孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

他力絡み・欲絡みの精神世界なのですか、自力・自信の精神世界ですか。

2013年05月02日 | Weblog
神仏霊魂の精神世界になると何だか自力で出来ないことを可能にしてくれそうな、そんな教え導きにも思えます。
だから「信じるか否か」になり「他力依存」が加わります。

ところが自らの中の精神&心を教え導く精神世界だと自力で出来る事になります。

となると欲張り無理することよりも今の自分の個性に見合ったことを成すようになりますから、その人それぞれの役割を無理なく果たすための精神世界になります。

だから欲絡みの精神世界なのか自力の精神世界なのかになりますが、大方が何らかの欲絡みの精神世界に自らが入っていくようです。

そしてその欲張ることからして自らが歩む道を間違った事に気づいた人はその欲から離れられる精神世界を学び知る方向になります。

ところがその欲張ることから離れられる精神世界を望んでいたはずなのに、ところが思い思惑理想目的からして自分には出来そうもないことになると(自力を超えると)その必然からして他力を望むようになります。

その思いからして大方の人が神仏霊魂や神がかり奇跡の超能力者や霊能者の類が係わるその精神世界に頼ることになります。

とどのつまりは他が原因ではなくして、自力で成せないことを精神世界に頼りたがるその自力と自信の無さからして自らが間違った道に進む事になるのです。
だからこの世に精神世界を説く形がいくらあっても要を足さないわけです。


だからして私がいつも書いているように自らの意識でもって独自独歩に精神世界の学びとその実践をしていくことからして(他力が介在しないだけに)(また惑わされないだけに)それが自力にも自信の積み重ねにもなっていくのです。

そして自らが実践している中で実感でもって気付き悟ったことがこのブログに書いている内容になります。

そしてその結論として、食って寝て糞をしながらも何とか気楽に生きることからして、この世の矛盾&人間関係に溺れる事無く安心安全の心持で過不足の無い普通に生きていける、その事実を書くことになったわけです。

ところが私が実践しているような事柄は既に多くの精神世界で導き説かれていることであり、また誰でもが容易く実践できることなのに、それが何故かその実践をためらっているから、その矛盾の中でその苦楽を繰り返し味わい続ける結果になっているのです。

ちなみに私が正しいとばかりに私の真似をしなさいとは書いていません。
人それぞれの個性に見合った実践でやってみればいいことです。


ところが不完全な矛盾する意識を持った者同士が集まるこの世だけに一筋縄で事足りるわけではありませんから、どうしても実践が疎かになるのです。

だったらその人間関係を気にする事無く「気楽」に生きていくことしか他に道がないとも書いているのです。

それに役立つのが必然ご縁に限った人間関係の中での「成り行き任せ」であり、何を成そうともその結果は不完全なだけに余計なこと無駄なことをしないでほっといておいて、その省エネでもって気楽に生きていけばいいとも書いているのです。

これ等の内容説明が精神世界に反する事に思えるならばそれを自問自答して自らが思うがままに実践すればその結果が見える形になってそれを実感でもって味わい気付く事になります。

だから何はともあれ(教祖等の他力に従うのではなく)(自分のことだけに&自分に似合った&自分に出来ること)自らの意識でもって「実践」するしかないのです。
そしてその結果からして自らの中で気付くことができればそれが自分のもの(本物)になるのです。