完全真理を学び知り気付いてその実践をすることからして、たとえ「完全意識」になったとしても、また奇跡を成すことが出来るようになっても、その完全意識によって人様の命・意識を直接的に変革・改革・操作することは出来ません。
ましてその完全意識を身近な家族や人様に分け与えることも譲ることも出来ません。
・・・すなわち人様の為ではなくして、自分の為の完全真理(完全意識)なのです。
だから人様の事を気にせずに、独自独歩で学び知り気付き実践することも出来るわけです。
また人様に真理を押し付け強要しても、それが余計なことで無理があります。
また人様が真理の実践が出来ていなくても、それが自分に関係ないことからして、とやかく言うことでも思うことでもありません。
とにかく(他力に頼る事無く)(人様に関係なく)各々が自分で気付き学び知り実践していくしかありません。
だから自分が完全意識になってから、身近な家族や人様の事を意識するようになっても、決して遅くはありません。
・・・それまでは人それぞれの自由意識に任せて、余計な口出しをしないで、静かに見守るしかありません。
しかしそれが実践できないのは(人様を巻き込むのは)、己の思いに何らかの<欲>があるからです。
・・・その欲を持っての行為行動・実践であれば、何をやっても結果的には無駄になります。
しかもその無駄になることを学び知っていても、その欲に気付かなかったり、またその欲を捨てられないのです。
そうして完全真理を学び知り実践している中であっても、自他共に不完全意識だけに、どうしてもその矛盾・苦楽・喜怒哀楽をあじわうことになります。 しかしそれも完全真理を深く学び知るためには必然ですから、それをあまり気にしないで(執着しないで)自らがその不完全に気付いたことが更なる実践の自信になればいいのです。
とは言っても不完全意識で苦楽を味わうことよりも、やはり余計な事をしない、無理しない、素朴に生きる、その必然ご縁のお仕組みに任せた気楽な生活の方が意識が開放されて更なる気付きが起こりやすいようです。
ところがその気楽に生きる事が物足りずに、(完全真理を知っているのに)余計なことに無理をしている人もいるでしょう。
だからその余計な事を無理にしているのを内心で知っているのに、それを裏に隠して、それも必然だからとか、あとで気付けば無駄にはならないとかで、自分を納得・言訳正当化で誤魔化し、自分の欲心を隠し偽っている場合も多いと思っています。
・・・気付かないでやっているのと違って、気付いているけれど(致し方なく・背に腹を返えられずに)やっているのです。
・・・私がパチンコに行くように、やめてもいいのだがやめないで、自分なりに言訳正当化してパチンコに行っているようなものです。
またその言訳正当化してまでやる行為行動が副収入やアルバイトやまた趣味嗜好娯楽の場合でも、その形の中の不完全な人間関係で苦楽・不満と満足を味わっているのと、私のパチンコのように一人相撲(人を巻き込まず・人に巻き込まれず)の自己責任で、呑気気ままの気楽にやっている場合とでは、そのメンタル面での影響では相当な違いがあると思います。
またその一人相撲(自力の独自独歩)であれば世間とかかわることも少ないことからして、その人間関係での人情・愛情・恩や儀に反したと思われて恩知らずだ薄情だとか裏切ったとかの云々に巻き込まれないですみます。
また私のバイトのように、必然ご縁あってその先方・雇用主から求められた必然で行っているのと、自らが捜し求めて得た(無理した)必然ご縁とでは、その雇用関係や給与関係のメンタル面でも相当な違いがあると思います。
また接し触れ合う相手が牛様と人間様とでは、これまた精神面での苦楽・満足と不満が違います。
そして牛様が相手なら臭い汚いやハエが気になりますが、人様の感情や精神が原因の苦楽・不満と満足に巻き込まれずにすみますから、人様に気を使う事無く、自分が思うがままの気楽さでやっていけます。
だから同じ不完全意識の不完全な形を味わう事になる「生きる」為の犠牲・仕事の場合であっても同じでして、不完全意識の人間様を相手にすることが多いのと、あるがままの自然界の動植物(畜産・農業・漁業)が相手なのとでは(前項と同じく)その違いが相当違ってきます。
また特定の一箇所の限られた範囲で同じことを(うんざりするほど)繰り返し味わうよりも、フリーターのように様々な形・環境で色々と味わう方が人間的にも(肉体的感情的精神的にも)学び気付くことが多くなると思います。
また同じ不完全意識の人間関係の中で生きているからには義理・人情・愛情・恩義を大切にすることも必然・必要ですが、それら大義名分が無くても※人間は生きていけますから、そんな不完全なややこしい感情を意識して生きていくことよりも、それら世間のしがらみから離れて、自由意識のままに独自独歩の自力と自信でもって、この世の仕組みの必然ご縁のままに任せて、無理をせずに、執着せずに、素朴に生きる事を意識しているほうが、感情を酷使することも無く、精神的にも呑気気楽・楽ちんなのは確かです。
すなわち宇宙・神の意識は「あるがまま」ですから、それに反する人間感情の義理・人情・愛情・恩義を大切にして人間関係を守り保つことよりも、またその人間感情を大切にして宇宙・神の真実を学び知り気付くことよりも、それら不完全な形・関係はもう既に十分味わっているのだから、あとに残るのはその不完全意識に「気付く」ことだけですから、それら「しがらみ」から離れて、必然ご縁の成るがままに任せ、呑気気楽に生き長らえながら、気疲れしない自然界と関わることが多くあって、その「あるがまま」の宇宙・神の完全意識を学び知り<気付く>ほうが「楽ちん」なわけです。
その「楽ちん」に生きる事を実際に味わっていないだけにそれでは不足に思い違いして、できれば不完全意識の義理・人情・愛情・恩義の「感情」の裏表で味わえる、その変化刺激に富んだ事から神・宇宙の完全意識を学び知り気付こうとする生き方を選んでいるのかも知れませんが、しかしながら結果的にはその感情に巻き込まれたり、執着することになったりして、(刺激変化に富んだ)(波風の立つ)苦楽・喜怒哀楽で生きることから抜け出せずにいるのに(それが事実なのに)、それを言訳正当化し誤魔化し続けて(実践しているつもりになって)いるから、(私のパチンコのように)やめようにもやめられないのかもしれません。
・・・植木等の「スーダラ節」・・・わかっているけどやめられない!・・・ですね。
ましてその完全意識を身近な家族や人様に分け与えることも譲ることも出来ません。
・・・すなわち人様の為ではなくして、自分の為の完全真理(完全意識)なのです。
だから人様の事を気にせずに、独自独歩で学び知り気付き実践することも出来るわけです。
また人様に真理を押し付け強要しても、それが余計なことで無理があります。
また人様が真理の実践が出来ていなくても、それが自分に関係ないことからして、とやかく言うことでも思うことでもありません。
とにかく(他力に頼る事無く)(人様に関係なく)各々が自分で気付き学び知り実践していくしかありません。
だから自分が完全意識になってから、身近な家族や人様の事を意識するようになっても、決して遅くはありません。
・・・それまでは人それぞれの自由意識に任せて、余計な口出しをしないで、静かに見守るしかありません。
しかしそれが実践できないのは(人様を巻き込むのは)、己の思いに何らかの<欲>があるからです。
・・・その欲を持っての行為行動・実践であれば、何をやっても結果的には無駄になります。
しかもその無駄になることを学び知っていても、その欲に気付かなかったり、またその欲を捨てられないのです。
そうして完全真理を学び知り実践している中であっても、自他共に不完全意識だけに、どうしてもその矛盾・苦楽・喜怒哀楽をあじわうことになります。 しかしそれも完全真理を深く学び知るためには必然ですから、それをあまり気にしないで(執着しないで)自らがその不完全に気付いたことが更なる実践の自信になればいいのです。
とは言っても不完全意識で苦楽を味わうことよりも、やはり余計な事をしない、無理しない、素朴に生きる、その必然ご縁のお仕組みに任せた気楽な生活の方が意識が開放されて更なる気付きが起こりやすいようです。
ところがその気楽に生きる事が物足りずに、(完全真理を知っているのに)余計なことに無理をしている人もいるでしょう。
だからその余計な事を無理にしているのを内心で知っているのに、それを裏に隠して、それも必然だからとか、あとで気付けば無駄にはならないとかで、自分を納得・言訳正当化で誤魔化し、自分の欲心を隠し偽っている場合も多いと思っています。
・・・気付かないでやっているのと違って、気付いているけれど(致し方なく・背に腹を返えられずに)やっているのです。
・・・私がパチンコに行くように、やめてもいいのだがやめないで、自分なりに言訳正当化してパチンコに行っているようなものです。
またその言訳正当化してまでやる行為行動が副収入やアルバイトやまた趣味嗜好娯楽の場合でも、その形の中の不完全な人間関係で苦楽・不満と満足を味わっているのと、私のパチンコのように一人相撲(人を巻き込まず・人に巻き込まれず)の自己責任で、呑気気ままの気楽にやっている場合とでは、そのメンタル面での影響では相当な違いがあると思います。
またその一人相撲(自力の独自独歩)であれば世間とかかわることも少ないことからして、その人間関係での人情・愛情・恩や儀に反したと思われて恩知らずだ薄情だとか裏切ったとかの云々に巻き込まれないですみます。
また私のバイトのように、必然ご縁あってその先方・雇用主から求められた必然で行っているのと、自らが捜し求めて得た(無理した)必然ご縁とでは、その雇用関係や給与関係のメンタル面でも相当な違いがあると思います。
また接し触れ合う相手が牛様と人間様とでは、これまた精神面での苦楽・満足と不満が違います。
そして牛様が相手なら臭い汚いやハエが気になりますが、人様の感情や精神が原因の苦楽・不満と満足に巻き込まれずにすみますから、人様に気を使う事無く、自分が思うがままの気楽さでやっていけます。
だから同じ不完全意識の不完全な形を味わう事になる「生きる」為の犠牲・仕事の場合であっても同じでして、不完全意識の人間様を相手にすることが多いのと、あるがままの自然界の動植物(畜産・農業・漁業)が相手なのとでは(前項と同じく)その違いが相当違ってきます。
また特定の一箇所の限られた範囲で同じことを(うんざりするほど)繰り返し味わうよりも、フリーターのように様々な形・環境で色々と味わう方が人間的にも(肉体的感情的精神的にも)学び気付くことが多くなると思います。
また同じ不完全意識の人間関係の中で生きているからには義理・人情・愛情・恩義を大切にすることも必然・必要ですが、それら大義名分が無くても※人間は生きていけますから、そんな不完全なややこしい感情を意識して生きていくことよりも、それら世間のしがらみから離れて、自由意識のままに独自独歩の自力と自信でもって、この世の仕組みの必然ご縁のままに任せて、無理をせずに、執着せずに、素朴に生きる事を意識しているほうが、感情を酷使することも無く、精神的にも呑気気楽・楽ちんなのは確かです。
すなわち宇宙・神の意識は「あるがまま」ですから、それに反する人間感情の義理・人情・愛情・恩義を大切にして人間関係を守り保つことよりも、またその人間感情を大切にして宇宙・神の真実を学び知り気付くことよりも、それら不完全な形・関係はもう既に十分味わっているのだから、あとに残るのはその不完全意識に「気付く」ことだけですから、それら「しがらみ」から離れて、必然ご縁の成るがままに任せ、呑気気楽に生き長らえながら、気疲れしない自然界と関わることが多くあって、その「あるがまま」の宇宙・神の完全意識を学び知り<気付く>ほうが「楽ちん」なわけです。
その「楽ちん」に生きる事を実際に味わっていないだけにそれでは不足に思い違いして、できれば不完全意識の義理・人情・愛情・恩義の「感情」の裏表で味わえる、その変化刺激に富んだ事から神・宇宙の完全意識を学び知り気付こうとする生き方を選んでいるのかも知れませんが、しかしながら結果的にはその感情に巻き込まれたり、執着することになったりして、(刺激変化に富んだ)(波風の立つ)苦楽・喜怒哀楽で生きることから抜け出せずにいるのに(それが事実なのに)、それを言訳正当化し誤魔化し続けて(実践しているつもりになって)いるから、(私のパチンコのように)やめようにもやめられないのかもしれません。
・・・植木等の「スーダラ節」・・・わかっているけどやめられない!・・・ですね。