孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

人間は生まれながらにして欲をもっています。

2013年06月30日 | Weblog
人間は生まれながらにして欲をもっています。
もし完全にして欲が無ければ(全知全能の宇宙の仕組みからして)この世に人間としては実在できません。
だから釈迦やイエスらにも欲があったその事実をブログに書いています。

然るに俗に言う仙人とか生き仏とか言われる類の人にも欲はあります。
ちなみに仙人の場合は自らが欲を持っているのを自覚しているだけに、然るにその欲が出ないようにと、自らが孤独にして人目に付かない生き方を選んだのだと思います。

ちなみにその仙人や生き仏が持っているその欲が出ることになれば、やはり人里に下りていって何がしの欲を満たす行為行動をあらわにしているはずです。
然るにそれが神仏霊魂を説く宗教になったり、神懸り奇跡の超能力でもってして多くの人を集める形にしているかもしれません。

ゆえに欲張ることが多いほどに人目に付くことを好みます。
然るに欲も無い人が人の集るところにわざわざ出向いていくことはありません。

然るに私も不完全意識丸出しで生きているからには欲を持っています。
しかしその欲を出すとその苦と楽の矛盾を味わうだけに、然るに自己満足は直ぐに消えるが、しかし苦のほうは精神的ストレスを溜め込む事になることを実感でもって気付きましたから、然るにその欲が出ないような生き方にしてその穏やかさ&気楽さを味わっているわけです。

ちなみに教祖指導者先生と言われる人が皆が集まる前で「私にも欲があります」と正直に言った人はまずいないと思います。
然るに欲があると明言すれば集まる者の中に不安に駆られる人や不信感&危機意識から離れていく人がいるからです。
然るにせっかく集ってきた人を手放したくない欲や不信感を持たれるのを用心心配して(自らの世間体や見栄やのプライドを含めて)それを守っているからかもしれません。

ちなみに皆さんの中でたくさんの著作を読んでいる人もいるとは思いますが、その読まれた著書に著作者自らに欲があることを書いていた本があったでしょうか、

ところで中には自分に欲があることに気付いていない人もいるかもしれません。
然るにそんな人は往々にして超能力でもって摩訶不思議を成せる人かもしれません。
そして自らの能力&力量に自らがおごり自惚れ慢心していて、しかも私は正しいの意識からして欲張っているとは思えてないのでしょう。
然るにこの類の人がどうやら多いと思います。


苦楽の無い&矛盾の無い生き方が(然るに)宇宙&神の愛に生きることになるのです。

2013年06月29日 | Weblog
私が山田耕栄さんの初期の頃の(ファバラが出る以前の)(完全真理一筋の)講演会の録音テープを寝床で聴き始めたときは、然るに否定反発することが無いだけに、然るに此れまで私が見聞体験した精神世界を再確認するような趣で聞き入っていましたから、然るに途中で眠ることが多かったのですが、その睡眠効果を当てにして聞き入る内にその内容の奥行きが次第に深く理解できるようになり、然るに3回ほど聞き直しましたが、その聞き直す毎に此れまで聞き逃していた内容が新たに次から次と出てきました。

と言うことは(肝心なことを)聞いてはいたが然るに(真剣に)聞いてはいなかった部分が多かったわけです。
だからと言うわけでもありませんが、このブログをお読みの方も、読んだが然るに読んでいなかった部分が多いと思っています。

然るに私自身が学び知り気付き実感したその苦楽&喜怒哀楽の裏と表を明確に書いていますから、
然るに皆さんも私と同じ不完全意識を持つ同類ですから(以心伝達で)読めば気付きそれが実感でもって伝わるだろうとして書いています。

然るに不完全意識が原因からしてその結果も同じ不完全なことが実感納得できていれば、然るに無理無駄余計なことも、然るにどうしようもなくまたどうすることもできない事実も納得確信になるし、
またそれだけに成り行き任せにしてほっとくことも実践できるし、然るに結果を出すことではなくて自ずと結果が出るのが本物&愛として、然るに思い思惑理想目的や期待を持つことは不完全なこと、しかも他力に頼るは欲心、その欲からして人が接し触れ合い集っているその事実も納得できるはずです。

ちなみに不完全意識だけに「言うは安し行い難し」でもいいのです。
然るに思い思惑&理想目的のための行為行動の結果を出すことではなくして、然るにこの世の様々な不完全を自らの中で気付き実感し続けその不完全さを修正する必然性にも実感し、そして意識の中に留め置きながら日々不完全意識が出るたびに気付き反省し続け、それゆえに宇宙・神・愛の完全意識の必要性をも重々実感する事になれば、然るに精神世界の裏も表も知ることになります。

しかもその不完全意識がゆえの苦楽を味わう生き方よりも、
然るに(苦が伴う)楽しく生きることよりも(苦が無い)楽チンの生き方にして、

その楽に生きるに邪魔していたのが否定反発&束縛制限し合う不自由な人間関係であり、
その自由を味わうには孤独になるしかないその事実でもってしてその人間関係の不完全さも実感でもって気付き、

然るに尚且つその人間関係が調和の意識にならない限り苦楽を味わい続けることになるその事実にも気付けば、
然るに人間関係の裏もその表も実感でもって(心底から)確信し悟ることになります。

その実感確信悟りとなれば、然るにその苦楽に生きる生き方に二度と戻る事が無くなり、ゆえに不完全意識ながらも自ずと静かにして小さく生きることになりますから、然るに心身ともに軽やかで快い生き方になっていくでしょう。

ちなみに苦楽の無い&矛盾の無い生き方が(然るに)宇宙&神の愛に生きることになるのです。

この世に世直し人救いの救世主はいないし、現れるはずも無い事実があります。

2013年06月28日 | Weblog
過去の釈迦やイエスらを含め如何にも神の使い救世主のように奉っていますが、俗に言うミイラ取りがミイラになり、今ではそれら類に係わる宗教家のための人集め金集めの形となっています。

然るにサイババも相当に有名だったようですが、然るにそれも超能力ばかりが先走り、然るに御殿まで持っているとなるとそれもお粗末過ぎましたので、然るに娘から預かっているその本を一度も開かずじまいになっています。

然るに以前にご縁があった宇宙的霊能者も人知れず静かにして、然るに自費でもって全国を駆け巡り、然るに大きなお役をもっていた霊魂が方向性を見失い邪な霊となっているものを、然るに排除するのではなくして愛意識でもって語り諭し修正すると言う重要なお役を果たしていたので、然るに此れこそ本物と思っていましたが、然るに有名な財閥資産家や企業家に認められた頃からして方向性が狂いだし結果的には欲目の方に走りました。

然るに耕栄さんも立ち上がりの初期の頃ほど謙虚で真面目で熱心さに溢れていたようですが、然るに人が多く集りだすと、然るに信者意識の人から慕われ羨まれ奉られるかのよう持ち上げられたことからして次第に欲目の方に走ったように私は思っています。

然るに精神世界のブログで驚異的ダントツ一位の伊勢白山道なるものが書いた本を娘から手渡されたので此れも必然のご縁と思いポイント的に目を通したのですが、然るに旧態依然のままの複雑怪奇で信じるか否かや良い悪い&飴と鞭の類が多くそれがまた恐怖心を植え付けることにもなっています。
然るに太陽が善で月が悪の如くに書いていたそのお粗末さに失望しましたし、そのお粗末で不確かなことなのに如何にもそれが正しい(私は正しい)とばかりに書いている多くのイエローカードが含まれています。
然るに精神世界が人集め金集めや目立ちたがりやの道具にされていることを邪な意識として書いていたのだけは、私の思いと一致しました。

然るに精神世界に欲が絡めば誰もが(教祖指導者先生と言えども)邪な方向に向いていくのです。

然るに困ったときの神頼み的な意識で精神世界に係わること自体がイエローカードにあたります。
然るに説法よりも先に結果を求めて集ってくること自体がイエローカードなのです。
然るに人が集ることさえも欲絡みだとしてその事実を書いています。

然るに精神世界を学び知るのも、その教えに従うのも、独自独歩&自問自答&気付きが基本になると書いています。
然るに自力と自信のその精神力が自らの道を切り開いて歩む事になるのです。

然るに救世主は必要ないし、然るに救世主が出てくるはずも無いのです。
然るに困ったときの神頼みは精神世界では通用しないのです。

然るにその神頼みになった(医術薬剤依存&奇跡願望も含め)その意識が原因からして言えば、完全な真実の精神世界を学び知るには精神力&理解力が貧租ゆえに信じるか否かの不完全な信者意識のままに止まるかもしれません。

然るに自らの意識でもって(独自独歩でもって)学び知り気付くのが精神世界の基本なのです。
然るにその中に指導者等の他力介在仲介や同じ仲間の集合意識が多く加わるほどに方向性が歪んだり欲絡みの邪な道に入り込むことにもなるのです。

然るに人間には欲がありますから、その欲が内にあってもそれを外に出して欲を張らなければ概ねにして大丈夫なようです。
ゆえに私も欲を持っていますが、その欲が出ていない内は(パチンコ以外は)精神安泰で何事も無くただ時間が過ぎていくだけになります。

その心身ともにストレスの無い生き方を第二・第三の新たな人生として味わってみるのも然るに人間として生きている価値があるようです。

私が正しいの否定反発も束縛制限も我が敵も味方も無く平穏にして、出たとこ勝負で対処するのが楽チンです。

2013年06月27日 | Weblog
このブログの中の多くは私の中にある事実を書いていますから、私が思い考え想像し創作したものではありません。

然るに成り行き任せということはその分だけ欲張ることが無かったことであり、その結果成るようになったのは事実です。

また妻や子供ら人のことを気にせずにほっとくのも個人の自由に任せていたことでありますが、然るにほっとけないで(余りにも見かねて)(私に解決できそうで)自らが乗り出し口出したこともあります。
然るにその中には地域社会や町内会や子供会や学校教育関連に自らが乗り出したこともありました。

しかしそれらは単なる自己満足で終わったことも事実ですし、然るに私の行動行為を喜んだ人が多くいても、その裏に不満に思う人が少なからずいたはずです。

となるとそれも成り行きにしておいて(私が正しいとばかりに言わずに)(私の味方も敵も作らないままに)ほっといて、何れその結果が出たときに始めてその対処をするほうが手間要らずで(無理無駄余計にならずに)お利口さんだったのです。

しかも私が先導した(扇動した)結果が必ずしも正解ではなくして、まだ他にもより効果的な道があったかもしれませんので、それを私が踏み潰したことになるかもしれません。

ちなみに妻や子供や孫たちにも気に入られ喜ばれることも数多く成してきましたが、然るに当人たちはそれだけではまだ不足でして未だに満足していません。
しかも時には私の思いとは全く逆の思いで受け止めていたこともあります。

ちなみに近所の人がしつこく言う事に対して何気なくあまり気にしないでほっといたらと言ったことが、私がその人を(気にしすぎる)「偏屈な人」だと思っているからこそ出た言葉だとして、私の言葉を偏屈に受け止められたことも最近ありました。

それらの事例を多く書く必要もありませんが、皆さんも同じ思いをしたことが数多くあるはずです。

だから「私が正しい」も無く、否定反発も束縛制限も無く、成り行きに任せてほっとくことが、然るに我が敵も味方も作らず、然るに好かれることも嫌われることも無く平穏にして、出たとこ勝負で手早く対応対処するほうが余計な手間要らずでそれだけ楽チンなのです。

何たって不完全意識の私たちが何を成そうとも同じ不完全な苦楽が伴うならば、自らが出しゃばり口出し手出ししないで成り行きに任せるほうが賢明なのです。

この真理道理理屈が「理解出来なければ」その分だけ多く矛盾を味わう事になりますが、然るにそれもこの世の真理道理理屈に気付きそれを「理解するため」の<必然>にして仕組まれ起こっているのです。

だからこの世は学び知り気付くための「形&結果」のある精神世界なのです。
だからこそ原因意識が先でその結果が後から出てくるのです。

だから現われ出た結果にいくら執着しても、然るにそれが神懸り超能力の結果であっても、既に出た結果からは「種まきの実り」はありません。
然るに先の原因意識を意識していれば「種まき実の成る」その実践意識&気付き&結果につながるのです。

ゆえに「この世は意識の世界」と言われるわけです。

精神世界は結果が先ではなくして、実践意識からして気付き、その結果が後から出るのが本筋です。

2013年06月26日 | Weblog
皆さんが神仏霊魂の世界&信仰宗教&真理等と精神世界を学び知ったところでその内なる実践となると無理なように、
然るに(このブログで書いているように)楽しく生きることよりも精神的にも肉体的にも楽に生きることを思い考えたとしても、その形にすることにはやはり人間関係やプライドからして(楽に生きることの罪悪感めいたものを含めて)無理があると思います。

となると、やはり思い考え言うだけなのが精神世界なのでしょうか、
それとも人集め金集めのための精神世界なのでしょうか、
それともカッコ付けのために精神世界を学ぶのでしょうか、
それとも精神世界を極めれば人救いが出来ると思っているのでしょうか、
それとも困ったときの神頼みが精神世界なのでしょうか、

それとも親孝行や先祖供養を精出ししておいてやがて死んであの世に行くときに先祖に導いてもらうがためなのでしょうか、
それじゃ先祖の霊魂は持ち前の不完全意識が他の霊魂を導くほどに達して(修正改革されて)いると言うのでしょうか、そんなことは絶対的にありえません。
それじゃ一体何処へ導かれるやれ判りませんから不安心配になりませんか、

然るにそれら宗教真理は不完全ですから何を信じていても同じ不完全な苦楽が伴う事になります。

ところが耕栄さんの説く完全真理は完全ですから矛盾&苦楽がありません。

ところがしかし真理が完全なだけに私たち不完全意識の人間にはその実践が無理だとわかりました。

然るに今や結果の「出ない」&然るに実践できない完全真理を学び知ることよりも、然るに摩訶不思議の結果が何かと「出る」可能性のあるファバラ製造販売に(必然的に)関心趣がいっているように思われます。

ところがしかし完全真理の実践が無理でもその実践意識さえ持っていれば様々な「気付き」が起こります。

然るにその気付くことが本来の実践であり、その気付きからして更に深い実践意識になりながらも気付き続け歩み続けるのが本来の完全真理を活かすことになるのです。

すなわち結果を「出す」ことを急ぐのではなくして、然るに気付き続けることで後から結果が「出る」のが本筋なのです。
ちなみにその結果を見せることが先立つことからしていつの間にやら方向性が違ってくるのです。
そしていつの間にやら信じる耕栄さん頼み(神頼みの類)ファバラ頼み(奇跡頼みの類)の他力の結果を求める信者意識のようにもなるのです。

だから古今東西の宗教も何がしの結果ばかりが先に語り継がれていてその原因意識のことが疎か(後回し)になっていると思われます。

然るに何故か、それが結果を求める人心にあるのです。
だから結果が見えない所には人が集らないわけです。
然るに結果が先走ることにもなるのです。

ちなみに精神世界は内にあります。
ゆえに外的な神社仏閣や信仰宗教&思想真理等の組織団体に染まるのも然るに他力に頼る己の内なる弱い意識精神が原因です。

然るに今の形&立場状況があなた方の精神世界の表れであり、然るにその意識が原因の途中結果なのです。

然るに今の形&立場状況を変えたければ先ずは己の意識を変えるしかありません。
そのためにもこの世の不完全さ人間関係の不完全さに気付き続けるそれだけの学びと集中できる精神力も必要になります。

またその気付きからして完全真理が説くその完全さ、然るに宇宙・神・愛の完全なる調和の必要性に心底からして気付き悟ることになれば、然るにそれが実践だけに、然るにその結果が後から付いてきます。

自らがストレスを抱え込んでそのストレスを開放する自慰行為&自己満足を味わう人間を終える時。

2013年06月25日 | Weblog
人間は肉体を持っているがゆえに、ただ生きているだけでもストレスになっていることを知っている人は少ないと思いますが、然るに様々なストレスが原因でその人の寿命が決まっているようなものです。

しかも不完全意識がゆえの苦楽が肉体・感情体・精神体に大きなストレスを与えていますから、然るにその箇所の症状症例が出やすいのです。

特に不安心配恐れ嫉妬はイエローカードのようなものですし、過激な変化刺激快感快楽も時にはショック状態になるほどのストレスがあります。
それに似通った大型遊具の高速&上下&回転やジェットコースターやバンジージャンプの類も大きなストレスになっているだけにそれが逆に刺激快感にもなるのです。

ちなみに食事をすれば消化吸収するために胃腸などにストレスを与えています。
また人間は水生動物ではありませんから水を苦手としていますのでシャワーやお風呂でも少なからずストレスになっています。
然るに(お風呂を含めて)サウナやスイミングやジョギング・ストレッチは肉体をいじめたあとの(ストレスを与えておいて後の)安らぎ感・開放感・快感・爽快感を味わっているようなものです。
ちなみに激辛や濃厚味を好みまた過食や少食になるのも精神的ストレスを潜在的に持っているのが原因と言われています。

そのストレスを一旦味わった後そのストレスから開放されるという形の苦楽&矛盾を味わっているのも私たち人間だけです。
然るに私は人間関係や見栄やプライドや金銭物質を求めるそのストレスから開放されて今は心身ともに楽チンでもって生きています。

またストレスを味わうことが少なくなれば楽チンですから、然るにそのストレスの原因になる趣味嗜好娯楽&変化刺激快感快楽の類を求め欲しがることも少なくなります。

ところで先程に書いたように、わざわざストレスを買って出てまでそれを一旦味わい、然るにそれから開放される類のものはその時その時の一時で終わります。
だから何度も何度もその矛盾を繰り返すことになれば結果的にその苦と楽を味わい続けることにもなるのです。

然るに怖い物見たさに幽霊やお化けが出そうな所に足を運んでいるようなものです。
然るに冒険探検の類で危険&スリルやワクワク&ドキドキを味わいたいのです。
然るにそれら映画ドラマの類を観たがるのです。

然るに何らかのストレスでもって(ぽっかりと空いた)心の隙間を埋めていなければ(ストレス&変化刺激を味わっていなければ)空虚感&孤独感からして生きている気がしないのです。
と言うことは死んだも同然の生き方ともいえるのです。
それだけに尚の事にストレス&変化刺激のある娯楽に興じていたいのです。

ところが私はそのストレスが無い状態で暮らしているだけに、
そのストレスになることがあると(ちょっとした気掛かりでもあると)そのストレスが及ぼす精神的な負荷を我が身でもって感じ気付きそれを実感しています。

ゆえにそのストレスの無い平穏が心身ともに(負担の無い)軽やかなことも実感できているわけです。
だからブログに書いているのです。

然るに自らがストレスを抱え込んでおいてそのストレスを開放するというようなその自慰行為&溜まったものを放出して自己満足&快感快楽に変えるような人生のままに人間を終える(宇宙の落ちこぼれ意識&命の人間で終わる)お粗末な生き方から卒業する時がきているとも書いているのです。

結果を「出す」ことではなくして<自分を捨てて楽を得る>然るに結果が「出る」のです。

2013年06月24日 | Weblog
皆さんも何がしの結果を出そうとして頑張っている事と思われますが、その結果を出すことに苦労が伴っていませんか、
ちなみに頑張って一度結果を出すとその結果を出し続けなければなりませんし、またそれだけではダメとしてまたそれ以上の頑張りでもって結果を出し続けてきたことに(後悔)気付いていますか、

しかもそれが幼いころからして学業成績の結果を出すことをずーっと続いてきているし、それが人並みやそれ以上の結果を出し続けて世間に出ていることからして、その世間&社会&職場でもってして、今の結果成績並みかそれ以上の結果を出し続けなければ(其処の居場所では)落ちこぼれ脱落者や斜陽族になり惨めな思いをします。

だから(其処で)人の上に立つ人ほどそれだけ頑張り続けてきた人ですから御苦労なさったと推察出来ますが、それが不完全な矛盾のある結果だけに裏が出てやがてその人生に虚しさを感じるときが遅かれ早かれ必ず来ます。


ちなみに不完全意識の者が結果を出そうと頑張ってその結果が出ても同じ不完全ですが(苦楽が伴いますが)、
ところが成り行きからして自ずと「出る」結果は(成るようになった)事実だけになります。
だから結果を「出す」のではなくして自ずと結果が「出る」のが自然体なのです。

ゆえに食って寝て糞をしながらにして生きている中にも結果は出ています。

しかしその結果を出すために生きていればその分だけ苦が伴います。
ゆえにその結果を出した自己満足とその苦労の「苦楽」が付きまとうのです。

ちなみに私が過去のビデオ撮影制作に係わっているときはお客さんに喜んでもらいたいや技術を認めてもらいたいとばかりに励んでいました。
ただ自分が好きなことを自分の出来るノウハウでもって一生懸命にしているだけにそれが苦労にも疲労にもならずに快い余韻まで味わっていましたが、今となってはそれが自己満足だったこと、そして余計な事に無理してそれが無駄に終わる結果になりました。

ところが今は肉牛飼育の餌やりとその清掃後片付け程度の単純なパートですから何の気構え緊張も無く同じ繰り返しの単調な時間勤務の毎日です。
だから給与に見合う結果を出すために勤務していると言う感覚はなくて、簡単単純単調でもってしてそれでも(オーナから喜ばれて)給与が支給されるだけに(結果を出していると言うよりも)結果が出ているという感覚です。
それだけに気負い気苦労がありません。
だから楽チンにして収入があり、その収入のお陰でお金の心配がなくなりました。


然るにパートのことだけではありません。
人間関係の中での見栄や世間体やまた家族生活のために結果を「出さない」ですむこと(結果を出し続けなくて済むこと)(結果を出すことを求められていないこと)からして何やら一気に開放された気分を味わっています。

ちなみに食って寝て糞をしているだけのような簡単単純単調な生活&生き方が誰に気兼ねなく出来るその事実に何で早く気付かなかったのか、そんな気分です。

しかも家族の柵&絆から離れて勝手気ままに暮らしていることにその後ろめたさは一切ありません。
だから家族や親戚兄弟やご縁のある人にも勧めています。
然るにいつも明るい表情で会話をしている私を哀れ・気の毒・可哀そうに思うそんな身近な人はいません。

然るに不特定多数の皆さんにもブログを介してお勧めしています。
しかし私と似通った生き方の「結果を出す」ためにやるようであれば失敗するかもしれません。

それでも「楽に生きたい」思いから始まるのであれば、然るに簡単単純単調に生きるだけですから無理がなくて誰でもが簡単だと思います。

ところがしかし(結果的には)「自分を捨てて楽を得る」のですから、
多分ながら思い考え言うだけで終わるでしょう。

皆して楽しく生きるための人間関係がおかしな事になっているその原因意識に気付かなければなりません。

2013年06月23日 | Weblog
人間として生きているからには食って寝て糞をしながらにして生きることになりますから、先ずはそのために働き動く事になります。
そして余った時間やお金で楽しく遊ぶことも出来ます。

ちなみに楽しく生きることよりも楽に生きることを望んでいるのならば多くの収入が無くてもいいからそれだけ楽チン生活になります。
然るにより多く楽しく生きていたい人はその収入を得るためにより多く働く必要があります。
だから人それぞれの生き方があって当然です。

ちなみに働き収入を得ることでもって生きながらにして更に楽しめるのですから、私にすればなんの文句もありません。
ゆえに私は様々な趣味嗜好娯楽をも味わってきました。

だから私自身はそれなりに納得のいく生き方をしていたつもりだったのですが、
ところがその足を引っ張っていたのが様々な人間関係だっただけに心なし十分ではなかったのです。

ところが成り行きからして人間関係にあまり縁がない過疎地での生き方からして実感したのが、やはりその人間関係の中の苦楽から開放されたことです。
そして自己責任の自己結果だけで生きることからして、此れまでの煩わしい人間関係に巻き込まれなくなったのです。

それを言い換えれば、楽しく暮らすための人間関係が裏で苦を生み出しているのですから、その人間関係から離れることで当然その苦が出てこなくなるわけです。

そしてその気苦労から開放されて残るは、己が蒔いた種を己が刈り取る、その自己責任だけの生き方になったわけですから、当然ながら納得のいく生き方になったわけです。

また他力に係わって生きることよりも、己の中にある自力でもって生きるその価値をも味わえるようになったのです。

そして自己責任からして孤独死や無縁死になって白骨死体で発見されることになったとしても、私自身には納得出来る生き方になるのです。
またその死に際に独りしてもがき苦しんでしきりに後悔しても、それは自己責任でもって片付きますから、私がもがき苦しむ醜い姿を身近な人に見せずにして尚且つその面倒に巻き込まずに済みます。

となると(別段覚悟したわけでもないが)概ね自分だけのことで事無く済みますから、何だか不信&不安が消えて、自信&安心安全の意識&心持に変わったのです。

然るに(離れて暮らしているだけに)妻や子供の思惑に巻き込まれて私が困ったことになるその心配(不信)もなく、また私の思惑でもって妻や子供を巻き添えにするその心配もありません。

後は成り行きからして実際に事が起きたときにその対処をすればいいわけですから、前もっての不安心配や余計な気遣い気苦労をしないままに平然と生きていけます。

※不安心配は前もっての思いであって事実ではありません、その想像&思いに余計な無駄な生命力&エネルギーを使っていることに皆さんは気付いていますか。

また楽しく生きるための人間関係からして裏の気苦労が伴っているその矛盾に気付かなければ幾ら精神世界を学んでもその値打ち&価値が伴いません。
しかもこの世の人間関係で気苦労しているその価値を活かす事無くそれも無駄にして終わります。

兎に角、皆一緒にして楽しく生きるための人間関係がおかしな事になっているその原因意識に気付かなければ何度この世に生まれ出ても無駄に終わります。

ゆえに必然からして宇宙・神・愛の完全真理が説かれているのです。

意識の世界だけに不完全意識&負荷エネルギー&ストレスが蓄積されて崩壊破壊寸前になっています。

2013年06月22日 | Weblog
宇宙万物すべてが必然にして実在しているからには、そのすべてに命&意識があり、それぞれに役割使命があります。
ゆえにこの世に姿形をもってして実在するからにはその命&意識にはエネルギーがあって当然ですから、それを意識エネルギーと称しています。

然るにそれを生命エネルギー、氣エネルギー、波動エネルギーとも言われ、また気力・念力・オーラーやテレパシーとも、また霊スポット・エネルギースポットとも、またエネルギーグッズともなり、また神がかり奇跡の超能力や霊力念力の類にもなります。

また感性とか直感や閃きや予感や予知や気付きも直感力や予知力と言われるように宇宙万物の力量&エネルギー、然るに全ての意識エネルギーが係わっています。

ところが形を成した人間からして出る不完全意識エネルギーは負荷&マイナスエネルギー&老化・酸化・腐敗エネルギーともなります。

然るに不完全意識の人間界が「闇に覆われている」と例えられるのです。
しかしそのエネルギーを吸収し浄化しているのも自然界でありますが、既にその限界に達し崩壊破壊寸前にあります。

ちなみに一般的に言われる「気を使う」や「気を受ける」ことがありますが(不完全意識だけに)それも負荷&マイナス意識エネルギーになります。
然るにそれがストレス社会とも言われるわけです。

その人間として生きていることさえもそれがストレスになっているその現実事実を多くの人は知りません。
然るにそのストレスが心身の病的症例の大元の原因になっているその事実も知らないはずです。

ちなみに私は約20年前の健康環境関連のネットビジネスに係わっているときにその事実を岡山医大のデーターでもって医学会で証明発表されていたその情報を得ていましたから、今の精神世界を知る以前の事になります。

しかし私自身は呑気気ままな成り行き任せであり仕事さえも趣味的な感覚でしたから、そんなにストレスを感じることは少なかったのですが、
ところが人間関係のしがらみから離れたことからして気付いたのが、先に書いた不完全意識がゆえの気遣い&気疲れなる負荷&マイナスエネルギーが私の精神面に影響していたその事実に気付いたのです。

然るに以前からして呑気気ままに暮らしていたのにその気付きからして更に呑気気ままな食って寝て糞をするだけのような生活に変わり、更にブログで詳しく書いているように、あらゆる余計な事に「気」(生命力&気力&意識エネルギー)を使わなくなって、今では気になることが少なくまた些細なことになりましたし、人様からの不完全意識エネルギーを受けることも少なくなりました。

それでも街中やスーパーや温泉場で人とすれ違っただけなのに早くも比較競争&評価判断している自分に気付きます。
然るにそれが生命力&気力&意識エネルギーの浪費になり、しかもそれが不完全なマイナスエネルギーとなって出ています。
しかしそれは私とて不完全意識だけに「どうしようもない」のが事実です。

だから皆さんも「気になる」ことばかりだと察しますが、そのままに放置しておきますか、それも仕事や家族家庭があってのことだけに相当量の負荷&マイナスエネルギーを溜め込む事になっていますが、それでも大丈夫でしょうか、

しかも人工的な癒しは不完全だけに裏&弊害副作用も出てきますから本来の癒しとはなりません。
また他力による癒しも不完全ですからその裏&弊害副作用が出て先で困ることになるかもしれません。

しかもそれが愛玩動物や観葉植物生物や趣味娯楽的な飼育栽培であってもです。
何故なら自然体ではないから(ほっとけないから)気を使うのです。

だから一時癒されているよりも気を使う質量や金銭物質や時間のロスが多いはずです。
私自身がそのことに気付いたことからしてに書いているのです。
またその気付きが起きないままに続いていたら(金銭的余裕があったら)更に大掛かりなことをしたかもしれません。

それら些細な事に気付くだけの意識力&精神力が無ければ結果的には余計な事に無理したり無駄にしたりとそれが気疲れの原因にもなるし、しかもそのことにまったく気付けないかもしれません。

ところが気付けば執着になりませんからそれで一旦終わります。

しかし事が大きければ潜在的に積み重なり残る場合もあります。
だから事が大きくなる前の些細な内に気付くことが重要なのです。
然るに事細かく詳細に書くことが多いわけです。

然るに原因が詳細な内に気付きその対応対処を意識することで更に気付きが起こりながら事が大きくなる前に(無理なく)その形が整うのです。
しかしそれよりも成り行き任せにして(ほっといて)「気にしない」のが一番です。

かと言って気になるのが人間です。
ゆえに人様のことは「どうすることも出来ない」事実に気付けば、ほっといていても「気に」ならなくなります。

そして自分のことさえも「どうしようもない」中でなんとか小さく生きることでなんとか楽チンでもって生き長らえます。
然るにその後のことは成り行き(宇宙・神・愛の仕組み)に任すしかありません。

ちなみに人間死すれば肉宮を脱ぎ捨てた「意識&命」だけになります。
そしてその万物の意識&命は元からして完全だけに(終わり始まる復活再生エネルギーだけに)その意識に似合った命の形をもってして新たに生まれ変わることにもなります。

ゆえに「すべてがひとつ」の<意識の世界>と言われるわけです。


己の思いのその想念からして生きているから事実が味わえないのです。

2013年06月21日 | Weblog
このブログに来られている人は神仏霊魂の世界&信仰宗教や巷の精神世界に関心があってのことと思われますが、それを複雑にすれば複雑にもなりますが、その事実はわりと簡単なことなのです。

ちなみにこの世に「形」があるが、然るに「意識」の世界ですから、己の意識次第でどうにでも成る、然るにどうにでも思いが変わるのです。
だから天国に思えば天国にも、それを地獄と思えば地獄にもなるのが、この世であり意識の世界&想念の世界&精神世界です。

然るに寝ている時は無想の世界&時間ですが、目覚めると有限の世界になりますので、それが深夜で静寂な孤独が寂しいと思えば孤独感にもなりますし、フクロウの鳴き声が不気味に思えば不安にも駆られますが、私が孤独感や不安感にならなければ深夜に目覚めている私がいるだけになります。

然るに色彩豊かなオスのムカデ・トカゲ・毛虫の類や女郎蜘蛛を危険&害虫と思えば忌み嫌うかもしれませんが、私は直ぐ側にいても平気でいられますし、それが毒蛇や蜂であっても(先方から攻撃されない限り)それらを静かに観察目撃できたますしそれが喜び楽しさ変化刺激にもなります。

だから臭い、汚い、危ない、怖い等と忌み嫌い否定反発することが多い人ほどそれらに難儀しますが、それらが平気だと何処でいようが気にしないで済みます。
然るに生き方の幅が広がり奥行きが深まりそれらが味わえます。

また不安感、不信感、然るに守り意識&敵対心や警戒心やの用心、また違和感や孤独感、また価値観の違い等は、己の意識&心の中にあることですから、それらは個人の思い&想念であって事実ではないのです。

然るにそれらが事実ではないのにそれが事実に思えることからして、それだけ自らが束縛制限されて窮屈な不自由な思いをしているのです。
また喜びや感謝や楽しさ面白さが味わえるのに、それを自らが否定反発&排除&放棄している部分があるのです。

だから生きていてもその価値が十分に味わえないことからして死んだも同然の生き方にもなるのです。
然るにそれでは楽しくないからと人工的な趣味嗜好娯楽&快感快楽&変化刺激でもって生きていることを味わいたいのです。

ところがこれまた好き嫌いがあったり、価値観の違いがあったり、思い思惑&理想目的が違っていたりと、それら選り好みするその想念(思い)が邪魔をするのです。
更に人間関係の好き嫌い&善悪損得優劣の比較競争差別意識&想念までが邪魔をしています。
然るに己の想念で生きている非実在の生き方になっているのです。

然るにそれらが原因からして楽あり苦ありの苦楽&喜怒哀楽のその矛盾でもって生きていますから、何か中途半端な煮え切らない思いでもって生きていますから、何か事が起きれば小さなことでも次第に(沸騰して)大きくなって噴き出るのです。

と言うように最初は簡単な内容だったのに次第に奥深く書くようになるのも見えない精神世界だから理屈&道理&真理でもって説明するようにもなるのです。

だから欲張らなければ、欲絡みで無ければ、何の問題にもならないのに、
然るに楽しく生きることよりも静かにして呑気気ままに生きるほうが不完全意識の苦楽がその分だけ小さくなって気が楽になるのに、
然るに何も気にしなければ何ごとも無く終わるのに、
ところが現実はそう簡単ではありません。
とくに人間関係が絡むと尚更に複雑問題化していきます。

然るに私は現実離れしているとも人間離れしているとも思っていません。
不完全意識丸出しながらも、自分に似合った生き方、自分の背丈に見合った生き方、何事にも気をとられない生き方、束縛制限&否定反発の無い生き方、独自独歩の自由な生き方、余計なことも無理も無駄も無いように生きようとしているだけです。