私達人間は誰しも良い悪いで判断して比較競争し差を付けることで自己満足して生きてきました。
その比較競争で差を付け勝ち残った者が上に立ち負けた者がその下に付くという繰り返しで現在まで来ました。
そして強者が弱者を束縛制限支配する形が当たり前になり、貧乏人が金持ちに、その金持ちが権力者に、その権力者は国家指導者に従うことでうまく世渡りしてきました。
その国家も強い国家に従う反面、他の弱者国家を支配するために侵略戦争を繰り返してきましたし、今も繰り返されています。
だから過去においても勇者英雄・ヒーローを奉り崇拝することが繰り返されても来ました。
だから大昔の神代の時代でも神同士が敵対し合い、殺し合い、勝った者が奉られ負けた者が邪悪とされました。
また学のない者は学のある者に従い、その学のある者は名誉名声肩書き権威権力に束縛制限支配されてきました。
そしてそんな不自由不平等で戦争か繰り返される世の中に失望したり不信感や矛盾を感じたものなどが神仏の真実実在を探し知るために先人の下に行き教えを乞う形がやがて宗教になり組織化し団体にまでなりましたが、その神を説く中にも神代の時代と同じように他の神と差別し合う比較・競争があり、またその宗教団体の中にも仲間同士の比較競争差別がありますから、それらを勝ち抜いたものが仲間の上位に立ち、また勝ち残った宗教団体が巨大化し、負けている団体は弱体化していきます。
だから今も同じですから、この世に見切りをつけた者や神仏を知りたくて入門した者が、真の神仏を悟らない前から、それら組織団体の強化・勢力拡大のために(人集め金集め布教活動に)巻き込まれたり、世の為人の為と洗脳されたり、また同じ仲間同士で比較競争し合い差を付けあうことになり、その中の上位の指導者に反発あるいは憧れ崇拝することにもなります。
また、いつの世もそんな時代に馴染めない者がいますから、時代・世間に置いてきぼりにされます。
それでも本人が納得していることなら問題はないのですが、その子供まで巻き込む事になれば、やはり親としては頑張りなさい我慢しなさいと比較競争差別のある世間の中に入れざるを得ません。
その良い悪いで判断し比較競争差別のある世の中で、(金や学や縁故がなくても)本人任せの「自由」があれば、その本人の思い通りに個性を発揮していきますから、何が有っても無くても、すべて納得できるし、それが自力自信になって心強く生きていけますから、我が子にも同じように自由に任せることにもなります。
また自分に自由があれば他の人の自由まで奪う事をしません。
それを裏返せば、自分に自由がないから(自由を味わっていないから)人様の自由を奪って自分の思い通り(自由)にしたがるのです。
自分に自由があれば他と比較競争して差を付ける事はしません。
何故なら他と比較競争すれば無理が生じてそれが執着になり、自分の自由意識が損なわれていることに心から気付くからです。
それも我が身で自由を十分に味わっているからこそ、その不自由な状況になっていることに自らが気付けるわけです。
そして自由があれば、それぞれの姿形に違いがあっても差が無く皆が同じという「平等」意識を持つことにもなります。
ところが困ったことにあるのが個人の自由を害する世間があることです。
そして「生きて」いくためにその世間と関わっていきますから、何かと自由が損なわれます。
その時に「欲」が無ければ執着しないで気楽にやれますし、それも「自由に生きて」いくための犠牲に思えますから、自らの意識で惜しみなく力を出し続けますから、それで自らの自由が損なわれたとは思いません。
その自由を犠牲にするときに「欲」が絡むと世間の比較競争差別の形に染まっていくことになり、その束縛制限支配関係に自由を犠牲にすることになり、豊かな衣食住や財を持つための犠牲や名誉名声肩書きの権威権力に染まったりして、先程の勇者英雄・ヒーローや指導者・支配者やまた布教・宣教師・教師・教祖にもなりたがるかもしれません。
・・・自由であれば十分なのに、欲を出すから変な事になっているのです。
すなわち自分の自由を犠牲にして手に入れた形でもって、また他の人の自由を束縛制限支配する形を持つことになり、そして何か事を成すごとに自己満足する人生になるのです。
しかも欲張れば欲張るほどに他の人の犠牲がもっと必要になります。
そしてリーダー・責任者・指導者や支配者になり権威・権力を持つことにもなっていきます。
ところが、年老いてくるほどにその自己満足で生きていたことが虚しくなるときがあります。
それでもそれに気付けばまだしも、病気や怪我でベットに横たわる事になっても、また死に掛けていても気付かずに、過去の未練や後悔や現在や未来のことに執着したままで終わったり、中には廃人同様になって生き長らえることにもなります。
だから、同じ苦楽・喜怒哀楽を味わうにしても、自由意識で味わってきたのと、否定反発・束縛制限支配・差別のある意識で苦楽・喜怒哀楽を味わうのとでは大きな違いがあります。
またその自由意識の中に自然体の必然ご縁の成り行き任せにしているほうが苦が少なくて楽な人生になります。
その無理のない自由な生活をしていると執着束縛されていた意識が開放されますから、持ち前の感覚・感性が開き磨かれ気付き感じることが多くなり、自らが捜し求めて得た自己満足の幸福感や刺激変化で得た満足感ではなくして、ただ生きているだけなのに満たされた時があったり、波長の合う友と一緒にいる中で意識が調和して満たされた時があったり、大したことでもないのに何か満たされた感じがするときがあります。
だから楽に生きているのに味わい深く生きているというような充実めいた感覚があったりします。
その感覚が味わえるようになるのも、どうやら苦が無くなったことで(感覚が研ぎ澄まされて)味わえているようです。
すなわち「苦」を味わっていたからこそ相反する「楽」が味わえたという矛盾の結果になります。
・・・苦を味わっていなければ楽も味わえないという、その矛盾を味わい知ったことになります。
ところがその「ひとつ」のことを「良い悪い」に分離判断し、その矛盾する意識を持っているのは宇宙万物の中で人間だけなのです。
・・・宇宙・神が地球万物を創造するときに、人間だけの意識・命に矛盾する意識を持たせる必然があったのです。
だから先程書いたように・・・苦を味わっていなければ楽も味わえないという、その苦楽の矛盾を味わっているのです。
そして苦も楽もない「あるがまま」の宇宙・神が矛盾する意識の人間を創造したことによって、完全しか知らなかった宇宙・神が始めて矛盾・不完全を知る事にもなるのです。
そして人間も「苦」を味わうことで「楽」のありがたさを知る事になるわけです。
そこで当然ながら不完全意識で生きることよりも、完全意識で生きるほうが楽ちんで味わい深い・ありがたい・生き方になることを悟ることになり、それ以降は不完全意識が出ることはあっても、それに執着することなく「あるがまま」の完全意識で生きる事になるわけです。
※何故に人間だけが不完全意識を持って地球で我が物顔で生きているのか、その大元の原因を完全真理で知れば、此れまでの苦楽・喜怒哀楽・自己満足と不平不満の繰り返しの不完全な生き方を知るのと同時に、その苦と楽でない「あるがまま」「調和」の味わい深い生き方の実践に向けて更に拍車がかかることにもなるでしょう。
その比較競争で差を付け勝ち残った者が上に立ち負けた者がその下に付くという繰り返しで現在まで来ました。
そして強者が弱者を束縛制限支配する形が当たり前になり、貧乏人が金持ちに、その金持ちが権力者に、その権力者は国家指導者に従うことでうまく世渡りしてきました。
その国家も強い国家に従う反面、他の弱者国家を支配するために侵略戦争を繰り返してきましたし、今も繰り返されています。
だから過去においても勇者英雄・ヒーローを奉り崇拝することが繰り返されても来ました。
だから大昔の神代の時代でも神同士が敵対し合い、殺し合い、勝った者が奉られ負けた者が邪悪とされました。
また学のない者は学のある者に従い、その学のある者は名誉名声肩書き権威権力に束縛制限支配されてきました。
そしてそんな不自由不平等で戦争か繰り返される世の中に失望したり不信感や矛盾を感じたものなどが神仏の真実実在を探し知るために先人の下に行き教えを乞う形がやがて宗教になり組織化し団体にまでなりましたが、その神を説く中にも神代の時代と同じように他の神と差別し合う比較・競争があり、またその宗教団体の中にも仲間同士の比較競争差別がありますから、それらを勝ち抜いたものが仲間の上位に立ち、また勝ち残った宗教団体が巨大化し、負けている団体は弱体化していきます。
だから今も同じですから、この世に見切りをつけた者や神仏を知りたくて入門した者が、真の神仏を悟らない前から、それら組織団体の強化・勢力拡大のために(人集め金集め布教活動に)巻き込まれたり、世の為人の為と洗脳されたり、また同じ仲間同士で比較競争し合い差を付けあうことになり、その中の上位の指導者に反発あるいは憧れ崇拝することにもなります。
また、いつの世もそんな時代に馴染めない者がいますから、時代・世間に置いてきぼりにされます。
それでも本人が納得していることなら問題はないのですが、その子供まで巻き込む事になれば、やはり親としては頑張りなさい我慢しなさいと比較競争差別のある世間の中に入れざるを得ません。
その良い悪いで判断し比較競争差別のある世の中で、(金や学や縁故がなくても)本人任せの「自由」があれば、その本人の思い通りに個性を発揮していきますから、何が有っても無くても、すべて納得できるし、それが自力自信になって心強く生きていけますから、我が子にも同じように自由に任せることにもなります。
また自分に自由があれば他の人の自由まで奪う事をしません。
それを裏返せば、自分に自由がないから(自由を味わっていないから)人様の自由を奪って自分の思い通り(自由)にしたがるのです。
自分に自由があれば他と比較競争して差を付ける事はしません。
何故なら他と比較競争すれば無理が生じてそれが執着になり、自分の自由意識が損なわれていることに心から気付くからです。
それも我が身で自由を十分に味わっているからこそ、その不自由な状況になっていることに自らが気付けるわけです。
そして自由があれば、それぞれの姿形に違いがあっても差が無く皆が同じという「平等」意識を持つことにもなります。
ところが困ったことにあるのが個人の自由を害する世間があることです。
そして「生きて」いくためにその世間と関わっていきますから、何かと自由が損なわれます。
その時に「欲」が無ければ執着しないで気楽にやれますし、それも「自由に生きて」いくための犠牲に思えますから、自らの意識で惜しみなく力を出し続けますから、それで自らの自由が損なわれたとは思いません。
その自由を犠牲にするときに「欲」が絡むと世間の比較競争差別の形に染まっていくことになり、その束縛制限支配関係に自由を犠牲にすることになり、豊かな衣食住や財を持つための犠牲や名誉名声肩書きの権威権力に染まったりして、先程の勇者英雄・ヒーローや指導者・支配者やまた布教・宣教師・教師・教祖にもなりたがるかもしれません。
・・・自由であれば十分なのに、欲を出すから変な事になっているのです。
すなわち自分の自由を犠牲にして手に入れた形でもって、また他の人の自由を束縛制限支配する形を持つことになり、そして何か事を成すごとに自己満足する人生になるのです。
しかも欲張れば欲張るほどに他の人の犠牲がもっと必要になります。
そしてリーダー・責任者・指導者や支配者になり権威・権力を持つことにもなっていきます。
ところが、年老いてくるほどにその自己満足で生きていたことが虚しくなるときがあります。
それでもそれに気付けばまだしも、病気や怪我でベットに横たわる事になっても、また死に掛けていても気付かずに、過去の未練や後悔や現在や未来のことに執着したままで終わったり、中には廃人同様になって生き長らえることにもなります。
だから、同じ苦楽・喜怒哀楽を味わうにしても、自由意識で味わってきたのと、否定反発・束縛制限支配・差別のある意識で苦楽・喜怒哀楽を味わうのとでは大きな違いがあります。
またその自由意識の中に自然体の必然ご縁の成り行き任せにしているほうが苦が少なくて楽な人生になります。
その無理のない自由な生活をしていると執着束縛されていた意識が開放されますから、持ち前の感覚・感性が開き磨かれ気付き感じることが多くなり、自らが捜し求めて得た自己満足の幸福感や刺激変化で得た満足感ではなくして、ただ生きているだけなのに満たされた時があったり、波長の合う友と一緒にいる中で意識が調和して満たされた時があったり、大したことでもないのに何か満たされた感じがするときがあります。
だから楽に生きているのに味わい深く生きているというような充実めいた感覚があったりします。
その感覚が味わえるようになるのも、どうやら苦が無くなったことで(感覚が研ぎ澄まされて)味わえているようです。
すなわち「苦」を味わっていたからこそ相反する「楽」が味わえたという矛盾の結果になります。
・・・苦を味わっていなければ楽も味わえないという、その矛盾を味わい知ったことになります。
ところがその「ひとつ」のことを「良い悪い」に分離判断し、その矛盾する意識を持っているのは宇宙万物の中で人間だけなのです。
・・・宇宙・神が地球万物を創造するときに、人間だけの意識・命に矛盾する意識を持たせる必然があったのです。
だから先程書いたように・・・苦を味わっていなければ楽も味わえないという、その苦楽の矛盾を味わっているのです。
そして苦も楽もない「あるがまま」の宇宙・神が矛盾する意識の人間を創造したことによって、完全しか知らなかった宇宙・神が始めて矛盾・不完全を知る事にもなるのです。
そして人間も「苦」を味わうことで「楽」のありがたさを知る事になるわけです。
そこで当然ながら不完全意識で生きることよりも、完全意識で生きるほうが楽ちんで味わい深い・ありがたい・生き方になることを悟ることになり、それ以降は不完全意識が出ることはあっても、それに執着することなく「あるがまま」の完全意識で生きる事になるわけです。
※何故に人間だけが不完全意識を持って地球で我が物顔で生きているのか、その大元の原因を完全真理で知れば、此れまでの苦楽・喜怒哀楽・自己満足と不平不満の繰り返しの不完全な生き方を知るのと同時に、その苦と楽でない「あるがまま」「調和」の味わい深い生き方の実践に向けて更に拍車がかかることにもなるでしょう。