孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

植木等の「スーダラ節」・・・わかっているけどやめられない!・・・その言訳正当化・誤魔化しと<欲>

2011年08月31日 | Weblog
完全真理を学び知り気付いてその実践をすることからして、たとえ「完全意識」になったとしても、また奇跡を成すことが出来るようになっても、その完全意識によって人様の命・意識を直接的に変革・改革・操作することは出来ません。
ましてその完全意識を身近な家族や人様に分け与えることも譲ることも出来ません。
・・・すなわち人様の為ではなくして、自分の為の完全真理(完全意識)なのです。
だから人様の事を気にせずに、独自独歩で学び知り気付き実践することも出来るわけです。

また人様に真理を押し付け強要しても、それが余計なことで無理があります。
また人様が真理の実践が出来ていなくても、それが自分に関係ないことからして、とやかく言うことでも思うことでもありません。
とにかく(他力に頼る事無く)(人様に関係なく)各々が自分で気付き学び知り実践していくしかありません。

だから自分が完全意識になってから、身近な家族や人様の事を意識するようになっても、決して遅くはありません。
・・・それまでは人それぞれの自由意識に任せて、余計な口出しをしないで、静かに見守るしかありません。
しかしそれが実践できないのは(人様を巻き込むのは)、己の思いに何らかの<欲>があるからです。
・・・その欲を持っての行為行動・実践であれば、何をやっても結果的には無駄になります。
しかもその無駄になることを学び知っていても、その欲に気付かなかったり、またその欲を捨てられないのです。

そうして完全真理を学び知り実践している中であっても、自他共に不完全意識だけに、どうしてもその矛盾・苦楽・喜怒哀楽をあじわうことになります。 しかしそれも完全真理を深く学び知るためには必然ですから、それをあまり気にしないで(執着しないで)自らがその不完全に気付いたことが更なる実践の自信になればいいのです。
とは言っても不完全意識で苦楽を味わうことよりも、やはり余計な事をしない、無理しない、素朴に生きる、その必然ご縁のお仕組みに任せた気楽な生活の方が意識が開放されて更なる気付きが起こりやすいようです。

ところがその気楽に生きる事が物足りずに、(完全真理を知っているのに)余計なことに無理をしている人もいるでしょう。
だからその余計な事を無理にしているのを内心で知っているのに、それを裏に隠して、それも必然だからとか、あとで気付けば無駄にはならないとかで、自分を納得・言訳正当化で誤魔化し、自分の欲心を隠し偽っている場合も多いと思っています。
・・・気付かないでやっているのと違って、気付いているけれど(致し方なく・背に腹を返えられずに)やっているのです。
・・・私がパチンコに行くように、やめてもいいのだがやめないで、自分なりに言訳正当化してパチンコに行っているようなものです。

またその言訳正当化してまでやる行為行動が副収入やアルバイトやまた趣味嗜好娯楽の場合でも、その形の中の不完全な人間関係で苦楽・不満と満足を味わっているのと、私のパチンコのように一人相撲(人を巻き込まず・人に巻き込まれず)の自己責任で、呑気気ままの気楽にやっている場合とでは、そのメンタル面での影響では相当な違いがあると思います。

またその一人相撲(自力の独自独歩)であれば世間とかかわることも少ないことからして、その人間関係での人情・愛情・恩や儀に反したと思われて恩知らずだ薄情だとか裏切ったとかの云々に巻き込まれないですみます。

また私のバイトのように、必然ご縁あってその先方・雇用主から求められた必然で行っているのと、自らが捜し求めて得た(無理した)必然ご縁とでは、その雇用関係や給与関係のメンタル面でも相当な違いがあると思います。

また接し触れ合う相手が牛様と人間様とでは、これまた精神面での苦楽・満足と不満が違います。
そして牛様が相手なら臭い汚いやハエが気になりますが、人様の感情や精神が原因の苦楽・不満と満足に巻き込まれずにすみますから、人様に気を使う事無く、自分が思うがままの気楽さでやっていけます。

だから同じ不完全意識の不完全な形を味わう事になる「生きる」為の犠牲・仕事の場合であっても同じでして、不完全意識の人間様を相手にすることが多いのと、あるがままの自然界の動植物(畜産・農業・漁業)が相手なのとでは(前項と同じく)その違いが相当違ってきます。

また特定の一箇所の限られた範囲で同じことを(うんざりするほど)繰り返し味わうよりも、フリーターのように様々な形・環境で色々と味わう方が人間的にも(肉体的感情的精神的にも)学び気付くことが多くなると思います。

また同じ不完全意識の人間関係の中で生きているからには義理・人情・愛情・恩義を大切にすることも必然・必要ですが、それら大義名分が無くても※人間は生きていけますから、そんな不完全なややこしい感情を意識して生きていくことよりも、それら世間のしがらみから離れて、自由意識のままに独自独歩の自力と自信でもって、この世の仕組みの必然ご縁のままに任せて、無理をせずに、執着せずに、素朴に生きる事を意識しているほうが、感情を酷使することも無く、精神的にも呑気気楽・楽ちんなのは確かです。

すなわち宇宙・神の意識は「あるがまま」ですから、それに反する人間感情の義理・人情・愛情・恩義を大切にして人間関係を守り保つことよりも、またその人間感情を大切にして宇宙・神の真実を学び知り気付くことよりも、それら不完全な形・関係はもう既に十分味わっているのだから、あとに残るのはその不完全意識に「気付く」ことだけですから、それら「しがらみ」から離れて、必然ご縁の成るがままに任せ、呑気気楽に生き長らえながら、気疲れしない自然界と関わることが多くあって、その「あるがまま」の宇宙・神の完全意識を学び知り<気付く>ほうが「楽ちん」なわけです。

その「楽ちん」に生きる事を実際に味わっていないだけにそれでは不足に思い違いして、できれば不完全意識の義理・人情・愛情・恩義の「感情」の裏表で味わえる、その変化刺激に富んだ事から神・宇宙の完全意識を学び知り気付こうとする生き方を選んでいるのかも知れませんが、しかしながら結果的にはその感情に巻き込まれたり、執着することになったりして、(刺激変化に富んだ)(波風の立つ)苦楽・喜怒哀楽で生きることから抜け出せずにいるのに(それが事実なのに)、それを言訳正当化し誤魔化し続けて(実践しているつもりになって)いるから、(私のパチンコのように)やめようにもやめられないのかもしれません。
・・・植木等の「スーダラ節」・・・わかっているけどやめられない!・・・ですね。

私達のごちゃごちゃした不完全意識によって、その私達の感情体や精神体が「気疲れ」しているのです。

2011年08月29日 | Weblog
完全真理で言うところの「あるがまま」の宇宙・神には「命・意識」はありますが、思い考えることはありません。
もし思いがあれば、その思いは時と場合によっては(尺度・幅が)変化しますから、変化する不確かな意識、不完全意識となります。

だから宇宙・地球・人類・万物を創造したのは、何らかの思い考えがあってのことではなくして、元々からのお仕組みに組み込まれた必然で動いていますから、すべてが当たり前の如くに、何ら支障なく、成るように成っているのです。
だから宇宙・神は「特別」では無くして<あるがまま>に「ある」ものなのです。

しかし人は不完全意識で生きている関係から、此れは良いことだと思えば良いことになるし、悪いことだと思えば悪いことに思えます。
だから同じ金額・財産であっても、金持ちに思えば金持ちに、貧乏に思えば貧乏に思うことが出来ます。
しかるに幸・不幸、天国地獄などとありますが、それらも人それぞれに、その思いの尺度が違っていることに気付いていない人もいることでしょう。

その人それぞれの思いに違いや矛盾があったり、しかもその思いの尺度が人それぞれに違っていますから、その人同士の思いを互いに正味・完全に授受することは絶対に出来ません。
その思いがそのまま素直に伝わらないことからして(授受できないために)その人間関係(互いの思い)が「ややこしく」もなります。
だから人様のために思ったことが(食違い・すれ違い)結果的には余計な事になったりしていることが結構あるのです。
また好き嫌いがあるために、好きだったはずの人を嫌いになることもあるし、忌み嫌っていたことが好きになることもあるわけです。
だから人の思いである善悪優劣損得も時と場合によって同じように変化しますから、その人間同士の変化する「思い」が複雑に入り混じり混合しているから、その関係(感情・精神)が複雑にもなっているのです。

だから自分の思いを言葉で人に言ったり、人の思いを聞いたりする親密で良好な関係であっても、その思いは双方共に食い違ったりして不確かなことになります。
そんな思い違い・勘違いや思いのずれがあって当然なのに、それでも、自分の思いは確かに相手に届き伝わったと、自分勝手に思いたがる傾向にあります。
そしてその思いがごちゃごちゃと絡み合っている事を知らないために、何かと人様が自分の思いに沿っていてくれていると錯覚勘違いしていると、その意に反する結果が出たときに、何で!と、その自分の思いを裏切られた事になるのですが、それらの責任は全て自らの意識・思いに原因があります。

また相手の思いを言葉で聞いたとしても、その「思い」の「尺度」がそれぞれに違っていますから、その違いが大きいほど結果の違いも大きくなり、そのショックも大きいものになります。
だから言葉では信用できないからと、そこで「不信感」を持つことにもなっています。

そこで言葉ではなくして身を挺しての実践誠意で示すこともありますが、それを出す方も受ける方も、共にその思い尺度が違いますから、やはり双方の思い通り(尺度どおり)となることはまずありませんから、その双方の思い思惑・期待が大きく食い違えば、そこでまた不信感を持つことにもなります。

すなわち※矛盾する不完全意識を持っている限りその思いも不完全ですから、ややこしいことになっているのです。
だから「判断」しない、前もって思わない(目的理想や期待を持たない)、ぶっつけ本番のその時その時の必然ご縁のままに動いて、その結果も判断しない、気にしない(執着しない)ことです。

その必然ご縁のままに動くことになると、前もって思い考えた懸案や余計な思い付きを実践することがどんどん減ってきます。
すなわち前もって誰彼のためにとか良かれと思ったことをするのではなくして、その時その時の成り行きの必然やご縁があって、そして今それをやる気があって、今の自分に素直に無理なくできることであれば、そこから行為行動に移るわけです。

たとえ(私の場合)それがご近所や知人に限らず、バイト先との関係でもそうなっていますから、なんら無理することにはなりません。
また冠婚葬祭やお祝いやお見舞いであっても、しがらみから離れて暮らしていることや真理の実践からお断りする旨を前もってご縁ある方に常々話していますから、大方の人は私の意向・不義理をとやかく言うことはないと思っています。

それも、私が自由に生きる事を意識していたことや、また、その成り行きでそうなっているだけですから、特に強い意思表示とか頑固徹底させているような気難しいことでもありません。
また、人の思いは不確かで変化するその不確かな事に多く接していた過去を省みれば、私自身が相当気疲れしていた過去があったことは確かですし、また私自身の思いも不完全な事を重々知っているだけに、何か事ある毎に人様のことが気になっても、そこで余計な口出し手出し足出ししないでほっといていたほうが、その状況のまま・あるがままに推移していき(私も相手側にもなんの接点も無かったことになり)「何事も無かった」ことになるわけです。

それに気付き知る前までは、私が良かれと思って家族や人様に口出しをしたけれども、その結果は気遣い心配しただけの結果や余計な事に口出しした結果で終わったり、またお人よしの詐欺まがいにあったこともあるし、また私の思い考えを取り入れてくれたが為にその後の成り行きまで私が長いあいだ心配する事になったり、また結果は上々であっても、その結果が出るまでの期間はひと波乱あって大勢の人を巻き込むこともありました。 しかしその結果を喜ぶ人ばかりではなくて不満に思う人もごく少数いたことから、20年30年たった今でも(その結果の痕跡が残ってもいないのに)私を毛嫌いする人もいます。

だから色々あった古い過去もまた現在も、その人間の不完全意識のその「思い」に、自他共に「どうしようも」ないと思いながらも、いい加減「うんざり」しているところもあります。
だから人との関わりが少ない過疎地の暮らしが板についてきたのだとも(実感を込めて)書いているわけです。
・・・しかしそれも不完全意識の「私の思い」でしかありません。

自由意識と、気にしない、執着しない、無理しない、素朴に生きることから調和・至福を味わえるようになる。

2011年08月27日 | Weblog
山田耕栄さんの完全真理がスタートした当初の頃、(耕栄さんが言うには)良い悪いで判断しない完全意識になれる人が6人くらい居ると予測している事を、私の娘が自慢そうに話してくれたとき、まだその頃は完全真理の事を詳しく知らなかった私ですが、(直感的に)「多分無理だと思うょ」と言ったことがあります。

人間として持って生まれた「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断する事を自力で無くすることが出来る筈もないと、私が思ったから何となく出た言葉ですが、それが後日言い当てた格好になっただけではなくて、その中から離脱した人や造反した人が次々と出てくることになったのは事実にあります。
すなわち無理なことは無理だったのです。
そしてまた、耕栄さんが奇跡を成すその力量によって仲間内を完全意識に成すことは出来ないとハッキリしたわけでもあります。

そして完全真理の入り口・門扉を広げて入門者・新人が増えるようにと思ってか、耕栄さんの意識エネルギーで作られたファバラシールが販売されるようになり、また「良い悪い」で判断しても<執着>しなければいいと言われるようになったのです。
そしてまた「素朴」であればいいとも言われだしたのです。

そしてその完全真理は「良い悪い」で判断するのを無くする為の真理だけではなくて、良い悪いで判断するその矛盾・裏表のある不完全意識と宇宙・神・愛の完全意識の両方・裏表を知るための宇宙・神の真理でもあるのです。
しかも宗教とは違って、信じることではなくして真実事実を完全に知ることが出来る真理であり、どこかの教祖が言うようなお題目を唱えることも崇拝するような形式的なこともなく、また皆して集ることも必要としない自由があり、独自独歩の一人歩きが出来る真理だとブログに書いてきました。

しかし(耕栄さんが)無理をしなくていいよと言われても、その実践が無理な人がいます。
自由の大切さがわかっても、その自由を必要としない人もいます。
素朴に生きる大切さが判っても、素朴に生きられない人もいます。
執着しなければ楽になるよと言われても、執着を手放せない人もいます。

判ってはいるがやめられない人がいます。
・・・そんな人に、神も仏も宗教も真理も真実も必要ありません。
・・・そんな人に、この世に何があっても真価・意味を成さないのです。
だから必要・必然とする意識の人に、その必然が起こるのです。
それが人間は「意識で生きている」その証でもあります。
だから無理することも執着することもなく、ただ意識して生きていれば、気付き必然ご縁が仕組まれて、何とかなっていくのです。

ところが同じ必然であっても、無理をして得られる必然があることからして、欲張り先を急ぎ先取りしたくなるのです。
しかし無理をしたからにはそれなりの苦労をしているのですが、ところが自己満足した思いがあるから、その苦労が苦労ではなくなっている、その思い意識に問題があるのです。
それが自分さえ良ければの自己中心の個人意識であり、不平不満とその自己満足の繰り返しの不完全意識・特別意識・差別意識となっているのです。

その意識で生きているだけに、何かの目的理想があれば努力をします。
しかしながら良い悪いで判断しているからこそ目的理想がカッコよく思えるわけですし、何か得をするようにも思えるわけですが、良い悪いで判断しなければ何の取り得もないようだし、面白なさそうだし、また見聞したこともないような特別な刺激的なことが起きそうもないし、何やら反対に地味でカッコわるく如何にも損をするようにも思えるかもしれません。
・・・だから確かな実践が伴わないのかもしれません。
また良い悪いのない「自由・平等」の調和意識(あるがまま)を実際に味わった人が誰一人いないはずです。
もちろん差別のない戦争のない時代を自由に生きて実際に味わった人も誰一人いません。
・・・すなわち「絵に描いた餅」で実際に味わっていないから、真理の実践もままなら無いのです。

ところが実際に自己縮小して欲も無理も無くなれば、その素朴な生き方の中に何やら先が(灯台の光が)見えかけてきます。
だから此れまでに修行・座禅・冥想した聖人・先人・君子・教祖ほどその灯台の光がよく見えかけているだけに、まだ実際に味わってはいないが、その自由平等・調和の言葉を確信でもって使って皆に説いているのだと思います。

しかしその調和の真実・事実を実際に見聞し味わったわけではないことからして、その確信が絶対(完全)にはならずに、やはり頭で思い考え想像したことを説いていることになりますから、聞く人も言う人も、やはり偶像崇拝的な「信じるか否か」になっていくと思います。

そして実際に味わっていなければ(聞くだけでは)信じるか否かになりがちですが、そこで完全真理を学び知っていればその調和意識が宇宙・神・愛の意識・完全意識として学び知り自覚悟りとなっていますから、その実践が止まる事無く続いていくと思われます。
そしてこの世では味わったことがない、しかも特別でもない、その「あるがまま」の中で味わえるものがあります。
それが・・・宇宙・神意識の命・意識がすでに味わっているのと同じ・・・皆が同じ自由平等の調和(至福)だと思います。

ところで肉体・形を持つ人間は一人では生きていけませんが、その元々の「命・意識」は形がないだけに自由です。
だから先ずは、意識の開放・自由意識から始まり、そして形・結果を気にしない、それに執着しない、無理しない、そして宇宙・神の必然ご縁のお仕組み任せて素朴に生きる、(形・結果を気にしない)自由に生きることからして、その調和・至福を味わえるようになっていくと思っています。

自然界の仕組みの必然ご縁であっても、私の意識や私の日常生活に変化をもたらしてくれています。

2011年08月25日 | Weblog
自己縮小したくて自己縮小になったわけではなくして、必然ご縁のお仕組みのままに(流れのままに)いたら、いつの間にやら過疎地で世間離れしたような単身生活になっていたと何度も書いていますが、その自己縮小を味わい知れば更に自己縮小が進みます。

そして(家族や孫達に関わる事であっても)余計な事をしない、無理しない、無駄な事をしない、そして思い考えることと言えば完全真理・精神世界のことが多く、また必然ご縁の成り行き任せに生きることで更に「気になる」ことが減っていますから、その分だけ余計な事を「思い」判断することも当然減っていますから、その個人意識の「思い」が減るほどに、より自然体になっている自分の意識にも気付くことになります。

そして暇だからと自らが何かを捜し求めることがないだけに、静かに何とか生きていればその内に何かのご縁必然があって、そこで接し触れ合ったり意識しあったりしていれば、それまで何事も無かったところに変化が起こるわけですから、味気ないとか寂しいとかで孤独感に陥ることはありません。
しかもそれが人間関係だけではなくて、ご縁必然の仕組みの犬畜生が絶え間なく見せてくれていることや、また時折出てきて見せてくれる野生動物・小動物や希少昆虫や植物だったり、中には異次元的なこともあったりします。(過去にあった事例は既に詳しく書き込んでいますから省略します)

ところで、誰もが知らない事を知っているということで取り分けて言うなら、宇宙・神の真実を知ることになる完全真理を学び知ってそれを実際に実践していて、その宇宙・神の実在とその真実と「終わり始まる」という宇宙・神の仕組みを自覚悟るまでになったのですから、私の人生・道のりも無駄ではなかったことになります。
また宇宙・神の必然ご縁のお仕組みの実在を知り、またそれが意識の中にあることからして、ごく些細なことにも気付き知ることになっているし、それで更に成り行き任せに自信が出てくるし、また真理の理解が深まってもいるのです・・・だから自己縮小のし過ぎではないのと思われるほどのブログにもなっていると思います。

ついでに書きますが、そろそろ9月になろうとしているのに日陰のアジサイが花盛りです。
またスイセンやマンサクの種類らしいが(珍種?)、鉄砲ユリより幹が太く長く柔らかく、その太い幹や根元に葉っぱは無くて、その花びらはユリと同じ形で紫ピンク色しており、ユリと同じように幹の天辺の四方に7個の花が突き出すように咲いています。

また概ね一ヶ月になりますが、風呂場の手を伸ばせば届くような低い天井にコウモリが時々ぶら下がっています。
私がコウモリの実在を知ってその目前でデジカメで撮っているし、猫も出入りしているし、私が洗濯や風呂に入っていても天井にぶら下がったまま逃げないので、昼夜扉を閉めずに出入りを自由にさせています。
・・・最初は一匹だったのですが、昨日はペアでぶら下がっていました。
もしかして子供が出来たりしてと、その思いを馳せています。

牛舎では今年になって7頭の仔牛が生まれ、何頭もの出産を身近に見たのは初めてですし、難産は逆子の1頭だけで、朝エサやりに来たら出産直前だったり、半分ほど出ていたり、産み落としたばかりだったりと、わりと簡単な出産でした。 そして30分程度で仔牛が自力で立ち上がって親の乳を探して飲みます。

これらは自然界の必然ご縁の仕組みで起きていることですが、私にしたら珍しくもあり、それらの変化を現実に見ることになりますので、楽しいことでもあり微笑が出る事にもなり、そんな些細なことであっても、私の意識・日常生活に変化をもたらしてくれています。
だから皆さんの日常生活の形とは違っても、私なりの必然ご縁でもって、それなりに、飽きずに、静かに、生きていけるのです。

そのついでにもう一件書きますが、バイト帰りにいつものようにスーパーへ立ち寄り半額や値引き商品を5点ほど買って、それをレジで打つとドンピシャリ1千円でして、まるで宝くじに大当たりしたようにレジの子も私も驚きましたが、そんなことがあると何だか得をしたような嬉しい楽しい気分をしばらく味わえるし、後日でも(記憶がある限り)、その記憶が蘇るとまた同じ気分になれます。

ところでこのようにしてブログを書いているのは、私が目立ちたい、私の存在を知って認めて欲しい、私は正しい、また主役・ヒーローになりたいというような願望・特別意識の不完全意識を持っているからです。
そして私が独自独歩の自力を書いているのも、他の人と私は(別格)違うぞと、自己主張しているようなものです。

取り分けて、皆が知らない事を「私は」知っているよと、書きたがる私ですが・・・必然のご縁で関わったことのある霊能者が言うには・・・誰にも自分に見合ったこの世での<お役>があって、中には一生で一つのお役を果たすために生まれ、その一つのお役が終わると同時に他界する場合も多いようですが、私には見えない世界を文書化して広めるお役があると言われました。

だから、摩訶不思議な情報掲示や情報交換をしていた時からすると約20年以上やっていますが、それらに関する図書を読んだり講演会に参加したりせずとも、(必然には無駄が無いことから)私の情報が縁で摩訶不思議を成す人が我家へ訪ねて来たり、私に必要な情報だけが幅広く端的に要約されて向こうからやってくるので、それを私なりの感性で書いて公開すれば更に新たな情報にめぐり合えるという繰り返しできましたから、単に文書化するだけの手間でやってきました。
だから自分の<お役>(努力)でやっているという思いよりも、お役にされて「やらされている」感じがしていますから、必然ご縁の自然体に近いのではと思っています。

「思い立ったが吉日」と言う言葉がありますが、それが必然ご縁のお仕組みの入口に立ったことになります。

2011年08月23日 | Weblog
宇宙・神の仕組みの必然から(成る様になって)宇宙・地球・人類・万物が創造され、またそれらが今も止まる事無く進化拡大して(成る様になって)いるのも、その宇宙・神の全知全能の完全エネルギー(弊害副作用のない)が必然で仕組まれ(機能して)動いているからです。

すなわち宇宙・神の命・意識のエネルギー、すなわち全知全能のエネルギー、すなわち矛盾・裏表のない完全な意識エネルギーによって(成る様になって)創造されたからには、すべてが(不完全な)偶然ではなくて(完全な)必然で仕組まれて(成り立って)いるのです。
・・・俗に言う奇跡は宇宙万物すべての「命・意識」のエネルギーが元となって(原因)起きています。
ゆえにファバラ・エネルギーは耕栄さんの「意識」エネルギーであり、ゆえに「神は常温核融合」(超科学)の著書を出したのです。
ちなみに宇宙エネルギーは(自然界で当たり前の如くに起きている)「原子転換」(超科学)を意味します。

その宇宙万物に命・意識がありますから、その中の人間にも命・意識があるのも当然です。
そしてその命・意識が形を成しているから、その姿形が見えるわけですが、中の命・意識は実在しているが見えていません。
その命・意識で、万物皆が生きて姿形が変化しているのも、その命・意識にエネルギーがあるからです。
そしてその意識・命の姿形が消えても、元からある意識・命は永遠に実在し続けます。

その宇宙万物の命・意識が絡み有って成る様になっているのがこの世ですから、私達の意識次第でこの世が変化するのも当然の事になりますが、そこでその意識がそのままで、何の判断もしないままに、ただ食って寝て糞をしているだけの、ただ生きているだけであっても、その意識・命は(自然界の如くに)即身成仏していますから(何が起きても動じない意識)、宇宙の進化の(必然の仕組みの)流れに添った「意識・命」となります。

ところで「思い立ったが吉日」と言う言葉がありますが・・・善悪優劣損得や不信感やであれこれ思い判断したことではなくて、その思い「立って」すぐさま行動実践に移せば、それがその必然・ご縁の仕組みの入り口に「立った」ことになります。
・・・必然ご縁に気付いからこそ(思い立ったからこそ)、そのご縁が仕組まれた形になっていくわけです。
だから同じ必然であっても、その必然に気付かなければそのご縁の形になりませんから、気付かずに見逃したことになります。
・・・だから何事にも「気付き」が重要だと書いているわけです。

そして必然・ご縁があれば(物質・形や人知を含めて)「来るものは拒まず去る者は追わず」の成り行き任せにして、否定反発・排除しないで(良い悪いで判断せずに)そのままにしておけば(無理しなければ)、それも時間と共に、またその意識次第で成る様になっていくだけです。
それが効して、幸いして、より深いご縁になったり、また次のご縁につながったり、また新たな必然・ご縁が生まれたりしながら過去とは違った生活、自然体の穏やかな安心安全の即身成仏の方向性に歩んでいることに気付くことになるでしょう。
・・・前もって自らが捜し求めた結果ではないだけに(無理していないだけに)いつの間にやら(未練も後悔も執着もない)自分にお似合いの形・結果になっているようなものです。

ところが欲し求め、欲を出せば、無理をすれば、待てずに急ぎ慌てれば、それも思い・意識ですから必然的に成るように成る方向性にはなっていきますが、その分だけ肉体的にも感情的にも精神的にも疲れてきますし、しかもその必然がそれほど必然(重要)ではなかったことに気付かぬままに、余計で無理・無駄なことをしている結果になる可能性が十分にあります。
・・・今の私達に当てはまります。

だから質素素朴であるほうが無理・無駄にならずに済んで、楽ちんで生きて行けるわけです。
しかし自分に見合った生き方よりも、それ以上の過ぎた生き方を望むのならばその欲を捨てることはありません。
各々が誰にも束縛制限支配されること無く自由にやりたい様にやれるのも人間だから出来ることです。
そしてその結果の形が云々ではなくして、その結果・形を生み出した原因意識に「気付く」ときがくれば、すなわち精神世界・意識の世界を学び知る事になれば、それら過去が無駄にはならないのです。

だから必然ご縁のお仕組みに「気付く」のと、気付かずに去るのとの違いがあるわけです。
そして「気付」けば、此れまでの全てが生かされ、精神世界・完全真理を知る手立てに役立つことにもなります。
そして完全真理を深く学び知り悟れば、その完全真理でこの世が完全になることを気付き知る事にもなります。

すべてが必然で仕組まれているからこそ過去があり、今があり、その先は「地上の天国」になります。

2011年08月21日 | Weblog
小さな勇気・善意・善行・施しより大きいほうが褒められます。
だから、小さな功績よりも大きな功績、また小さな英雄よりも偉大な英雄が褒められ称えられます。
だから、か弱い人より強靭な人が注目されます。
また、優秀な人ほど愛でられます。
また、小さな得よりも大きな得をしたがります。
だから小さな奇跡よりも大きな奇跡が脚光を浴び人を集めます。
だから小さなことは気にならないが大きなことは気になります。
だから小さな満足よりも大きな満足を欲しがります。

それらが自己拡大につながり、文化文明の進化発展にもつながりました。
ところが昔は大喜びしていたことが今では満足さえ出来ずにいたり不満にさえ思うまでになりました。
そこで欲しがり得られることで反対に奪われたのが<自由>です。
だから昔ほど自由が多かったのは事実にあります。

だから「お手本」として時代遅れの形があちこちに残されていますが、とりわけジャングルの奥地や南海の孤島や山岳・平原・極寒の地などで自給自足の生活をしている人ほど自由があります。
・・・貧しさの中での生きる為の働きは愛の犠牲ですから、自由を奪われたことにはなりません。
そして大きな満足がないだけに(そのチャンスも無く味わい知らないだけに)今ある満足で十分に思えます。

そこで素朴が言われているのです。
しかも完全真理が説く良い悪いで判断しないための布石にもなることですから重要なことです。
その素朴が言われる以前から(私は)たまたま素朴を味わっていたからこそ、その素朴さの重要性に気付いているのです。
ところが実際に素朴を「味わって」いない人がその実践をするには相当な無理があるとも書いてきました。
すなわち自己拡大してきたその位置でいるのに今更自己縮小して素朴に生きるなんて無理があるのです。
だから「素朴」に生きることの(自己縮小の)重要性を知らなければ実践にもならないわけです。

その素朴を実際に味わっていないのに(味わってこそなのに)、その思い想像だけでは実践に至りません。
また思い立ったように実践しても長続きはしません。
・・・そんな場合は重要性を認識した上での真剣さや覚悟・決心決断が必要になります・・・
そこで従来どおりの生活に戻れば尚更に実践が難しくなり、無理だとあきらめて、それを言訳・正当化することでしょう。
・・・すなわち真理よりも今の生活の安定が優先されるのです。
すなわち完全真理は「絵に描いた餅」同然になるのです。

リンゴを実際に食べてその味を知っているからこそ、またリンゴを食べたくなるように、素朴を味わっていない人がその小さな満足にすぐに気付くことにも無理があるし、何となく気付いたとしても、それで(かりそめの愛で)満たされて十分に思えるはずもありません。 
何となく(長らく)やっている内に噛みしめ味わい感じるようになる程度ですから(物足りず)、どうしてもそれ以上の「過ぎた」自己満足が無ければ「生きて」いる気がしないでしょう。
そして相変わらず良い悪いで判断してその自己満足と不平不満の繰り返しになることでしょう。

ところがその素朴であっても不完全意識に変わりはありませんから不平不満や自己満足が出てきます。
それでも、素朴で十分であれば、大きな満足を欲しがりませんから、無理はしません。
しかも見栄や世間体を気にしていたら自由も素朴も味わえないことからして、それらプライドも出てこなくなります。
そして、必然ご縁のお仕組み任せの宇宙の流れ・時の流れに任せた、自由勝手な呑気気ままな生活が味わえます。

すなわち、私達人間では到底成しえないような事を、至極当然のように与えられ得ている、その豊かな自然界の仕組みの中で、我が物顔で、呑気気楽に生きて、その自然と共に生きている事を深く味わい知ることが出来ればそれで十分だったのです。
しかし、小さいことよりも大きい事を成す事が愛でられる比較競争・差別意識から、次第に自己拡大が進んだのです。
そして素朴に生きることがつまらない事に思えるようになり、必要以上に無理することが善しとなり、素朴・自由を犠牲にしてまでも、苦労を買ってまでも、頑張り続ける事になったのです。

しかしそれも裏を反せば、宇宙・神の仕組みの中で「必然」だったのです。
すなわち無理して自己拡大してきたからこそ、大きな苦楽・喜怒哀楽を味わったからこそ、自己縮小の素朴に生きることの大切さとその小さな喜び感謝に味わい深いものがあることにも気付くことが出来たのです。

その良いことが悪かったり、悪いことに思っていたことが良いことだったりする、その矛盾・裏表を知ることからして、善悪損得優劣のどっちでもないことになり、いちいち良い悪いで判断する必要もないことに気付き、執着せずに、気にせずに、あるがままの必然ご縁の仕組みの中で生きていること、何ら特別・差のない宇宙・神・自然界の(成る様になっている)仕組みの中で生きている事を十分に味わえばそれでいいのです。

三次元界の自分さえ良ければの「良いとこ取り」をする個人意識の人間が偉そうに無理をして頑張ったところで宇宙・神・地球・万物の屁のツッパリになるどころか・・・本来なら人間さえ居なければあるがままに地球・万物は調和で満たされているのです・・・その宇宙・地球・万物のあるがままの「命・意識」に余計な迷惑をかけているのが人間です。

ゆえに(人間が)良い悪いで判断しない自由平等調和の意識になれば、万物皆がひとつの意識・調和の意識になって、地上の天国の地球になと言われているのです。


完全真理は、人様の他力に頼らずとも、また集ることもなく、独自独歩の一人歩きが出来る完全な真理です。

2011年08月19日 | Weblog
私が過去に関わった中で先ず最初に摩訶不思議な効果効用が出る多機能性健康食品でも、その開発者と製造販売者の間で模造・造反の疑惑・裏切り問題がありました。
その次の宇宙エネルギー浄水器でも製造者と卸元販売者との間で疑惑が持ち上がり分裂して裁判沙汰にもなりました。
また霊能者と関わっていたときにも、欲に駆られた身内同然の仲間がその霊能者を裏切ることをしました。
その真意・真実がどうであれ、とにかく人が集まり金が集るようになると、何故かごたごたが起きるのを私なりに見聞してきました。

そして完全真理の耕栄さんの時でも(ファバラシールが販売されるようになってから)仲間内・スタッフの造反・裏切りが言われたり、その後の脱税問題でも、また別なスタッフの造反・裏切りが原因だったようです。
そのファバラシールが販売される以前までは講演会の内容が概ね完全真理に徹していたのですが、そのファバラエネルギーの実在(効果効用)を確かめる時間が多くなりましたので、その結果が出ようが出まいが人それぞれで違ってくるし、それも一過性の単なる結果・ファバラエネルギーの実在を知るための結果ですから、私にすればそれよりも宇宙・神の見えない世界の解明・真実実在の具体的説明や完全と不完全の見極めの説明が減ってきたことに違和感を持ちました。

それと同時に、完全真理とは違って妥協や矛盾のある「耕栄さんの思い判断」が語られるようになり、それが良い悪いで判断しても「執着」しなければいい、また素朴であれば何とかなるような、その中途半端な真理を語るようになりました。
すなわち奇跡を見せて人集め金集めし、また信じるか否かの矛盾・妥協のある神・真理を説いている宗教やサイババの奇跡に似てきた、とも取れるようになりました。

しかしそれも宇宙・神の仕組みの「必然」で出てきたことですから、そのファバラシールが販売されるようになった経緯を私なりに解釈し、またその効果効用の事例を示してブログに書いてきましたし、また執着や素朴と言ったことも実践が無理な完全意識からランク下げた実践しやすい配慮から出てきたとして、私なりの判断でその必然性を(今も)ブログに書いてきました。

ところが前回の四国・高松の講演会では脱税問題の釈明や造反裏切りスタッフのことが前半と後半の二回も出てくるは、また耕栄さんの思いが込められたような恩や義の人情の大切さを説明するは、またその恩を仇で返すのは詐欺だインチキだと説明するに至っては、その真意がどうしても読み取れなかったので、正直なところ私は不完全意識丸出しに思えました。
・・・あくまで私個人の見解であり、また耕栄さんやファバラの必然性を否定しているのではありません。
・・・また何処かの宗教信者のように「我が教祖は凄い」風に、すなわち耕栄さんは凄い・ファバラは凄い、とも書いていません。

とにかく仲間内で言われているように(真実は別にして)耕栄さんが宇宙・神・愛の完全「意識」であれば、時たま出てくる不完全意識の事例があっても、また世間で脱税や薬事法違反やカルト・インチキ詐欺に言われようが、その完全「意識」は完全ですから、何かと不完全意識が出るときがあっても、持ち前の完全意識にかわりはありません。
・・・だから(何があろうとも)今後の経緯に大した支障はありません。

そして何度も書いているように、耕栄さんの成すことやファバラエネルギーの効果効用が例え地球や人類を救ったとしても(特別ではなく)、その結果は宇宙・神・愛意識を説く「完全真理」の入り口を示し広げるためのお役を果たす結果にしかなりません。

※だから己の意識が原因から奇跡が如くに仕組まれて既に完全真理を学び知り、その実践をしている人はその先を既に進んでいるのですから、今更奇跡を必要としないのです。
・・・だから他力(耕栄さん・講演会・ファバラ)に頼らないで、独自独歩の一人歩きが出来るのも完全真理なのです。

それでも奇跡を味わいたいのであれば、ファバラ製品を愛用していれば時として思わぬ効果効用を味わうことが出来るかもしれません。
また初心者の人で奇跡が無ければダメな人なら、講演会や次の日の「命そう会」に参加すれば、耕栄さんが成すファバラエネルギーの摩訶不思議を直接見聞できます。

※ちなみに奇跡を売り物・客寄せパンダにして・・・奇跡で人を集めるたがる意識の人とその奇跡に魅せられて集まった人の意識も「同じ穴の狢」の特別意識になります。
また過去のイエスや釈迦らのように、この世を修正すべきお役の人が(ミイラ取りが)ミイラになってしまうのは、人が大勢集まり親しまれ尊ばれ敬い崇拝されているうちに、いつしか自分の成している事に「おごり」を持つからです。

ところで、耕栄さんやファバラが世間や仲間内でどう評価されようとも(尊敬・崇拝・カルト・詐欺師に思われようが)、事の始まりの宇宙・神の真実を知る「完全真理」は完全ですから「そのまま」です。
だから耕栄さんの成すことやファバラを意識することよりも、先ずは完全真理を学び知ることが重要だと書いているのです。

また「完全真理」は完全ですから(絶対ですから)、誰であろうがその完全を不完全に歪めることは絶対にできません。
だから何があろうとも(例えミイラ取りがミイラになろうとも)「あるがまま」「なるがまま」に推移して、その完全真理によって(いつしか)完全意識に成るときが宇宙の仕組みにあると書いているのです。

この世が貧しくても、自由平等調和の関係があれば、地上の天国になる事実を<夢>にも見ていません。

2011年08月18日 | Weblog
人間の「意識・命」は概ね<肉体><感情体><精神体>でもって成り立っています。
そして先ずは「肉体」を満たすことから始まり、次に「感情」を満たすことになり、「精神」を満たすことが後になっています。

だから姿形の肉体を気にすることが多く、しかも見える形に気を使いますから、そのスタイルのカッコよさ、イケメン・美女、肌や頭髪の美を気にしたりしていますから、その良いとこ取りの弊害副作用によって肉体の健康・健全さを犠牲にまでしています。
・・・すなわち内面を損なってまでも外面が大事なのです。

その次に感情を表す事となれば、先ず好き嫌いの感情が優先されます。
そして好きなものを寄せ集めたがりますから、当然嫌いなものは排除されます。
だから「良いとこ取り」が多くなり、些細な悪いことからも逃げたがります。
それが忌み嫌う(臭い・汚い・暗い・怖い)先入観にもなっています。
・・・だから外面で判断して内面を見ようとしないのです。

その外面ばかりに気を使い、内面を粗雑にしているから、その内なる最も大切な精神面・自由平等調和が重要視されていないのです。
だから外見の見栄や世間体が気になるのです。
そして世間の常識や伝統風習・道徳に縛られ自由が損なわれているのです。
しかも自分の自由が牛耳られているから、人様の自由を許さないで否定反発排除・批判したがるのです。
・・・すべて自らが自由を大切にしていないのが原因だから、すべて自分の責任なのです。

ゆえに比較競争して差を付けあう中に自由はありません。
だから自己満足はあっても内なる精神面での満足はありません。
その精神面での満足がないから自力・自信も無いのです。
・・・だから何かと不満・不安心配・恐れを隠し持って生きる事になっているのです。
しかもそれらの集合意識が所々に集り、それが国家世界をも巻き込んでいます。

また自己満足での自信は「空」威張りですから、思いもよらない真坂の有事に動揺して自分を見失うのです。
そしてその動揺が生命の危険にさらされたり、修復が難しい精神異常になったり、立ち直りが遅くなったりしています。
またそれが未練や後悔や執着にもなって、その精神的・感情的な重荷を引きずり背負ったりしています。
・・・だから「生きている」ことがどうでもいいように思える時があるのです。

自由が無ければ平等も調和もありません、だから差別や戦争があるのです。
・・・その差別や戦争を無くするには先ずは自由がなければなりません。
また精神が安定していなければ肉体や感情体が損なわれるのは当たり前です。
・・・だから精神世界を学び知ることが先決重要なのです。

※結果が出るその原因・意識を知らない限り「どうすることも」できないのです。
しかもその原因(内)を見ずして結果(外)ばかり気にして対処するから尚更に変になっていくのです。
更にその原因意識を知っても、その意識を正そうとしないのも、私達なのです。
しかもその原因は自分の立場を守ろうと自己放棄しているからです。
そしてこの世が如何に貧しくても、自由平等調和の関係になれば、地上の天国になる事実を<夢>にも見ていないからです。
だから、この世で<初の終わり>となる、完全真理が世間になかなか広がらないのです。

我が子を自由にして不安なのは親やその関係者です。
我が子に不満を持っているのも親やその関係者です。
・・・親に自信・自力・自由がないのが原因です。
我が子に欲を持つのも親やその関係者です。
・・・子に親の欲を押し付けて、その子の自由まで奪っているのです。
その親がいなくても子は育ちます。
しかしその子供に自由が無ければ、その子も親と同じく不平不満を持って生きることにもなります。
・・・すなわち同じことが繰り返される世の中で終わります。

だから外見(結果)ばかり気にする人生を終わらして、内を見る精神世界を知ることが大切なわけです。
そしてその内を見る実践が出来れば自ずと外見が気にならなくなるのは確かです。
・・・すなわち人間は見える姿形(肉体・感情体)ではない内なる精神「意識」で生きる事を悟ります。

そして自分に自由があるということは無理をしていないからです。
その反対に無理をしているから(欲張っているから)不自由しているように「思える」のです。
ゆえに見掛けが不自由な形に見えても、無理をしていなければ楽ちんでその自由を大いに味わうことができます。

これ等を知識で学び知っても実践が無ければ味わえません。元の木阿弥に戻ります。
すなわち見栄や世間体を気にして生きることが続きます。
そして苦楽・喜怒哀楽で肉体・感情体・精神体を酷使する生き方から抜け出せません。

他力の奇跡よりも、自らの意識力で引き寄せ起こる「必然ご縁」の奇跡とも言える<お仕組み>の重要性

2011年08月17日 | Weblog
この世に偶然は無く、全て必然ご縁の巡り合わせ・お仕組みによって動いています。
その元となるのが宇宙・人類・万物やのすべての「命・意識」(意識体)がうまく絡み合って・網羅されて起きているからです。
そして昔から「袖触れ合うも多少の縁」と言われ、人との出会いが始まるのは決して偶然ではなくして、それぞれの「命・意識」が(過去性・潜在意識も含め)共に引き合うその必然から生まれた「縁」なのです。
だから今の両親・夫婦・家族や親戚兄弟などの人間関係には前世・過去性での仇(恋敵・宿敵)・因縁があるとも言われ、その裏と表を共に学び合う関係で絡んでいると(霊魂・精神世界で)言われています。
また「似た者同士」(想念・意識が似た者)が互いに引き合い寄せ集められることもあるようです。

ところで私の進む道筋に大きく影響した宇宙エネルギーを知ったのも奇遇ともいえる摩訶不思議なご縁の巡り合せがあったことを書いてきましたし、それに止まらずに、これまた奇遇とも言えるようなご縁の巡り合せから想念の世界・精神世界の霊能者と関わってきたことも、またそれに止まらずに、ご縁の巡り合せの連続からいつの間にやら過疎地暮らしになったことやまた娘との縁で山田耕栄さんの完全真理を学び知ることになった事も書いてきました。

すなわち宇宙エネルギーの摩訶不思議な効果効用や人様の成す奇跡現象の「結果」を見る事になったのも、その事の始まりの原因にあったのが、見落としても不思議がないような小さな情報に何気なく引き付けられ気付いた感性とその必然性にあり、その必然とご縁の巡り合せがあったからこそですから、その必然とご縁が無ければ今の私の人生も大きく様変わりしていたかもしれません。

それも私が宗教真理や奇跡現象を捜し求めたことではなく、(まったく無関心だけに)始まりは些細な情報や何気ない気付きから始まったことだが、それを見逃さずに、また不信感や違和感で躊躇せずに、また否定反発もせずに、ただ知りたがる好奇心から「意識し」続けていたからこそ、その必然のご縁・巡り合せの出会いが次々と進み起きたことは確かです。
・・・お金儲けを意識しているときはそのお金儲けの必然のご縁・巡り合せが多いわけです。
・・・奇跡や超常現象や宗教真理を意識していれば、それらに必然のご縁・巡り合せが多くなるわけです。
だから、全てが「意識」によって仕組まれ動いているのです。

またその巡り合せが(原因に)あったからこそ、その後に宇宙エネルギー(後のファバラ製品)や霊能者(後の耕栄さん)が成す奇跡を見たり感じたり出来たわけです。
またそれを実感・実体験してきただけに何度も必然ご縁の巡り合せ・お仕組みの事を書いているのです。
そしてまた、奇跡結果やに憧れ欲しそれを信じることよりも、欲することも無く、また信じる必要もなくなる「自力・自信・精神力」のある<意識・命>になるのが先決重要だとも書いているのです。

そして此れまでに何度か有ったそのご縁必然のお仕組みの時に、その新たな方向性のお仕組みに乗るのか、それとも従来通りの道に進むのか、その迷い混乱があったときでも、欲がらみではないほうに進んで結果的に幸いしたことや、超科学や超常現象よりも精神世界の方を知りたがったことが幸いして、今の私があります。

そしてその必然ご縁のお仕組み任せにしてきたことから、結果的にはいつの間にやら過疎地での田舎暮らしが始まることになり、その「食って寝て糞をしている」だけのような単調で無理のない生活の中で孤独の自由を味わい、また過去の「しがらみ」を捨てた生き方からも勝手気ままな自由を味わうこととなり、その質素倹約な生活からは「物を使い切る」事の面白さやその楽しさを学び知り味わい、また素朴な生活で暇で退屈しているからこそ気付くことが多いことや感じる感性が豊かになったことも確かなようです。

そんな田舎暮らしを始めて間なしに(暇で退屈していたのが幸いして)(娘との縁から)「完全真理」を録音テープで学び知ることになり、それまで見えない世界があいまいだったのが、その完全な宇宙・神の真実・事実を自覚・悟るまでになり、しかも此れまでの生き様・学び知ったことが「すべて」につながり、またそう遠くない年月でこの世が終わりまた新たに始まると言う「終わり始まるゼロ」「リセット」による「人類の進化」が宇宙の仕組みの中にあることが確信できるまでになりました。
すなわち「信じるか否か」ではなくて、宇宙・神が完全なだけに完全に成るのが宇宙・神の真理・仕組み・必然・道理にあるのです。

・・・と言うことから言えば・・・
人様の意識力で成す他力の奇跡よりも、自らの意識力で引き寄せ巻き起こる必然ご縁の奇跡とも言えるその「お仕組み」に巡り会えることによって、それが原因から自らの生き方の方向性が変わっていくのですから、他力の奇跡ならぬ自力の意識力で奇跡を呼び込んだ事になる、その必然ご縁のお仕組みが如何に大切かが理解できたでしょうか。

その必然ご縁のお仕組みによって・・・例えば・・・
「何で」完全な宇宙・神が不完全意識の人間を創造したのか?
何で過去のイエスや釈迦とは違う「完全」が説かれ始めたのか?
何で宇宙・万物・人類は「始まり終わる」のか?
何で「すべてはひとつ」と言われるのか?
何で神に善も悪も無いの? 何で神は特別ではないの? 何で「あるがまま」の自然体が言われるの? 何で素朴が言われるの? その何で、何での、その「知りたがる」こと、しかも中途半端ではない、矛盾のない、すべての完全を知れば、見えないはずの世界が意識の中で(先見の目・感性で)見えてきます。

ところで、初めてこのブログに来られたのであれば、それはあなたの意識が原因で仕組まれ起きた「必然のご縁」になります。
そして(新たな)「見えない世界」の入り口に立っているのです。
それも真っ直ぐな平坦な明るい道が続いていますから安心してお入りください。

そこでもしも違和感・不信感・否定反発・矛盾が出るようであれば、そこで失速したり中途半端に止まらずにして、そこででも「何で」完全ではないの?と、今の自分の意識・理解力に自問自答してください。
それでも解決できなければ、その件を意識に残しておけば、その先に進んいるうちにやがて気付き知ることにもなります。
・・・それが自力で解決したことになり、単なる知識ではない自信確信の納得悟りになっていきます。
それでも解決できなければそのメッセージに書き込んでください。

肉体的感情的な満足がなくても(何がなくても)、精神・心の中に溢れてくる至福の思いだけで十分です。

2011年08月16日 | Weblog
満足にも、肉体的な満足、感情的な満足、そして精神的な満足があります。
例えば食欲・性欲を満たす、視覚や聴覚や触覚を満たす、姿形(体形)を満たす、また恋愛・夫婦・家族などの形・人間関係での満足、また事(形)を成した満足や何か事ある毎に感じる満足・充実感・幸福感があります。

私は歌謡曲・北島三郎の「与作」のように、(妻が)夫が木を切る音を聞きながら台所で食事の用意をしている風情、素朴でのどかな田舎夫婦の描写、夫婦共に離れているのに一緒に居るような感覚、離れていても意識が通じ合っているような感覚、見た目では計り知れない調和・融合し合う意識を心で味わうのが「至福」だと私は思っています。

また「ハウス・シチュー」のCMの中に、乗用車が雪道で動かなくなり、男がタイヤ周りを除雪している傍らには、(同乗していた女性が吹雪く寒い車外に出てまで)その男性の様子を静かに見ていて、次にその男女の目線がさりげなく見合ったときに、これまたさりげなく微笑を浮かべるというシーンがありました。

また同じCMで、凍りつくような寒い野外で男が薪割りをしていて、その傍らに女性がさりげなくお手伝いしているシーンが描かれ、次に勢い余った薪が女性の側まで飛んで一瞬ヒヤッとするのですが、その互いの目線が見合ったときに共に微笑を浮かべるというシーンがありました。

その「さりげなく」・・・意識しているようで意識し合っていないような、有意識だが無(空)意識に近い常態、すなわち魅せられ引き寄せられるような強い感情・刺激・感覚ではない(普通の)状態でありながら、しかも凍りつくような寒い野外なのに何故か側で一緒に居たがるその意識、しかも男性の過失を穏やかに受け止めているような女性の様子が描かれ、共にさりげなくしぜんに微笑が出てくる・・・此れも「至福」だと思います。

だから私は、ウキウキ・ワクワク・ドキドキ・トキメキとは味わい違う満足、ソフトに包まれ心静かに訪れ味わえる満足、満足と言うほどでもないが筆舌に表せない気分でいられる、そんなのが至福だと思っています。
しかもその至福を味わえば、特別な満足がぜんぜん無くても、肉体的感情的な満足がなくても、精神・心の中に溢れてくる至福の思いだけで十分になります。

だから不自然・不完全な気配り気遣い配慮・優しさ思いやりを出すこともなく、まして金銭物質・他力を借りることも無く、待ちわび・待ち焦がれ・恋焦がれることも無く、ただ必然ご縁の成り行きに任せた自然体で、有意識の中の無(空)意識で、さりげなく静かに通じ合う意識、調和・融合した意識で感じ合う至福を味わえることが出来れば、それだけで十分になるのです。

すなわち人間同士の「意識の調和」を味わい楽しむことが出来れば(自由・平等・調和の至福の人間関係になれば)、それが生きている糧になり、苦楽・喜怒哀楽・不平不満と自己満足を味わうことも無くなり、いちいち良い悪いで分離判断する必要も無くなるのです。

すなわち好きや惚れた憧れた慕う尊ぶや恩や儀や情などの特別な意識やあれこれと判断したその場の中にある特別なものではなくして、特に意識したことではないのにいつの間にやら感じ気付いている、そんな穏やかな柔らかい気付き味わいだと思います。
だからこそ「肉体」的「感情」的になることよりも、またそれらに束縛制限支配されるよりも、それらから解き放たれた自由意識でもって、その「精神」的なゆとりでもって気付く、五体・五感を超えたような感覚・感性の感受性でもって気付かなければ味わえないようです。

だから素朴といっても、その形・見かけ・判断にあることではなくて、その素朴を味わっている中にある微かなものを感じ入ること、真の気付き、その感受性・感性にあると思います。
だから暇だ退屈だといって趣味嗜好娯楽・刺激に走る事無く(他の余計なことや無理なことに意識を使う事無く)、その余裕のある意識の中で、その時々の必然ご縁の中で何かと気付くことができれば、それは自らが捜し求めた結果・成果ではなくして、しぜんに身に付いた自信・自力・精神力・意識力にもつながっていくようです。

だから思い付きや憧れや一足飛びの短期間で自由意識と素朴を味わおうとしても、その中身・深みを味わないままに過ごすことになったり(気付かないままに)、また無理をしない生活だけに、その生産性の低い役割仕事やその犠牲時間の少ない生活だけに、その暇で退屈な時間に慣れ親しむことが出来なければ、やはり元の生活パターンに戻ってしまうかもしれません。

だから逆に言えば、成り行き任せの必然ご縁の自由と素朴を自然体で(何気兼ねなく)賞味・正味することができれば、華やかに思えていた過去の生活が次第に色あせてしまい、いつの間にやら過去のような生活には戻りたく無くなるのです。
すなわち変化刺激の多い特別な生き方による苦と楽から開放されることからして、今まで忘れていた自由と素朴の深い味わいを噛みしめる生活に戻る事になるのです。

だから例え放浪者・ホームレス・独居老人になろうとも、(孤独死覚悟で)自由と素朴を味わう生活を続けることが出来るのです。
そして望みが叶うとしたら、自由と孤独が孤独感にならないためにも、思い意識が通じ合う人・自由平等の意識で調和し合える人・至福を味わえる人と必然ご縁があれば、何がなくてもそれだけで十分になるのです。