孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

思い考えるのは無駄なこと、実践して結果・答えを知ることが「今を生きる」ことにつながる。

2010年02月26日 | Weblog
私が宇宙エネルギーや精神世界の事に次々とご縁・必然があって、(それが原因で)私が家族との人間関係や仕事に関わる人間関係や地域社会や医科学や政治経済教育に関わる人間関係などの裏表(矛盾や妥協)に疑問を持ち出したことから、やがて意識に変化が起きてきました。

そして・・・いつの間にやら(無理も無く)過疎地での年金独り暮らしをする立場状況になっていたのですが・・・その田舎暮らしを始めてから一年後あたりに完全真理を知る事になりましたが・・・その完全真理によって今までの様々な疑問や矛盾が一気に解決して、その納得確信できたことをこのブログに書いています。

その中にあるのが・・・自らが家族や世間やの「しがらみ」(束縛制限支配の形)から離れたことで、如何に見栄や世間体といった人間関係に無駄なエネルギーを費やしていたことにも気付くことが出来ました。
そして大した金銭物質が無くても、それでも自分の思い通りの自由に生きるすべを自らの自力・精神力・意識力を磨くことで確保し・・・その自力で出来る自由な生き方を実際に実践しています。

だから・・・自分に似合う自由があれば不平不満を持たなくてすむことを書き、不平不満が無ければ不安心配・恐れ怒りさえも出てこなくなり、それがこの先の病気や寝たきりや死に対する将来の不安や恐れから死後のことまで気にならなくなることを書きました。
そして・・・如何なる生き様を見せていようとも・・・生活の安定安心と心の安心安定につながる事になるとも書いてきました。

そんな私を人様が見て・・・それを哀れ気の毒に思われようが、寂しい人生に思われようが、家族と離れた無縁生活や世捨て人に思われようが、自分勝手な無責任に思われようが・・・その事と私の意識とは無関係ですからまったく気になりません。

また家族に何か困ったことが起きても、その困ったことを私が解決することには無理があることを知っているからこそ、やたらと下手な手出しをしないで静かに見守るだけになります。
例えば・・・金銭で困ったことに手助けしても・・・それが一時的な解決になっても、その困ったことになった原因の意識が消えてない限り「焼け石に水」になりますから、また新たな問題・困ったことが再発・起こる事実を知っているからです。
また・・・私のアドバイス・助言・口出しに効き目があっても、相手がそれを実践しなければ意味がありませんが、もしも私の助言を実践出来るような人ならば、私が助言するそれ以前から既に実践しているはずです。

だから私に人情があっても「人情は人の為にならず」のことわざのように・・・その人情を使って解決を図れば、それが結果的に本人の依存心・我欲・甘えが通用した事になり、自力で何とかして成すチャンスを怠る結果になることから言えば、それが本人の為にはならないことを知っているからです。

すなわち・・・自らに(金銭的であれ精神的であれ)困ったことになる原因が自らの意識にある事に気付かない限り・・・名言助言の文句を加えて人情で手助けしてもその場だけの一時的な解決になるだけです。

だから・・・そう言う私自身も・・・安易に他力・人情に求めることよりも、その助けを求めなくてすむようになるだけの自力・意識力を磨き・・・その自力を活用しながら・・・(人情・愛情の他力や金銭物質的な他力にあまり束縛制限支配されない形の)自由に生きる生き方を選んだわけです。

そして・・・その自力だけではどうしようもない困ったことになっても・・・それが病気や寝たきりや死につながることであっても、それは自らが招いた自己責任の結果ですから、それを悔い改めることがあっても後悔はしませんから・・・後悔してもあとの祭りですから・・・その自己責任を果たすべく更に自力・意識力を磨くためにも、安易に家族の手助け介護を求め欲して家族を巻き込むことがないように心がけています・・・だからどんな状態状況であっても、出来る限りの自力を使って生きる覚悟が出来ています。

だからそれが・・・私の家族に対する思いであり、私が望む生き方でもあるのです。
だから・・・世間で言う無縁社会も孤独もその孤独死も私が望む形なのです。
しかも・・・そのお手本となる・・・(身体の障害があって要介護が必要なのに)他県に住む息子夫婦の誘いを断り、ヘルパーの手助けだけで15年以上独り暮らしをしているご老人が実在でご近所にいますから・・・こうして私も心強く書けるのです。

★・・・その原因・意識にあるのが・・・★
今のこの世の不完全な人間関係・社会関係に依存して、その中の矛盾・裏表に思い悩み迷う苦悩や人間関係の気苦労気疲れで生きることよりも、その間違った集合意識の中でそれらを「気に」することなく、自分らしく自由に生きて、その自分の自力で出来ることを実際に実践しながら・・・完全真理で言われる神の愛意識・真実の愛意識と言われるものを学び知ることを意識していることです。

どんな生き方であっても・・・「生きる」ことに不平不満や不安心配を持たなくてすむ完全真理の実践。

2010年02月21日 | Weblog
高いピラミッドを作るためには・・・どこかを掘り下げて低い谷を作る必要があります。
高い壁を乗り越えるためには・・・下敷きになる犠牲が必要になります。
自分が上に立つためには・・・下になる人が必要になります。
自分に無くて他に有るものを得るには・・・他から奪う必要があります。
そして栄光や繁栄を手にしています。

しかし、栄光があれば必ず挫折もありますから、その栄光が長続きすることはありません。
同じく、繁栄があれば必ず衰退もありますから、その繁栄が長続きすることはありません。
だから、その栄光や繁栄を続けていれば・・・同じように挫折や衰退も続きます。

栄光や繁栄には物質面だけではなくて意識面での犠牲も伴うものです。
その犠牲が無ければ栄光も繁栄も止まり・・・やがて崩壊します。
だから栄光や繁栄が大きく長く続くほど・・・その分だけ犠牲も多く長く続くことになります。

ところで戦中生まれで戦後育ちの私が子供の頃には一家に一台の自転車があれば良かったほうです。
しかし今では大人一人に車が一台の時代になりました。
しかしその分だけ犠牲・使い捨てが多くなり、当然ながら自然関係も人間関係も崩壊しています。

そして町工場や銭湯が無くなり、また駄菓子屋・文具玩具屋・豆腐屋も消え、八百屋・肉屋・魚屋・酒屋・雑貨屋が小型のスーパーストアーになり、そのスーパーストアーも次第に消えて大型ショッピングセンターになり、それさえも郊外に移転して更に大型化しています。
今ではその大型化したものさえ他の大型化によって経営危機に面していますが・・・ 新しいものを作っては壊して巨大化しています。

すなわち・・・栄光と挫折、繁栄と衰退、有ったものが無くなり、便利を使うのに別な不便が伴う、良いものを使ったのに悪い結果も付いて周ってくる、だから役立つはずの医科学にも弊害副作用がある・・・そんな裏表のあるのがこの世です。

そんな裏表の多くを自らが見聞し味わってきただけに・・・今の過疎地で静かに暮らす値打ちを見出した形にもなっています。
だから物質エネルギー面の犠牲・浪費だけではなくて、肉体や精神や感情を動かす意識エネルギー(命の源)の浪費・犠牲を少なくした生き方を選んで・・・それを今味わっているところなのです。

例えば家電などの生活用品は廃品を再利用してそれを使い切ることをしているし、紙パックの牛乳がシャーベット状になる寒さの中で光熱費が3000円以下という生活にも無理なく慣れ親しんでいるのです。
そんな物質面の浪費・犠牲の少ない生活に慣れ親しんでそれに満足できていれば・・・それだけに意識エネルギーを浪費する不平不満や不安や心配や怒りに発展することもなくなることを知りました。
すなわち・・・質素な生活が生活の安定につながり、静かで平穏な暮らしが心の安定につながることを知ったのです。

だから、その生活の基本である「生きる」ことに満足していれば、それ以外の余計な喜怒哀楽や生老病死や見栄や世間体・常識道徳・伝統風習で思い悩んだり苦労する無駄も無くなるのです。

すなわち・・・私の子供の頃や青春時代、そして結婚子育てを終え、老後の今日に至るまでのあいだに学び知ったことなのです。
その学び知った人間の裏表、すなわち家族関係や人間関係や社会関係の裏表を(完全真理に照らし合わせて)今度は老後で活かすことが出来ているのです。

だから(このブログに来られた人は)老後と言わずに・・・今から完全真理を学び知りそれを実践してみれば・・・それがどんな生き方であっても・・・また病気や寝たきりであっても・・・「生きる」ことに不平不満や不安心配を持たなくてすむようになるのです。
そしてその意識が病気や死や死後のことさえも不安心配・恐れにならないですむようになるのです。

だから・・・良い悪いの裏表のある矛盾の生き方をいくら長く続けていても闇の世界ですから光は見出せませんが、完全真理は裏の無い表一元の世界(すべてはひとつ)を説く完全ですから、その教えによって光(神・意識・命・愛)を見出し知る事になります。

しかもその光(完全)に少しでも近づいていくことを意識していれば・・・不完全な人間関係や社会関係などの他のことはどうでもよいことになり(問題ではなくなり)・・・その分だけ物質面や意識面でのエネルギーの浪費が少なくなり・・・当然ながら他力を当てにしない生活になり・・・自ずと持ち前の自力を使う生活の安定と意識力を使う心の安定を同時に得ることが出来るようになります。

人間の命・意識は「孤独・自由」ですから、無縁社会・孤独・孤独死も当然の事になります。

2010年02月15日 | Weblog
自分中心の個人意識を持っているのが人間ですから、その人間関係も自分中心の思惑で成り立っていますから、自分に都合が良い人間関係を築く事に熱心になり、反対の都合が悪い関係は誰もが避けたがります。

それでも他の人の力が必要なときは自分の都合ばかりが通用しません。
だから一軒家で大勢が生活を共にしていれば誰彼問わずに必然で妥協し合ったり協力し合ったりする関係が続き、形の上では無縁ではありませんが、経済成長によって各々の生活が豊かになるほど家族が分離孤立してきたのは間違いありません。

すなわち・・・自分さえ良ければの自分勝手な環境を築くには・・・一国一城の主になって独立・孤立するしか無いのです。
だから当然ながら地域社会からも孤立する事になります。

しかも一国一城の家庭の中でさえ自分優先の個人意識の集まりですから・・・やはりそれぞれが独立・孤立する事になります。
だから個人意識の愛情関係や家族関係の裏に皆とは違った自分の都合・思惑を持っていることから・・・やはりそれぞれが孤立していることになります・・・それが嘘の無い現実です。

すなわち・・・元々から個人意識人間の集合だから・・・人間関係はあっても皆が独自の孤立した意識を持っていたことから言えば、(意識の面から言えば)昔から無縁関係と同じだったとも言えるのです。
だから・・・経済発展・経済成長による豊かな生活環境を手にしたことで個人的に困ることが減り、その分だけ寄り集まることも減り、それぞれが独立独歩の自由な生き方を選ぶことができるようになり、それが核家族化・孤独化・無縁社会となってはっきり出てきただけのことで、なるようになっているだけのことです。
ゆえに・・・形の上では無縁ではなかった昭和の時代を懐かしむ大人がいるのです。

その誰もが持っている個人意識によって孤独になり、それが災いして孤独感になり、それが原因でノイローゼや引きこもり自閉症やうつ病や自殺にもつながっているのですが・・・それらも大昔から氷山の一角として前兆的に現れていたのですが、時代ごとの繁栄と共に表面化することが次第に大きくなっているだけのことであって、此れからも止まることなく続き、しかももっと大きく現れるのもどうやら間違いありません。

だから無縁社会の生涯独身や離婚離別による「お一人様」生活も増え、同時に無縁死・孤独死も増え続けていくことでしょう・・・
その対処方法が成されても・・・例えば救護救済施設や介護施設や老後共同生活施設などが充実しても・・・ただ同じような似た者同士が寄り集まるだけですから・・・形は無縁でなくても・・・人それぞれの孤独・孤独感は持ったままに無縁に等しい生涯を終わる事になるでしょう・・・それが自分さえ良ければの個人意識を持った人間の結末・結果です。

その結末結果が出ているだけに・・・私個人としては・・・それを哀れみ危惧することよりも・・・その孤独・孤独化を先取りした格好で実際に試したのが今の過疎地での年金一人暮らしでしたが・・・その結果に満足できるものがあり・・・過去の生活に戻ることなく、そのままに今も続いているだけのことです。

そして孤独には自由があり、その孤独・自由を楽しめば、それ以外の特別なことがあまり必要なくなったのです。
それを言い返せば・・・特別を求めている限り自由が無く、また他と差を付けたがる差別意識も出てくるのです。

人間の命・意識は元々から「孤独・自由」なのです。
だから・・・孤独同士が寄り集まりたがるのも当然ですが、そこに束縛制限支配する形ができれば不自由になり不平等になり、また他と違う特別を望む比較競争意識で差別や戦争にもなっているのです。

その比較競争の原因が「良いと悪い」で分離判断している個人意識なのですが、その個人意識を大事に守っている限りその人には自由はありません。 自由でなければ不平不満が出るのも当然です。 その不平不満を満たすために特別を欲しがるのです。 その特別を欲しがるから特別意識・差別意識が出てくるのです。

だから(状況・立場・環境がどうであれ)人間の命・意識は孤独・自由であってもかまわないのです。
(その孤独・自由を活かして)あとは自分さえ良ければの個人意識・善悪の判断を無くして完全意識になる実践をしていくだけです。
そして完全意識になれば皆が自由平等になり、孤独ではない同等意識・仲間意識になり、すべてはひとつの神意識になれるのです。

比較競争判断しないで、守り闘わなければ・・・その人の意識の中に平等・自由・平和があるのです。

2010年02月07日 | Weblog
自由・平等・平和は自力・自分の中にあります。
比較競争判断しないで、守り闘わなければ・・・その人の意識の中に平等・自由・平和があるのです。

奴隷でなくても、束縛制限されると不自由になります。
違いを差に思うと差別になり不平等になります。
またその差・差別があれば不自由になりますから、平等と自由は同じで離れていません。
また戦争という形が無くても、何かと守り闘うことをしていれば平和とは言えません。

見た目で奴隷のようにこき使われていても・・・本人が気にしていなければそれが当たり前ですから、それが差別でも、また束縛されて自由が奪われていることになりません。

入国審査で白人のときと黒人のときとの審査様子・見た目が違っていても・・・それは差別にはなりません。
しかし入国審査官の意識の中に白人と黒人とで差別していれば・・・その審査官に差別意識がある事になります。
しかしその黒人本人が差別されていると思っていなければ・・・審査官に差別意識があっても・・・その黒人の中に差別されたという意識はありません。
またその審査の様子を見ていた人がそれを差別に思えば・・・その差別に思えた人の中に差別意識があることになりますが、その同じ様子を見ていた人がそれを差別に思わなければ普段道理で何も問題は無かったことになります。

同じく、不平不満や不安心配・不信感や恐怖心や仕返し報復・復讐心などを持って守り闘っていなければ・・・例え戦時中であっても、その人の心の中は平常心で穏やかな平和があります。
その反対に戦争中でなくても・・・良い悪い(善悪・優劣・損得)で判断し、自分に都合が良いとこだけを取り、自分に都合が悪いことを排除したがる敵対意識や・・・その良いとこ取りしたものや比較競争で勝ち取って得たものを守ることになれば、敵対するものから守る為に闘うことになり、その人の中に平和・安心はありません。

天国・地獄、幸・不幸、生老病死の苦、喜怒哀楽の感情、否定反発、不信感、価値観・・・これらは他に関係なく、自分の意識の中にあるものです。
不平等と思う人、不自由に思う人、守り戦う意識の人、善悪・優劣・損得で判断して不平不満に思う人、それらが原因で不安心配・恐怖を持つ人や憎しみ嫉妬になる人ややけくそになる人・・・これらは自分個人の意識の中にあるものなのです。

人それぞれの違いを差に思うのも・・・ 同じ価値のものを高いと思ったり、低いと思うのも・・・ 自分を認めて欲しいのに、他の人を認めようとしないのも・・・
また・・・死を目前にして、生きていたいと思うのも ・・・病気になって、健康のありがたさを知るのも ・・・健康であっても、貧乏を悔やむのも ・・・貧乏であっても、生きている喜びがあるのも・・・
また・・・自分より上を見て不幸に思い、自分より下を見て幸せに思うのも ・・・人に負けて不幸に思い、人に勝って幸せに思うのも ・・・リストラを受けた人を不幸に思い、そのリストラを免れた人が幸せに思うのも ・・・無縁社会の孤独や孤独死を哀れむのも、その無縁・孤独を活かして暮らすのも ・・・その原因に意識の違いがあります・・・

すなわち・・・私達人間は「意識」で生きている「命」なのです。
だから・・・その意識によって肉体・精神体・感情体を使って生きているのです。
そして・・・比較競争判断しないで、守り闘わなければ・・・その人の意識の中に平等・自由・平和があるのです。
すなわち・・・意識次第で・・・どのようにも生きられるのです。

だから・・・仕事・役割がどうであれ、生活様式・環境状況・立場がどうであれ・・・比較競争の差別意識や特別になりたがる過ぎた欲が無ければ・・・他との形・役割個性の違いを気にすることもなくて、その人に一番似合った形・自由な生き方で与えられた役割を果たすことが出来るのです。
すなわち・・・「違い」を<差>に思わなければ「そのまま、このまま、あるがまま」の平等・自由があるのです。

人間には攻撃本能と防御本能、善と悪の意識、その矛盾する意識を持って生きています。

2010年02月04日 | Weblog
人間には本能があり、人間として生き続けるための食欲・性欲の弱肉強食や独占支配欲といった攻撃本能と、それらから守る防御本能・守り意識も併せて持って生きていますから、どうしても矛盾することになります。
その使い分けをするのが・・・自分に都合が良いか悪いかの個人判断の都合次第で決っています。

だから太古の昔から・・・欲しいものを奪うことをしてきました。
それだけに相反する・・・防御意識も強いものがあります。
そして・・・攻撃こそ最大の防御と言われるように・・・守り意識には相反する闘う意識があります。
だから・・・どんなに進化しても人間同士のいさかい・・・喧嘩や争い戦いが終わることにはなりません。
そこで色んな国際条約やら憲法・法律から・・・常識・道徳・伝統風習まで作られましたが・・・焼け石に水です。

その自分を守るなかに自分の立場を良くしたい思いがありますから、その思いに反する事になれば不平不満になり、そして不安心配になったり、腹を立て怒るのも、嫉妬・ジェラシーになるのも、やけくその破壊意識(殺人・自殺)になるのも・・・元はと言えば「守り」意識から出たことなのです。
だからその守り意識が強いと自分を守るために人を殺すように・・・自分が守っていた肉親家族に限らず地域社会に向けた無差別殺人や抗争テロ・自爆テロにまで及ぶことがあります。

おぼれる者わらをもつかむで・・・救助に来た人を巻き添えにもします。
だから自分の生命が助かるためなら、人様の臓器でも欲しがります。

人様の役に立つこともしていれば反対に迷惑をかけることもしています。
自分を認めて欲しいのに、人様には不信感を持っています。
優しい心もあれば憎しみの心もあります。
与えることもあれば奪うこともあります。

良いこともあれば悪いこともあります。
損するときも得をするときもあります。
優越感も劣等感も持っています。
だから感情を波立たせる喜怒哀楽があります。

責任感もあれば無責任にもなれます。
人情もあれば薄情にもなれます。
尊敬することも卑下することも出来ます。
人の不幸が自分の幸せにも思えます。

それら全てが・・・自分の意識の中にあることです。
だから人間は「意識で生きている」と言われるわけです。
だから・・・金銭物質や肉体を意識することではなくて、元からある「命・意識」を大切に思うことが言われているのです。

その命・意識によって良いと悪いの矛盾することを色々とやってきたことを踏まえて・・・そこで悪いことを取り除いた「良い」ことだけを取り入れるように教えたのが、此れまでの学者先生や教祖・宗教家でした。
すなわち・・・良いことばかりの天国を作るために、その良いことをして悪いことをしない教え教育で善一元の人間界にすることでしたが・・・しかし「良い」を知るためにはやはり「悪い」を知る必要があるし、また良かれと思ったことが悪い事になったりして、その矛盾やその見極めにどうしても迷い混乱がついてまわり、結局は一元化に失敗したままに続いているのが今の不完全なこの世です。

そこで・・・最初で最後となる・・・「良い悪い」(善悪・優劣・損得)を持たない、裏も表も無い、矛盾の無い、一切の妥協も無い「完全」を言う真理が説かれているのも・・・この世です。
それが・・・良い悪いを持たない完全意識の人間になるための完全真理です。
そして・・・完全だけに・・・成るものは必ず成るのです。
しかし・・・他力だけでは成し得ることは出来ません・・・だから自力が伴わなければなりません。

だから・・・完全真理を学び知りその実践意識を持ち続けているものだけにその必然が起こります。
しかし・・・中途半端なままに実践意識が失われていたら、その不完全意識の命のままが永遠に続きます。

その・・・「白と黒」の選択が迫っているのが現在であり、今回を見逃せば永遠に選択のチャンスは訪れません。

無縁社会にも、その孤独と孤独死にも良いと悪いの二面・裏表がある

2010年02月02日 | Weblog
私達は「良い悪い」で判断して生きていますから、孤独にも良いと悪いがあり、その無縁関係にも良いと悪いの二面・裏表があります。
だから・・・孤独だと呑気気ままな自由がありますが、一方では孤独感に陥ることにもなる、そこで寂しいから人と接するご縁・つながりが必要になるが、ところが人と接していればわずらわしい面倒なことにもなります。

すなわち・・・孤独が良いことにも悪いことにもなるのです。
だから孤独であろうが大勢であろうが、どっちもどっちの似たり寄ったりの不完全な生き方なのです。
それを「良いか悪いか」で決めようとしている矛盾・無理があることからして、あとは妥協することになります。
その妥協は全てが中途半端ですから必ずしも自分の思い道理になっていません。
だから多くの人が不平不満を持って生きることになります。

「孤独死」にも良いと悪いがあります。
世間では孤独死を悪いほうに捉えがちですが・・・私は孤独死を望む立場で生活しています。
すなわち・・・生まれたからには死は当然ですから、その死に方がどうであれ、その死を素直に受け入れるだけです。
その死に方を自力で望めるのなら・・・長い闘病生活や要介護のあげくの果てに死ぬことよりも、元気なうちの突然死や孤独死のほうがあっさりしていて、しかも多くの他力をわずらわす手間ひま面倒が少なくて済むからです。
そのために献体登録もしているし葬儀法要・仏壇お墓に名を刻むことも不要と伝えていますから手間要らずです。

だから普段の生活にも・・・家族親戚や他に迷惑をかけないように心がけています。
だから・・・「孤独」も「孤独死」も・・・私には都合が良い事になっています。

だから・・・必要不可欠・必然が無い限りそれら他力をあてにせずに、何とか自力を多く使っています。
その為にも・・・心身の健康には宇宙エネルギー・ファバラエネルギーを愛用し、また健康なままに死を迎えるためにも弊害副作用の出る不完全な医科学・医術薬剤などの他力に頼らな生活を心がけています。

「介護」にも良いと悪いがあります。
至れり尽くせりの親切な介護を受けることで自分に都合が良くても、その分だけ自力を使うことが少なくなり、それが原因で更に重度の要介護が必要になったり介護期間が長引くことにもなります。
・・・世間で言う優しさ思いやりの人情が皮肉にも不幸な結果を招くことになる場合があります。

ところが受ける介護・他力を必要最低限にしていれば要介護が軽減され、その分だけ自力を使うことが多くなるから、その自力が増すことになって治癒回復が早まったり、少なくとも自力の低下を防ぐことにもなります。
また家族らの介護だと互いが気疲れして共倒れにもなりやすいが・・・世間で言うところの人情のない薄情なほうが・・・介護を受ける者の自力に役立っことになったり、介護をする側の生活にも影響が出ないですみます。

(参考事例) 私のご近所に歩くこともままならない障害を持った要介護のご老人(婦人)が「お一人様」で生活しています。
そんな状況だから・・・親思いの息子夫婦やその孫やそのひ孫までが大阪で一緒に暮らすことを言っているのですが、それでもお一人様の生活を選んでいます。
それは・・・自分の身のことよりも息子らの家族のことを思っていることから・・・その不自由な生活を自らが選んでいるのです。
それが息子に対する親心でもあるが、その一方では気苦労の無い一人身の生活を望んでいるのです。

★要介護者になった原因は自分の意識にあり、その意識に対して警告が出されているのですから・・・その自分の意識の過ちに気付き悔い改めることにならなければ・・・更に困難な方向に進んで行きます。

ちなみに・・・現在の自己中心の「自分さえ良ければ」で生きている人間同士がご縁あってくっつき引っ付きしている、その人間関係・信頼関係・絆は有って無いような関係ですから、いつ縁が切れてもおかしくありません。
だから・・・何らかの問題・有事があるたびに・・・それが自分の思い通りではないことで不平不満が重なり続け、それが原因でやがて人を裏切ることにも、また裏切られることにもなります。 その事実が今の人間社会・無縁社会なのです。

しかも、この世の・・・快適便利な他力(金銭物質・医科学)を使いすぎているだけに、あらゆる面での自力が相当低下しています。
だから、この世に起きている様々な有事が我が身に起こると自力が無いだけに他力依存が強まり、しかもその他力依存に頼れなかったり、その望みが叶えられなかったりすることから・・・その自分の思い道理にならないことであらゆる不平不満が続出しています。

そんな身勝手な不平不満でまだ生き続けるよりも・・・(不平不満の種を蒔き続けて他にまで広めるよりも)・・・ここらで自分を大切にする自立・自由意識を持つなり、他を巻き込まないお一人様の生き方や他力に頼らない実践で自力を磨くことにすれば・・・その新たな生き方で得た学びや気付きで悔い改めることになり、それが更に自力・意識力・精神力を高めることになるかもしれません。
そして巷の有事や真坂の有事に動揺することもなくなり、しかも他力に頼らなくても持ち前の自力でその荒波を乗り切ることが出来るかもしれません。