孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

楽に生きていると(変化刺激に惑わされて外ばかり見ていたのが)内を見る意識に変わります。

2013年05月14日 | Weblog
私が少年時代のころは野球ルールは知っていてもその野球道具が高価なために紙を硬く丸めて紐でくくり絞めたボールを手の平で打ち返したり竹の棒をバットにして野球ごっこをして楽しく遊んでいました。
それも下級生や上級生が入り混じってのチームでしたからその打順を決めるのも勝敗につながりました。

また将棋でも厚紙を将棋盤の形に切って線を引いたのと将棋の駒も厚紙を形に似せて切った駒で遊んでいました。
だから将棋をしたければ高価な将棋盤や駒でなくても(価値観が伴わなければ)将棋は出来るのです。

ところで楽しむ方法は様々にありますが、その「楽しい」感覚は皆同じです。
だから美味しい物も数々ありますが、その「美味しい」感覚も皆同じです。

だから紙のボールの野球であれ、また紙に書いた将棋であれ、また専用道具を揃って楽しむのも同じですから、
ゆえにその専用道具が無くても楽しめることは同じなのです。

また缶詰のサンマも塩焼きサンマも美味しいのは同じですが、その味わいが違うだけです。

その楽しいや美味しいことは同じであればそんなにあれこれと数多く必要としませんが、しかし人間には飽き性がありますから、その必然からして様々な趣味嗜好娯楽が増えたり進化発展してきました。
しかもその楽しいや美味しいの中に変化刺激や価値観の違いや見栄世間体までが入り混じっています。

私はその楽しい&美味しい趣味嗜好娯楽を捜し求めることから遠のいたことからして今度は「楽に」生きることを味わい知りましたが、その楽にしていると美味しい楽しいの形が減っても残る今有るものを飽きずに味わえるようになりました。
すなわち多くを必要としなくなったのです。
だから尚更に生活が単純化しています。

すなわち趣味嗜好娯楽&変化刺激快感快楽を多く味わうことをやめれば残った少ない分を十分に味わえるからです。
それを言い換えれば先に書いたようなゴムボールが無くても野球ごっこを楽しみたければ(昔に戻って)(元に戻って)手製のボールで遊ぶことは出来るのです。
それを邪魔しているのが見栄世間体の自尊心と価値観なのです。

だからその見栄世間体・自尊心・価値観を無くすれば、昔に戻って(元に戻って)食って寝て糞をしているだけのような生き方でも(素朴ながらも)その楽しさも美味しさも同じように味わえるのです。
だから昭和の時代に戻ってもまた明治時代や江戸時代に戻っても同じように味わいながら生きていけるのです。

すなわち変化刺激に惑わされて外ばかり見ていたのが内を見る意識に変わっていくのです。
すなわち生きていく形を味わうのではなくして、生きていく有り様の中の価値中身を味わうことになるのです。
またその価値&事実だけを見て己の価値観で判断しなくなると単純&素朴になり自己縮小に進んでいきます。

楽しく暮らした人ほど不満不足・不安心配が多いが、気を楽に暮らしたい人ほど少ない。

2013年05月14日 | Weblog
巷に「一度ルンペンやるとやめられない」なる言葉がありますが、それをルンペンを始めると元に「戻りたくない」意味と、ルンペンに堕ちると二度と「戻れなくなる」意味にもとれます。

私の場合は元に「戻りたくない」意味にとれます。
何たって人間関係から離れたような生活を一度始めると二度と戻りたくないのですから。

ちなみにプロレスのアントニオ猪木が自らホームレスを体験してそれを話題にしたり、タレントが中学生ホームレスだったことがあると書けば人気が出たりするのとは趣が全然違っています。

ちなみに私も不完全意識丸出しで生きていますから気になることもあります。
例えば温泉に行くときのシワだらけの上着や古びた下着が気になるのと、その風呂場でビックリする大声の気合を入れてから飛び込んだり一気に立ち上がったりする人がいるのがいつも気になっています。

それと牛舎の粉塵からして鼻糞・目糞・耳糞が多く喉の調子が悪いです。
あと付け加えるならば暇で退屈しているときにパチンコに行っているその私自身の意識の有り様を気にしています。

とにかく多くの人間関係が無いことと必然ご縁の時に限られているだけにそのご縁は良好ですから少し気になることがあってもすぐに消えますから心&胸に抱え込む(執着する)ことにはなりません。

皆さんは如何ですか、自問自答してはどうでしょう、
生きていくための生活自体にはあまり無くても、その中の人間関係に多くありそうですね。

巷で「無くて七癖」と言われるだけに、気になることが無い様に思っていても自問自答すれば気になり続けていること(不満不安不信・心配悩み)が多く有るのではないでしょうか。

それが家庭の中に少なくても仕事やパートになると出勤するたびに(対人関係などで)気になり続けることがありませんか。

私はオーナーとの人間関係・精神面でも良好ですし給与待遇も至れり尽くせり配慮してくれて申し分ないのですが、それだけに些細なことが気になります。
それは足の踏み場も無いくらい後始末・片付けが雑なオーナーの癖です。
ちなみに大きな気掛かりが無いだけにその分だけ些細なことが気になるようです。

ところがそれら些細な気掛かりが解決することになればそれで終わりにならずにして、また目障り気掛かりになることを自らして探し出し見つけることになるのが不完全意識の私たち人間ですから、これまたその繰り返しがいつまでも続くのです。

ちなみに大きな気掛かりなことに意識が行くと些細なことが隠れて気にならなくなる場合がありますが、その大きな気掛かりが頭の中から消えないでいると(食って寝て糞をして)生きていてもちっとも楽しくありませんから、そこで趣味嗜好娯楽(変化刺激快感快楽)に興じることで代替にしています。

しかし楽しんだその余韻が消える頃になるとまた気掛かりなことが次々と出てきますから、これまた新たな楽しさを次々と始めることにもなるのが私たち不完全意識の人間の癖・実態・事実です。

ちなみに何とかして「楽しく」暮らしたと思っている人ほど目障り気掛かりになることが多いはずですし、そこを何とかして「気を楽にして」暮らしたと思っている人は目障り気掛かりになることが小さくその数も少ないはずです。

さて皆さんは何れを選んでいますか