矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

他力に依存し信じ頼ることで自己拡大もできるが、その裏の裏切り・不平不満も味わうことになる事実がある。

2012年06月29日 | Weblog
信仰宗教になると今まで知らなかった事を「信じる」ことから始まりますが、完全真理は絶対・完全からして必ず<答え>がありますから信じることにはなりません。

また信仰宗教は教祖経典などを信じる者同士が寄り集まることが多いのですが、それは絶対・確信・自信が持てないことだけに(裏の不信感もあって)皆して寄り集まって安心していたいのです。

だから集団化し、その集団の中でいたがるし、共に行動することが多いわけですし、しかも同じ仲間を増やすことで「私は正しい」(信じる宗教は正しい)ことをしているとしてその自己満足で「安心」していたいのです。

ところがその自己満足の裏に不平不満が隠れていることや「安心」の裏に<不安>がありその「信じる」裏に<不信>があることに自らが気付いていればそれら信じることから始まる信仰宗教に関わることにもなりません。

ところが「信じる意識」(信念)にも意識エネルギー・力が作用しますから、「信じる者は救われる」ことが起こりやすいのですが、それも完全(意識)ではないだけに長続きしませんから、やがて元に戻ります。
それを「元の木阿弥に戻る」と言われています。

しかし「信じる者が救われる」ことがあるだけにその他力依存・願望・祈願の信仰宗教が増えることにもなっています。
しかも人様をかりそめにも「救う」ことがあるだけにその人様が集まりやすくもあります。

ところが完全真理は宗教とは違って集団化・集団行動する必要性がなくて、独り身で独自独歩に学び知り実践することが出来ます。
しかしそれだけに自力・自信・精神力・意識力がなければ完全真理から離れて行くことにもなりやすいのです。
そこで奇跡を成して見せることにもなっていますが(ファバラも同類)、それが信じる者は助かるの耕栄さん信者やファバラ信者の「信者意識」にもなりやすいです。

しかし「信じる」中に真実・事実・完全はありませんから、その真実・事実を知らないままの(知ったかぶりの)不完全な中途半端なままが続くことにもなります。
しかし「完全」(真実・事実)を知ると、自他共に皆が不完全意識であっても、その不完全さに惑わされることになりませんから、常に独自(役割個性)の自信・自力・精神力・意識力でもってしっかり歩んでいけます。

しかも自力で成すことで生きていると、多くの他力を必要としなくなります。
しかし自力で成せないことをすることになると、他力が絶対的に必要になります。
そこで他力を信じて頼りますから、その信頼の結果も自己満足か不平不満の裏切りにもなります。
だから自力を多く使うことで他力を必要とし無くなるので、その他力依存の結果の不平不満や自己満足を味わうことも減ります。

ところがその他力依存・信頼でもって(矛盾・裏切り関係の中で)自己拡大してきた事実がありますから、その他力依存の自己拡大から抜け出して自力・自信の自己縮小で生きていくことのその「自信」さえもありません。
だからその分だけ自己満足や不平不満の多い生活が長く続くことになります。

ところがしかしその自己拡大から離れた世間離れした過疎地で暮らすことになって(あまり他力に頼らない生活からして)、その他力依存・信じて頼ることの弊害の裏切り関係やその不平不満と自己満足の矛盾・真実に気付くことになったわけです。
だから宇宙意識・神意識・愛意識になるのが無理でも、その矛盾意識が原因の不平不満と自己満足の生活から抜け出すことが出来れば、そのまま、このまま、あるがままの自然体、宇宙・神・愛のお仕組みの必然ご縁の成り行き任せに生きることが可能になるわけです。

そして歌の文句にあるように、あなたさえ居れば「何にもいらない」の、心境・真実を実感でもって味わえることにもなるのです。
しかしそれでも不完全意識には変わりありませんから、自由平等調和の完全な至福を味わうことにはなりません。
そこでやはり宇宙・神・愛の仕組み(全知全能)に任せるしかありませんが、その完全意識を学び知って自覚納得できていなければ、その必然ご縁の仕組みが起こるはずもありません。
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矛盾のない完全意識・神意識になるのは到底無理でも不平不満の真実を深く知ることは簡単です。

2012年06月28日 | Weblog
「良い悪い」で判断してそれが不平不満になるのは「外から来るものでなくて内から出てくるもの」ですから自己結果・自己責任になります。
それを知らずにして「外から来るもの」と思い違いしていることからしてその人間関係が複雑でややくしくもなっています。

その「外ではなく内から」とか「良い悪い」で判断することから不平不満や自己満足になっていると言うような内容が知識的なことであればわりと伝わりやすく記憶・知識に残ります。
しかし私の実感したことを書き表し伝えようとすると幾ら文字を並べたところでも無理があります。
だから知識ではなくして実践にて自らが実感することが必要になるわけです。
すなわち神を知るには己が神になるしかないと言われる訳です。

その神意識になるのは到底無理でも不平不満の事を深く知ることはわりと簡単です。
何たって不平不満で生きているようなものですから自分の内面を探れば幾らでも出てきます。
しかも不平不満が諸悪の根源とも言えるのですから絶対的に知るべきことになります。

その不平不満が出てくるのは、生きる為の必然ご縁とは違った、前もって思い考えたその思惑・理想目的を持った特別意識が原因にあって、その思惑が期待道理になると自己満足になるが、その思惑通りにならないと不平不満になっています。

しかし特別な思惑期待もないままの成り行き任せに生きている中での必然ご縁であれば他力にあまり頼ることもないことからして当然ながら持ち前の自力を必要とする無理のない当たり前の事をすることになるだけに、その結果に自己満足も不平不満にもならずにして自力で成したその結果・事実だけを味わうことになります。
ところがそんな当たり前の自己満足にもならない事をやることが不平不満(面倒に思う・忌み嫌うこと)になるようであれば、それは(前項のような)思惑期待・特別意識・差別意識を隠し持っているところがあるからです。

しかし必然ご縁の成り行き任せに生きている中で不平不満や自己満足の少ない生活を実際に味わうことになれば、それが確かな実感でもってその真実・事実を学び知り気付くことになります。
その「不平不満」の少ない穏やかな生活を実際に味わい知っていれば当然ながらその不平不満を自らが味わいたくない思いや人様の不平不満に巻き込まれたくもない思いもありますから、特別意識の思惑期待を持つことにもならず(必然ご縁以外の)無理なことや余計なことや面倒なことに関わりませんから、当然にしてその自己満足をすることにもなりません。

自分さえ良ければのその良いとこ取りの自己拡大のままに進めばSF小説まがいの超近代化時代が訪れるかもしれませんが、それ以前に地球・自然が食い尽くされて砂漠化したり都市が水没したりまたは核戦争によって生き残った者がこれまたSF小説まがいの強者が支配する中で弱者が強者と闘うという(生き残りを掛けた)闘い守るという形になるかもしれませんが、それもそうなる以前に地球維新・闇意識の夜明け・意識改革が宇宙・神・愛の仕組みによって成されて、不平不満も自己満足もない、過不足のない、有っても当然・無くても当然、起きても当然・起き無くても当然の、必然ご縁のままの自然体で生きて、その生きている事実を良い悪いで判断しないままにすべてを丸取りして、それを十分に味わうという人間界になるようです。

だからこそ自己満足も不平不満にもならない生き方の実践をしていなければ(意識が原因の世界で生きている命だけに)その結果に仕組まれるはずもありません。
そうなるとやはり欲目・思惑期待を持たない、無理もない、その成り行き任せの中での、「生きる」為の必然ご縁に任せた、持ち前の個性・自力でもって生き続ける事しかありません。

※生きて行く為の<必然>以外が特別になりますから、その特別な思いから自己満足になったり不平不満になっていることの事実を学び知らない限りに於いて、その不平不満や自己満足から脱することは無理になります。
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姿形のある有限の三次元界では永遠に無限に成長し続けることは絶対に無理だから「終わり始まる」

2012年06月27日 | Weblog
生きるために絶対的に必要なその必然やご縁の成り行きからはじまるのではなくて、前もっての思い思惑・理想・目的からやるからにはその為に無理もしますから、その思いを成したときは自己満足になり、その思い通りにならなければ不平不満になります。
その自己満足と不平不満の繰り返しで生きることを長く続けていると(身体が元気でも)内面的「精神的な疲れ」ストレス・負荷を持つことにもなりますが、その<真実・事実>を実感で知ることになったのが世間離れした過疎地の生活が始まったことからでした。

ところが持って生まれた不完全意識に変わりがないだけに、その過疎地生活であっても自己満足が多くその自己満足の裏の不平不満も多く味わうことになったのですが、それも暇で退屈していたことや戦後の物不足を懐かしがるところがあってやり始めたことですが、そこで先ずは自家栽培をやり始めてみましたが、その必然性が次第に薄くなったので(無理してやることでもないと)やめてしまいました。

そうなると広い一面に雑草が生い茂り年に二回の草刈を欠かすわけには行かなくなり、そこで思い付きからヤギを飼うことにしてその雑草対策は楽になりましたし、ヤギを珍しがるお客さんに喜ばれましたが、そのヤギが頻繁に囲いを抜け出して困りました。
またニワトリを放し飼いにして新鮮な地鶏タマゴをアツアツのご飯にかけて食べることも出来ましたが(お客さんも喜びましたが)、そのニワトリを狙う外敵に昼夜苦労しましたから、その苦楽を味わったのです。

すなわち生きて行く為の必然性が薄いことからして言えば趣味嗜好娯楽の類になりますから、当然ながら自己満足と不平不満の苦楽になります。

その「生きる」為に精一杯頑張っているのがヤギや犬や猫やニワトリやその外敵の類も同じですが、ところが私の生き様としては生きることに不自由していませんから、当然ながら生きることの懸命さ真剣さ真面目さは犬畜生に劣ります。

その楽ちんな成り行き任せの中で食って寝て糞をしながら生きているわけですが、ところが我家・敷地に侵入してくるヘビやカラスやハクビシン・イタチ・テン・ネズミなどは「生きる」ことに(本能的に)懸命ですから、人間に危害を加えられる危険性を知りながらも小さな隙間や穴からでも進入してきますし、張り巡らした頑丈な囲いや網を飛び越えてきたり地面を掘ってでも進入してきますから、その進入するための努力・苦労も生死が伴うだけに遊び半分の趣味嗜好娯楽ではなくて生きる為に真剣に取り組んでいるはずです。

だから私のように退屈しのぎや自己満足でやっている趣味嗜好娯楽の類とはぜんぜん違いますし、また面倒くさい、邪魔くさい、疲れたとか不平不満になることもないはずです。
すなわち「生きる」(食って寝て糞をする)ことだけに真剣・真面目・素直にやっているのです。

ところが私達は生きる必要以上のものを多く得ていますから自給自足の必然性も薄くてその自家耕作・菜園・飼育や狩猟・山菜取り・魚捕りも趣味嗜好娯楽の自己満足と不平不満になっていますが、そもそも必然性が少ないことからして絶対的に無理する必要もないのに、しかし自己満足のためにそれ相当な(金銭物質や時間的出費で)無理をしても必然性が薄くて無駄なこと余計なことをしていることになるのです。

しかもその必然性の薄いことをやったことでそれが不平不満や困った結果になっても、それは自分の思い通りにならなかったその「思い」ですから、絶対的な生きていくための<事実>で困っていることでは決してありません。

そこで他力依存の自己拡大の生き方をやめて自己縮小になる自力・人力を多く使って生きることになれば、その不便・不都合が不平不満の思いにならずに、その不便・不都合の<事実>を丸ごと全部を味わうことになりますから、その不便・不都合が不便・不都合ではなくして、生きる為に必然な当然な当たり前のことになるのです。
だから不平不満になりませんからその自己満足にもなりません。

その生きる為の必然性で生活するようになると更に暇で退屈することになったその事実を何度も書いているわけですが、その必然から越えた・過ぎた事をやればそれが自己満足や不平不満になることの事実をも数多く味わい知っていることからして、それが不完全意識の人間関係に無闇に係わることもなくなり(希薄になり)ますから、それが薄情にも思える形・意識にもつながっているのです。

だからこそ、その人間関係に関わるのも(来るものは拒まず去るものは追わずの)必然ご縁の成り行きに任せているのですが、その限られた極まれな人間関係に関わるごとに何度も気付くことにあるのが、(自己縮小の必要性を知りながらも)他力依存や他力願望や祈願や比較競争意識が原因の快適便利な豊かな生活が(その人間関係に)大きく影を落としていることの真実・事実です。

そして自然界や犬猫畜生にも劣る意識で人間が生きていることに気付いたのです。

だから自給自足の自家耕作・菜園・飼育や山菜取り・狩猟・魚捕りも生きる為の必然からやることになれば、その自己満足にも不平不満にもなることもなく、食って寝て糞をしながら生きていく為の結果のその事実だけになります。
しかもそれらを独自独歩の一人ではなくして同じ意識の同じ仲間が集って共同・協調・調和でもってやる時が来ればいいと心待ちにしていることも書いています。

だから現在の自己拡大の時代・意識が終わることにならなければ不可能なことですから、それが世間に起きている有事であったり、また思いもよらない真坂の有事だったり、天変地異の災害に見舞われる事になるのではと、実感でもって確信していますが、そうなることが起きなくても、宇宙・神・愛の仕組みからして(必然からして)自己拡大のときが終わることになるのは間違いないようです。

すなわち姿形のある有限の三次元界では永遠に無限に成長し続けることは絶対に無理なのです。
その無理なことを無理にしているからこの先で有限の世界が崩壊し終末を迎えることになるわけですが、それが結果的には(有限の世界)(三次元界)が「終わる」ことになるのですから、私達の自己拡大が終わらなくても、この世の三次元界が「終わる」ことは間違いありません。

その「終わり」があるからこそ「新たな始まり」があり、その積み重ねからして(元から実在している)その「意識・命」(次元)が次第に進化して行くという意識が原因の仕組みが実在すること、すなわち(成り行き任せからいつの間にやら仕組まれ続けた今の私だけに)その宇宙・神・愛の仕組み(全知全能)から起こるその必然ご縁の真実・事実に気付いているのです。

すなわち「信じるか否か」ではなくして事実として絶対的に確信していることを書くことになっています。
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「知りたがる」「やりたがる」意識でもって多くの苦楽・裏表を味わい知ることが人間の役割使命になります。

2012年06月25日 | Weblog
「良い悪い」で判断する矛盾意識が原因から自己満足や不平不満になっていますが、その矛盾する意識を持っているからにはその裏と表を味わい知ることにもなっていますが、その中に自己拡大と自己縮小があります。
またそれが人力・自力を多く使う生活と他力を多く使う生き方になります。

だから他力を多く使う他力依存が自己拡大につながり、自力を多く使う生活が自己縮小につながっています。
その他力依存の自己拡大によって商業化され近代化されて都市化にもつながりますが、自力を多く使う必要がある状況の所は第一次産業・地元産業が多いだけにその自然界が多く残っています。
それだけに食糧難や政治経済が破綻しても「生き残る」ことができます。

その自己拡大もあれば自己縮小もあり、自力を使う場合と他力を多く使うこともあります。
だから都会があれば田舎もあり、便利なところと不便なところがあります。
そして田舎でいた人が都会に憧れて理想目的を掲げて行く事もあれば、反対に都会でいた人が自然の豊かな田舎の生活を求めて行く場合もありますし、快適便利な街中で暮らす事をやめて自力を多く使う田舎暮らしを始める人もいます。

すなわち自分が望めば自己拡大の裏も表も味わうことが出来るし、自己縮小を望めばその裏も表も味わうことになります。
そして他力依存の裏表や自力を使うことの裏表を不平不満と自己満足の苦と楽で味わうことになります。

と言うことは完全真理で説かれているように不完全意識の人間界の矛盾する裏表を自らが味わうために生かされ生きていることになります。
そして自己拡大の裏表を味わいそして自己縮小の裏表を味わうことで多くを学び知り気付き実感でもって味わったことになります。
そして他力を多く使う快適便利な自己拡大で生きることよりも自力を多く使う質素素朴の自己縮小で生きることが楽ちんな事を実感でもって悟ることにもなります。

しかし自己拡大を意識し続けてその自己拡大の裏表・苦楽しか味わっていない人には自己縮小の正味・中身を味わうことにはなりませんから、その自己拡大で生きるその苦楽ばかり味わうことになります。
そうなると「良い悪い」で判断する人間の矛盾意識の全てを丸取りし実感していない半端な片手落ちの意識の人間となるわけです。

そして自己満足と不平不満・不安心配・恐れや嫉妬仕返し意識ややけくその破壊意識を出して生きることが多くなります。
しかも快適便利な衣食住や趣味嗜好娯楽に恵まれている事や名声名誉肩書き・権威権力・財産を持っていることの自己満足・自惚れがありますから、それが人間のお手本が如くに思い、私は正しいを主張し顕示することになるのです。

しかもその自己拡大のお手本に憧れ敬い尊ぶ同じ特別意識の人がピラミッドが如くに存在していますから、その集合意識によって人間界が支配されている形にもなっています。
だから自由・平等・調和のない比較競争差別意識に満ちています。

私がそのピラミッドを支えていた自己拡大の意識から離れることになったのは(過疎地暮らしは)成り行き任せの必然ご縁で仕組まれたことですが、その成り行き任せのままの独自独歩の自力と自信の精神でもって生きることからして味わうことになったのが完全真理で言うところの「自己縮小」だったのです。 だから完全真理が先ではなくして成り行きからなったものです。

だから私の場合は戦後の物不足を味わい、次に高度経済成長期を味わい、その次に過疎地暮らしを味わうことになったのです。
それを形で言えば生まれながらにして「下」を味わい、そして流れのままに「上」を味わい、そしてまた「下」に戻ったのです。
そして昔の戦後の生活も味わい深かったし、高度経済成長期も変化刺激に満ちて味わい深かったし、現在の自力を多く使う単身生活の自由な暮らしぶりも十分に味わえています。

そんな中にも数多くの趣味嗜好娯楽を味わい、そして「見えない世界」全般を学び知り、精神世界・霊魂の世界にも関わってきましたし、自然界の極まれな現象やUFOなどの異次元現象を何度も見ています。
しかし今も食わず嫌い・苦手意識の「納豆」と「幽霊」を見たくない思いがありますが、それ以外は「知りたがる」「やりたがる」ことからして数多く味わうことができました。

だから実感でもって書く文書が多いわけです。
しかしこれ等を実感でもって味わっていない人には想像するしかありませんから、それが「信じるか否か」の形になるのです。
だから「知りたがる」「やりたがる」その意識でもって多くの裏表を味わい知ることが人間の役割使命を果たすことにつながるのです。
だから三次元界で生きている事の裏表を十分に味わえているとも言えるわけです。
しかし知りたがる・やりたがる中に選り好み選択したり忌み嫌っていることが多いと(否定反発することがあれば)全部を丸取りで味わえませんから、片手落ちのつまらない人生や空虚・虚しさが残る人生や死んだも同然の生き方にもなっていくのです。

だから宇宙・神・愛の仕組みのままに生きる自然体・成り行き任せにしている中にも、何でも知りたがる・やりたがる意識を持っている事から仕組まれて、その必然ご縁のあったことを学び知り味わうことにすれば、必然だけに無理もなく面倒くさくもなく、当たり前の如くに、それ一筋・一本やりに、真面目・真剣にして、それを十分に味わうことになります。

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不平不満と自己満足の出ない生き方を実践して味わうことが無ければ完全真理も「絵に書いた餅」になります。

2012年06月23日 | Weblog
不平不満と自己満足の裏と表の両面を味わっている限りに於いては、その苦楽・喜怒哀楽から離れることは絶対に無理になります。
しかし不平不満や自己満足することが減るとその苦楽も当然減りますから波風が立つことも少なくなります。
そしてその不満と満足の両面・苦楽を味わう事を少なくするには、生きるために絶対的に必要な必然とそのご縁だけにしておいて、それ以外の特別なこと余計なこと無理なこと無駄なことをしなくて済む素朴で執着のない成り行き任せの自然体で生きていくことになります。

それを裏返せば、その必然ご縁以外の事を前もって思い考えたその思惑期待が原因からして、その思い通りになったことで自己満足になるが反対に思い通りにならなければ不平不満になっているのです。
だから生きていくための必然ご縁に限れば余計なことをしないだけに自ずと自己満足も不平不満もなくなっていくわけです。
そしてその不平不満と自己満足のない生活・苦楽のない生き方を実際に味わいそれを実感でもって悟ることになるのです。

ところでこのブログを読まれている人の多くが項目タイトルを見ただけで内容が読み取れる人も多いとは思いますが、それが自分のもの・本物としてその実感で味わっている人となるとごく少なくて、単なる知識(絵に書いた餅)で終わっているはずです。
それだけに(尚のこと)私の実感でもって何度も事細かく書いているわけですが、それも過去の自己拡大を精一杯味わっていたのと、その逆の自己縮小の生活を実感で味わっている「今」があるからです。

だから過去に於いては家族やの身近な人達に限らずとも地域や学校や子供たちに役立つような事を(自分たちが良いと思うことを)その仲間達と一緒になってやったこともありますが、その結果も途中結果の自己満足で終わりますから、その私達の後を引き継いだ人達が(私達と同じように)思い思いに修正・変化改革することにもなりますので、まるで国会政治や経済界と同然の仕組み結果になります。

すなわち不動・不変の完全ではなかっただけにその結果も変化し続けますから、結果的にはその時の(良かったと思っていた)自己満足だけで終わった(余計・無理・無駄な)ことになるのです。

それが家族関係となれば特に妻の我がままエゴ・不平不満を聞くことが多くなります。
そこで人情・愛情・恩や義理からして妻の思い意向になんとか添うことになりますが、その不満を一つ解消しても一時の満足で終わりますから、これまた次々と新たな不満が出てきますので、それが事が大きい時には妻の意向に沿いに難いときもあります。
そうなると過去の満足を全く忘れたかのように執着心を出してきて私を困らせることにもなります。

すなわち自己満足は完全ではないからです。
だから無理をしても結果的には無駄になる余計なことをしたことになるのです。
そして良心でもってやる善行や困っている人を気の毒・哀れ・かわいそうに思いそれをほっとけないで施す慈善も、また無いよりも有るほうが良いと思う善意の寄付贈与であっても、元は不完全意識が原因の結果だけに、私は正しい良い事をしたと思って自己満足したり自惚れることになったりして、その良心・善行・善意・慈善を人様に自慢したりそれを見せびらかしたりたがることにもなります。

またその良心善行善意慈善から救済される人がいても、まだ困っている人が身近なところでも居るだろうし、もっと困っている人が全国各地・世界中に大勢いることから言えば、それは断片的で偏ぱで半端で片手落ちの不具合な差別格差になりますし、またその結果が良かれ悪しかれ途中結果ですから変化し続けますから、誰一人として完全解決したわけではありません。
しかも自力ではなくして他力によるところが多いだけに尚更に他力依存・依存心が増すかもしれません。

すなわち困っている人を全部救済することは不可能ですから仕方なくほっとくしかないのです。
しかも自分自身が困っていることがあるのに、しかもそれを自力で解決出来ないままの中途半端なままに棚上げしているのに、そんな不完全意識の自力実力でもって何で人様を根本的に助けることが出来るのでしょうか?

となれば不完全意識の者同士での断片的で中途半端な助け合いによって共に自己満足するだけで終わりますから、困ったと思うその不平不満の心・意識を根本的に無くすることは出来ませんから、また同じ事を繰り返すばかりですから、その経緯結果の全てが余計なこと無理なこと無駄なことになるのです。

そんな矛盾する裏と表の苦楽を味わいつつも、私としては妻や子供・家族が少しでも多く楽しく生活できるようにと思いつつ、仕事全般や諸般全般の多くの矛盾を味わい続けながら生きてきたその結果が現在ですが、それも未だ途中結果ですから此れからも多少の変化が続くことでしょうが、その不完全意識を持っていることには未だに何ら変わりはありません。

しかし人様の意識を変えることは無理でも、自分の意識は自分で変えることが出来ると書いているのです。
だから人様のことはほっといても(どうすることもできない自分さえ良ければの)(その個人意識を持ったままに)自分の意識改革の実践を続けて行くしか他に道は無いとも書いているのです。
そして何はさて置いても不平不満の出ない生き方を実践して味わうことが無ければ完全真理も「絵に書いた餅」同然になると書いているのです。

そしてどんなに無理しても成らないことは成りませんが、その無理をしなくても成ることは成ることからして言えば、その成る様になる仕組みのその「成り行き任せ」に生きていくほうが、苦楽のない穏やかな生活になり、余計なことに無理することもなくそれが無駄になることもないから、それだけに楽ちん人生になると書いているのです。

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不平不満が諸悪の根源となり、自己満足が自己拡大の原因となります。

2012年06月21日 | Weblog
このブログを読まれている人なら不平不満と自己満足の認識・知識が深まっているとは思われますが、その正体・本質を実感でもって気付き悟り会得されている人はごく少ないはずです。

と言うもの、現実にして不平不満と自己満足のない(少ない)実生活を長く続けていて、その苦楽・喜怒哀楽の波風のない穏やかな精神生活を実際に味わっていなければその実感が伴わないからです。

しかもその不平不満が出ることは「どうしようもない」のです。
だから根本的に解消できないだけに「どうすること」も出来ないのです。

例えば私が不平不満に思って口に出すと言うことは、自分で解決できなかった「どうすること」も出来なかった事柄だけに、それを何とかして欲しいと他の人に甘え・頼み・訴え・擦り付け・背負わすわけです。

そして頼まれれば無下に断われない場合もありますから、その人情・愛情・義理・恩義や見栄・自惚れでもってその人の不平不満を何とか満足させるために口出し・手出し・足だし・お世話・お節介することになりますが、それが金銭物質であっても、また人力や道具・機械の他力を使うことであっても、また奇跡頼み神仏頼みであっても、また苦悩などの精神的なことであっても、それら原因を完全解決できなければ中途半端な結果になりますから、一件落着したかのように思えても蒸し返されたり、また別件で新たに出てきたりと、後が(不平不満が)絶えません。
すなわち不完全意識が原因のその結果・途中結果も同じ不完全ですから完全解決には至らないのです。

しかし私がその不平不満に執着しなければ口に出すこともなくて、それもやがて忘れることが出来ますから何ら問題化することにはなりません。
更に私が不平不満に思うことがなくなれば、私自身の精神も穏やかですし、他の人に迷惑なことにもなりませんから、その人間関係も平穏・平常に続きます。

と言うことからして私のことは私の自力で解決できますが、人様の不平不満だけは(先程のように)どうすることもできません。
だから皆が皆して自前の自力でもってその不平不満を解消するしかありません。
だから完全真理が必要なわけです。

しかしその不平不満を原因から解消せずに於いて代替の趣味嗜好娯楽を成す自己満足で解消したがります。
だからその不平不満とその自己満足の繰り返しがずーッと続き、それが自己拡大の文化文明の進化拡大にもなっています。
だからその不平不満を持つことがが正しいことにも錯覚勘違いして、それが「私は正しい」の潔癖・完璧・正義感にもなっています。

ところが(私の実感からして言えば)その不平不満から離れることで次第に自己満足を欲しがることが消えていきます。
その自己満足が減ると更に不平不満に思うことが減り続けます。
すなわち「裏と表」の関係なのです。
それだから不完全意識の者が何を成しても「裏と表」の不完全を味わう結果にもなるのです。

その裏と表を味わうことが少なくなるほどに余計なこと無理なこと無駄なことをしませんから、それで暇で退屈することにもなりましたが、その不平不満が表面化しない生き様を長く実際に味わっていると、過去の不満と満足の繰り返しの自己拡大をしていた頃が(懐かしくもあるが)(現在からして)余計なことを無理にしてそれが中途半端ですべてが無駄になったことからして、何だか虚しく思えるようになりましたからその自己満足・自己拡大の生活に二度と戻ることはありません。

そして更に自己満足とは思えていなかったことまでが色々と気付くことになり、その自己満足になるような余計なことをやらないでおいて、生きるために必要な必然性に任せた生活になると、これまた更に無理・無駄のない生活の暇で退屈する時間帯が多くなりました。

だから意識している事といえば完全真理でありその実践であり、その時々の必然ご縁の人間関係に意識を使うことであったり、生活に必要・必然とする事柄やパートに出向いていることを意識する程度です。
その中に暇つぶしのブログの書き込みと一円パチンコが含まれます。

とにかく不平不満に無縁になるほどに、(生きていることが)「地上の天国」に思えるようになるようです。
だから自己拡大のままの意識で居る限りにおいては絶対に「幸福・天国」に思えることにはなりません。
そこで(不完全意識に変わりはないけれども)せめても不平不満の少ない者同士の関係になるとその人間関係も調和に近づきますから、気疲れ気苦労の伴わない至極当然・自然体の至福にも近い時間帯を共に過ごすことにもなります。

そうなれば暇で退屈する時間帯が減ってその至福感を味わう時間帯が訪れますから、そうなる日を静かに待っているのです。
それが死する時までに味わえ無くても、今の穏やかな意識のままが「意識の世界」(あの世)でも続きますし、新たな高次元界の良い悪いで判断しない人間の命・意識として蘇る可能性もあります。
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生きる為の衣食住の必然性意識が薄れ、見栄や価値観を満たす特別な衣食住を求め欲しがることになりました。

2012年06月19日 | Weblog
このブログで事細かく色々と<実感>を込めて書き込んでいますが、その実感は私だけのものですから、読まれた方々にそのままに伝わり感じていただくことは絶対的に無理があります。

だから「神を知るには、自分が神になるしかない」と言われる訳です。
それには「知りたがる」「やりたがる」ことが必要になります。

だから完全真理が自分のもの・本物になるのにも、その完全真理を熟知する・深く知る必要がありますが、それにも理解力・読解力・判断力や感受性・発想力・機転力・決心決断力・感性も必要ですし、何よりも知りたがる意欲や真面目・素直・真剣も必要ですし、それに精神的・時間的な余裕も必要ですから、安心安全の精神・健全の心身ともに健康であることも必要になります。

ところが精神世界に関わるようになるきっかけの多くが精神的にも健康的にも問題を抱えている場合だったりしますから、それを早く解決したがることからして他力依存や他力願望や祈願することになり、それが信仰宗教に入信することになったり、仏門に下ることであったり、奇跡を成す人に憧れ期待することにもなっています。
だから完全真理を知りたがる人・求めている人・必然としている人と信じて頼りたがる信者意識・依存心の強い人が集まることにもなっています。

と言うことは、不安心配の少ない人、すなわち不平不満の少ない人、すなわち執着の少ない人、すなわち余裕のある人、そして病的症状が少ない人、健全な人の方が真の精神世界・完全真理を学び知り実践したがる・やりたがる・味わいたがることにもなります。

ところで私が牛のエサやりのパートに出向いていますが、その牛が空腹な時は掃き集めたエサ(残留飼料)でも美味しそうに食べてくれますが、飽食状態のときは見向きもしません。
それと同じくして「空腹こそが最高の贅沢」として私の経験を実感でもって紹介しています。
そして空腹であれば何でも美味しくいただけることからして、特別な美味しいものを欲しがらなくなる事実を実感でもって書いています。

またパート帰りに咽が乾いていても安易に自販機を使用せずにおいて、自宅に帰れば様々な飲料水が用意されていますから、それを楽しみにして帰路につきますからその道中が楽しみに変わりますし、自宅に帰るまで待っていた分だけ味わい深くなります。

映画・ドラマの「がばい婆ちゃん」が当たり前だった当時を経験している私ですが、それがいつの間にやら贅沢三昧の生活に慣れ親しんでいて、生きるための衣食住であったものが特別な自己満足のための衣食住に変わり、それを追及し続けていると快適便利で豊かな衣食住が自己満足・見栄・自惚れの比較対象になり、その過不足が原因でその苦楽を味わうことにもなりました。

そんな快適便利な他力依存の豊かな生活から離れて自前の自力を多く使う過疎地の単身生活に換わったことからして心機一転することになり、その自力を多く使うことの面白さに熱中していて昼食を忘れることも度々ありました。
だから空腹になってから食事をすることになりますが、しかし一人暮らしだけに全て自力で時間が掛かります、しかし空腹だけに自力の食事準備が面倒くさいと思うよりも「楽しみ」ながら待つ時間帯になります。

そして待ちに待った食事になってその「空腹が満たされる」ことの美味しさに今まで味わったことがないような感覚になったのです。
大げさに言えば涙が出そうなありがたい感覚を実感で味わったのです。
また自力を多く使って作った薪をこれまた手作業で燃やして風呂を沸かすという一連の流れから味わうお風呂も(寒い野外で沸かす冬場ほどに)格別な味わいがあります。

その食事や洗濯やお風呂に限ったことではありませんが、面倒でやりたくなければやらないでほっとく、そしてやりたくなったら必然でやる、それだからこそ(いやいやながら・不機嫌・面倒くさがらないで)(時間的余裕でもってやるから)その「やる事」の正味・賞味・事実を十分に味わえるようになるのです。
だから生きるための衣食住の必然性を見失っていることにも気付き、またそれらが自己満足・自惚れ・見栄の追求にもなっていることに気付き、その必然で実在している諸々の形の中の真価・真実を味わえるようになればいいのです。
そうなれば一般的な生活の中でも自己縮小の実践が可能にもなります。

しかし余計なこと・口出し手出し足だし・お節介・押し付け強要からして無理矢理になり必然性・絶対性が損なわれています。
だから尚更に面倒くさく思え、傍迷惑でうるさく思え、心身が疲れたように装って、嫌がることにもなります。
しかしそれも欲する物を与えすぎた(必然性が薄れた)飽和の結果でもあります。
しかもその裏に人心を操る(手なずける)目的が隠れています。
だから困った人間関係がいつまでも続くのです。

しかし不平不満が少ないほどに自己満足を欲しがらなくなる事実があります。
それを言い換えれば思い通りにならない不平不満が自己満足を欲しがっているのです。
その自己満足に趣味嗜好娯楽があります。
そして中には「依存症」になる場合もあります。

その思い通りに生きるためにも不完全な人間関係を気にしないで生きる自由が必要になるのです。
その開放された無理をしない自由からして「必然・ご縁」の成り行き任せに生きることにもなります。
その必然以外の事を無理に成しても結果的には特別な自己満足の余計な無駄なことになります。
また何処で暮らしていようが、どんな暮らしぶりであろうが、皆が皆同じ不完全意識であることは事実です。

その不完全意識の裏も表も既に味わい済みなのですから、その不完全を味わうことの少ない生活を味わえば、自ずと自己拡大で生きることよりも自己縮小で生きることの真価・真実を味わい知ることになります。
すなわち自己満足と不平不満が裏表だけに、その不平不満の出てこない生活の真価・価値・真実を味わえば多くを求め欲しがる意識が失せて無理のない余計なことをしないで無駄が無くなり楽ちん気楽になるのです。

その「真実・事実を知るにはその真実・事実を味わうこと」しかありません。
だから実践して気付くしかありません。
だから完全真理は実践真理と言われるのです。
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他力よりも自前・自力を多く使う事を喜びとする個性豊かな人が身近に増えることを静かに待っています。

2012年06月17日 | Weblog
このブログを書き始めて1600日経過し600件を超える書き込みになり日々100人ほどの人が訪れていますが、その書き始めから現在までずーッと続いている人は皆無かとさえ思っています。
と言うのも人それぞれに違った意識でいますから、それが原因から読まれた解釈にズレが生じたり、また自分の思いと食い違った文書に違和感や否定反発することになったり、また私の意識が世間離れしていることからして馴染めなかったりしているはずです。

まして摩訶不思議な世界や精神世界を書くものがパチンコ愛用者だったり、私的な内容であってしかも家族愛・人間愛・愛情のない薄情者の如くに書いている内容に馴染めなかったりして、(完全真理を深く理解する以前に読まれて)このブログに対する違和感・不信感から離れて行くこともあると思います。

また真実・事実を書いていても、それを実践で実際に味わっていない人が読んでもその実感が伝わらないだけに意味をなさないこともあります。
だから自己縮小につながるための「素朴」と「自由」に生きることの大切さや欲張り無理のない必然ご縁の成り行き任せに生きることを実際に味わっていない人には「絵に書いた餅」同然かもしれません。

ところで私が(一人遊びできる)パチンコ愛用者なのも、自己縮小の結果から暇で退屈する時間帯が多いからです。
ところがもしも信仰宗教のように仲間内が一堂に集ることが定時・定例的に頻繁に行われていたり、仲間と一緒に布教活動に出かけたり、または寄付集めや托鉢に出向いたりしていれば遊ぶ時間さえ勿体ないと思うようになります。

ところがそんな風に仲間内が集れば比較競争意識が出てきたりプライドや自己主張が出てきたりするのも事実にあります。
また(私のように)人の集まりになかなか打ち解けない・馴染めない場合もあります。
とにかく何処でいようが、何をしていようが、この世の不完全意識の人間関係の中から抜け出し離れることは絶対的に無理なのです。

先月広島県の尾道で耕栄さんの講演会がありましたが、その講演会に参加している人の殆どが常連の者であり、中には追っかけ連中も大勢いますが、そんな参加者さえも「真理を求めて」来ている者とそうではない者がいるので、その両者を耕栄さんが見通し見透かし見極めてその旨を購入した著書にサインする催しがあったそうですが、自分の意識・自己意識のことさえも耕栄さんにお伺いするというなんとも変な催しが行われるほどに他力依存的意識のそのお粗末さが伺われるわけですが、それも今に始まったことでもなくて過去から引き継いでいるものです。

そんなことだから完全真理が広まることなく推移していることもうなずける訳ですが、信仰宗教とは違うだけに(仏門に下るわけでもなく)仲間が寄り集まる事といえば講演会しかありませんのでそれも当然かもしれません。

しかも不完全意識の人間関係の中での実践ですから、自他共に不平不満とその自己満足の苦楽・矛盾に満ちた生活の中での実践となります。
しかも自己縮小の実践ですから、欲のない、無理のない、執着のない、素朴に生きることになります。
しかも不完全な他力依存や他力願望や祈願が通用しない真理の実践だけに、持ち前の自力自信の独自独歩の孤独な実践になります。

となると一般的な自己拡大の生活から離れたような実践になりますから、身近な人からも仕事職場・地域社会からも劣るように思われたり疎んじられたり蔑まれたり邪魔者・厄介者に見られたりするかもしれません。
だから世間体や見栄やのプライド・自惚れがあれば実践が難しくなります。

そんなことからして言えば世間の中で修行しているようになりますが、それが洞窟やお堂にこもって独り身で修行するのとは全く違うだけに、余程の精神力・実践力がなければ到底ながら無理になります。
また実践していても(修行していても)不完全意識に変わりはありませんから、自他共に様々な不平不満が出てきますがそれも自力で解決するしかありません。

その完全真理を学びあう多くの仲間の実践意識が中途半端なままに止まっているのは、完全真理の説く「調和」意識の「至福」ありがたさ・素晴らしさを実感でもって悟っていないのが原因にあると思っています。
すなわち、まだ実際に(実践が)「始」まってもいないのに何でその結果を味わえるのでしょうか?となります。

もしその調和・至福のありがたさ・素晴らしさを自覚納得・悟ることにでもなれば、生まれ持った「自分さえ良ければ」の自己中心の個人意識からして、何をさて置いても、我先に、人様を押し退けてまでも、その実践をやり遂げようとするはずです。
それなのに人様に気兼ね遠慮しているということは、「完全真理」の真実事実も、その「調和意識」「至福」のことも、単に「絵に書いた餅」同然の知識だけで止まっているという証にもなります。

となれば当然ながらこの世の不完全な矛盾する形やその人間関係が原因の苦楽・喜怒哀楽を味わって終わる人生になりますが、しかし完全真理に必然のご縁があったことからして言えば、その自己拡大による苦楽を味わった事を活かすための自己縮小が絶対的に必要となるのです。
それさえも自覚納得・悟っていないからその自己縮小が進まないのです。

私が過去の自己拡大と現在の自己縮小の実践からして、その過去の自己拡大に戻る事無く、必然ご縁の成り行き任せのままに、暇で退屈な過疎地暮らしを続けることが出来るのも、過去の自己拡大時の苦楽を二度と味わいたくないからです。

そして自他共に持つ不完全意識の人間関係の苦楽を多く味わいたくない生活をしているだけにそれが暇で退屈な時間帯になっているのですが、この先で私の意識に似合った人が身近に増えたりして、互いに束縛制限しあわない自由な関係でもってその自前・自力を多く使う事を喜びとする個性豊かな人が増えることになると確信しながらも、成る様になっていくその成り行き任せにして静かに「待って」いるのです。

そして「そのまま、このまま、あるがまま」の自然体であっても、誰もが暇で退屈することのない「調和」「至福」の時代(意識改革の夜明け)が訪れることも、先取り意識の自信・確信でもって「待って」いるのです。
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余計で無理で無駄な結果になる人間関係を気にしないで、余裕のある「沈黙は金なり」の如く静かに生きる。

2012年06月15日 | Weblog
私は(過去において)自己拡大で華やかな生活を経験し、今は過疎地で質素・素朴な生活をしていますが、その過去と現在も不平不満とその自己満足で生きていることには何ら変わりありません。
しかし自己拡大での不平不満のほうが深刻な問題にもなりやすいが、自己縮小中の不平不満のほうは大したことではないので問題化し執着することにはなりません。

だから自己縮小が言われているのも、生活の形・格好よりもその原因意識(思い)にあります。
だから自分に無いものを欲しがる意識が自己拡大に進んでいることになりますが、その欲しがることもなくまた失うことがあっても気にしないでいられる安心安全の精神に戻ることが自己縮小に進んでいることになります。

だから不平不満とその自己満足が多いほど自己拡大に当たりますが、その反対に不平不満や自己満足が少なくなっていることが自己縮小に進んでいることになります。

そして自己縮小で気にすることが少なくなるほどに余計な事に口出し手出しお節介することも少なくなりその無駄も無理もなくなります。
また気にしないだけに「私は正しい」の思いも出てきませんから自己主張したり顕示誇示することにもなりません。
となると先人が残した言葉の「沈黙は金なり」となります。
そして欲張り急ぎ慌てることが減って「静かな」心持で「余裕」のある生き方になります。

だから田舎暮らし・過疎地暮らしが自己縮小とは思っていませんが、その生活に十分馴染み味わえているその原因意識から言えば、その自己縮小に進んでいる形・結果とも言えます。
そして過去の自己拡大の苦楽と現在の苦楽の両方を味わっただけにその実感でもってブログを書いています。

ゆえに、財産家であっても貧乏人であっても、不平不満に思うその思い・感情・精神状態の本質は同等です。
だから空腹や満腹の本質や美味しいや不味いとも感じるその本質も同等ですから特別はありません。

だから財産家が高級外車を欲しがるのと私が格安な中古車を欲しがるのも、車という移動手段を欲しがっているその思い本質は同じであっても、高級外車を欲しがる場合は見栄・プライドが大きく影響しているけれども、私の場合は必要性から欲しがっているだけですから、その不平不満もその自己満足の思いの質も量も大きく違っていても当然です。

その本質でみると真実・事実でみることになりますから、食って寝て糞をしながら生きていることが同じであっても、それに価値観・感覚で判断することになると本質・真実・事実でみているのでは無くなり、自分だけの思いで見ていることになります。

だから人様と比べて自分にはない能力や見かけの艶やかさ華やかさに憧れていると自分が劣るように思えます。
そして自らの個性・役割を出し切れないままに人真似したがったり、また憧れ敬い尊ぶことにもなりますが、それが自分に無いものを欲しがる(成りたがる)特別意識・自己拡大にもなっていますから、宇宙・神・愛の必然ご縁の成り行き任せに生きることに無理があります。

また欲を出していると、その欲目の見掛けで判断することからして、結果的に裏切られ騙されたり詐欺・搾取されることにもなります。
しかし自分の自力(個性)に自信があれば自分の本質も見極められますからそれ以上の無理も欲も出しません。

ところが欲目で無理をしだすと他力も必要になりますから、その他力で思うようにならないとその不満が出てきます。
その他力に対する不満の原因がその他力が原因に思うほどにそれが執着になりますが、その他力を当てにしていた自分の責任に思い直せばその執着から開放されて気分が楽になるし、その他力を使ってまで無理することも(欲目が消えて)次第に減っていくのは事実です。

しかし自分の欲が原因なのに、それを他力の原因にすり替えてまで思い続けてその不満に執着することになれば、それが苛立ち腹立ち怒り破壊に変化・進化していきます。
しかしそんな苦い辛い思いをすることになった原因が他力依存の自分が原因であることに気付き反省することにでもなれば、その他力をあてにしないで生きていく方向性になります。

ところが困ったことに他力を使わないでいると(この世では)仕事も生活も次第に縮小されるのです。
そうなると普段と違った生活様式が必要になります。
それが私の場合は見栄や世間体を気にしないでいられる田舎暮らしに必然ご縁で仕組まれたのです。
またそれが不完全意識の人間関係・しがらみから離れられた自由と孤独を味わうことにもなったわけです。

しかもそれが欲張り急ぎ慌てない生き方の「静かな」心持で「余裕」のある生き方になり、余計なことになる口出し手出し足だしお節介しないままの、安心安全の必然ご縁の成り行き任せにして、私は正しいの主張顕示誇示もその守り意識もないままの、余計で無理で無駄な結果になるその不完全な人間関係を「気に」しない、「沈黙は金なり」の如くにして、自然界の静寂・素朴の中で独自独歩の自由に生きることを味わっているのです。
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他力依存・他力願望・他力祈願の通用しない実践真理ですから、自力と自信の精神力と自由意識が必要です。

2012年06月12日 | Weblog
完全真理を学び知ってもその実践が無ければ「絵に書いた餅」同然で実際に味わえませんから自分のもの・本物にはなりません。
またその実践が「良い悪い」で判断しないことですが、生まれながらにして持っているだけに無理だとなります。
そうなると良い悪いで判断したことが原因の不平不満から始まる不安心配・怒り・仕返し復讐・破壊意識に到ることも避けられません。

また私は正しいの潔癖・完璧が出てくることにもなるしその主張・顕示をすることにもなりますし、それが不信感を持つことになり、それが守り闘う守り意識にもなっています。
またそれが見栄や世間体を気にするプライド・自尊心やその自己満足や自惚れを持つことにもなっています。

と言うことは「良い悪い」で判断しているその矛盾意識・不完全意識の自己中心(自分さえ良ければの良いとこ取り)の個人意識の全てが出るのが当たり前になりますから、その個人意識の者達が集まっているその人間関係も矛盾する不完全な形・結果になるのも当たり前なのです。
だからその不完全な矛盾する意識の人間関係が原因からして良いこともあるが悪いこともあるというその喜怒哀楽・苦楽を味わうことになっているのも当たり前のことになります。

だからどんな生活をしていても不完全意識丸出しの生き方になるのも仕方ないことです。
しかも生まれながらにして不完全意識を持っているのだから、完全真理を学び知ってその実践が十分に成されていても、その実践の結果も当然ながら不完全(意識)な結果・形になりますが、しかしそれが不完全を味わいまた完全を知る実践・実感の大切な学びになります。

だから私が過去のしがらみから離れて世間離れしたような過疎地で単身生活をしていても、自分さえ良ければの個人意識が丸出しになります。
だから前項に書いた全ての不完全な思い・意識が日々出てきます。
だから過去の苦々しい思いが蘇るとその仕返しを思い考えることもありますし、また私が正しいと正当化することもありますから、前もって言い訳正当化を考えていたり、また実際に言い訳をしてまでも正当化したがる偽善も出ています。

すなわち人間として生きている限りにおいては不完全意識を(隠し)持っているのです。
その不完全意識が僅か1%しか出ていなくても、また100%出ていても、同じ不完全意識の人間なのです。
だからその時々で出てくるその質と量が様々に変っているだけです。
それが私は正しいや守り意識や苦楽の質や量にもなっているのです。

だから私のように過疎地での自由な一人暮らしなのと比べて、それが世間一般的な生活をしている人となれば、その不完全意識の出る質と量に違いがあって当然になります。
すなわち同じ人間として生きていても、その生き方・形次第で不完全意識の出てくる質と量が違ってくるのです。

そして実践意識でいると不完全意識が出た事に気付けるのです。
そして執着しないで済むのです。
だからその分だけ気が楽になるのです。

だから持っているものは出るのだから、どんな形の生活をしていても気付けばいいのです。
しかし世間的なことや一般的な生活観を守りたがることになれば、その守り意識が邪魔をしてなかなか気付けないでいるのです。

また自分に都合がいい他力依存は「良いとこ取り」の不完全意識ですから、出来る限りにおいて自力でもって丸取りし、その自力を多く使うことで生きていることが味わえれば、それが自信にもなって生きる力・精神力にもなるのです。
そして他力依存がなくなればそれだけ無理のない素朴に生きることになります。

そして他力依存から不平不満が出ていた事にも気付けますし、素朴で無理のない事を自力で成すことの面白さ・生き甲斐も味わえますから、自ずと他力よりも自力で成すことが多くなり、いつの間にやら不平不満が出難くなっていることにも気付きます。
だから尚のこと他力を使わずに「自力で解決」することになりますから、それがまた更なる自力自信の生きる力・精神力にもなるのです。

そして他力依存の自己拡大をしていた過去の生き方よりも、執着のない素朴な生き方の中の自力自信の生き方のほうが無理もなくて気楽・楽ちんであり、しかも安心安全の精神力が養われ育っていくことになりますから、この世の形・人間関係の不完全意識・闇意識(不安心配・怒り・破壊)に覆われた中に「光」を見出したような確固たる生き方になる筈です。

しかしそれでも問題があります。
私の場合は成り行き任せの結果から既に自己縮小の形(素朴と自由)になっていましたから、このブログに書いているような事を既に味わっていてその真価・事実を認識・確信・悟りとなっていたのですが、これまで自己拡大を続けてきた人であれば実際に味わっていないことからして概ね確かな実践には結びつかいなはずです。

すなわち他力依存・他力願望・他力祈願の通用しない実践真理ですから、自力と自信の精神力と自由意識が必要ですが、それも実際に「味わってこそ」その実践意識にもなれると言うものです。
と言うことからして、まだ味わってもいないのに、確かな実践意識を持ち続けることが出来るでしょうか?
だからこそ(まだ味わっていないからこそ)「先ずは実践」してみる決心決断が必要なのです。

それが金銭物質や人様の人力に頼る意識である他力依存・願望・祈願を持たないことであり、自分に都合の良いことばかり思い考えるその良いとこ取り意識を持つことにならないように自前の自力・自信・役割個性を発揮することでありますが、それには人様・世間を気にしないでやり続けるだけの自由意識が必要なだけに、それが自らを自由にもさせるのです。
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