孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

経済問題、エコ省エネ・環境問題、拉致・臓器移植・裁判員制度・老後問題・・・

2009年06月21日 | Weblog
国会・マスコミで経済問題やエコ・省エネや拉致問題や臓器移植や裁判員制度や老後問題が言われていますが・・・

まず、経済至上主義で国民が幸せになることは絶対にありません。
比較競争する経済発展によって豊かな生活をもたらすことが出来ても必ず差が出来るからです。
すなわち「差」のあるところに自由平等平和・幸せは無いのです。
だから過去・現在・未来であれ、有史以来の史実が示すように生活が豊かに成っても差別・格差や争いや戦争が絶え間なく続き本当の幸せにはなっていません。

それを史実が示すように、貧困が原因だからと思って経済発展で生活を豊かにしてもこの世から差別・戦争は無くなりませんでした。
しかも世界各国が今以上の経済成長を促せば自然環境が損なわれるのは明白です。
それなのになんで経済ばかりが優先されるのでしょう・・・ それは本当の幸せ・至福を知らないからです。

また教育・教養・道徳や正義感や価値観に原因があると思ってそれらを教えることでも結果は同じになっています。
すなわち此れまでの形が少し変化するだけで根本的には何ら変わってはいないのです。
その原因に差を作る良い悪い(善悪・優劣・損得)で判断している分離・比較・競争意識があるからです。
このことに気付いて修正しない限り時代が変わっても人間世界・意識次元は此れまでと同じ繰り返しが続くだけです。

臓器移植の場合・・・ 死にたくない、死なせたくないとして他人の臓器移植をすることもありますが、そんな場合は「人の不幸が自分の幸せになる」という、自分さえ良ければの自己中心意識が強い人になります。
しかも脳死を死にする法案が可決されそうですが、呼吸をしている限り死んではいません。
脳が反応して無くても意識・命は生きていますから成長もするし、命・意識で何かを感じている筈です。
それなのに脳死法案が可決されるのが遅すぎたと主張する人も居ますが、それは臓器移植で助かりたい人、助けたい人の自分勝手な言い分であって、生きている価値が無いから早く殺して臓器を有効利用(良いとこ取り)しようとしているのと同じことですから、例え賛成意見が多くても倫理に反していることは明らかです。

裁判員制度ですが・・・ 国民参加型の裁判員制度で市民が裁判員となって判決・制裁を科すことになるのですが、人が人を裁く責任も重大ですし、しかも死刑の判決が出された場合はその死刑実行・制裁に加担した一人にもなるのですが・・・ 
と言うことからもいえるのですが・・・ 犯罪の被害者がその犯罪者を許せなかったために、その仕返し復習するかのように刑罰・制裁を求め裁判が行われますが、裁判で刑罰が確定すれば、被害を受けた被害者側が加害者やその家族らを何かと混乱・苦しめる加害者の立場にもなっています。

それを北朝鮮の拉致問題に置き換えれば・・・ 当然ながら被害者側も困っているから正当性・正義を言うのも判るが、(過去を許せ無くて)固守・頑固・強行するがゆえにその被害者側が加害者の北朝鮮の国家や国民を困らせているのも事実です。 
しかも互いに負けまいと双方が正当・正義を主張し、それに反するからと互いが報復・制裁を言い合って激化し更に国際情勢までが悪化しています。
まさに拉致問題と国際テロ問題とが同じような展開になっていますが・・・正当性を主張しあい混乱を深めているばかりではないの・・・だから解決するには過去を許し過去を忘れるしか他に解決策はありません。

高齢化社会の医療や老後問題にしても・・・ 健康で長生きしたいから医者や薬に頼る人も大勢居ますが、その医者や薬に頼らなくても健康で長寿の人が居るように・・・ (医者や薬に頼らず自力・治癒力で治してきた私の考えや判断からいえば)高度な医術医療やその医療保険制度の充実やその情報化も手伝って誰もが健康問題に執着するようになり、それらを安易に活用して医者や薬に頼った人ほどその薬害・副作用・弊害で不健康・慢性病・成人病が増加・加速されてきたような気がします。
すなわち安易に胃腸内蔵薬や風邪薬などの内服薬を飲んだり、化膿止めや花粉症などのアレルギーを和らげるために抗生物質を多用したり、血圧・血糖値の薬剤を飲み続けていたり、とにかく手っ取り早く良いとこ取りして怪我や症状の回復を薬剤に頼った人ほどその弊害・副作用が影響しているようです。

昔から風邪は万病の元と言われたように、その風邪症状を自然治癒力で治したのと手早く治癒させるために薬に頼ったのとは抵抗力や治癒力に大きな違いが出てきますし、安易に頼った多くの薬害や食品添加物や心身のストレスも重なり、しかも年齢とともに体が衰えていくことから、これから先も色んな疾患疾病・病名症状が出てくることでしょう。
すなわち良いとこ取りの健康食品や健康促進剤はもちろんのこと、それらを上回る市販の薬剤や医薬品は現われた症状を手っ取り早く改善する人工的療法ですから「他力」を使ったことになりますが、持ち前の自然治癒力や抵抗力の自力・気力・意識力とは違うので、(素早い効果効用の人工的療法だから)その弊害副作用があって当たり前なのです。
だから人工的に良いとこばかり集めた食品や即効性の薬剤などの他力ばかり使うのでいつの間にやら持ち前の自力・体力・気力エネルギーが低くなってしまって、本来の本気・やる気が無くなる神経疾患・ノイローゼ・うつ症状や血流に関わる糖尿病や通風や心不全・心筋梗塞・脳梗塞や痴呆症や細胞変化の癌などになりやすい体質になっていますから、年老いていくほど疾患加療入院や介護入院や自宅療養・家族介護などで困ったことになるでしょう・・・ しかも高齢化社会ですから・・・

以上の事柄から言えば・・・ もうすでに「どうしょうも無い」状態の社会国家や自然環境や人間関係に陥っているのですから 今からでもいいから「良い悪い」を持たない完全真理を学び知り実践すれば、他はどうしょうも無くても、自分の事はどうにかして意識改革できますから、先ず原因である不平不満から始まるあらゆる問題が解決していきます。
そうすれば「どうしょうもない」ことが気にならならなくなり、人を責めず自分を責めず、心安らかな日々をすごせるようになります。
そして病や死を恐れず守り闘わないで素直に受け入れ、怪我や病気の症状と仲良く付き合い、天命に任せ、遅かれ早かれ死ぬ時が来たら死ぬだけですから、いつの日か人間の衣・肉体が滅びるときがくれば・・・★元々人間は永遠に続く命を持った「意識」体ですから・・・ これまでいろいろとあったが「生きていて良かった」、人生楽しかったと喜び感謝の「ありがたい」気持ち・意識を持ったままに、あの世とやらの「命・意識」の世界・次元に行くことが出来ればいいのです。

それがもしも何らかの「不平不満」不安心配・不信・恐れ・嫉妬や復讐心を持ち続けていれば・・・ それ相応のお似合いの次元世界で留まることになります。
とにかく、暗い汚れた世界か明るい綺麗な世界かは自分が「行けば」わかることですから・・・ それが後の祭りにならないように日々真剣に取り組む必要があります。
だから「良い悪い」のない完全真理を知り、良い悪いの無い「完全な愛」を知ることになり、その我愛なり、我神なりの完全真理を実践することにあります。

完全な神・愛は戦いません、守りません。

2009年06月09日 | Weblog
神は愛であり、愛は神ですから、完全な神・愛は戦いません、守りません。
しかしながら、過去のイエスや釈迦らの話の中にサタンや邪悪と戦ったことが言われています。
また艱難辛苦の修行をして自分と戦ったことも言われています。
すなわち「完全な愛」を持っていなかったというのか?完全な愛を知らなかったのか?それが過去のことだけに今となっては問いかけ聞きただすことは出来ませんが、精神的な迷いや悩みや不信・疑惑や悪しき誘惑といった自分との戦いや、他からの侵入・侵略や敵対するものから自分らを守ったことは事実のようです。

戦い守るのは、自分が持っている他との「差」を守りたいからです。
また差を示す比較・競争することが無ければ守り戦うことはありません。

また自分の持っている思想主義を主張して示すことは他との差を示すことになり、そんな自分を「私は正しい」と思い、それを主張誇示すれば他との差を示していることになり、その思想主義が原因で他と守り戦うことにもなっています。
また神や愛を「特別」にすれば差を示す特別な神や愛になり、すべてに等しい愛や神とは言えなくなります。

現在色んな宗教を信じていたり思想主義主張をしているなかに、神が愛であり、愛が神であることを否定する人は居ない筈です。
愛を話し、愛を聞き、愛を見て、その愛を学び知り、そして愛を出すこと(施すこと)が宗教の教えであり真理となっているからです。
だから神の愛を信じて宗教や教祖の言うなりに動いている人も大勢居ます。
また自分なりの神や愛を語り広めている人も居ます。
しかし残念なことに良い悪いで判断する「差」のある愛や神を説いて広めようとしている過ちに気付いていません。
だから他と比較して「自分は正しい」と主張顕示・誇示することになり、それを守るためなら相反するものと戦い排除することも正当化されたりするのです。
そしてそれらの信じる神や愛を守り戦うことがそれぞれの正義や聖戦にされているのです。

完全な愛であれば、愛に「良い悪い」(善悪・優劣・損得)の「差」も無いから、裏表で使い分けれられる矛盾もありません。
しかし過去の遺物である良い悪いで判断している宗教や真理を信じ、それらが示す過去の実績や肩書きや聖書経典を信じる人には良いと悪いの裏表・矛盾で葛藤することにもなるのです。
・・・その矛盾・迷いを無理やり断ち切るために無駄な修行を繰り返しているのかも知れません。

その過去のイエスや釈迦が活躍していた当時は今ほど有名ではなかったから、当時の人々の中に釈迦やイエスのことを知っている人も限られていたように、山田耕栄さんの完全真理も今の世間の人にはあまり知られていません。
例えば釈迦やイエスが行動していた時代にそのイエスや釈迦を知らなかった人が大勢居たはずだし、たとえ知っていても自分に不都合があると別な他の形・神や愛を追い求めて探す人が居たように、如何に完全真理であっても理解できなかったり自分に不都合があれば、もっと自分に都合がよい別な形の神や愛を求め探すことになるのです。
すなわち神や愛を知ろうとするときに「自分」に都合が良い神や愛を探す結果になっているのです。
その目安になるのが過去の実績・肩書き名声などの知名度であったり、過去から立派な形・組織を保持しているものだったりすることから言えば、いま現実に実在する真の神や愛ではなくて、過去から語り継がれている頭の中の「神や愛」を信じている形となります。

そんな過去を信じる時代が長く続いていつの間にやら神や愛が過去に語られていた形通りに常識化され、道徳・伝統・風習にもなっている影響もあってか、(有史以来・この世に始めての)本物の神や愛を説く「完全真理」を見逃したり、理解度がいまいちで完全を見失っていたり、完全真理を実践することが自分に不都合となって離れていく人も後を絶ちません。

・・・私事ですが・・・
実践するほどに自分の未熟さが丸見えになってきました。
その未熟さが自分に判るほど自己縮小の実践している証になると、私は思っています。
すなわち100ある不完全・未熟さの100を知るために自己縮小の実践が必要だと、私は思っています。
しかもその未熟さが残っているだけに、私の自力での完全意識・即身成仏には(絶対と言っていいほど)無理があります。
それでも完全真理を知ったお陰でこれまでの疑問・矛盾・問題点などのすべての原因を知ることになり、思い悩み迷い混乱・葛藤することも無くなり、未熟ながらもいま見えている一直線の一本道を見失うことなくただ歩いていくだけでそれで十分・大丈夫だと自信を持って言えるだけのものを得ることが出来ました。

そしてファバラ・常温核融合エネルギーがこの世に出てきた原因が理解できているだけに、(他力依存かも知れないが)私にとってファバラが今後の頼みの綱であることは一切変わりません。 それだけファバラは価値あるものです。
しかしイエスや釈迦の時代に「知る者だけが知っていた」ように・・・ 山田耕栄さんの「完全真理」にしても「ファバラ」にしても「知る者だけが知っている」程度の広がりでして・・・ 「単純明解な完全真理を理解できない人、理解したがらない人、知りたがらない人、実践したがらない人、またファバラにしても違和感や不信感を持っている人が多いだけに」・・・今の時代には少し早すぎたのかも知れません。