孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

この世人間関係の中で問題なく生き抜くには<謙虚>しかありません。

2015年10月31日 | Weblog
このブログは書きながらにして<進化>しています。
そして「謙虚」の二文字ですべてが解決することになりました。

然るにお釈迦様が何を説いたのか、イエス様が何を語ったのか、まったく知る必要もありません。

また天地創造、宇宙の仕組み、人類の進化、歴史・史実・現在に無関心でも大丈夫です。

然るに哲学・思想・真理・摂理・道理を知る必要もありません。

まして未来を予知したり占う必要もありません。

然るに国家政治経済や国際問題や社会問題に無関心であっても問題ありません。
まして子育て指導教育・しつけも必要ありません。

然るにセックスであれ恋愛であろうが夫婦関係や家族関係も重要ではありません。
まして親孝行だとか先祖供養なんてのもどうでもいいことです。

然るに神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーに関わる必要もまったくありません。
また完全真理を知らなくても大丈夫です。
だから摩訶不思議の世界・見えない世界の諸々を信じるか否かもまったく必要ありません。

巷で言われる常識・伝統風習・道徳も必要ありません。
然るに冠婚葬祭や儀礼儀式も必要ありません。
また趣味嗜好娯楽に拘り執着すこともありません。

判っているようで判っていない愛を詳しく知る必要もありません。
然るに優しさ思いやり愛情や人情やその恩や儀を重んじる必要もありません。

とにかく「謙虚」であれば=特別・特別意識にならずにして=此れではダメとならずにして、
然るに頑張ることも欲張ることも見栄張る事もなく、余計なことを無理する事無く、楽ちん省エネにして、穏やかな心意識=精神が安定しますから心身も健全健康にしてストレスに関係のない生き様になります。

然るに=謙虚=であれば今が=地上の天国=にも思える生き方になります。

だからこの世人間関係の中で問題なく生き抜くには「謙虚」しかありません。

あとは実践するしか他に道はありません。

庶民の為ならぬ特別意識の有能な人の為にこの世・時代が動いているのです。

2015年10月31日 | Weblog
大元からしてこの世には特別は無かったのです。
なのに特別意識の諸々が此れではダメとばかりに様々な形を創作したのです。
その中に神社仏閣や仏壇お墓があります。

ちなみに私んちの境界線のとなりに船戸神社がありますが、当初は華やかに賑わっていたようですが現在は誰も参拝に来ませんから荒れ果てた格好になっていたから、暇ついでに境内を草刈したり枯れ枝を集めて焚き火をしました。
然るにお墓や仏壇もやがて同じような格好になります。
と言うことは結果的には不用の長物・余計で迷惑にもなるのです。
然るに仏壇を焼却処分にするのも墓石を移動したり処分するのも大変です。
ちなみにお城の石垣や防波堤の捨石の中に捨てられたお墓が紛れ込んでいます。

とにかく特別意識の邪な輩が庶民を巻き込んで悪さをしているのです。
その余計なことで無駄になることに巻き込まれているのも同じ特別意識の人ですから、事業自得=自分の行いの報いを自分が受けることになるのです。

だから謙虚に生きることは諸々の被害にも遭いませんから、結果的には自分の為・自分を救うことにもなっているのです。

また特別意識の人が時代を動かしていますから当然ながら庶民はそれに巻き込まれます。
ところが特別意識のトップが笛吹けど踊る人がいなければトップに居座ることは出来ません。
だから頑張ることを美化する言葉が次々と出てきたのです。
そして私たちがその言葉に誤魔化されて踊らされることにもなるのです。

と言うことからしても判るように特別意識の有能な人の為にこの世があるともいえるのです。
然るに庶民の為ならぬ特別な人の為に時代が動いているのです。

とは言っても今さらに「どうしようも」ありません。
だから特別意識の流れに沿わない=自己拡大の流れに沿わない、
然るに頑張らない、欲張らない、見栄張らないで、素朴謙虚にして楽に生きるしか他に道は無いのです。

然るに特別意識の自己拡大から卒業して、自己縮小の実践でもって精神の安定した生き方しか他に道は無いのです。

そして精神の安定した生き様をしばらく味わっていると、此れまでの喜怒哀楽とは違う本物の生き様に気付き味わい納得できるようになるのです。
しかも現在は生きていくことに不自由しないだけの諸々が揃っている時代だけにそれが地上の天国にも思えるようにもなるのです。

とは言っても此れまで特別な楽しみを味わってきただけに行動を共にしてくれる家族・人間関係を望むのは無理だと思います。

何はともあれ、生きていくための仕事・役割をしながら素朴謙虚に生きる道筋を探すことになるでしょう。

「謙虚」に生きることが本物になれば他のことに目移りしなくなります。

2015年10月30日 | Weblog
意識が原因の結果が出るのがこの世です。

そして良いことになったり悪いことになったりする矛盾があります。
だから良かれと思って成したことの結果が良かったり悪かったりとコロコロと様変わりしている史実事実があります。

ところでよもや話にお人よしや意地悪爺さん婆さん、ご隠居、長屋の大家、大店の主や若旦那、師匠、遊び人、遊女や芸者、金貸し・守銭奴、貧乏人や物貰い、お寺の和尚さんに小坊主、極悪人や正義の味方、あくどい人や施しを成す人、悪徳代官や名奉行、岡っ引き・手下などの様々な善人悪人が登場してきますが、
然るにこの世は「学びの場」=学び知り気付く為に形作られた世界なのです。

だから様々な喜怒哀楽・矛盾を味わいながらも自分が如何なる心構えで生きていくのか、その原因と結果の有様を体感し見聞し見極めながらも、結果的には中途半端な苦楽の無い生き様=然るに心穏やかに生きる様=謙虚にして=精神の安定でもって生きることで=納得人生で終わることになればいいようです。

然るにそれ以外は特別なこと・特別意識・差別意識になるのです。

その特別意識・差別意識の戒めを解きながらもその張本人がいつの間にやら特別・差別意識を出すことからしてヘンテコなことになるのです。
然るに人気を得て目立つと人が集まりだしますが、すると私は正しいことをしているの錯覚勘違い自惚れ慢心や自己陶酔からして次第に謙虚さが失われることからして、いつの間にやら特別人間になるのです。

すなわち特別意識になる原因が迷える子羊たちを一堂に集めることからして謙虚さが無くなるのです。
然るにこの世は私は正しいと説教・説法・持論を主張して説く未熟な輩に対して謙虚さが必要なことを学ばせる場ともなるのです。
しかしそれに気付かずにして横道・邪道を進んでいくことになるようです。

と言うことは不完全で矛盾偽善のある未熟者が欲を出して思い考え想像し創作した形の見えない世界の法則・摂理・理論や哲学思想・スピリチュアル・精神世界は特別で見栄えのいい派手な飾り物の類ですから=本来なら必要ないのです。

とにかく肝心なのは「あるがまま」の素朴謙虚さです。

ところが「あるがまま」を説いている輩もその学び知った知識を言うだけ聞かせるだけ概ねにして本人には謙虚さはありません。
だから結果的には欲絡みにして目立ちたがり足下に人を集める形になっています。

と言うことは人を集めたがる目立ちたがる野心を持つ特別人間よりも世間で目立たない普通の人のほうが謙虚さにより近い位置にいると言えるのです。

だからあなた方が喜怒哀楽の繰返しで心身が疲れていることに気付いたならば、そこで頑張る・欲張る・見栄張る事無く素朴謙虚にして楽に生きる実践をしてみれば自ずと学び知り気付くことになるのです。

とにかくやってみなければ判らないのです。

然るに知りたがるやりたがるその意欲は無駄になりません。
そしてその結果が云々ではなくして、その結果の原因=内なる心意識精神の有様に自らが気付くことが肝心なのです。

だから同じところ位置で止まり中途半端に繰返すことよりも=心から納得できるまで歩み続ければいいのです。

そして「謙虚に生きる」しか他に道が無くなれば(他にこれといったものが見当たらなくなったら)=結果的には謙虚に生きることに納得確信したことに様変わりするのです。

欲張っている人が=「苦手」とする人は?

2015年10月30日 | Weblog
この世は矛盾に満ちていますから裏と表の関係があります。

だから味方と敵にもなります。

然るに天敵がいるようなものになります。

そこで自らが欲張らなくなれば、何かと欲張っている人を見定め見極めることが出来るようにもなります。

然るに謙虚になればその謙虚ではない人を見破ることも出来ます。

然るに欲張っている人が苦手とするのが欲張っていない人になります。

また特別な能力からして世間に目立っている人が苦手とするのは謙虚な人です。

然るに己の内に秘めた邪な欲・野心・野望を何やら見透かされているような気がするからです。

ところが欲張っている人や特別な能力を持っている人の所には同じく欲張りで世間に目立ちたがる人たちばかりが集まってくるから胸を張っていられます。

まして謙虚な人が来るはずもないし、例え来ていても静かにしていますからそんなに問題はありませんし、何か不都合なことを質問されても適当に誤魔化していれば謙虚な人は騒ぎ立てませんから事無くすみます。

また欲絡みで集まっている組織団体のトップやリーダーを支えている下積みの人が多いほど好都合ですから、然るに意欲的に取り組んでくれる人にご褒美をちらつかせて新人を勧誘させたがります。

然るに普通では満足できない人を引っ張り込む手立てがあるほうが運営しやすいから、そこで客寄せパンダになる形を見せびらかすことにもなります。

だから神通力とか神の手と言われるような超能力や霊力や念力などの類を持ってさえいれば簡単に人が集まるし、その集まってきた人が宣伝広告・勧誘してくれますから尚更に好都合です。

そして集まっている人たちにもっともらしく摩訶不思議の世界・宇宙の法則・自然の法則・摂理・真理・道理や世界平和・自由平等調和を説いたり、自然体・あるがままを説いたり、また欲張ってはいけませんよ謙虚になりなさいよと説いたとしても、
集まっている人たちは他力依存的な思い思惑期待の欲に目がくらんでいますからただ聞くだけ言うだけで実際には実行実践しませんから何度でも言い聞かせることが出来ます。

またその矛盾や偽善を見破る人が時たま出てきてもその場には二度と現れてきませんから大した影響にはなりません。

そして信者意識になった人が常に底を支えてくれていますから、その信者を褒め称えて掴んで離さなければ何とか安泰にしておれます。

しかも組織団体が大きくなるほど土台骨が揺るぐことにもなりません。

とにかく「触らぬ神に祟りタタリなし」ですから、人が集まるところに関わらないほうが賢明なのは事実です。

だから孤独の自由にして独自独歩で歩んでいくしか他に道は無いのです。

「少しでも良くなりたい」からして事故・犯罪・人殺し・戦争になっています。

2015年10月29日 | Weblog
このブログは「逆も真なり」となっているだけに世間の常識・伝統風習や冠婚葬祭や道徳観から離れた=自由=にして生きることをポイントにしています。

また特別意識で生きることよりも謙虚素朴の普通意識で生きて精神の安定でもって生きていくことを促してもいます。

また欲がなければ人が集まりませんが、
しかし人が集まることは欲絡み他力依存絡みだけに、
できれば自力自信の精神力でもって独自独歩で生きていくほうが人様に惑わされることも、また己が人様を巻き込むことにもなりません。

然るに私も人間だから欲が出るけれども、そこで拘り執着しませんから、然るに欲絡みで人様とは接しませんから、孤独の自由と精神の安定を味わい続けることが出来ています。

ところで「少しでも良くなりたい・良くしたい」の意欲=思い思惑・理想・目的・願望の「欲」からして、それが事故や犯罪や戦争に繋がっていることを認識していますか、

然るに事の始まりの最初から悪いことをしたがる人はいませんが、自分にとって良いことをしたがる人は大勢います。
ところが良いことをしたいと思ったことが原因からしてその結果が悪いことになるのは日常茶判事にあります。

ちなみに少しでも急げば良いだろうと焦って諸々の事故が起きています。
また少しでも自分が良くなりたいがために犯罪や人殺しをしています。

だから人殺し戦争が悪い事と知りながらも少しでも良くなるために人殺し戦争に加担することにもなっています。
しかも敵対する者を標的にして平気で殺しているのに、何故か味方が殺されると見境無くなり復讐心・正義感に火が付いたようになり、時には特攻隊が如くに自爆行為にもなります。

そして多くの戦死者や負傷者が出たのに「勝てば官軍負ければ賊軍」扱いされます。

然るにその少しでも良くなりたい=此れではダメだ=からして様々な問題が多発していることを自覚認識すれば、然るに欲が出ても(自分の為にも人様の為にも)欲張らなくなります。

とにかく人間たる最悪の結果が人殺し戦争だから、そこで素朴謙虚に生きることが最も重要になるのです。
然るに欲絡みの特別に関わらないで普通に生きているほうが自分の為にも人の為にも無難なのです。

そして少しでも楽になりたいのなら頑張らずに欲張らずに見栄張らずに余計なことに無理しなければ楽ちんにもなるのです。

この世人間界は自由・平等・調和の平和でなければなりません、なのに何で

2015年10月29日 | Weblog
私は孤独の自由にして、ただ生きているだけのような素朴謙虚にしていますから、他の人と比較競争して特別な差を付けることにもなりません。
またその自由に生きるためにも自他共に否定反発・束縛制限していませんから、然るに人様と諍いイサカイ問題が起きる事も無く調和の関係で暮らしています。
然るに私自身は自由意識・平等意識・調和意識でもって平和=精神の安定でもって=地上の天国が如くに思って暮らしています。

だから皆さんも頑張らずに欲張らずに見栄張らずに余計なことを無理しないで楽ちんにして素朴謙虚に生きることになれば=精神が安定して=地上の天国が如くの思いで生きていくことが可能になります。

然るに地上の天国は特別な中にあるのではなくして=普通の中にあることだったのです。
なのに特別な青い鳥を求め探すが如くにして「此れではダメだ」とばかりに今よりも少しでも良くなることを思い願い期待して特別に頑張り続けているのですから、何で普通の中に幸せがあるなんて気付けるはずもありません。

また地上の天国はまだ見聞経験したことが無い「特別」なことだと思い違いしていたならば、そこで特別な能力を有する人の所に出掛けていって、その青い鳥の探し方を特別に伝授してもらうことにもなります。

また特別を欲しがるだけにその分だけ苦労苦悩もしますが、その解決が自力で出来なければこれまた特別な能力の人に頼ることにもなり、然るに巷の不完全で矛盾偽善のある神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなどに関わることにもなるのです。

そこで一時の仮初にでも癒されることがあれば=此れこそ本物とばかりに依存心や期待が高まり、その挙句の果てには自らが土壺にはまり込み中々抜け出せなくなるのです。

またその特別な能力を有する人にはこれまた特別な邪心があります。
何故なら困っている人がいなければ自分の出番が無いからです。

例えば人が死ねば葬儀屋関連が儲かるように、人気のある老人ホームに入居できる順番待ちの人にすれば、病人が来なければ医者が食っていけないように、
人が不幸になることをひそかに望み期待している偽善なるところがあるのです。

だから困っている人を集めて自分の出番を多くするためにも、そこで客寄せパンダの如くに特別なことを成して見せたり、また特別な能力・神の手が如くに宣伝広告して人を集めたがります。
だから困っている人が来ると=ようこそお出で下さいましたとばかりに扉を開けて歓迎してくれます。

ちなみに特別な能力の無い私なら=人様のことは「どうしようもないから」そんな面倒臭いことに関わらずにしてほっときます。
然るに金儲けにもなりませんし、世間に目立つことにもなりませんし、まして褒め称えてくれるはずもありません。

それでも私は特別な能力の人が味わえないでいる自由と調和のありがたさを実感でもって味わっています。
そして特別な能力の無い普通の人にこのブログを通して否定反発・束縛制限の無い自由の大切さや頑張らないで素朴謙虚にして楽に生きる術を伝えています。

「病は気から」「風邪は万病の元」と言われる根拠・事実は医学面&精神面でも明かです。

2015年10月28日 | Weblog
誰もが自覚できているようで自覚できていないのが=お金では買えない=健康体と精神の安定です。
その健康と精神は密接な関係にありますから、それを切り離して考えることは出来ません。

およそ30年以上も昔に「ストレス」が原因からして病気になることが90%以上というネズミを使った実験結果が岡山医大で始めて公表されたこからして「病は気から」と昔から言われていることに結びつき納得確信に到った経緯があります。

然るに今思えば何でも知りたがるやりたがる私の意識が原因からして(必然ご縁の仕組みが起きて)先駆け情報を先取りしていたことになります。

ところで多くの人が我が世の春を突き進んでいると思われますがその分だけストレスを背負い込んでいると言う実感は無いでしょう。
何たって自己満足に満たされているから肉体的な疲労を感じても精神的なストレスを溜め込んでいるとは思いもよらないことでしょう。

然るに私も若いころは自己満足で有頂天になっていて同じでした。

ところが素朴謙虚に生きることになって実感したのが過去の我が世の春は既に記憶に残る思い出や自慢話になるだけで、その過去がどうであれ=現在が苦悩に満ちていればその苦悩を背負い込んだままに「今を生きる」ことになる現実があります。

だから華々しい過去よりも現在の生き様がどうなのか、それに尽きることです。

ところが先々のことはどう転ぶか判りません。
となると死ぬまで健康体と健全な精神体で過ごすことが最も重要になるのです。

然るに病的な症状が出て医者や医薬に頼っている人や体が不自由になって他力の介護が必要になっている人と、
健康体の自力でもって自信たっぷりに生きている人との違いは明らかです。

ところで信じるか否かになりますが、自覚症状が無くて健康に思っていても、また定期健康診断で問題が無いようであっても、意識が原因からして突如にして出てくるのが病気だったり、また真坂の災難や怪我です。

また反対に病弱だったり常に痛みを感じる症状持ちの人がストレスから解放されたら治癒回復される事例も多いのです。
だから末期がんの人の癌が消えたと言う事例も(医学的にありえないと否定されているから公表されないが)あるのです。

また昔風のやぶ医者が薬を処方せずに養生しなさいと諭していたのも理にかなったことなのです。
然るに昔の医者ほど謙虚を旨にしていたようです。

そして風邪は万病の元と言われているのは事実です。

その風邪の症状を和らげるのも静かに養生するのが一番です。
それを薬剤の他力に頼って早々と働くことからして万病に繋がっているのも事実です。

また風邪を引かないために予防注射をするのも抵抗力や治癒力を弱めるから万病の元にもなります。

と言うことからしても=素朴謙虚にして楽に生きていくほうが後々までも心身安泰につながるのです。

だからこの歳まで諸々の裏表を数多く見聞し体験し実感でもって味わってきた私のブログ・お伝えに注目しても損はありませんよ、となるのです。

四次元(死の次元)で止まらずに次の世=五次元に(ご縁が)仕組まれるかもしれません。

2015年10月28日 | Weblog
卒業式でよく歌われる「蛍の光」=ホタルの光や雪明りで勉強をした意味らしい=に反発する人がいます。
小学校の庭から「二宮金次郎」=山で芝刈りしながらも勉強をしている少年の姿=の銅像が消えました。

それでは「少年よ大志を抱け」はどうなったのでしょう、
ちなみに意欲を持って成すこと「成せばなる、成さねばならぬ、何事も」の言葉があります。

また「働かざる者は食うべからず」と言われていました。
然るに「アリとキリギリス」の例えがあります。

また「開拓者・探検家・冒険家」を褒め称えることがあります。
然るに「清水の舞台から飛び降りる」勇気・決断決心が言われることがあります。

それでは「完全真理」で説かれている=良い悪い・善悪優劣損得で判断しているからにはその結果も良い悪いで判断される=その不完全さ、その矛盾、その差、良くも悪くもなるそのあいまいさ、その裏の偽善、どっちつかずの中途半端さに終わることが理解できるでしょうか。

然るにその不完全さからして=何を成せども不完全になる=こと↑
然るに何を成せども余計なことで無駄になること。
となると意欲をもって頑張ることも無駄になります。

然るにこの世人間関係が矛盾偽善に満ちていること。
然るに不平不満と自己満足の矛盾偽善で生きていること。
然るにその不平不満が諸悪の根源になっている事実。

然るにこの世人間関係だけはどうしようもない事実。

然るに=救いたくても救えない=事実。
なのに=此れではダメ=何とかしなければ=と無駄で余計な取り組みをします。

また救世主が現れ出ることを望み期待しています。
だから特別な人のところに欲絡みで集まりたがります。

ところがそんな欲絡みで集まる人を飯の種にしたり副収入にしたりまた世間に目立って名誉名声・権威権力を持ちたがっている邪な輩が大勢います。

だから自他共に「どうしようもない」ことを繰返すことで終わっています。

だったら頑張らずに欲張らずに見栄張らずに、余計なことを無理し無駄にしないで、その分だけ楽に生きること。
そうなれば食って寝て糞をしながらにしてただ生きているだけで自ずと満たされた心持になって諸悪の根源である不平不満が出難い生き様になること。
然るに苦楽の喜怒哀楽にならずにして=精神が安定=してくること。

そのためにも巷の不完全な神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーになどの「他力」に依存する事無く=素朴謙虚=にして生きていくしか他に道がありません。

だから人様を救えなくても自分だけは救われます。
然るに「自分の為」に生きるのが個人意識の人間に課せられた宿命・役割使命になります。

と言うことからして他力に頼らない=孤独の自由にして独自独歩の自力自信の精神力でもって生きていくことになります。

然るにこの世人間関係のことは成り行きに任せておいて、まずは己が思うがままの自由でもって納得がいく人生で終われば未練も後悔も無くなり=四次元(死の次元)=で止まらずにして次の世・五次元に(ご縁が)仕組まれるかもしれません。

「マトリックス」「白昼夢・SF」「想像の世界」「特別探し」=「自分探し」

2015年10月27日 | Weblog
ブログの世界は特別人間の世界でもあります。
何故なら普通ではない特別を自慢したいからです。
とくにスピリチュアルほど特別意識満載です。

然るに暇な時間つぶし・趣味嗜好娯楽・変化刺激にはもってこいなのがブログです。
何たって常識はずれの信じるか否かの摩訶不思議が勢揃いしています。
だから特別人間が白昼夢が如きやSFもどきに魅せられた人が大勢訪れています。

しかしそれらに詳しくなって話のネタになっても人間本来の生き様が変わるわけではありませんから、概ね思い思惑・理想・期待だけで「実」にはなりません。
それでも特別人間同士ならば「マトリックス」が如き理想・偽装・想像の世界の中で白昼夢が如くに生きていくことは可能になります。
しかし生きてはいるが実で生きていない中途半端な生き様になります。
だから拘り・未練・執着を抱えたままの納得出来ない人生で終わり後悔することになるでしょう。

ところで素朴謙虚に生きることで精神の安定になると書いてはいるもののそれを事実にして実践を始める人は極々少数だと思っています。

ところがそれでも=私が仕組まれて過疎地暮らしをしているときに=完全真理の中で自己縮小の重要性が言われたことからして=「水を得た魚」の如くに自信になって現在があるように、
既に世間の片隅で素朴謙虚に生きている人には=このブログが大いに自信になるはずですし納得確信にもなるはずです。

または巷の不完全で矛盾偽善があるスピリチュアル関係から抜け出すきっかけになったり、既に抜け出した人にとっては大きい自信になることでしょう。

また不完全なこの世人間関係に馴染めなかったり違和感があって「自分探し」をしている人にも役立つことになると思いますが、しかしそれが特別探しであればこのブログは不向きになります。

とにかく素朴謙虚に生きることの重要性を認識自覚できなければ=普通=に生きていても、その中に特別が紛れ込んでその苦楽で精神の安定性に欠ける生き様になります。

何はともあれピラミッド社会の上に立つ人よりも底辺で下積みになっている人の為に精神世界があるようなものですから、
そこで特別を欲しがらない、然るに頑張らない・欲張らない・見栄張らないで、余計なことを無理しないで楽に生きていれば、
自ずと素朴謙虚に生きることの重要性が自覚できるようになります。

聖徳太子・坂本龍馬・ヒットラー・麻原彰晃が謙虚だったら、

2015年10月27日 | Weblog
過去のモーセが謙虚だったら、釈迦やイエスが謙虚だったら、ジャンヌダルクやナポレオンが謙虚だったら、ガンジーやマザーテレサが謙虚だったら、
聖徳太子や坂本竜馬が謙虚だったら、
ヒットラーやオウムの麻原彰晃が謙虚だったら、

然るに「此れではダメだ」と頑張り欲張らず見栄張らずに謙虚にしていたならどうでしょうか、

然るに「この世・人間界」にとって特別の人間がいいのでしょうか、それとも普通の人間がいいのでしょうか、

ちなみに誰もが自由平等・調和が人間にとって重要と知っているのに、ところが多くの人は差を付けて「特別」になりたがっています。
そして自らの自由を自縛・束縛制限したり、自他共に否定反発・排除することにもなっています。

だから過去の歴史や史実にあるように「特別な輩」が出てくると何故か先導・誘導・洗脳されたが如くに従う特別な人が大勢集まることになるのです。
すなわち特別を欲しがる人がこれまた特別を欲しがる人と繋がり結び付くことで独りでは不可能なことが可能になるのです=然るに問題の始まりです。

そして次第に組織化されて大きく表に出てくるのです。
そして表立つほど更に賛同する者が集まって次第に大きくなってくるのです。
またその集合意識からして更に大きくもなるのです。

ところが自らに特別な能力力量があろうとも、素朴謙虚にしていたなら他の人を大勢巻き込むことにはなりません。

然るにモーセ・釈迦・イエス・ジャンヌダルク・ナポレオン・ガンジー・マザーテレサ・聖徳太子・坂本龍馬・ヒットラー・麻原彰晃らは元は独りだったのに同じ思いの人が大勢集まったことが問題の発端なのです。

そしてその=結果=が云々ではなくして「欲でもって人が集まる」ことになったその=原因=意識が問われているのです。

そして不完全意識の世の中人間関係だけに「何を成せども」同じ不完全な結果が出ますから=然るに中途半端で「どうしようもない」から=そこで頑張らずに欲張らずに見栄張らずに余計なことに無理しないで素朴謙虚に生きていくほうが「自分の為」=精神の安定=になりますよ、と書いているのです。