良いと悪いの「アメとムチ」で人間関係を思い道理に操る事実が社会生活の中に実在しています。
自分に都合が良ければご褒美を与え、都合が悪ければ罰(制裁・仕返し)を与える。
その良いと悪いの「アメとムチ」を与える人間関係が私たちの社会生活の中に実在しています。
そんな人間関係の中で自他共に束縛制限支配し合っていることを知っていても、それを表立って言えば摩擦・波乱が起きるから我慢し合うか、心に不平不満を抱いたまま従うことが多いと思っています。
そして時たまご褒美をくれるのを楽しみにすることで何とか波乱が起きずに偽善の平穏無事が続きます。
しかもそれが利口なやり方と世間の常識になっていますから、時たま言い合うことがあっても大方は我慢しあうことになります。
ところが、我慢し合うことが限界に達したときにそれが一気に吹き出て喧嘩・虐待・暴力となったり、またその仕返し復讐を考えて実行することにもなったりと、どんどん執着して問題が大きくなっていくのが世間に多くあり、それが家出・離別・離婚となっています。
だから子育てや学校教育でも同じ「アメとムチ」のさじ加減で思うように操っていますし、国際・国家・地域社会・仕事・職場においても同じですから、何処でいてもその裏の不平不満は止まることがありません。
また自分に不平不満が無いときでも人様の不平不満に巻き込まれて影響されますから困ったことにもなります。
例えば自分はやる事をやって満足しているのに、そのことに満足してくれない相手が不特定多数いるということです。
それが我が子であったり、夫や妻、家族親戚、友人知人、先輩後輩や師弟や上司・同僚・部下の組織であったり、国家社会などの全ての関係で起こることなのです。
しかもその不平不満を解決する努力を怠れば相手側の不平不満が更に高まったり執着になるのですから本当に困ったことです。
ところが自分の不平不満で人様を巻き込んでいる事実があっても、その事に関知せずにまったく気付かない人や、更に「私が正しい」と主張して輪をかけたように相手をもっと困らす人も多いのも事実です。
また自分のやり方や生き方に満足していても、それではダメ、もっと頑張りなさい、もっと極めなさい、目的理想を掲げて前進しなさいなどと指図・押し付け・強要されて、それに従わなければ役立たずや落ちこぼれ扱いされることになったり、また言われたようにやっているのにそれが遅いと思われると能無しやのろま呼ばわりされたりして蔑視・軽蔑・疎まれるのですから困ったことです。
その原因は比較競争差別意識にあります。
だから人を見て自分と比較すると、その差が自惚れ慢心や自分を卑下することにもなっています。
そして人様に差し出口を挟んだり押し付け強要することは、自分が正しいと思っている自惚れ・慢心があるからです。
その「私が正しい」を持っていると自己主張したり顕示誇示することにもなりますが、それに従わないものがいると否定反発排除したがりますし、それでも刃向かってくる者がいれば敵対意識で守り闘うことにもなり、更に問題が深刻になっていきます。
ところで神仏・神々が行いの良い人にご褒美を与えるが、行いが悪ければ罰を与えていると思ってそれを信じている人が多いのも確かですが、完全な神であれば良い悪いで判断しませんからアメとムチで使い分けることは一切ありません。
だからアメとムチを使い分ける神を信じることは、その自分もアメとムチを使い分ける偽善者になりたがっていることになります。
すなわち、そのアメとムチの差を使って自分の思い通りに人を操って束縛制限支配したがっているということです。
すなわち良いと悪いのアメとムチは人間を束縛制限支配するために使われているのです。
だから自由も平等も調和も無い人間関係が永遠に続いているのですから、その不平不満も永遠に続くということです。
そして時たまもらえるアメに魅了されていることから、それを欲しがることになり、少しでも多く独り占めしたいことから策略陰謀で人様を陥れたり、手の届かない隅のほうへ追いやったり、人様の持っているものまで奪うことが平気で成されているのです。
・・・そんな無茶苦茶な事をしている事にまったく気付いていないのも私たち個人意識の人間です。
だから、そんな特別な偽善の良いアメを得ようとしなくても、人それぞれに適した(普通に生きるだけの)アメを既に多く与えられ頂いているのですから、それで十分に満足していれば差を付け合う比較競争が原因の不平不満も無くなるのです。
そして余分にあまることがあれば(それを大事に守らないで)それを必要としている人に差し出せば、この先に自分が持っていたものが無くなったときや新たに必要となったものがあったときに(人生長いのですから)(欲を出さないで待っていれば)必然・ご縁のめぐり合わせから、それらを与えられる時の必然・ご縁が向こうからやって来るのです。
要するに、急ぎ慌てて先取りすることは欲ですから、その欲から得たものは人との差を付けるためであり、自分に本当に必要なものではなくて、人との差を付けて得意げに自慢したり自己満足・自己主張・顕示することになりますが、欲を出さずに成り行きで得たものは必然で得たものですから、その得たものを有効に生かし切ることが出来て、それが自分の為にも人の為にも役立つ事になるのです。
自分に都合が良ければご褒美を与え、都合が悪ければ罰(制裁・仕返し)を与える。
その良いと悪いの「アメとムチ」を与える人間関係が私たちの社会生活の中に実在しています。
そんな人間関係の中で自他共に束縛制限支配し合っていることを知っていても、それを表立って言えば摩擦・波乱が起きるから我慢し合うか、心に不平不満を抱いたまま従うことが多いと思っています。
そして時たまご褒美をくれるのを楽しみにすることで何とか波乱が起きずに偽善の平穏無事が続きます。
しかもそれが利口なやり方と世間の常識になっていますから、時たま言い合うことがあっても大方は我慢しあうことになります。
ところが、我慢し合うことが限界に達したときにそれが一気に吹き出て喧嘩・虐待・暴力となったり、またその仕返し復讐を考えて実行することにもなったりと、どんどん執着して問題が大きくなっていくのが世間に多くあり、それが家出・離別・離婚となっています。
だから子育てや学校教育でも同じ「アメとムチ」のさじ加減で思うように操っていますし、国際・国家・地域社会・仕事・職場においても同じですから、何処でいてもその裏の不平不満は止まることがありません。
また自分に不平不満が無いときでも人様の不平不満に巻き込まれて影響されますから困ったことにもなります。
例えば自分はやる事をやって満足しているのに、そのことに満足してくれない相手が不特定多数いるということです。
それが我が子であったり、夫や妻、家族親戚、友人知人、先輩後輩や師弟や上司・同僚・部下の組織であったり、国家社会などの全ての関係で起こることなのです。
しかもその不平不満を解決する努力を怠れば相手側の不平不満が更に高まったり執着になるのですから本当に困ったことです。
ところが自分の不平不満で人様を巻き込んでいる事実があっても、その事に関知せずにまったく気付かない人や、更に「私が正しい」と主張して輪をかけたように相手をもっと困らす人も多いのも事実です。
また自分のやり方や生き方に満足していても、それではダメ、もっと頑張りなさい、もっと極めなさい、目的理想を掲げて前進しなさいなどと指図・押し付け・強要されて、それに従わなければ役立たずや落ちこぼれ扱いされることになったり、また言われたようにやっているのにそれが遅いと思われると能無しやのろま呼ばわりされたりして蔑視・軽蔑・疎まれるのですから困ったことです。
その原因は比較競争差別意識にあります。
だから人を見て自分と比較すると、その差が自惚れ慢心や自分を卑下することにもなっています。
そして人様に差し出口を挟んだり押し付け強要することは、自分が正しいと思っている自惚れ・慢心があるからです。
その「私が正しい」を持っていると自己主張したり顕示誇示することにもなりますが、それに従わないものがいると否定反発排除したがりますし、それでも刃向かってくる者がいれば敵対意識で守り闘うことにもなり、更に問題が深刻になっていきます。
ところで神仏・神々が行いの良い人にご褒美を与えるが、行いが悪ければ罰を与えていると思ってそれを信じている人が多いのも確かですが、完全な神であれば良い悪いで判断しませんからアメとムチで使い分けることは一切ありません。
だからアメとムチを使い分ける神を信じることは、その自分もアメとムチを使い分ける偽善者になりたがっていることになります。
すなわち、そのアメとムチの差を使って自分の思い通りに人を操って束縛制限支配したがっているということです。
すなわち良いと悪いのアメとムチは人間を束縛制限支配するために使われているのです。
だから自由も平等も調和も無い人間関係が永遠に続いているのですから、その不平不満も永遠に続くということです。
そして時たまもらえるアメに魅了されていることから、それを欲しがることになり、少しでも多く独り占めしたいことから策略陰謀で人様を陥れたり、手の届かない隅のほうへ追いやったり、人様の持っているものまで奪うことが平気で成されているのです。
・・・そんな無茶苦茶な事をしている事にまったく気付いていないのも私たち個人意識の人間です。
だから、そんな特別な偽善の良いアメを得ようとしなくても、人それぞれに適した(普通に生きるだけの)アメを既に多く与えられ頂いているのですから、それで十分に満足していれば差を付け合う比較競争が原因の不平不満も無くなるのです。
そして余分にあまることがあれば(それを大事に守らないで)それを必要としている人に差し出せば、この先に自分が持っていたものが無くなったときや新たに必要となったものがあったときに(人生長いのですから)(欲を出さないで待っていれば)必然・ご縁のめぐり合わせから、それらを与えられる時の必然・ご縁が向こうからやって来るのです。
要するに、急ぎ慌てて先取りすることは欲ですから、その欲から得たものは人との差を付けるためであり、自分に本当に必要なものではなくて、人との差を付けて得意げに自慢したり自己満足・自己主張・顕示することになりますが、欲を出さずに成り行きで得たものは必然で得たものですから、その得たものを有効に生かし切ることが出来て、それが自分の為にも人の為にも役立つ事になるのです。