孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「私は正しい」が原因で様々な問題が起きている現実を知る

2009年02月27日 | Weblog
私たち人間には自分さえ良かったらの個人意識を持っていますから、常に良いと悪いの裏表で比較競争して生きることにもなります。

人の幸せそうな様子を見て微笑ましく思う反面、自分と比較して(自分に持って無ければ)相手を羨ましがり嫉妬することにもなりますが、その相手が大きな失敗(倒産や挫折)でもすると気の毒に思う反面、(ライバル意識や劣等感から)「ザマ~みろ」といった気分になったり、「それ見たか」と相手を劣に思い自分を優に思ったりします。
それが「人の幸せ」が自分の幸せにならないで、「人の不幸」が自分の幸せに思える、それが自己中心の個人意識なのです。
その個人意識を終わらせば「人の幸せが自分の幸せになり」、皆が同じ幸せになりますから、それが「至福」となり、我神なり我愛なりの意識になるのです。

人は皆「良いと悪い」を持っています。
だから常に「私は正しい」を持って自己満足していますから、それと相反する都合の悪いことは自分から遠ざけ排除したがりますが、その自分の思い通りに行かなければ不平不満になり、それが原因で苛立ったり腹を立てたりしていますが、それ全部が自分の尺度で勝手に決めていることであって、必ずしも皆と同じではありません。
そこで「私は正しい」を主張して、それを認めてくれる仲間を増やし、その数の力で「私は正しい」を顕示することになります。
それが結果的に名誉名声や権威権力になって威張っていますが、それと同じように「私は正しい」が現代科学や医学の中にも堂々と威張っております。 

※「絶対」正しいは「完全」の中にありますが、良い悪いの裏表・矛盾がある不完全な世の中には「絶対」は絶対にありません。 すなわち現代科学や医学は不完全だから様々な問題が起きているし、それらの不完全な問題が解決することは絶対にありません。
ゆえに、良い悪いの矛盾やいい加減な妥協や言い訳正当化の通用しない「完全」(真理とファバラ)が必然でこの世にはじめて登場してきたのです。 そして「完全」だから(成るものが成って)「完全」になる時が必ず・絶対に来るのです。

原因が結果となって「あるがまま」に事実で現れているだけなのに、それを「個・私」が自分勝手に良い悪いに分離評価判断・比較競争して、その数や力が多くて強いほうが一般的に(集合意識で)「正しい」と思われてきました。
ところがその「正しい」思いが長く続くといつの間にかそれが常識化されたり伝統や風習や道徳にもなり、それらに実在の力が無いのに如何にも力が有るように思われはじめ、その実力ではない思いの力でもって束縛制限差別されるようになり、それが原因で「自由」「個性」「平等」が失われていく結果にもなりました。

すなわち自由や個性が失われたから不平等になり、差の力を示す名誉名声・権威権力や財の格差・差別で評価し合い比較競争するのがあたり前の世の中になったのです。
ゆえに不自由・不平等でありながらも、それでも「私は正しい」と思っているから表では自由・平等をうたい文句にしているが、その裏では不自由・不平等があたり前の矛盾した世の中になっているのです。 ゆえに「裏」があるから「裏切られる」のです。

その原因は言うまでもなく「良い悪い」があるからであり、皆の意識に「私は正しい」を持っているからです。
その「私は正しい」の自己満足・自己主張・自己顕示を無くすることであらゆる問題が問題ではなくなり、現れた事実だけを見るようになります。 すなわち「そのまま、このまま、あるがまま」の愛・神意識になりますから、(比較競争・差別が無くなり)自分にできる役割分担、仕事や家事子育て、趣味嗜好娯楽などを「心から楽しむ」至福の時になります。

すなわち「至福」「愛・神」は特別ではないのです。
皆があたり前にしているような生活の中の「意識」にあることなのです。
それを「良い悪い」で比較競争しているから見失っているのです。
だから良い悪いの無い「完全」を知ることで見失ったものを取り戻すことができるのです。

人の不幸が自分の幸せになる臓器移植や脳死判定

2009年02月25日 | Weblog
私たち人間は「良い悪い」で判断して比較し競争していますから、自分に都合がいい「良いとこ取り」をするが、劣ることや損することなどの悪いところは除けたがります。
そしていつも良い悪いで比較競争していますから、その競争に勝つことで自分の幸せをつかむが、負けると自分が不幸になるという、勝ちと負け、幸と不幸、優と劣、損と得の、良いと悪いの裏表の矛盾で生きています。
すなわち、人の幸せが自分の不幸になり、人の不幸が自分の幸せになるのです。

その最たる典型的な事と言えば、臓器移植・脳死移植があります。
移植を受ける側にすれば、人が死ぬ事を待ち望んでいる形になります。
我が子や自分が助かるのなら、人のものを奪うことになっても欲しがるのです。

その脳死移植に反対する人より賛成する人が多くなって脳死移植ができるようになりましたが、人間の肉体の死を待ちきれずに移植の為に脳死を「死」としているのですから、人を助けるためなら死にかけた人の息を止めても許されるのです。
だから、脳死移植となれば人を殺してまで略奪していることになります。

手術に輸血はあたり前の時代ですが、その輸血を禁じる宗教があるのもうなずけます。
皮膚の移植にも他人の皮膚や死人から提供された皮膚が使われています。
最近では抜歯された「歯」を移植できるようです。
すなわち、自分が失ったものや自分に不足しているものを他から「良いとこ取り」して自分のものにしている、過ぎた欲の現れになります。

しかし臓器提供や移植手術が良いとか悪いとか書いていません。
助かりたい患者の思惑や医術の進歩を目指す医者にもある、自己中心に考える「自分さえ良ければ」の個人意識があることや、自分に起きた有事でいざとなれば(自分勝手に都合がいいように言い訳正当化しながらでも)他のものを自分のものにする略奪が行われていることを書いています。

そして、輸血や移植手術を望んで受ける人には「自分さえ良ければ」の強すぎる個人意識を持っていますから、その分以上に命の感謝・アリガタイが無ければ絶対に成仏できないと言われています。 
生身の肉体に執着しすぎて原因体である意識・命を忘れているから、その自分(肉体)を守りたがる、その過ぎた守り意識があるから、他から(肉体)奪うことができるのです。
同じ様に、自殺者も自分を守る意識が強すぎて、その自分を守れなかった弱さを悲観して(劣等感)自殺を選ぶのかも知れませんが、決して成仏はできません。
また、増加傾向にある痴呆症やうつや引きこもりや自閉症やノイローゼなどの精神疾患も、自分を守ることになる「私は正しい」が強く出ている性かも知れません。 だから、訳も無く腹が立って家庭内暴力や無差別攻撃型の行動に及ぶこともあります。

ところで「成仏」するには・・・我神なり、我愛なりの「即身成仏」は無理でも・・・
死ぬことに良いも悪いも無いから、その死んでいく事実だけを意識で見ることです。
すなわち、肉体が死んでも原因体の意識・命は永遠に続くから・・・ 天国でも地獄でもない「自分の意識」に似合う居場所に行くことから・・・ 死に直面していてもあまり動揺しないで素直・自然体で受け入れる・・・ すなわち死に不安や恐れを持たない、未練を持たないで過去の執着を忘れる・・・ そして、まだ未熟で「自分さえ良かったら」の個人意識が残っていても・・・ 「良い悪い」を持たない完全真理を理解力で確立・自信・自覚できているその意識力次第では(万に一つの可能性かもしれないが)、良い悪いのない意識の世界へ行くことになるかも知れません。


すべてが必然の巡り合わせで動いている意識の世界

2009年02月22日 | Weblog
始まりなき終わりなき元は「ひとつ」の原因から「すべて」(宇宙・地球・万物・人類など)が創造されたことから、真理では「すべてはひとつ」と言われています。
その始まりなき終わりなき「ひとつ」の原因が神・愛・命・意識というものであれば(原因と結果は離れていないから)、新たに創造され生まれるものにも神・愛・命・意識があります。
ゆえに、すべてが神・愛・命・意識と言われる原因とその結果を持って実在していますから、すべてが神であり愛であり命であり意識であり「すべてはひとつ」となります。

その「すべてはひとつ」の原因が「意識」であるとして取り上げれば・・・ 「すべてが意識」となり、その意識が原因でその結果が現れていることになります。
だから、この世には偶然はまったく無く、すべてが原因の結果である「必然」で現れていることになります。
しかも人間は「愛を学ぶ」為に生まれたのだから、すべての必然も愛を学ぶために起きていることになり、それ以外に何もありませんから、「すべてが愛」であることを学ぶことになります。

寒い北海道や温かい沖縄に生まれ、その場所の両親の子供として生まれ育つのも、その生まれる以前の意識に原因があってのことであり、それが雪国に生まれた人の場合では長く雪に閉ざされて動きが制限されたりしていますが、反対に温かい所の人は活発に動かれる人だったりします。
すなわち、すべてが自らの意識が選んでの原因とその結果であり、その場所に生まれる必然・必要とその役割使命もあってのことになります。
また、結婚や家事子育てや転勤や海外移住などで精神が損なわれたりする人が居るのも決して偶然ではありませんから、俗に言う「不釣合い」や「水が合わなかった」原因に、己のすぎた欲や執着しすぎた意識が原因にあるのかもしれません。
また、交通事故やリストラ・倒産の加害者や被害者になるのも、寝たきり病人やその介護をする人になるのも、すべての出来事に偶然はありません。 
加害者も被害者も、介護される方も介護する側にも、その立場で愛を学ぶために必然で起きていることになります。 

それらを世間では「自己責任」と言いますが・・・己の行いに責任や問題が生じたのではなくて、己の意識が原因で現れた結果が現実になっているだけです。
それを「良い悪い」で判断評価するから愛の無い責任問題になり、それに執着すればするほど更に深刻な状況になり、それが怒りや嫉妬や仕返し報復・制裁意識になったりして、それらに意識が奪われ続けて、人間として愛を学ぶどころか悩み苦しみ混乱するばかりの状況を選んだことになっていきます。

その事を私の事例で書けば・・・摩訶不思議な宇宙エネルギーを意識するようになったことから必然で「見えない世界」を知り、それを意識することから必然で「精神世界」を知り、それを意識していることから必然で現在の良い悪いを持たない「完全真理」と、意識エネルギー・常温核融合である「ファバラ」エネルギーにつながり、それが本物だけにもうあれこれと思い迷うことも無くなり、ただそれらを実践し続けることしかありません。

その精神世界を知ってから、それまでぜんぜん予想もしていなかった過疎地で暮らすようになったのにも自らの意識が原因であり、それが結果となって必然で起きたことであり、それが今の私にとって愛を学ぶに相応しい実践の場所となっているのでしょう・・・

また、過去の摩訶不思議な宇宙エネルギーを知る結果となった原因の情報量はごく短いものであり、更に当時の常識が通用しない内容でしたが、その掲示された文書に気付いたことが私にとっては必然であり、必然だからこそ見逃さなかったのかも知れません。
そしてより深く「知りたがった」からこそ必然が必然を生み続けて(原因が結果になり、その結果がまた原因になりしながら)結果的に今の私があります。
と言うことは・・・このプログを訪れた人も偶然では無くて「必然」の巡り合わせになりますが、その必然を自分のものにするか否かは読まれた方の意識次第となります。


人の幸せが、自分の不幸・妬み嫉妬になる個人意識

2009年02月17日 | Weblog
山田耕栄さんの良い悪いを持たない完全真理を知るまでは、自分に都合が良い表と自分に都合が悪い裏のある「表と裏のある人生」が人間の生き方としてあたり前に思っていましたから、その通りの生き方をしていました。

人が喜ぶ奉仕をしている人は善人で人に害を及ぼしている人は悪人、その悪をこらしめる正義の味方をヒーローに思い、自分より上の人を見て劣等感を持ち、下の人を見ては優越感を持ち、我が子の一人が成績アップすれば(そのことだけを喜んでいればよいものを)もう一人の子供の成績が気になりだす欲があり、その成績が良いが運動能力が少し劣る子と、成績は悪いが運動に優れているとして比較評価していたり、我が子の運動能力より優れた選手をチームプレイでは喜ぶ反面、裏の心ではやきもち嫉妬していたり、ライバル選手が練習試合でミスをする事を裏心で思っていたりしました。

交通事故の被害者になれば少しでも自分が得をするように被害を誇張したがるが、反対に加害者側になると少しでも責任や賠償を少なくできるように言い訳正当化し、それでも被害者が文句を言えばその相手を憎たらしく思ったり蔑んだりしていました。

自分が失敗して金銭物質で損をしたりプライドが損なった時に、その汚点を早く忘れるために良い勉強になったと頭の中でプラスに置き換えたりするのも、自分の心を自分で騙して自分を偽っていることになっているとは気付いていませんでした。

妻が私に不平不満を言うのは、私が妻の思惑に従っていないからです。 すなわち妻の不満は、私が妻を裏切っていたことになるのです。 そんな身勝手な裏切り関係が恋愛や夫婦や家族関係にあるのです。 
その原因が自分さえ良かったらの個人意識であり、自分の思い通りにしたがる自己中心の思惑期待を持って生きているのが人間だからです。
すなわち、優しさ思いやりの感謝のアリガタイが無ければ、互いの身勝手な都合の良いくっ付き引っ付きの関係でつながっているだけになり、ありがたい心の絆でつながっている関係とはなりません。

イケ面や財産家や肩書きや技能能力に優れたものを持っている人と自分が親しくしているところを自慢して人にみせびらかしたがる優越感もあるが、その反面では自分がその人より劣るという劣等感を持っているだけではなくて、その人を裏心では羨み妬む嫉妬心を持っているから、自分の都合次第でいつでも離れたり裏切ることもできました。
すなわち、優越感があれば相反する劣等感を持っており、劣等感が強いほど優越感を欲しがる心が強いのです。 だから優れた名誉名声肩書きを持つ人は劣等感の裏返しであり、それらを得るための比較競争で人を見限り切り捨て裏切ってきた証しになります。 
だから人を信じている振りは上手にできるが、実際は肩書きの「力」を信じていても「人」を信じてはいないのです。 
ゆえに自分さえ良かったらの個人意識を持っている限り、自分に都合がよい関係同士のお付き合い結び付きがあっても、誰とも心の友、真の友人関係にはなれませんでした。

優越感と劣等感の表裏を持ち合わせ。 自己満足や自己主張や自己顕示の差を持ちたがる野心もあり。 その個人意識から、人の喜び幸せな様子を見て自分が何故か不幸に思えるときがあり。 それがすぎれば恨み妬み嫉妬や報復制裁仕返しの裏心にもなるのです。
そんな意識の中で生きることに至福はありません。

その至福を知った最近では、たとえ世の中がどうであれ、自分の身分や居場所環境がどうであれ、その自分の中に小さな至福があり、その至福を持った者同士が共に接し触れ合う関係で集まっていて、その中に束縛支配関係ではない個性を尊重しあう異性との交際関係や互いに無いものを共に補い合える関係があれば、それが未開の地であれ熱帯や極寒の地であれ孤島であれ僻地であれ、それで日々生きていければ十分ですね。
と言うのも、人間は姿や形や住む居場所が問題ではなくて、すべて「意識」で生きているのだから、他はどうであれ、至福の意識を持っていればそれだけで十分すぎるほど恵まれている生き方になるからです。
それを教えてくれているのが山田耕栄さんの完全真理であり、その実践と心身の健康を支えてくれているのがファバラ・エネルギーなのです。

「至福」とは、特別な意味での天国ではありません。

2009年02月10日 | Weblog
万物全て意識体であり、その形は表現体です。
すなわち原因は意識であり、結果が形です。
だから原因である意識に力があり、その原因から出た結果には力がありません。
ガラスコップで言えば、ガラスが意識・原因であり形・結果がコップなのです。
だからコップの形に力があるのではなく、ガラスという原因に力があったからガラスコップと名付けた形を成すことが出来たのです。
だからガラス・原因とコップ・結果は離れていません。 だから海と波は別々に見えるが、海・原因と波・結果は離れていません。 同じく砂浜と砂粒は離れていません。 氷(固体)の中に水(液体)も空気(気体)も有るから、氷も水も空気も離れていません。 すなわち、宇宙も地球も人間も万物も形は違っていても元は同じ原因ですから離れていません。 
すなわち全てはひとつの原因・意識でつながっていて、その結果・形に違いがあるだけでいっさいの差はありません。
すなわち「そのまま、このまま、あるがまま」に実在しているだけです。

ところがいつしか人間だけが「良い悪い」で判断するようになって、良いと悪いに差を付けることが正しいと思うようになったのです。
だから良いと悪いで比較するようになり、それが比較競争し合って差を付け合うことがあたり前になったのが原因で、その差別のある格差不平等と、その差を力にした束縛支配の不自由と、差を力にするための比較競争が奪い合う略奪や侵略が戦争にもなり、その仕返し報復がテロや制裁になっているのです。
すなわち、全ての原因が「良いと悪い」で分離判断する差・差別意識にあるのです。
そして差を付け合うために優劣や損得で計算するようになり、自分に都合が良い所だけを取って悪い所は要らないとして、その自分に都合が良いようになる思い思惑を持った行動表現をしたり、自分勝手な善悪の分離判断で考えて行動表現するような個人意識がどんどん高まってきたのが現代です。

職人のにぎり寿司とお母さんのおにぎりに違いが有っても<差>は有りません。
すなわち、食の味覚や形や価値が違っても「美味しさ」に差は有りません。
その美味しさを形や味覚や価値で差別するのは、差を持たせた自己満足の美味しさになり、その自分だけの差を他に自慢したくて主張顕示したがります。
同じ様に、喜び感謝の大きい小さいの違いが有っても「ありがたい」に差はありません。
その喜び感謝の違いを差に思えば、それは自己満足の喜び感謝になります。
すなわち「差」を付けると自己満足になり、それが自己主張や自己顕示や自己欺まんのある特別な差別意識を持つようになり、その特別な差の力で他を思い通りに束縛支配しょうとするから自由平等平和が無くなっていきます。

だから、その比較競争の特別意識や差別意識に有るのは自分さえ良ければの「裏切り」関係であり、その為に必要な「使い捨て」人間を作る実行共犯者でありながら、その被害者にも加害者にもなるという矛盾した結果の裏表で生きることになります。

差を意識するから不平等・差別や不自由で悩み苦しみ混乱しますが、皆が同じ様に似た環境や状況で暮らしていれば差を意識しなくなります。 皆が差を意識しなければ皆が幸せに思って暮らせるのです。
差の無い皆と一緒に暮らしていることが「ありがたい」ことであり楽しいのです。
過去未来を思わずに、今日一日の食べ物があれば喜び感謝で「ありがたい」のです。
だから今を生きて暮らしていることが幸せの至福になるのです。
※「至福」とは特別な意味での天国ではありません、その特別な差が無くてありがたい感謝の心を感じ合えるのが至福なのです。 居場所や環境状況には関係ないものです。

すなわち、幸せの至福に思えるのは「ありがたい」に差が無いからです。
美味しさに差が無ければ食べるものは全て「ありがたい」ものです。
生きることが出来る空気・気体液体固体・万物は「ありがたい」ものです。
だから、すべては「ありがたい」ものです。
すなわち、差の無い「ありがたい」意識の中に神や愛が実在していますから、それ以外の差の中には神や愛は実在できません。
だから、全ては「ありがたい」神であり愛であり、その「ありがたい」が実在する神であり愛であり命になります。

その原因である命・意識に神や愛の力を持っていますが、その原因の表現体・形や現れた結果には愛も神も実在できません、だから見える形や現れた結果には力が無いのです。 
しかも結果は過去ですから既に実在しませんから非実在となります。 その結果の過去を思い考えて想像を巡らせ、その非実在の非成る神や愛をでっちあげ奉られ、ただ言うだけや聞くだけの実在しない神や愛が世間にはびこっているのが現状にあります。
だから不平等差別で悩み苦しみ、差を付ける比較競争で自由を失い束縛支配され、自分に無いものを欲しがる「過ぎた欲」から奪い合う略奪や侵略や戦争が続くのです。

「ありがたい」を忘れた、良い悪いで判断する差別意識に問題の原因があるのです。
だから「ありがたい」を知る自己縮小の実践が求められているのです。
そして、此れまで通りの意識では実践に無理が多いから、今まで拘り執着して持っていたものを手離して、その自分を守る「守り意識」に入らなければ、それで「ありがたい」が自覚できる実践の生き方に変化することが出来のです。
実践とは、此れまで手にして積み上げてきた結果を手離し、色々と現れ出る結果にも執着せずに「そのまま、このまま、あるがまま」にほっといて、その現れた結果の原因である「自分さえ良かったら」の差のある個人意識を捨てることなのです。

「ありがたい」愛の犠牲、愛のエネルギー

2009年02月06日 | Weblog
愛とは「アリガタイ」感謝の心だと知りました。
だから、そのアリガタイ心が先にあれば全てが愛になります。
だからアリガタイで行動表現すれば、それが愛の犠牲・愛の行為になります。
そうすると仕事や家事や子育ても愛の犠牲ですから、愛の行為・愛を出していることになります。
だから、束縛制限支配したがる恋愛関係や夫婦家族関係にアリガタイがあれば、自由平等で差の無い愛のある人間関係になります。
しかし、自分の思い通りにしたい思惑・欲が先にあればアリガタイが後になるから、そのアリガタイは自分のためのアリガタイになり、自分が良くなりたい自己愛になります。

子育てはアリガタイものですから、そこには喜び感謝があり楽しいものです。 
そのアリガタイが無いから色んな問題がどんどん出ているのです。
しかも、我が子を育てている意識が強いとどうしても自分の思い通りにしたがります。 そして束縛制限支配する形になり、子供の個性を尊重しなくなります。
更に親の老後を子供に託す思惑が子育てにあると、それは自分の老後のための子育てになり、己の老後の道具に子供を必要としている形ですから、その子育てに愛の犠牲・アリガタイはまったくありません。
だから、親が子供に感謝の恩着せを教えたがるのも、自分にアリガタイ心・愛の犠牲を出していないから(自力・自信が無いから)、反対に自分が持っていないアリガタイを求める形になり、「感謝されたい」強い思い思惑が出ているのかもしれません。
ゆえに押し付け恩着せの愛情を出して感謝されることを望むのです。 
そしてその思惑通りにならなければ「感謝」しなさいと言ってみたり、感謝の無い人だと不平不満に思うことにもなるのです。

人様の犠牲で自分が楽をしたい思いであれば、その楽にはアリガタイ心がありません。 それには言うだけのアリガタイ、思うだけのアリガタイがあっても、心から出たアリガタイはありません。
楽をしたアリガタイには自己満足があっても、心からの喜び楽しさが味わえません。 
だから、自分が楽をした時や得をした時に心のこもったアリガトウが言えなくて、スミマセンという言葉をよく使います。
だから謝罪する時もスミマセンを多用してお茶をにごし、心のこもったゴメンナサイ(御免なさい)を言うことが出来ません。

人間が生きるために食するものは全てアリガタイものですから、それぞれの形や味覚に違いがあっても差はありません。 だからマグロのにぎり寿司もおにぎりも同じ美味しさのアリガタイがあります。 だから、マグロのにぎり寿司が美味しくてもおにぎりが美味しくなければ差別していることになり、その差別にはアリガタイはありません。 
ゆえに物の価値や価値観や形や栄養素や味覚などの違いや差を見るのではなくて、食本来の美味しさのアリガタイが人間の生きるエネルギーとなっていることを知る必要があります。

そのアリガタイ心が少ないほど美味しさも違ってくるし消化吸収も違ってきます。
だから、アリガタイが無いから大食いになったり拒食になったり、先に意識するのがカロリーや栄養やダイエットや健康食材の執着になったりして、楽しく美味しく味わうアリガタイの意識が後になるから、食や量の摂取や消化吸収のバランスが崩れて同じ様に体調も崩れることになるから、単に栄養バランスやカロリーの問題だけではありません。 

万物全てに意識・命があり個性役割を持っています。
そして意識にはエネルギーがあります、それがアリガタイ愛の犠牲のエネルギーです。
だから人間がアリガタイ意識で食したり活用消費していればそれらは成仏することできます。 すなわち完全燃焼しますからCO2のような弊害や副作用は出ません。
だから空気や水をアリガタイと使っていれば、アリガタイは愛であり完全ですから、どんなに多く使おうが空気や水が汚染されることはありません。 もちろん化石燃料をアリガタイでどんどん使っても大丈夫です。 しかもアリガタイは愛ですから、アリガタイ意識が高まるほど、既に汚染されたものまでが成仏・浄化再生されます。
すなわち愛が光りであれば、その光によって闇が消えていくことになります

要するに、エコ生活や太陽光発電や風力発電や植林や排出ガス規制の問題ではなくて、人間意識のアリガタイ心の問題なのです。
だから今の科学・技術や医学にはアリガタイがありません。 社会や企業や教育指導にもアリガタイはありません。 だから全てが不完全なのです。 
不完全だから、愛が無いから、アリガタイが無いから、全てが不完全燃焼になって成仏できないでいるのです。 成仏できないから浮遊するのです。 
しかも、宇宙・自然界の愛(光)で再生(生まれ変わり・転生)される質や量よりも浮遊する質や量が多いから、人間界や自然界(意識)が汚染されて(闇に覆われて)いるのです。

此れまでの宗教・科学・医学や諸々の形には愛はありません。 それらに愛が無いから愛が証明できなかったのです。 だから神や愛が神秘的・抽象的にされ、あいまいで、中途半端で矛盾したりもしています。 
しかし、良い悪いを持たない完全真理・完全意識によって、此れまでとは違うまったく新しい「愛の科学」常温核融合で神や愛を科学的に実在で証明しています。
それが山田耕栄さんの「神は常温核融合」の著書で書かれているし、「人類には早すぎたかもしれない」ファバラ・常温核融合エネルギーの実在する形・商品で証明されています。
(その事例として)人間の食の犠牲となっている肉や魚や野菜たちの意識・意識体もその役割を完全に果たそうとしているのに、肝心の人間にアリガタイ心・意識が無いから、その人間の不完全な意識ストレス・集合意識の影響で食材本来の味・エネルギーを出し切れていません。 
そこで完全意識エネルギーのファバラ「味かくし」を使えば食材本来の持っている味・役割が出てきて、それらが美味しくなったと感じることができているのです。

だから、すべてが意識であり、すべてが命であり、すべてが愛であり、すべてがエネルギーである事を知り、それらのお蔭様やお互い様のアリガタイを知ることになります。

「ありがたい」に心があり、愛があります。

2009年02月03日 | Weblog
人は自分の都合で動いています。
それが犬の散歩で言えば、如何にも見た目には犬の散歩に見えますが、ひもや鎖でつながれ動く方向を束縛制限支配している限り、本当に犬の為の散歩にはなっていません。
それが子育てでも同じです。
親が子を束縛制限支配している限り子供の為の子育てではなくて、親の思い通りの子供にしたい親の為の子育てになります。
だから恋愛も結婚も家族も同じです。
形ある束縛制限支配関係には「ありがたい」愛はありません。

この世の中が良いと悪いで表裏一体になっている限りにおいて、自分に都合がよい良いとこ取りばかり(表面では)取っているつもりでも、結果的には(裏では)自分に都合が悪い部分も必ず一緒に取って見えないところに蓄積されています。
だからそれが心の中の不平不満や悩みや混乱の原因になったり、不安心配や怒り嫉妬になったりしているし、今問題の派遣社員に見られるように、良いとこ取りをしていたつもりが悪い結果にもなって現れており、問題の加害者でもあり被害者でもあるという矛盾の現実に直面しています。

今の世の中が良い悪いで成り立っている限り、善なる良い面だけ、得する面だけ、優れた面だけの一面・片方だけでは形は存在できなくなりますから、片方ばかりを選んで取れば取っただけ不調和になってバランスが崩れます。
それが今で言うCO2の温暖化現象や地震災害や異常気象に現れています。

良いと悪いがある現実を確かに生き抜いていくには「ありがたい」感謝と素直に謝罪する「ごめんなさい」が必要と言われています。
だから、最初の一番目に「ありがたい」があれば全てが愛になります。
だから「ありがたい」ガソリンであり車として使えば、完全な愛の表現の便利な道具として使うことになるから、完全燃焼して不完全燃焼の弊害・副作用は出てきません。
それを自分に便利なように、そして優越感を持つためや自分だけが得をする為だけに、その一面の「良いとこ取り」の不完全な道具として一方向だけに使うと、そのバランスが崩れて不完全エネルギーが出て空気中に蓄積されることになるのです。
しかし、良い悪いで判断したことに気付いて「ごめんなさい」と素直に謝罪できれば、もうそれは「ありがたい」ことになります。

エコ生活や勿体無いが流行りになっていますが、単なるCO2削減や勿体無いにはありがたい心がありません。 だから遠くまでエネルギーを使ってわざわざ出かけていって植林活動をしたり、燃費効率の良い新品のエコ製品に買い変えることなどは、単なる見せ掛けの自己満足や自己主張になります。
ありがたい心の無い勿体無いは、人の目を気にしていることであり、そんな行動をしている私は正しいを主張する為の見せ掛けの手段に使っていることになりますから、「ありがたい」から「勿体無い」と本心から物を大切に思う心とは意識がぜんぜん違っています。

だから見せ掛けを良くする為に使うお化粧や衣装ではなくて、ありがたい化粧品や衣装として感謝の心で使えば、外見よりも更に内面を美しくすることが出来ます。
そして、見栄や世間体や差を見せ付ける為に贅沢するのではなくて、持っているお金や物をありがい心で使うのなら幾ら使っても全部が愛になります。
だからレストランの贅沢な料理でも、山で食べる質素なおにぎりでも、そこに「ありがたい」が無ければ、それは見せ掛け自己主張の表現の為に使っていることになります。
だから贅沢も質素倹約も楽しくなければありがたい感謝にはなりません。

自己満足ではない楽しさや美味しさが味わえるからありがたい感謝の心になれます。
ただ私の場合は贅沢よりも質素倹約がお似合いなだけです。
そして贅沢三昧をしている時にありがたいを感じられずにいたのが、今の呑気な質素倹約でありがたいを感じる事が出来るようになっただけのことです。
だから贅沢好きであればどんどんお金や物をありがたく使えばいいのです。 それが見栄や世間体に対する自己満足や自己主張にならなければいいのです。
 
何も質素倹約や勿体無いの選択が正しいとは限らないのですから、自分に見合った自分に出来る選択をしていけばいいのです。 それが個性であり、自由であり平等です。