孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

原因である意識・心が「見える結果」になるこの世は、人間精神の学びの場なのです。

2013年02月26日 | Weblog
私は成り行き任せの必然ご縁で生活していますから、その人間関係も当然ながら成り行きの必然ご縁になります。
だから人間関係でおかしなことになるのは殆どありません。

また車に乗っているだけにそのトラブルがあるとそれも私の意識が原因からして仕組まれた必然ご縁と意識しますから、そこで出来る限りにおいて他力を使わずにしてその自力で自己責任を果たすべき行動になります。

だから数年前にパチンコ店に駐車していた単車のキーが抜かれていたのも私のミスですから、そして時間も夜中だったことからして馴染みの整備工場に電話して無理を頼むことよりも自分で2時間あまり単車を押して(田舎だけに)その整備工場に持ち込みました。
それもすでに深夜ですからそのままにしておいて、そこから自宅までの山道を2時間半ほど登って帰宅しました。
その間に困ったと思ったことはありませんで、ただ独り月夜の明かりを頼りにして呑気そうに月景色を見ながら疲れることなく夜道を黙々と登り歩いてその自己責任を果たしているその思いだけでした。

そして先日のことですが、雪模様からして昼間にスモールライトを点灯して帰宅したのですが、積雪とその凍結からして自宅途中の広い道に駐車しました。
ところが翌朝パートに出るために車に乗るとバッテリー放電でエンジンが掛かりませんでした。
それがいつも通りに昼間にスモールライトを点けずにいたら、またいつも通りに自宅横に停めていればライト点灯に気付き防げたはずですから(いつもと違うことが重なった結果だけに)尚のことに仕組まれたことになるのです。

此れも私のミスが原因ですから馴染みの整備工場や知人に頼らずに山道を2時間弱歩いてパート先に来て、そこのオーナーの軽トラック(四輪駆動)を借りてその車のバッテリーで私の車のエンジンを始動するために(人を巻き込まないために単独で)そこから引き返す事にしました。

ところが此れも仕組まれたのか、自宅近くまで来たのにスリップしてそれ以上登れなくなったので四駆にしようとしても(長期間使っていなかったことから)その操作レバーがぜんぜん動かずじまいでした。

そこでバッテリーだけでも外して自宅の車まで運ぶべく準備をしているときに運良く(仕組まれたが如くに)近所の人が歩きながら通りかかったことからして、その人が自宅からわざわざ四駆を運転してきてそこで私の車のバッテリーに接続してやっとのことで一件落着しました。

その私のミスからしてその自己責任を果たすべく(他力に依存せずに)自力でもって何とかしている時に運よく人が通りかかり親切にしてくれることは前もって思い思惑期待していなかった予期せぬことですから、この場合も成り行きの必然ご縁の愛が仕組まれたことになります。

ところで何で自分のミスの自己責任を果たすために出来る限り他力を使わずに自力を多く使うのか、
それは自己責任を自力でもってやればそれだけ反省できるし、その意識からして同じようなことが仕組まれないためでもあり、自己責任を果たしたその分だけ自力と自信が備わるから尚更に自力を使うことをためらわなくなるのです。

そしてこの先で大きな有事が起きたときに自力と自信からして「困った」「困り果てた」と思うその意識の尺度が当然ながら違ってきます。


ところが「どうしようもない」のが公的機関です。
地デジ放送からしてアナログ放送が過疎地では観れなくなりその代わり光ケーブルの有線放送代金月1500円とNHK受信料の支払いが必要になることからして、そのきっかけからしてテレビ放送を観ないままに現在に至っています。

また5年ほど前にスピード違反で一万五千円の反則金を納入しなければ(そのままにほっとけば)刑務所に入ることになると明記していました。
そこで僅かな年金暮らしで反則金が払えないし暇で退屈しているから(衣食住と仕事付きの)刑務所に入れてくださいと頼んだら僅かな反則金で刑務所に入れるわけにはいかないのか4ヶ月以上粘ったが刑務所には行けそうも無いので致し方なく反則金を支払いました。

先日は高齢者講習を受けていなければ免許更新が受けられないとして、わざわざ都合をつけてまで遠くの免許センターに出掛けたのに無駄足になりました。
そして高齢者講習を自動車学校で受講する事になるのですが、そこへ出掛けると一ヶ月に一回の講習しかなくて既に予約で一杯だからと4月の更新ぎりぎりの予約になるようです。

それにしても高齢者講習を「少しの時間」(費用5800円也)受けたからとて普段とはそんなに変わるはずも無く、関係者各位が良かれと思いついた単なる「名目だけ」の余計で面倒なばかりで殆どが無駄に思えます。

それでは高齢者だからと「のけ者」差別や虐めが如くに思えて、何でそんな事になるのかと(不完全意識からして)(交通安全協会の成すことに)久しぶりに苛立ちました。

その苛立ちに執着したために(意識が縛られ)それが先程に書いたスモールライト点けっ放しに気付かずにバッテリー放電の原因になったのです。
だから自らの意識が原因からして仕組まれその結果が出ると言うことです。

その次の日にまた香川県に行く用事があったのですが、その行く道に天気が良かったからかネズミ捕りが一箇所仕掛けられていましたし、その帰り道で香川県と徳島県の二箇所でネズミ捕りがありましたが、そのうち一箇所が進行方向だったのですが10キロオーバーくらいだから引っ掛かりませんでした。

すなわちこの世に<偶然>はなくして、また運が良かった悪かったでもなくして、すべてが意識が原因のその必然ご縁で仕組まれてその結果が「見える形」に出ているのがこの世なのです。

それが交通事故ともなれば、その意識が原因の「一秒のミスが」<一生の不覚>にもなるのです。

だから原因である意識が「見える結果」になるこの世は人間精神の学びの場なのです。

巷の人間関係には何かと窮屈するがそれが自然界相手ならそれを素直に味わうだけです。

2013年02月26日 | Weblog
山の中の水源が枯れたことから水不足になって(悪いことになって)それが縁で思ってもいなかった温泉三昧の日々に(良いことに)なりました。

ところがそこで思わぬ問題が(都合の悪いことが)出てきました。
それは大勢の人がいる温泉風呂でありその脱衣場だからして此れまで通りにヨレヨレの下着をはいていけなくなったわけです。
また洗いざらしのシワだらけの着衣のままには行き難くなり、生まれて始めてアイロン掛けすることになったわけです。

と言うのも我家の生活と牛舎の仕事だけならボロ着やヨレヨレの下着であっても何ら差し支えは無いが、その仕事帰りに温泉場へ立ち寄るとなると作業着を着替えて少しは身奇麗にして行かなければ(自分は良くても)他の人に不快感を与えることにもなるからです。

だから私としては人の集るところへ行くには普段と違った身なりをしなければならないのが負担になるのです。

それを個人の自由だからとしてそのままにして出掛ければ私が原因で人様を不愉快にさせる(巻き込む)結果になるのを知っているから、(規律に反する刺青をしているわけでもなく)(ボロ着が誰かに危害を加えるわけでもないが)私なりにその配慮・気遣い・思いやりからして普段の私の自由がそこで犠牲になるのです。

そんな他愛無い、些細な、温泉風呂に行くことでさえ精神世界&意識の世界に係わるその学びと実践と気付きになるのです。
そして小さなことから大きなことにつながり拡大進化していることにも気付くわけです。

それともう一つ余計な問題が出ました。
それは我家のお風呂より明るくて便利で快適な温泉だから長湯になるし、ボディシャンプーとヘアシャンプーが備え付けられていることからしてそれを使って念入りに洗っていたら冬場に多い乾燥肌になってかゆみ症状が出てきたことです。

まさしく良いことも有れば悪いことも有るというその矛盾通りになりました。


ところがそんな人間関係とは違って相手が自然界だと私には何ら問題はありません、だから巷の人間関係の中で暮らすよりも自然界を相手にしているほうが気楽に過ごせるわけです。

だから暑い夏場には木陰で涼むことが出来るし冬場は囲炉裏端で薪を燃やして暖を取れることからして街中では味わえないものです。
また雪景色の時の朝焼けでその雪景色がオレンジ色に輝いたり、また満月のすっきりした夜空であればその雪景色が青白く輝くのを見ることができます。

もし私に芸術的センスがあればそれを絵画にしたり写真を撮影する事になるのでしょうが、私はそれらを長く見つめるとすぐに飽きてきます。

どうやら私にはそれら一方向からの受身型の他力の鑑賞よりも(テレビを含めて)自力で何かを成しながらもその創意工夫をしている方が似合っているようです。
ところが何か成すことがなければ暇だ退屈だとパチンコ通いにもなるわけです。

「愛vs人情愛情の欲」「他力依存vs自力自信」「自由に生きる」「今を生きる」

2013年02月24日 | Weblog
完全真理は不完全を否定してはいません。
その不完全の矛盾する裏表を知りその事実を知ることにあります。

その不完全な事実を知ることからして矛盾の無い完全な神の愛(天地創造・全知全能の仕組み&宇宙の法則・自然の法則)を知ることになるのです。

だから人集め金集め物売りにして精神世界を説くその形を否定しているわけではありませんで、その必然性とその裏表&真実事実を説いているのです。

同じくして人情愛情の恩や儀を否定しているのでは有りませんで、不完全な人間関係の中では必然にしてあるのです。

また医科学を否定しているのでもなく、その医科学の恩恵を受けながらもその副作用弊害を知りそれに依存しないことを説いているのです。

だから同じくして精神世界で説かれている神仏霊魂や神懸り超能力者を信じて頼ったりそれらに依存することが無いように説いているのです。

また人情愛情には裏があるから、その人情愛情の他力に依存したり執着しないことを説き、その裏のない自由にしての人間関係を築くことを説いているのです。

また他力依存の生活からしての快適便利な都合の良い生活を求めることで時代が進化するもその弊害で自分の首を自分で絞めているその現実事実に気付き改めて自力を多く使う素朴な生活に戻ることで此れまで見失っていた(忘れていた)小さな満足&素朴な満足(価値観の伴わない満足)に気付きそれで満ち足りた思いになれることを説いているのです。

すなわち<他力依存>からしてこの世の形もその人間関係もおかしなことになっているその事実を知ることです。

またその他力依存からして自由を失っているその事実を知ることです。

そしてその<自由>なくして平等も調和の人間関係も絶対に無理だと言うその事実を知ることです。

そしてその他力依存となる原因が<欲>にあること。

またその欲からして人間関係が作られそれを守ろうとするから尚更にこの世がおかしなことになっていることを知ることです。

しかしその欲をなくすることも土台からして無理です。

だからその欲が出ないような生き方生活が必要になりますが、それが素朴に生きることでもあるのです。

その素朴に生きることからして安心安全意識が高まり守り意識が次第に薄れていき後悔未練執着拘りも否定反発も束縛制限することも無くなっていきます。

そうなれば当然の如く「自由さえあれば」それでよしとなり「今を生きる」ことにもなり、それを素直に味わっていればそれで十分になり、過去現在未来の事を気にしなくなり、ただ生きているだけで満足な心持に到るようになります。

以上の事柄が「絵に描いた餅」にならないように(私は)その実践意識でもって日々を生きています。

しかし独自独歩の孤独だけにせめても人情愛情の表だけにして裏を出さない(否定反発・束縛制限しない)その人間関係で共に学びあい歩むことを意識していますが、それさえもどうやら無理で私には力不足のようです。

自由には愛があります、だから「ほっとく」のも相手の自由に任せた愛になります。

2013年02月21日 | Weblog
個人の自由(自由意識)を手にしても不完全意識には変わりありません。
しかしその自由を味わえばその自由を自らが手放したりまた自由を阻害するようなことをしなくなります。

そして自らが自由であるためにも人様を否定反発することも束縛制限することも無くなりますから、その人様を(間接的に愛でもって)自由にしたことにもなります。
そして不完全意識の人間関係の「どうしようもない」ことに自らが立ち入れないで「ほっとく」のも相手の自由に任せた愛になります。

その不完全な人間関係の「どうしようもない」ことを「何とかしようと」試み頑張るのが人情愛情です。

その愛情人情の試みによって根本的に解決できなくても、仮に上手くいけば(何とか成れば)それを喜び合うも、しかし根本的に完全解決していませんから一時の自己満足で終わり、また同じような問題が出続けます。


自分が自由でいるために欲張り無理をしなければ何がしを手放した格好になりますから、その手放した分(あまり分)を間接的に受け取れる人が何処かにいるはずです。
そして誰かは知らないがその分を受け取ることが出来た人には愛を施したも同然になります。

ちなみに欲張る人がいなくなれば、此れまで欲張って多くを手にしていた余分なものが世界中に広がり出ますから、此れまでなかなか手にできなかった人たちに出回る事になりその格差が次第に無くなっていきます。

だから逆に私が欲張れば誰かに行き渡る分を私が奪った事になるのです。

また自分が自由でいるためにも守り意識を持ちません。
だから失うことがあってもそれを無理に取り戻すこともしません。

そのままにほっといておいて必然ご縁の成り行きに任せます。
また何かと否定反発してそれらと闘い守ろうとはしません。

となると成り行き任せになります。
そして欲張りませんから当然ながら必然のご縁に限られます。
そして来るものは拒まず去るものは追わずの自然体になります。

また自分が巻き込まれたり人を巻き込まないためにも(自分の自由のためにも)いらぬ口出し手出しすることもありません。
それが身近な家族であっても(放任にして)その人の性格個性役割に任せます。
だから私としては宇宙・神の愛に任したことになります。

そのほっとく中に必然ご縁があって私を必要とされたならば出来る限りにしてほっときません。
それが自分に出来ることであれば無理なく出して相手の思いに応えます。
そして相手が喜ぶ結果になっているのが私の喜びになります。

また人様が喜んでくれるだけで私は十分だから私の中には恩着せはありません。

しかしそれでも必然とされたことが私には無理ならば(無理をしたくないから)はっきりと断ります。
それが原因でその後の縁が切れても、それも成り行きですからほっときます。

ほっとくは、ほっとけ、ほっとけさん、仏さんに任す、神仏の愛に任すことにつながります。

完全な宇宙・神・愛には一切の特別がなくて皆に公平で平等自由なわけです。

2013年02月20日 | Weblog
人は良い悪いで判断して生きているところがありますから、
生きている中にどうすれば良いことになるか、
またどうなれば悪いことになるかを学び知ります。

そして誰しも悪いことになることよりも良いことになるほうを選びます。
だからその「良いとこ取り」して生きることになります。

しかし何もしなければその苦労もありませんが、
良いとこ取りのその良いことをしようと思えばそれに向けた行動労力からしての苦労を(自らが買ってでも)背負わなければなりません。

それを山登りに例えると、
上を目指して上がり続けなければ目的頂上には辿り着けません。
しかも上り道だけに急げば急ぐほど息も苦しくなるし時には滑ったり転んだりもしますから苦労の連続にもなります。

しかしその甲斐あって頂上に辿り着けば一時の大きな喜びになります。

だから良いとこ取りを目指してそれを手にしたときも同じです。

ところが一時の満足では勿体無いと思ってその手にしたものを手放さなければ当然ながらそれを守り続ける事になります。

そうなると此れまでの努力苦労と同等な努力苦労をし続けなければ守り維持していけませんし、絶えず変化し続ける世の中だけにその状況の変化で此れまで以上の行動労力の苦労が必要になります。

だから一度手にしたものを守ると言うことは大変なわけです。

その守ることに苦労しているのにそれに加えて身近な人間関係の矛盾が原因のその生き方人生にも重なり更に疲れるのです。
そして疲れたからと立ち止まればやがてその人間関係から見放されて坂を転がるように下っていきます。

そんな人生を振り返ったときに自己満足したことは殆ど記憶から消えているのに失敗したことや嘘や言い訳で正当化し誤魔化したことの苦々しい思いや恥ずかしい思いやまた悲しい思い悔しい思いや嫉妬心や腹立ちなどはなかなか消えていないのです。

だからそのままに人生が終わるようならば虚しい人生で終わります。

ところがそこで反省することになり此れまでの良いとこ取りの裏が出ていると気付き悟ることになると、
此れまでの人生が無駄にならずに精神世界の学びにつながりそれを活用できるようにもなるのです。

そして何度も書いているように
完全な神の愛の精神世界を知ることからして、この世の矛盾の裏も表も知ることになり、そして残る人生を神の愛の精神世界で生きていくことになれば、
否定反発もない、束縛制限されることもない、その自由意識でもって、

欲張ることもなく、余計な無理も無駄もなく、執着もなく、
必然のご縁の人間関係の中で気苦労することなく、

また過去に執着することもなく、また先々の思い思惑に期待することもなく、また不安心配恐れもなく、
その「ないない尽くし」のお陰からして有事に強い自力と自信でもっての生き方に変わりますから、
この世にある様々な他力依存から抜け出すこともできますし、
また不完全な神仏霊魂を説く信仰宗教や神懸り超能力者に惑わされることもなく、またそれらに頼る他力依存や願望や祈願からも抜け出せます。

そしてこの世で何か事を成すために生きているのではなくして、この世の矛盾のその裏表を味わいながらも完全な神の愛を学び知り気付くために生かされ生きていることを悟ります。

そして自らの意識が原因からしてのその結果事実を素直に味わいながらも成り行きの自然体にして生き続けていれば、その完全な神の愛の仕組みによって成るようになり続けます。

その先がどうなるかは己の意識次第で決まります。
だから宇宙・神・愛には一切の特別がなくて皆に公平・平等なわけです。

大きな満足感を味わっていると小さな満足感では物足りなくなるのです。

2013年02月19日 | Weblog
家族一緒に暮らしていても皆が皆(自己中心の個人意識でもって)自分の思いで生きていますから、己の都合からして同じ屋根の下で暮らしているも同然です。
そして時々は相手の我がままな思いを叶えてあげるときやまた許し合うときがあるのです。
また互いの我が侭な思いが一致したときにその我がままを共に叶え合ったりしているのです。

そしてその我が侭が思うようにならなければ不満不足の思いが出てくるのです。

そして優しさ思いやりからして自分を犠牲にしてまでも相手の思いに添うことができるのが人情愛情です。
そして自分が犠牲になったことで相手が喜べばその犠牲になった甲斐があるということで自己満足できますが、その裏心には犠牲になってあげた、尽くしてあげた、良いことをしたと言う思いが潜在します。
また中には神が見ていてくれただろうと思う人もいます。

そして今度は私の番よとばかり相手の犠牲を思い思惑期待することになったりまた強いじるが如き思いにもなります。

そしてその思いが叶わなければ不満になったり時には裏切られたと恨み嫉妬することにもなり、そのあだ討ち仕返し報復することを思い考えるときもあります。
そんな私はではないと言い切れる自信のある人はいないはずです。

何たって思い思惑も判断もなく当たり前が如くに常に自分の持っている力を満遍なく出せるのは神意識の愛だけだからです。

そんな我がまま同士が人間関係を構築しているのですから、その関係を守るためには愛情人情もその義理や恩義も必要になるのです。

しかしそれでも一方の我が侭な思いが強すぎるとヒステリックになります。
だから親が子にヒステリックになるとその子供を叱りつけることにもなりますし、その親に押さえ込まれていた子供がその親に対してヒステリックになると世間によく見られるような諸々の家庭内騒動やまた子供同士の問題に発展します。

またそれが恋人や夫婦関係であれば恋愛破綻や夫婦破綻・家族崩壊になります。
だったら此れまでの愛情人情は何だったのよ、となります。

しかし大方は己の見栄や世間体や己の生活の都合からして何とかその関係を守ろうともします。

その人間関係を守るための人情愛情にも厄介な問題があります。
それは人情愛情を感じて受け取るその尺度が人それぞれに違いがあることであり、しかも時と場合では赴きが表になったり裏になったりして違ってくることや、また尺度が常に変化していることです。

すなわち欲からして人情愛情の度合い尺度が変化するのです。

そして欲絡みだけに(自己満足の結果だけに)それを求めることが切りもなく続くのです。

だから満ち足りた思いを味合わない限りそこで止まることができないのです。

となると望む尺度が小さいほど満ち足りた思いになるのが早まります。

だから素朴に生きることを望んだ人ほど満ち足りた思いで暮らすことが早まると言うことです。

しかも素朴に生きているだけに(心の余裕から)人様の人情愛情を感じ受け取るその感受性・精神力・意識力も高まっていますから、些細なことからでも気付き満ち足りた思いで暮らせることにもなるのです。

だから(不完全意識であっても)己の意識の中の思いの尺度が小さいほどにその小さな満足で十分になるのです。

しかし人間は評価してその差をつけるその価値観で生きているところがありますから、その己の価値観からして同じ満足であってもその満足「感」の度合いが大きくも小さくもなるのです。

それを例えれば同じ一万円の価値が人によっては大きくも小さくも思えるということです。

そして大きな満足「感」を味わっていると次第に小さなことを見落としたり気付かなくなったり、またその小さな満足「感」では物足りなくて更に上を求め欲しがることにもなるのです。

ちなみに満足は満足なのです(価値は同じなのです)

だから大きな満足でなくても小さな満足で心を満たしてくれるのです。

だから欲張り無理しない(執着しない)素朴に生きることを書いているのです。

それが夫婦家族であれば円満調和な暮らしになるのです。

ところがそう上手く行かないのもこの世でありその人間関係なのです。

だから致し方なく(己が巻き込まれることも己が巻き込むこともない)(気にしないでほっとく)己が一人の自由な独自独歩になるのです。

自由になったことで不完全意識ながらも新境地が開いたような心持で生きています。

2013年02月18日 | Weblog
私たち個人が自由になれないその原因を書くならば

そこで私が自由になるには
まず義理・人情・愛情や絆と言われる「しがらみ」関係を断ち切らなければなりません。

その中には先祖を供養し守る、親孝行を守る、夫婦家族親戚・友人知人・師弟関係を大切に守る、互助精神・助け合い精神を守る、国家社会地域を守る、ets
とありますが、それらを言って聞かせて我慢させたり説いて納得させたりして押し付け無理強いすることは個人の自由を奪う事になりますから、あくまでほっといて個人の自由意識に任すしかありません。

また伝統風習も「しがらみ」です。
特に冠婚葬祭・慶弔ごとのお祝いお見舞いお悔やみ法要供養・列席参列、季節・節目・記念の祝い事、ets

これ等に一度でも巻き込まれたり巻き込んだりすると(参加したり始めれば)そのしがらみからして離れられなくなります。

勿論、道徳規律も個人の自由を束縛制限していますから、その道徳規律を守れば自由ではなくなります。

だから私は過去の柵(しがらみ)から離れ、また(上記のような)新たな柵を作り残さないためにも、その人間関係を重視していませんから当然ながら深いお付き合いにはなりません。

だから(自分が自由でありたいためにも)必然ご縁の成り行き任せであり、来るものは拒まず去るものは追わずの自然体になります。

また私が身近な人を巻き込んでその人の自由を邪魔しないためにも、身近な人から世話されることや親孝行されることを望んでいません、だから介護も見舞いも不要として「ほっといて」も私は大丈夫と自信でもって伝えています。

だから独居孤独死覚悟ですし、献体登録していますから身内の葬儀法要もお墓仏壇参りも必要ありません。

すなわち柵をなくすることで私が自由になれるし、また他の人を私の柵に巻き込まないように心掛けていますから、当然ながら私の柵に巻き込まれれる人はいません。

だから柵に巻き込んだり巻き込まれたりしませんから尚更に自由が多くなります。

だから(国家社会は別として)私は個人的なことからは自由になっています。

しかも大そうなことを書いていますが、そのわりに「清水の舞台から飛び降りる」ほどの勇気・決心決断や相当な覚悟も必要ありませんでした。

「飛び立つ水鳥、水を汚さず」の如くに、
私の過去・柵を残さずにきれいサッパリにして(身近な人の目の届かない)隣県の過疎地で自由な独居生活を新たに始めただけです。
しかも月々5万円の国民年金頼りなのに何の不安心配も恐れもない食って寝て糞をするだけの生活でした。

その結果からして言えば「しがらみ(柵)」があるほどに自由がないことです。
すなわち皆して(とげのあるきれいな言葉に惑わされて)自他共に自由を束縛制限し合っているのです。

そして自由になったことで不完全意識ながらも新境地が開いたような心持で生きています。

<自由>の中に平等があり調和の平和があります。

2013年02月17日 | Weblog
自由がなくして平等も平和もありません。
だから混沌とした世の中世界がいつまでも続いているのです。

だから確かな自由を見失っている状態にあります。
なのにその自由の真実を見い出そうとしません。

そしてその自由を「絵に書いた餅」同然にしているのです。
だから何を言っても「ぬかに釘」なのです。

何も皆してこの世の中を自由にしなさいと書いているわけでもなく、
先ずは自らが自由になることを書いているのです。

ところがこの世で自由になると孤独になることを恐れているのです。
しかしこの世では孤独にならなければ自由にもなれないその不完全な人間関係があるのです。

だから不完全な人間関係を守ることではなくして自らが手放すしかありません。

何たって貴方を自由にしてくれる人は誰一人としていません。
また誰一人として頼れる人もいません。

だから自力とその自信の独自独歩でもって自由に生きるしかありません。

しかし自由になられては困る人が多いのです。
だから国家社会も勿論のこと、世間の常識や伝統風習や道徳でもって束縛制限しています。

また自由を説くはずの神仏霊魂の精神世界を説くその信仰宗教さえも信者を束縛制限しています。


また一番頼れるはずの身近な家族さえも自由を見失っているのですからどうしようもありません。
それを無理して自由になろうとすれば無責任・薄情者と叱責されます。

だから自らが自由になるためには多くを手放すしかありません。

その「失って得るのが自由」なのも皮肉です。

しかし多くを手放さないで自由になるには不完全な人間関係を気にしないで自由勝手気ままに生きるしかありません。
ところがそうなるとやはり失うものが多くなります。

それも平気の沙汰で気にせずに自由を味わっていれば、
これまた「失うことで得るもの」があります。

それが失うことで気付くことになる「素朴」さです。

その素朴さに満足できるようになれば、
何がなくても自由さえあればの心持で、
しかも守るものが少ないだけにその分だけ安心安全な心持を味わえます。

しかし自らが自由を味わっていなければやはり先立つ不安心配や守り意識からして実行実践することが難しいようです。

だからせめても人間関係を気にせずにその自由意識でもって試みその成り行きを素直に味わいつつ自由の真価に気付いていくしかないようです。
しかしそれも道半ばの中途半端な実践で止まり元の鞘に収まることになるでしょう。

そしてこのブログを読むだけで心なし知ったかぶりをすることでしょう。
またそれを承知で書いているのも(暇で退屈している)私です。

そしてあとは有事の際に役立つことになればと、あわよくばと願っています。

この世とその人間関係に自由がなくても己だけなら自由になれます。

2013年02月17日 | Weblog
矛盾の無い完全な真実の神の愛を説く完全真理を少しでも判り易く書いているつもりですが、しかしこの世の形やその人間関係が不完全で矛盾しているだけにその実践となるとそう容易くはありません。

何たって人様に言って聞かせただけでは実践実行しないから、それを何とかして実践実行させたいたいがためにその精神世界を説いているというような矛盾がありますから、そう簡単ではないわけです。

それに似たような事例を書けば
例えば学校児童たちに学校の規律に従わせるためにその校則を掲げそれを守らすことで学校運営が何とか円滑に進みます。

しかし学校となれば公的機関ですからそれも致し方ないかもしれませんが、しかし私的なことでそれに似たような事例が信仰宗教にあります。
例えば聖書経典をマスターしなさい、その神仏霊魂を信じなさい、崇めお祈り祈願しなさい、それらを説く教祖・宗教家・神懸り超能力者の言うことを信じなさい、それに従いなさい、
隣人を愛しなさい、地球人類のために祈りそして布教宣伝しなさい、困っている人を助けましょう、善行を積み重ねましょう、

と言うように表では良いように思えてもその裏では束縛制限されたり押し付け強要されているところがあります。

すなわち表の校則を守るためや良いことを守らせるためにその裏で自由が阻害されるいるのです。
それも致し方ないと思うかもしれませんが、その裏には先導する者の邪な思惑都合が隠れています。

だから学校や宗教を守り進化拡大させるために、その学校側のための学校や宗教家のための宗教となっていて、その裏では学童や信者が何かと不都合不自由になり犠牲になっているのです。


ところが矛盾も妥協も無い完全真理ならどうでしょう
比較競争することもなく、善悪優劣損得で判断することもなく、その自由と平等とその調和でもって生きることになりますから、
否定反発もなく、束縛制限もなく、押し付け強要することもなく、
欲も無く、無駄も余計なこともなく、執着もなく、
潔癖や完璧を求めることもなく、
私を守るために闘うことになるその正義感もなく、

その「ないない尽くしに種はなく」
その種がなければ花も咲きません。
すなわち原因がなければその結果(良い悪い)もありません。
すなわちこの世の人間関係に何の問題もなくなります。

とにかく完全真理を知ることからして誰に気兼ねなく先ずは己が自由になれるその術(真実事実)を知るのに、何で不自由からして始まるその不平等不調和の道を進むことになるのでしょか、
皆さんと同じ不完全意識の私ですが、何でなそうなるのか不思議でしかたありません。

いったい何処に原因があるのでしょうか、
とにかく自分のことは自分に聞くその自問自答しかないようです。

否定反発&潔癖完璧症候群、信仰宗教と超能力と精神世界と完全真理、他力依存願望と自由。

2013年02月17日 | Weblog
信仰宗教には否定反発がありますが完全真理には否定反発がありません。
だから己に否定反発があると完全真理の実践がし難くなります。
それが過ぎると潔癖精神症となりそれが完璧精神症にもなっていきます。

その過ぎた(潔癖完璧症候群からの)否定反発が精神面で現れると虐待いじめや不登校や引きこもり家庭内暴力からうつ病ノイローゼ痴呆症やそして自殺願望ややけくその無差別巻き込み犯罪事件にまでいたることがあります。

またそれだけに臭いや汚いのを嫌うことからして手洗いが習慣になっていてそれが病的になっている人も多いようですし、外出から帰るとう手洗いやがいで止まらずに汗ばんでいたらシャワーやお風呂で念入りに清潔にしてそして新たな着衣に着替える人も増えているようです。

その否定反発したがる意識が原因で肉体的な拒否反応・過剰反応・抗体反応のアレルギー体質や過敏症にもつながっています。

だから過ぎた否定反発からしての症候群や病的になっている人は良い悪いで判断している信仰宗教が似合っていても、否定反発の無い完全な神の愛を説く完全真理には向いていませんから尚更にその実践は無理になるでしょう。

だから信仰宗教や病院に足しげく通うことにもなっているし、それが完全真理であっても信者意識の仲間になれても実践意識の仲間にはなれないようです。

しかも自力と自信が無ければ他力依存の人間関係が自由を束縛制限するし、
自由な神や愛の精神世界の学びの邪魔をすることになるし、
神仏依存や神懸り超能力者に頼り願いすることにもなるし、
また現代医科学に依存することからして弊害副作用で苦しむ事になったり薬漬けや薬物依存になるし、
巷のPCネット・電子ゲーム・メールなどの依存症や趣味嗜好娯楽に依存することにもなっています。


ところで人間は意識で生きていますから必ず思いを持って行動することが多くなりますし、また先々のことまで思い考えて予測したりしますから、その思い思惑を持ったままに行動することがあります。

それを食事に例えれば、何処の店の何が美味しいだろうと前もって思い考え、その思いを叶えてくれそうな店に出向き食事をしますが、それが美味しいとか不味いとかで判断して満足したり不満になったりします。
ところが空腹で何かを食べて満足するだけなら余計なことをあれこれ考えないで済むし空腹を満たせば何でも美味しいものになります。

だから思いを持つことからしてそれが叶ったりまた裏切られたりと思う事になり、その矛盾・苦楽を味わう事になるのです。

そしてどんなに用心注意していても、また一生懸命に頑張り努力していても、良いことばかりが続かない事実があるのです。
そして成すことが大きくなるほどにその苦楽も大きくなるのです。
そしてその執着心が精神面にダメージ・ストレスとして残るのです。

だったら良いこともなければ悪いこともない(単純素朴にして)食って寝て糞をしながら生きているだけのようならば常に平常心で平穏な生活になります。

その変化刺激の苦楽を味わう生き方よりも(過去よりも)(現在の)その変化刺激の苦楽が少ない平穏な生き方のほうが人間らしい生き方が味わえることを知ったことからして未だに食って寝て糞をするだけが如くの生活が13年近く続いているのです。

またその生き方生活からして「有事に強い」その自信と自力が備わりました。
何たって「生きて」さえいればいいのですからそれ以外の不満不足や不安心配が出てきません。
そして成り行きからして有事に遭遇する事になっても「生きて」いてそれが味わえればそれでいいわけですから大した不満不足にもなりません。

その生きてさえいれば十分に思えるのも、
不完全なこの世で何か事を成すために生きているのではないことを知っていること、
またこの世の形ある矛盾やその人間関係を気にしないままに呑気気まま自由に生きていることであり、
また信じるか否かもない完全真理の説くその矛盾の無い精神世界を意識して生活しているし、
また自らの中に隠れ潜んでいる不完全意識の有り様を見つめながらの、その気付きを元にした生き方生活からして(ブログに書いているように)

世間一般の常識や伝統風習や道徳やまた神仏霊魂の精神世界を説く信仰宗教や神懸り奇跡の超能力やの矛盾と不完全さまでも自分なりに見極められるようになったのですから(私にしては)申し分のない(今を生きている値打ちのある)その生き様を味わっているからです。