孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

私達が矛盾する不完全意識を持っているだけに、「苦」を味わうことで「楽」のありがたさを知る事になる。

2011年07月31日 | Weblog
私達人間は誰しも良い悪いで判断して比較競争し差を付けることで自己満足して生きてきました。
その比較競争で差を付け勝ち残った者が上に立ち負けた者がその下に付くという繰り返しで現在まで来ました。
そして強者が弱者を束縛制限支配する形が当たり前になり、貧乏人が金持ちに、その金持ちが権力者に、その権力者は国家指導者に従うことでうまく世渡りしてきました。

その国家も強い国家に従う反面、他の弱者国家を支配するために侵略戦争を繰り返してきましたし、今も繰り返されています。
だから過去においても勇者英雄・ヒーローを奉り崇拝することが繰り返されても来ました。
だから大昔の神代の時代でも神同士が敵対し合い、殺し合い、勝った者が奉られ負けた者が邪悪とされました。

また学のない者は学のある者に従い、その学のある者は名誉名声肩書き権威権力に束縛制限支配されてきました。

そしてそんな不自由不平等で戦争か繰り返される世の中に失望したり不信感や矛盾を感じたものなどが神仏の真実実在を探し知るために先人の下に行き教えを乞う形がやがて宗教になり組織化し団体にまでなりましたが、その神を説く中にも神代の時代と同じように他の神と差別し合う比較・競争があり、またその宗教団体の中にも仲間同士の比較競争差別がありますから、それらを勝ち抜いたものが仲間の上位に立ち、また勝ち残った宗教団体が巨大化し、負けている団体は弱体化していきます。

だから今も同じですから、この世に見切りをつけた者や神仏を知りたくて入門した者が、真の神仏を悟らない前から、それら組織団体の強化・勢力拡大のために(人集め金集め布教活動に)巻き込まれたり、世の為人の為と洗脳されたり、また同じ仲間同士で比較競争し合い差を付けあうことになり、その中の上位の指導者に反発あるいは憧れ崇拝することにもなります。

また、いつの世もそんな時代に馴染めない者がいますから、時代・世間に置いてきぼりにされます。
それでも本人が納得していることなら問題はないのですが、その子供まで巻き込む事になれば、やはり親としては頑張りなさい我慢しなさいと比較競争差別のある世間の中に入れざるを得ません。

その良い悪いで判断し比較競争差別のある世の中で、(金や学や縁故がなくても)本人任せの「自由」があれば、その本人の思い通りに個性を発揮していきますから、何が有っても無くても、すべて納得できるし、それが自力自信になって心強く生きていけますから、我が子にも同じように自由に任せることにもなります。

また自分に自由があれば他の人の自由まで奪う事をしません。
それを裏返せば、自分に自由がないから(自由を味わっていないから)人様の自由を奪って自分の思い通り(自由)にしたがるのです。
自分に自由があれば他と比較競争して差を付ける事はしません。
何故なら他と比較競争すれば無理が生じてそれが執着になり、自分の自由意識が損なわれていることに心から気付くからです。
それも我が身で自由を十分に味わっているからこそ、その不自由な状況になっていることに自らが気付けるわけです。
そして自由があれば、それぞれの姿形に違いがあっても差が無く皆が同じという「平等」意識を持つことにもなります。

ところが困ったことにあるのが個人の自由を害する世間があることです。
そして「生きて」いくためにその世間と関わっていきますから、何かと自由が損なわれます。
その時に「欲」が無ければ執着しないで気楽にやれますし、それも「自由に生きて」いくための犠牲に思えますから、自らの意識で惜しみなく力を出し続けますから、それで自らの自由が損なわれたとは思いません。

その自由を犠牲にするときに「欲」が絡むと世間の比較競争差別の形に染まっていくことになり、その束縛制限支配関係に自由を犠牲にすることになり、豊かな衣食住や財を持つための犠牲や名誉名声肩書きの権威権力に染まったりして、先程の勇者英雄・ヒーローや指導者・支配者やまた布教・宣教師・教師・教祖にもなりたがるかもしれません。
・・・自由であれば十分なのに、欲を出すから変な事になっているのです。

すなわち自分の自由を犠牲にして手に入れた形でもって、また他の人の自由を束縛制限支配する形を持つことになり、そして何か事を成すごとに自己満足する人生になるのです。
しかも欲張れば欲張るほどに他の人の犠牲がもっと必要になります。
そしてリーダー・責任者・指導者や支配者になり権威・権力を持つことにもなっていきます。

ところが、年老いてくるほどにその自己満足で生きていたことが虚しくなるときがあります。
それでもそれに気付けばまだしも、病気や怪我でベットに横たわる事になっても、また死に掛けていても気付かずに、過去の未練や後悔や現在や未来のことに執着したままで終わったり、中には廃人同様になって生き長らえることにもなります。

だから、同じ苦楽・喜怒哀楽を味わうにしても、自由意識で味わってきたのと、否定反発・束縛制限支配・差別のある意識で苦楽・喜怒哀楽を味わうのとでは大きな違いがあります。
またその自由意識の中に自然体の必然ご縁の成り行き任せにしているほうが苦が少なくて楽な人生になります。

その無理のない自由な生活をしていると執着束縛されていた意識が開放されますから、持ち前の感覚・感性が開き磨かれ気付き感じることが多くなり、自らが捜し求めて得た自己満足の幸福感や刺激変化で得た満足感ではなくして、ただ生きているだけなのに満たされた時があったり、波長の合う友と一緒にいる中で意識が調和して満たされた時があったり、大したことでもないのに何か満たされた感じがするときがあります。

だから楽に生きているのに味わい深く生きているというような充実めいた感覚があったりします。
その感覚が味わえるようになるのも、どうやら苦が無くなったことで(感覚が研ぎ澄まされて)味わえているようです。
すなわち「苦」を味わっていたからこそ相反する「楽」が味わえたという矛盾の結果になります。
・・・苦を味わっていなければ楽も味わえないという、その矛盾を味わい知ったことになります。

ところがその「ひとつ」のことを「良い悪い」に分離判断し、その矛盾する意識を持っているのは宇宙万物の中で人間だけなのです。
・・・宇宙・神が地球万物を創造するときに、人間だけの意識・命に矛盾する意識を持たせる必然があったのです。
だから先程書いたように・・・苦を味わっていなければ楽も味わえないという、その苦楽の矛盾を味わっているのです。
そして苦も楽もない「あるがまま」の宇宙・神が矛盾する意識の人間を創造したことによって、完全しか知らなかった宇宙・神が始めて矛盾・不完全を知る事にもなるのです。

そして人間も「苦」を味わうことで「楽」のありがたさを知る事になるわけです。
そこで当然ながら不完全意識で生きることよりも、完全意識で生きるほうが楽ちんで味わい深い・ありがたい・生き方になることを悟ることになり、それ以降は不完全意識が出ることはあっても、それに執着することなく「あるがまま」の完全意識で生きる事になるわけです。

※何故に人間だけが不完全意識を持って地球で我が物顔で生きているのか、その大元の原因を完全真理で知れば、此れまでの苦楽・喜怒哀楽・自己満足と不平不満の繰り返しの不完全な生き方を知るのと同時に、その苦と楽でない「あるがまま」「調和」の味わい深い生き方の実践に向けて更に拍車がかかることにもなるでしょう。

「あるがまま」の完全真理に、それぞれの人の思いが入れば、その思いが入った人の真理になります。

2011年07月29日 | Weblog
そのまま、このまま、あるがままの宇宙・神は完全です。
そして良い悪いで判断しない、すなわち「個」を無くする、「あるがまま」の愛を説く真理は完全です。

それに加えて山田耕栄さんが良い悪いで判断しても執着しなければいい、また素朴であればいい、また義理人情を大切にする等と言った真理になれば、それは耕栄さんの思いが入った山田耕栄さんの真理と「あるがまま」の完全真理の二つの真理になりますが、それを山田耕栄さんの完全真理と言っても不都合はありません。

その耕栄さんの「完全」を説く完全真理で学び知った内容の中に、私の思いが入ったブログになればそれは完全真理ではなくして私の真理になります。
しかし大元の完全真理もしっかりと説明し、不完全とごちゃ混ぜにならないようにはっきりと説明していますから、「完全真理」として位置づけしても差し支えはないと思いますし、ただ生きているだけでもいい、食って寝て糞をするだけでもいい、良くても悪くても死に掛けていてもすべてに感謝、また自由が無ければ不完全云々と書いていることは完全真理に添ったことになりますから、(私の言葉で私の思いが入っているが)完全真理のブログと言っても差し支えないと思います。

だから良い悪いを持たない「あるがまま」の完全真理にそれぞれの人の思いが入れば、その思いが入った人の真理になりますから、巷に100人や1000人の思いが入った完全真理がある事にもなります。

そこで注意するとしたら、宇宙・神・愛の完全を説く「完全真理」は完全ですが、そこに「個」の思いが入れば不完全ですから、完全真理の中に不完全な思いが入ったことになり、ややこしくなりますから、たとえ耕栄さんや真理の仲間内が言ったことであっても、それが完全か不完全かの見定めは必要となります。
・・・その見極めも分離意識で不完全だから必要ないと言うのであれば完全真理も必要なくなります。
・・・だから完全真理はどうでもいいと言う人も出てくるわけです。

そこで先程書いたように耕栄さんの言葉であっても、執着や素朴や、優しさ思いやり、愛情、そして義理人情は、個人の思いや感情だから不完全だと(否定反発でも肯定でも無く)その事実を説明してきました。
ただその説明の中に私の思いも含まれますから、耕栄さんの真理ではなくて私の真理に変わるわけです。

また、そんな私の真理を受け取った人が自分なりに判断したら、その時点から(誰のものでもない)判断した人の真理になるわけです。
またそれが良いとか悪いとか否定・肯定するのはそれぞれの自由勝手です。
しかし良い悪いで判断しない「あるがまま」は完全真理ですから、誰でもがその完全を不完全に歪めることは絶対に出来ません。

ところで完全真理の「個」の思い判断を無くする為にも、また否定も肯定も無い「あるがまま」になるにも、また矛盾することは「どうでもいい」と思えるようになるにも、完全真理を深く学び知って相反する不完全を確かに味わい知る実践が必要なのです。
だから宇宙・神・愛の完全意識・完全真理を深く学び知ることが先決だと書いてきました。
そして何が完全か不完全かを見極める力・自力・精神力が必要とも書いてきました。
そしてその完全と不完全の両方を深く学び知ることが重要だとも書いてきました。
その為には日々実践意識で暮らすことも必要と書いてきました。
そして私が不完全意識丸出しで生きているから気付くことも多いと書いてきました。

宇宙・神・愛はあるがまで完全です。
しかしその完全を説いている完全真理に個人の思いが入るのも仕方がないことです。
それを否定反発・排除しなければ「あるがまま」になります。
また否定反発・排除する人がいても、それを気にしなければ「あるがまま」になります。

しかしその「あるがまま」の実践は無理だとも書いています。(ただ実践しているように「思い」込んでいる人はいるようです)
それが不完全意識の人間なのです。
だから不完全意識のままであっても、完全真理を意識した日々の実践があれば、宇宙・神のお仕組みで、何とかなるかも知れないと、私の知っているその思いをブログに書いていることにもなるのです。

自由を犠牲にして快適便利な自由を買い(素朴に生きる事を忘れて)束縛制限支配の不自由を得ています。

2011年07月26日 | Weblog
完全真理は完全ですから、良い悪いで判断している不完全意識の私達には不向きな実践真理になります。

それでも(私が)完全真理を「実践」するのは、皆が持っている不完全意識に(自他共に)「うんざり」しているからです。
しかも何をやっても不完全な結果になることを味わい知っただけに、尚更に「うんざり」しているのです。
・・・ところがご縁必然の成り行き任せに生きることで苦が無くなり楽な生き方になるのを知ったのです。

孤独よりも家族に囲まれているほうが賑やかで一家団欒を味わえるのに何で孤独を味わっているのでしょう、そう思いません?
またスーパーの半額惣菜主体の食事ではなくて妻の手料理を味わうほうが美味しいはずなのに何でと思いません?
妻が居ないためにバイト帰りの汗やホコリまみれのままの男がスーパーへ立ち寄る姿を惨めに思いません?
また独り寝よりも妻と一緒のほうが夫婦の味を味わえるのに何でと思いません?
ゴミくずやクモの巣やで汚れた家で住むよりも、妻が掃除した清潔な屋敷のほうが住み心地がいいのにと思いません?

独りして山や空を見たり夜空の月や星を見るよりも仲間が居るほうがいいですね。
独りして庭先で食事をするよりも仲間が居るほうがいいですね。
独りして犬猫と一緒に散歩するよりも、それを喜ぶ仲間がいるほうがいいですね。

何か異変や有事が起きても急ぐ間に合わない所で安心していられませんね。
崖下に転落しても助けを呼べないところ(人影も無く携帯電話も使えない所)で安心して動き回れませんね。
独りして死んで白骨になるまで気付かれないような死に方はいやでしょうね。

暇で退屈するような余裕の時間があるのなら、何でパチンコだけではなくてもっと色んな事をすればいいのにと思いますね。
ポリバケツに腰掛けてウンコするよりも水洗便所がいいと思いますね。
山から材木を運んで薪割して焚き付ける風呂よりスイッチポンの風呂が楽ですね。
春夏秋に草刈しなければ通りづらい田舎道や草ぼうぼうになる敷地よりも舗装された道や敷地のほうが面倒要らずですね。
日が暮れれば真っ暗な細い夜道を曲がりくねりながら通ることにもなり、小さな携帯ライト頼りで急勾配の坂道下の豆球だけが灯る我家に帰ることになるし、見渡せど何処にも明かりのついた家屋が見えない場所に住んでみたいと思いますか?
・・・まだまだありますが、全てにおいて良いこともあれば悪いこともあるのが、この世です。

その、良いこともあれば悪いこともある、この世とその人間関係の不調和・矛盾を味わっただけに「うんざり」しているのです。
また、自他共に持っている不平不満とその自己満足の苦と楽を味わっていることにも「うんざり」しているのです。
また、その自己満足は直ぐに消えるのに不満だけは(うんざりするほど)いつまでも引きずるのです。
そして結果的に裏切り関係になって共に「うんざり」することにもなるのです。

それが原因とその結果からして、苦なくして楽に生きる、カッコよく言えば自然体で生きる事に目覚めたとも言えます。
おかげで人様の小言・不平不満に巻き込まれないで(うんざりしないで)済む孤独があります。
また見栄や世間体や常識や道徳に関係なく、自分が思うがままの自由があります。
また何にも無いような環境なのに、何かしらのエネルギーを受けて得ているようなのです。

こうしてあれこれと書いたとしても、人様が簡単に真似出来ない事だと知っているだけに、また深く理解されない事を知っているだけに、また私の中にあることですから、それを判りやすく伝えるためにあれこれと事例を書いているとも言えます。
だからこんなブログも珍しいと思っています。
それも毎日100人以上の人様が訪れて何篇かの文書を読まれているから書き続けているわけですが、それらを読みながらも内心では否定反発・不信感で読まれている人がいると思います。

それを端的に言えば、世間のしがらみを捨てた「自由」を味わい知らないからです。
その自由を犠牲にして快適便利な自由を買い、そして素朴に生きる事を忘れてしまって、その結果から束縛制限・排除される不自由な目にあっていることに気付いてないからです。
そのしがらみ・過去に未練も執着も無く、また今であれ先々であれ、現時点では不完全ながらも、人が持つ不信感や不安心配や恐れも無くなっているような生き様を味わい知らないからです。
また不調和・不完全意識の者同士の歯車が噛みあわない味気無さ虚しさが多くて、自己満足ではない求め探したわけでもない至福を味わえることがあまりにも少ないことに気付いていないからです。
また自己満足や刺激に慣れ親しみすぎて昔の素朴さを忘れているからです。

・・・それだからこそ・・・(私は)否定反発のない調和の人間関係を求める事になっているのです。
またそれにも互いの自由を尊重し合う調和が必要になります。
ただ不完全意識に変わりはありませんから完全な調和は望めません、それでも一時の調和・至福を味わえば、衣食住・財やの形がどうでもいいことになり(自己縮小が進み)、調和の意識になる実践が進展します。

それでも大方は読むだけで終わるのが関の山です。
それでも(このブログに)ご縁・必然があったことは後々役立つかもしれません。
それも願わくば「あの世」ではなくして「この世」で役立って欲しいものです。

「自由」が無ければ自分さえ良ければの個人意識を無くしていく実践も無理になります。

2011年07月25日 | Weblog
「自由」が無ければ不完全です。
だから先ずは「自由」にならなければ個人意識を無くしていく実践もままなりません。
それなのに何故かその個人意識を大事に守っている形が現実に多くあります。
それはこの世で生きているからです。

そのこの世で生きていることが結果であって、その結果に意識が縛られているから自由が無いのですが、その自由よりも今の結果を大事に思っている限り、当然ながら絶対に自由にはなれません。

その結果・形を大事に守ったところで、その結果・形は不完全で自由がありませんから、無理・苦楽が多くもなります。
しかもそこで何を成しても、何度成しても、その結果・形に自由がありません。
・・・同じ結果の繰り返しで終わります。

それも「自由」が大切な事を意識していないからです。
しかも自由よりも、人様を巻き込んだ自分の都合ばかりが優先されているからです。
その自分の都合が大事なだけに、それに反する事柄を否定反発・排除したがりますから、人様の自由まで邪魔をしています。
それが恋人・夫婦だったり家族家庭や両親や親戚兄弟に限らずとも、何かと否定反発し束縛制限し自由を阻害しています。
すなわち自分の都合を優先する個人意識の人に本物の「自由」は無いのです。

だからその自由を実践するのに多くのものを犠牲・捨てる自己縮小が必要になります。
・・・財産や人間関係に恵まれた中で本当の自由を味わえるのに越したことはありませんが、概ね自己満足の自由になります。
その不完全意識の人間関係から、結果的に独居生活や孤独なフリーター・ホームレスや田舎暮らしになるかもしれません。
・・・しかし(私が)自由になったことで妻や子供たちも(私から)自由になっています。
また(不完全な人間関係から離れた)孤独の中に自由がある事を知ることにもなります。
・・・だから孤独に生まれ育ち死んでいくことにもなるのです。
そこで共に否定反発しない自由な意識の者同士が寄り集まり(形作らずに)接し触れ合うことが「重要」になるのです。
そして「調和」の意識になれば孤独ではなくなり、友と共に居ることになり、「すべてがひとつ」に感じるようにもなるのです。

また不自由であろうが自由であろうが「生きて」いることは皆同じになります。
またそれぞれの結果・姿形は違っていても「生きて」いることに何ら変わりはありません。
・・・だから良い悪いで判断して否定反発・肯定することではありません。
ところが原因と結果は同じですから、自由を多く味わっていればその分だけ個人意識が薄れているはずです。
だから不足に思うことがあっても欲張りません、無理しません、今のままで十分に思えるようになります。
そして(自分が味わっているだけに)人様の自由を尊重するようにもなります。

そして現れた結果に執着しませんから、気になりません。
すなわち不完全な姿形や結果に意識を使うことよりも、自他共に否定反発しないで束縛制限されない自由な生き方を意識します。
そうなれば更に否定反発しなくなりますから、真坂の事故や災害被害にも精神が動揺する事無く平然と生きていくことが出来るようにもなるし、また病気や死さえも気にならないで即身成仏したかのように生きることが出来るようにもなります。

そして「良い悪い」で判断する不完全な矛盾も妥協も嘘もない「自由・平等・平和」の調和のある「新たな人間界」の一員になれる可能性が十分あります。
だから自由が有ってこそ完全真理が活かされます。
だから否定反発しない自由な意識でもってこの世の不自由を味わうことで、その完全と不完全の両方を味わうことにもなり、併せてその自由に生きることの大切さが自信確信・悟りとなってきます。

不完全な闇意識の形諸々を手放せないで守っているから束縛制限支配されて「自由」が無いのです。

2011年07月23日 | Weblog
私が宇宙エネルギーを知り、そして精神世界・霊魂の世界を知り、そして今の完全真理を学び知り気付き、その実践意識でもって今日に至っています。
そして完全真理で言われるところの自己縮小すること、執着しないこと、無理のない素朴に生きることなどを、その完全真理を知る以前から過疎地暮らしで既に実践している形になっていました。

だから呑気気ままな自由を大いに味わっていますから、その分だけ(自他共に)否定反発・束縛制限支配することも無く、またその分だけ不平不満に思うことも少なく、まして何事にも執着することも無いから無理も無く、必然ご縁の成り行き任せで、自然が豊かな過疎地で質素倹約な田舎暮らしに慣れ親しんでいましたから、まさしく完全真理に添った生き方に近い実践をしていることにもなりました。

だから例え完全真理を知らなくても、否定反発することも束縛制限支配することも不平不満に思うことも無理をすることも少なかったのは事実ですし、必然ご縁のお仕組みで成るようになっているのも事実にあります。
ただ完全真理を知ったお蔭で(太鼓判を頂いたようで)更に自信になり、更に実践意識が増してきたのはありがたいことです。

また田舎暮らしを始めたことから(暇で退屈したときに)オーラー・テレパシー・奇跡や異次元や宇宙エネルギーなどの摩訶不思議な世界、また精神世界・霊魂の世界などの「見えない世界」全般をHPやブログに書いていましたから、多分その残骸もまだ残っていると思います。
そして今は完全真理のブログだけになっていますが、それもその摩訶不思議な世界も精神・霊魂の世界やの「見えない世界」全般のことが「全て」完全真理につながっているからです。
すなわち「見えない世界」全般の「完結」版に等しいのです。

それだけに「すべてはひとつ」を説く完全真理が私の中に素直に入ってきたのです。
だから他は必要なく「完全真理」一本やりで十分なのです。

またそれだけに真剣な趣で身近な人やご縁のあった人に完全真理・意識命の世界・宇宙エネルギー・ファバラ製品、そして私の田舎暮らしを紹介していたのですが、結果的にそれらは余計な事で無駄なことで無理することではないと悟った次第です。
だから時間つぶしのこのブログだけになっています。

それでも心残りなのが、やはり見えない世界全般や完全真理を学び知るにも、また自己縮小や無理のない素朴を学び知るにも、自然界・エネルギーを感じるにも、心静かに過ごすにも、質素素朴を感じるにも、また自由の醍醐味を味わうにも、その実践に都合がいい田舎暮らしのサンプルがあるのに、何で御無沙汰な人が多いのだろうという思いは未だに捨て切れません。

その過去の事例になりますが、此れまでご縁ある方々や新たにご縁あって山へ来られたときに、せめて一泊でもと薦めるのですが、此れまでの事例で言えば遊び感覚と好奇心と憧れの入り混じった感じで来ているだけに、やはり一度泊まることがあっても二度とありません。
・・・遠方から来た人でそれっきり音沙汰・ご縁も途絶えたままの事例もあります。
ただ一件だけ本気になりかけた人もいますが、それも週末の別荘感覚程度の軽い気持ちなのに、近所の廃屋を賃借して三回ほど来て手直しているうちに自信喪失し頓挫した例があります。

自然界の中の我家へ来たことで目の前や身近な所に素朴を味わえるものが数多くあっても、それを一つ二つチョコッと味わっただけで長続きしないで終わるくらいだから、賞味の素朴を味わったことの少ない人が快適便利で刺激的な暮らしをしている中で素朴を味わう実践には無理があるかもしれません。
そして忌み嫌い臭い汚い暗い怖いと否定反発する潔癖・完璧からも抜け切れません。
とどのつまり完全真理を知っているだけで実践は無理なままにほっとかれて進みません。

そして孤独の中に自由があることや否定反発しないことで自他共に「自由」があることを味わいきれないままに、また自由の中に素朴があることも味わえないままに、結局は中途半端な意識のままに、せっかくの完全真理を活かしきれないままに、この世に牛耳られ不自由なままに、この世の矛盾・苦楽(不平不満と自己満足)にまみれたままに、その残念な結果のままに過ごす人生で終わる事になるかもしれません。

不完全なこの世やその人間関係から離れて、田舎などで人様に気兼ねなく呑気気ままに暮らしたい思いは誰にもあるようですが、それを実現できないのも不便だから不潔だから不慣れだから先々不安があるから、そして今の仕事や生活環境や家族等の人間関係やに未練や執着やその守り意識があるからです。
すなわち(田舎暮らしでなくても)無理もしないで素朴に生きる事を思い描いてもそれが実践できないのは、不完全な形と知りながらもその今の形を守りたいからです。

またその守り意識を無くしなければと思っているのに、それも実践できないのです。
すなわち完全真理を知ってもいるし実践しなければならないとも思ってもいるが、その自信・自力・精神力・実践力がないのです。
それを裏返せば「完全真理」がまだ<本物>「光」になっていないのです。
だから不完全な闇意識の形諸々を手放せないで守っているから束縛制限支配されて「自由」が無いのです。

<自由>を味わうほどに完全真理が悟りにもなり、その実践が更に進んで調和の意識にもなっていくのです。

2011年07月21日 | Weblog
私が過去の快適便利な贅沢三昧から離れ過疎地に移住して最初に気付いたのがやはり「自由」があることでした。
そして過去の私に自由(勝手気まま)があったからこそ不平不満が少なかったことにも気付きましたが、それを裏返せば、この世に自由がないから不平不満が多いということにもなります。

すなわち私達は奴隷制度がなくなったものの、歩く足には足かせをはめられ、がんじがらめに縛られていて、思うほど自由ではなくて、この世の形やその人間関係に、自他共に、また心身ともに、牛耳られ、牛耳合っている関係になっているのです。
その最小で最たることが、日常の中の、何気なく出ている「否定・反発」によって自由が損なわれているのです。

それが誰もが忌み嫌うことになっている「臭い」「汚い」であり、虫やばい菌を嫌がる不信感や潔癖症、臭い・汚い・暗いから怖いの恐怖心、危ないから怖いの防衛本能・守り意識にもみられますが、それが差別意識にもつながっています。
・・・これら「小」は大につながっていますので(例えば人様に対しての好き嫌い感情や不信感)重要なわけです。

また「常識」を持ち出されて否定反発・排除されたり、何かと束縛制限されていますから、気付かない間に・知らない間に常識で牛耳られている形になっています。
また常識を含め伝統や風習やの形に反する事になれば、非常識だの世間知らずだの、マナー・礼儀知らずだと言われたり、義理人情のない薄情とか、責任感がないとか、また妥協や協調性がないといわれたりして、世間に軽く見られ、疎んじられ、蔑視・差別されることさえあります。 また道徳ともなると更に厳しい目で見られています。

だから自由(主義)だのと言われる中にも、否定反発・排除されたり束縛制限支配されていて「自由」ではないのです。
それを皆のための協調や調和のように言われていますから(正当化されて)、それらを守らなければ日常に支障を来たします。
しかしそれをよく考えると、知らない間に皆して(日常の中で)否定反発し合い自由を束縛制限し合っている関係になっているのです。
・・・完全真理を知らなければ、それが不完全意識であることすら気付いていないのだから無理もありませんが・・・

しかも(皆して)私は正しいとばかりに自分勝手に(裏の自由権利を使って)自己主張し合っていますが、それも否定反発から出ていますから、自他共に自由を束縛制限支配していることにもなります。

また見栄や世間体・プライド・名誉名声・権威権力を持ったことで世間の目・評価が気になり、行動表現の自由を自らが束縛制限することにもなるし、またそれらを守る為に身近な人達・家族までも巻き込んでそれらの自由を阻害することにもなっています。

だからどんなに快適便利になっても、また贅沢しても、人間の「命・意識」(心・魂)に自由が無ければ心は満たされないのです。
すなわち「自由」がないから不平不満を持つ事にもなっているのです。
そしてその不平不満を解決することで自己満足したがる、その繰り返しが今も続いているのです。
・・・良い悪いで判断していることで自由が失われていることさえ気付いていないのです・・・

しかもその自己満足を得るために(自由を犠牲にしてまで稼いだ)金銭を支出・犠牲にしているのですから、その犠牲・仕事・金銭に対しても不平不満が出てくるのも当然のことです。
また今は持っていない自由を手にする為に、今持っている形・状況を犠牲にする場合があります。
・・・裏を反せば自由を犠牲にして何らかを得ているのです。

そこで「良い悪い」で判断する個人意識を無くすることが無理でも、各々の「自由」を得ることは出来ます。
またその良い悪いで判断しても、そこで否定反発がなければ自由な意識を持ったも同然になります。
その意識が自由であれば(縛られていませんから)、生きる為の犠牲がその犠牲とはならずに、否定反発・束縛制限のない(自由な)犠牲になりますから、その犠牲から不平不満が出ることにはなりません。
・・・例え不平不満が出ても執着することにはなりません。
それは自由を味わっているからです。
・・・だから(私の場合)暇だ退屈だと言いながらも、過去の生き方よりも今の自由が快いのです。

その自由を味わう者同士が結び付き集まればそれが調和にもなります。
そして何ら否定反発・排除されること無く、また束縛制限支配されること無く、人間として生きている事を自由に十分味わえます。

また自由が無ければ平等でもありません。
その自由と平等が無ければ調和・平和はありません。
しかしその自由・平等・平和は形ではなくして各々の意識の中に実在するものです。
だから世間の形や身近な人達を気にかけることよりも、まずは己の意識が問われているのです。
そして意識の中に自由が無ければその不平不満と自己満足の繰り返しの虚しい人生で人間を終えることになるのです。

しかし現実に「自由」を持つためには此れまで築きあげてきた多くのものを犠牲にしなければなりません。 だから無理だとも書いてきました。 しかも自らが見栄や世間体や常識や伝統風習や道徳やを気にせずに生きる必要もありますし、また人様に押し付け強要することも束縛制限することもできません。
だから自らの自由を味わうにも、身近な恋人や夫婦家族ら他者の自由も尊重しなければ、それは自分勝手な自由を味わっている片手落ちの自由になり、不完全な自由になります。

そして無理することでもないが、それでも「自由」を得なければ完全真理を実践しているとは言えません。
すなわち「意識・命」の自由がなければ、その人間として生きている意味も成しません。
その自由が平等でもあり調和・平和でもあるからです。

だから先ずは、この世の全ての形に縛られない「自由」を味わう実践が必要なわけです。
そして自由を味わうほどに完全真理が悟りにもなり、その実践が更に進んで調和の意識にもなっていくのです。
だから全ては実践なのです。

知らない事を「知る」ことになる必然・ご縁がこのブログなのです。

2011年07月19日 | Weblog
バイトで牛舎へ通いだして3年目になりますが、今年はハエが異常発生していまして、台車に入れた飼料の上一面が黒くなるほどハエに覆われていますし、牛が食べる餌入れ桶の中も同じ状態ですから、台車の飼料をバケツに入れるときから餌桶に入れるときも歩いているときも、私の周りに煙幕を張ったような状態でハエが飛び交っています。

その有様を娘夫婦と孫達に話すと気味悪がって・・・そんな所でよう働けるわ・・・と言われました。
そんな私も(以前は)黒スーツを着てネクタイを締めて結婚式でビデオ撮影をしていたのですから、人は変われるものですね。
しかも結婚式撮影・ビデオ制作よりも牛のエサやりのバイトのほうが呑気気楽さを味わえるので気に入っています。

すなわち生活と仕事の「表と裏」を味わい知った形になり、その裏方のほうが今の私に適しているのです。
何故なら、既に人間関係やプライドや財産を失う心配も無く、ゆえに人様のご機嫌をとる必要も無く、また人様に遠慮・気兼ねすることも無く、また欲も金もないことから人様に惑わされることも陥れられる心配も無いからです。

このブログで「味わい深い」と書くことが多いのですが、不平不満とその自己満足は変化・刺激になりますが、調和・至福は正味・薄味を感性・感受性で味わうことになります。
ゆえに刺激の強い激辛・濃厚を好む人は精神異常・不安定になっているとも言われています。
また酒好みは酒に酔って精神を麻痺させていることになります。
またギャンブル・賭け事も同じです。
また飲食・趣味嗜好娯楽・薬剤のみならず、文明利器の「依存症」やその弊害副作用の影響を受けていることに気付いていない人が多いのも事実です。

私が(約15年前から)(世間的ではない)見えない世界全般の「知られざる」ことを見聞したり味わい知っていて、それらを常に意識し続けて油断していないからこそ、更に事実・真実に気付くことが多くなり、またそれが呑気気楽の安全・安心につながっているのです。
※逆に言えば「知ら」ないから黄信号や赤信号を平気で(突っ走り)歩いていることになったり、惑わされたり誤魔化されたり、不信感や疑心暗鬼や思考錯誤することにもなっているのです。

また知って為になる必然のご縁を簡単に見逃したり、また目的地の方向性を見失っていることにも気付かないで、特別険しい道のりや山あり谷ありの道や曲がりくねった道を歩くことにもなっているのです。
だから天国(楽)を地獄(苦)に、また地獄を天国に思い違いしたり、薬(善)を毒(悪)に、また毒を薬に思い違いしたり、得ようとするから失うことにもなる矛盾を味わったり、また苦と楽の矛盾を味わうことになり、それが波乱万丈の生き方になったり、苦労を買ってまですることになったり、自己主張・顕示誇示することになったりの、不平不満と自己満足の繰り返しになるのです。、

そこで完全真理によって表の「見える」形・結果の世界と裏の「見えない」原因の世界の両面・矛盾を知ることになります。
そしてその原因の「命・意識」の世界を知ったからこそ、過去とは違う生き方、すなわち不平不満とその自己満足の繰り返しを思い止まることになる自己縮小の生活を平然と味わっていられるのです。

そうなると見栄や世間体やのプライドも消えるし、生きる為に必然であれば臭い汚いも気になら無くなるのです。
そして更に「見える世界」のこの世の不完全な形やその人間関係が「どうでもいい」ことにもなり、それよりも結果であるこの世の原因となる「見えない世界」に関心が高まることになるのです。

その知らない事を「知る」ことになる必然・ご縁がこのブログでもあるのです。

不完全なこの世は苦と楽が常ですが、苦なくして楽を味わえるのが必然ご縁の成り行き任せにすることです。

2011年07月16日 | Weblog
完全真理で言うところの「良い悪い」で判断する個人意識・不完全意識であるがゆえに、「何をやっても」不完全で無駄なだけと言う事をブログに書き続けていますし、また人間界が「感情」(感情体)によって成り立っているところがあるだけに、私の書く文書が薄情にも思えても、それも当然です。

それでも矛盾も妥協も嘘もない完全真理を知ったことから書き始めた文書ですから間違ったことは無いとさえ自信があります。
・・・「この世」の不完全を幾多も味わい気付き続けてきたことを文書化しているからです。

戦中生まれの戦後育ちで物不足・教育不足を味わってきたが、その分だけ自然と接することも多かったし、また創意工夫した独自の遊びも多かったし、こき使われる丁稚奉公も5年近く経験しながらも新製品続出の高度成長期を味わい見てきたし、そのおかげで多趣味を先取りしてきたし、また内気な青春だけに童貞で結婚し浮気もしていませんがエッチ・スケベーですし、とにかく知りたがる・やりたがる性格とその感性・気付きから学力・学識とは違うものを多く味わい接してきました。

だからこの世の酸いも甘いも、苦いも辛いも、上下左右も、真面目も不真面目も、いい加減さも熱心さも、真剣さや集中心も投げやりなことも、思いやり優しさも自分勝手な事も、お客さん本位の商いも自分本位の商いも、損得抜きも儲け主義もありましたし、犯罪となるヤミ米取締り検挙をうまく誤魔化したり税務調査を完璧な偽帳簿で誤魔化したりもしてきましたし、ビデオ撮影を先駆けてビジネスに成長させ、その企画立案指導的なこともやってきました。

また夫婦関係やその子育てもいい加減なようでも、いつも夫婦共に子供と一緒に行動する機会も多かったし、また妻にも子供にも押し付け強要することもなく、その家事全般や学業成績をあまり意識する事無く、何かと自由・放任で接し触れ合ってきました。
・・・妻や子供の喜ぶ姿や楽しんでいる様子を見ているだけで私は満足していたのは事実です。
だから多趣味であっても家庭内や家族同伴で楽しめることが前提に有りました。
だから夫婦円満・家族円満で快適便利な贅沢もしてきました。

その生活の源となる収入は妻の協力もあって一時三種の自営業をやっていましたので、どうしようもない顧客・お客さんの我がままの苦汁も味わいましたし、また商取引やその取引先の担当者・会社組織のいい加減さ不完全さ・矛盾も味わってきましたし、また協力者である妻の不満や口出しする母親兄弟姉妹にも何かと影響されてきました。
すなわち(自己責任を超えた)不完全で矛盾のある人間関係・職場・社会を味わってきたのです。

詳しく説明していると長文になるので省略しますが、私が今まで生きてきた中の全てにおいて良い目をする為に悪い目も見なければならないという矛盾・苦楽を大いに味わい経験してきたのです。
だから仕事であれ家族親戚や夫婦や子供のことであれ、私なりにやってきたつもりですが、楽あれば苦もあるという、結果的には不完全意識からは不完全な結果しか出てこないという事実を改めて感じ入っている次第です。

だから何をしょうが(夫婦我が子の事を含め)どうしようが、成る事は成るが、成らない事は成らない、だから成るようにしか成らない、その事実・結果が今なのです。
その結果も各々の意識・個人意識が元の自己責任なのです。
すなわち今の状況があるのは、神の性でもなければ誰の性でも無いのです、自らの意識が「選んだ」原因が元の結果なのです。
・・・だから不平不満や腹立て怒ることでも恨むことでも妬むことでもないのです。
それを他の性に思うからおかしな事になっているのです。
・・・だから執着しないでさっぱり忘れればいいのです。

そして此れまでのすべてにおいて、何か思い考えて事を成そうと余計な事や無理をしてきた事柄よりも、来るものは拒まず去る者は追わずの必然ご縁とそれらを否定反発しない自然体に任せ、呑気気楽に自分に出来る事をやり続けながら、あとは必然ご縁の成り行きに任せてきた結果(成るように成った結果)の方が、自分には都合が良かった事になっているのは事実です。
・・・すなわち苦なくして楽を味わっているのです。

すなわち(精神世界を知る必然からして)この世の不完全をそれ相当に味わってきたものの、私自身は成り行き任せであまり無理をしていなかったから、その「苦」も「楽」も執着する事無く淡々と、またその感情に支配される事無く淡々と、また(私が自由が好きだけに)皆が好き勝手・自由にするのが「当たり前」のように思っていたからそれに対する不平不満が大きく出ることも無く淡々と、また身近な人達の状況が如何様であれ、私自身は生きている事を自分なりに(如何様にも)(精神面で)十分味わってきているのです。

だから耕栄さんの講演会の内容や書物の内容を紹介する形ではなくして、耕栄さんがあまり語らない夫婦家族のことや仕事や暮らしの中にあった(私の中にある)事実をネタにして書いているのですが、しかし書き終えて30分過ぎれば内容を忘れて思い出せないのもおかしなことです。

そこで納得できないことなどがあればコメントで書き込んでください大歓迎です。

今あるもの、今の生活を十分に味わうことからして、質素・素朴が味わえることにもなります。

2011年07月15日 | Weblog
私が気色悪い幽霊屋敷のような廃屋を手入れ手直ししているときに、先ずは使えないものを運び出して整理することから始まりましたが、残されていた殆どのものが使えませんでしたが、畳と電気掃除機は何とか使えました。
また主だった風呂場や便所や台所や押入れ・家具はまったく使い物になりませんで壊しました。

そしてとりあえず気色悪いながらも寝泊りできるように二階を掃除し、むき出しの屋根柱(丸太の梁)を雑巾で拭いていると築30年のヒノキが(まだ生きていますよと)匂い香ってきたのです。
そこでいっぺんに愛着が出てきて、掃除をしたことで幽霊屋敷のような怖さが吹き飛んで安心して寝泊りできるようになりました。

また持ち込んだ家電製品はすべて廃品同然の一度「見捨てられた命」を再利用するするというような思いから、それらにも愛着が出てきて壊れるまで使いきることになりました。
だから小型の冷蔵庫や二層式洗濯機やホームコタツ・扇風機は未だに健在でお役を果たしてくれています。
その「最後まで使い切ることで(製品が)成仏できる」と耕栄さんが言われたので、さらに自信が付きました。

だから過去の豊かな物質に溢れ快適便利で清潔感溢れる生活をしてきた私が、今の臭い汚い暗い不便な生活や人の気配がない居場所に慣れ親しんで、それらを十分に味わうことが出来ているのです。
・・・だから不平不満や不安心配・恐れも無しに暮らしていけるのだと思います。

だから街中で暮らす人であっても、今あるものを大事に使い切ることを心がけ、また身近な人や今の家族と接し触れ合うことから互いの不完全意識に気付き合い・許し合い・認め合うような生活にして、今の生活そのものを十分に味わい活かすことになれば何の無理をすることなく暮らしていけると思います。

そして子育て中なら、その子育てに欲が無ければ至福を感じるときがあるはずです。
しかし欲が絡めば不平不満とその自己満足の繰り返しになるのです。
だから夫婦関係でも親子関係でも同じことが言えるのです。

また見栄や世間体を気にしなくなっただけでも無理することが減ります。
そして今ある物を使い切ることにもなります。
しかし次々と新品に買い換えているから、きれいに掃除はしても自己満足で終わり、愛着・味わい深いことにはならないのです。
もし愛着があるのならそう簡単に手放したりはしません、出来る限りにおいて使い切りますから、自ずと質素にもなり素朴さを味わうことにもなります。

また子供に愛着を持つのは誰しも同じですが、その愛着が親の欲がらみだから変な(不完全な)子育てになっているのです。
だから夫婦関係でも欲がらみだから偽善の(不完全な)愛着・愛情になるのです。

だから子供であれ夫婦であれ、各々の個性を見ていれば味わい深いものを見出せます。
しかし不平不満があるから個性を見ずにして現れた結果ばかりを見るのです。
だから夫婦関係や親子関係で至福を味わずにして不完全・不調和を味わう事にもなるのです。

何かと自己満足する事を手控えばその分だけ不平不満が減ります。
また不平不満が減れば自ずと自己満足することも減ります。
たかが不平不満、されどその不平不満がすべてを「ややこしく」(不完全に)しているのです。
しかもその不平不満が小さなことから端を発しているのも事実ですから(気付かないだけで)、その些細な事に気付けるだけの余裕・自力・意識力・精神力とその実践力が必要となります。
またその為にも完全真理によって「不平不満」の正体・原因を知ることです。

「幸せ」「至福」「地上の天国」「調和」が一体どんなものか知らなければそれを得ることは出来ません。

2011年07月13日 | Weblog
始まりなき終わりなき大元の宇宙・神の「命・意識」から生まれた人間と言う「命・意識」が、その人間と言う姿形を持って生きる為には、まずは「食って寝て糞をする」必要があります。
すなわち姿形を維持して「生きる」ために衣食住をはじめ諸々の形が必要になりました。
そして生きる為に必要な物・形が豊富になることが幸せに思えるようにもなりました。

そこで便利な言葉や文字が創造され、そして数字による計算も行われるようになり、また便利な道具も様々に作られました。
そしてそれらの教育が成されるようにもなりました。
その積み重ねの歴史が今日まで続いていますが、(自己満足を除けば)誰一人幸せではありません。
と言うことは衣食住やの形や便利なものやの物真似や創意工夫やその教育や研究をしたところで幸せにはなれないのです。

またいつの世も姿形ではない精神世界を説くものが現れてきては消えて、その足跡が宗教化され神仏が偶像・形作られ、またそれら受け継ぐ指導教育する形も続いていますが、未だに幸せになった人はいません。
・・・過去に誰か一人でも幸せになった人がいたのなら、もう既にこの世は幸せな人達で一杯になっているのです。
しかし残念なことに宗教と言う形が大きく膨らむばかりで、(洗脳・陶酔・自己満足している人達を含めて)皆が巧妙に欺かれたままにことが進んでいます。

しかしそれら形は必然から生まれたことですから、その形の指導教育や宗教の性(原因)では無いのです。
すなわち私達の個人意識、自分さえ良ければの意識に原因があるのです。
だから指導教育も宗教も(指導者・宗教家を含めて)自分の都合を良くするためにやっている個人意識が原因なのです。

ところで快適便利な暮らしをしている中にも昭和の時代を懐かしんで「昔は良かった」と言われる人が居るように、いつの時代でも昔は良かったと思う人達が大勢いたのは事実です。
だから私も昭和の物不足の頃の暮らしが懐かしいものになっています。
それをよく考えてみたら、矛盾しているようだが、物が無かったからその分だけ楽しい思い出が多くあるのです。
また物が少なければ、また交通・移動手段が遅ければ、また快適便利さが無ければ、それだけ時間がゆっくりと動いていたからその分だけ生活が味わい深くなっていたのです。
だから反対に物が豊かで急ぎ慌てている快適便利な暮らしが何故か味気ないのです。
・・・だから昔に戻ったような過疎地の生活が落ち着いていられるし味わい深いのです。

だから昭和よりも大正や明治の時代になるほどに「生きて」いるという感覚の時間が長かったはずです。
もっと時代を昔にすれば「食って寝て糞をして」<生きている>だけの時間が多かったはずです。
もっと太古にすれば「生きている」ことだけで十分だったはずです。
だから一日の時間が短く感じる人ほど(変化刺激に満たされてはいるが)味わい深い生き方にはなっていないのです。
・・・だから人間の「命・意識」として生きていないで、形ばかりに囚われている「どうしようもない人」で「つまらない人生」「つまらない時間」を過ごしていることになります。

なんで「生きている」だけでは十分に思えなくなったのでしょうか。
それが先程にも書いたように今のままではいけないと思う欲だったのです。
そして言葉や文字が出来てその教育指導やその伝達がスピードアップして皆に浸透するのがどんどん早まったのです。

その中に「不平不満」を解決して「自己満足」するという形が定着し更に進化拡大する事になったのです。
またその中に神仏に願って自分の不満不安恐れを解決してもらいたいと思う他力本願を持つことにもなりました。
だから神仏のみならず奇跡を成す人や権力支配者に依存するような人達が大勢います。

しかしそれでも思い通りにならなければそれも不平不満になり、更に別な方法で解決したがることにもなっています。
その中にあだ討ちし返し報復制裁や破壊暴力で事を成したがるようにもなっています。
そのすべての責任・原因が「個」の中の思い・意識にあることも知らずに他者責任・原因に思うのも自分が大事だからです。

だからその「個」を無くすることを説く完全真理が宇宙・神の仕組みで出てきたのです。
そして「幸せ」「至福」「地上の天国」「調和」が一体どんなものかを知らなければ、その知らない事を自力や他力で得ることにはなりませんから、まずは完全真理の実践で学び知ることが重要なのです。