孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

神々の次元、宇宙人・UFOの次元、似たもの同士・動物霊・妖怪・幽霊の次元が実在する。

2010年09月28日 | Weblog
人は意識で生きています。
その意識は一つしかありません。
だから意識を切り替えて色々と交互に思い考えることは出来ても同時に二つ以上のことを意識することは絶対に出来ません。
すなわち何かを思い考えているときはそれに意識が集中・執着していることになります。

そしてその事に執着していれば意識が囚われ束縛制限支配されている事と同じになりますから、それらに関することに意識が入っても他ごとには意識が入りません。
だから現在のように世情が目まぐるしく変動・変化している時代になるとその事だけで精一杯になり精神世界、特にあの世の「意識の世界」に意識を使う人は限られてきます。

しかも此れまでの精神世界を説く宗教・教祖の不完全さやその矛盾・妥協・いい加減さが此れまでに多く出ているときだけに、多くの人が違和感や不信感で否定的に捉えていますから(確信が持てないから)、あの世がある様でない様なあいまいに捉えている人も多いようです。
・・・私が神仏・お墓・仏壇に手を合わして拝む事に抵抗が有ったのも、あの世を信じるか否かの不完全さに原因が有ったようです。
しかし太古の昔から神仏を尊び崇拝する形が存在していることは、見えない神仏が実在していることを示していることにもなります。

その神仏を崇拝する形が太古ほど強く、そして時代が進むほどに弱体してきたのも史実・事実に有りますが、その原因が人の意識に関係しているのは確かなことですから、その時代ごとに人の意識が変化してきた結果となります。
だから太古ほど神仏に近い意識でいたから、その神仏と接していた神代の時代や八百万の神々の時代や、また天使天女・妖精や妖怪・動物霊・幽霊が頻繁に出てくるような時代があったのも事実になります。
・・・人は意識で生きている関係から・・・それらを人が意識していた時代があったということです・・・
・・・そしてその時代の人の強い意識(善悪)が作り出した形・偶像とも言えるのです・・・
・・・そして今の高度経済主義に囚われる意識を持つものが作り出したのが金銭物質の形・偶像と言えるのです。

太古の昔から確かな事実として八百万の神々・宇宙人・UFOや妖怪・動物霊・幽霊やのあの世の意識が原因の見えない世界が「次元」として宇宙で実在していたのです。
だから神々の次元も、宇宙人やUFOの次元も、似た者同士が集まる霊魂の次元も、行き場が無くて浮遊している幽霊の次元も、その意識の次元で実在しているのです。
・・・三次元の人間の目で高次元の実在を見れないが、その見えない意識体を形で投影・鏡映・偶像化して見えた感覚・意識になることもあるようですが、どうやら透明スクリーンに動画で映し出されたような感じで身近に見ることは出来ても実在で直接触ることは不可能のようです・・・ だから宇宙船に乗ったとか宇宙人と接したとか、浦島太郎のように竜宮に行ってご馳走を食べたとかで、その感触を実感のように味わうことがあっても、それは白昼夢のように意識の中で起きた現象ですから、三次元の直接的な実感で起きたことではありません。 

だから幽霊によって直接的・物理的な被害を受けることはありませんし、宇宙人やUFOが地球人に直接戦争を仕掛けてくることはありませんが、何事かを強く意識し執着していることから一時的にも長期的にも己の意識がそれらに囚われ支配されているような精神状態・洗脳されているような状態になることがあるようです。

それはともかくとして、私たちの中で昔ほどに神仏の世界・意識次元の世界の実在を知る人や信じている人が少なくなったのも、その原因も意識にありますから、やはり時代が進化して昔ほど神仏を尊ぶ必要が無くなった事にあるようです。
すなわち意識することがあまりにも多すぎてその目先の事しか意識しなくなったということかもしれません。
だから日々の生活の中で神仏を意識することが少なくなって、精神的な苦痛・苦悩に耐えられなくなって神仏に助けを求めるときや自らの生き方や人間関係に疑問を持ったときや経済的に不幸のどん底に陥ったり、大病や重病人や障害や老衰で思うように動けなくなったり、死のふちに立ったときにしか意識しなくなったようです。

しかもそれらの宗教的観念・概念や教祖の成すことや諭すことやその真理の教えにも不完全が多くて、信じるか否かの判断を迫られたり、矛盾や妥協に惑わされて思い考え悩み思考錯誤や葛藤することになり、実在する神・愛の意識次元の真実を知る結果には至っていませんから、結局はこの世で成仏できなかったり、あの世の霊魂の世界でも未練後悔を伴いながら迷い続けることになるのです。

宇宙で実在する意識次元の世界は「意識で生きている」のと同様ですが、人間の形を成していませんから色恋で恋愛することも家族家庭を持つことも、その衣食住も名誉名声権利権力も趣味嗜好娯楽・刺激も無いことから、それらの喜怒哀楽や生老病死を気にすることにもなりませんから、呑気気楽と言えば呑気気楽になるし、天国・地獄に思えば天国・地獄にもなります。

だからそこで問題になるのが・・・意識で生きているからには(この宇宙で実在しているからには)その自らが持っている意識がすべてになります。
だから生前から何事も無く穏やかな心で生きていれば(あの世の意識だけの世界に逝っても)その意識のままになりますが、過去や未来を気にする(喜怒哀楽・生老病死など)その執着心でもって(強い思いから)何かと波風を立て荒波を起こしたり、自らが谷を作って山を築いたりするような波乱に満ちた生き方をしていれば、その過去の未練後悔に執着した意識のままになります。
しかもそれらをずーッと持ち続けて消すことができない意識のままに時間の無い(変化の少ない)宇宙の時で過ごすことになりますから、決して呑気気楽・天国とは言えないかもしれません。

だから何が無くても与えられるまで待つ意識、すなわち欲して追い求めることが無い自然体、また失うことを気にしない恐れない平常心、そして与え与えられる関係のお互い様・お陰様の意識、そんな神や愛の意識を学び知り悟ることが重要になるわけです。
そこで過去や未来を気にしない、喜怒哀楽や生老病死を気にしない、自然体のあるがままに生きることからして、その原因意識と結果は同じですから、あの世に逝っても平常心の穏やかな気持ち・意識で実在していられるということです。

完全真理の完全さと個人意識の不完全意識を実際に味わい知り尽くし悟ることが実践なのです。

2010年09月25日 | Weblog
良い悪いで分離判断しない完全真理を学び知りその実践でこの世のすべてが不完全であることを知れば、その完全真理以外のすべてに興味も魅力も無くなり、自ずと自己縮小につながっていきます。
そして自己満足が少なくなればそれだけ不平不満も少なくなるようです。

その自己満足は個の思いの満足ですから、その思いが変われば(状況・形が同じでも)自己満足していたものが不平不満に変わることもあります。 すなわち時間が経てば満足が満足ではなくなるのです。 すなわち同じ形の自己満足ではそれが不足に変わることもあるのです。 すなわち感謝していたことが感謝ではなくなるのです。 だから以前に増して強い自己満足でなければ満足できなくなるのです。 その自己満足し合える関係が愛情関係・家族関係・地域社会国家関係であり、そのために不満を少くして満足を多くするために共に思考錯誤・切磋琢磨・協力し合うのが人間関係であり、またそれが人間の本文本性とさえ思っていました。

しかし完全真理を知れば知るほどに己の不完全意識やこの世の不完全さやその不完全な人間関係を知る事になりますし、宇宙・神・愛が望む意識ではないことを知ることからも・・・ その不完全な世の中や人間関係を我が身を持って(骨身にしみて)心に刻み込まれますから、自ずとその不完全意識を持たないような生き方を選ぶようになります。

それでも自他共に同じ不完全意識を持って皆と関わって暮らしているからには不調和が出てくるのも当たり前ですから、それに耐えて我慢して見えないように隠すのではなくて、さっぱり忘れ去ることが肝要になります。
それが執着しないことであり、その為には皆がお互い様であることやお陰様の関係であることを真理で悟り(知ったつもりではなくて)、その実践意識でもって気付き知る事しか有りません。
その為にも(執着の原因になる)強い思いの理想目的を求めないほうが真理に合った生き方になるのです。

★そして「執着」しなければ★自らの意識が囚われ束縛制限支配されなくなって、自らが(他力を使わずして)自力によって(意識・命の自由を取り戻し)自らを助けたことになるのです。
だから良い悪いで判断しないように理想・目的・懸命・努力することでもなく、また良い悪いで判断したことを自責・後悔することでもなくて、良い悪いで判断したその自分の思いに気付くことになれば自ずと執着を持たなくなっていくのです。

★そして不完全意識の自己満足を追求しなくなると★此れまで拘っていた意識が解き放たれ、(意識で生きている人間だから)意識・心の目が開きその分だけ気付きが多く起こる関係から、此れまでまったく気付かなかったアリガタイ・小さな満足を味わい知るようにもなり、それで十分満足できるようにもなります。

だから私のように過疎地で暮らさなくても自己満足の追求をしなければ自己縮小が進むのです。
そして何度も書いているように「失うことを恐れず」に「生きていることがアリガタイ」ことになれば、すべてがアリガタイことに思えるようになっていくのです。
その生きていることがアリガタイと思えるようになるのにも、完全真理の完全と個人意識の人間の不完全意識を味わい知り尽くし悟ることが必要になってくるのです。 それが実践になるのです。

良い悪いで分離判断する不完全意識で非実在の「自己満足」と「不平不満」の繰り返しで生きています。

2010年09月22日 | Weblog
始まりも無く終りも無い永遠の宇宙・神・愛の意識が原因で宇宙・地球・人類の意識体・生命体の形が創造されましたから、その原因が「意識」にあり結果はその「形」になります。
そして形ある人間には生命を持って生きていますが、その原因は宇宙・神・愛と同じく永遠に続く意識・命であり、その人間を成す肉体は(人間に限らず見えるものすべて)時間で形が変化する結果になります。

だから人間は原因である意識によって肉体を使い、その肉体が終えるまでは人間として生き続けることができます。
しかし肉体・形には時間・寿命がありますから、生きたいと思っていても(その意識に関係なく)時間がたてば必ず死ぬ時が来ます。
ところが死にたいと思えば他力を使ってでも自ら死ぬことが出来るのは人間だけですが、その個の思い・意識を使っているからこそ出来ることですから、すなわち人間は意識で生きていることになります。

だから人間は意識を持った意識体・生命体ですから、その姿形が違っていても皆が同じで差はありません。
ところが人それぞれに違った思いを持つことが出来ますから、全ての人が同じ思いを持つことにはなりません。
その個の思いを個人意識というわけです。

しかも個の思いである個人意識には実在しない実態の無いものを有るようにも勝手に思い込むことが出来ますから、現れている一つの事実結果・形を自分にとって良いことか悪いことかで分離判断することも出来ます。
そして自分に都合が良ければ自己満足し、都合が悪ければ不平不満を持つ事にもなっているのです。
すなわち「自己満足」と「不平不満」の繰り返しをしながら生きているのです。

そして皆が同じ意識を持っていながらも個々の思いで様々に生きていることからして、その皆の意識に調和が欠けているのです。
すなわち皆が同じ意識で「すべてがひとつ」の調和で動かないで、個々の自分勝手な思い道理に生きて自己満足し合っているギクシャクとした関係・噛合わない歯車と同じ格好で人間関係が動いているのです。
だから不完全で非実在の不調和・不自由・不平等で生きていることになるのです。

そんな不完全で非実在で不調和の良い悪いで判断した常識や伝統風習や道徳やの見栄や世間体で自らの意識が縛られているのにそれらを大事に守り闘っているものだから、例え我が子・妻や夫・家族と言えども差のある不調和・不完全な形で自由・平等の意識を束縛制限支配されているのも当然なことになります。

その不完全な家族人間関係を味わい知ったことからして如何に調和の意識で暮らすことが大切なことかが自覚できるまでになったのですが、それにしても自他共に不完全な個人意識を持っている限りどんな思いで策を講じろがすべてが不完全な結果になることもいやと言うほど味わい知っただけに、あとに残るのは自分がどう生きるかだけであり、それには自分の思いを持たないことであり、特に強い思い込みを持たないこと、それを主張しないこと、そして自分の思いも他の人の思いにも執着しないで(巻き込み、巻き込まれないように)心静かに生きることで何とか心の安定を保っている状態ですが、それでも己の不完全さは充分に持っていますから、その不完全・不調和が出たときに(それに執着しないために=意識がそのことに支配されないために)何とか気付けるだけの自己縮小の実践意識で暮らすしかありません。

そんな暮らしの中にもやはり自分の思いは出てきますから、それが完全真理やファバラや耕栄さんのことを語り合う仲間内の限られた人間関係の中でさえも不調和・不完全な結果で終わる繰り返しですから、もう人様とは関わらない洞窟の中で冥想して生きる事しかないのか、とさえ思うまでになっていますが、やはり不完全な者同士が接し触れ合うことで更に気付き学び知る事になっていますので、そこで焦らず騒がずに「必然で生きる」「来るものは拒まず去るものは追わず」「執着しない」で成り行き任せに生きることを実践・暮らしているところです。

良い悪いで判断している個人意識の私たちは、その思いが叶う「自己満足」で生きていることになります。

2010年09月18日 | Weblog
私たちは自分さえ良ければの個人意識でもって現れ出た事実・結果を良いと悪いに分離判断して、その良いとこを取って悪いことを排除したがる「良いとこ取り」をしています。
その良いと悪いで分離判断してその良いとこを取ることが出来れば、その思いが叶って自己満足する事になります。

だから良い悪いで判断している個人意識の私たちは「自己満足」を追求することで生きていることになります。

そして互いが自己満足できる者同士が恋愛したり結婚したり親子家族関係を築いたりしていますし、趣味嗜好娯楽に興じたりもしているし、仕事会社関係でも自己満足し合える者同士が集まって形を成しています。
ところが良いと悪いの裏表がある限りは人が集まれば比較競争の優劣・損得・勝ち負けがありますから、自己満足する者がいれば裏で不足に思う者が必ず出てきます。

その不足に思うことになった原因は己の自己満足が叶えられなかった結果ですから、その人に自己満足の思い・意識があったのは確かなことですから、その思いを叶えるための巻き返しを思い考え追求するだけに止まらずにその相手を忌み嫌ったり妬み嫉妬や仕返し復習さえも思い考えていますから(否定反発・立ち向かってきますから)、その覚えがある(同じ個人意識の人間同士だから)自己満足した者にも、またその満足を奪われた者にも同じように心が休まることがなく、いつも不平不満や不安心配が付きまといそれが原因で混乱・波風も立ち続けます。
しかもそれが身近な恋愛関係や夫婦家族関係や親子関係の中でさえ同じことが繰り返されています。

そして自己満足には心を満たす満足はありませんから直ぐに不平不満が出てきます。
その不平不満を満たすためにまた自己満足を追求していきますから切がありません。
しかも比較競争の優劣損得・勝ち負けで負けた者もそこで止まらずに新たな自己満足を目指して追求していきますから、その結果から自己満足できる形の自己拡大がどんどん拡大進化してその文化文明も共に進化拡大してきました。
それが現在です。

今の私は過疎地で静かに「生きる」ために生きていますから、その私の過去の自己拡大を続けてきた過去が全て自己満足の結果だと思い知らされ気付くことが出来たのです。すなわち裏表を経験しているのです。
それでも良い悪いで判断する不完全意識・個人意識丸出しの人間ですから、未だに自己満足で生きているようなものです。
ただ自己満足が如何にお粗末なことかを知っただけに、その自己満足を追求する執着心は薄れています。

それでも不完全意識に変わりはありませんから、今の生活に不平不満や不安心配が少なくても、怒りや嫉妬やその仕返し制裁復讐心やその度を越した破壊意識に至ることも自覚できています。
だから感情的になるとそれが一瞬にして破壊意識になるという人間の怖さ・危険性を(ペット感覚で飼育していない野放しの)犬や猫やヤギらが私の思いを逆なでする迷惑行為が繰り返されたりでもすれば、思わず過激な暴力を振るうこともあることからして我が身を持って思い知らされています。

だから自分の思いが通じないことが如何にショック・不快感を受けることになるのか、また自分の思いが届かないばかりかそれが意に反して思いもよらない悪い結果になればなるほどに(思いを裏切られ)感情が先走ることも身を持って知っています。

だから個人意識の判断から出る不完全な「自分の思い」を持たない・出さないほうが結果的には気楽に生きていけることを自覚したばかりです。
すなわち・・・自分の思いは良い悪いで判断しことから出た不完全意識であり、しかも相手方も同じ不完全な思いを持つ人ですから、その不完全意識かぶつかり合っているのだから決して思い道理にはならないこと。 また例えそれが思い通りになっても一時の自己満足で終わるから、更にその思いを上乗せして自己満足を積み重ねたがること。

そしてその思いを実行したがるのは己の欲があったこと、その思いは自我であること、その思いが個人的な感情の愛情になっても「完全な愛」ではないこと・・・思いを持ってことにあたるより、思いを持っていないほうが自他共に心をわずらわす事にはならいこと・・・だから自分の思いに人様を巻き込まないですむこと・・・すなわち不完全意識からは不完全しか生まれないこと・・・そんな無駄なことをしてまでまた同じ無駄なことを生み出している、その繰り返しに気付き知り自覚するに至ったのです。

とは言っても無意識で動くことは殆どありませんから、過ぎた思いとその過ぎた期待を持たないこと、すなわち拘り執着しないこと。
そうすれば(他を巻き込まずにして)呑気気楽に生きていけますが、それだけでは到底ながら宇宙・神・愛の完全意識になるのは無理だとは分かっていますから、その呑気気楽を生かした実践意識だけは我が身が死に至るまで持ち続けることは決心できています。


真理を知ったつもり、実践しているつもり、でも実際に味わっていないから真実を知らない。

2010年09月16日 | Weblog
耕栄さんのように一度完全意識になれば、例え一時不完全意識が出ることはあっても直ぐに完全意識に戻れることから、二度と不完全意識に逆戻りすることは無いと言われています。

それと同じく完全真理の実践で「原因の真実と結果の事実」に何の矛盾も無い完全さの一つでも自覚・悟ことが出来さえすれば、まだ未熟さゆえにその不完全意識が出ることがあっても、その一つの悟った真理を二度と否定反発することにはなりません。

だから完全意識で言われるところの「良い悪い」の判断を持たない実践で確かに不平不満が出てこないことを悟れば、その良い悪いで判断する事があっても、その良い悪いで判断した事に「気付く」ことで自らが悔い改めることになりますから、その不平不満にたいする拘り執着が消えて穏やかな心・意識に戻ることが出来るようになります。
・・・自らが悔い改めることで他の人の性ではなくなりますが、それを他の性に思うと頑固執着して重荷を背負うことになります・・・

またその不平不満に拘り執着する事があれば、その不平不満が更に不安心配や怒り嫉妬や破壊意識になることに「実践・意識で気付く」ことでそれらを身をもって自覚・悟る事になりますから、その完全真理の説く真実を知り、何の矛盾も無いことに確信が持てるようになり、その真理の理解とその実践に更に自信が出てくるようになります。

ところがその為には常に完全真理を意識した実践意識で生活していなければ、この世の不完全な人間関係が原因の苦楽苦悩に意識が支配されてしまったり、忙しさのあまり自分の都合ばかり優先することになったりして真理や実践のことなど忘れてしまっていると、自分の都合で判断した思い・自我・エゴが出ていることにもなかなか気付けませんから、実践しているつもりでも実践していないのです。

その実践意識でいられない原因が先ほどの自覚悟りに至っていないからですが、中には家庭生活と仕事と真理を別物にしている人や、仕事と実生活に実践意識が活かされていなかったり、ただ知識だけを溜め込むだけで実践意識が乏しい人もいるようです。

しかしそれでも完全真理と関わっている意識がある限り未だ大丈夫です。
そして未熟なだけに喜怒哀楽や生老病死や自己満足や自己主張・顕示やの苦楽・裏表を大いに味わうのもこの世の人間としての役割必然ですから、その裏を大いに味わい尽くすことでやがて気付きが起こり表の完全真理が説く真実・事実が確かなことになれば無駄にはなりません。

ただそれが早いか遅いかだけですが、遅いより早いほうがそれだけ不完全な世の中やその人間関係に浪費する時間の無駄や金銭物質的な無駄や肉体・精神体・感情体に使うエネルギーの無駄が減り、その分だけ心が安らか軽やかになります。

また奇跡を成してみせる耕栄さん頼りやそのファバラ頼りの人や仲間内で比較競争している人でも、その耕栄さんや真理やファバラに関わっているからには(宇宙・神・愛のエネルギーがどんどん高まっていることから言えば)まだ大丈夫です。
・・・多分ですが・・・宇宙船耕栄丸にしがみついているからには・・・意識改革・リセットにつながることになる己に起こる真坂の有事の際にも何とかその荒波を乗り越えられるかもしれません。

しかし否定反発・不信感から真理を離れた人や良い悪いで判断する事が正しいと思っている人には無理が生じます。
また現代医科学頼りや信仰・神頼みの他力本願崇拝では少し無理があるようです。
また生きる価値を見失った自殺願望の人やうつ病・精神病や薬物依存症・アルコール中毒の人には到底無理です。

とは言っても意識改革につながる気付きは突然起こる事もあることから望みはまだあります。
だからせめて人間の肉体から意識・命・魂と言われるものがあの世へ離れていくその時までに確かな気付きが必要です。
それも、あの世とやらの意識の世界では喜怒哀楽・生老病死も趣味嗜好娯楽や衣食住や時間(過去・未来)が無いことから言えば、それだけ宇宙・神・愛に対する真実の「新たな気付き」が起こる要因・原因が少ないからです、

すなわち人間に生まれたからこそ味わい知る事の出来る、その原因意識とその結果を味わい知ることの出来る形・偶像の無い世界ですから、あの世に行っての後悔や未練や執着があっても、あの世で新たな気付きが起こることにはどうやら無理があるようです。
だから知らなかったことを新たに気付くために何度もこの世に転生してきていると言われるのも確かなことになります。

だから人間として生まれてきたからには色々と実践・行動して実際に味わい知り気付くことが真実・事実を知ることになるのですが、頭・知識で判断しての「思い」「想像」では実在ではなくなりますから、実在ではない非実在から真実事実を知る事にはならないのです。
またその真実事実を知らないから更に思い想像することが多くなり、その知らないことを「信じるか否か」になり(一つの事実が二つに分かれ)それを信じることで鵜呑み妄信する事になったり、反対に否定反発排除や不信感を持つ事になることから、いずれにしても真実・実在を知らないままに生きることになるのですが、私たちはこの場合が最も多いようです。

しかもその真実・事実を「良い悪い」で分離判断すれば(一つが二つになり)真実・事実が不確かな不完全になります。
すなわち思い想像の「非実在」でしかも良い悪いで分離判断した「不完全」な意識で生きているのが私達なのです。
だから「知った」つもりが知らないことであったり、「信じる」中にも不信感があるのですが、その知らないことを信じるその思い込みが強すぎると意識が支配され、他者暗示の洗脳や自己暗示の妄信となりますが、その思い見込みが事実・実在ではないことから皆して困ったことになっているのです。

また不完全を見極められなければ、世間的に認められたことが「正しい」事に思い込むのが私たちの集合意識の中にありますから、その世間で認められ常識化されたものやその伝統・風習・道徳などの形で知らない間に洗脳や盲信と同じように意識を束縛支配されていることに気付いている人は少ないと思います。
その際たるものが特別な神や愛の矛盾・不完全さや主義主張の正当化・正義や思想哲学宗教思想の不完全さがあります。

だからこそ「完全真理」を学び知りそれを実践して真実・事実を知ることが大切になってくるのです。

「困って」苦しむ悩むのは自意識過剰・執着・自我・エゴによる自分勝手なものです。

2010年09月13日 | Weblog
人間は意識で生きていますから、その意識が原因で様々な結果・形が現れています。
しかも人間は良い悪いで判断した自分の思いを優先する自分さえ良ければの個人意識を皆が持っていますから、自分の都合が良いことは取り入れても都合が悪いことは否定反発排除したがります。

また自分の良いところを人様に見せたがりそれを認めてもらいたい思いを持っていますから、それが好きな人だったり信頼尊敬からあこがれている人だったりすると、なお更に自分を良く見せよう良く思われようと外見を整えたり気配りしたり親切心を出して見せたりして、それらの人に好かれようと頑張り努力することにもなり、その結果から互いが満足し合える関係になれば身近な人としてお付き合いのご縁が始まります。

それが恋人関係だったり師弟関係だったり職場関係や交流関係に見られますが、ところが両者互いが満足し合えなくなればその関係に支障が出てきたりして長く続かなくなります。 それが夫婦家族や親子親戚関係でも同じです。
しかし良く思われよう良く見られようと努力しているうちの「満足し合える」関係が維持できている内は何とか長続きするが、その思いも人様々ですから必ずしも絶対的に満足し合える関係ではありませんから、その関係も不確かなものになっています。

その不確かな関係・不完全な関係・不調和の中で暮らしているのが私たち個人意識の人間です。
それを知ってか知らずか、いずれにしても今の自分に「都合が良い人」なら何とかして好かれよう気に入られよう認めてもらおうと努力・協力することは怠りません。

それが特に身近な恋人や夫婦や親子関係であれば互いが満足し合える関係を保つために努力を惜しみません。
だからそれが衣食住や財であったり趣味嗜好娯楽であってもその満足を叶えようと頑張り続けます(私もそうでした)、ところがそれら自己満足は切がありません。
それでもその満足を与える事が愛情になっていますから、様々なことで気に入られるようにと次から次と何とかしながらも完璧なまでにその愛情を注ぐ人も居ます。

だからその満足し合える関係を壊そうと邪魔するものがあるとそれらと闘って守るための見えない壁も必要になります。
それが常識だったり伝統風習や道徳と言うような見栄や世間体の形・壁で否定反発排除することになるが、それが結局は自らを束縛制限しているのです。

それが自己満足し合える恋心・愛情であり、しかもその恋心・愛情によって自らの自由を失っているというわけです。
しかもその恋心や愛情とやらで関係・形が次第に変化拡大(恋人・夫婦・親子・家族)してきたはずなのに、ちょっとした不調和・不信感から裏が出る裏切り切捨てがあるのも不完全な人間関係だからです。

ところで「苦楽を共にして」「共に協力し合う」ことも大切ですが、それによって互いの自由を束縛制限支配するようになればそれは不完全な協力関係ですから不調和(不足・悩み・苦・不信感)が出てきて長続きしません。
だから此れまでの努力が報われずに水の泡となって消えることに気付きますが、しかしこれまでがんばり続けていただけに・・・そんな結果になれば見栄・世間体・プライドからも、また優劣の劣や損得の損や負け犬に思えることからも、その言い訳・正当化や妥協したりしながらも、また裏心・偽りを隠してまでも、また不調和であることを誤魔化してでも、また自分の都合や依存心からも、共に歯車が噛合わなくても、また自力の少ない自分の為にも協力し合いながら共に生きることを望む場合もあります。 

そんな不完全な協力関係をいくら強固に築き上げていても、その形関係やその意識関係の崩壊がいつの日か必ず来るのです。
そこで<アリガタイ>「お陰様」「お互い様」の調和のある完全な協力関係で皆が共に生きる実践を求められているのです。

また生きている事が<アリガタイ>ことだと知れば本当に困る(苦悩)こと、「真に困る」ことには絶対なりません。
それが例え死に目に遭う様なことであっても・・・(死ぬ時が来たら死ぬだけのことですから)(生まれたからには死ぬのは当然のことですから)(死ぬのが早いか遅いかだけのことであって)・・・特別何ら困ったことではなくなるのです。
・・・その死さえも困ったことでなくなれば・・・<困ったと思うものの全が困ったことではなくなり>・・・己の不平不満・不安心配恐れの自意識過剰の自我・執着や欲得損得の過ぎた欲やの自分勝手な思惑や都合やエゴで悩み困っているのだが、それら自分の裏を隠すために言い訳・正当化・理由付けしていることに自らが気付きます。

だから私としては・・・不完全な己の判断・思いから人様の事に口出し手出しすることが親切心からであっても、その殆どが(互いの思いの歯車が噛合わずに)余計なお世話やお邪魔虫や無駄なことにもなりますから、気心が知れた人や身近な家族親戚関係の人であっても何かと思い止まるようになりました。
だから申し出があったときや何らかの必然・ご縁があったときにしています。

ところがその申し出やご縁の多くが、その人の自力を使わずにして(自分の勝手な都合や生産性の低いことや面倒くさいことから逃げたくて)他力を使いたがる人が多いのも事実です。
それでも私が暇で退屈しているときが多いだけに、その申し出が苦とはならずに出来る限りのお手伝いをしていますから、それが人の為にもなり自分の為にもなっていることからして、わりと気軽な気分で役割を果たすことが出来ています。

またその為にも、まず自分が困ったことにならないように常日頃から自力を多く付け、その自力を多く行使するためにも・・・不完全な人間関係に巻き込まれて無駄な時間や意識エネルギーを浪費する事が無いように注意して、どうでもいいような余計な重荷を背負わないように身軽に振舞い・・・その心身ともに軽やかに自由勝手・呑気・気ままに暮らすことで何ら「困った」ことにならないから、それが私には好都合なのです。


善悪優劣損得で判断した良いとこ取りには「ありがとう」があっても「アリガタイ・お陰様」が無い

2010年09月10日 | Weblog
自分の都合が良いことばかりを取る「良いとこ取り」には善悪優劣損得で判断したその差を欲しがったことですから、その差を得て喜ぶ自己満足の「ありがとう」の感謝はあっても、心からしぜんと出る無差別な「アリガタイ」の気持・感謝の心はありません。

ところで人が死にそうになると最高の医療や延命処置で少しでも長く生きていたいと思うように・・・
だから死が身近になると重病人であっても「生きていることをアリガタイ」と思うようになりますが、健康で生きているときは生きていることをそんなにアリガタイとは意識していません。

それと同じく病気になったときに健康のありがたさを知りますが、その健康なときにその健康がアリガタイ事に思っていませんから何かと不健康・不完全意識で生きています。 そして病気になれば医者や薬に頼れば良いと軽々しく思っていると、それが他力依存心だけに尚のこと自力である健康のありがたさを自覚していません。

ところが内心では病気や怪我をしたくない、まして死にたくないから病気や怪我や死を不安がって恐れています。
それなのに一方では私は大丈夫と思って無茶もしていますから(相反する矛盾で生きていますから)、現実に怪我や病気や死にそうになるとその結果と原因を悔やむ後悔や未練執着で意識が縛られて支配されていることからも、今生きている事がアリガタイことだと思えませんから、何かと不足・不平不満も出るしその先々の不安心配が出てきます。

ところが本当に生きているだけでも「アリガタイ」ことだと気付けば(アリガタイに良いとこ取り意識は働いていませんから)・・・その生きるために関わる諸々すべてが「アリガタイ・お陰様」になります。 だからたとえ死にそうになっていても、生きている限りはアリガタイ・お陰様に接し触れ合っていますから当然「すべてがアリガタイ」ことになり、そのアリガタイ・お陰様で人は生きていることになります。

とは言っても「良いとこ取り」したがる個人意識を持った私ですから人様に対するありがとうがあってもすべてがアリガタイとはなかなか出てきません。
それでも生きていることのありがたさや健康のありがたさや、その生きるのに必要な衣食住にも何とか恵まれていることのありがたさや、余計なことで人様に干渉されない自由気ままな孤独のありがたさも味わっていますから(それだけで十分満足していますから)、あれこれと欲しがる事もどんどん減ってきたおかげで金銭物質や人間関係にあまり頼らななくても気楽に暮らせる「呑気な」生き方になっています。

その呑気さゆえに先々の怪我や病気や老後や死もその死後のことさえも(余計なことを)あまり考えていませんし、(完全真理のお陰様で)それらから守り戦う必要性も無くなったので、それらに関わる多くの他力を必要としない生き方を決心することもできました。
またそれだけに自力を多く使うことにもなるので健康に生きていることにはアリガタイの気持ちがありますし、この先死に至ることになっても不完全なこの世の形やその人間関係に思いを残すような未練・執着・後悔も無くて、いたって気分はさっぱりしていますから・・・(現時点では)あの世の意識の世界に不安も恐れもありませんし、それよりも知り尽くした不完全なこの世とは違う「まだ知らない」死後の意識の世界を実在で知る事が出来ることに関心・意識があります。

そして私が不完全意識のままに人間の肉体を終える事になれば、その意識はそれ相当の相応しいところの意識次元でいることになるが、宇宙の法則(終りと始まりの)リセットによって完全意識(概ね8次元)の地球が新たに創造されたときになれば、私はその完全も相反する不完全意識のことも熟知していることから思うには、(もしかしての捕らぬタヌキの皮算用ですが)その新たな地球人類として転生する事が出来るかもしれないと、完全意識エネルギーのファバラ愛用と併せて一部の望みを持っています。

その為にも・・・わが身の死に至るまでファバラを愛用しつつ完全真理の実践意識ですごしていたいと思っているのですが・・・
自他共に不完全な世の中人間関係だけに私の自力に似合った確かな思いをもって動いても(例え真理やファバラの口コミ働きかけであっても)(またそれが妻や肉親家族や身近な人であっても)他の人様の意識のことは(釈迦やイエスや耕栄さんといえども)「どうすることも出来ない」ことを熟知しているし、それなりに体験経験を積み重ねているだけに「来るものは拒まず去るものは追わず」の成り行き任せに生きることで平穏無事に過ごしていますから、対外的な事と言えば一日二回の計四時間の牛のエサやり20日間のバイトとブログ書き込み以外あまり余計なことは差し控えております。

だから何せ暇で退屈な時間が多いだけに、その時間を(生産性の高い)如何に生きるかではなくて、(生産性の低い)その時間を如何にして過ごすかにかかっています・・・だからこのブログ書き込みがその時間つぶしにあたります。

自分の強い思いが先立つと間違いが間違いではなくなり、その実践が不完全なことに気付かない場合もある。

2010年09月07日 | Weblog
完全真理を説く耕栄さんの講演会に参加していたときのことですが、(味かくし・ひとしず氣の発売前)耕栄さんの意識エネルギーを入れた米の汁を即席で作ってきたので、それが欲しい人が(耕栄さんのエネルギーの価値を知っている人たちが)われ先に壇上の前に集まったのですが、それが大勢だったのでジャンケンで勝ち残った人たち数人が少しだけ飲めることになりました。
一見当たり前のようですが、我先に欲しがる人は奪い合う意識が出た事になりますし、ジャンケン勝負は勝ち負けの競争意識が出た事になり、その結果の勝った負けたの差・優劣損得が出てきます。
ところで・・・誰一人と耕栄さんの前に集まらなければ反対に耕栄さんが皆の前へ来て与える事になります・・・

その事を実践真理で言えば、欲しがらずに「与えられるまで待つ」こと、そして与えられなければ今は自分にとって必然・必要ではなかったこととして素直に事実を受け止めて拘り執着しなければ、それが原因で気をもむことにもならず、また選ばれ与えられた人を羨んだり嫉妬せずにその場限りで終わりますし、また欲しがらないで「ただ待つ」という無欲の精神力(忍耐力ではありません)が養われたり、そういったエネルギー・物質面に頼らない精神力・自力も付いてきます。

またラジオ放送の「裏の無い10分の時間」の番組で、耕栄さんと出演者が対談した内容を記載したHPをスタッフの人が運営していたようですが、これまで対談した人の実名とその記念写真も記載登載されていましたが、その記念写真に限っては知名人ばかりでしたから、有名無名で判断して差を付けた事になりますので・・・不完全な余計なことをした事になります。

また関係スタッフのミス・違反行為なのか(耕栄さんが社長になる以前の所得隠しが発覚して)脱税容疑で耕栄さんが困ったことになったときには、耕栄さんを命がけで守っているスタッフが何で耕栄さんを裏切り違反行為の問題を起こすようなことは絶対ありえないからと、それはきっと国家権力を使った圧力団体の策略・陰謀だとマジで信じていた人もいるようです。
・・・そういう人がいるとカルトに思われる原因になります・・・

と言うように「自分の強い思い」が先立つと間違いが間違いではなくなったり、その実践が不完全なことに気付かない場合もあるのです。
また良かれと思った事が裏目に出るのがこの世の不完全さであり人間関係の不完全さでもあり、それが原因で(その思いを)裏切ったや裏切られたと言うことにもなります。
それだからこそ現れた結果・形に意識を奪われるのではなくて、ただ事実だけを見ながらその原因意識を知る事になれば実践に役立つことになります。
また現れた結果はもう過去ですから元に戻すことは出来ません、それなのにその問題に執着すればするほど更に問題が広がり混乱が増していくだけです。 だから余計なことをせずに(着かず離れず)その成り行きを見守ることしか出来ないのです。
・・・それを薄情とか恩知らずとののしる者がいても、それも不完全な者が自分の思いを言っているだけです。

その点は私も同様ですから、私の思いで良かれと思っても結果は違った事になることは多くあります。
またその良かれと思ってした事がその時は都合よくいって自己満足することもあるが、その結果は刻々と変わるのがこの世の常ですから、自分が関わったことからその先々まで気をもむ事にもなります。

それがこの世の不完全さであり、不完全な人間関係が原因にあるからです。
しかも身近な恋人や夫婦や親子家族両親の関係や仕事関係でも同じですから、常に悩みや心配ごとがあって心が落ち着いている暇さえありません。

この世のすべてが不完全なのは皆が持つ個人意識にありますから、何をやっても不完全な結果しか生まれません。
そして自分優先の個人意識から出た結果に満足しても、それは一時の結果ですから変化しても当然ですし、しかもすべてが自己満足になります・・・(注)生きている中に自己満足も必要ですから否定ではありません。

ところが己の思いが入っていない「思いがけない」結果が出て喜び満足する事になれば自己満足にはなりません。
また人様から思いがけない感謝をされたときは、その感謝をされることを思ってもいなかった予想外のことですから、その感謝の心を素直に受け取るだけに終わらずに、思いがけないだけに自らの心の中にも同じような喜び感謝の気持ちが湧き出てきますから、互いが感謝・愛のキャッチボールをしたことになります。

すなわち、さりげなく出たことには思いがこもっていません、それだからこそ「思いがけない」事になるのです。
ところが強い思いがこもっていると理想目的になり、その思い通りになったとしても、それを概ね予測してやっていただけに自己満足になっても「思いがけない」ことにはなりません。 しかもそれに反して、その思い通りにならずに拒まれたりでもすれば、それこそ思いがけない結果に気分を損ねることになり、その相手に不信感・反発反感を持っことになったり、(己の勝手な)期待を裏切られたことにもなり、その恨み辛み嫉妬から、そのあだ討ち仕返し制裁の復讐までも考えることになります・・・ただそれが大きいか小さいかの違いだけであって誰もが持っている心・意識であり、それが個人意識と言われるものです。

そんな不完全な世の中だけに、その人間が成す人目に触れるような大きなことには必ず不完全が隠れているのです。
それとは知らずにいるから(理想目的を持って)人助け人救い・慈善奉仕・布教活動・援助救済活動やその募金や何らかのプラカードを持ったり署名活動などで目立ちたがることにもなるし、それを見て参加集まる人やそれらを真似たがる人も出てくるのです。

例えばインドのガンジーが無抵抗で行進した事例が好評を得ていますが、任意であっても大勢集まれば抵抗・組織になるし、その大勢で行進するのも目立たせる必要があってのことですが、真理から言えば特別なことをしたがる(差を付けたがる)特別意識の不完全な人になるのです。
だからガンジーが偉大な人に祭り上げられることになっても(大きなことは解決が難しいから)世情はいつまでも混乱が続くのです。

だから自分の思いを遂げるために尽くしていても(理想・目的を持って動いていても)、その自分の意識の中に火の粉が降っていることに気付かずに対岸のよそ様の火事(心配ごと)を見ていたり、その火消し活動(問題解決)に加わっているようなもので、身近な小さな事に意識が行かないで他の大きな事に意識を奪われ縛られていることから(執着しているから)、尚更に身の回りの小さなことに意識が行かないようになるのです。

だから「小さな事(火種)が解決できないのに何で大きな事(火事)が解決できるのか」とその矛盾を指摘することになり・・・
その「小さな問題」不平不満が無くなればそれが原因で起きている大きな問題は自然に消えていくことになるよと・・・
誰にもわかり易く説明してくれているのが完全真理であり、何一つ矛盾の無い完全な答えで教えてくれているのです。、

そして私たちは不完全な意識を持った人間だから、人様が成すことも自分が成すことも不完全な結果になるのです。
その原因が「個人の思いから」起きている結果だからです。
すなわち不完全な人間だけに、その個の思い・判断の中に真実・愛は無くて、思いがけない中に真実・愛が隠れていたりするのです。
だから真理で言うところの<判断>すなわち<思い>を込めない(成り行き任せの)「あるがまま」に生きることを説いているわけです。

だから自他共に皆が不完全意識であることの基本を自覚しての実践意識でいなければ、いま見えているうわべだけを見ることが多くなり、その裏に隠れている不完全さの気付きが少ないことからも、どうしても自己縮小の自覚・実践が難しくなるのです。

実践意識でもって「知らなかったことを知る」それが自己縮小の実践につながる。

2010年09月03日 | Weblog
若いときから好奇心旺盛でしたから(物質的な)目新しいことばかり追い求めてきた私ですが、それがいつの間にやら医科学を超えた奇跡現象・異次元・テレパシー・オーラ・波動・宇宙エネルギーといった「見えない世界」全般を広く浅く知ることにもなり、それがやがて本格的な想念・精神世界に足を踏み入れることになったのも、知らないことを知る面白さ楽しさがあったからですから、まったく神仏に対する信仰心や特別な人を崇拝することも、また霊力霊感と言ったものに特別視することもありませんでした。

またその「知らない」ことを<信じるか否か>ではなくて、その事実が有るのか無いのか確かめたがるタイプでしたから、事実・真実を説く完全真理に否定反発も違和感さえもないまま素直に受け入ることができました。
そして完全真理を理解すればするほど「すべて」を教えてくれていることから、もう他の事に手を出す必要も無くなったのです。
と言うのも、まだ未熟ながらも私の中では(過去の経緯を含めて)すべてがつながり完結しているからです。

ところで・・・生まれながらにして神・愛の完全意識を持っていればその裏の不完全意識をまったく知りませんから、当然ながらいま持っている完全意識のありがたさを自覚していません。
例えば・・・アダムとイブの昔話になりますが・・・そのアダムとイブが生まれたての時は二人とも神の子として神・愛意識の完全意識でしたから、今の人間のように良い悪いで判断していなかったのですから何の問題もいっさいなくて、比較競争の無い自由・平等・調和のある世界で至福を味わいながら幸せに暮らしていたはずです。
ところがヘビの化身から誘惑されてリンゴを食べたときからどうやら人間臭くなったような話ですが・・・あらゆる万物・宇宙と意識が通じ合いながら衣食住・生老病死の心配もせずに喜怒哀楽も無く二人して至福の時を過ごしていたのに・・・何でリンゴを食べて人間らしくなる必要があったのでしょうか・・・なんか変に思いません。

人間が成りたくても到底無理がある神や愛の意識・完全意識を失ってまで、なぜ矛盾のある不完全な人間意識になりたかったのでしょうか・・・ たぶんそれは「神の子は」神の事しか知らなかったから、その神以外のことを知りたかったのではないでしょうか・・・
例えば南海の孤島で男女二人が生まれながらにして自由・平等・調和のある暮らしをしていても、その男女にしてみればそれが当然の当たり前ですから、幸とも不幸とも良いとも悪いとも思っていません。
しかし、まだ自分たちがまったく知らない孤島・別世界があって、その世界では自分たちとは違った意識で素晴らしい生き方をしているのではないのかと、(未知なるもの)知らないことを知りたがります。
それと同じように、神たちも「神の知らない世界」すなわち(次元の低い)人間界を創造して神以外の次元の意識がどんなものかを確かめ知りたかったのではないでしょうか・・・

それを言い換えると・・・完全な神が不完全な人間・意識を味わい知ることで、(これまで当たり前だった)その完全な神意識の「完全の価値」「愛の価値」を確認・自覚することになります。
また反対に生まれながらにして不完全意識の人間が知らなかった完全な神・愛の実在を知ることで、その神や愛意識の人間(意識体)になることの素晴らしさや大切さを自覚するようになります。

それをさらに言い換えると・・・矛盾のある不完全なこの世の中の不完全な人間関係を十分に味わい知ったからこそ、その者がその不完全意識を無くしていく実践の中で神・愛・自由・平等・調和を(少しずつでも)味わい知ることになれば、その実在する完全な神や愛の素晴らしさや自由・平等・調和の大切さを自覚する事にもなりますから、たとえ未熟であっても実践意識を持ち続けることが可能になるのです。

すなわち・・・神も人間も互いに「知らなかったことを知る」事になります。
そして・・・神も人間も今まで知らなかった「当たり前」の素晴らしさやありがたさを知ることになります。
更に(人間側からしてみれば)・・・その神も人間も元は同じ意識体だったことを知り、すべては「ひとつ」を知ります。

そんな不完全も完全も知った者が例えアダムとイブのようにこの世で二人きりであっても、互いが不完全でなければ互いの思いの歯車が調和で動きますから、俗に言うツーカーの仲ですから一切の問題は起きません、だからお互いが当たり前のようにただ一緒に居るだけで満足し合えるのですから素晴らしいことになります。
すなわち裏側の不完全意識の人間関係を十分に味わっているからこその調和の人間関係が大切なことであり素晴らしいことになりますから・・・やはりその完全と不完全の「裏表を知る」必要があったということになりますし、宇宙始まって以来の不完全を知った完全な意識体が多く誕生する事になるかもしれません。

それにしても現在は不完全な人間関係ですから歯車がうまく回転していません。
だからせめて(未熟同士であっても)完全真理によって不完全を知りつくした者同士であれば、お互い様・お陰様で認め合うことも出来ることから、否定反発・不信感や未練執着の無い平常心で接し触れ合うことが出来ます。 だからせめて未熟な不完全同士であっても、互いに分かり合える・認め合える関係でいたいものです。

そして人間は(あの世でもこの世でも)意識で生きている意識体ですから・・・今まで「当たり前に」思っていた人間として<生きている>ことの<ありがたさ>に気付けばそれだけで十分・満足になりますから、その生きるため以上のものを欲しがる欲も次第に消えていきます・・・・すなわち自己縮小が進み・・・衣食住や生老病死や喜怒哀楽や趣味嗜好娯楽・見栄や世間体・常識伝統風習道徳も比較競争差別も無い<あの世・意識の世界>に戻っても、それらに拘る未練執着後悔が無ければ(あるがままにある当たり前の)宇宙・神・愛の流れのままに任せた健やかな意識のままにすごせるのはどうやら間違いないようです。