孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「宇宙のチリ」となるか「宇宙の進化」に乗るか、その最後のチャンスに生きているのが私たちです。

2016年01月31日 | Weblog
良い悪いで判断する矛盾・偽善からして自己満足と不平不満の苦楽の繰り返しをしている事から卒業するために自己縮小の実践を書いています。

その苦楽・喜怒哀楽で生きていることで精神が乱れ心身共に疲れているから、
本来の人間らしさが失われているから、
そこで頑張らない・欲張らない・見栄張らない・素朴謙虚にして気楽・楽ちん・省エネで生きる必要性を書いているのです。

その喜怒哀楽の原因に伝統風習や道徳やまた趣味嗜好娯楽があるから、それらから卒業する必要性があると書いています。

ちなみに私が幼少の頃は家族そろって食事をするのも楽しみでしたし、週に何度か銭湯にへ行くのも楽しみでしたし、盆と正月は大きな楽しみでしたし、趣味嗜好娯楽は主に手作りでした。

とにかく今更この世を昔に変えることは不可能ですから、そこで自分が変わるしかないと書いているのです。

ところが自分が変わるしかないのに柵シガラミからして無理な点があります。

すなわち自分の思い通りに生きるには「自由が基本」に無ければなりません。

ところがその自由を阻害しているのがこの世の縛りです。

だから皆さんは自由に生きているようでも否定反発・排除されたり、また束縛制限・支配されていて、奴隷が如くの不自由な身の上なのです。

自由主義の中で差別され奴隷となっているのです。

ただその自覚不足が玉に傷なのです。

しかも趣味嗜好娯楽・変化刺激・快感快楽の繰り返しリピートで自己満足し続けているから気付こうともしないのです。

また気付いたとしてもこの世は不自由・不平等ですから個人の力量ではどうすることも出来ません。

そこで自らが自由平等調和の意識になっていくしか他に道はありません。

そして孤独にしての自由&独自独歩から始めるしかありません。

となると孤独の自由にして独自独歩に生きている独身・未婚・離婚・離別・別居生活をしている人やフリーターやニートやホームレスの状況になっている人が適しています。

しかしその実践が出来ない限り人間として生きている価値は絶対に味わえません。

然るに自己満足と不平不満の繰り返しの人生で終わり絶対に納得できません。

然るに「それで宜しゅう御座いますか」と問い掛けているのがこのブログですし、
そして東西南北・老弱男女の誰もが公平にして実践できる、その完全なる実践真理を根堀り葉堀り詳細に書いているのがこのブログなのです。

完全なる宇宙・神・愛を説く完全真理がこの世に初めて出て来て、その完全なる宇宙・神・愛意識になるには、先ずは手始めに自己縮小の実践しかないと決定的になったことは、
多分「これが最後のチャンス」だと思っています。

然るに大元の「宇宙のチリ」に戻るのか、
それとも「宇宙の進化」(自由平等調和の人間界)の流れに乗るのか、
その選択時期&最後のチャンスに生きているのが私たち人間です。

「Bライフ」「サイレントテロ」までいかなくても、自然界を味わう<山小屋>生活は如何ですか、

2016年01月30日 | Weblog
70歳前の読者から、一部の若者が「Bライフ」「サイレントテロ」なる生き様をしているとコメントがありました。
そこで検索してちょこっとだけ読んだのですが、まさに究極の自己縮小の形になり、今の私にはその真似は出来ません。

ちなみに世の中・世間を変えることが出来ないのなら(見せしめ的に?)自らが変わるしかないと意図的に始めたようです。
しかし社会に対する反感・反抗的な要素が見受けられるようで、自分の精神安定・心身の健全安全の為に納得してやっているようには感じられませんでした。

ちなみに過去の釈迦やイエスが「此れではダメだ」「何とかしなければ」の強い思いからして行動を起こしたように、
然るに維新革命も、抗争やテロや戦争も、分裂や内紛で大量虐殺になるのも、変化を求めた結果です。

ちなみに皆さんも今のままの状況から脱して新たな生き方に変わりたいという思い思惑・希望願望を持っているでしょうに、

ちなみにそれが世間一般的ならば、恋愛だったり、結婚だったり、出産子育てだったり、また浮気不倫や別離別居離婚になったり、また就労・就職や転職や離職にもなっています。

然るに今では満足できずに変化したがっているのが何らかの形になっているのです。

そして成るようになってフリーターやニートやホームレスにもなったりする人がいるのですが、それも途中結果ですからこの先どうなっていくかはわかりません。

どうやら変化刺激を求めているのが人間なのです。

だからこの世にありとあらゆる生き様があるのです。

そして生き様の変化が多い人もいれば少ない人もいるのです。

然るに私は自己拡大でもって様々な変化刺激を堪能してきましたが、まさか自分の生き様が変わる自己縮小は予想外でした。

ところがその自己縮小によって変化刺激の少ない生き方が精神の安定になり、その精神安定の中で味わう自然界の変化刺激が(当たり前のことなのだが)面白くも楽しくも感じられるようになったのです。

然るに香川県では味わえなかった30cmの大雪が毎年二度三度味わえています。
そして積雪凍結した細い山道をひやひやしながら歩くのも車で走るのも苦ではなくて銭要らずのスリル満点になっているのです。
また枕元に置いていたペットボトルの水が完全凍結して一口も飲めなかったりするのが驚きと可笑しさや面白さにもなるのです。

ところが一年中大雪の中で暮らしているとなればそれが当たり前になりますが、
しかし春夏秋冬が巡り巡っていますから、春は春の、夏は夏の、秋は秋の、喜び楽しさが順巡りに味わえていますから飽きることは有りません。

然るに不満不服・不安心配・恐れが無い精神安定でもって、しかも健康で元気だからこそ味わえている事なのです。

しかし労働に明け暮れていればそんな情緒を味わうことも少ないでしょうし、時には自然界の営みが邪魔臭いことになったり不満不服や不安心配・恐れになることも多いはずです。

ちなみに先ほどの「Bライフ」「サイレントテロ」までいかなくても、
世間的な生活をしている中で暇になると一泊二日なり二泊三日の山小屋生活にして孤独の自由を味わっている人も少なからずいます。
私も最初はそんな感じでした。

だから皆さんも今のままが続くことは絶対にありませんし、また自らの生き様を変える時もくるでしょうに、また真坂の展開も加わることもあるし、
まして老後と死は絶対ですから、

または特別人間の切り捨て御免(近代化・合理化)の容赦ない押しつけや尻拭いやとばっちりを受けるのをやめにして、

また同じ繰り返しの惰性的に生きていることに虚しくなったり(亭主元気で留守がいいと言われるような)意思の疎通が無くて孤独感を感じていたりすれば、

また不自由・不平等を甘んじていた此れまでの生き方から脱して、

または身近な人や人様に面倒を及ぼさない自然死・孤独死・野たれ死やホームレス覚悟にして、

然るに食って寝て糞をするだけのような生き様にして、

すなわち見栄張らない素朴謙虚でもって(山小屋生活風にして)自然界の春夏秋冬を味わう生き方に方向転換したほうが良さそうに思いませんか、

何たって若い時から諸々の新物を先取り先駆け、その中には自家用のモータボートや外洋のチャーター船に乗ってアクアラング潜水・夜間潜水で大ぴらに蜜業をしていたこともあるし、先駆けのビデオ事業で社長とまで言われていた私が本音で素朴謙虚に生きるしかないとまで書いているのですから…それだけの価値があると思いませんか。

矛盾偽善のこの世だけに「特別」に生きるのか<普通>に生きるかの選択になります。

2016年01月29日 | Weblog
過疎地でもって孤独の自由を味わいながら見栄張らない生き方にしてその自己縮小の生き様が16年になりますが、
未だに宇宙船から全裸の美女が降りてくるご縁もなく、
然るに今以上の新たなことが仕組まれることも無さそうだし、
どうやらこのブログも此処止まりになり、これ以上に進展することは無いでしょう、

然るに「此れしかな=この世に稀マレなるブログ」の現状のままで止まり、それ以上新たに進化することもないから、まさに此れしかないで=「最終的に結着」=したようです。

そして根堀り葉堀り書く事も内容的に似通ったことが多くなりましたので…それそろ終わり時かもしれません。

別件ですが創業以来から続いていたのが一件残っていてたのですが(保育園のビデオ撮影)それを腐れ縁が如くに続いていた後輩に引き継いでもらうが決まり、
また父親の米屋のあとを継いだ時以来の施設への米の納入もとうとう合理化で弾き飛ばされて納入できなくなりました。

然るに暇で退屈しているうえに、居残る妻や娘夫婦や孫や高齢者の姉がいる地元に帰る用事がまったく無くなり、
また牛舎のパートも頭数が減っているから長くは続かないかもしれません。

何はともあれ現在は食って寝て糞をしながらにして生きている以外にしている事となると、このブログと一日一時間のパートが15日間あるだけになりました。

だからビデオや米納入のために地元に帰らなくなると少しは寂しいかと思いきや、
ところがところが、何やら清々さっぱりして縛りから解放されてスッキリ爽やかになったのです。

然るに内容が良いことであっても、時たまに起こる変化刺激は精神的に疲れるのです。

すなわち有るのなら有るままにずーっと続いていれば普通で何てことないが、時たまにしか無いのなら最初から無いほうが心を乱さないで済むのは確かです。

すなわち食って寝て糞をしながらにして生きているだけで一日が終わるその繰り返しだけのほうが単純で当たり前=特別のない普通=で終われるのです。

それを判り易く言えば携帯メールが元から無ければ何の問題もなかったのに便利な携帯メールが出来るようになって心を乱すことにもなったのです。

然るに良いことがあれば悪いこともあるのです。

だから自然界に元からしてなかった人為的な形のすべてに心を乱す要素・矛盾偽善があり、また自然界を汚染し破壊崩壊させる原因にもなっているとして、その事実を根堀り葉堀り書いているのです。

とにかく特別が無いほうが精神的には楽ちんなのです。

なのに何かと特別を望むからその矛盾・苦楽・偽善が絡んでおかしげになっているのです。

ちなみにたった一つや二つだけでも、それが無くなって気分的に楽になったのですから、皆さんも余計余分なことを一つ二つと無くしていけばいいのです、が、
その一つや二つで終わって如何にも自己縮小したかのように錯覚勘違い自己満足して、しばらくすると何でか「楽しまなくちゃ」に舞戻り、その特別な生き方が続くことになるのです。

とにかく私の身辺整理が整いつつありますから、いつしかブログを書く事も卒業するかもしれません。

ただ今は必然としている人が何人かいるようですし、他に時間つぶしになることが見当たらないから…

特別人間のとばっちりを受けているのは普通の庶民です。

2016年01月28日 | Weblog
ちなみに私が幼少の頃は一家に一台の自転車も無かった時代でした。
商売用に電話が設置されたのは中学生の頃です。
そして商売人が自動三輪車・ミゼットに乗り始めたのは成人したころですが、我が家はまだ自転車でした。
しかし現在は大人の人数と同じかそれ以上の車両・乗用車が走っていることでしょう。

ちなみにいつの世も特別大好き人間がこの世を動かして文明文化が進化発展してきましたが、その進化発展した文明文化を真っ先に味わえるのも特別大好き人間です。

ちなみに高尚な伝統芸能や音楽絵画造形などの芸術も、
自動車や蒸気機関車に乗ったのも、船舶や飛行機に乗ったのも、最新鋭の乗用車に乗るのも、
また最新鋭の医療機器や高価な薬剤や神の手を持つ医者に頼れるのも、
またロケットで地球から離れたのも、
然るに宇宙旅行を真っ先に楽しむのも特別人間です。

ところが自然環境が悪化して困っているは皆が同じですから何やら不公平に思いませんか、
しかも特別人間は環境汚染に影響されない自衛策も真っ先に講じることが出来ます。

と言うことからして特別人間のとばっちりをまともに受けているのは普通人間です。

そして遅ればせながら何とか庶民に行き渡るころには、それより先に行っているのも特別人間です。

そこで庶民も特別人間を目指すのですがそう簡単ではありません。

何たって一握りの人しか特別にはなれないのですから。

だったらその特別人間になることをやめた方が楽ちんではありませんか、

ところが庶民が頑張らなければ特別人間は困ります。

だからご褒美を見せびらかして特別になりなさいとけし掛けているのです。

その道理が理解できるならば自己縮小も容易いものです。

何たって特別人間の為ではなくなり、自分の為になることだからです。

しかしピラミッド構図が簡単には崩壊しませんから、
先ずは自分の為に・自分の精神の為に先陣を切って己が自己縮小するしか他に道はありません。

「どうしようもない」○○丸出しで人間を終えますか?!

2016年01月27日 | Weblog
このブログ開設から2900日が経過していますが、此れまで筋道の通った異論反論がありませんでした。
何たって矛盾のない完全真理が基本であり、私の生き様が特別ではなくて素朴謙虚なことからして、ごく当たり前のことを普通に書いているからだと思います。

然るにこのブログを読んで異論反論が無いと言うことは概ね納得できたからだと思いますが、
納得できたのなら実践の必要性も理解納得できたはずです。

しかもシンプルで東西南北の老弱男女の誰もが公平・平等・自由にして実践できる真理ですから、既に多くの人が実践できているはずだと思っていますが、
しかし此れまで多くの人にご縁がありましたが、実践意識が途切れかかっている人や諦めてしまっている人が多いようです。

となれば体が馬で頭が人間ならまだしも、生殖機能がある下半身だけが人間で上半身が馬やサルの半獣人同然だと思いませんか?

それともカバがひっくり返ってぶざまに寝ていたり、スキまが抜けていたり、アホウ鳥が座布団に座り込んでいたり、そのオクにビョウ風を立て掛けていたり、カラスが勝手にほざいていたり、聞き耳を立てるも心が動かず、動けば藪から棒にかき回し…

それでも飽き足らずに、隣の芝生をちょこちょこのぞいてみたり、有料なサクラ見学に行ったり、良いのか悪いのか賞味期限を確かめるようなえり好みしていたり、知ってか知らずか食わず嫌いが板についていたり、特別に華やかで飾り立てているところに足が向いていたり、バーゲンが如くに人山・人だかりが出来ているところに引っ張られたり…

井の中の蛙、同じ穴のむじな、ドングリの背比べ、
石橋を叩いて渡るも皆と一緒に赤信号を渡る、
自らが首を絞めて墓穴に入る、ドツボにハマる、ミイラ取りがミイラになる、

そんな「どうしようもない」○○丸出しで人間を終えますか?!
異論反論があれば書き込んでください。

愛で生きますか、愛情で生きますか。

2016年01月26日 | Weblog
愛は普通です、だから良くも悪くもありません。

愛情は特別です、だから矛盾があります、然るに裏切りがあります。

愛はほっとけますが、愛情はほっとけません。

然るに触らぬ神に祟りなしは愛になります。

しかし愛情は疫病神になります。

然るにほっとけなかった釈迦やイエスら諸々には愛がありません。

だから神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなどを施す者には愛がありません。

しかしこのブログには愛があります。

然るに自力自信の精神力が高まり磨かれます。

なのに愛情を選ぶのが人間です。

何たって特別が大好きだからです。

然るに私も特別が大好きな人間でしたから様々なことを先駆け自己満足していましたが、これで果たして=大丈夫なのか=と違和感・疑問に思ったことからして、次第に自己縮小に進むことになりました。

そんな経緯の中に仕事も結婚も家族や子供のことも含めて多くが成り行き任せにほっといていたところと、何やら私は涙もろく人情にもろいのに何故か感情が高ぶらないという矛盾を自己認識していました。

然るに今思えば特別な愛情よりも普通にしている愛が私には似合っていたようです。

然るに愛情よりも愛で生きる自己縮小となり楽ちんな生き様になっています。

だから=皆さんもどうですかと=ブログを書いています。

「働いたら負け」発言=資本主義経済で勝ち組であっても精神世界では=負け組=なのは確かでしょう。

2016年01月25日 | Weblog
古今東西のお歴々や自己縮小の実践意識になっていない人たちをボロカスに書くのが続いていますが、
人為的な楽しみも少ない私には、また大したこともしないでグータラしている私には、それが一種の楽しみみたいになっていて、何やらブログを書く意欲になっているみたいです(笑)

然るにどなた様かが何糞魂になって、じゃ実践して見せてやる、となればいいのですが、そんなうまい具合にはならないでしょう。

ところがこのブログをフリーターやニートやホームレスの人が読めば目から鱗や鬼に金棒になるかもしれません。

何たって私自身が自己縮小の実践の必要性を講演会で聞いてから水を得た魚の如くに自信たっぷりになったのですから、

ちなみにテレビ特番で「働いたら負け」と言ったニートが現れるように、資本主義で勝ち組であっても精神世界では負け組なのは確かでしょう。

何たって働くのは生きて行く為の手段であってそれが本文ではないからです。

しかも働いた後の余暇は単なる時間つぶしですから、同じ時間つぶしでも銭金の要らない省エネな生き方のほうが自然界にはマッチしています。

ちなみに差別貧困飢餓状態の人が世界中に多くいるのに「楽しまなくちゃ」なんて言える人の精神は負け組になります。

しかもその銭稼ぎで余分に働くことになれば、働きたくても年齢制限や適性能力でふるい落とされている人や食って行く為に仕事を探している人には迷惑な話です。

とにかくドングリの背比べから抜け出して己が思うままの自己縮小を実践するほうが精神的には勝ち組になれますから、世間がどうであれ、自信たっぷりに楽ちんにしておれます。

しかも自己縮小が進むほどに矛盾のない完全なる自然界と接し触れ合うことが居心地よくて地上の天国にも思えるようになるのです。



特別大好き人間の時代がどんでん返しからして自己縮小の集団がリードする時代になるかもしれません。

2016年01月24日 | Weblog
信じるか否かを書く事は人を引き寄せるための手段になりますからあまり書く事もありませんが…我ながら少し気になっていることを書きます。

最近はフリーターやニートやホームレスがたびたび登場してくるし、世間に馴染めないでいる引きこもりの人が増えていることからして書くのですが、
然るに世間の下層・片隅でいる人の生き様は自己縮小の形に相当します。

中には自己拡大中にどんでん返しが仕組まれて(それでも生きて行かなければなりませんから)フリーターやニートやホームレスになった人も多いと思います。

そして見栄を出す事さえなくなり、また無理するほどでもないと諦めていたり、ただ一日を無事に終われば缶ビールと弁当で労をねぎらい、あとは寝るだけのような感じなっていれば、
まさに自己縮小そのものです。

また引きこもりが長く続いていても内心では何とかしなければと自問自答するもののなかなか行動に移せないでいる人も多いと思います。
然るに衣食住に贅沢するわけでもなく、あれこれと趣味嗜好娯楽に走るわけでもなく、ただ時間つぶしが家の中で終わっていますから、
まさに自己縮小と同じです。

とにかく自己拡大していた者が否応なしに自己縮小になる仕組みがあるからには、
遅かれ早かれ絶対的に自己拡大が終わる時が来るのです。

そして自己拡大から遠のいていた者が仕組まれて精神的に目覚めたときに=なーんだ、何も特別に生きなくても良かったんだと気付き、それが「水を得た魚」のようになればその生き様が自力自信に満ちてきます。

そのきっかけがこのブログだったり、または世界的大恐慌や大惨事やお先真っ暗になる自然現象だったりして、此れまでの特別大好き人間がいっぺんにへしゃげ込むような事態になれば、
そこで伊達やしゃれで実在していたわけでもないから、何かお役使命があって存在する意味があったわけですから、
その自力と自信の精神力、底力を発揮する出番が来たとばかりに、水を得た魚&鬼に金棒となって、その底辺から意識的な動きが起こるかもしれません。

そして多くの人が特別人間を精神的に卒業することになります。
しかもそれが同じような仲間に伝わりますから(以心伝心)(101匹目のサル現象)次第にその輪が他国にも広がっていく仕組みがあります。

何はともあれ特別大好き人間が地球環境を汚染し破壊し崩壊に追いやっていますからそのしっぺ返し&どんでん返しが必ず起こります。
そして特別大好き人間ほど上の位置にいますからそのどんでん返しも大きくなるのは当然ですから、たぶん二度と立ち上がれないままに惨めな思いでもって「何で私が…こんなことに…」と仕切りに悔やみながら死に至り、
しかも地球銀河系からも弾き飛ばされて二度と戻ってくることは有りません、と言われています。

しかし自己縮小が進んでいる人はどんでん返しも大きくはありませんから、何とか持ちこたえて前に進むことが出来ます。

となると此れまでは特別大好き人間の集団だったのがどんでん返しからして自己縮小の集団が次第にリードする時代になるとも言われていますが、それは定かではありません。

しかし特別人間の時代がいつまで持ち堪えられるかわかりませんが、
とにかく現在の状況からして次第に終わりに近づいているのは(始まり終わる仕組みからして)確かなようです。

此れまでの苦楽・喜怒哀楽で生きることから<卒業する>ことが基本です。

2016年01月24日 | Weblog
此れまでいろいろと書いてきましたが、結論的に言えば、
この世の精神世界・スピリチュアル関係は(完全真理以外は)不完全で矛盾偽善がありますから、そこで何を成せども同じ矛盾偽善の繰り返しになるだけです。

然るに如何なる宗教やスピリチュアル関係に関わっていても己の中にある良い悪いで判断する矛盾偽善意識が消えることは絶対にありません。

だから巷の不完全で他力的で特別な神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーに何かと頼り集まることではなかったのです。

そして精神世界は己の為にあることですから、すなわち自分の為の精神世界だから外向けではなくて己の中の精神世界と向き合うことであり、基本は己の精神が安定することにあります。

然るに此れまでの苦楽・喜怒哀楽で生きることから<卒業する>ことにあります。

だから喜怒哀楽が伴う人為的で特別な趣味嗜好娯楽のマニアやオタクになったり、その先生師範や巨匠宗家になることではありません。

ましてそれらを超えた文化芸術に関わってその道のベテランや先生や匠や芸術家などの特別人間になることでもありません。

然るに喜怒哀楽が伴う人為的で特別な伝統芸能や風習に従ったり、それを守るためでもありません。

まして矛盾偽善意識の者が思い考えた得手勝手な道徳なんて守る必要もまったくありません。

また自然環境の悪化・破壊崩壊の元となる現代科学や自然の摂理に反する現代医学や国家政治経済や指導教育や開発技術技能に関わる特別人間になることでもありません。

まして巷の神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーを成す特別人間やその信者になるために生きているのではありません。

然るに東西南北の老弱男女の誰もが公平にして実践できる、頑張らない、欲張らない、見栄張らない、その素朴謙虚にして生きる自己縮小の実践でもって、それら諸々の特別人間&喜怒哀楽から卒後することです。

そうなれば生きて行く為の手段である仕事以外の余暇時間を心静かにしていれば不平不満が出てくることもなくなり、今ある衣食住で十分に満足できるし、また完全なる自然界の恵みや当たり前が如くに起きている自然界の変化刺激を味わい楽しめる普通人間にもなるのです。

然るに誰もが特別人間になることは中々無理だが「差の無い」当たり前の普通人間になることは誰もが実践できるのです。

だから特別人間を終わらせて普通人間に戻ればいいのです。

そうなれば此れまで自己拡大し続けていたことが無駄ではなくなり、事実にして自己縮小を味わえば、普通人間に戻ったその良さをしっかりと味わえるのです。

然るに二度と自己拡大でもって生きることにはなりません。

そんなことを根堀り葉堀り書いているブログです。

「亭主元気で留守がいい」「触らぬ神に祟りタタリなし」は事実です。

2016年01月23日 | Weblog
(何度も書いていることですが)良い悪いで判断する矛盾意識・偽善を持っている限り何を成せども同じ不完全で矛盾偽善がある結果になります。

だから学校の教科書に記載されるほどのマザーテレサを金の亡者と書いたり発明王のエジソンやノーベル賞のダイナマイト兄弟や音楽家のベートベンさえもぼろかすに書いています。

また釈迦やイエスやヒットラーを相手にせずに(触らぬ神に祟りなしで)ほっとけばどうなったでしょうか、
自問自答してください。

ちなみに自然界に逆らってダムを建造することで治水や発電に貢献しますが、しかし河川に水・土砂が流れなくなり川魚が減り海岸がやせ細り海藻が減り魚たちに悪影響しているし、栄養要素を含んだ水が海に流れ込まなくなって海洋生物が減っているし、しかも家庭排水が滞り河川の汚染汚濁が起きています。

ところで子供の成績を気にして成績が上がれば褒めて喜び自己満足すれば、しかしその成績が上がり続けることは無理がありますから、いつしか下がればそれが不平不満になります。
ところが元からして成績を気にしないでその事実だけを確認するだけなら自己満足にも不平不満にもなりません。
然るに触らぬ神に祟りなしとなります。

ちなみに「亭主元気で留守がいい」というのも事実です。
然るに見えないところでいて元気でいれば何の問題にもなりません。
然るに触らぬ神に祟りなしになります。

とにかく表れた事実だけを見てほっとけば何の問題にもなりませんから、当然ながら矛盾もなく完全ですから、そのまま・このまま・あるがままの完全なる宇宙・神の愛と同じになります。

然るに前もって思い考え詮索したり予測したり注意や用心を促したりするのは余計なことで無駄になります。
例え思惑が事実になっても、その思惑が原因で事実現実になったのではありません。
勘違いしないでください。
たまたま思惑が当たったと言うだけでその結果事実は起きるべきして起きたことですから思惑とはなんら関係がありません。

とにかく成り行き任せにして、その成り行きからして何か結果が出れば、その現れた結果・事実を見るだけにして、そこで良い悪いで判断しなければ宇宙・神・愛の完全意識となるのです。

しかし持って生まれた不完全意識からして良い悪いで判断してそれが自己満足になったり不平不満になっているのが私たち人間なのです。

そこで頑張らない・欲張らない・見栄張らないの自己縮小の実践をし続けて、成り行き任せの触らぬ神に祟りなしの実践にして、
その素朴謙虚に生きることからして当然ながら自己満足も不平不満も減りますから、その苦と楽の喜怒哀楽の矛盾の繰り返しで生きることから次第に解放されるようになるのです。

そして完全なる宇宙・神・愛意識に一歩ずつ近づくことになるのです。

然るに素朴謙虚にして生きると言うことの基本は良い悪いで判断しない神意識・愛意識・完全意識に近づくことなのです。

そして素朴謙虚にして生きることで精神が安定してきますから、いつの間にやら喜怒哀楽で生きることもなくなり、そしていつの間にやら良い悪いで判断しない生き様=いちいち良い悪いで判断する必要もない生き様に変わってくるのです。

それがこのブログであり、私の生き様そのものです。