私は成り行き任せの必然ご縁で生活していますから、その人間関係も当然ながら成り行きの必然ご縁になります。
だから人間関係でおかしなことになるのは殆どありません。
また車に乗っているだけにそのトラブルがあるとそれも私の意識が原因からして仕組まれた必然ご縁と意識しますから、そこで出来る限りにおいて他力を使わずにしてその自力で自己責任を果たすべき行動になります。
だから数年前にパチンコ店に駐車していた単車のキーが抜かれていたのも私のミスですから、そして時間も夜中だったことからして馴染みの整備工場に電話して無理を頼むことよりも自分で2時間あまり単車を押して(田舎だけに)その整備工場に持ち込みました。
それもすでに深夜ですからそのままにしておいて、そこから自宅までの山道を2時間半ほど登って帰宅しました。
その間に困ったと思ったことはありませんで、ただ独り月夜の明かりを頼りにして呑気そうに月景色を見ながら疲れることなく夜道を黙々と登り歩いてその自己責任を果たしているその思いだけでした。
そして先日のことですが、雪模様からして昼間にスモールライトを点灯して帰宅したのですが、積雪とその凍結からして自宅途中の広い道に駐車しました。
ところが翌朝パートに出るために車に乗るとバッテリー放電でエンジンが掛かりませんでした。
それがいつも通りに昼間にスモールライトを点けずにいたら、またいつも通りに自宅横に停めていればライト点灯に気付き防げたはずですから(いつもと違うことが重なった結果だけに)尚のことに仕組まれたことになるのです。
此れも私のミスが原因ですから馴染みの整備工場や知人に頼らずに山道を2時間弱歩いてパート先に来て、そこのオーナーの軽トラック(四輪駆動)を借りてその車のバッテリーで私の車のエンジンを始動するために(人を巻き込まないために単独で)そこから引き返す事にしました。
ところが此れも仕組まれたのか、自宅近くまで来たのにスリップしてそれ以上登れなくなったので四駆にしようとしても(長期間使っていなかったことから)その操作レバーがぜんぜん動かずじまいでした。
そこでバッテリーだけでも外して自宅の車まで運ぶべく準備をしているときに運良く(仕組まれたが如くに)近所の人が歩きながら通りかかったことからして、その人が自宅からわざわざ四駆を運転してきてそこで私の車のバッテリーに接続してやっとのことで一件落着しました。
その私のミスからしてその自己責任を果たすべく(他力に依存せずに)自力でもって何とかしている時に運よく人が通りかかり親切にしてくれることは前もって思い思惑期待していなかった予期せぬことですから、この場合も成り行きの必然ご縁の愛が仕組まれたことになります。
ところで何で自分のミスの自己責任を果たすために出来る限り他力を使わずに自力を多く使うのか、
それは自己責任を自力でもってやればそれだけ反省できるし、その意識からして同じようなことが仕組まれないためでもあり、自己責任を果たしたその分だけ自力と自信が備わるから尚更に自力を使うことをためらわなくなるのです。
そしてこの先で大きな有事が起きたときに自力と自信からして「困った」「困り果てた」と思うその意識の尺度が当然ながら違ってきます。
ところが「どうしようもない」のが公的機関です。
地デジ放送からしてアナログ放送が過疎地では観れなくなりその代わり光ケーブルの有線放送代金月1500円とNHK受信料の支払いが必要になることからして、そのきっかけからしてテレビ放送を観ないままに現在に至っています。
また5年ほど前にスピード違反で一万五千円の反則金を納入しなければ(そのままにほっとけば)刑務所に入ることになると明記していました。
そこで僅かな年金暮らしで反則金が払えないし暇で退屈しているから(衣食住と仕事付きの)刑務所に入れてくださいと頼んだら僅かな反則金で刑務所に入れるわけにはいかないのか4ヶ月以上粘ったが刑務所には行けそうも無いので致し方なく反則金を支払いました。
先日は高齢者講習を受けていなければ免許更新が受けられないとして、わざわざ都合をつけてまで遠くの免許センターに出掛けたのに無駄足になりました。
そして高齢者講習を自動車学校で受講する事になるのですが、そこへ出掛けると一ヶ月に一回の講習しかなくて既に予約で一杯だからと4月の更新ぎりぎりの予約になるようです。
それにしても高齢者講習を「少しの時間」(費用5800円也)受けたからとて普段とはそんなに変わるはずも無く、関係者各位が良かれと思いついた単なる「名目だけ」の余計で面倒なばかりで殆どが無駄に思えます。
それでは高齢者だからと「のけ者」差別や虐めが如くに思えて、何でそんな事になるのかと(不完全意識からして)(交通安全協会の成すことに)久しぶりに苛立ちました。
その苛立ちに執着したために(意識が縛られ)それが先程に書いたスモールライト点けっ放しに気付かずにバッテリー放電の原因になったのです。
だから自らの意識が原因からして仕組まれその結果が出ると言うことです。
その次の日にまた香川県に行く用事があったのですが、その行く道に天気が良かったからかネズミ捕りが一箇所仕掛けられていましたし、その帰り道で香川県と徳島県の二箇所でネズミ捕りがありましたが、そのうち一箇所が進行方向だったのですが10キロオーバーくらいだから引っ掛かりませんでした。
すなわちこの世に<偶然>はなくして、また運が良かった悪かったでもなくして、すべてが意識が原因のその必然ご縁で仕組まれてその結果が「見える形」に出ているのがこの世なのです。
それが交通事故ともなれば、その意識が原因の「一秒のミスが」<一生の不覚>にもなるのです。
だから原因である意識が「見える結果」になるこの世は人間精神の学びの場なのです。
だから人間関係でおかしなことになるのは殆どありません。
また車に乗っているだけにそのトラブルがあるとそれも私の意識が原因からして仕組まれた必然ご縁と意識しますから、そこで出来る限りにおいて他力を使わずにしてその自力で自己責任を果たすべき行動になります。
だから数年前にパチンコ店に駐車していた単車のキーが抜かれていたのも私のミスですから、そして時間も夜中だったことからして馴染みの整備工場に電話して無理を頼むことよりも自分で2時間あまり単車を押して(田舎だけに)その整備工場に持ち込みました。
それもすでに深夜ですからそのままにしておいて、そこから自宅までの山道を2時間半ほど登って帰宅しました。
その間に困ったと思ったことはありませんで、ただ独り月夜の明かりを頼りにして呑気そうに月景色を見ながら疲れることなく夜道を黙々と登り歩いてその自己責任を果たしているその思いだけでした。
そして先日のことですが、雪模様からして昼間にスモールライトを点灯して帰宅したのですが、積雪とその凍結からして自宅途中の広い道に駐車しました。
ところが翌朝パートに出るために車に乗るとバッテリー放電でエンジンが掛かりませんでした。
それがいつも通りに昼間にスモールライトを点けずにいたら、またいつも通りに自宅横に停めていればライト点灯に気付き防げたはずですから(いつもと違うことが重なった結果だけに)尚のことに仕組まれたことになるのです。
此れも私のミスが原因ですから馴染みの整備工場や知人に頼らずに山道を2時間弱歩いてパート先に来て、そこのオーナーの軽トラック(四輪駆動)を借りてその車のバッテリーで私の車のエンジンを始動するために(人を巻き込まないために単独で)そこから引き返す事にしました。
ところが此れも仕組まれたのか、自宅近くまで来たのにスリップしてそれ以上登れなくなったので四駆にしようとしても(長期間使っていなかったことから)その操作レバーがぜんぜん動かずじまいでした。
そこでバッテリーだけでも外して自宅の車まで運ぶべく準備をしているときに運良く(仕組まれたが如くに)近所の人が歩きながら通りかかったことからして、その人が自宅からわざわざ四駆を運転してきてそこで私の車のバッテリーに接続してやっとのことで一件落着しました。
その私のミスからしてその自己責任を果たすべく(他力に依存せずに)自力でもって何とかしている時に運よく人が通りかかり親切にしてくれることは前もって思い思惑期待していなかった予期せぬことですから、この場合も成り行きの必然ご縁の愛が仕組まれたことになります。
ところで何で自分のミスの自己責任を果たすために出来る限り他力を使わずに自力を多く使うのか、
それは自己責任を自力でもってやればそれだけ反省できるし、その意識からして同じようなことが仕組まれないためでもあり、自己責任を果たしたその分だけ自力と自信が備わるから尚更に自力を使うことをためらわなくなるのです。
そしてこの先で大きな有事が起きたときに自力と自信からして「困った」「困り果てた」と思うその意識の尺度が当然ながら違ってきます。
ところが「どうしようもない」のが公的機関です。
地デジ放送からしてアナログ放送が過疎地では観れなくなりその代わり光ケーブルの有線放送代金月1500円とNHK受信料の支払いが必要になることからして、そのきっかけからしてテレビ放送を観ないままに現在に至っています。
また5年ほど前にスピード違反で一万五千円の反則金を納入しなければ(そのままにほっとけば)刑務所に入ることになると明記していました。
そこで僅かな年金暮らしで反則金が払えないし暇で退屈しているから(衣食住と仕事付きの)刑務所に入れてくださいと頼んだら僅かな反則金で刑務所に入れるわけにはいかないのか4ヶ月以上粘ったが刑務所には行けそうも無いので致し方なく反則金を支払いました。
先日は高齢者講習を受けていなければ免許更新が受けられないとして、わざわざ都合をつけてまで遠くの免許センターに出掛けたのに無駄足になりました。
そして高齢者講習を自動車学校で受講する事になるのですが、そこへ出掛けると一ヶ月に一回の講習しかなくて既に予約で一杯だからと4月の更新ぎりぎりの予約になるようです。
それにしても高齢者講習を「少しの時間」(費用5800円也)受けたからとて普段とはそんなに変わるはずも無く、関係者各位が良かれと思いついた単なる「名目だけ」の余計で面倒なばかりで殆どが無駄に思えます。
それでは高齢者だからと「のけ者」差別や虐めが如くに思えて、何でそんな事になるのかと(不完全意識からして)(交通安全協会の成すことに)久しぶりに苛立ちました。
その苛立ちに執着したために(意識が縛られ)それが先程に書いたスモールライト点けっ放しに気付かずにバッテリー放電の原因になったのです。
だから自らの意識が原因からして仕組まれその結果が出ると言うことです。
その次の日にまた香川県に行く用事があったのですが、その行く道に天気が良かったからかネズミ捕りが一箇所仕掛けられていましたし、その帰り道で香川県と徳島県の二箇所でネズミ捕りがありましたが、そのうち一箇所が進行方向だったのですが10キロオーバーくらいだから引っ掛かりませんでした。
すなわちこの世に<偶然>はなくして、また運が良かった悪かったでもなくして、すべてが意識が原因のその必然ご縁で仕組まれてその結果が「見える形」に出ているのがこの世なのです。
それが交通事故ともなれば、その意識が原因の「一秒のミスが」<一生の不覚>にもなるのです。
だから原因である意識が「見える結果」になるこの世は人間精神の学びの場なのです。