生活に余裕ができると尚更に生活を向上させる方向に向いていくが(自己拡大)、心に余裕ができるとその居心地がいい事からして更に心の余裕を持つために無駄な動きを省いていくこと(自己縮小)になるのが本来の精神世界だと思っています。
なのに精神世界を知るために(学識知識教養&模擬参考のために)その精神世界があるようではその用を足しません。
すなわち実践が無ければ知る必要さえも余計なことで無駄になるのです。
それでも精神世界を知れば何か事を成さなければと思い考えまた気付くことも有るかと思いますが、その場合は自分の内なる精神世界の実践ではなくして見える対外的なことの実践になります。
そしてそれが人集め金集め名声名誉肩書き権威権力勢力拡大につながるのです。
近年ではマザーテレサがその類になりますが巷では聖女とも崇められています。
また日本では色恋沙汰の小説家瀬戸内寂聴が仏門に下ってその色恋沙汰の講義で人気を得ています。
そして神懸り奇跡の超能力者や霊感霊力念力の類の者が教祖指導者や先生になって世間の注目を浴びています。
またそれほどまでなくしても地元近所でそれとなく動いている霊媒師・魔術師の類や占い諭し癒しを施す類が全国各地に居るものと思います。
そして世間に目立つようになると雑誌やテレビで紹介されて一躍有名にもなるがそれらが竹の子のように現れ出たり消えたりしています。
だからそれが精神世界にも思えますから結果的にはそれを信じるか否かになり、それを信じる者がその信者になっています。
だから精神世界はその信者を作り出す形になっています。
ところが精神世界を学び知り自覚納得確信すれば信者にはなりません。
自分の知るその精神世界を意識して独自独歩で実践行動します。
だから世間に目立つ事無く静かに生き長らえていると思います。
それが私の場合なら、
若い時から成り行きに任せて呑気気楽にしてはいましたが、併せて楽しくしていたい思いがありましたからその人間関係での苦を味わうことにもなっていたのです。
それがやがて人間関係のしがらみから離れて暮らすようになってからはその苦を味わないですむようになったものの、それでも楽しみたいがために何かと栽培飼育していましたのでその苦労もありましたが、今ではそれもやめているので素朴な中での苦楽も無くなり、今は気を楽にして生きることになりました。
そして気を楽にしているとその余裕と自らの生き様の自信からして巷の人間関係がどうでもいいことになり気にならなくなったのも事実です。
それでも自らの精神世界の中に(仙人が如くに)閉じこもる事無く、必然であれば便利な道具も使うし自炊が面倒なときは半額のお惣菜や弁当で済ませるし、山の水が使えなくなってからは牛舎の全自動洗濯機を使い、また薪で沸かしていた風呂が近場の大型温泉施設になりましたので尚更に暇で退屈する時間が増えました。
しかしそんな私を見れば過疎地で暮らしている独居老人にしか見えません。
まして楽に生きていることが精神世界の悟りだと納得できるでしょうか。
しかし私自身は、その自信と自力でもって楽チンな生活を真面目にして素直に味わっています。
なのに精神世界を知るために(学識知識教養&模擬参考のために)その精神世界があるようではその用を足しません。
すなわち実践が無ければ知る必要さえも余計なことで無駄になるのです。
それでも精神世界を知れば何か事を成さなければと思い考えまた気付くことも有るかと思いますが、その場合は自分の内なる精神世界の実践ではなくして見える対外的なことの実践になります。
そしてそれが人集め金集め名声名誉肩書き権威権力勢力拡大につながるのです。
近年ではマザーテレサがその類になりますが巷では聖女とも崇められています。
また日本では色恋沙汰の小説家瀬戸内寂聴が仏門に下ってその色恋沙汰の講義で人気を得ています。
そして神懸り奇跡の超能力者や霊感霊力念力の類の者が教祖指導者や先生になって世間の注目を浴びています。
またそれほどまでなくしても地元近所でそれとなく動いている霊媒師・魔術師の類や占い諭し癒しを施す類が全国各地に居るものと思います。
そして世間に目立つようになると雑誌やテレビで紹介されて一躍有名にもなるがそれらが竹の子のように現れ出たり消えたりしています。
だからそれが精神世界にも思えますから結果的にはそれを信じるか否かになり、それを信じる者がその信者になっています。
だから精神世界はその信者を作り出す形になっています。
ところが精神世界を学び知り自覚納得確信すれば信者にはなりません。
自分の知るその精神世界を意識して独自独歩で実践行動します。
だから世間に目立つ事無く静かに生き長らえていると思います。
それが私の場合なら、
若い時から成り行きに任せて呑気気楽にしてはいましたが、併せて楽しくしていたい思いがありましたからその人間関係での苦を味わうことにもなっていたのです。
それがやがて人間関係のしがらみから離れて暮らすようになってからはその苦を味わないですむようになったものの、それでも楽しみたいがために何かと栽培飼育していましたのでその苦労もありましたが、今ではそれもやめているので素朴な中での苦楽も無くなり、今は気を楽にして生きることになりました。
そして気を楽にしているとその余裕と自らの生き様の自信からして巷の人間関係がどうでもいいことになり気にならなくなったのも事実です。
それでも自らの精神世界の中に(仙人が如くに)閉じこもる事無く、必然であれば便利な道具も使うし自炊が面倒なときは半額のお惣菜や弁当で済ませるし、山の水が使えなくなってからは牛舎の全自動洗濯機を使い、また薪で沸かしていた風呂が近場の大型温泉施設になりましたので尚更に暇で退屈する時間が増えました。
しかしそんな私を見れば過疎地で暮らしている独居老人にしか見えません。
まして楽に生きていることが精神世界の悟りだと納得できるでしょうか。
しかし私自身は、その自信と自力でもって楽チンな生活を真面目にして素直に味わっています。