精神世界・意識の世界・完全真理に関わっているほうが自分の為にもなり、それが人の為にもなるのです。

その世間によくある、良い事を成すことに執着し、悪い事は徹底的に完璧に否定反発排除したがる、その思いの執着心がある限り「どうしようも」ないわけです。
だからせめても執着しない者同士が接し触れ合う事になれば、その成り行きの必然ご縁のままに(引っ付こうが離れようが)(何事かが有っても無くても)(付かず離れずの意識で)その時々の今を共に過ごすことも出来るわけです。

そして完全意識では無くても、その不完全意識を多く出さないままに過ごすことが出来るのです。
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自我・我欲を捨てれば死する時まで楽チンで生きられ、死後の意識の世界でも楽ちんで過ごせるようです。

2012年03月30日 | Weblog
「良い悪い」で判断して、良い事をしても悪い事はしない、その良いとこ取りをして悪い事は排除する、その自分さえ良ければの個人意識・矛盾意識・不完全意識の集合意識(闇意識)によって、その時代ごとに様々に進化発展してきましたが、その成りの果てが地球人類の滅亡に突き進む(後戻りできない)状況になっています。(詳細は何度も書いているので省略します)

そして昨今では地震と津波の震災と原発の放射能汚染で今もなお騒がれていますが、その性もあって震災意識・防災意識・避難誘導意識・互助精神・絆意識も高まりつつありますが、その意識が高まったところで(前頭に書いたように)もう既に取り返しの付かない「どうしようもない」状況に入っている事に気付いている人は少ないでしょう。

更に震災や放射能を恐れる恐怖心・危機意識が強くなるほどに、その悪い事に対する防御・守り意識の集合意識も強まります。
すなわち此れまでに「良いとこ取り」してきたその裏の弊害副作用の悪い面が出てきたことで更に守り意識が強まったのです。
だから防災意識が高まりその対策が急がれ、また原発に頼らない意識も高まりその対策が急がれ、それと同時に被災者を守り助け合う精神やその絆意識の高まりが言われるようにもなりましたが、一般的には良いことが言われているようですが、その裏では更に地震や津波や放射能汚染に(悪い事に)対する不安恐れの恐怖心も同時に高まり、またその不安恐れの恐怖心と戦い守るその守り意識やの集合意識も高まっています。

ところが「すべては意識の世界」であって、その意識はひとつですから、その守り闘う意識が強くなるほどに更に悪い事を排除したがることになり、それがまた更に不信感・不安心配を強めることにもなり、その不信感・不安心配からのその守り意識が更に潔癖症や完璧主義や正義感を強めることにもなります。
そうなると不信感で排除される側も同じく「私は正しい」の潔癖・完璧・正義でもって守り戦う意識が強くなりますから、結果的には「イタチゴッコ」が繰り返されて、解決するどころか更に互いの不信感・敵対心を強める結果になります。
すなわち何をやっても解決する事無く最終的には「破壊」「滅亡」につながるのです。
それを雑菌・ウイルスと人間の関係やまた人間同士の関係や国家国際関係に当てはめても同じ結果になるわけです。

その現在の状況からして(無知で無ければ)、誰もがその破壊・滅亡に至る不安心配は(無関心を装っていても)持っているはずです。
そして「どうしようもない」ことも直感・感性や潜在的に気付いているはずです。
そして自力や他力でもっても絶対に解決する術もないことだし、そのイタチゴッコの繰り返しにもうんざりしていて、そのやり場のない虚しさを紛らわすために(近年ほど)自己満足・刺激・変化を追い求めているわけですが、その自己満足・刺激がまた破壊意識・破滅につながっていることには気づいていないかも知れません。

だから世間ではヒーリングだの癒しだのカワイイだのと思えるものと(若者らが)接していたがることであったり、タレント・芸人の装飾された自作自演や企画演出で仕組まれた人工的なお笑いやの癒しに触れ合うことであったり、歌手のライブに似た者同士が大勢一同に集まることだったり、街中でたむろする事であったり、反対に閉じこもることであったりするわけですが、それだけでは十分ではありませんから、その破壊意識・闇意識から抜け出すことは絶対に出来ません。

また世直し人救いを看板に掲げている信仰宗教の中でさえ、他と違う特別な神を奉り、また人集め金集めで勢力を競い合い、その特別意識でもって良いと悪いで判断することが原因のその不信感から守り闘う意識でもって更に説教・布教しているようですが、その当事者自らが不完全な闇意識の泥沼に首まで入っているのにも気付かずにいるのですから、何で人救いが出来るのでしょうか。

また完全真理を学んでいたとしても(意識面では)概ね似通った同じことが言えますから、人様を救うことも、また自分が救われることもなく、既に「どうする」ことも出来ない状況・状態です。
だからせめても、ヒーリングや癒しやカワイイや何となく集ってたむろする必要のない精神・意識に戻って、そして無理のない自分に似合った悠々自適の素朴な生き方をして、日々元気で明るく暮らせる意識になることしかなさそうです。

ところが万が一にも引きこもりやうつや自殺願望を持つようであれば、その自らの命を閉じ込め破壊に至らしめる寸前にでも、その自分の自我(欲と守り意識)を捨てることにすれば大丈夫になります(その事例を多く書いています)。
すなわち、自分の命を自らが捨てる前に、また自分の死が来る前に、その自分の自我・エゴを捨てれば、その死する時がくるまで楽チンで生きられ、そして死後の意識の世界でもその楽ちん意識でもって宇宙の時を過ごせるようにもなるのです。
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絶対の答えは<完全真理>の中にしかありません、だから他力に頼らずとも「独自独歩」で歩めるのです。

2012年03月28日 | Weblog
すべては意識であり、その意識が原因からその結果が出ています。
その結果を「良い悪い」で判断することからして、矛盾する結果が出続けて、確かな答え(絶対)のない不完全な世の中になっています。
その矛盾する(裏表のある)不完全な意識(原因意識)を<自らの自力でもって>良い悪いで判断しない完全意識に変えていくためにあるのが完全真理です。

その完全真理をこの世に広めていく<お役>を果たしているのが山田耕栄さんです。
そしてその完全真理の普及の為に役立っているのが奇跡的な効果効用の結果が出ることがあるファバラ・エネルギーです。
しかし自らの自力で完全真理を理解しその実践をしながら完全意識になるのが基本ですから、耕栄さんやファバラを信じて頼れば(信頼)他力依存の意識になりますから、それで完全意識になることは絶対にありません。

しかもその信頼を裏切られるのがこの世の常です。
すなわち「信じる」から裏切られるのです。
しかし「絶対」なら、その答えが必ず出ることからして、それが自覚納得確信に至ります。
その絶対は<完全真理>の中にしかありません。
それだからこそ「他力」に頼らずとも、<自力>(独自独歩)で歩んでいけるのです。

その自力・自信が弱いと(事を急ぐあまり)他力に頼るところが出てきますが、その他力によって完全真理が自信確信となって自力・自信が強くなれば申し分無いのですが、ところが中には他力依存ばかりが強く出て、その他力を(信じて頼る)信頼することで自分が助かると思っている人が多いのも事実にあります。
だから耕栄さんの不完全なところが出てきたときやファバラ効果が出なくなったときに(裏切られたと思ったときに)何故か完全真理から離れることになる人も多いのですが、本来なら完全真理は完全で絶対だから裏切られることには絶対になりません。

すなわち耕栄さんやファバラに失望することがあっても(離れることがあっても)、完全真理から離れることには絶対にならない筈です。
それなのに完全真理から離れるような事にでもなれば、その完全真理以外の如何なる所へ行っても、どんなにお気に入っても、やがてそれらからも離れるその繰り返しの結果になるか、それとも何処かで不完全を完全(神)と思い込んで妄信し続けることになっていることでしょう。

その信じて頼る信頼・妄信の原因になっているのが「奇跡を成して見せる」ことにもあります。
その「奇跡」も必然ですが、それを客寄せパンダの意識で使うと、その奇跡に集まる意識の人が多くなるのです。
また著書を読んで眼からウロコが落ちても、その内に自分が納得できないことが出てくれば、それら著書からも離れる人が多いのも事実にあります。
だからこの世で初めての終わりとなる完全真理ひとつに止まることが出来ない人が多いのも事実にあります。

そこで過去のイエスや釈迦らや今のサイババや耕栄さんに(他にも類似した人が大勢いると思いますが)頼るような思いを持つその他力依存では絶対にダメな事を自覚する必要があるのです。
ところがその他力依存ではダメな事をしっかりと伝えた上での奇跡を見せている様子・気配が伝わっていないことからして、その他力依存の信者が増える事実が過去も現在もあるようです。

そこでその「他力」(イエスや釈迦やサイババや耕栄さん)やその「奇跡」やの、その「他力や依存」で何とかなることならば、その遠い昔に何とかなっているはずです。
しかしながらその過去から何とかなっているのはこの世の「結果・形」の変化だけであって、その原因意識はあいも変らず不完全なままがずーッと続いているのです。
しかも己の不完全意識をそのままにしておいて、なんやら偉そうに世の為人に為に何かを成す事を教えているのであれば、それは思い上がりもいいところでして、その不完全意識からは不完全な結果が出るだけのその事実をまったく知らない無知なる人にあたります。

だから何か事を成す意識よりも、それらは成り行きに任しておいて、自らの意識改革の実践の自己縮小に進むしか他に道筋がないとまでも書いているのです。

ちなみにファバラエネルギーを単なる「水」の中に入れてそれを記憶させることも出来ます。
それは耕栄さん自らも言っていることですが、何故に製品化して高額にて販売しているのかは、その耕栄さんなりの思いがあってのことですから、それはそのままにしておいて、愛用したい人が愛用すればいいだけのことです。
ちなみに以前の宇宙エネルギーを記憶させることが出来る浄水器の「水」よりも効果が大きかった経験を数々しているだけに、そのファバラが高額とは思いつつも愛用し続けています。

しかしながら私や皆と同じような効果効用が誰にでも(絶対に)出るとは限りません(多分、出ないほうが多いと思います)。
それが「意識が原因」の世界だからです。
最近ではファバラを使用することで集中するようになり、今を生きることにもつながるように言われているそうです。
しかしそれにも己の意識が原因からの結果ですから、皆さんに同じ結果が出るとは限りません。
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奇跡を成した過去のイエスや釈迦らも、またサイババや耕栄さんであっても、無理なことは無理なのです

2012年03月26日 | Weblog
世間一般で言われる「良い」ことを成しながらも「悪い」ことをしないで、人情や愛情が豊かで恩や義に厚く親切で気配り配慮に長けていて、先祖を敬い親孝行者であり、先生や先輩を敬う心があり、仕事熱心で上司に認められ部下に慕われ、人が集まる場所で自らが先立って動き回れるだけの自力や自信があり、地域社会貢献や慈善奉仕活動にも携わり、お年寄りから子供までに好かれ、立地条件の良いところで住み、豊かな衣食住や財にも恵まれ、見栄や世間体も良く、夫婦家族円満で、適度な運動や趣味嗜好に興じ、新たなものや形を生み出す芸術や創作の才能もあり、伝統風習や道徳を重んじ、自分が持つ知識や能力を人に教えることもできて、いつも明るい笑顔に満ちていて、周りに人が自然と集まってくるような人柄であれば、この世では申し分ないわけですが、これら全てを持ち備えている人は先ずいないはずです。

そこで何か一つでも多く身に付ける事を目指して(自己拡大して)来たのが我々人間ですが、それで果たして「幸せ」になったでしょうか。 また夫婦家族が円満に暮らすことが出来たでしょうか。
しかし誰一人としていないはずです。 だからこの世では絶対無理なのです。

それは人が集まれば比較競争意識やその差別意識・特別意識が必ず出てくるからです。
それが大きなことだけで無くても(小は大につながるだけに)見掛けの着衣であったり、背丈や顔立ち格好であったり、また行為行動表現だったりします。
また家族や恋人・友人知人に何かと思惑期待を持って接し触れ合っていることもありますから、それらが原因で不平不満やその自己満足の苦楽の繰り返しが続いているはずです。

また此れまでの自己拡大の連続で家族や地域社会の人間関係の崩壊や自然破壊や汚染拡大によって地球人類が末期的状況になっているのがあります。
しかしそれさえも他人事のように思っている人が多いことからしてこのままに突き進むことになりますから、いつの日かその虚しさを味わうことになったり、また生きる道筋を見失ったりしても、それがどうにもならないことからして精神的疲労・うつ・自殺願望になる人や生きていることが味わえない廃人同様の生き方になる人も増えてくることでしょうし、それに追い討ちをかけるように様々な有事に見舞われて「危機的状況」「絶望」「死の淵」に立った思いをすることにもなります。

その他にも大きな自然災害や被害やまた人為による有事で経済破綻やエネルギー不足や物質や食糧不足の心配や原発放射能問題、また老人王国の医療介護問題、また不安定な国家国際問題もあります。

その原因が人それぞれの意識にあることからして、その意識を変えない限りにおいてはその結果が出続けることになりますし、また絶対に解決することにはなりませんから、尚更に(今以上に)深刻な状況に進んでいきます。
だからせめても自分の意識を変えることしかありません!
そこで前頭に書いたような事柄の<思い>を一つ一つ悔い改める自己反省・修正・価値の転換・意識改革が必要になります。

しかしそれさえも他力依存や他力願望になり易いことからして、巷の信仰宗教や超能力者や奇跡を成す神懸り的な人のところへ集りたがるところがありますから、それだけにその他力に依存しない独自独歩の自力と自信からの完全真理の理解やその実践が必要になるわけです。
しかしその完全真理の理解とその実践がままならないままに過ごしている人もいると思いますが、それも自らの意識が原因ですから他力ではどうすることも出来ませんので、ほっとくしかないわけです。
もしも提言して素直に聞き入れるだけの意識を持っている人であれば既に自らの自力で実践しているはずです。

その他力・奇跡でこの世の万物の姿形を変えることが出来ても、良い悪いで判断している人間のその意識まで変えることは絶対に出来ません。
だから過去のイエスや釈迦らも、また現在のサイババや耕栄さんであっても、無理なことは無理なのです。
そこでせめても見える姿形を変えることを成して見せて人集め説教することにもなるのです。

そこで例えば、汚染された自然界の水や空気を元に戻すことが出来ても、その水や空気を汚染した人間の意識までは元に戻すことは絶対に出来ないわけです。
だから超能力やの奇跡で汚染された水や空気を元に戻しても、不完全な人間意識が原因から元の汚染された水や空気に戻ることからして、その無駄になるような事をするよりも、その人間意識を宇宙・神・愛の完全意識に戻すための説教が先決なわけです。

そこで例えば、汚染された地球の空気や大海の水やを浄化させる奇跡を成して見せれば一気に大勢の人が集まることにもなりますが、その奇跡を見て集る人の意識には完全真理を理解するその理解力や精神力に(必然性に)事欠いている場合が多いことからして、奇跡を成す人を信じて集まる人が多くなったり、棚からぼた餅や果報者は寝て待つの他力本願の人が集まったりもするし、その中には自分の思いを入れた不完全な内容でもって完全真理を歪めて伝え広める類までが出てきたりして、それらが真の完全真理の理解や実践を邪魔する結果にもなると思っています。

だから奇跡でもって難病や重病の人を元気にしても、その原因意識からしてやがて元の鞘に戻る事になります。
また精神的に疲れている人に癒し安らぎを与えることが出来ても、それもやがて元に戻ります。
だからファバラ製品で効果があった人にも同じことが言えますから、その効果を持続させるためには高額なファバラ製品を愛用し続けることにもなりますから、やはりその不完全な意識を減らしていく自己縮小の実践が先決になります。

しかもファバラによって(良いとこ取りの他力では)完全意識になることは絶対にありませんし、その他力依存のままに真坂の有事に遭遇すれば自力・精神力の弱さから困った事に思うことにもなるし、それが原因からして人間を終える時にも相当な苦しみ不安心配が伴うことにもなりやすく、また死してからのちの宇宙・神・愛の仕組みによる(必然ご縁の)意識の進化・意識次元の進化に到ることはまずなりませんから、そこで他力依存よりも自力(実の力)を付けることとその自信でもって生きていくことが必要になるわけです。
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「自らを破壊する意識」(闇意識)が「やけくそ」意識になれば、それが地球人類の破壊にもつながります。

2012年03月25日 | Weblog
私は物不足の戦後育ちですから、ご近所の人達から頂いた物や心遣いに喜び感謝がありました。
だから今も人様から心づくしで差し出された物品や気遣いを(ありふれた物であっても)素直に受け取っています。
それは私の為に思っていてくれているその心づくしを受け取っているからです。

しかしその物品が私に不要であれば、それを必要としている人に譲り渡すことにしています。
また、その旨を相手にも伝えていますし、私が受け取った物品が後日私に都合が良かった事にでもなれば(譲り渡した人の場合も含めて)、その旨をご縁あったときに報告しておりますので、その旨を聞いた贈り主も喜んでくれます。

だから私が人様に対して同じようにしたら、そのまま素直に受けてくれるほうが、私もそれが嬉しいわけです。
それが「お互い様」「お蔭様」の関係ですから、それを特別な恩や儀に思って「わざわざ」その人にその恩や儀を着せたり返すことをしなくても、他の誰かに同じようなことが(授受が)無理なく普通に出来るときがあればそれでいいわけです。

またその授受・形に大きい小さいや質量的なことは関係ありませんから、例えば自分に有り余るものがあるとそれを必要な人に譲ったり、また通りかかった人から道や店やの行き先・方向を訪ねられたりすれば、それを面倒がらずに親切に対応することにすれば、その人様のお役に立ている自分を喜びに思いながらの笑顔で応じることにでもなれば、それによって尋ねた相手もその安心と喜びに満ちることでしょう。
また急いでいる車や人がいれば(道を譲って)邪魔にならないように配慮したり、またスーパーで大量に買い込んでレジ待ちしているときに、その後ろの人の買い物が少なければその順番を譲ったり、また電車などで席を譲ったりすることがあればそれでも十分です。

ところが小さなことよりも大きな事を望み欲しがることからしてそれが特別化し、その特別な事を差し出し与え合ったという強い思いを持っていることからして、それが特別な人情や愛情になり恩や儀を言うようになり、それらの見返り返礼が無ければ不満に思うようになり、そしていつの日か何事かで都合が悪いことにもなれば、それで裏切ったの裏切られたのと言う様になるわけです。

このように大したことでもない事例を事細かく最初に書くことが多いのも、すべてが意識の世界であり、その意識がすべてにつながっていることからして(一神にして多神、多神にして一神の関係から)全ての小は全ての大につながり、その大は小につながっていることからして、日々の中の小さなことにも意識していればそれが大きな事につながっていることが理解できて、その先行きの大きな出来事・有事が起こるその必然性にも気付くことが出来て、その小さなことといえどもその意識(原因)の重要性にも気づけるのです。
それが意識改革・価値の転換にもつながるのです。

だから小さな口喧嘩・口論に執着してそれが事と次第で大きくなれば暴力や抗争になり(家庭崩壊にもなり)、それが戦争やテロの破壊「意識」にもつながっていることからして、その行き着くところが(小さな集合意識の高まりが)(小さな闇意識の集まりが)地球人類の破壊までに到達することは避けられないのです(事実になるのです)。

だから大きな事に意識を向けるのではなくして「小さな」ことに意識を使うことが重要になるのです。
しかし「小」がある限り大も存在し続けることが出来ます。
だから自己縮小の実践が出来ていてもまた自己拡大に戻ることもありますし、小さな思いが大きくなれば不満が喧嘩にもなる様に、その小さな有事までが大きな有事にもなるのです。

だから完全意識にならない限り先行きは不透明・不確かなわけです。
だからせめても自己縮小の実践意識で気付きながら日々を生き続ける事しかありません。
それをいい加減な中途半端な思い意識でいると、(世間によくある)小さなはずの有事が(当事者には)大きな有事に思えることになるし、また大きな有事が危機や絶望の有事にも思えるようになるのです。

それがたとえ大きな有事に遭遇することが無くても、その都度に困った困ったを連発する(困ったと思いたがる)気弱い精神の自立や自信の少ない生き方を続けることにもなり、それが生き甲斐・生きる道筋さえも見失う事になっています。
そして生きていることに元気がなくて精神的に疲れるようになり、そのすっきりしないことで憂うつになり、それが「引きこもり」「不登校」「うつ症状」「自殺願望」「痴呆症」にもなっています。
すなわち「生きる」ことよりも自らを「破壊する意識」(闇意識)になっていくのです。

そしてそれが「やけくそ」意識になれば、それが他人をも巻き込んだ加害行為・破壊にもなるのです。
そしてその集合意識が国家指導者の意識をもゆさぶり揺り動かして地球人類の破壊に向いていくわけです。
だから(過去に)その前兆が出ていたのが(今も尚出続けて)その前兆が前兆ではなくなりつつあるのが昨今です。

そこでこの世の(三次元)地球で生き残る事を考えることよりも来世を意識した生き方をも併せて書いているわけです。
だからこの世では無理も執着もない楽ちんで生き続けて(成り行き任せにして)、その間に完全真理の学びとその実践をし続ける事を意識しているわけです。
ちなみに地球人類に大きな変化があることは宇宙や神やの精神世界を学ぶ形の中で様々に言われているのですが、それを信じている程度では実感できていなはずです。

だから尚更に信仰宗教や超能力者や神懸り的な人に頼っているところがありますが、それらの形や人たちに頼るような意識ではその望みが絶対に叶うはずもありません。
すべての結果はその意識が原因だけに、その結果を望むのならばそれに見合ったその意識による実践がなければどうにもなりませんし、しかしその結果を前もって思惑期待しての実践となるとそれも「良いとこ取り」の不完全意識になります。

またその自らの意識を変える実践・気付きを怠っていながら、自分に都合がいい信仰宗教やの神仏に祈願したり、それら教祖や神懸り的な人達の言われる通りの事をしていればそれでいいと思うのは思い違いです。
すなわち世間に言われるような「良いこと」を自らが実践していれば、その自分も「良い結果」になると思うその「良いとこ取り」の不完全意識がある限りにおいてもダメな結果になります。

だから如何に完全真理であっても、また確かな実践が成されていても、私達人間の不完全意識を持っている限りにおいてはその結果も不完全ですから絶対はありません。
だから先行きは宇宙・神・愛のお仕組みに任すしかありません。
だから尚更に特別なことに無理することも執着することもなく、自由と孤独の独自独歩でこの世を楽ちんに生きていくことに(私は)しているのです。
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特別な変化刺激のない生活の中で一年に二度三度、時たま自然界の摩訶不思議を見せてくれています。

2012年03月23日 | Weblog
一日二回の肉牛のエサやりのパートと、ブログの書き込みと、一円パチンコと、無料映像の映画・ドラマを観る以外に、此れといった事をしていなくて、ただ食って寝て糞をしているだけのような時間が多くあるような、そんな生活だけに変化刺激や苦楽が殆どないことからして言えば、退屈しているのは事実としても、それが面白なくて寂しくて物足りないようにも思えるかもしれませんが、そのお蔭で人様との人間関係に悩むこともなく悠々自適の独自独歩の自由な生活を味わうことが出来ています。

また世間的には、老後になると「テレビが友達」になり易いのですが、そのテレビが国策の地デジ化によって私方の過疎地ではケーブルテレビ会社との有料受信契約をしなければテレビが見れなくなりましたから、まさしくその国策によって良くも悪くもなったわけですが、私方は悪いほうの「切り捨てられる」側とになった格好になっていますから、それ以来テレビ画面は写りません。

そんな変化刺激のない生活の中で一年に二度三度くらい時たま自然界の「摩訶不思議」を私に「見せて」くれていますから、それが(未知なることを知ったことで)けっこう生きていることの面白さにもつながっています。
ちなみに2年位前の書き込みの「私が住むところは異次元スポットかな」に数々の摩訶不思議を紹介しています。

それと同じく、去年の3月に庭先に置いているバケツの水が分厚く凍りつき、その平面・平坦な中央部分に親指くらいの「氷柱」が立ち上がり、その氷柱の形が楕円形のカップ型になっていて、そのカップの上層部の内部が彫刻したように掘り込まれていて、そこへ水を注ぎ入れることも出来るように見事に凹んでいました。

そして今年の3月には大きな水がめの水が水面より10センチくらいせり上がった様に「薄く」凍りつき、そのせり上がった平らな上層部が今度は水面まで落ち込んで薄く凍っていて、その底辺の平面がこれまた薄くせり上がって上層部でまた平らに凍っているという形が幾つも不規則な方向に並んでいて、そのお互いが不規則に突き合ってせり上がっているような格好になっていました。
ところが直ぐ近くのバケツの水は分厚く凍り付いていました。

それとは別に、車で夜道を帰るときに前方の木立の隙間から対向車のタイトが見えたので数秒後には対向するはずなのに、その一本道から対向するはずの車のライトが消えていたり、また車の窓を閉めているし車内のファンも回っていないのにその車内にそよ風が吹くように私の頬を撫でるように通り過ぎたこともありました。

そんな摩訶不思議を何度も見れるのと併せて、この世で初の終わりとなる完全真理を学び知りそれが自分のものとなっているというその自信とがあって、それが過疎地生活での独自独歩の孤独な歩みの自信にもつながっています。
そして欲張らない、無理をしない、執着しないことからして気楽ですし、パチンコ以外に特別な娯楽がないようでも、元気に明るく暮らしている中で様々な事を味わいそして気付いているというその感覚がありますから、それで十分なわけです。

また世間的な特別が無ければそれに悩むことも困ることもありませんし、また成り行き任せに生きていることの自信と自力からしてその心の安心安全がありますから、いつも平気の平常心で静かに暮らせるのです。
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「生きて」さえいれば十分に思える精神・意識になれば、無理だと思えていた実践がいとも簡単になります。

2012年03月22日 | Weblog
元々からこの世にいるのが私一人であれば孤独も元々からありませんから、それが孤独感になることは絶対にありません。
また私一人だから喧嘩する相手もいませんから、その喧嘩(戦争)になることも絶対ありません。
また私一人だから誰からも束縛制限支配されたり否定反発されることも差別されることもありませんし、何をやるにも自由です。
すなわち私一人なら元々から自由で差別も喧嘩も戦争もありません。

それを現在のこの世に当てはめると、複雑な人間関係があるから孤独感を味わい、そして良い悪いで判断しているから不平不満の喧嘩や差別を思う様になり、また何かと束縛制限されて不自由な思いをしているわけです。
だからその良い悪いで判断することが続く限りその人間関係に自由も平等も調和もありません。

その人間関係があるからこそ完全真理が役立つのですが、その完全真理を実際に実践していなければ、その完全真理があっても何ら役立つことにはなりません。
しかもその完全真理の実践を人様に強要することには無理がありますから、その完全真理の真実・真価を知ったものだけが独自で実践するしかありませんので、世の為人の為の完全真理というよりも、先ずは個人の意識を変えるための真理になります。

ところで孤独感に陥っている人や差別されて困っていると思っている人や喧嘩や戦争が起きていても「どうする」ことも出来ません。
そこでそれら意識の人の意識を改革するしかありませんが、それも皆に押し付け強要することは出来ません。
だからいつまで経っても皆が自由平等調和の人間関係になることは絶対にありません。

だからせめても「自分ひとり」が自由平等調和の意識になる実践しかありません。
しかしその実践にも複雑な人間関係が邪魔立てし障害となる事実がこの世にあります。
しかしその実践の難しさを思うのも、その人の意識に原因があることですから、やはりその人個人の意識を変えるしかありません。
だからそれを他力任せの他力願望でいる限りにおいてはそれも「どうすること」も出来ません。

また著名人の著書を読んで感動したり眼のウロコが落ちても、その実践が無ければ「絵に書いた餅」で役立ちません。
また生きているからにはその人間関係の愛情・恩義も必然ですが、それで自由平等調和になることは絶対にありません。
それどころかその人間関係に束縛制限されたり、時には私が正しいとばかりに否定反発されかねません。

しかも一番身近な人間関係ほど実践の邪魔立てや障害になって難儀しますが、それを跳ね除けてまで無理に実践するとその裏が出て自らが困ったことにもなり兼ねません。
それでも、事が完全真理だけに、なにかと無理をしても、その価値が報われることになるかもしれませんが、その為には先ず完全真理の真実・真価を深く学び知り自覚悟りとなり、その確かな自信と自力とその精神力(勇気・決断と実行)と、へこたれずに持続できる力・意思・意識力が無ければ中途半端に終わるやもしれません。

すなわち己の意識を改革変化させるにもその己の意識が問われるわけですから、完全真理の実践もそう容易くはありません。
ところがものは考えようで「どうにでも」変わるものですから、世間の人間関係がどうであれ、身近な人たちの意識がどうであれ、見栄や世間体や自尊心・プライド・価値観を捨て去り、何が無くても「生きて」さえいればそれで十分に思える精神・意識になれば、それまでの実践の無理が無理ではなくなり、いとも簡単な事になります。
それがあらゆる欲を捨ててその欲を二度と持たないことです。

だったら「食って寝て糞をするだけ」のような生活にも馴染めますから、例えホームレスやルンペンの格好になっても平然と平常心で生きていけますし、その暮らしぶりの中に(未知なる)味わい深いさを感じることからして、いま生きている事を十分に味わえます。

また「長く生き続けたい」と欲に思わなければ死さえも普通に思えます。
そして成り行き任せの自然死を望んでいれば、それが病死や事故死や突然死や無縁死や孤独死であっても、何の不安心配も恐れも出ないままに生きていけますから、実際にはどんな死に方になるかは判らないが、しかし生きている限りにおいてはその死に方を実際に味わうことには絶対にありません。
だから生きている限りにおいては大丈夫なのです。

しかしそれが実践できないのであればやはり何らかの欲を持っているからです。
そしてその欲から不平不満や不安心配や恐れを持つことにもなっているのですが、しかし欲を持たないほうが気楽で楽ちんでしかも今まで味わったことがない未知なる味わいまで出来るのですから自分から文句が出るはずもありません。

しかしその文句が出るのであれば、それはまだ欲が残っていたわけですから、その責任は己の意識にあります。
だから問題が出るのも、その問題が消えるのも、その己の意識次第なのです。
それを人様の性にしていれば、それが自らの生き方までが人様の性・影響にも思えますから、(結果的には)自らの意識でいまを生きている事を味わうことが出来ないわけです。

そしてその代替に何かを捜し求める欲の繰り返しにもなっているのです。
そして更に一つより二つ三つと(無いより有るほうがいいからと)欲張ることにもなっているのです。
ところがその反対に何か一つでも欲を捨てれば(あるより無いほうがいいことになり)二つ三つと捨てることが多くなる筈です。

しかしこの事例も完全・絶対ではありません。
また耕栄さんやファバラを信じることで大丈夫と思っていても完全・絶対ではありません。 また耕栄さんが言われ通りに義理・人情・愛情・恩や儀を大切に思って実践している人も完全・絶対ではありません。
同じく信仰宗教の神仏や教祖を信じて祈願している人も完全・絶対ではありません。
そのいずれも完全ではありませんから(絶対ではないから)、この先の結果がどうなっていくかは不確かです。

だから完全・絶対を言えるのは「完全真理」の中にしかありません。
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見えない世界・未知の世界・精神世界・宗教思想哲学・超能力・手かざし・ヒーリングと「完全真理」

2012年03月21日 | Weblog
このブログに来られた人は偶然ではなくして、その人の意識が原因で仕組まれた必然ご縁の巡り合せになります。
またその意識が原因から、この世で様々に起きている有事や予想だにしなかった真坂の有事に遭遇することにもなります。

その「意識が原因」でこのブログに来られた人の多くは此れまでに摩訶不思議な世界・見えない世界・未知の世界・精神世界・宗教思想・思想哲学や真理などにご縁があり、また宇宙エネルギー・フリーエネルギー・意識エネルギー等と言われることや想念・念力・超能力・手かざし(エネルギー)のことやテレパシー・オーラー・風水・癒し・ヒーリングのこともご存知かと思われます。

そして(私がそうであったように)行き着くところが「完全真理」ただ一つになる筈ですし、人が集まると比較競争差別したがるその不完全意識の人達をわざわざ集めることもせずに、自然体の成り行き任せの意識でもって独自独歩の歩みにもなると私は思っています。

ところがそれら過去の実績から離れることを惜しんで(執着して)未だに深く関わっている人もいるかと思われますし、しかも自分が主催・先導・指導教育する「教祖・先生」になっている人もいるかもしれません。
しかもそれが生活の糧となる収入に結び付いている人もいるかもしれませんし、話題の人・ヒーロー・主人公の特別な気分・自己満足を味わっているかもしれません。

それらを否定反発しているわけではありませんで、それも必然とする人達の何かのお役に立っているのは間違いありません。
しかし完全真理を深く理解し悟りになっていれば、その絶対・真実の完全真理一つになるはずです。
そして自らの意識改革・価値の転換・自己縮小の実践に取り組んでいるはずです。
だから二股かけて二兎を追うような余計で無理・無駄にもなることを併せ持っていないはずです。

すなわち過去の事に執着せずに完全真理一筋で進んでいるはずです。
しかしそれが実践できていなければ、その完全真理を学び知ることが未だに中途半端なままである事になります。
それなのに完全真理以外に意識を使うことに執着していれば、せっかくの完全真理を活かし切ることはできません。
そして此れから先に起こる世間的な有事や思いもよらなかった真坂の有事に遭遇して自らが困惑・困窮することになり、しかもその有事に執着する羽目にもなります。

また身近な恋人や家族やの人達に起こった有事にまで己の意識が引き込まれ巻き込まれて、その「どうしようもない」事に執着することにもなり、その人様の有事が自らの有事にも思えて困窮・困惑することにもなり、そのどうしようもないことで共倒れすることにもなり兼ねません。

しかし完全真理を深く理解しその実践意識でいる人であれば自らが有事に執着することもなくなり、また身近な人に起きた有事に対しても沈着冷静になり、その平常心から「執着しない」ことのアドバイスがしっかり成されると、その身近な人の動揺を少しでも静めることになり、その執着心が少しでも薄れることでしょう。

その事例に金使いの荒い息子と妻の場合であれば(私のアドバイスが活かされて)いつもの妻の執着心が薄れたこともあってヒステリックにならずに済んだし、そのヒステッリクな妻が消えていたことに息子が驚く一方でそのヒステリックに巻き込まれなくて息子も安堵冷静になるし、その感情的な妻の執着心が薄れたことで私も気楽に接することができるまでにもなりました。

もしもその事例に(完全真理が実践できていない)夫婦家族やが執着すれば、それに関わる者たちまでが感情的になったり泥沼に入り込むことになったりその気苦労を背負い味わうことになります。

その完全真理の実践は前もって「良い悪い」で判断しないことであり、意識が原因で出てきたその結果にも「良い悪い」で判断しなければいいわけですが、その結果が出たことに執着しなければ、(良い悪いで判断するような)その結果が無かったことになります。
だから完全真理の中にあれはダメとか良いとかはありません。
だから様々な結果を味わうことに何の問題もありません。
それが問題になるのは「良い悪い」で判断したことが原因にあります。

また幸せになれる事を信じていてもその幸せには絶対になりませんが、幸せに思える意識になればその幸せを味わえます。
また幸せになるために何か事を成すことよりも、その幸せに思えない自らの不完全意識に気付くことが実践であり、何が無くても幸せに思えるような意識になることが肝心なのです。
だから「すべては意識」にあるのです。
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自力自信が有事に強くなり、その有事が(此れまで実践し難かった)自己縮小のきっかけチャンスになる。

2012年03月20日 | Weblog
自己縮小の実践もその結果形のことではなくして原因意識のことですから、やはり完全真理が説くところの「良い悪い」で判断しない意識に到るまでの実践が必要です。
しかしその良い悪いで判断しないことが無理なだけに、そこで執着しないことや素朴に生きる自己縮小が言われているわけです。

それが私のように田舎暮らしを実践しなさいということでもなくして、此れまでの自己拡大で築き上げてきた生活の中であっても、その拘り執着しない実践が可能ならば、それに越したことはありません。
ところがその自己拡大してきた結果とその人間関係の中で実際に「執着しない」実践となると相当な無理があります。
その無理がある事を無理に成すことは不完全ですから、その結果も当然不完全なままに終わりますが、それでも実践し続けることが出来ればその結果も出続けますから(実践しなかったことよりかは)(来世に続く)気付きも多くなります。

そこで執着しないためにも自然体の必然ご縁の成り行き任せで生活することになりますが、その成り行き任せに生きる実践が果たして可能なのかと言えば、それも殆ど無理だと思えます。
何故なら、その成り行き任せにしてきた経緯・経験が殆どなくて、反対に自己拡大に執着してきた実績ばかりが多いからです。

そこで無理だからとあきらめていればその意識のままに終わるときが来ます。
そこで無理ではあるが(先程のように)その実践意識を持ち続けていて、時折何かに執着したときにそれに「気付く」という実践は可能になります。
すなわち実践とは形ではなくして<気付き>にあるのです。

その為にも完全真理を深く学び知りそれを自覚している意識のままに生活することが必要になります。
ところがこの世の不完全な形結果やその人間関係に意識が多く使われている事実がありますから、そこで私が薄情ともとれる事例の数々を書いているわけです。

その中に人それぞれの意識が原因で何らかの有事が仕組まれる事を書いています。
それが思いもよらない(その人の意識の弱点をつかれた)「真坂の有事」の場合もあります。
そしてその有事に強いのが自らの自力と自信の精神力だとも何度も書いています。
またその有事が(此れまで実践し難かった)自己縮小のきっかけチャンスになるとも書いてきました。

すなわち自らの意識が原因で起こる有事は(一旦停止して)(一息ついて)自己縮小の必要性に自らが気付き、それを実践するために起きている事になるのです。 またそのことに気付くための完全真理と言っても過言ではありません。
それをもっと手短に書けば(この先に必ず有事に遭遇する事になるので)その有事に遭遇したが、まだ何とか「生きている」ことにアリガタイと思える意識になることです。

だから(震災のように)豊かな衣食住を失うことになっても、職場仕事を失うことになっても、家族や身近な人と離れることや人命を失うことになっても、何を失い何が無くなろうとも、また自らが重症・重病・要介護の立場になろうとも、また今にも死にそうになっていても、それらに執着して守り闘いそられを守る意識になるよりも、何とかなりながらも「いま生きている」ことが人間としてアリガタイことだと思える意識になれば、それ以上の災難困難は(悪い結果は)死しかありませんから、その(アリガタイで)生きている中での様々な有事・出来事にいちいち良い悪いで判断して執着することにはなりません。

それを言い換えると、この地球上の如何なる所で生活していようとも、その生きていることを素直に味わっていれば(何が有って何が無くても)それで十分だと言うことにもなりますから、何も格別・特別な価値観の伴う生き方や他力(簡単便利な道具や多くの人力依存)を望まないままに、その自力で生きていることで味わえる様々な味わいを堪能していればそれだけで十分に生きている価値を味わえると言うことです。
だからその為にも(他力に依存しない)自力と自信の精神力を備えておく必要を書いているのです。

そしてそれが過疎地の独り暮らしや南海の孤島やジャングルの奥地での一人暮らしよりも、出来れば(望むならば)人が集まる場所のほうが(ホームレス仲間でも)その価値が高まると思います。
そこで(人の集まる場で)比較競争差別の無い調和意識によってその過不足のない普通の生き方が出来ることを望んでいるわけですが、それもどうやら無理なようだから(他を気にせずに)独自独歩に生きていくしかないとも書いています。

また必然ご縁で仕組まれてこのブログに来られた人に少しでも理解が進むようにと(少し変化をつけて)(補足して)繰り返し同じような事を書くことにもなっているのです。
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「無いよりかは有るほうが良い」場合とは反対に<有るよりも無いほうが良い>のが「欲」です。

2012年03月17日 | Weblog
震災や放射能汚染で被災したことに関する報道が多いことから、その専門家のコメントに納得する中にも、それ以外に(国内外に)多くの問題もあるだけに、それだけでは片手落ちになることの矛盾を思うことになるし、被災者や支援者のコメントに心打たれ涙することも多いのですが、それも結果形を何とかしようとしているその思いに感動していることが多いだけに、その何とかしようとしていることが一方向の片手落ちだったり、私が正しいを主張しているようでもあり、世間に目立つ存在・立場・ヒーロー主人公の時の人になって自己満足している感もありますから、(人の為でもあるが)自分の都合(主義主張)(思い)が優先されている部分が含まれているその不完全があるだけに(不完全意識が原因だけに)それを成しても良いことにも悪いことにもなるその矛盾に気付いていません。

だから報道や専門家や支援者や被災者やの提案や感動のコメントを全部取り入れたとしても問題解決することは絶対にありません。
何故なら良い悪いで判断しているからには(イエスや釈迦やの超能力者・神懸りの人であっても)(宗教家教祖であっても)不平不満や差別や私が正しいの自己主張やその正義感や不信感・否定反発が出てくることからして(史実にあるように)根本的な解決には絶対に到らないのです。

だから問題解決するためには原因意識を変えない限り無理なのです、なのに前提に問題解決ばかりが意識にあるようです。
また「良い悪い」で判断していることに<原因>があることに気付かなければすべてが無駄に終わることも知る必要があるのです。
それを知らずにして幾ら感慨深いコメントを聞いて涙してもそれを「活かしきる」ことにはなりません。

その事例を開発途上国・後進国の援助救済支援にも言えます。
例えば被災者支援の金額をアフリカで困窮している人々にあてがうほうがより多くの人々に役立ち喜ばれます。
しかし貧困が原因で様々な問題が起きているからと、その貧困をなくするために援助救済支援・学校教育指導や宗教思想普及布教などで支援しても、それが原因で格差・差別が出てきて何かと問題になったりするように、またその教育指導などで生産性を高めて自立したりそれを商売・商業・企業にしたり輸出で儲けて豊かになれば、その豊かさと国民国家を守るための強力な軍隊・軍事力を持つようにもなり、その軍事力・軍隊が国際問題に発展したり、また巨大国家になって他国を脅かす存在になったりもしますし、また不満をぶっつけ合い闘いあう交戦・戦争や内戦やテロにもなって(貧困のときよりも)悲惨な被害や犠牲者が出ているのが史実に数多くあります。
それが自己拡大の成れの果てです。

そうなっていく原因の中に「無いよりかは有るほうが良い」と思う<良いとこ取り>があります。
しかし良いことがあれば同時に悪いことにもなるその矛盾に気付いていないから、その良いことばかり取り込む自己満足の裏に何処かの誰かが(弱いものいじめ)犠牲・不満になっていたり、自然環境の汚染や破壊にもつながっていたりします。

それを国内に戻せば、震災やの国内対策で予算を使えばその分だけ他に使う予算が減ったり後回しにされたりして何処かの誰かが困ったままにほっとかれることにもなります。
またその予算の使い方に「線引き」度合いがありますから(完全ではないから)、誰かが多くて誰かが少ないと思う矛盾・差別が生まれたりしますから、援助支援されたことにアリガタイと思う裏に不平や不満が隠れることにもなっています。
・・・多分、アリガタイ・満足よりも不信感や不平不満の集合意識のほうが大きいはずです。

だから困窮しているときの最初に味わったアリガタイ思いが後日の不信感や不平不満で薄れていき、それが「雨やんで傘を忘れる」こと(犬畜生にも劣る意識)にもなっています。
すなわち困ったときの助け舟にアリガタイと思ったその初心をいつの間にやら忘れて(自分さえ良ければの)(良いとこ取りから)それが不足不満にも変わることになるのです。

もしもその初心を忘れなければ、そのアリガタイ思いをずーッと持ったままに過ごすわけですから不平不満になるはずはありません。
すなわち初心のアリガタイ思いを持っている限り、後日の援助救済支援がどうであれ、その初心の思いを持ったままに生きていくことが出来るはずですが、それでも一度よりも二度三度のほうが都合がいいことから(無いよりかは有るほうがいいから)そこで欲を出すことになり、その良いとこ取りの欲が不平不満に変わって初心のアリガタイが次第に薄れていくのです。

だから、欲が「有る」よりも欲が「無い」方がアリガタイ意識で生き続ける事も出来るのです。
それが自己縮小です。
そしてその「アリガタイ」の線引きが、人間として<生きて>いる事がアリガタイことになれば、誰もが持っている良い悪いで判断するところの不平不満や不信感・不安心配恐れ恐怖や仕返し復習や嫉妬・憎悪や破壊意識などを持つことも無くなり、それが過不足のない普通の平常心で生き続けることになります。

その「生きて」いることに自分の特別な思いの価値観をつけることからして自らが「泥沼」に足を踏み入れていることに気付かなければ、その泥沼が少し変化することがあっても、その泥沼から抜け出すことは絶対に無理です。
しかも他力依存や他力願望が強いほどその泥沼(闇)から抜け出す道筋(灯台)さえも見えてきません。
だからその為に「完全真理」が説かれているのです。
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