孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自由な人間関係の中にこそ「裏のない」(苦楽の無い)人間関係があります。

2013年04月30日 | Weblog
皆さんは何で精神世界&神仏霊魂の世界を学んでいるのですか、
死んで天国に行くため、生きながらにして天国を味わいため、楽しく生きていたい、学識知識教養のため、人集め金集めの先生や教祖になるため、世直し人救いのためでしょうか、

しかしながら精神的なことだけに人間感情や快感快楽ではなくして、その精神&心&気を楽にして生きる、すなわち苦楽の無い気楽なままに生きていけるその術その教えを説く形が本筋と思います。

ちなみに楽しく生きるためならば当然ながら(現代のように)多くのものが必然になりますからそれを得る努力頑張りが必要になります。
それが私の過去の自己拡大の生き様です。

だからその為にも仕事を頑張り続けますし、一緒に暮らす家族と仲良くするための努力も欠かせませんでしたし、その家族の不足不満が出ないよいうに快適便利な家財道具も揃えましたし更に家屋も新築しました。

ところが現在は気楽に生きることを味わっています。
そうなると仕事を頑張ることもありません。
家族と仲良く暮らすための気遣い努力も要りません。
だから当然ながら人間関係に気遣いしません。

また快適便利な家財道具が無いほどに自力を使いますから、その自力を使って生きることの意味・真価まで気付くことにもなりましたから、多くの道具を欲しがる事にもなりません。

また栽培飼育したその産物や季節の山菜や草花を人様に届けることも(その自己満足も)面倒臭くなって今はやめています。
また過疎地の荒れ果てた近隣を草刈したり枝打ち伐採をしていたのも(その自己満足も)最低必要限度にしていますから自分の敷地さえも手抜きしています。

とにかくそれを自分が納得済みならば(人様がどうであれ)(様々なことが)気にならないのです。
だから成り行き任せにほっといても気にならないから何ら差し支えは無いのです。
すなわち他を(外を)(人間関係を)気にしないで済むのです。
だからその分だけ気楽になるのです。

ちなみにこのブログで何度も(あの手この手で)似たようなことを書いているのも私が実感しているだけに皆さんにも味わえることをしつこく書いているのです。

一度きりの人生の中でその矛盾を知ったのならば、そこで足早に方向転換すればその矛盾を味わないで気楽に生きれることになるのです。
だから「楽しく」生きることをやめれば多くを必要としなくなりその分だけ<気楽>に生きれるというその実践でもって味わえばいいのです。

あなたの人生はあなたのものです。
誰に気兼ね遠慮することなく実践すればやがてその不完全な人間関係が気にならなくなるのです。
しかし自らのプライドが邪魔したり人間関係のしがらみが邪魔になっているのですが、そのしがらみは重要ではなくして共に学び合う関係からしてその人間関係が取り沙汰されているだけです。

だから先ずは気楽に生きることを味わえば楽しく生きる必要性が次第に薄れてくるのです。
しかもその実践の気付きからして自由な(否定反発束縛の無い)(思い思惑の無い自然体の)人間関係の必要性にも目覚めることが出来るのです。

そしてその自由な人間関係の中に「裏のない」楽しい関係があることにも気付けるのです。
それが自由平等調和の人間関係です。

しかし今はそれが望めないのも事実です。

だからその実践意識のままに居続けてあとは宇宙・神の愛の仕組みに任すしかありません。

学識教養常識も霊力超能力も無い私ですが(パチンコ北斗の拳の如くに)「私に自信あり」

2013年04月30日 | Weblog
一般的に言われている精神世界と神仏霊魂の世界を説く信仰宗教とは自ずと道筋が違っています。
そして精神世界は自分の中に有るものですから自分が主体になりますが、神仏霊魂の世界の信仰宗教となるとその神仏や教祖主導者の教えを信じて従うことになりますから、俗に言う内在心(神)と外在心(神様)の違いになります。

だから自分の心精神に自らが問い掛けるような自問自答からして気付くことになればそれは自力・自前の精神世界になりますが、教祖指導者の言いなりに従うことになればそれは他力依存の精神世界になります。

そして自らの自力でもって気付き知りそれが実感でもって悟れば自分のもの(本物)になりますが、他力の導き知識で学び知り気付いたことは借り物になりますから実際にそれを実践して自覚納得確信悟りにならないければなりません。

だから普段の自力でやっている中で自らが気付くのと(独自独歩)、人から指摘されて気付いたりまた言われるがままにやっているのとの違いです。

またこの世は矛盾する意識を持った者同士が集まる世界ですから天国を教えればその裏の地獄を教えることにもなります。
ところがそれを天国に思うか地獄に思うかは人様々に違っていますから、それを天国に思うか地獄に思うかはその人自身の意識が決めることになっています。

すなわち自らの意識で概ね肯定するのか否定するのか、またその何れでもない中間なのか、その思い意識の尺度で決まっているようなものです。
だから絶対が無い不確かなのが私たちの意識です。
だから不確かなことを信じるか否かにもなるのです。

ところが天国を知らなければ裏の地獄もありません。
だから幸せを知らなければ不幸もありません。
また死後がどうなのかは死ななければ判りません。

ところがそれを教えたのが神仏霊魂の精神世界&偽神の導きを教えた輩であり、また不確かなのに私の超能力・霊力霊感で見たからそれは確かだと(正しいと)ばかりに教えている輩です。

だから精神世界ともなればそれが神探し幸せ探し生き甲斐探しや霊スポット探しや念力超能力者探しや霊能者探しにもなるのです。

ちなみに私は知りたがるやりたがるタイプですが、そのご縁が無ければ(当然ながら)知らないままになります。
そしてそのほうが余計な事にならなくて私には都合がいいわけです。
だからその必然のご縁に任せているのです。

また深く知る必要も無いことは(天災人災でも家族のことでも)気にもせずにそのままにほっときます。
まして先程に書いた「見えないもの」を思い巡らし迷い葛藤することも、またそれらを自らが探すなんて事はありません。

だから私は現実を見ているだけの現実主義者とも言えます。
だからその分だけ先々の余計な迷いもまた不安心配もありません。
だから何処で何が起きていてもそれを知るすべもなく、私に何かが起きない限り普段道理の毎日が続くだけです。

ちなみに見えない世界のことであっても現実に起こる摩訶不思議にはすごく興味がありましたし、その異次元現象も多く見たし超科学的&奇跡的な効果効用も体験し見聞してきました。

それにしても何で見えもしない霊魂の世界に無関心の私がご縁あったのでしょうか、未だに自分でさえも不思議に思っていますが、それがどうやら信じるか否かの無い現実事実を知ることのできるその完全真理が私には必然からしてご縁が仕組まれたようです。

だから完全真理を知ることからして此れまでの摩訶不思議の見えない世界&精神世界の謎解きが進み、しかもそれを信じるか否かの無い完全(現実事実を知ること)なのですから私にはピッタリだったわけです。
そして結果的にはパチンコ「北斗の拳」のセリフの中の「私に自信あり」となりましたが、しかもその裏が無い絶対的な自信ですから申し分ないわけです。

ゆえに釈迦やイエスやサイババ・耕栄さんや伊勢白山道・霊感超能力者等を書き下ろすそんな私の自信を喪失させるような指摘や他の事柄の書き込みを期待しているのですが、何かありませんか、

執着の無い穏やかな安らぎの中に自らの精神世界が有るのです。

2013年04月29日 | Weblog
朝の陽光で目覚めで聞こえてくるのはウグイスや名も知らない小鳥のさえずりがあちこちから聞こえるだけで人の気配も無く時間を刻む秒針の音が聞こえてくるような静寂の中で慌てて起きることも無く寝床の余韻を味わう毎日です。

だから過去の騒がしくまた慌しい朝を迎えていた頃とは精神的に違っています。
また人工的な変化刺激に満ちていた頃の生活とは違って安らぎに満ちた生活を味わっています。

ところが人間には矛盾したところがありますから、全く同じことであってもそれが寂しい孤独感や不安心配・恐れになる人もいます。
だから人それぞれに違った生き方が有るわけです。

ちなみに人工的な事柄からして得られた自己満足はそれより上の自己満足を捜し求める事になりますが、求めたわけでもないのに与えられている自然界のことになるとそれで十分になります。

ところがあるがままの自然界のことだけに(広告宣伝&主張堅持しないから)自らがそれらに気付かなければ有っても無かった事になり、それらを意識して味わうことにはなりません。
だから私とて不満不足・不信不安に意識が使われることが多いと自然界の営みに意識が使われることにはなりません。

だから大事を意識するほどに小事が疎かになります。
しかも大事を意識するほどに執着しますから尚更に小事を無視する事になり、そして朝日や空の雲や夕焼けも夜空も月や星を意識して見ることがめっきり減ってくることでしょう。

と言うことからして目の前に見えているのにそれに気付かないままにやり過ごすことになりますから、その自然界を味わうことさえも特別になり、身の回りに花を飾り立て庭に草木を植えたり行楽弁当を持参して桜並木や紅葉狩や名所旧跡見物になります。
すなわち自然界すらお金と時間をかけた特別な趣味嗜好娯楽の類にしなけらばならないのです。

と言うように時たま何でもないような些細なことを書くことがありますが、この世のすべてはその小事から大事に到っていることを知って頂きたいからです。
すなわち不平不満に執着することからしてそれが問題化になりそれに執着するほどに大事になり人様までも巻き込むのです。

またそれで何とか解決できるならまだしも、更にややっこしい事になっているその現実事実を学び知り自覚しなければ、いくら精神世界を意識していても意味を成しません。

そして挙句の果てに神様仏様・神懸り超能力者を信じてそれに頼ることで何とかしたがるわけですが、それさえもどうでもいいことであり、それでもどうにもならないことだと気付くはずもありません。

とにかく現れた結果を変えることではなくしてその結果を素直に味わいながらもその原因で有る己の意識の有り様に気付くことが本来の精神世界なのです。
そしてこの世の苦楽&矛盾・裏表を大いに味わい知ったことを活かすのが精神世界でも有るのです。

そしてこの世の苦楽は自分の意識の中に有るだけであって外に有ることではないその事実に気付けば、あとはその内なる意識を修正改革するしか何の手立も無い事にも気付けるのです。
すなわち他力ではなくして「自力」で成すしか他に道は無いことを知るのです。


その様々な苦楽によって自らの首を自らが絞めているが如くに心身ともに疲れているのであれば、その苦楽の原因となっている人間関係から離れるなり、またそれらしがらみを気にする事無く我が道を行くが如くに平然と生活していくなり、また他に道は無いかと自問自答してそれがあれば実践するだけです。

何はともあれ苦楽を味わう事をやめなければ(如何なる精神世界に居ても)それに意識が使われ続けて(束縛されて)新たな気付きが損なわれ続けるのです。
だから外のことを気にすれば執着になります。

だから外が気にならない居場所&環境状況下でいればあとは内なる自分だけになります。
そうなると自ずと執着することが減ってきます。
その執着の無い穏やかな安らぎの中に自らの精神世界が有るのです。

世間並み一角の立場でいたいから己が不完全意識丸出しで生きていると認めたくないのです。

2013年04月28日 | Weblog
精神世界を意識している人たちの中に、人間だから欲も必要でありそれが生き甲斐でもあるとしている人もいます。
その裏には仏門に下り修行僧や仙人が如くの生き方は人間には無理だからという思いがあるのかもしれません。

私がパートに行っている牛舎のオーナーは若い時から精神世界にご縁があっただけに今の私の生き様生活ぶりを素直に理解するものの、
そのオーナーにすれば人間には欲も必要として自らも休む暇もなく頑張り続けていますしそれが生き甲斐にもなっていますが、それがまさに私の過去と同じです。

ちなみに牛飼いは勝負的職業だけにパチンコも勝負を賭けた趣ですが(私は遊び感覚ですが)、そのパチンコさえも精神世界に結びつけてそれを人生の教訓や鍛錬に置き換えるほどの人です。

その忙しくしているオーナーを横目で見ながら私は自分の仕事を終えればそのオーナーに終わったことも告げずに、また他に手伝うことが無いかの親切心も無くオーナーをほっといて足早に帰り支度をしてそのままに帰宅します。
しかも午前の仕事帰りに汗ばんだ着衣の着替えを兼ねて近場の温泉に行くこともあるし、しかも午後の仕事が終わってまた温泉に入ってから(清々しい心身で)帰宅することもありますが、その温泉の年間パスの半額をオーナーが負担してくれていますから、そのオーナーもその温泉三昧を承知しています。

となると同じように精神世界を意識して暮らしていながらも私とオーナーの違いは大きく違っていますが、さて皆さんは何れを望みますか、
大方にして私のほうを違和感でもって否定する人が多いはずです。

その私がちょこっと仕事をしてその帰りに温泉三昧しているのを仕事しながら横目で見ているのはオーナーですが、そんな私に少しは刺激感化同化(内心羨む?)されているものの、そのオーナーの性格個性からして私の真似をすることにはならないと思います。

また不完全意識の人間関係なのだからと余計なことをせずに気にもせずにそのままにほっとくことも出来ないはずです。
やはり何かと面倒を見たがるタイプです。
だから私もその恩恵を多く受けています。

ゆえにオーナー側からして私を見れば現実離れした生き方を実践していることになります。
ところが私自身は常識離れ現実離れしているものの(私の過去とは異なる)楽チンで自由な生き方を実感で味わっているだけに、何で皆してやらないの、となります。

その意識の違いの中にあるのが此れまでの神仏霊魂の世界や信仰宗教や世間の常識の影響を受けていてそれが正しいと思っているところがあるからです。
まして私のような生き様を見れば違和感や不信感からして完全真理が理解できないと言うよりも理解したがらないはずです。

また心持・本心は私のような生き方に一理は有るものと思いながらも、その真似ができないから遠慮したいのです。

ゆえに不完全意識の人間関係の中でその苦楽をやたらと味わっている、その矛盾の生き方から離れられないでいる、その自力自信精神力の弱さに対するその自覚が無いのです。

だから見栄やプライドや欲があって当たり前、不信感があって当たり前、その守り意識があって当たり前、潔癖完璧正義は正しい、嫉妬仕返し復讐心や怒りをぶっつけるのも人間だからと(私は正しいと)言い訳正当化していたいのです。

ゆえに人間が使う言葉の裏心を知らないままに(正しいと思い込んで)それを多く使い、そんな私は神仏霊魂の精神世界を意識している善良なる者ですと自他共に誇らしく見せていたいのです。

また人並み一角の人間として世間でいるからには自らが「自分さえ良ければ」の自己中心&個人意識&不完全意識丸出しで生きていることを隠していたのです。

そして(私から見れば)自由の無い窮屈な生き様を(自己満足からして)(私は正しいが如くに)人様に自慢するかのように見せびらかしていたいのです。

だから人様が多く集るところでいるほうが(窮屈ながらも)都合がいいのかもしれません。

自由に生きることの価値を知った者同士が人間関係を築くことになればいいのです。

2013年04月27日 | Weblog
過去の釈迦やイエスが素晴らしい人でも偉大な人でもありません。
それを素晴らしいとか偉大とか思うのは羨んでいるからです。
だから自分も素晴らしい人や偉大な人になりたいのです。
すなわち特別意識&差別意識を持っていることになります。
だからそれらの形の中に集る人も何かと特別意識を持っているのです。

ちなみに空き缶を集めてその日暮をしている人も偉大な教祖もその日暮をしていることは(食って寝て糞をして生きていることは)同じです。
ただその生き様(味わう形の価値観)が違うだけですから、ましてその真似をする必要もなく、今の自分に出来ることを素直にやって生きていればいいのです。
ゆえに人様を羨むのはそれだけ自分に自力が無くて自信もないのです。

また見栄や世間体のプライドを持っていると自らの自由を束縛制限しますが、そのプライドを捨てることが出来れば自由が多くなるし、また人間関係のしがらみを(己の意識から)無くする事が出来れば更に自由になりますので、己が思うままに自由に生きることが出来ます。

そうなるとどうしても己が独りの生き方にもなります。
それでも若い男女ペアのホームレスがいるように、またペアでもって当ても無く各地を転々と移動しながらその日暮らしをしている事例もあるようです。

そんな事例なんかをテレビ報道で見た時に何だか羨ましい気がしましたが、そうなると単独行動が難しくなり束縛制限されますから余程の協調性・調和意識が無ければその関係に無理があります。

となると家屋の中で暮らしていた形がホームレスに変わっただけになります。
となると個人の自由を優先にした関係でなければそのペア関係が活かされません。
すなわち一般的関係の中にも個人の自由が無ければその関係が活かされません。
すなわち束縛制限されるための関係になるからです。

ゆえに現在の人間関係の中に個人の自由があれば単身生活にならずにすみますし、互いが協力しながらも束縛されないままに一緒に暮らせます。
だから自由に生きることの価値を知った者同士が人間関係を築くことになればいいのです。
そうなればホームレスであれフリーター同士であれ恋愛関係であれ夫婦関係であっても、その関係を無理なく自由にして味わえます。

とは言っても皆が不完全意識の世の中だけにその中にも無理がありますが、
しかし自由の無い関係よりも味わい深い関係になることは間違いありませんし、まして裏切り関係が取り沙汰されることにはなりませんで、互いが自由を学びあった関係になり今後に役立つことになります。

すなわち不完全意識のこの世&人間関係の中でいて如何にして自由を味わえばいいのか、すなわち如何にして互いの自由を活かすのかその学びにもなるのです。
しかしこればっかりは実際に自由を実感で味わっていなければ、またその気にならなければ、思い思惑理想の絵に描いた餅になります。

何たって不自由の中ではその不自由なことしか味わえませんが、自由からは様々な生き様が味わえますからその分だけ新たな気付きも広がります。
その気付きが生きている意味(役割使命)にもなるのです。

真理や精神世界に限らずとも私には「住めば都」「覚えるより慣れろ」が似合っています。

2013年04月26日 | Weblog
この世を創造したのが神ならば、その神から見たすべてのものもその神と同じ神に見えます、だから皆が同じで特別なものはないのです。

そして人間は己の個性でもって生きながらにしてその役割を果たし、そして使命を全うすることにあります。

その個性役割からして様々な苦楽&矛盾を味わいながらも、そこで己の精神・意識の中にあるその矛盾する不完全意識に気付きながらもそれを修正改革していくのが使命になります。

だから釈迦やイエスが神の遣い人なら私たちも神の遣い人になります。
そして釈迦やイエスが持ち前の精神世界を説きながらも自らが学び足らなかったことを学ぶのが役割になります。
だから生まれながらにして天才と言われる学者芸術家やまた超能力者も同じでして、その持ち前の個性でもって生きながらも自らも学ぶのが役割でもあります。

だから一般的な私たちも同じでして、それぞれの個性を生かして栽培物作りしたり、それを運んだり商いをしたり、専門分野ごとにその役割を果たしながらもそこで様々なことを学ぶ事になるのです。

だから精神世界を説く者たちも天才も超能力者も一般の人も皆それぞれの個性でもって実践行動しますからこの世に様々な形があるわけです。
またその様々な形が無ければ皆が生きていくにも不都合なわけです。
ちなみに人間の指紋が如くにして、砂漠の砂粒一つとて全く同じ性質形の砂はないのです。


その様々な形の中にも様々な人間関係がありますが、それも元からして不完全な関係ですから、これまた様々な苦楽・喜怒哀楽を味わい知ることになります。
だからすべての人にその苦楽があり、その苦楽でもって修行が如くに自らの精神を修練鍛錬し、その精神力を磨き高める事を続けることがその役割と使命を果たしていることになります。

だから人様を羨む事無く自分の個性役割でもって普段道理に平然と生きていればいいわけです。
まして人様を信じて頼ることよりも、まず自らが実践行動してその自力を高めることが無ければその分だけ精神力を高めることにはなりません。

そして人間関係の矛盾&苦楽を味わうことばかり続けているだけでは自らの使命を果たすことは不可能です。

そこで不完全な人間関係に気付くことから始まりその途中過程で宇宙・神の完全な不変の愛を学び知り気付き納得確信実感でもって悟ることが使命なのです。

ちなみに優しさ思いやりが愛とも言えますが、しかしその優しさ思いやりを出せば愛情になります。
だから「出す」ものではなくして、自らの中に有るものが「出て」いればそれが愛だと言われています。
ゆえに愛情が強くて愛は弱いと思っている人が多いと思います。

ところがしかし人様に気に入られようとすれば(喜んでもらおうとすれば)その気遣い愛情人情を出す事になりますが、それが結果的には押し売り押し付けになる事に気付いているでしょうか、

ちなみに私は人様に気遣われるのもまた私が人様を気遣うもの苦手です。
だから妻や家族や親戚と言えどもまた人様とも普段道理です、だから私の性格を知る人は(私のことを)単純明快でいつも変わらないと言われることがあります。

しかしそんな私を(時と場合によっては)気に入らない人が多いのも事実ですが、しかし私は自力を多く使うことからしてそれらの人へのご縁はごく限られていますから気になりません、ところがその人にとって私が必要となったときは私を笑顔で応えてくれますから、私にすればその時のそれで十分なわけです。

そんな私だから普段と違った特別なことは苦手です。
だから若い時からして盆や正月さえも苦手にしていました。
何たって気を引き締めるような特別なことは心身ともに疲れるが、いつもの普段道理なら慣れていて楽チンだからです。

また先々の計画予定予約が有るのもそれが気になって未だに苦手です。
だから成り行き任せが似合っているのです。

ちなみに「覚えるよりも慣れろ」「住めば都」が私に似合っています。
だから勉学知識教養&専門書や説明書は私に似合っていません。
だからなかなか馴染めない事は無理をせずにほっときます。

しかし自分に出来る限りのことはそれに馴染み慣れるために手触り感覚&実習・予行演習・実演に精出し集中熱中していました。

だから未だに私の性格個性&不完全意識は変わりませんが、
しかし生活の形や生き様やその意識(思い考え)は変わりました。

すなわち自分の個性役割を果たしながらも自らの意識の修正改革に向けた生き様になっているのです。

人間は不信感で生きています、だからどんなに時代が進化しても不安心配が増すばかりです。

2013年04月25日 | Weblog
人が集まるのは欲絡みだからです。
欲が無ければ集まりません。
だから二人揃えばそこに欲が隠れています。

そしてもっと欲張れば同じ欲を持つ人が集り、その人数も増えていきます。
そして人数が増えればそれが更に強い力になります。
そして一致団結が言われます。
そして強い力があれば数多く出来るしまた同時に複数のことが出来ることにもなり更に強い力を持ちます。

だから人は集まりたがります。
ところが同じ集まりであっても、人それぞれの意識は違っています。
だから血族・伴侶・同棲・仲間・同僚・協力者と言えども一つ違えば裏切り関係にもなります。

だから人間関係の絆となる愛情人情や義理や恩義が言われ、また愛社精神や愛国心が言われます。
しかし裏切られることが有るだけに不信感に満ちています。
それを誤魔化すために仲良しが言われますが一歩違えば(反すれば)虐め虐待暴力・殺人沙汰や紛争闘争や企業戦争・宗教戦争・国家戦争にもなります。

だから大事も最小は小さな事から始まります。

そんな世の中でいて得ているものは自己満足です。
しかも価値(事実)ではなくして価値観(思い)の満足です。
だからその価値は同じなのに価値観で追求しますから、より早く便利で快適で清潔で、より上品質で高級感があり希少価値・骨董価値があり芸術性に富んでいたり、より変化刺激性に富みより高い快感快楽を求める結果にもなりました。

だから人類誕生以来これまで時代の進化が優先されきましたが人間意識の進化は遅れて頭でっかちの頭脳ばかりが進化しました。
その挙句の果てに自分の首を自分で絞める結果になると気付いている人は少ないと思います。

またその事に気付いてはいるものの自分がどうすればいいのやら、またどうすればいいかを知っていても実践にならないで神頼み人頼みのままにしている人もいますし、その神や人頼みにしてもそれらを信頼しているものの同時に不信感をも持っています。

何やら人間は不信感で生きているようです。
だからどんなに時代が進化しても不安心配が増すばかりです。
しかしその不信感は絶対的に消すことは出来ません。

だから人間関係の中にいれば、自分を守りたがるために、その不信感が必ず出てきます。
そして多くを持っている人ほどに何かと守り意識が出てきます。

だからそれらを「捨てる」ことで(有っても無くても気にならないことで)守り意識&不信感が出ないような形にするしかありません。

そして否定反発&不信感が出ない生活に慣れ親しんでいるうちに此れまでの生き方が大きく間違っていた事に実感でもって気付くことにもなりまた自らの生活が小さくもなります。

そして失ったものを後悔するよりも、いま有るもの得ているものの真価・価値を味わう事になれば、この世が過去のいつの時代に戻っても平気で生きていくことが出来るようなそんな精神になります。

すなわち「今を生きて」いることを味わえるのです。
ゆえに先々の思いが消えて今の事実を見ることになり、その事実で十分な心持・安心安全になれるのです。

ちなみに不信感が出る原因が欲に有ることも知りますから、成り行きで与えられるまで待つ、その成り行き任せの意識にもなれます。

ピラミッドが一夜にして無理なように、また太古の水の中の生物が陸に上がることがなければ、

2013年04月24日 | Weblog
私たちは何かの思いを持てば、またそれを言葉にして発すれば、その一つの思い言葉に裏と表があるのが常です。
だから過去のイエスが善を説いたために必然からして悪を説くことになり、その善のために悪を排除する実践行動を示したようにです。

そして善なる実践行動を示せばその裏の悪なる実践行動を示すことも必然になりますが、その度合い尺量の判断は人それぞれに違うし、自分の都合が優先されれば更にその不完全さが増します。

だから精神世界で言われている言葉さえも矛盾があることを書いています。
そして巷で美しく美化された言葉やその常識にも裏があります。

ところが巷では美しい言葉に酔いしれる傾向がありますから、その反対の悪い言葉をあまり使わない傾向になっています。
だから演歌歌謡曲にも美しい人生の為に成る言葉が多く含まれていますが、しかしその裏が常に出ていることに気付かない人が多いことからして、その美しい言葉が善なる心精神として常識化されています。

だから「苦労は買ってでも」の言葉が正しいことに思っている人にそれは欲ですよと説明すれば、何で欲を出すのが悪いのよと否定反発します。
そこで精神世界を説くことになるのですが、その精神世界の中にもその矛盾がありますから、そこで思い悩み思考錯誤葛藤することにもなりますし、また私のほうが正しいとばかりに主張しあうことにもなります。

そこで今度は完全真理を持ち出せば一件落着します。
ところがそれに馴染めないのが正直なところでしょう。
だから完全真理といえども言うだけ、また聞くだけで終わり、その実践行動が進まないわけです。

それをはっきり言えば無理なことは土台からして無理なのです。

すなわち意識が原因からしてその結果が既に仕組まれて現状に出ていますから、その実践が無理なく出来る人はその実践が言われる以前からもう既に実践しているはずですし、その実践がまだ出来ていない人の場合はそれ相当な期間とその実践意識&精神力を持ち続けることが必要なはずです。

何たってピラミドは一夜にして出来ません。

となれば独りでしてコツコツと石段を積み上げることになりますが果たしてそれが実践できるでしょうか、
何やら相当な無理があるようですが、ちなみに精神世界で無理をするのも欲絡みですから大方にして横道にそれます。

その横道にそれる原因になるのが信仰宗教の教祖指導者や神懸り超能力者を信じてそれに頼ることです。
すなわち他力に頼りながら(思惑とその期待をもってして)石段をいち早く積み重ねようと欲張ることになるのです。

となると精神世界を説く形が有っても無駄になるばかりか人心を迷わし惑わす邪魔な形にもなります。
だから現実事実に人集め金集め勢力拡大のための精神世界になっていますし、
しかも精神世界を説いて言うだけでは大勢の人が集まりませんから、また大勢の人が集らなければ不信感からして信用・信頼されないから、そこで神懸り超能力や霊感霊力を使って客寄せパンダの如くにしている形もあります。


となると矛盾の無い完全真理もそれが実践できないと言う矛盾が有るし、それが自己縮小にしてもその実践に相当な無理があります。
何たって実際に自己縮小して省エネ楽チンの安心安全な心持をまだ実感でもって味わっていないことからして、その結果が先々のことだけに不安心配からして動き難いのです。

ちなみに太古の水の中の生物が陸に(不安心配で動き難いからとて)上がることがなければ、その生物生命(命&意識)の進化発展が相当に遅れたはずのその事実を書き加えておきます。
またその生物生命は(創造主・宇宙・神を信じて動いたわけでも無く)自らの意識でもって動いたことも付け加えておきます。

生き甲斐を求めることからしてその裏の自殺願望が出ることにもなります。

2013年04月23日 | Weblog
不完全意識が原因のその結果のこの世で生きていくからには必然ご縁の巡り合わせの成り行きの中で食って寝て糞をしながら生きていくしかありません。

ところが生き甲斐が無ければ生きていても面白くないからとその生き甲斐を捜し求める人もいます。
ところが矛盾する不完全な意識をもっていますから、その生き甲斐が無ければ面白無くて裏の死にたい思い、すなわち「自殺願望」が出てくることにもなり、表の生き甲斐が裏の死にたい願望にも変わるわけです。

しかも不完全意識の矛盾するこの世に(裏の無い)生き甲斐なんかありません。
巷では趣味嗜好娯楽&変化刺激を生き甲斐に思っている人もいますが、それは単なる時間つぶしの自己満足とその裏の不平不満の苦楽を味わうだけです。
まして人間関係での生き甲斐となると自分独りの事だけではないだけに尚更に複雑になりその分だけ多く苦楽を味わう事になり、その苦楽の繰り返しの中でその楽が多いときに生き甲斐を感じますがその裏の苦が積み重なりそれが重圧になったときに死にたい願望が出てくるわけです。

また生き甲斐を信仰宗教等の精神世界に求めることもありますが、自らの不完全意識が原因からしてその結果も不完全ですから結果的にはその苦楽を味わうだけで先程と同じです。

だから不足している部分を補うその生き甲斐を探すのではなくして、何が有っても(有事を含めて)、何が無くても(失うことがあっても)、今を生きていることを(過不足なく)素直に味わえる意識になるのが人間の本分なのです。

そのためにも趣味嗜好娯楽や人間関係や信仰宗教に頼らずとも、あるがまま&自然体&成り行き任せを意識しながら何とか生きていればそれに慣れて(住めば都になって)十分に思えるようになるのです。

それも実際に実感でもって味わなければなりません。
また生き甲斐を特別に思っていたことに気付かなければなりません。
だから実践意識が言われるわけです。

ゆえに生き甲斐を(特別を)探さなくても本からあったのにそれに気付かずに(普通を)味わっていなかっただけなのです。
すなわち特別な天国や楽園でもなくて、過不足の無い普通であれば苦と楽を味わないでそのままに生きていけるのです。

私はその普通の中の真価・価値を味わうための実践中ですがどうやら不完全意識がために本物にはなれそうもありません。

人間はどうしようもない厄介な意識を持った動物です。

2013年04月22日 | Weblog
自分独りの事なら何とかできても人様と係わる人間関係になれば不完全意識のぶつかり合いの不調和からして厄介な事になるとその事実を書いています。

だから人間関係を重視すれば(形ではなくして精神面での)自己縮小の実践が無理だと書いています。
だから無理をせずに、欲張らずに、素朴に生きるにしても無理があります。
また拘り執着しない、気にしない、成り行き任せにしておくこともだいぶ無理があります。

何たって人間を超越したかのような神懸り超能力者のミイラ取りがそのミイラになるくらいですし、神を説く者同士が到る所で殺し合うくらいだからして、この世の人間関係の中では無理なのです。

だから愛し合う恋人や夫婦と言えども互いが調和意識になることはありません。
だからどんなに仲良くしていても自分の都合が悪くなることに対しては必ず否定反発し合うことになります。

ちなみにあなたは人様の如何なる思いにも素直実直に従えますか、それが恋人や夫や妻であればどうですか、自問自答してください、大方が無理でしょう、

ちなみに信仰宗教ならずとも死後のあの世のことを真面目に話し合って納得できる結論になるでしょうか、それも無理でしょう、
ちなみに信じるか否かの無い完全なる真理&道理&理屈の通る(話し合えば誰でもが判る)その完全真理を話し合うことが出来ますか、それも無理ですか、

また常日頃何を話し合っているのですか、
そんな関係でほんとうに大丈夫だと思っているのですか、
本音は今更に「どうしようもない」のが事実ではありませんか、

だったら成り行き任せにほっとくしかありませんね、
しかしほっとくことも出来ないのでしょう、
何たって相手のためではなくして自分が困るからでしょう、違いますか、


私の周りの身近な人でしかも完全真理を学ぶ仲間同士でありながら誰もが本心から深く理解しようとはしていません。
何でなら精神世界で飯が食っていけないからして無理なのです。

ちなみに深く理解したところで不完全意識は元のままですから何か事があればその不完全意識はすぐに出てくるのですからどうしようもありません。

それでも不完全意識が出てきたことに自らが気付くだけでも良しとするしかありません。
ところがその事に執着することになるのが大方です。
何たって頭で理解して納得しているだけだから、その事に執着している事にはなかなか気付けないわけです。

中には(どうにもならないことに)執着している事実があるのに、自分では何ら執着していないと思い込んでいる人も大勢います。

これ等のような事実を何ぼ書いても書ききれませんが、とにかく人間は厄介な意識を持った動物です。

だから思惑期待をもって頑張ってもその己の意識が原因のその結果が正直に出続けるだけですから、成る事はなるが成らない事はならないわけだから、結果的にはその成り行きで生きていくことになっています。

それでも私の場合は一人静かに暮らしているだけに(相手がいないだけに)その成り行きの結果の苦楽が少なくてその分だけ安心安全な心持でいられるのは事実です。

でもパチンコに行く回数が増えているのを何とかしなければのその思いばかりで未だにその代替になる「やりたいこと&私に出来ること」を待てど、未だに仕組まれません。

また年老いた私にだって女性が恋しいときもありますがそのチャンスさえありません。
ちなみに酒もビールもカラオケも全然ダメですから(過去世からして仕組まれていて)その類の人の集まる場所に誘われて出向く縁がまったくありません。

ちなみに人様が私を必要としている事実&必然ご縁の関係にならなければ自らが先立って出向きません、だから私の出番はありません。

と言うことからして出来れば質問なりを投稿して頂ければその必然からしてその時間つぶしにもなるのですが如何でしょうか