孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

良いと悪いの「アメとムチ」で人間関係を思い道理に操る事実が社会生活の中に実在しています。

2010年11月30日 | Weblog
良いと悪いの「アメとムチ」で人間関係を思い道理に操る事実が社会生活の中に実在しています。

自分に都合が良ければご褒美を与え、都合が悪ければ罰(制裁・仕返し)を与える。
その良いと悪いの「アメとムチ」を与える人間関係が私たちの社会生活の中に実在しています。

そんな人間関係の中で自他共に束縛制限支配し合っていることを知っていても、それを表立って言えば摩擦・波乱が起きるから我慢し合うか、心に不平不満を抱いたまま従うことが多いと思っています。
そして時たまご褒美をくれるのを楽しみにすることで何とか波乱が起きずに偽善の平穏無事が続きます。
しかもそれが利口なやり方と世間の常識になっていますから、時たま言い合うことがあっても大方は我慢しあうことになります。

ところが、我慢し合うことが限界に達したときにそれが一気に吹き出て喧嘩・虐待・暴力となったり、またその仕返し復讐を考えて実行することにもなったりと、どんどん執着して問題が大きくなっていくのが世間に多くあり、それが家出・離別・離婚となっています。
だから子育てや学校教育でも同じ「アメとムチ」のさじ加減で思うように操っていますし、国際・国家・地域社会・仕事・職場においても同じですから、何処でいてもその裏の不平不満は止まることがありません。

また自分に不平不満が無いときでも人様の不平不満に巻き込まれて影響されますから困ったことにもなります。
例えば自分はやる事をやって満足しているのに、そのことに満足してくれない相手が不特定多数いるということです。
それが我が子であったり、夫や妻、家族親戚、友人知人、先輩後輩や師弟や上司・同僚・部下の組織であったり、国家社会などの全ての関係で起こることなのです。
しかもその不平不満を解決する努力を怠れば相手側の不平不満が更に高まったり執着になるのですから本当に困ったことです。
ところが自分の不平不満で人様を巻き込んでいる事実があっても、その事に関知せずにまったく気付かない人や、更に「私が正しい」と主張して輪をかけたように相手をもっと困らす人も多いのも事実です。

また自分のやり方や生き方に満足していても、それではダメ、もっと頑張りなさい、もっと極めなさい、目的理想を掲げて前進しなさいなどと指図・押し付け・強要されて、それに従わなければ役立たずや落ちこぼれ扱いされることになったり、また言われたようにやっているのにそれが遅いと思われると能無しやのろま呼ばわりされたりして蔑視・軽蔑・疎まれるのですから困ったことです。

その原因は比較競争差別意識にあります。
だから人を見て自分と比較すると、その差が自惚れ慢心や自分を卑下することにもなっています。
そして人様に差し出口を挟んだり押し付け強要することは、自分が正しいと思っている自惚れ・慢心があるからです。
その「私が正しい」を持っていると自己主張したり顕示誇示することにもなりますが、それに従わないものがいると否定反発排除したがりますし、それでも刃向かってくる者がいれば敵対意識で守り闘うことにもなり、更に問題が深刻になっていきます。

ところで神仏・神々が行いの良い人にご褒美を与えるが、行いが悪ければ罰を与えていると思ってそれを信じている人が多いのも確かですが、完全な神であれば良い悪いで判断しませんからアメとムチで使い分けることは一切ありません。
だからアメとムチを使い分ける神を信じることは、その自分もアメとムチを使い分ける偽善者になりたがっていることになります。
すなわち、そのアメとムチの差を使って自分の思い通りに人を操って束縛制限支配したがっているということです。

すなわち良いと悪いのアメとムチは人間を束縛制限支配するために使われているのです。
だから自由も平等も調和も無い人間関係が永遠に続いているのですから、その不平不満も永遠に続くということです。
そして時たまもらえるアメに魅了されていることから、それを欲しがることになり、少しでも多く独り占めしたいことから策略陰謀で人様を陥れたり、手の届かない隅のほうへ追いやったり、人様の持っているものまで奪うことが平気で成されているのです。
・・・そんな無茶苦茶な事をしている事にまったく気付いていないのも私たち個人意識の人間です。

だから、そんな特別な偽善の良いアメを得ようとしなくても、人それぞれに適した(普通に生きるだけの)アメを既に多く与えられ頂いているのですから、それで十分に満足していれば差を付け合う比較競争が原因の不平不満も無くなるのです。
そして余分にあまることがあれば(それを大事に守らないで)それを必要としている人に差し出せば、この先に自分が持っていたものが無くなったときや新たに必要となったものがあったときに(人生長いのですから)(欲を出さないで待っていれば)必然・ご縁のめぐり合わせから、それらを与えられる時の必然・ご縁が向こうからやって来るのです。

要するに、急ぎ慌てて先取りすることは欲ですから、その欲から得たものは人との差を付けるためであり、自分に本当に必要なものではなくて、人との差を付けて得意げに自慢したり自己満足・自己主張・顕示することになりますが、欲を出さずに成り行きで得たものは必然で得たものですから、その得たものを有効に生かし切ることが出来て、それが自分の為にも人の為にも役立つ事になるのです。


<すべてはひとつ>不平不満と自己満足の繰り返しと予想だにしなかった真坂の有事とのつながり

2010年11月28日 | Weblog
この世の中の全ては必然で成り立っていますから不必要なものは一切ありません。
まして良い悪いで実在していませんからその差はありません。 姿形や役割使命のお役がそれぞれに違うだけです。
そして人間は肉体・精神体・感情体などを使ってそれら全てを実際に体験・経験・味わい知ることが出来ます。

ところが良い悪いで判断する事を生まれながらにして持っていることから、全てをひとつにしないで善悪・損得・優劣で差別することで生きています。 だから自分の都合で良い事にしたり悪い事にしたりしてその矛盾で生きていますから、その不平不満と自己満足の繰り返しで生きている事になります。

その不平不満が有る限りそれが不安心配や怒りや嫉妬・復讐・仕返し報復や破壊意識につながる事から、その不平不満を持っていることは報復意識や破壊意識を持っていることになります。
だから気に入らなければ暴力沙汰になり報復や破壊につながっています。
また損害賠償を求めたり刑事罰を求めたりするのも元は不平不満が原因にあります。
また大きな不平不満が解消されても、その火種は残っていますから消えることはありません。
だから小さな不平不満だったはずなのに大きくなったり、大きなことが小さくもなるように、不平不満の大も小も元は同じです。

だから子供が親の言う事を聞かなかったり期待を裏切られたときに何らかの罰・制裁・仕返しを考えたり思わず手が出るのもそうです。
また関わる人たちに小さな妬み嫉妬のやきもちから小さな仕返しを考えるのも(実行が無くても)同じです。
だから不平不満を持っていれば、いつの日か集合意識の影響を受けて抗争や戦争に参加するようになって、そこで身内や身近な人が無残な死となれば、そのあだ討ち仕返しの制裁や報復テロにも参加するようになっていくのです。

そんな事に私は絶対にならないと思っている人も多いと思いますが、ちょとしたことがきっかけで感情的・暴力的・破壊的行動になるのが人間ですから、それがきっかけでさらに精神的感情的にエスカレートして行き、それが諸々の犯罪刑事事件・連続殺人や道ずれ自殺にもなっています。

何で欲しがるの、何で万引きをするの、何で人のものを盗むの、そんなことで何で喧嘩になるの、何でそんなことで皆が騒ぎ立てるの、そんなことで何で自殺するの、何と馬鹿げた事で人殺しになるの、何で戦争なんかするの、何で核爆弾を使うの、その何でそんな事になるの?何でそんな馬鹿げたことをするの、と思って否定反発している筈のものが、誰もの心の隙間にちゃんと持っているのですが、その事を知らないだけなのか、または知らない振りをしている偽善者かもしれませんが、確かに持っているのです。

だからこそ確かな事実としてこの世に形結果となって実在で示してくれているのですから真実になります。
ただそれらが自らの中からいつ出てくる事になるのか決まっていないだけに前もって対処しにくいのです。
それが人それぞれに起こる「有事」であり、その有事の大きい小さいに関係なく起こることが予期せぬ出来事となって<何でそんなことで>の思わぬ結果が出ることから、それが「真坂の有事」と言われるものです。

すなわち、高々これくらいの不平不満なら誰でも持っていると安心していると、また大した自力が無いのに何が起きても対処できると自惚れ自信を持っていると、その人の一番の弱点・欠点をつかれて、考えてもいなかったこと・予想だにしていなかった事柄で有事が降り掛かってくるのが「真坂の有事」です。
その多くが衣食住・名誉名声・権威権力や財よりも肉体・精神体・感情体にまつわる有事に対処・対応できなくて、それが原因でノイローゼ・うつ・痴呆症などの精神病を招いたり、自殺に追い込まれたり、長期入院治療介護・闘病生活になったり、生きているが死んでいる廃人同様になっていく可能性があります。

すなわち先程に書いたように、この世に現われ出ている事件・事故・災害・怪我・病気が(その人にとっては)真坂の有事になっているのです。
ただ、自分たちが巻き込まれているか、巻き込まれていないかの違いです。
また、有事に思っているか、思っていないかの違いです。

だから真坂の有事に対処できるだけの(財力・人格などの形よりも)自力・意識力・精神力を高めていれば、有事が有事にならないで(何事が起きても)穏やかな心で過ごすことが出来るのです。
それを教えてくれているのも「完全真理」です。
そして何度も書いているように「不平不満」がそれらの始まりなのですから、それを軽々しく思っていたり無関心でいることは裏を反せば自らを偽り欺いていることであり、またそれが我が身に降りかかる事になると肝に入れていなければ小さな災いが大きな災いに思えてそれが真坂の有事になってしまうのです。

それら全てが自分の「意識」の中で起きていることを自覚することが無ければ、また同じことが止まる事無く続いたりするのです。

物や形ではない「意識の世界」で生きることの予行練習になるのが「完全真理」の実践なのかもしれません。

2010年11月27日 | Weblog
耕栄さん関係者の中で私のことばかり書いていることからうんざりしている人や、ここから離れていった人もいるかと思いますが、そんな人の多くの場合、耕栄さんが講演会で語っていることではないから、瞑想会や懇親会での有様を書いていないから、また耕栄さんが何処でどんな奇跡を成したとか有名人と対談したことや有名メーカの社長と会談したとか3億縁で会社の顧問要請を受けたとか、またUFOや宇宙人(高次元意識体)との接触があったとかの話題性やファバラ効果があった仲間を探し出してまで書かれている事を期待している人だと思います。
・・・すなわち真理・原因ではなくて結果に魅せられた人になります。

私にすれば、耕栄さんだからこそ成せた奇跡話や話題が事実でも、それと同じことが誰にでも出来る事柄で無い特殊・特別な事例であって、また私に出来ないことや私に見えないことや感じられない事を人様から聴いたままに(そのままに)書けば、それを読んだ人が「信じるか否かに」とらえて、信じた人は耕栄さんは凄いと特別な思いを持つようになったり、また信じなかった人はインチキ臭いと不信感を持ってしまう可能性があるからです。

だから耕栄さん自身のことやファバラ効果のことは必要以外あまり書いていません。
だからそれが気に入らない人や耕栄さんが語った話でなく私個人の事例だけに違和感で反発する人もいると思います。
しかし私は耕栄さん信者やファバラ信者を広めるために書いているのではありませんから、信じるか否かではなく、私が実際に見た事実や実践で気付き自覚したことや自らのファバラ体験などを完全真理と照らし合わせてからその事実を書いているのです。
・・・耕栄さんの受け売りではなくて私の中にある事を書いていることから、不完全意識の私だけに不完全なことが書かれている可能性もありますが、もしその不完全に書かれていることを的確に指摘してくれる親切な人・仲間が現れる必然・ご縁を待っていますから遠慮は無用です。

また勘違いされても困りますのでここででも書きますが、私の事例をこと多く書いていますが、その私の生き様を真似しなさいとはいっさい書いていません。
人それぞれにお役目が違いますから、お金や物や能力を元から必然で与えられている人もいますから、それを無理に捨てる必要もありませんし、それらを望まなくてもこれから与えられる人もいると思いますから、ただ欲を出さなければいいことだし、持っているものを失うことに対して守り闘わなければ、必然・ご縁に恵まれながら成るようになっていくと事例を掲げているのですから、そこを勘違いしないで下さい。

私としてはそんなに欲張ったわけでもなく、自分の生き方を捜し求めたわけでもなく、ただ知りたがる意識から摩訶不思議なご縁・必然・お仕組みによって成るようになってきた、そんな私がなんとなく感じるのが・・・この先に訪れる良い悪いで判断しない意識の世界に行けるだけの意識にならなければなりませんが、個人意識に慣れ親しんできた人間だけにそう簡単なことではありません。
そこでその前準備の予行演習を続けていれば、その本番・その時が来たときにそれまでの予行練習が役に立つかもしれませんから可能性があります。
また予行練習だけにその実践が間違っていてもそれに気付けば何度でも修正することが出来ますから、まだまだ未熟であっても「完全真理」の実践をしながらその完成度を高めていくことが出来ますから、当然ながら可能性も高まります。

ところで一昨日yahooの無料映像「GyaO!」ドラマ・映画「ビフォア・サンセット」の一作と二作を見たのですが、列車の中で偶然(必然)出会った主人公の二人が恋人関係になるまでの時間をそのままに延々と語るシーンで構成されているというドラマですから、その延々と続く会話の内容に引き込まれる作品です。
それが思想哲学であったりセックスに関することであったり東洋・西洋の宗教真理だったり完全真理で言われていることが出てきたり、自らの体験を含めての神とは人間とは男女とは何ぞやを(意見が違っていても)互いが穏やかに楽しく語りあっているようでしたから、それこそ共にいることが二人だけの時間・世界となってそれを親しめ味わえるのですから、短い時間の逢瀬であっても至福の時間を共に過ごしたわけですから素晴らしいことに思えました。

やがて未練・後悔を残しながらも別れの時間が来るのですが、また一年後に再開する約束でドラマ・映画終わりましたが、二作目ではその約束した日に事情があって二人が合えなくて、その5年後に必然ご縁でまた再開するのですが、もうすでにお互いの環境が結婚などで変わっていたのですが、それでもその当時の至福の思いがあったことから、その後の味気ない生活の中でも何とか自分を見失わずに生きて来れたように互いが語っていました。

恋焦がれた感情も無く、思いやり気遣い親切心を出し合ったわけでもなく、互いを結びつけるのに波風の立つような出来事があったわけでもなく、互いの家族や友達を交えた楽しい会話や会食パーティがあったわけでもなく、セックスが互いの関係を維持しているわけでもなく、ただ街中を散策している中で(二作目も同じように)互いを紹介しあったり経験を語り合ったり自分の中の意識を語っているうちに恋愛関係になるのですから、互いの意識の波長がマッチしていなければ起こり得ない物語・ドラマですが、それだけに互いの姿形で魅せられるよりも意識に魅せられることが、どんなに遠く離れていても、またどんなに時が経っていても、(時間と距離に関係なく)(顔形をを忘れかけていても)いつまでも互いを意識し合うことになり、そして意識することだけでも懐かしくも可笑しくも楽しくもなり、しかも時たま必然で短い時間でも再会・めぐり合えばまたその時間が楽しいことになるが、しかしそれでも欲張らずにあまり無理もせずに・・・互いが個人意識の人間だけに(欲張ったことで)今までの素晴らしい思いや楽しく意識し合う関係が砂城のように崩れるかもしれないから・・・やはり此れまでのようにご縁必然の成り行き任せに任せるほうが賢明だということを(ドラマで)教えているようでした。

完全真理と摩訶不思議な必然のご縁とそのお仕組みの事実・事例

2010年11月26日 | Weblog
必然・ご縁のお仕組みに任せて与えられるまで待つことを書いていますが、世の中人間関係が不完全だから何もしなくてもいいとは書いていません。
だから生きるためには何かしている訳ですから、その何かしている事に対して良い悪いで判断しなければそれでいいのです。
また良い悪いで判断しては「いけない」とも書いていません、それを前もって意識していると意識的に制限束縛・苦悩・葛藤することになるから、結局は何もしないほうがいいと錯覚勘違いすることになるかもしれません。

だから良い悪いで判断した事に後から気付いて心に届けばそれでいいのです。 
また必然・ご縁のお仕組みが起こることを前もって意識していれば、それは目的・思惑・期待しているので不完全意識になりますが、それが事実起きたとしてもそれは自己満足になりますからその事実を誰彼と問わずに話したがったり、そして強く主張顕示したがります。
だから欲し探し求めていたのではなくて、必然・ご縁のお仕組みがあったことを後から気付き知ることが出来れば、この世の全てが必然でありご縁でありそのお仕組み・宇宙の法則・自然の法則・神が成す愛と言われるもので成り立っている事実を確信する事にもなるのです。

私の事例ですが、有名な明暗流尺八の導師を記録に残しておきたいから業務用ビデオカメラを貸して欲しいと来られたことが縁で(ビデオ関係の)お付き合いが長く続いていたのですが、その人(香川大学助教授)は既に田舎暮らしをしていたのですが、不登校の生徒を受け入れるフリースクールを創設することが決りそうだったことから、近いうちにそこへ移転する予定だったので、その移転先ででも田舎暮らしをするために既にめぼしい物権を見つけていたようですが、そんなコネを持っているのなら内の娘にも物件を探してくださいとお願いしていたことから、数件の物件を紹介されて何度も親切に一緒に見て回りましたが、購入するまでのご縁がありませんでした。
そうしているうちに学校創設が急きょ取りやめになったことから、予め購入予定にしていた物件が私方へ回ってきたのです。

そして後日その物件を共に実地見学する予定日が先方の都合で延期されたのですが、その予定日が大雨だったのに何と見学に行く日は雲ひとつ無い晴天で、しかもシドニーのオリンピック開催日だったことやその聖火が水の中から現れるということもあって(宇宙エネルギーの水を意識していたことと、その水を使って霊魂の意識を修正している霊能者とのご縁があっただけに)、後日仕組まれたことに気付いたわけです。
・・・始めの縁と関係ないことで次の縁につながり、それがまた変なことになった縁から今の田舎暮らしに結びついたのです。

(その必然で仕組まれたご縁だけに)慣れない山間・過疎地暮らしの日常の中で思わぬ転落事故や刃物で大怪我したときでも不安心配・後悔にならずに、また必然・ご縁で何とかなるというような安心感さえ持つ事になりますが、不思議なくらい大事に至らないで済むことが多く、またその場で助け舟のご縁に恵まれなくても自力や知人の他力や業者や医者に金銭を使って何とか解決出来ますから、自分が困ったと思うことよりもこの先どうなっていくことやらと他人事のように思っている自分が滑稽にさえ思えて笑いがこみ上げてくることが何度もあります。

その中の一例ですが、草刈中に目の黒目に細いとげが刺さり下手すると失明になるから地元の眼科では処置できなといわれ徳島大学医学部で処置してもらうことになったのですが、何と家族が住む所でご縁がある眼科医が徳島医大のチームに加わっていたのも不思議な縁でした。

そんな必然・ご縁のお仕組みの事実を知っているだけに、たまたま出会う人やネットが縁で出会うことになれば、必然の「ご縁があったね」と会話することも有るのですが、そのお仕組みを認識・意識できない人には意識の世界のことが通用しませんから、何度もご縁があってもななか打ち解けて会話することもできません。
例えば私から聞きもしないのに秘密を打ち明けるように先方から重度の糖尿病で母が困っているとか、不治の病で息子が困っていることを打ち明けられたりすると、此れは必然のご縁があったと思って奇跡が起こる事実やその各種製品や健康食品や教祖などの奇跡情報を説明しても、それを聞く耳が無ければ何事も起こらずにそのご縁も終わります。

此れまでに宇宙エネルギーの水や完全真理やファバラでご縁があったときは互いに意識し合うことが多いことから、県外で距離が離れていても偶然とか奇遇としか思えないようなことが何度か起こることから、その先方も不思議なことが起こるものだと実感で言うのですが、ところが先方が違和感・不信感を持ったりして波長・歯車が狂いだすとそのご縁も次第に薄れていくのです。
しかしそれでもまたご縁が始まると、以前に増して波長が合って判り合える関係に戻るのですが、それもまた途中で粗縁になる繰り返しをしながら、多くの場合やがて離れていくことになります(此れまでの中で数多く経験済みです)
だから私が執着しないためにも「来るもは拒まず去るものは追わず」の自然体でそのご縁が長く続くことを願うだけになります。
・・・ブログに訪れた人の中で100人中3人が確かな関心を示したりその気・実践になれば上出来と言う標準数値があります。

いつものことながら私が関わる事例であれば書き足りません。
だから、ちょっと手を変え品を変え、それをこと細かく書く、その繰り返しをしていますが・・・そんな私を娘が「お父さんはいつも自分の事しか話さない」だから「聞いて、聞いて」と甘えていると言われるのですが、私が直に味わったことや気づき知った事例・事実や異次元のことですから娘はその事実を知りません、だから私としてはこと細かくありのままにその事実を表現して、それが真理に添ったことであり、私の思い違い・錯覚勘違いや作り話ではないことを説明することで、娘(人様)が今まで知らなかった事実や今まで否定的に思っていたことが事実に思えるきっかけ・気付きになればいいという思いから、「聞いて、聞いて」そして「知って、知って」そして「気付いて、気付いて」という思いから話したり(ブログに書いたり)していることをご理解ください。

見栄や世間体のプライドを捨てるだけの真剣さが無ければ完全真理の実践は難しいようです。

2010年11月24日 | Weblog
私が高校生の頃ですが、市役所の職員で入所以来一度も役職の昇格を望まない人がいて、定年まで使い走りの要職についていた人がいました。
だから世間の目は冷ややかで、退職金目当ての怠け者や税金泥簿のように噂をしていました。
しかしその世間を気にせず、上司・同僚・部下を気にせず、出世を望まずにいる、それだけの信念・勇気・覚悟を持っている事やプライドを捨てたような生き方に感心していた覚えがあります(だから記憶に残っているのです)。

私が過疎地に移り住むことで見栄や世間体やプライドを気にせずに自由に生きることを実践しているのと比べれば、俺も私もの高度成長期の若者が、しかも生まれ育った地元や世間の目や職場の中でも動じる事無く、自らが選び望んだことを押し通したその職員の信念・覚悟・根性は相当なものだったと思いますが、その人が自転車に乗って書類を届けている様子やその顔立ち表情に温和さのある「お人よし」の感がありましたから、信念や根性があってのことではなくて、今で言う不完全・矛盾のある世の中人間関係の中で自分を偽って生きる偽善ではなくて、自分に正直に生きることを望んでいたから世間や体裁体面を気にせずにいられたのだと思います。
・・・その息子さん(介護資格者)とは同年代だからよく知っていますが、(親に似たのか)事を荒立てることも無く、波風を立てたくないような感じの「お人よし」が未だに感じられます。

この事例は俗に言う社会競争に負けた「負け犬」「斜陽族・窓際族」とは違うし、自らが自滅して仕方なくそうなったのとは違って、若いときから自らが選択したからこそ悠々自適の生き方が出来たと思います。
この事例によく似たことを実践している若い夫婦が人気テレビ番組で紹介され、その賛否両論の討論を放映していましたが、反対意見が強い口調で国家存亡に関わることだと理屈を並べ立てて主張するけれども、概ね認めている側からは強く主張する名目が無いだけに個人の自由程度しかありませんでした。

それを見ていた視聴者の判断のなかで(思想操作を受けたに等しいことから)その大多数の集合意識が常識になったり、それが正しいと思った人がその集合意識に洗脳・マインドコントロールされたことにもなります。
だから良い悪いで判断した常識・伝統風習・道徳などが、自己洗脳や集合意識で他者洗脳を受けたことにもなるのです。
・・・だからこそ集合意識に影響されないためにも、自らが実践して真実を知ることが重要になるのです。

また国家だ正義だ、制裁・報復、民主主義・経済資本主義・物質文明や経済発展、または地球環境・自然保護・資源問題・医療問題・老後問題などと大きな話題や刺激性のある話題にばかり注目するし、また特別な偶像崇拝の神や特別な愛を説く宗教には群がりやすいが、すなわち結果・形には高い反応を示すが(テレビ討論のように声高らかに主張するが)、その結果の原因である個人の意識に関する「完全真理」となると概ね理解しても、実践となると後回しの二番煎じ三番煎じになり概ね無関心と同じになります。

すなわち、この世のすべての良いことも悪いことも、その大きい事も小さな事も、全ては個人意識が原因で起きていることなのに、その個人の意識となると無関心でいられるのがこの世なのです。 だからどんなに時代が変わっても自由平等平和の調和の人間界には至らないのです。
まして完全意識を説く完全真理を知っていながら実践は後回しにして、あわよくば立身出世を望み、先々までお金に不自由しないことを前提にし、持っているもを失わないようにしっかり守り、そして自分を言訳正当化して許すことは出来るが人様はなかなか許せない、そんな不完全意識の不平不満と自己満足で生きていることに長く慣れ親しんでいるから、どうしても完全真理の実践が伴わないのです。

だから見栄や世間体のプライドで生きることから離れて(プライドを捨てて)自分らしく生きることを実践して実際に味わってみれば、そのプライドで生きていたことが如何につまらない生き方だったのか学び知る事になるのです。
・・・NHKの番組などで語るホームレスなどの人が言うには・・・今に満足はしていないが、過去のような生き方は二度としたくないと言っているのは本音だと思います。
また私とご縁があった廃品無料回収の若者も似たようなことを言っていましたが・・・とにかく名誉権威権力や常識や伝統風習や道徳を気にしないで(世間の目を気にしないで)生きることをすれば、その常識やで自らを束縛制限していた事に気付くことが出来るのです。 それが実践と言われるものです。

しかしそのプライドを捨てられないのが人間ですから、少なくともこだわり執着しないようにしていれば成るようになって、そこででも執着しなければまた成るようになって、次第にプライドを気にしない生き方に変わっていくことが出来るかもしれません。
しかしそれにも親や兄弟姉妹や家族夫婦・人間関係から、その実践が難しいのも現実にあります。
だから社会から脱落した負け犬的な生き方、独立独歩の自力で生きることになったときに気付く場合があるようです。

だからプライドを捨てる実践をしない限り(実際に味わい知らなければ)学び知った完全真理も「絵に書いた餅」や「張子の虎」と同じ中身の無いことになるかもしれません。
だからこそ完全と不完全を知り尽くし、それを自覚して「小さな」事から気付く<真剣>さと、それを意識し続けるだけの心と時間の余裕が必要にもなります。
だから過去や未来の事に執着しない、すなわちこの世の不完全を気にしないで、自分に似合った生き方・自分を偽らない生き方を実践して、その楽な気持ちで生活していれば(完全真理を意識し続けていれば)学び知ることも多くなると思っています。


人間が持っているその意識の使い方やそのさじ加減で自分の運命・道筋が決るようなものです。

2010年11月23日 | Weblog
毎度私事ばかりで恐縮なのですが・・・
「江戸っ子は宵越しの金を持たぬ」と言われるように、(お金は天下の回りものですから)私は儲けたらそれを使うことをしてきましたので人並みに贅沢してきたつもりでいます。
また金が無ければそれに合わせれば良いというのもありましたから、現在の田舎暮らしが当てはまります。

だから呑気・気まま・気楽な性分だとも言えます。 だから未練執着が無かったとも言えます。
それだけに不平不満も少なかったので人様の不平不満を聞く耳もありませんから、その日常世間的なことに関わることは苦手でした。
ただ家族となれば不機嫌な顔を見たくない思いから、笑顔が戻るように何かと気遣ってはいました。

ところで人間の心・意識にも裏表がありますから、未練執着が無ければ無関心・薄情な面が出てきます。
反対に拘り未練執着があればその熱意が伝わってきますが、いい加減さ・妥協が無いから頑固でしつこいことにもなります。
だから概ねその時の事情・自分の都合に合わせてどちらかが強く出ているようです。

何度も書いていることですが、私の過去に不思議なご縁・必然のお仕組みが数々働いた中にあるのが、(多分ですが)否定反発・不信感を持たない性格や、自分のためでもあるがその裏には必ず人に役立つことになるという自惚れ自信を持っていたことや、必要なお金は欲しいが金儲けに執着していないだけに心にゆとりがあったこと、その心の余裕から「知りたがる」意欲となっていたことから、その意欲・意識が伝わりお仕組みとなって現れたと思っています。
ちなみに金儲けを意識していればその金儲けにまつわるご縁・必然のお仕組みがあり、似た者同士がつながるようになります。

すなわち私欲が先になっていないだけに相手が望んでいることをお手伝いすることが楽しくなります、すると先方も同じ気持ちになって接してくれますから、互いのご縁も長続きすることになります。
それが人の為に役立つことをしている人にご縁があった時なら、その人に対して私が出来ることでお役に立つのなら、その人の為にも、またその人に関わる人達にも必然で喜んでいただけることですから、それがめぐり巡って多くの人に必然で役立つわけですから、それがまた巡り巡って私の方にも必然で仕組まれるという仕組みがあるようです。
・・・その事例を特筆したのが霊能者や過疎地の廃屋や牛の飼育場になります。

そして私の場合は、何かのご縁から目新しいことをやり始めると過去のものを置き去りにしたりそれを捨てる覚悟で集中できます。
すなわち未練無く捨てるから集中できる、またひとつのことに拘るが執着しない、だから一生懸命ではないが懸命にやっている、熱い熱意は出ないが意欲が出る、頑張っているとは思わないがそれなりに努力はしていると言った感じですが、私に欲が強いか少ないか、偽善が強いのか真心が強いのか、自己満足が強いのかそれとも心を満たす満足を味わいたいのか、そのさじ加減の違いにあると私は思っています。

・・・だからそれが原因で成るようになって、それがまた必然のご縁につながり仕組まれて、また成るようになってまた次につながる、だから振り返れば平坦な一本道を歩んできたようになっているのだと思っています。

また私は神仏・霊魂・心霊現象・異次元現象・奇跡などを否定的に思っていたことから、それを説く専門化・宗教・教祖に否定的違和感が強かったのは事実です。
だから我が家のお墓や仏壇の崇拝や神社仏閣や冠婚葬祭の儀式儀礼を尽くすことも必要性を感じていませんでしたから、世間的にはそれが一番苦手でした。

また私は人を敬う気が少ないことから、先祖・両親を(意識することはあっても)尊ぶことはありません、だから息子娘に尊敬される必要も無いし、恩返しの親孝行を求めませんから、息子娘の要介護にならないような生き方を実践していますし(野垂れ死覚悟の生き方)、死後の葬儀法要供養も必要ないとしっかり伝えています。

だから誰かにお世話になったことで感謝することがあっても(お互い様・お陰さまの関係から)、それを恩義・恩人・恩師に思うこともありません。 だから過去にご縁があった宇宙的霊能者や現在の宇宙意識の耕栄さんは「先を行く人」「導くお役の人」と思っていますから、私には特別な思いは有りません。 だから直接接することや電話やメールを交わすことが多かった霊能者の場合でも特別な思いになった事はありませんから、耕栄さんもまた同じです。

だから先人達を冷静さにて客観的にして遠くから静かに事の成り行きを見ている感じです。
そこで一言書きますが、(霊能者や耕栄さんの時でも見てきましたが)それら先人が説く真実を知ることよりも、その先人の神がかり的なことに意識が行っていて、その人的なほうに意識が偏っていれば失望・幻滅したり不信感が邪魔したりして、そこで多くを学びきらないままにまた同じような人的な方向に乗り換える(捜し求めること)その繰り返しをすることにもなりますから、与えられる必然・ご縁のお仕組みが働かなくて、なかなか真実・本物にはめぐり合えそうもありません。

だから人間が持っているその意識の使い方やそのさじ加減で自分の運命・道筋が決るようなものです。
だから人間は意識で動いていて、その意識で自分が生きているのですから、その意識・命の重要性を知ることから始めなければそれ以外の多くが無駄に終わることにもなるのです。

そこで「後悔先に立たず」で、死んでから後悔することになっていたのが此れまでの人間界と霊界の関係でしたが、その逝った先の霊界も様変わり・意識改革していますから、今度も死ねばその霊界(意識次元界)にたどり着けるとは限っていません。
だから生きている最中に少しずつ意識改革するしかありません。

「空腹こそがご馳走になる」それが知識の張子の虎か、実践で味わい知るのか、そこに真実がある。

2010年11月21日 | Weblog
私たちの不完全意識と完全真理の完全意識の両方を学び知ることから新たな生き方が始まることを書いていますが、その完全意識や不完全意識を知識で自覚納得したのと実践で確かに味わい知ったのとでは違いがあります。
それでも全ての始まりは知ることから始まりますから、知ることも重要になります。
ただ知識だけでは実感がありませんから張子の虎と同じで中身がありません。

そこで私が実感で味わったことを判りやすく事例で書くことによって、その事例の実践に取り組みやすいかもしれないと思っていますし、また個人意識丸出しの私の実例だけにその実感も伝わり理解も早まるのではないかとも思っています。

簡単で判りやすい事例に「空腹こそが、ご馳走になる」と書いているように、無が有になることで喜び感謝が味わえます。
だから一度でもいいから「無」になってこそ「有」の有り難さを知る事になるのです。
だから、いま持って有るものを捨てる覚悟が必要だとも書いていますが、それが捨てられないのも現実・事実にあります。

だから「捨てなさい」とは一言も書いていません。 必要性が無くなり不用になったことで要らなくなったから、結果的に捨てた事になるのが自然体になります。 だから無理に捨てるのは己を偽る偽善になりますし、それが納得済みでも(不用になったのではないから)心残りが有るはずですから、それも偽善になります。
だから真理や神を信じての「捨てなさい」は偽善を進言・強要している事になります。

次に、今まで有ったものが無くなるとそれを後悔したり未練が残ったりすれば(無理に捨てたのと同じ)不完全意識ですから、それが不平不満になり、また欲しがったり取り返したがります。 そして得られれば自己満足になり、それが得られなければ更に不平不満が強くなり、その責任を誰かに押し付けることにもなり不調和が出てきます。

また例えば、仕事帰りに喉が渇いて近くの自販機から購入するのと、あと少しで家に帰れば飲めるからと、そこでしばらく辛抱するのと、帰ったら飲めるからとそれを楽しみにして帰るのとはではまた違ってきます。 そして楽しみにしていたことが現実になると同じジュースでもアリガタイの思いが出たり、有ることが喜びになり、得るまで待つことの楽しみ喜びも実感で知ります。
また肉牛飼育場の主人がタバコ好きで手に持っていたら一日40本以上吸っていたのですが、それをやめるために飼育場に居る私からタバコをもらって吸うことにしたら、私が居るときに飼育場に来たらタバコが吸えるからそれが楽しみになったと笑っていました。

その牛の飼育場に通うのもパチンコに行くのも雨の日で無ければ中古の単車を多用します。
それが節約・倹約よりも自然を肌で感じて走ることや、狭い山道の対向車や街中の駐車スペースを気にしなくてもいいこと、そして時たま雨の日や寒さが身にしみることで軽四に乗る有り難さを再認識することが出来るからです。ちなみに軽四のヒーターを使ってもクーラーは使いません。
他にもパンクしたときや故障したときでも、それを悔やむことより普段何気なく使っている単車の有り難さを知るほうに意識がいきます。
だからサビだらけの単車・軽四も喜んで乗っていますし、わざとに車両を使わずに(暇だから)3時間歩くこともありますが、その歩く楽しみも味わうことになっています。

ところで、有能な人でも一気に意識変わりすることはまずありません。
・・・例外として耕栄さんのように大きな病から意識変わりしたり、落雷の影響で意識変わりした人はいるようです。
だから何からでも、またその回数を多く実践していけば、いつの間にやら偽善でも自己満足でも無くなり、また習慣性の慣れからそれが当たり前に思えてきたりして、その内に知識から無理して実践しているのではなくなり、少しずつ本物・真実に近づくようになり、それを味わい知ることにもなっていくのです。
・・・何事も小さなことから始まるのです・・・だから(無理をする)大を成すよりも(取り組みやすい)小を成すことを意識するのです。
また自己満足や不平不満が減れば、当たり前に思っていたようなごく小さなことでも喜び感謝になるようになります。
そうなれば更に不平不満が減り、同時に自己満足することも減りますから、次第に「あるがまま」の生き方になっていきます。

不完全と完全を知っているからこそ「完全真理」「完全意識」の重要性を実感で書いています。

2010年11月19日 | Weblog
良い悪いで判断する不完全意識の者が何を成しても不完全しか生まれません。
だから不完全意識の者が自分の努力で成したことは単なる自己満足で終り心を満たすことにはなりません。
だから直ぐに空しくなってまた満足を得ようと努力しますが、それがうまくいかなければ不平不満を持ち続けることになりますが、それを何とか努力し続けて達成しても、やはり自己満足で終わりますから、その自己満足と不平不満の繰り返しが止まる事無く続きます。

ところが自分が成したことでもないのに望む結果が出ればそれは喜び感謝のアリガタイことになりますが、それでも不完全意識を持っているだけに良いと悪いで判断していますから、例えば、わずかな湧き水が頼りですから、干ばつが続き水不足のときに雨が降れば天の恵みに感謝することにもなりますが、その雨があまりにも長く続けば今度は晴天を望む事になります。

同じく良い悪いで判断している世間の事例のひとつを説明すると、人気テレビ番組でカンボジアに「学校を創ろう」がありましたが、確かに学校があれば勉強の場が出来て喜ばしいことですが、それだけで全てが解決するわけではありません。
だから完全ではない不完全な結果には必ず次の問題が出ています。 更にその問題を何とかして解決してもまた次の問題が出てきます。 だからイタチゴッコの繰り返しが続くだけです。
それでも(司会者が言っていましたが)「無いよりはまし」と思うのも、己の自己満足でありその言い訳正当化に過ぎません。

すなわち良い悪いで判断しているからには何を成しても不完全な結果が続くのです。
それでも「成さないよりはまし」と思うのは自己満足の正当化になりますから、それに懲りずにやり続けても新たな問題とその解決が(長い時間をかけて)何度も繰り返されるだけで、すべてがご苦労な事になるだけです。
それでも現在のように文化文明が進化発展しているのだから無駄ではないと思うのも「今を見て先を見ていない」良いとこ取りの不完全意識・闇意識になります。
だからこの世が「闇に覆われている」と言われているのです。

知ったかぶりで書いている私も不完全意識を持っていますから同類です。
だから必然・ご縁・お仕組みで又とない田舎暮らしや牛のエサやりのバイトに恵まれていますが、それもいつまで続くかは不確かです。
また今は肉体的にも精神的にも感情的にも落ち着いていますが、いつなんどきそれが崩れ去るかはわかりません。
だから喜怒哀楽や生老病死を気にしていないといってもそれが不動不変ではありません。

それでも不完全なこの世人間関係を知っているだけに、その無駄になることを力んでするよりことよりも、少しでも無駄にならない生き方・少しでも無駄な浪費を減らす実践を選んで実践しているところです。

その無駄なエネルギーを使わない、それが物質・燃料エネルギーに限ったことではありません。
現代医科学には書いていないが、生体エネルギー・精神体や感情体エネルギー、時間で動いている(変異・変化している)時間エネルギーがあります。 それらを「宇宙エネルギー・フリーエネルギー」や「命・意識エネルギー」と称したり「宇宙・神・愛・全知全能のエネルギー」とも称しています。

だからエネルギーを無駄に浪費する無理はしません、不平不満・不安心配・怒り・嫉妬・仕返しの未練後悔執着を持たないように、ストレス・気疲れ・思考錯誤・葛藤が無いように、だから喜怒哀楽や生老病死を気にしません、常識や伝統風習道徳を気にしません、趣味嗜好娯楽・刺激を追い求めません、自己主張・顕示や言訳正当化に気をつけています。
だから結果的には意識するのも時間を使うのも完全真理の実践が主体になっています。

また我慢するのではなくて、得られるのを楽しみに待っているのです。
また我慢するのではなくて、楽しみの時間をお遅らせているのです。
また急ぐのではなくて、ゆっくりとした時間を味わっているのです。
また過去や未来に執着しないから、今が大切になるのです。
また孤独を味わい楽しんでいるから、孤独感は無いのです。
また否定反発排除することよりも、事実・真実を知りたがっているのです。

また不平不満が少なければ、求め欲しませんから、自己満足することも少なくなります。
また自己満足が少なければ、求め欲しませんから、不平不満も少なくなります。
だから、ただ生きているような感じなのに、その生きていることに実感があるのです。

それだから(珍品名品)鯛やヒラメで満足しているのではなくて、(安価な)サンマやサバの塩焼きやその缶詰で満足しているのです。
また新品や中古品を買うのにも、いま使える物を使い切ってから買うのです。
また外国産や添加物や品質や賞味期限切れに関係なく、必要なものは飲食出来るのです。
また(無いときがあると)空腹こそが、(有ることが感謝になる)ご馳走になるのです。
また汚いや臭いや暗いや恐ろしいなどを意識しないから、それらを嫌がることもなく平気でいられるのです。

ただハッキリといえるのは「私一人」のお一人様生活だから可能になっています。
だからいつも身近に人様が居れば(共に不完全意識だけに)実践が不可能なことも多いと思います。
だからこそ不完全意識をなくすることができる「完全真理」「完全意識」の重要性を実感で書いているのです。

そして互いが共に居るだけで「至福」を味わえる人間関係を築くことが出来れば、共に平等・自由の調和で暮らせる日が来るのです。

捜し求めることよりも「必然・ご縁」で<与えられるまで待つ>ことで進むべき道が開けます。

2010年11月17日 | Weblog
完全真理の中に<この世に偶然は無く、全てが必然>と言う教えがあります。
だから欲を出してまで求め欲しがらずとも、成り行き任せの自然体で「待つて」いれば(宇宙・神・愛の)必然・ご縁でもって与えられ得られる時が来ると言われているのです。
その与えられものに生きるために必要なものは勿論のこと、役割使命を果たすべき道筋の道先案内もしてくれるのです。

すなわち、自らが捜し求めることは私的な欲がらみになりますから、それが得られたとしても自分が成したという個人意識の不完全な自己満足で終りますから、また同じ思いで次から次と捜し求めては止まることが出来ません、そしてその思いが叶わぬときは不平不満になり、またそれを自分の努力で解決したとしても同じ自己満足になりますから、その不平不満とその自己満足の繰り返しばかり続けているのが我々個人意識の人間なのです。

ところが、まさかの思いもよらないことで(必然・ご縁のお仕組みから)得られたことであれば、それは自分の力ではないだけに心からの喜び感謝のアリガタイことになり、しかもその人にとって必然だからこそ神の愛によって得られたわけですから、自分に最も適したもの・形となります。

その「全て必然」「与えられるまで待つ」の真理を知る以前から自覚していたことにあるのが、「来るものは拒まず、去るものは追わず」が基本にありましたから、新たに知るということも必然・ご縁あって与えられたと思うことで否定反発や不信感を持つことにはならずに、どちらかと言うと、その知った事(与えられたチャンス)をやりたがる意識が強くありました。
だからこの世の中の様々な事を知るチャンスにも恵まれました。
・・・yahoo「ブログ」<がばい婆ちゃんの昭和(戦中・戦後・高度成長)と私>に記載していますが、それが私の過去の生き様ですが、このブログに書いている今の生き様も同じ私ですので、その意識変わりした様を確かめることも出来ます。

また私が宇宙エネルギーから精神世界・想念霊魂の世界に移行しそして完全真理にたどり着いたのも、(元はと言えば)その必然で与えられるまで待つという自然体に近い意識が幸いしたかのように、何度も必然のご縁・めぐり合わせのお仕組みで得てきた事実が多くあります。 だから真理の言葉を受け売りしてその知識だけで書いているのではありません。事実です。

何度も書いているので簡略しますが、クストーのアクアラング潜水が普及しだした初期の頃の潜水仲間が縁で日本初のネットワークビジネス「スワイプ・商法」を経験したことから時を経て健康や環境に効果がある隠れた商品を掘り起こすことにもなり、そのネットビジネに集中していた頃に今度は成分らしい成分が無いのに奇跡のような薬効効果が出る特殊・多機能性健康食品に乗り換えることになり、それが縁で今度は宇宙エネルギーの浄水器に乗り換えることになりましたが、いずれも数多い情報の中でたった3行程度の短い情報でしたが、聞き慣れない言葉に「知りたがる」意識が働いて見逃さずに済みました。

ちなみに次々と乗り換えてステップアップしていくことは、ネットビジネスで既に得られている会員組織のリベート収益を捨ててゼロから始まる事を付け加えておきます。
またその組織会員の中にも私の情報を信じて追従する者もいましたが、長続きはしませんでしたのでその都度顔ぶれが変わりました。

その浄水器が縁で霊界の霊魂を意識改革・修正している超・霊能者が私の所に訪れたご縁から霊魂の世界が実在する事を始めて知ることになり(関心が無かったので知りたくも無かったのですが)、やがて実在を確信するまでに至りましたが、それが縁で意識変わりしてネットビジネスからも縁が切れましたし、娘が縁で完全真理を知ったことからその霊能者との縁も次第に遠のきました。

その全ての経緯の中で私がした事と言えば、私が知った「情報」を記載するだけの縁で次々と人とのつながりが起こりましたから、それ以外の努力はしていませんし、それだけに収益よりも目新しい事に次々と取り組む魅力を味わいながらもそのステップアップ・ブレードアップしていくことに対して、我ながらにその直感・閃き・感性に自信を持つことにもなっているのです。

今の田舎暮らしに関しても、(娘夫婦が望んでいたことを手伝っていたことから)自分の為に捜し求めていたわけでもなく、また捜し求めたからといって望みの叶う都合の良い手頃な廃屋が簡単に見つかり手に入る可能性は絶対的に低く、しかも県外ともなればその近辺で住んでいる親戚などに紹介してもらわなければ(ご縁が無ければ)不可能なことですが、ビデオでご縁あって長く接していた人のお陰から生まれた奇遇・不思議なお仕組みが連続で起きたことからも(物件が気に入っただけではなくて、ここに導かれたというような感覚もあって)確信・自信を持って即座に今の廃屋を購入することにしたのです。

しかも過疎地の廃屋を望んでいた娘が意欲を失ったことから私に回ってきたものですから、休日に遊び半分で家屋を修復しながら寝泊りする回数が多くなり、それがやがて天職とさえ思っていたビデオ撮影・制作を廃業するほどまでになりつつ(多額の投資をしていたのに)いつの間にやら本格的に移り住む様になった経緯があります。
・・・結果的には・・・娘が田舎暮らしと完全真理の道先案内の役目をしたことになります。
そして家屋の改造や周辺整備やヤギや犬やニワトリの放し飼いの柵や小屋つくりなどの雑多で退屈しなかったのですが、そのうちパチンコに行くことが多くなりだした頃、退屈しのぎの犬の散歩中に炭焼きの手伝いのご縁が出来たり、それがご縁で竹材店から竹の伐採を手伝う話を持ちかけられ、それが縁で今度は土木作業の下手間バイトに時々出かけることになりましたが、その土木工事に行った現場の一つに現在雇われている肉牛飼育場がありました。

その土木作業のバイトが1年足らず続いたのですが、腰痛を理由に休んだのがきっかけで縁が切れました。
その縁が切れて半年後に先ほどの肉牛飼育場からアルバイトの話が舞い込んだのですが、そのきっかけは肉牛飼育場の二度目の工事に私が参加していなかったのを見て、それならばということで牛のエサやりのバイトが決った次第です。

しかも午前の2時間と午後の2時間を3日連続して1日休みですから休日も多く、また一日中束縛されないので都合がいいし、退屈している私には頃合いの雇用日数と時間となり、時間給も800円ですから申し分ありません。
そして私が働きに来た事に感謝や喜びの言葉も数多く、文句の一つも聞かずに一年たった今も同じ気持ちで接していただいていますし、時たま最高級の牛肉を頂けるし、私が食べる以上の白米や余剰玄米を家族親戚に配れるほど頂けるのですから、これほどアリガタイご縁は心からの喜び感謝になります。

私は次男なのに家業の米屋を継ぎ、明治牛乳の営業マンが飛び込みで来たのが縁で販売店になり、遊びで始めたビデオが次第に本業になり、その米屋も牛乳もビデオも成り行き任せで営業活動らしいことは殆どしていません。
そしてやり始めたからには思うがままにやりたいようにやって、その始まりがあれば終わる時期が来るのですから、あまり執着せずにそれ相当な呑気さで取り組んでいたのに、(ネットビジネスを含め取り組む意欲はあっても金銭欲が少ないことから)今まで成功があっても失敗なしにやってこれました。
その間にも、先ず最初に釣具店、そして潜水店、焼きたてパン屋、漆工芸店、100均ショップ、宇宙エネルギーグッズ店、等などを意識していたこともありましたが、無理をしないのが基本でしたから、ただ与えられるご縁が無かっただけのことになります。

そして今の過疎地暮らしが板についた暮らしぶりと、見えない世界全般を知ったことや、その中のUFOなどの異次元現象や奇跡現象も数々実在・事実で見てきたことだし、今はこの世で最初で最後となる完全真理があるだけで十分に満足していますから、あとのことはまた必然・ご縁で与えられるまで「待つ」だけになります。

だから皆さんも「環境や健康」に止まらずに、フリー・宇宙エネルギーに止まらずに、宗教を信じることに止まらずに、霊能者や宗教家で止まらずに、教育家・先生・匠で止まらずに、タレント・有名人で止まらずに、政治家・企業家で止まらずに、(それらを捨てる覚悟で)この世で最初で最後となる「完全真理」を学び知り、今までの不完全意識と此れからの完全意識の両方を学び知り、それが自覚・確信・悟り・英知になるように歩んでいくしか他に道はありません。

どうせ何をやっても不完全な世の中人間関係ですから、結果を求めて事を急ぐことでは無いのです。

2010年11月14日 | Weblog
映画やドラマが観客を魅了するのは、長い時間の人生の中の出来事を「良いとこ取り」ばかりして、その時間を先取り短縮して濃厚な箇所だけを演出して、それを短時間に連続で見せることが出来るから面白くなるのです。
だから問題続出でその解決の有様が多いほど刺激的でストーリーが面白くなるのです。

そこで例えば私が田舎暮らしを始める前の過去60年間の良いとこ取りをして見栄え良く演出してドラマ化すれば、(例えばの話ですが)大河ドラマに及ばなくても長編ドラマや連続シリーズものが制作できる程度のネタはありますが、ところが田舎暮らしを始めてからの9年間を良いとこ取りしても数分の紹介的な映像で終わります。
このことは誰にでも言えることですが、その特別な差のある濃厚な刺激性に富んだ人生が良いのか、または何の変哲も無いただ時間がゆっくり流れるだけの人生が良いのか、その選択は人それぞれが自ら行う事であり、他人任せにすることではありません。

そして私の場合は何事も無くごく一般の生活をしていたのですが、今の変化に乏しい田舎暮らしを遊び半分に始めたことがきっかけとなり、それ以前の過去の生活の中にも山あり谷ありの波風の立つ生き方をしていたことに少しずつ気付いていったのと同時に、今の田舎暮らしが次第に本物に変化していっただけのことです。

また宇宙エネルギーや想念霊魂の世界や完全真理のことであっても、いきなり気付き目覚めたわけでもなく、また自らが望んでいたわけでもなく、ただ偶然とは思えない不思議な巡り合わせご縁の必然お仕組みといわれている「きっかけ・チャンス」が何度か続いたことから、またそれらを見逃さずに気付くことが出来たからこその「今がある」のですが、その際にも当然進むべき道の選択に迫られることが何度かあったわけですが、そこでハッキリといえるのが、選択の際に欲がらみの物質金銭の形ではなくて、(不思議な経緯があっただけに)不確かで信じるか否かの選択が必要な見えない世界・精神世界・心や意識といった今まで知らなかったことを知ることが出来る方を選んだわけです。

だから皆さんにも色んな「きっかけ・チャンス」が何度もあったはずです。また気付かずに見逃したのも多いはずです。
またこのブログに来られたことも必然ご縁お仕組みであり、意識を変革する「きっかけ・チャンス」でもあります。
そして見逃しそうなごくわずかな「きっかけ・チャンス」に長文は必要ありません、宇宙エネルギーとは何ぞや、ファバラとは何ぞや、良い悪いで判断しなければどうなるのか、それらの短い単語や言葉に関心を持つことから始まるのです。
そして「知ったかぶり」で止まらないことです、その知ったことすべてが「ひとつ」につながったら、その全てが本物・事実だと言えるようになり、知識ではなくなり自覚悟り英知にもなっていくのです。

また選択の時が来たら、過去の続きを継続・選択するのか、それとも新たに知ったことに乗り出すのか、または荒波の立つ岸壁で居たがるのか、静かな湖面で居たがるのか、また険しい激流に身を置いて近辺を削り取りながら流れるのか、または静かな小川のせせらぎに身を任すのか、また大勢が乗る大船で大海に乗り出すのか、または己一人が小さなボートに乗って身を任せていくのか、またそれら両方を交互に味わいながら過ごすのか、それぞれが選択する事になります。

だから好き勝手に生きてもいいし、それが他人に迷惑の害を及ぼすことになってもお互い様ですから気にしなくてもいいし、事を成したがったり、何かの善を成そうと頑張らなくてもいいし、人のことを気にしないでただ平然と生きているだけでもいいし、それが嫌で人のお節介に乗り出すこともいいし、とにかく何でもありの人間界ですから遠慮は要りません。

ただハッキリと言えるのは、矛盾のあるこの世で何かを成してその結果を人に見せるのが本命の人間の役割使命ではありませんから、未だに人間には見えないが「実在」する<神・愛>や<命・意識>といった見えない高次元界の実在・真実・事実を学び知り自覚悟ることから、人類初の新たなスタートーが始まります。

そこで我先にと「求め欲する」ことよりも、また望むことがあっても、まずはご縁・必然・きっかけ・チャンスを与えられるまで気長に待つことが基本ですから、(長い人生ですから)先を急がず、慌てず騒がずにゆっくりと時間を掛けて、成り行き任せに任せればいいのです。
そして余った余裕の時間を完全真理の理解やその実践に使えば自ずと自己改革・意識改革につながっていくのです。

また与えられるまで待って得たものは必然で与えられたものですから今後の過程に必ず役立ちますが、先走り先取りし欲張り追いかけ得たものは、その無理をして得たあとの満足感・自己満足で止まりますから、次の新たなチャンス・ステップアップに巡り合う事は殆どありません。
しかも不完全意識だけに得たものも同じ不完全ですから、先々に活かして役立つ必然・必要なものとはなりませんから、こだわり執着し苦労してまで結果を求めることではなかったことになります。

長い人生の中で・・・終わり良ければすべて善しのことわざがあるように・・・この世の始まりからあった裏表の矛盾を知り尽くし、それを踏まえて新たに比較競争の無い生き方を選べる自己意識になれば、それまでの過去は無かったことになり心機一転やり直しが出来るかもしれません。
だから元から持っている永遠の命・意識を持つものの終りは次の始まりですから、終わることを惜しんだり悔やんだりして引き伸ばすのではなくて、心穏やかにして「その時」を待つだけです。

しかし「その時」が現世で成るのか、来世になるのか、それは人それぞれの意識に関係するようですが、もしかしたら意識エネルギーのファバラが関与するかもしれませんが、いずれにしても成り行き任せに「その時」を待つのみです。