矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全真理の実践も自己縮小の実践も無理なれば、残るは有事&天変地異なの?

2013年03月31日 | Weblog
完全真理が説くところの良い悪いで判断しないその実践は無理でも素朴に生きる自己縮小なら誰でもが実践できますが、
それでも街中で暮らす血気盛んな若者であればそれも無理があるかもしれません。

また家族持ちで仕事持ちで地域社会に馴染んでいる人にも無理があります。
何たって「しがらみ」を持っている人が見栄や世間体や家族親戚を気にしないで、そして無理もしないで欲張らないままに素朴に生きるなんて事が出来るはずもありません。

何度も書いているように精神世界を知ったところでそれが実践できないからこそ巷の神仏霊魂の宗教や神懸り超能力の他力を信じて願いそれに頼る事になっているのが大方の人だからです。

だから今の日本で成り行き任せ・自然体・自己縮小&意識改革が出来る人は多くはありません。

過去にご縁があった宇宙的霊能者が語っていたのですが、世間の下積みを今も味わっているフリーターの人が一番可能性が高いようです。
何たって「しがらみ」が少ない独自独歩の自由があるし、見栄や世間体を気にしないでいられるし、世の中の裏表&苦楽&不完全さの苦渋を多く味わっているし、それでもって自力でしっかりと生きているところがあるからです。

それと万が一にしてチャンスがあるのが「有事」に遭遇することからして(耕栄さんが大病を患ったように)(他に落雷を受けた者がいるように)意識変わりした事例があるようです。

そんな中に宇宙人的&神様的存在が突如現れて何とかしてくれるとかまたご先祖様が導いてくれると思っている人もいることでしょうが、それが事実に起こるとしても、それに見合うだけの意識心を持っていなければ手の届かない棚の上の牡丹餅同然になります。


それと宇宙&地球の次元エネルギーが高まっていることからして言えるのにあるのが(そんな特別な事例とは違った形にして起こりうるのが)巷の信仰宗教などの神仏霊魂の信じるか否かの精神世界に拘ることも無く、ごく普通の穏やかな苦楽の少ない精神的に十分に余裕のある生き方をしている人が何らかの有事がきっかけとなって己の直感・感性・閃き・霊力霊感が如くにして気付きが起こり足早に一気に目覚めることになるかもしれません。

しかし大方は有事によって入院したり仕事を失ったり停職になって暇で退屈するようになってから精神世界を意識することになればいいほうです。

それと最終的な有事、すなわち天変地異で大勢の人が巻き込まれる中で悲観にくれる事無く、また他力に頼る事無く、大いに自力を使いその何としてでも生きられるその生きる喜びを味わったときに意識変わりが起こる可能性があります。

すなわち動揺する事無くまた他力をあてにせずに平然&普通&成り行きからして自らの有事を自らの自力で無理なく何とかしながらも生きてきたことの(普通の)その喜びを味わったことからして起こる意識変わりです。

そのためにも完全真理を理解して納得確信しておく必要があります。
ただそれが実感ではなくして知識のままであれば有事の際に忘れてしまって役立たないかもしれません。

とにかく仕事や家事や子育てバイトや趣味嗜好娯楽に執着しすぎて忙しく急ぎ慌てる生活をしていると心に余裕が無くて精神世界の気付きが起こるはずもありません。

ところがその執着することがなくなって心に余裕を持ったがために、その暇で退屈な時間を有効に活用するとて、これまたバイトに従事したり趣味嗜好娯楽に興じるようになるのが私たちです(焦らずに静かにして成り行き任せに「待つ」ことができないのです)。

だから自己縮小の実践が必要になるのです。
何たって世間一般的なことに意識が使われすぎていて(精神世界から離れた意識からして)何で精神的な気付きが起こるでしょうか、
だから有事でも起きない限りダメだと書いているのです、
しかもその有事に執着するようでは(意識が使われていれば)気付けるはずも無いわけです。

そこで有事が有事に思えないような(動揺しない)(平然としておれる)自力と自信が必要だと書くことになり、そのためにも自己縮小が必要とし、そして外を気にせずに内を見て生きる実践をとなり、これまた何度も同じことを繰り返し書くことにもなるのです。
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潔癖・完璧・正義感の「分離意識」(VS)<すべては愛&すべてはひとつ>

2013年03月29日 | Weblog
精神世界の初心者である私が極悪人&サタンも愛の人になるという「すべては愛」の教えに違和感無く素直に理解できたのも、何かと忌み嫌う潔癖症や成否を気にする完璧主義的な性格を持っていなかったことがあります。

そして「天地創造」「十戒」などの映画でイエスがサタンを地の底へ落とし込むシーンや堕落した人で溢れている街を消滅させるシーンや神に従ったものは助かるが従わなければ苦しみ死ぬとか(神が善と悪を使い分ける)また(神に絶対服従する意味からして)我が子を生け贄に差し出すシーンやモーゼの海割れ現象で追っ手の兵隊を溺れさせるシーン&人殺しシーンを違和感と恐怖感と正義感などが入り混じって観ていただけに、
その潔癖完璧正義感やまた神に対する絶対服従や恐怖感を教え込む(サタンが如き振る舞い)その間違にも気付くことができました。

そのすべては愛を説くその霊能者が召喚した霊魂と語り合う内容を記した「お伝え」の中に、
いじめが原因からして胴体から切り離された生徒の首を校門の柵に吊り下げるというような身の毛もよだつような残忍な事件が起きたときに、その召喚された霊魂が語るには、その少年が犯罪を犯すに到る間やその所業の精神的に窮するその苦悩苦痛が如何ほどのものであったかを神の愛の心で語り、その少年がこの世に示したその行為「お役」を果たしたことを「誰もが出来ないような大変なお役目を果たしていただいてほんとうにご苦労さんでした」と(高次元霊界・天界において)そのお役を労っていると言う様な内容からして「すべては神の愛」を説いていました。

と言うことからして、このブログに来られる人の中に悪を排除したがる潔癖完璧正義感の強い人がいたならばその違和感や否定反発心からして離れていく人も多いと思っています。
そして正義感のイエスキリストを崇めることにもなるかもしれません。

だから「良い悪い」で分離判断する意識が強い人ほど潔癖・完璧・正義感が強くなります。 

しかし精神世界を深く熟知するほどに分離感が薄れていき更にすべては「ひとつ」につながっていることを悟ります。
ゆえに「すべては愛」であり「すべてはひとつ」なのです。

と言うような基本的な内容を多く書いているのがこのブログの初期にありますので参考にしてください。
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この世の精神世界を学び知る中に<すべては愛である>の意識が絶対的に必要になります。

2013年03月28日 | Weblog
どんな生き方であろうとも食って寝て糞をしながら何とか生きてさえいればそれで人間としてのお役を十分に果たしています。それが事実です。
だからこの世に様々な居場所・環境・境遇があり、またその中でもって様々な生活様式の生き方があり、また日々様々に変化更新進化しています。

その人間としての生き様の中に善人悪人が登場するのも人間界だからですが、
それだけにその善人も悪人もその必然からしてそのお役を果たしているだけだとして、それを素直に理解できる人は少ないと思います。

すなわちその善人も悪人も同じ人間が作り出した形ですからすべての人間の責任でもあるのです。
だから個々を見て判断することでもないわけです。
だから「すべてはひとつ」が言われているわけです。

しかもその善人が善をしているとか悪人が悪をしているとは限らないのに(不確かなのに)それを自分の見極め尺度や自分の都合で勝手に決め付けているところがあります。
だから後日善人が悪人になったり悪人が善人に思われることにもなっています。

また明らかに極悪非道なる犯罪者の場合であっても(精神世界を論ずる人なら)それが皆の責任であることも理解できているはずです。
そしてその原因に(人間が)愛の心&神の心を見失っていることにあるというのも理解できているはずです。

だから時々にして極悪非道で残酷残忍な人殺し事件や戦争が起きるのもその神の愛の精神世界を論ずる人やその精神世界をまだ知らないで極悪非道呼ばわりしているそれらの人のために必然にして仕組まれている事になります。

だからその犯罪も皆の(愛の無い者たちの)集合意識が原因のその結果としてその犯罪に到ったわけですから、
その形の裏には(隠れた事実には)、この世でそれらを見える形にする必然からして、そのお役を(神の愛の仕組みに従った&極悪非道の残酷残忍なお役を)果たした「愛の人」となるのです。

それを完全真理にして書くと、良い悪いで判断している人間に対して、その良い悪いの判断の加わらない完全なる神の愛を学び知り気付かせるために、その必然からして様々に起きているその結果形なのです。
ゆえにこの世のすべては<神の愛>になるのです。

それを知ってか知らずにしてか、自分が悪と思える者&邪な者を否定反発排除したのが過去の釈迦やイエスの類なのですが、それも(私が思うに)この世の必然からして神の愛で仕組まれたことなのかもしれません。

私はこの基本の<すべては愛>を宇宙的愛の霊能者から無料で郵送されてくる(召喚した霊魂が言霊で語る)「お伝え」なる文書を読んで気付き悟ったことですが、それが精神世界の初心者の私なのに「何で」となりますが、
その私の中に否定反発や束縛制限することのない自由意識をもっていたことや成り行き任せの生き方からして既に精神世界にマッチしていた部分が(過去世の学びからして潜在的に)あったからだと思います。

仮にして私の中に否定反発や束縛制限するその意識(潔癖完璧)が強ければ、私が初心者だけに「すべてが愛」のその基本がまったく理解できないままに読み忘れてしまったことでしょう。

ところがその「すべてが愛」を理解納得していただけに後日知ることになった「良い悪いで判断しない」完全真理の理解が尚一層進んだわけです。
しかしながらその実践意識となると、その何れにも無理があるのです。
だから言うだけ聞くだけの実践の伴わない真理・説教になったわけです。

ところが「自己縮小」の実践ならば(完全真理を知る以前から)その小さな形の生活を遊び半分でしていましたから、私にすれば「魚に水」「渡りに船」となり現在も続いているわけです。

と言うことからして「この世はすべて愛である」となり
だから特別が一切無いこと、すなわち「差」が無いこと、
だから人それぞれの個性役割でもって生きてさえいればそれで十分になるわけです。

なのに自分さえ良ければの良いとこ取りをしてその裏の悪いところを排除したがることからして良い悪いで判断しているのです。
だからその良いとこ取りを少なくするためにも素朴に生きるその自己縮小が言われているわけです。
そして自己縮小すればするほどに喜怒哀楽の感情や物質金銭欲などが少なくなりますから(当然ながら)良い悪いでいちいち判断する必要が無くなる事実があります。

その実践が今は無理としても、先ずは精神世界を学び知る基本である(善も悪も無い)「すべては愛」を意識する必要があるのです。
それを知らないと精神世界を信じるか否かの不完全な形にしているその中に引き込まれることにもなり、また信じて頼る他力依存にもなり、更に不確かなその思い思惑に期待を寄せることにもなるのです。

その「すべてが愛」を知ったことからして、この世に現われ出たその形結果やその人間関係が如何になろうともそれを気にしないでいられるようにもなります。
だから「気にしない」で「ほっとく」「成り行きに任せる」ことにもなります。

そして何度か書いたように「気にして得なことよりも気にして損になることが多い」のがこの世の常でありそれが事実なのです。

しかも内なる精神を知るのが精神世界なのに、その精神世界に身を置きながらも外見・形・結果の見せ掛けに執着してそれを気にしているくらいだから、
その精神世界を副業や生業にしたり、また金集め人集めの勢力にしたり、また目立つヒーロー主人公になりたがる者やまた名誉権威の肩書きや権威権力の形にしたがる者の手先&宣伝広告塔の役目役割まですることにもなるのです。

己の思い感情(喜怒哀楽)やその思惑期待感や理想目的や祈願願望やまた差のある価値観や正義感は「精神」世界にあらずにして「想像」の世界で<白昼夢>が如くに生きているのと同じですから、早くその夢から目覚めなければなりません。

それが「気付き」なのです。
だから実践意識でもって気付き続けるのが精神の学びになるのです。
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人間の本能とその役割と使命のその関係を知る。

2013年03月27日 | Weblog
人間には闘争本能&守り意識があり食欲と性欲があります。
その闘争本能がある限り(裏の)守り闘うその守り意識が出てきます。
その原因の必然の結果として否定反発・束縛制限支配・比較競争差別などの不自由&不平等が出てきます。
だから神仏霊魂の精神世界を説くことにもなるが、それも(持って生まれた本能だから)いくら説いてもダメなわけです。

だから過去に釈迦やイエスが現れてもダメだったのです。
しかも同じ宗教同士が敵対対立したり内部抗争や分裂さえするくらいだから、どんな精神世界を説いても無駄なわけであり、それが事実なのです。

だから国家間の不和があり地域社会にも不和があり小さな家庭内の不和があるように、元からして不調和なのが人間なのです。

だから人間同士が表向き協調している中にも裏の不調和があるのです。
だからせめても仲良くしているように見せかけていなければ不調和&不信感からして不安心配で生きた心地がしないのです。

ところがそれでも自分に不都合なことでもあればその見せ掛けをやめて競い合い諍い対立抗争し合うことにもなっています。
それが人間なのです。

だから過去の釈迦やイエスがそうであったように完全な宇宙の仕組み&神の愛を説く完全真理の山田耕栄さんでもってしてもダメなものはダメなのです。ミイラを取ろうとしたそのミイラ取りがミイラになるのです。

私が思うにその釈迦もイエスもその当初は自らの特殊能力&神懸り超能力からして(自惚れからして)何とかなると思っていたのは間違いなさそうですが、
同じく耕栄さんも(死の淵から生還したことから)宇宙意識&神意識になったと思い違いしてか(自惚れからしてか)、己が宇宙意識になれたのだから人様もなれると思っていたらしくて、その当初の頃に耕栄さんに従う仲間の中に何人かは到達できると確信していたようですが、(私は無理があると娘に話した通りに)それもダメだとなり、そこで不完全意識ながらも無理なく素朴に生きるその自己縮小を語り説くようになりました。

だから人間として生まれながらにして持つ大元の不完全意識はどうしようもないのです。
だから己が個人的に(独自独歩の)自己縮小をして、その不完全意識が原因のその苦楽&喜怒哀楽の感情で生きるよりも素朴な中にある安心安全の精神で生きるしかないのです。

その自己縮小は己のことですから(絶対的に)己が独自にやるしかありません。
ところがそれさえも他力に期待する人が大勢いるのも事実にあります。
だから耕栄さん頼りファバラ頼りのファン&他力依存&信者意識になるのです。

その耕栄さんやファバラがどうであれ、
完全真理は矛盾も妥協も無い完全な宇宙・神・愛を説いていますから、神仏霊魂の精神世界のことで思い迷うことも思考錯誤も葛藤もありません。

だから巷で言われる神仏霊魂や奇跡を成す者の神懸り超能力の他力に頼ることも、またそれらに思惑を持ってそれに期待することにもなりません。

だから完全真理さえ学び知れば独自独歩で実践できるのです。
その事例の数々をブログに書いているのですが、その事例が事実であってもそれは私のものです。
だからそれが理解できたとしても(実践で味わっていなければ)内心では信じるか否かになっているのが多いはずです。

だから神仏霊魂の精神世界やその宗教であれ完全を説く完全真理であれその真実&本物を知るには己独自の実践しかないのです。
だから精神世界を語る必要があってもそれを(生業にして)(人集め金集めまでして)大掛かりにすることでもないのです。
その大掛かりにしたことで先程に書いたように敵対対立・抗争内紛し合うことにもなるのです。

その独自の学びのために様々な形の見えるこの世&結果のこの世が現実にして用意されているのです。
だからそれが精神世界に限らずにとも様々な芸術文化であれスポーツ芸能や趣味嗜好娯楽であってもその道(その形)を目指し極めることでは無くして、人それぞれの性格個性に適した形に自らが係わりながらもその己が意識の原因のその現れた結果からしてその意識の有り様に気付くために「形ある」この世が実在しているのです。

すなわちこの世で何かの形&事を成して「見せる」ことではなくて、己の意識が原因からして現われ出るその結果からして己の内なる心意識に「気付く」ことが本命なのです。

それを簡単に言えば己の内なる意識&精神の有り様に気付くためにこの世があり今を生きているのです。
だから見える形の「外を気にして」生きるのではなくして、その外を見て「内なる自分を」知ることにあるのです。

だから(どんな生き方であれ)今を生きていることで「この世のため」にも「人のため」にも既にそのお役を果たしているのです。
ゆえにお役&「役割」を果たすことが重要ではなくして、
その自らのお役を果たしながらも自分の中身&内心に気付きその精神&自力を高め磨いていくことが人間の<使命>なのです。

なのにまだ自分の外見を気にしますか、
またどうすることもできない人様を気にしますか、
まだまだお役が足りないとして一生懸命頑張り続けますか、
まだまだ学び足らないとして巷の精神世界を学び続けますか、
それでも足りないとして神仏霊魂や先祖様に頼りそれさえ不足とばかりに神懸り奇跡の超能力にも期待したいのですか、

それよりも(信じるか否かではない)矛盾も妥協も無い完全な真実事実を知るための宇宙の仕組み(宇宙の流れ)に自らの意識(自力)でもって自主参加したいと思いませんか。
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外面で楽しく生きる、苦楽の感情で生きる、内面の安心安全で生きる、死んで元々とは、

2013年03月23日 | Weblog
このブログの書き込みの中に<私は>から始まることが多いことに違和感を持っている人も多いと思います。
だから私は個人意識丸出しの人間ですと正直に書いています。

何たって自分さえ良ければの個人意識を持っているのが私たちだからです。
だから人様のためにしているとなればそれは偽善になります。

だからこのブログは(先ずは)暇で退屈している私のために書いていることであり、また書くことで私自身の学び気付きになっている事実があります。

また自分さえ良ければの自分のためにしていると自覚しているほうが正直・素直・謙虚にもなれるのです。
だから特別意識を持たないようにもなります。

そして家族のためにしていると思うのも裏返せば自分のためにしていることだと自らが自覚していれば不平不満や家庭不和にもなりません。
しかしそれとは違って特別意識の恩着せに思う人が(家族両親や仕事関係の中にも)いるからその人間関係&家族関係が不調和になるのです。

だから精神世界のことを説くことにもなるのです。
ところがその精神世界を説く者までが指導者先生ぶって(ありがたぶって)恩着せにするから(恩着せに思わすから)(思惑期待を持たすから)尚更にややっこしく矛盾することになるのです。

そんなことを書く私は人様から恩着せに言われることが嫌いなタイプだけに私から恩着せにいうことはありませんでした。
だから自分のために率先していることが(人生を楽しく生きることが)家族のためにもなっていれば(陰ながら役立っていれば)尚更都合がいいわけですから、それを家族やに恩着せに思うことにはなりません。

それどころか自分勝手に生きているからこそ妻や子供を束縛制限せずに自由にさせているし、
また私が先祖供養も親孝行もする事無く両親が他界したことが私には都合が良かったことからして、それと同じくして私に対する親孝行やその供養は不要と言付けていますし、
もちろん妻思いの夫でもなかっただけにその妻の夫思いも期待していませんし、それどころか妻から色々と小言を聴かされる(巻き込まれる)その心配からしてほっとかれる方を望んでいます。

だから何度も書いているように医科学の医術や薬剤に頼らないままに死ぬその自然死を望み、また老人介護や入院介護とならないままに人知れずに死ぬ無縁孤独死を望んでいるのです。

だから「死ぬ時が来たら」未練も後悔も執着も無くして「あっさりと死ねる」ほうを選ぶことになります。

巷の言葉に「死んで元々」がありますが、死んだら元に返る、すなわち生まれる以前の、得も損も無い差し引きゼロの「元の状態」に戻ることだったのですね。

そしてまたそのゼロから始まり死して終わりゼロに戻るその始まりと終わりの繰り返しをしてきたのですね。

そして「楽しく生きる」ことが、
外面の物質金銭に恵まれたその価値観(差)の自己満足や自惚れよりも、
また内面が外に出るその感情が波のようにゆり動かされるその苦楽よりも、
穏やかな安らぎの安心安全の心持(精神&意識)で生きることに価値(真価)があったのですね。
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神様を信じることでもなく、人様を信じ愛することでもなく、事実&真実の愛を知ることです。

2013年03月22日 | Weblog
私は精神世界を知ったことからして自問自答することが多くなりました。
すなわち自分のことは自分が一番の理解者であり、また人を見て我を知ることができるからです。

私は幼い頃からして楽しく遊ぶために生きているが如くにしてきましたから学識知識や世間的なことに疎く、その当時で言う出来の悪い(劣等感)裏面からして(負けたくない思いから)何でも知りたがるやりたがることにつながり、それが人より先にスタートする先見の目&先取り意識にもなり、そのやりたがる中に見よう見真似と創意工夫とで色んなことを自分のものにすることにもつながり、それらが劣等感の裏返しの優越感の自信とその自力がつきました。

また私が成り行き任せに出来るのは不信感&不安心配が少ないからですが、それも次から次と楽しみ遊べる事に熱中していた性だと思いますし、それら多くを体験経験しそれを自分のものにしてきたその自信と自力があるからと思います。

だから自信と自力が少ないほどに成り行き任せに出来ない不信感&不安心配が多くなるということになります。

私は過去も現在も自分に出来るその自力を使うことで楽しんでいますから当然ながら大仕掛けは出来ませんから当然それで困ったことにはなりません。
ちなみに困ったと思うことが多い人は概ね自力を使うことをしたがらないし、当然ながらその創意工夫も苦手だと思います。

また私が安心安全の心持で暮らしているのも守る形のものが少ないからです。
だから多くを抱え持つ人ほどそれを守りたがりますから、それが不信感&不安心配になっているはずです。

私は自分のやっている事に熱中集中するだけに、それ以外の人様のやっていることは殆ど気になりませんでした。
だから今は完全真理&精神世界に関連のないことは(身内のことであっても)(ほっときますから)気にしないでいられます。

ところが人情物の映画ドラマや援助救済奉仕活動を情熱的に語る人のコメントに涙することも多く、また自分が撮影している冠婚葬祭で涙ながらに写すことも過去に何度もありましたし、今も(一年に2回撮影している)保育園児の発表会の出来栄えに感動して涙を浮かべています。

それがどうやら意識が集中すると感情的にもなりまた問題ごとに執着すると精神的にも負担になります。
だから意識が集中できなければ面白くないわけです。
そして問題ごとに執着していないと自分の損になると思っているのです。

また矛盾意識をもっているだけにその性格個性の長所が短所にもなり、その短所が長所にもなる現実があります。
しかも理性&信念でもってしてそれを使い分けるのは無理がありますし、それを使い分けることが出来たとしてもそれは本物事実ではなくて自己満足や自惚れやプラス思考とか思い込み&すり込み現象や妄想の類になると私は思います。

そして成り行きからして成ったことには裏心・下心・思惑が加わっていませんからその結果に裏表はありません。
だからその結果が良かれ悪しかれその事実(愛)を味わうだけになります。

そこで厄介なのが世間一般の有事であり真坂の有事や天変地異になります。
その有事の時に先程に書いたように己の意識を使い分けるわけにはいきませんから、その時の己の意識の正直なままにその事実を味わう事になります。

そしてその有事の際の己の意識が「生きてさえいれば何とか成る」なのか、
それとも「困った」を連発することが多くなるのか、
それが私たちの意識次第と言うことです。

しかも世間に様々な有事があるようにその有事を避けて通るわけには行きませんから、誰もが有事に遭遇しますし必ず人間最後の死が待っています。

しかもその意識次第では有事が大きく思える人や普通なら有事というほどのことでなくても有事に思える人がいますから、その有事結果が同じであってもそれを大にも小にも思える人やまた有事が多い人や少ない人がいることにもなります。

だから今からして自己縮小の実践を始めて安心安全の心持になっていくのか、
それとも実践を後回しにするのか、
それとも欲絡みのままに生き続けるのか、となります。

それに付け加える事にあるのが、
外見が良くても(形あるものは)有事でそれを失いますが(壊れますが)、
中身の心意識はそのままに続きます(使い分け&偽ることは出来ません)。
だから外見を整えるのではなくして内なる心を整えることを書いているのです。

このブログに書かれていることを簡単明確にすると
神様を信じることでもなく、人様を信じ愛することでもなく、
あるがままの(裏表の無い)(外見ではない)内なる事実&真実の愛を知ることにあります。
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気にして得なのは外見(身体)ですが、気にしないで得なのは内心(感情体精神体)です。

2013年03月21日 | Weblog
私が世間ごとに疎いのはそれが私にとって重要ではないからです。
だから若い時からして新聞を広げても読む気がしないのが大半でした。
特に過疎地に着てからは世界&日本で今何が起きているのか知る由もありませんでした。

だから先般の大震災・津波・原発事故のことを知ったのは数日後の世間話からであり、しかも大きな被害を受けていることを自らがネットで確認したのも数日後でした。

ところで皆さんは新聞雑誌やテレビを欠かさず見ているとは思いますが、その世間のことを知ってどうでしたか、
その何がしを知ったことからしてそれが気になって精神的にも感情的にも良くも悪くも影響したことでしょうが、凡そ良いことよりも悪いことのほうが多いのが世間の中にあります。

ちなみに私が健康診断を受けなくなった理由も似たところがありまして、
知ったことで良かったことよりも気になることを持ち続ける(執着になる)その精神的負担が多いと言う事に気付いたからです。

皆さんは健康診断が役立つと思っているようですが診断すれば必ず気になる項目があってそれを気にするはずです。
そして医術薬剤や健康食品&サプリメントに頼ることにもなっています。
しかし(信じて頼っていても)それでも安心安全になることはありませんね。

それと同じく大震災が起きるごとにその予防対策や復興支援が取りざたされますが、それで安心安全な心持になれたでしょうか、
逆に不安心配が増したのではありませんか、

だったら(私のように)何事も知らずに、何事も気にせずに、成り行き任せに、平然と暮らしているほうがお利口さんに思えませんか、
ところがその平然と暮らすことに自信が無いから、その逆に多くを知って予防対策を講じることで安心安全になりたがっているのではありませんか、
しかしそれでも不安心配は消えませんね。
何たって人間は不信感の塊みたいなところがあるからです。

だから先々の思いや予測や予知も不確かなその天変地異や真坂の有事や事故や怪我や病気や死ぬことを前もって気にして生きることよりも、
それらを気にせずに成り行きに任せて暮らすほうが安心安全の心持でいられるのは事実なのです。

すなわち前もっての思い思惑&予測予知が必ずしも(2000年問題やマヤの暦如くに)その通りにならないことは(大や小に限らず)多く経験してきたはずです。
安全だと言われる原発も心配ですね、
前もって盗難防止策や安全策を講じていても被害が出ている現状があります、
何事にしてもキリがありません、それがこの世です。

だから家庭家族のことや仕事や世間のことで気になることを知って(自分だけではどうしようもないことに)執着するよりも、そのままの成り行き任せからして何も知らないままに過ごすほうが気楽ではありませんか、

とにかく細心の注意や最高の防御予防安全対策を強化していても安心できないのが人間なのです。
それが不信感でもあります。
その不信感が強いほど警戒心・不安心配・恐れが強いようです。
反対に不信感が少ないほど呑気気楽です。

ところで大震災や大きな有事に遭遇すれば自分の力量を超えたことですから、その事後のことは(成ることはなるが成らないことはならない)その成り行きに任すしかありません。

だったらその大震災のことも死ぬことも大病を患うことも考えずにほっといておいて、その成り行きに任せにしていてそれがいつしか事実になったところで(前もって警戒し用心していても)その事実は事実結果ですから、そんなに大きな差(損得)は無いと思いますが、如何でしょうか、

気にして得になることは外見(身体&金銭物質)ですが、
気にしなくて得になることは内心(感情体&精神体)ですが、
どちらを選びますか、
やはりどっちつかずの中途半端なほうが都合がいいのでしょうか、
それで果たして安心安全&大丈夫でしょうか、また精神世界を意識して生きているとその自信確信を持てますか、どうでしょう。

私は若かりし熱血漢の頃に悟ったことですが、執着して気にするほうが精神的にも感情的にも損だと自覚できましたから、それ以来何事も気にしないでほっとく事にしています。

ちなみに賞味期限が(不安心配&不信感で)気になる人よりも私のように賞味期限切れ寸前の半額商品ばかりを選んで(お得で&安心安全で)平気で食べているほうが得だと思いませんか、
何たって同じ賞味期限が原因で不安心配不信感が出て損する人がいるのに私は安心安全の美味しい商品が格安で賞味できるのですからだいぶ得をしています。

※ゆえに人間は物や形で生きるのではなくして「意識」で生きているのです。

だから外見を気にして損する人生と、その外見を気にしないままの人生と、どちらを選びますか、
また見えない世界のその精神世界なのに、その形やうわべを気にして選ぶ人と、またはその中身正味を実践で確かめてみるのと、どちらを選びますか、

また自分が得をすることなら他を押しのけても手にしたがる人が何で完全真理を自分のものに(本物に)しないのでしょうか!?
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完全真理は深層心理でもありますから奥が深いところがあります。

2013年03月20日 | Weblog
このブログの後半は私の事例からして(庶民的感覚から)説明することが多くなりました。
(完全真理の基本であれば初期の書き込みをお勧めします)
だからその道の言葉を並べ立てる専門家研究者やまた耕栄さんの講演会とも異なることを書いていると思います。

しかも過去の自己拡大からいきなり自己縮小の小さく生きる生活に変わっただけに、その裏表を実際に味わったその事実からして書いていることにもなります。
ちなみにその事実に気付き知ることが神の愛を知ることにつながるのです。

私が成り行き任せに生きるのも精神世界を知る以前からのことです。
またそれだけに世間的常識や伝統風習や道徳などの知識教養に疎く(私に必要としなかっただけに)その分だけ固定観念を持つことも少なかったわけです。
またその分だけ否定反発や束縛制限することが少なかったのも事実です。
またそれだけに自分が思うがままの自由にやることも出来たわけです。

またその自由のためにも、他力に依存することよりも創意工夫しながらの自力を多く使うことにもなったのです。

その自らして成り行き任せで自由にしていただけに他の人を巻き込むこともまた巻き込まれることもあまり無かったのです。
だから尚更に自分の中に創意工夫する楽しさと独自独歩の自由があったのです。

しかしそれでも不完全意識に変わりがありませんから、周りのことが気にはなることもありますが、そのことに執着しなかったから結果的には成り行き任せになり、その成り行きに任せておくほうが呑気気楽になることも予め実感でもって味わっていたわけです。

しかもその成り行き任せに必然ご縁が仕組まれてそれが成るようになって行くその事実も数々味わってきたことからして尚更に成り行き任せが板に付き、その成り行き任せに(神の愛とも言える)安心安全の心があることに気付き知ったのです。

また若い時からの知りたがるやりたがる性格からして否定反発することにもならずに多くを見聞体験することができたわけですが、その中で納得できないことが違和感として残りました。

その持ち前の性格個性からして思惑期待するよりも先に自らが動き回っていましたから人様を信じて頼ることにもならなかったのです。

だから自分からして動くのか、または人に任せるのかのいずれかでした。

また摩訶不思議の「見えない世界」に係わったのが物資的なことから始まっただけにその結果が見える感じるの格好で出てきますから、それを信じるか否かではなくして、その結果が出るか否か、事実か否かの見極めから始まったわけです。
そしてそれ以外のことは見聞知識と違和感となって残ることにもなりました。

そして矛盾のない完全真理を知ったことからして私の此れまでの見聞知識や違和感の理解納得の謎解きが次々と進んだのです。

だから完全真理を知ってそれを実践した結果というよりも、
持ち前の性格個性をそのままに出していたその結果が完全真理にマッチしているところがあっただけのことです。

だから完全真理を説き語りしかも摩訶不思議を成して見せている指導者の耕栄さんに違和感がすぐにも出てきたのは私の中では事実です。
それでも否定反発する事無く(違和感のままに)そのままに様子を伺っていましたが、結果的に耕栄さんやファバラから(新たな必然ご縁が無ければ)離れたままが続くでしょうが、本来の完全真理に優る真理が他に有るはずも無いことからしてその完全真理から離れることは絶対的にありません。

そして結論的に書けば、
如何なる精神世界であろうとも、また如何なる教祖指導者であろうとも、またその信者であっても、そこに特別はいっさい必要なく、その精神世界に係わるすべての者は未熟者であって皆が共に学び合う共に気付きあうその関係にあることに私は気付いたのです。

だから「信じる」とか、「頼る」とか、また「思惑期待」する事無く、自らの性格個性の「自力」でもって独自に学び知りるほうが、自他共に持っているその邪な不完全意識に迷い惑わされることなくそれを見極めながら進んでいけるものと確信自信でもって書いているのです。

そして出来れば「成り行き任せ」自然体&あるがままの意識でもって欲張らなければ自ずとその結果が仕組まれ出てくるはずだと確信でもって書いているのです。
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思い思惑期待を持ってして人を愛することでもまた神を信じることでもありません。

2013年03月19日 | Weblog
この世の矛盾の中で生きているだけに私たち人間は生まれながらにして(自他共に信じられない)不信感を抱き持っています。

そして世間では言葉に出していわなければ相手に通じないと言われますが、しかしその言葉には必ず裏(裏心・下心)があります。

だから愛しているとか、信じているとかでその自分の思いを伝える中にも下心と不信感が隠れていたり、それを聞く側にも思惑期待感や不信感を持っていますから、その双方に確たる自信が無いことからして、あえて言葉に出して確認しあって安心したがっているようなものです。

もし本心から絶対に愛しているのなら(その自信があるのなら)、また絶対に信じているのなら(その自信があるのなら)、何でわざわざそれを言葉に出して相手に伝える必要があるのでしょうか。
己の内なる意識に問いかければ(自問自答すれば)自ずと答えが出てきます。

ちなみに私は人を信じるよりも、また人に頼るよりも、自分で「成す」か、またあるいは人に(すべてを)「任す」かのいずれかでした。
それゆえに自信と自力で<成す>ことが多くなり、そして成り行きに<任す>生き方になったわけです。

ちなみに私は妻や子供を愛しているとか信じているとか言ったことはありませんし、また(過去も未来も)信じて頼ることもありませんし、此れまで妻や子供の自由に任せて来たし此れからもそれは変わりません。

だから地域社会や仕事においても相手から信じ頼られると何だか窮屈そうになるが、私のやり方に一任されるほうが私の本領を自由に(十分に)発揮することが出来ました。

また私が神仏霊魂の世界を信じる必要が無かったからして50代後半まで無縁だったと思うし、それだけに信じるか否かの精神世界の形に私なりの違和感を感じたのだと思います。

ところが多くの人は信じようとします。
何故なら欲絡みの思惑期待するところがあるからです。

ところが私は自分の出来ることを(自信のあることを)自力を使って(創意工夫しながら)成すことが好きでした。

そしてその自力を超えたことは他力に任すしかありませんから(ほっとくしかありませんから)、その他力に対して不信感や欲絡みの思惑期待で接することもありませんでした。

それだからこそ神を信じたがる人の裏心に思惑期待が込められている事に気付くこともできたわけです。

またそれが邪な欲絡みの精神世界を説く者には(思う壺にはまってくれて)好都合になるわけです。

だから実在しない特別な神を祀り上げて願えば叶うが如くに思わせ見せ掛けると(その教祖主導者が神懸り超能力でも見せれば)その神や教祖指導者に期待感からして信じようとします。

(思惑期待も持てないような神&教祖を信じて頼る人はいません)
(だから思惑期待&信じて頼ることのない完全真理が普及しないのです)

ちなみに神&相手を信じる中に(神&相手の心意識を信じるのではなくして)自力自信の欠如した自分を信じたがる(偽りの自信を持ちたがる)その自己陶酔・自己暗示・自己洗脳が隠れているように思います。

言い換えれば見えてもいない神を信じることのできるそんな度量力量&能力のある自分を過大評価したり自己陶酔の自惚れからしてそれを偽りの自信にしているのかもしれません。

だから思い思惑期待を持ってからして人を愛することでも神を信じることでもありません。

そこで束縛制限する事無くまた否定反発や不信感や欲絡みの思惑期待を持つことなく平常心(自然体&自由意識)で接していれば、それは裏のない愛でもって接しているのと同等になると私は思っています。
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不完全な信仰宗教に限らず完全な神の愛を説く完全真理さえも不完全になる原因は?

2013年03月18日 | Weblog
このブログに来る人は(概ねにして)神を信じるためでもなく、また学び知った事を実践するためでもなく、
未だに知り尽くしていない部分があればその精神世界&神仏霊魂の世界を深く学び知り自分なりに極めたいがたいがために来ているものと思います。

それだけに国内に限らず諸外国にある信仰宗教の形式規律や説教の中身に違和感を持っている人も多いと思いますし、
中には自分が何処かの宗教に染まっていたりしても、それを盲信している信者で無い限り、やはりどこかに違和感&不信感を持っているはずだと思います。

だから信仰宗教が言う神を信じて心を込めて祈っていればそれで幸せになれるとは決して(心からして)思っていないはずです。

例えその巷で言われるような神を信じている人や信仰宗教で言われるような神を信じている人であったとしても、
その中に潜んでいるのが(隠し持っている思い思惑は)
同じ思いでもって大勢が集っているときのその安心安全の心持&自己満足(満ち足りた思い)を味わうためであったり、また先々の思惑期待感からして神を信じている振り(見せ掛け)をしているだけのはずです、
そしてまた仲間と共に充実した思いでもって奉仕活動や布教活動をしていても心なし何処かに違和感&不信感を隠し持っているはずです、

何故ならば生まれながらにして不信感を持っているのが人間だからです。

その持ち前の不信感からして見えている人間同士さえも信じられないのに、何で見えてもいないその不確かな(言うだけ聞くだけの)神を信じることが出来るでしょうか。皆さんもそうでしょう。

ところがその神を特別に思えば期待感からして信じることが出来ます。
だから不確かな神を信じることは特別意識になり、
その特別な思いからしてその特別な思いの思惑期待を持つことになり、
その思惑期待を叶えてもらいたいがために信じたがっているだけになります。

何たって(信じて頼っていなければ)その特別な神が振り向いてくれるはずもないと勘違いして(思い込んで)いるからです。

それを言い換えれば、巷の神社仏閣でお守りやお札を買って(無いよりは有る方がいいだろうと)少しでも御利益があることを期待しているのと同じなのです。
また先祖供養していればその見返りがあるように思っているのと同じです。

その特別な神の御利益を棚から牡丹餅式に期待したいのは山々だが、
しかし自らが本心でもってその神を信じられないその自己嫌悪からして、
その嫌悪感や不信感を打ち消すために(必然からして)自ら思い込み・自己陶酔しその自己洗脳でもって盲信することにもなり、
その信じている度合いが増すほどにその思惑期待感も膨らんでいき、
そしてそれが取り返しの付かないことに巻き込まれていくことにもなり、
その盲信から抜け出せないばかりか、
私は正しいの正義感からして(過去の史実が如くの)(近年のオウム真理教が如くの)人殺し犯罪や無差別殺人や革命戦争侵略のために(思惑理想目的のために)加担するようにもなるのです。

だから神仏霊魂の精神世界であれ、神懸り奇跡や超能力の世界であれ、完全な神の愛を説く真理であれ、
自らの中の不信感を消すために信者意識になっている人も多いし、
憧れ期待からして信者意識になっている人も多いし、
同じような仲間と集うことに何がしの期待をしているところがあったり、
安心安全のお守り代わりにしているところがあったりと、
まさしく不完全極まりない形になっている事実が見られます。

結局は不完全意識の人間が寄り集まっての、神と愛とは名ばかりの精神世界の形を成していて、その中身と言えば信じるか否かの不信感と正義感、また欲絡みの他力依存と思惑期待理想目的のための精神世界であったり、また特別な神を崇拝し祈願するだけのような格好になっています。

だから完全な神の愛を説く完全真理であっても(実践して価値が見い出せるものだけに)
その真理の中に欲絡みの思惑期待を叶えてくれそうな要素が無いだけに、
巷の人を引き寄せる魅力に欠けています。

そこで耕栄さんが客寄せパンダの如くに神懸り超能力を見せたりそのファバラを数々販売することにもなっているようですが(他力依存の思惑期待を満たすために)、それが裏目に出た格好になっているその事実が見え隠れしています。

その実践して価値がわかる完全真理だけにこうして飽きもせずに書いていますが、それさえも「ぬかに釘」だと思って書いていますから、
結局は完全真理も巷の宗教信者の如くに(完全な神の愛の真実実在を知るための実践が無いままに)終わる可能性が十分あります。
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