孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

家族・人間関係の絆が消えて"無縁社会"ニッポンと言われていますが・・・

2010年01月29日 | Weblog
古くから先祖を敬う伝統風習があったり、その先祖や今の両親に感謝することも言われていますが・・・しかしそれでだけでは片手落ちの感謝になります。 また個人的に恩を受けた人に対して感謝して恩人と思い尊敬するのも結構ですが・・・しかし自分に都合が良かったことだけに限られる恩や感謝や尊敬の気持ちであれば、それは他との差を付けた特別・差別意識になると思っています。

すべてが「ひとつ」ですから・・・万物すべてに感謝する意識、すべてにアリガタイと敬う意識を持っていれば・・・方手落ちの特別・差別意識の不完全意識にはなりません。

そして「特別・差別意識」には必ず制限束縛が付いてまわります。
だから・・・あれは良いが此れは悪いと・・・他から口出し指図・評価されたり、また自らが評価判断したりして、何かと不都合・不自由な思いをしているでしょう・・・ 
それが「私は正しい」の集合意識から生まれた常識であったり伝統や風習や道徳や教育・医科学・芸術文化なのです。

その束縛制限された差別意識や特別意識が正しいとされ、その特別な差のある意識が正しいとされて生まれた潔癖・完璧・正義が更に正しいとされ、それに反するものは外敵・悪者に思われ、これまた制限束縛されていますから、その良いと悪いで判断している限り何処にも自由・平等はありません。

だから人間関係の「絆」も良いと悪いで判断されていますから、不完全な矛盾と差のある不平等な絆、束縛制限された不自由な絆で結ばれている人間関係・社会国家関係になっています。
だから「無縁社会」ニッポンと言われるのも・・・原因が結果になって表れた、成るようになっただけのことですから、その原因意識を変えない限りもはやどうしょうもありません。

だから例え問題解決の手立てを思考錯誤し対処しても・・・誰かに都合が良くて誰かに悪い、誰かが満足し誰かが不満に思う・・・その不自由・不平等の不完全な結果しか出てきません。

だから今の人間関係・絆で持って全面的な解決はできません。
皆の不完全意識からは不完全な形・結果しか生まれないのです。
だから今の人間関係・社会国家の集合意識では何をやっても無理なのです。
・・・まだまだいろんな問題が吹き出てきて更に混乱が拡大していく結果しか生まれません・・・

だからそんな不完全な集合意識である社会の常識や伝統風習・道徳に束縛制限支配されることもありません。
また良いとこ取りして悪いものを除く不完全で矛盾のある医科学・教育に期待することもありません。
すなわち・・・不完全からは不完全しか生まれないのです。
だから・・・その不完全な形にあまり依存しない生き方を選ぶようになるのです。

そして「完全真理」を学び知って・・・自らの意識を自力で変えていくしか生きる道は残っていません。
すなわち「この世」の世間・家族がどうであれ・・・自らが良い悪いの判断に執着しなくなれば・・・いつも心穏やかに自由に生きることができるようになります。

また不平不満が無ければ不安心配・恐れも無くなり、あらゆる有事に動揺することが無くなります。
また誰に気兼ねなく思うがままに自由に生きることで苦悩が消えて笑顔が戻り、感情的になることが減り(自らの感情に自らが支配されなくなり)、こだわり執着や未練がなくなり・・・それが元で心にゆとりと優しさが少しずつ戻ることになり、それが他との差を意識する差別意識が次第に消えていくことにもなります。

また心・意識が安定してくると・・・自力を使うことが多くなり、(過ぎたもの)多くを求め欲しがらなくなりますからその分だけ苦労・苦悩も減って行きます。
その結果・・・更に自力が磨かれて、あまり世間・家族・親戚に面倒・心配をかけなくなります。
すなわち・・・私のエゴで世間や家族を巻き込んだり、その世間や家族のエゴに私が巻き込まれることにもなりませんから・・・その関係の絆や意識が自由・平等になります。

すなわち・・・しがらみ・見栄・世間体・常識・伝統・風習・道徳などで束縛制限支配することが無くなり自由平等なのです。
そして・・・どうしても助け合う関係・必然が生じれば・・・(自分に出来る可能なことを)互いに出し合うことになるが・・・それ以上の特別な過ぎた無理をしないことが・・・結果的には自力を磨くことになったり、それが信頼・絆にもなるのです。

・・・特別な特定の人に限られる優しさ思いやりは・・・すべての愛・宇宙の愛・神の愛ではなくて・・・条件付の裏心のある自己愛・偽善の愛ですから・・・その結果、互いの思いを裏切ることになる裏切り関係になるのです。
だから・・・元から「特別」が無ければ問題にもならないのです。

そんな特別な愛、特別な感謝、特別な尊敬、特別な信頼、特別な絆、そんな差のある(裏のある)特別を「正しい」と錯覚勘違いしているのが我々個人意識の人間です。
だから・・・人間としての悩み苦しむ苦悩、人間としての修行が繰り返しされるのです。

それを今回で終わらせるのが「完全真理」です。

いつの間にやら始まった過疎地での気楽な「お一人様」生活が10年目になりました。

2010年01月17日 | Weblog
このところの寒波で炊事場の汲み置きしている水が分厚く凍りついたり、山水を引き込むボースの凍結予防にチョロチョロ流している蛇口の水が小さなツララになり、その流し台の中は一面に凍りつき、食台の上においている牛乳や野菜ジュースがシャーベット状になったり、ボトルのお茶が凍り付いて出てきません。

そんな冬場の生活でもホームコタツと足温器や電気毛布を使う程度です。
お風呂はほぼ毎日ですが、間伐材の杉やヒノキや竹を燃料にしています。
瞬間湯沸かし器や電気保温ポットや電子レンジはありません。
暇だから急ぐ必要も無いし、住む所を暖かくすると野外が寒く感じることからして、寝るとき意外は野外同様の防寒着で日中はすごしています。 だから野外に出るのも苦になりません。

それも自分一人だから出来ることです。
しかし妻や家族と生活していれば不平不満が出て不可能になります。
それが生活様式・スタイルだけの問題ではありません。

誰か一緒に居れば自分勝手に過ごす事が相手の迷惑にもなるのです。
だから「気遣い」「面倒見」しなければなりません。
それが夫婦・家族の絆とは思っていません。 
誰かが無理をしたり我慢することが人間の絆とは思っていません。
だから「お一人様」で居られるわけです。

優雅であれ質素倹約であれ自分一人なら問題ありません。
不精であれ几帳面・潔癖症であれ自分一人なら通用します。
誰に気兼ねなく趣味嗜好娯楽に興じることができるのも「お一人様」なら出来ます。
世間体・見栄・常識・伝統・風習・道徳・しがらみを気にしなで暮らすにも「お一人様」なら出来ます。
喜怒哀楽や生老病死を気にしない生き方も「お一人様」なら出来ます。

それも皆が居るから「お一人様」でも生きていけるのです。
その「お一人様」も皆と一緒です。離れていません。
だから特定の人が側に居るか否かで「お一人様」が決ることです。

その特定な人との信頼関係があればそれも長続きしますが、その信頼関係も自分の都合の信頼関係なのが今の我々です。
だから不平不満や不安心配・不信感を持っているのです。
だから有るようで無い不完全な信頼関係でつながっています。
それを人間同士・家族の絆とは思いません。
・・・自分中心に生きているのが私達ですから・・・

しかし困ったときに助け合う人間関係・絆は必要です。
それが「お一人様」であっても助け合うことは出来ます。

しかし普通に生活している中で真に困ることは限られます。
だからその多くが自力を使わないでおいて、他力依存性で自分勝手に困っている状態が殆どです。
また「お一人様」と違って特定の人が居ることで自分の都合が良くなり、その存在が頼もしく思う人は・・・すなわち自分に無いものを求めているわけですから・・・ゆえに自分に自力が少なくて不安心配が多く、その分だけ余計に他力依存になっています。

だからその多くはお金を使って人を動かせば何とかなっています。
だから助け合うためにお金は有り難いものになっています。
だからお金があれば死に掛けていても助かることがあります。
だからお金が無ければ困るのがこの世です。

そのお金とはまったく無関係な精神面で困っているのであれば・・・その原因である自分の意識を自力で改革しない限りどうにもなりません。
その自力を使わないで他力の神仏信仰祈願や、またお金を使って精神科に頼っているようでは(一時的に改善されても)自らの根本原因は変わりません。

普通の生活をしている場合・・・お金が少なければ自力を使うことが多くなりますから、その分だけお金に困ることが減ります。
そしてお金を使うことよりも・・・何とか自力を使って生きること考え、その自力を出し合って互いに助け合うことにもなります。
だからお金に束縛された互助精神や経済主導型とは違う生き方になります。

それが私の場合は・・・家族と離れた今の過疎地での「お一人様」年金暮らしでした。
だから必然的に・・・快適便利な街中の雑踏の中での「お一人様」とは違った生き方になり、当然ながら数少ないご縁ある人との互助関係や不信感の無い信頼関係を築く取り組みを自分なりに実践することになったのです。

そして・・・何よりも生きていることが大切だと知りました。
だから・・・どんな生活・生き方をしていようが自由なのです・・・ただ人間として生きているうちに・・・すべては「ひとつ」の完全な神・愛を学ぶのが我々の使命です。
だからその完全な「ひとつ」を良い悪いで分離判断している今の不完全意識に気付き悔い改めることが求められているわけですが・・・(私の場合は)多くを望まないで気楽に生きる「お一人様」の生き方・実践で「完全真理」を学び知る格好になっています。


人間社会の矛盾、「煮ても焼いても喰えない」お粗末な人間の不完全意識を知る完全真理

2010年01月10日 | Weblog
「自由平等平和」を唱えながら比較・競争・差別し合う人間社会。
「特別な人」に成ることが正しいと思って他と差を付けたがる人間社会。

良いと悪いで判断して比較競争して差を付けたがる差別意識。
その差のある特別を手にして、それを守る為に他と闘うことになる(守り闘う)矛盾。
良いとこ取りして悪いところを排除したがる「私は正しい」の潔癖・正義感を行使し、それを問題化・複雑化することになり、そのあげくには勢力・権力で攻守・守り戦うことになる矛盾。

好き嫌い(差・矛盾)紙一重(裏表)の感情を持つ不完全意識。
幸せに思うには不幸がなければならない矛盾のある不完全意識。
神を教えるために悪魔を創造・想像することになる(偶像心)差別・矛盾・不完全意識。
天国を教えるために地獄を思わせ作ることになる(偶像心)差別・矛盾・不完全意識。

人が不幸に見えることで(同情・哀れみ)自分が幸せに思える不完全意識。
他の人に有って自分に無いものを得ることで幸せに思える不完全意識。

良いことをして他と差を付けたがる偽善の不完全意識。
損をして得をとる、与えて奪う、陰謀搾取策略・偽善の不完全意識。
・・・人の為に尽くす・・・その見返りで自分が得をしたがる偽善愛の犠牲。

自分の意識が原因の不平不満を叶えてくれるのが神様でその反対が悪魔と思う自分勝手な不完全意識。
自分の思い道理になることが幸せでその反対が不幸に思う自分勝手rな人間感情。
他の人が幸せに見えることが自分にとって不幸に思える(妬み嫉妬)人間感情。

一方通行、一人土俵、片手落ちの不完全な信頼や尊敬に思う特別・差別意識。
また信頼・尊敬しているように装いながらも裏では不信を持ち、しかも自分に都合が悪くなれば裏切ることになる。

劣等感を持つことでそれがプライドになる矛盾意識。
優越感が劣等感にも変わる矛盾意識。

矛盾がある以上は妥協しか生まれない中途半端な不完全社会。
(矛盾があるのに)それでも私が正しいを誇示主張顕示することで結果的にそれが過ちとなる矛盾社会。
・・・矛盾がある限り堂々巡りの繰り返しになるだけで完全解決は望めません。

すなわち「焼いても煮ても」消化できない不完全燃焼の不完全意識が現在の人間の「命」であり「意識」です。
だから何をやっても不完全燃焼に終わり、しかもその弊害副作用が必ず排出されます。
すなわち「不完全な種」をまき続け、その「不完全な実」を収穫し続ける事になり、その土俵・土壌・地球がやせ細る結果になるだけではなくて、その不完全燃焼の弊害副作用に覆われているのが現在です。

だから不完全意識の人間は(完全燃焼)「成仏」出来ません。
だから何度生まれ変わっても「苦」が付きまとい、生老病死の苦を味わい、好き嫌いの矛盾・喜怒哀楽の感情に支配され、時代と共に進化拡大する趣味嗜好娯楽・刺激に逃避するだけの、不自由・不完全な生き方しか出来ない、お粗末な人生・人間社会の繰り返しが此れまで続いてきたのです。

その「成仏」出来ないでいる人間の命・意識を成仏させるために最後の手段としてこの世で始めて完全真理が説かれているのです。
だからその完全真理を知り学ばなければ成仏できるはずもありません。
しかも最後となる今回のお仕組み・必然で成仏できなかった(永遠に続く)人間の命・意識が辿りつく居場所は・・・自らが選んで行く(己の意識にお似合いの)苦だけの闇意識次元しかありません。

世の為人の為の宗教・カルト・善行奉仕ではなくて・・・「苦」の無い人生を楽しむためのブログです

2010年01月04日 | Weblog
このブログに来られる方は一般世間的ではない「何か」を捜し求めてきた人が多いかと思います。
・・・何らかの迷いや悩みなどの「苦」を持っている人かもしれません。
・・・それらの苦や病気から救われ助かりたい気持ちの人かもしれません。
・・・自分の幸せを少しでも分かち合いたい気持ちの人かもしれません。
・・・世の為にも人の為にもなることをやりたい気持ちの人かもしれません。

そんな気持ちから宗教に入信・布教宣伝したり、または人助け救済援助・救護活動に関わっている人だったり、健康・老後・介護問題、自然環境や野生動物やペットなどの問題に関わっている人かもしれません。
すなわち・・・何らかの形・問題に関わることで自分を活かしたり、自分に問いかけ見つめ直したりしているのかもしれません。
すなわち世の中の「苦」・・・生老病死の苦や喜怒哀楽を味わい知る事になっていますから・・・まるで人生が修行の場に思われるくらいになっているようです。

ところがこのブログを書いている私の意識には・・・それらと無関係に近いところの意識で書き込んでいます。
と言うのも・・・完全真理を知る以前から・・・大きな喜怒哀楽(感情の起伏)が無く、当然ながら生老病死の苦や家族問題の苦もなく・・・(呑気な性格から)苦を苦に思わなかったのか?、執着しなかったのか?・・・とにかく自分が好きなことを無理することなくやっていたものですから・・・とくに大喜びも無ければ大した苦も味わいませんでしたし・・・とにかく波風が立つのが嫌いでしたから・・・そのためには、苦にならない程度の努力はしてきたし、その対処法や創意工夫を楽しんでやることも忘れませんでした。

すなわち・・・楽しい事はやるが苦になることはやらない・・・だから楽しくやっていたことが苦になれば未練なくやめて、その分目新しいことを始めるといった具合の繰り返しでしたから・・・その繰り返しの中で次々と「新たなもの」を見付け出す感性によって・・・ それが今では過疎地での年金独り暮らしと「この世」で最初で最後となる完全真理とファバラエネルギーを味わい楽しんでいる結果になっているのです。

すなわち・・・見栄や世間体の苦もなく、家族親戚のしがらみの苦もなく、趣味嗜好娯楽も少なく、喜怒哀楽もなければ、それら生老病死の苦も避けて通るだけの自力意識を持つことも出来たことから言えば・・・ 人生・生き様に苦が無くなればなるほどにその分だけ余計に楽しみが見出せることを悟り知りました。
すなわち・・・★「苦」に意識が執着・支配されていると・・・<楽しいこと>が楽しいことでは無くなっているのです・・・それが真実です。
だから・・・「意識」で生きているのが人間だと・・・真理で言われている理由であり・・・その「意識の改革」の必要が言われる理由でもあります。
ちなみに・・・贅沢を楽しむためにその分だけ余計に苦労をしていた過去の生活様式の過ちを悟ることにもなりました。

そして完全真理は完全ですから矛盾はありません、だから宗教・カルト的な「信じるか否か」の問題もありません。
その完全真理によって全ての回答が示されているのだから、問題が問題ではなくなり全てが解決します。
だから「人生の苦」「人生の修行」は必要なくなり・・・生きている限り人間を楽しむことができるのです。

お題目が完全真理と堅苦しいようですが・・・世の為人の為の宗教・カルト・善行奉仕や「誰もが真似」できないような特別なことを書いているのではなくて・・・「誰もが気楽」に暮らせて、苦の無い人生を楽しむ為に役立つことを書いているのがこのブログなのです。

この世の矛盾・差がある限り「苦」があり、何をやっても(尽くしても)必ず行き詰ります。

2010年01月02日 | Weblog
この世にある形、例えば政治経済、教育、宗教、医科学、創作・芸術・文化、伝統風習、趣味嗜好娯楽などがありますが・・・
それら全てに「良い悪い」の判断が伴っていますから、その良い悪いの矛盾・差によって「苦」を持つ事にもなります。
だからそれら学者先生・先輩後輩たちも同じように矛盾・差・苦を持って取り組むことになりますから必ず行き詰まります。。

中には名誉名声・肩書き、権威権力を手にして、それで道を極めたと自惚れる人も居ますが、それは「井の中の蛙」の世界でのことであって、外界を知らない、単なる自己満足・自己主張・自己顕示で終わります。
・・・それだと持ち前の能力を発揮するだけで大した「苦」も無く順調に進む事もあります・・・

しかし(矛盾・差があるなかで)自己満足の達成感で止まることなく、その先を見極めながら素直・真面目・真剣に取り組んでいればいるほど余計に矛盾と差の「苦」が付きまといます
そして不安心配や怒りや苛立ったり、自己嫌悪に陥ったり、挫折感を味わったり、中には精神的に疲れて精神異常になる人や自殺に追い込まれる人もいます・・・(だから、そうなる前に完全真理を知る必要があるのです)

その自己満足をすることもなく、なお真面目・素直・真剣に取り組んでいても・・・矛盾・差がある限りにおいては・・・良いことも悪いことも両方あることから・・・言えば・・・
政治経済に関わる人はその政治経済の矛盾や差に行き詰まります。
教育者はその教育の矛盾や差に行き詰まります。
医科学はその医科学の効果と弊害副作用、さじ加減、使い道の正否などの良いと悪いの矛盾や差に行き詰まります。
精神科医・カウンセラーはその確証の無い中途半端であいまいな対処療養の矛盾に行き詰りまります。
それが宗教であってもその宗教の矛盾に行き詰まります。
芸術文化・ボランテア・奉仕援助活動に携わっていてもその矛盾・限界に行き詰まります。

それらは何らかの原因を見極めた「つもり」で対処しているのだが、その原因を見極めたのではなくて、過去の結果を今の原因と思い込み錯覚して、その結果を原因と思い込み対処・改善していることにまったく気付いていません。 すなわち過去の結果を改めて次の違った結果を出そうとしているのです。 すなわち結果から結果を出そうと無理しているから「原因を知る」ことができないのです。
その大元の原因(意識・命)を見極められないから・・・過去の結果がその原因に思われるという繰り返しが続くのです。

その大元の原因が先ほどの「良い悪い」で判断しているその矛盾と差にあるからです。
だからどんなに一生懸命「尽くしても」その場限りの対処改善で終わり、根本解決・完結には至りません。

それだけではありません。
尽くす方も、尽くされる方も、お互いに矛盾・差を持っている不完全な意識の人間同士だから・・・その「不完全な種」をまき続けている事になるのですから、どんなに尽くしても不完全な結果・実しか育ちません。
それが現代です。

しかも結果を求める人は・・・いま有るもので満足できない人であり、(結果)「欲しがる」ことが当然と思い平気になっています。
その<欲しがっている人の意識>vs<必要としている人の意識>はぜんぜん違っています。
必要としている人は与えられるまでの順番を待つことが出来ますが、欲しがっている人は順番を待ちきれません、だから平常を装いながらも何とかして先回り、横取り、割り込みの策略陰謀を図ることから言えば・・・誰よりも我が先に奪おうとしている・・・自分さえ良ければの意識になっています。

・・・だから欲しがらずに皆が「今に満足」することが必要なのです・・・満足があれば尽くすことも尽くされることもありません・・・それが「あるがまま」になります・・・それが「今に感謝」です・・・ 今あるものに満足・感謝することです・・・そして必然で与えられたものにお陰様の感謝です。 そして足りないものを補い合う「尽くし合う」ことになればお互い様の感謝になります。

だから・・・矛盾・差・苦のない「完全真理」を知る必要があるのです。
それ以外の何をやっても矛盾・差・苦の堂々巡りの結果と自己満足しか出てきません。
だから他のことよりも、先ずは自分が完全意識になる実践しかありません。