孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

ようこそ!完全真理の「意識の世界」へ

2011年03月30日 | Weblog
人間は意識で生きていることからして、その意識が互いに通じ合わない・融合しない不完全意識の者同士が住むこの世ですから、当然ながら意識が噛合わないもどかしさ、判り合えない苛立ちジレンマ、また理解されない苛立ちや怒り嫉妬になったり、また意識が噛合わない同士の片方の人を難癖のある人に互いが思い合ったり、そして事があれば責任を押し付け合い・擦り付け合い、そして都合の良いことは引っ張り合いしますから、その不調和・不都合・不平不満が必ず出てきます。

そして度が過ぎると目がきらりと光ったり火花を散らすかのように睨み合い、そしてののしり合い、いがみ合ったりの罵倒・口喧嘩になったり、または無口・無言になったり、無視する態度になったり、軽蔑するそぶりを見せたり、しかもそれらが原因で時には衝動的に手元の物を人に投げつけたりひっくり返したりの破壊行為や人体への暴力沙汰にもなりますから、よほどではない限り(通常なら)妥協心が出てきて折れ合うことになります。

その折れ合い妥協することで何事も無かったかのようにな平常に戻りますが、しかしどうやら心の奥底にしまわれて潜在し見えなくなっただけであって、時と場合によってはそれら積もったうっ憤が蘇り蒸し返されることにもなります。
・・・その事をよくよく考えてみると・・・それまで数多くの喜ぶべき満足や自己満足があったし、お互いが一致協力して成したことも多いのに、何故か多く思い出せずに(それらが役立たないで)、反対に(それほど具体的ではないにしても)不平不満の思いのその積み重ねの方が何故か恨み辛み妬み怨念みたいな遺恨が凝り固まって分厚く残留しているようです。
だから事の発端一つで堪忍袋・妥協忍耐が切れてしまって、此れまでの喜び感謝の満足や自己満足をしていたことや協力・妥協・我慢し会っていたことが無残にも水の泡の如くに消えることにもなっているようです。

すなわち「終わり良ければすべて善し」ではなくて、終り「悪ければ」すべてが無駄に終わるのです。
だから「妥協し合う」(折れ合い我慢し会う)ことが人間として必要に思っていたことが、結局は此れまでの喜び感謝や自己満足までも含めて、それらの積み重ねが何の役にも立たずにして、それらの努力が空しく無駄になって終わるようですから、それが不完全意識同士の人間関係から出る事の結末・結果なのだから、(他がどうであれ)此れからは無理も妥協もしなくてすむ「自分に出来る」ことだけをして素朴に生きていけばいいのです。

また、いま有る物を使い切ること(便利な道具など)、また良いとこ取り・選択しないで全てを味わってみること、すなわち必然であるものを臭い・汚い・暗い、怖い・危ない、不便・不快・不潔等と見た目で嫌って、それらと接し触れ合い味わう事を避けたりして無駄にしないこと、その為には自力を多く使う事になる質素な生き方になれば自ずとそれらと接し触れ合い味わう事になり、やがてそれらの中身・気付いていなかった真実に目覚め、それが大きい自信にもなるのです。

とは言ってもやはり意識が解け合い融合する完全意識になるのが望ましいわけですが、しかしそこまでは到達できないと自覚しているだけに(私の場合)、たとえ住む場所の環境や状況がどうであれ、また生活に貧していても、完全真理やファバラを判り合え語り合える身近な関係の人が一人でも多くなれば(それが重要なだけに)それだけで十分満足し充実した思いを味わえるのです。

ところが完全真理を知っていながらも、その意識のあり方の重要性に未だ気付いていない人が多いようですが、その原因は目の前に見えて分かっていることばかり追いかけて、それだけを意識し過ぎていることにあったり、また生産性・能率・効率性とかで一日の時間を忙しく過ごしているから、そんな余裕も暇も無いのだと思われます。

すなわち完全真理を知識では知っているが、人間は意識で生きている事を実感していないのかもしれません。
そうなると意識のことよりも豊かな生活が望ましいと思う「闇意識」で生きていることになります。

そしてその闇意識が絡み合って世間的な有事が起きているのですが、その闇意識が多く集合することで予想だにしなかった真坂の有事を引き起こすことにもなっています。
しかも有事を招いた原因意識(闇意識)は有事の後にも残り続けていますから、またいつ何時有事が繰り返されるかもしれません。
すなわち「原因」がある限り(この場合は有事ですが)「結果」が出続けるのです。

だから人殺しや戦争が続くのと同じで自然界の気候変動・変化も人間の意識が原因で起きています。
そして温暖化の原因が大気汚染にあると言われますが、その大気汚染も人間の意識によって招いた結果であって、その結果が原因となって温暖化を引き起こしているのですから、やはり大元の原因は人間の意識にあります。
また地殻変動の地震も闇意識のエネルギーが地球に覆いかぶさり溜まり増え続けている為に、(すべてはひとつの一心同体の)地球の命・意識が持ち堪えられずになって、その必然から時折吐き出しているような現象になります。

だから人間の不完全意識、すなわち自分さえ良ければの個人意識(特別意識・差別意識)、すなわち完全な宇宙・神・愛の光意識とは反対(裏側)の「闇意識」を無くしていかない限り、その闇意識が原因となって様々な有事が起きているのです。
だから喧嘩暴力沙汰や人殺し戦争が起こるのも闇意識が原因で起きているのです。
その闇意識と言われるのが「良い悪い」で判断した事による<不平不満>の意識なのです。

だから不平不満が無くなれば人間界が自由平等平和になるし、自然界の意識とも調和する事になって自然災害も起きなくなります。
それを言い換えると、宇宙万物の中で「良い悪い」で判断しているのは人間だけなのです。
だから「良い悪い」で判断しなくなれば宇宙万物と調和した地球人類が誕生することになるのです。

不完全意識から不完全な結果が出る事を判っても、その不完全を成すことから脱却できないのが現実かな?

2011年03月27日 | Weblog
この世で始まりこの世で終わる「完全真理」を深く学び知ることでこの世の全ての不完全な形やその不完全な人間関係を知ることになり、そこで良い悪いで判断する矛盾意識・不完全意識の個人意識・差のある特別意識を悔い改める(変革・改革する)実践意識によって多くの気付きが起こりつつ、やがて執着の無い、無理の無い、質素・素朴な生き方へと進み、此れまでの金銭物質的な形の豊かさを追い求めることも無くなればその分だけ自力・自信になり、それがまた精神力・意識力の生きる力(生命力)となり、その分だけ自ずと肉体や感情体や精神体を酷使することも無くなり、慌てず騒がず欲張らずのお蔭さまお互い様の調和ある人間関係へと進んでいくことが可能になりますが、しかし今の不完全意識の不平不満とその自己満足の繰り返しのままに止まっていれば、その先に進む事無く此れまでの全てが無駄に終り、完全な宇宙・神・愛を知らないままの不完全意識のままに人間を終えることになります。

ところが概ね、その不完全な人間関係を知ったとしても大方はその知識だけで終わって実践が伴いません。
何故なら見栄や世間体や「しがらみ」を気にしているからです。
だから不完全を知ったところでその不完全な人間関係から離れられないから、単なる知識だけで終わるのです。

すなわち自分一人なら実践できそうでも、身近な人達を巻き込む事を(実践する以前から)思い考え気にしているのです。
または実践を心掛けていても、その実践にクレームが付くことから、それが気になるのです。
そして自分に自信・自力が無いことから、それがどうやら無理に思えてくるのです。

それで実践できないことが(自信・自力の無い)自分の性ではなくして人様の性にして「責任転換」をしたがるのです。
例えば「自分に都合が悪いことから実践していないのに」それを隠して、如何にも身近な人の為に気遣ったように自分を偽り装い、その気遣いが原因で実践がなかなか出来ていないとして自分を言い訳・正当化したがるのです。
すなわち自分に都合が良い今の人間関係を見せ掛けで守ることで「自分」を守ろうとしているのですから真の実践にはなりません。

だから不完全意識からは不完全しか生まれない事を理解できても、それを実践したら自分の都合が悪くなることが多いことから、その実践が疎かになるばかりか、不完全意識から不完全な事を成すその事実・現実から逃げ出せないでいるのです。
だから知識だけを溜め込んで知ったかぶりをして、そして仲間が集まるところや講演会などにへ出向くその時だけの実践行動を見せることがあっても、日々の生活の中での実践意識によって気付き悟る、その実のある実感で味わえるような実践が乏しいようです。

ところで、自分の意識のことは自分で何とかすることが出来ても人様の意識のことはどうすることも出来ません、それが事実です。
だから身近な恋人や夫婦であれ、両親家族・血縁関係であれ、不完全な人間がこれまた不完全な人達を思い気遣い優しさを示したところで、その結果も不完全で良いこともあるが悪いこともある、またどっちにでもころころ様変わりする、あいまいで、いい加減な矛盾のある、一時の結果しか出てきません。 

しかも自分の事なのに、その自分の事さえも個人意識が邪魔をして実践がままなりません。
それなのに人様、例えそれが身近な我が子や妻や夫や家族両親の血縁関係や親密な関係であっても、それらの人達を自分の意思・行動表現の形で何とかしようと思い考え試みることは自欲自我であり、宇宙・神をも超えた自惚れ慢心になります。

だから人様のことは宇宙・神に任すしかありません、それが真実です。
それなのに人様を何とかしたがるのは(先程のように)自分の都合を思い考えての欲得・偽善でしかありません。
それを正義ぶってみたり、偉そうにしたり、また優しさ思いやりに見せかけても、それは嘘偽りの偽善でしかありません。

だから何度も書いているように不完全からは同じ不完全な結果しか生まれないのだから、その不完全な事を思い考え成すことよりも、無理の無い生き方に変えて、不平不満や自己満足の繰り返しの無い、すなわち良い悪いで考える必要も無いほどの自己縮小した生き方、質素・素朴な生き方に変われば、自ずと余計な問題や面倒が起こることも無く、まして無理も無駄も無い平坦な穏やかな生き方になっていくのです。

嘘偽りも無く、信じるか否かも無い、矛盾も妥協も無い「完全真理」を深く学び知ることが先決です。

2011年03月25日 | Weblog
人間は意識で生きていますから、その意識の中から欲が消えれば、今あるものや今もっているものを十分に味わう事になります。
そして欲が無くなれば、いま有るものを失う事を恐れて守り戦う意識にもなりません。
また欲が無ければ我先に競い合うことも人のものを奪うこともありません。

しかしその欲が「自分さえ良ければ」の個人意識となり、お蔭さまやお互いさまの調和で生きる事を邪魔しています。
すなわち自分さえ良ければの私欲が自由・平等・調和の平和・平穏な生き方を自他共に邪魔しているのですが、それに気付いた人がその欲で生きる事を思い止まり、そしてその欲を脱ぎ捨てた生き方に変われば(実践すれば)、その個人意識やその形であるこの世の裏表・矛盾を実感でもって知る事になり、そこで欲で生きることよりも欲の無い生き方のほうが人生楽チンである事を悟ります。

すなわち欲で生きていることは無理をしていることであり、その無理をして成したことが自己満足であり、それだけにいつまでも続かない不確かなものであって、いつしか水の泡の如くに消えることから、(失いたくない強い思いから)更に無理を重ね続けるが、どんなに苦労を重ね続けても人間には限界がありますから、それらを一生懸命守り戦い維持していても、やがて失い消える事になります。

それが不完全意識のこの世であり、その不完全な人間関係で築き上げている形(個人の思い)ですから、その形あるものは(個人の思いは)変化し続けながらやがて消え失せる仕組み(定め)になっています。
それが世間で言う(個人・職場・地域社会・国家関係の)裏切りや心変わりや偽善関係だったりするわけです。
だから不完全な余計な事を無理して無駄に終わるのです。

だからせめて、その余計な事を無理にしてそれが無駄に終わる事を少なくすることが出来る質素・素朴な生き方に方向転換すれば、少しでも楽チンに生きることが出来て、しかも今まであまり意識していなかったことや宇宙・神・万物の完全な愛を意識することになったりして、それらを実感でもって味わい触れ合い接することが出来るようにもなるのです。

そして不完全意識の人間関係の中であっても、お蔭さまやお互いさまを意識した調和の生き方に変わりますから、自分を偽らず、人を欺かず、否定反発排除の敵対意識や不信感を持たずに、来る者は拒まず去る者は追わずの成り行き任せの自然体でもって(無理の無い)優しさ思いやりのある、真面目で素直な生き方になり、平坦で波風の立たない穏やかな心で生きることになり、そして質素・素朴な生き方だけに金銭物質や人様の他力に依存することが無くり、その分だけ自力を多く使うことにもなり、それが生きる自信にもなり、その自力を多く使うことからも充実した生き方に思える様になることからして過不足の無い安定した生活になっていきます。

ところが世間では、寝る間を惜しんで頑張りなさい、目的・理想・目標に向かってもっと努力しなさい、また苦労は買ってでもしなさい、怠けていると落伍者や負け犬になりますよと、はやし立てられ急き立てられながら、実績や生産性を高めることが善しとされていますから、完全真理を深く理解しての精神力・意識力・実践力・自力・自信が伴わない限り、不完全な形やその人間関係に束縛制限されて、質素・素朴を思い考えながらも実践できないままに終わることになります。

だから毎度のことのように書いていますが、嘘偽りも無く、信じるか否かも無い、矛盾も妥協も無い、完全な「完全真理」をより深く学び知ることが先決になるのです。
そして大元の宇宙・神が創造した今の宇宙や地球や人間や万物が絶え間なく変化・進化し続けているのと同じように、今の地球で完全意識と不完全意識の裏表・矛盾を学び知った宇宙初の人間の命・意識が、これまた同じように、新たに変化・進化した地球で同じように変化・進化を遂げることになるのです。
それを判りやすく例えれば、形ある「氷」が溶けて<水>になるような変化・進化が起こり、更に新たな地球でその「水」が<空気>のように変化・進化することになるわけです。

原因あっての結果ですから、<今は>己の意識が原因で仕組まれ起きた必然のご縁による結果でもあります。

2011年03月23日 | Weblog
元はひとつの宇宙・神と言われるものから仕組まれて地球人類・万物が創造されましたから、すべては「ひとつ」です。
そして宇宙・神が命・意識を持っていたからこそ万物が創造されたのですから、その地球人類万物も同じ命・意識を持っています。

また宇宙・地球・人類・万物が宇宙・神の仕組みで創造されたことは、創造する必要・必然があったからです。
だから原因が有ったから必然で結果が出ているのです。
その原因が「命・意識」であって、宇宙万物の姿形はその結果になります。

その原因である宇宙の仕組みとその必然から結果が出ていることからして、お仕組みの必然のご縁から結果・事実が出ています。
すなわち「今」があるのは宇宙の仕組みとその必然とそのご縁によってすべてがつながって生まれた結果です。
だから「すべてはひとつ」であり、そのすべてに「命・意識」が有ります。

その「今」が結果であって、その原因は意識にあり、その意識は宇宙万物のすべての意識につながり融合しあっていることから、その意識が原因となってすべての意識と絡み合い仕組まれながら必然でもってご縁が生まれ、そのご縁でつながり結び合っているのが今の形(姿形・状況・環境・境遇やの)見える結果です。
だから今の私があるのも私の意識に原因が有り、そのお仕組みの必然のご縁による結果ですから、皆さんの今も同じことが言えます。

またその必然・ご縁のお仕組みの結果は事実・完全ですから良い悪いはありません。
しかし人間には良い悪いで判断することから、その完全な事実・結果が良くも悪くも思うことが出来ます。
だから自分の意識が原因で起きた結果に満足することも不平不満に思うことも出来ます。。

だから金銭物質の豊かさや名誉肩書きを得ることを思い意識していれば、その結果に満足したり不平不満に思うことにもなります。
また苦楽を味わうことがいやになって、心静かに生きる事を意識していればその意識が原因となって必然ご縁のお仕組みで成る様になっていきますが、それが望んでいた結果なら良い事に思えますが、望んでいた思いと違った悪い結果が出れば当然悪い事に思うことになります。

すなわち意識・思いが原因でありその結果ですから、そのすべては(結果も原因も)「意識」にあるのです。
だから人間は「意識で生きている」と言われるわけです。

また思いもよらない結果が出たときに偶然だとか奇跡だと言われることがありますが、その思いもしていなかった結果が出るのもその人の意識やその潜在意識が原因が絡まって成る様になったのです。
ちなみに耕栄さんの意識エネルギー・ファバラエネルギーをどれだけ受け入れることが出来るか否かも、その人の意識次第です。

また現れた結果は意識が原因の結果・事実でしかありませんが、それを偶然だとか奇跡に「思った」だけのことになります。
また同じく摩訶不思議に思えば摩訶不思議になりますが、その結果が事実だと思えば摩訶不思議ではなく自分の中では事実になりますが、その事実に思った事を事実・形として人様に見せる事は出来ません。

そして「袖触れ合うのも多少の縁」と言われるように、それも必然のご縁で仕組まれた事として受け入れることができれば、来る者は拒まずでそのご縁が活かされることにもなります。
また事故や人災や自然災害で成る様になったのもその人の意識が原因ですから、偶然とか奇跡とか運命だったと思うことではなくて、その結果は仕組まれた必然ご縁の結果ですから、その原因にそれらに関わる人の「意識」が絡んでいるのです。
だから結果がどうであれ、その結果は己の意識が原因で起きた事と「気付き」知るために仕組まれた必然のご縁になります。
・・・すなわち結果を見て原因を知ることも出来るのです。

だから事故や人災に遭遇したり病を患うことになるのも、すべて己の意識が原因で起きている結果・事実ですから、それを良い悪いで判断することよりも、その結果を見て原因を知るのが道理・真理ですから、その原因意識に気付き悔い改める事と合わせて、その結果をも十分に味わい知ることからして、此れまで味わったことの無い感触を実感で知ることにでもなれば、それら結果が自分にとって必然・必要で起きたことと気付く事になったり、また新たな気付き悟りとなって此れまでと違った・変化した意識になることでしょう。

だから何度も書いているように・・・食って寝て糞をしながら「生きて」いるからこそ、その結果が出てそれを味わい知る事になるのですから、決して無駄に生きているのではありません。
そして日々忙しくしていればそれに意識が縛られていますから、その事だけで意識が満杯になり、しかも良い悪いの結果を気にして執着していれば、その結果から原因意識を学び知り気付くことはまず無理でしょう。
だからこそ質素・素朴が言われているのです。

私の生活「食って寝て糞をする」最新版です。

2011年03月21日 | Weblog
収入は国民年金の月5万円弱で7年間ほど生活してきましたが、2年前から肉牛生産者のアルバイトで7万円から8万円稼いでいますが、それまで月5万円の生活でしたからその分だけ金持ち気分になり生活に大きな余裕が出てきました。
だから今まで中古の軽四バン(四輪駆動)15万円を6年間乗っていましたが近い内に同額程度の中古車に乗り換える予定です。

朝食はパンと牛乳、昼は前日の夜の残り物又は溶き卵入りのうどん、夜は仕事帰りにスーパーにより6時半から半額の弁当やおかずを買って食べています。 また牛乳・パン・豆乳・野菜ジュース・フルーツジュース・ヨーグルト・その他飲料も殆どが賞味期限切れの半額や値引きを狙って買っています。 また月に2度程度は半額の魚寿司を買うこともあります。 またお米と牛肉はバイト先から無料で支給されているので購入しません。

概ね3日間仕事をして次の1日が休みですから、週休二日制で牛舎に出向き午前のエサやりを一時間半程度で済ませて帰り、次のエサやりの午後4時が来るまで生活に関わる雑用とブログ書き込み、しかし雨や雪の時は一円パチンコで時間つぶしに遊んでいます。
・・・最近になって体調を悪くした雇用主が「ファバラ」アミノGOを呑み始めましたが多分長続きはしないと思います。

晩の食事が終わると「ギャオ」の無料映画・ドラマを観ながら薪で風呂焚きし、そして入浴しながらその風呂場で廃品だった二層式の洗濯機で洗濯し、それを室内干しすれば後は寝るだけです。
その洗濯物が寒波(最大-10度)で凍り付いて何日も乾燥しなかったことや水パイプの凍結で風呂や洗濯や炊事が長期にわたって困ったのも今年が初めてでした。
・・・おかげで9年間ほぼ毎日のようにお風呂に入っていたのに三日間入らなくても平気になりました。

その地元のおばさん達でも此れまで経験したことが無い長期にわたる寒波・凍結のために、暖め直しが出来ればいい程度の九千円の電子レンジをネットで購入したので、10年目にしてはじめて電子レンジを活用する事になりました。

小便は所かまわずに立小便、そして大便はポリバケツに二本の竹を渡して座板代わりに座り込み、用を足してからポリバケツのフタをすれば匂いを閉じ込めることが出来ますし、糞の溜まったそのバケツを持って行って荒地に埋めればこれまた匂いを閉じ込められますから、田舎便所の匂いはしていません。

また一年前まで暇つぶしにニワトリを飼っていましたが、外敵に襲われ今は生き残った二羽(卵を産まない)がいます。
また9年間近く雑草対策に放し飼いしていた二頭のヤギもこの冬の寒波が原因で死にました。
・・・その死に場所に大きな穴を掘って埋めました。
そして後を振り返れば、余計なこと、無駄なこと、(面倒の割りに生産性の少ない)どうでもいいようなことにあれこれと(主に脱走対策と外敵対策に)心配し気遣っていたこと(暇つぶしにはなったが)、またそのために支出した相当な金銭や労力の無駄を思えば、もう二度と馬鹿げたことの同じ過ちを繰り返したくないという思いがあります。

前置きが長くなりましたが・・・食って寝て糞をする当たり前のことだけでは不足に思うのならば9年間も続きません。
すなわち簡単便利で快適で贅沢でなくても(生きていることに)満足していられるから続いているのです。
それが見栄や世間体や「しがらみ」から開放された自由さにあると何度も書いていますが、それだけではありません。

過不足も無くただ生きているだけで満足できるようになったのも、無理も余計な無駄も無い「質素・素朴」を実感で味わっているからであり、しかも先々の不安心配恐れを思わなくなったのも、成り行き任せに生きていて怪我や事故や病気や要介護老人や死に目に会う事になっても、それにも悪いと良いがあるのだから、その悪い事をあまり気にしないで良い事のほうばかりに意識を向けていたら、その困ったことが困った事に思えなくなり(忘れて)、他のことで都合の良い部分が(裏返って)意識に思い浮かんでくるのです。
・・・我が息子の至らなさにあれこれ悩むより、元気に生きている親孝行さを喜んでいれば何の問題も無くなります。

すなわち自分の意識次第で「どうにでも」思いが変わることならば、自力・自信・精神力でもって悪い面を気にせずに(執着せずに)済ませて他の良い面に気づいて、それを意識していればすべて善しになるのです。
その良い面が先程に書いた「生きている」からこそ人体・五感で味わえる事柄になります。
だから食って寝て糞をして「生きて」さえいれば全てが善しに思えるその意識力であり、その素直さ謙虚さ簡素さ質素さ素朴さの精神力であり、生きていることに有難い感謝の心が持てることになればいいのですが、しかしまだまだ未熟なところが私にあります。

また見栄や世間体やしがらみから離れた過疎地で静かに暮らすことから、此れまで意識する事を怠っていたり意識する事をすっかり忘れていた事柄を意識する様になりましたが、その中にあるのが昭和戦後の物不足や学校教育の不足時代とその後の高度経済発展や現在の物豊かで高度な教育が行き届いていることなどの新旧の良いとこも悪とこも味わっただけに、物豊かで高度な暮らしよりも今の過疎地の生活や一昔前の質素・素朴な生活の中に人間性を豊かにする要因が多く潜んでいることにも気付いたわけです。

そして前回に書いたように「生きて」いるだけに人体・五感で味わえる事が数多くあり、その多くが自然界・万物にあるが、しかし人間同士で味わえるのは不完全意識が原因の不完全などうでもいいようなことが多くなります。

詳しいことは此れまで何度も書いていますので省略しますが、結果の形や物があまり必要無くなるとその分だけ重荷が減って自由が増え、そして心身ともに軽やかなゆとりが生まれ、そしてちょっとしたきっかけから今まで意識していなかったことに意識が通じたりして、その気付きや必然のご縁で新たなことに巡り会えたりしながら更に気付きが増え続けることで、結果的には物質金銭を求めたり実績足跡を残すことを意識しなくなり、そんな余計な事や無駄な事に無理することもなくなり、そして宇宙・神・万物の愛で生かされ生きている事を十分に味わえる豊かな心にもなっていくのです。

だから(私の場合ですが)その分だけ不平不満やその自己満足も減っているのです。
だから、必要とするものが次第に無くなりお金に困らなくなるのです。
だから、尚更に無理をしなくなり、その無理が無ければ無駄なことも無くなります。
だから、尚更に暇で退屈する時間が多くなっているのが今の私が一番気にしていることであり、またそれ以外にさほど困ったことが無いだけに、尚更余計にどうすることも無いのです。
だから、この先の必然ご縁を待っているだけですが、その中にブログを書く事に意識を使っている時間が多くなっているのです。
だから、ご意見やご感想を書き込んでください、それをヒントにしてお色直しをして書き直します。


名作絵画の「落ち穂拾い」が貧しさを描写しているのか、それとも穏やかな至福を描写しているのでしょうか

2011年03月19日 | Weblog
有名画家の名作絵画と言われる「落ち穂拾い」の描写を観て、貧困生活が描かれていると思う人がいたり、穏やかな生活・至福が描かれていると思う人がいると思いますが、その「落ち穂拾い」をしているご婦人が不幸なのか幸せなのかを知るすべはありませんが、地主・耕作者が刈り取った跡の残り物を拾い集めていることは(描写を見れば)事実だと判ります。
すなわち耕作地主が「良いとこ取り」した後に、これまた残った物を「良いとこ取り」しているご婦人が描写されているのです。

それに似たような私の事例ですが、知り合いの山林の持ち主が植林している杉を間伐して、その間伐材を製紙工場のチップ材として出荷した跡に、未回収のままに放置されたのや大きな端切れが置き去りにされていたので、それらを(許可を得て)肩に担いで運んで持ち帰り、そして風呂焚き用に薪割りしています。
すなわち山林の持ち主が良いとこ取りした後に来て、私も残された木材の良いとこ取りをしているわけですが、この事例が昭和の戦後であれば、運搬に邪魔な切り落とした太い枝を燃料にするために拾い集める人が良いとこ取りで登場する事になります。

ところが金銭物質に恵まれた今日では、運搬に適さない山林や小規模な伐採ではチップ材にもならずに切り倒されたままに放置されて朽ち果てているのが現状です。
それが昭和の物不足のときであれば多くが無駄なく活用されることになり、また植林された山林が荒れ果てることもなくなりますから、悪いと思われていた物不足の時代であっても、使える物を粗末・無駄にしない良い面もあったのです。

また絵画の落ち穂拾いのように、それを必要とする人が拾い集めて持ち帰っているのが事実であって、少ないながらも食べ物にありつけた喜び感謝の至福の思いで拾い集めていると、私は思います。
だから深夜の街中で空き缶拾いをしている人や賞味期限切れの食品や残飯を食べている人の場合でも同じことが言えますが、その事実を見た人が自分勝手な思いで貧困者に思えば、(その人が隠れた大地主の資産家であっても)それが貧困者に見えるだけのことであり、またそれらの人の意識の中に拾い集めることや食べ物を得ていることに至福の思いがあっても、それらを見た人の意識次第で不幸にも思え見えるということです。

またご近所のおばさんから聞いた話ですが、私の住む家の元の持ち主は小学校教育を受けていなくて、数字や文字が読めないだけに仕事といえば臨時の下働きが時たまあるだけでしたから、何かと収入に事欠いていたのは事実のようでしたが、夏場の昼の弁当がすっぱくなって捨てようとしていた作業員の弁当をもらって、近くの谷川の水でそのご飯を洗い直して喜んで食べていたという話ですが、空腹だったので(腐りかけた弁当であっても)食べ物にありつけた喜びをその人は味わっていたのかも知れません。

また仕事が無いときは山菜やマツタケ採りや自生している天然の山芋掘りをして(その道の名人だったそうです)、それをご近所や遠くの知り合いに山道を歩いて届け、その返礼のお酒を頂いて飲むことが一番の楽しみだったそうです。
だから貧乏が悪いことばかりではなくて、貧乏だからこそ味わえる喜び・至福もあるということです。
それが必要な物が不足していてその無い物を何とかして得られたときの喜び感謝であったり、また「食べ」られる喜び感謝であったり、安心して「寝られる」ことであったり、そして「健康」でさえあれば文句なしの生活になるのです。

また私のように単身生活になれば家族や妻のありがたさも判るが、その家族や妻が居ないことの気楽さも味わえるのです。
また快適便利さのありがたさも知るが、自力やその手間や暇な時間を使って事を成すその喜びも味わえるのです。
また過去に有った物が無くなると不便に思いそのありがさも判るが、それが無ければ無い様な生活の中にもまた別な便利さや快適さが味わえるのも事実です。

似たような事を書き足せば切がありませんが、(時と場合によっては)安心安全が災害危険と隣り合わせになっていること、また便利が多ければそれだけ不便になることが多くなるように(特に災害時)、知って良かったり悪かったり知らなくて良かったり悪かったりもするように、長所が欠点にもなり欠点が長所にもなるように、良いことが悪いことにも悪いことが良いことにもなるように、楽もあれば苦もあるように、裏があれば表もあるように、それら矛盾を深く味わい知ることで分かり見えてくるものがあります。
それが山あり谷あり坂あり壁あり曲がりくねった先の見えない(変化に富んだ刺激的な)道を歩むことよりも、見通しのよい平坦な一本道を安心安全に歩むことが(闇の中を歩くことよりも光がさす道を歩むことが)人間に最も必要なことだと判るのです。

・・・そこで矛盾を知り尽くしたことから・・・
良い悪いで判断することがあっても、その良い悪いで判断したことが「気に」ならなくなるのです。
だから良い悪いで判断することが「どうでもいい」ことになるのです。
すなわち良い悪いで判断することがあっても、それに執着することもなくなり、自分の中で良い悪いで判断したことが可笑しくなって、そんな自分を自分で「笑い」飛ばして終わることが出来るようになるのです。

また先に書いたように、成る様になったら、その成る様になった中にも良いと悪いが同居していることが判っただけに、いちいち良い悪いで判断する必要性すら薄れかけているのです。
また不完全な矛盾のあるこの世の全てが「どうでもいい」ことに思えるようになり、あとは自分の意識次第でどうにでも変わる事を実感でもって気付いているのです。

だから「人間は意識で生きている」ことを学び知ったことになるのです。
だからこそ人間の<命・意識>を完全に説く「完全真理」の重要性をブログに書いているのです。

東北地方の地震・津波の<水による洗礼>と<原因がある限りその結果も出続ける>その真実を知る

2011年03月17日 | Weblog
原因があるから結果が出ていることからして、現れ出た結果のことよりもその原因である原因意識に私の意識が向きますから、日々のニュースや話題を自分から知りたがることはまずありませんので、今回の東北地方の大災害も牛のエサやりに行った時に雇用主から話を聞いてはじめて知ったのです。

そして雇用主が災害の規模をあれこれと話してくれている合間に私が思うことや言う事といえば・・・約15年前から言われていたことですが(予言ではなくて原因があるから必ず起こる事実として言われています)・・・人間の悪想念(今で言う)不完全意識の集合意識が原因で地震や台風などの自然災害が起きやすくなっていて、特に水が原因の干ばつや洪水や水没などの<水による洗礼>が大きく現れると言うような、一般的ではない内容を思い出したり人に話すことになります。

すなわち、世間のように結果を気にすることではなくて<原因がある限りその結果も出続ける事実>を話すことになるわけです。
また、すべての原因は人間の意識にありますから、いま騒がれている環境問題などの見えている結果を原因とは見ていません。
だから、あらゆる有事(大災害や大事故や大事件に限りません)で世間が騒ぐたびに、何で結果ばかり気にして執着するのよ、と言いたくなるのが私なのです。

また悪い結果が多い中にも、所々で良い結果と思える形・結果が出ているのも事実にあるのが不完全なこの世です。
その良い結果・形として思えるのが・・・(普段は自分さえ良ければの個人意識丸出しで暮らしているのに)・・・何か事が起きたときに(限り)時たま所々で「助け合う」良い人間関係が出てくることです。

しかしその助け合う関係が長続きしませんから、不完全で「見せ掛け」の偽善になります。
すなわち、人助けしている自分の良いところを人に見せびらかしていたり、そんな良いことをしている自分に自己満足していたり、また今の自分と人様を見比べ(比較して)哀れ気の毒に思っているのであれば、それは差別・特別意識・不完全意識の偽善になります。

またそれら有事に遭遇した被害者を見て私が気の毒に思うのは、被災・被害の形のことではなくて、被災・被害に遭遇した事に執着していること、不信感・不安心配恐れを持ち続けていること、救援救済援助を求め期待していること、選り好みしたり自力を多く使わずにして不便だ不潔だ嫌いだ苦労していると言いたがる、また何が無いの何が欲しいなどの勝手気ままな不平不満を持っていることです。
また被災・被害者が「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」や「雨やんで傘を忘れる」ことにならないように、また現れた結果・被害のことを気にすることよりも(この先の方向性が決る)「人間は意識で生きている」こと、すなわち<すべての原因が「意識」にある>ことを知る「チャンス」にして欲しいというような思いだけです。

そして良い悪い(善悪・優劣・損得)を超えた「お蔭さま」と「お互い様」の関係・協調・調和を知ることであり、最も大切なことが「いま生きている」ことであり、何とか食事にありつけていることや何とか寝ることが出来ていることであったり、また怪我や病気や今にも死にかけていても、今生きている事を十分に味わえるだけの心の余裕、すなわち不平不満や自己満足に執着していない、穏やかな平常心で生きていることが至福であることに気付くことです。

だから被災した事に「不平不満」不足が無ければ不幸中の幸いにして「生きている」ことが有り難いことになり、人様のお世話によって何かと助かっていることに感謝の心を表すことも出来るし、また生きているからこそ多くの人と会話が出来るし、見たいものや触りたいものや匂い味わいたいものなどを体感・五感でもって可能ですし、また人様の人情・愛情の思いやり優しさを感じられるし、それらを肉体・感情体・精神体でもって表面に出すことが出来るのも「生きて」いるからです。

また遠いところに行き来したり電話で会話できたり、便利な道具を使いこなすことで早くて楽になるし、また欲しいものがたくさん用意されているし、趣味嗜好娯楽を味わい楽しめるし、冒険探検・探求追及・極めることも出来るし、また自分や家族らの過去・記念・足跡を後世に残すことも出来るし、自然界のあらゆる物と味わい接し触れ合うことも出来ますし、それら自然界のエネルギー・資源を使うことも出来ますし、また寝ていて夢を見ることも出来るし、思い考え想像することや目的理想を持つことが出来るのも「生きて」いるからです。
・・・こんなに多くの良いことがあるのに(幸せなのに)何で不足・不平不満を持つのでしょう・・・それが良い悪いで判断する自分さえ良ければの個人意識でありその私欲からです。

だから良い悪いで判断する矛盾のある不完全意識であっても、無理・無駄の無い質素・素朴に生きることを実践することで不平不満や自己満足することが減り、そしてこの世の良さを認識・味わい知る事になりますから、そのこの世の矛盾・裏表を深く知ることでそんなに気にならなくなり、いちいち良い悪いで判断する必要性も次第に薄れてくるのです。
だから人間として生きている中に不平不満が少なくなるほどに今生きていることが良いことに思えるようになるのが意識で生きている人間なのです。

★震災・被害に関することでこの様に書くのは、人間は意識で生きていることから、悪いことを良いことにも思えるのも人間ですから、その現れた結果をすべて善しと思える精神力・意識力・自力を付けることが出来れば、悪い地獄が良い天国にも「思える」ようになるのです。 だから、現れた一つの事実結果を「良い悪い」で分離判断しているその矛盾意識の不完全な事を書いているつもりです。

あるがままの自然体で生きる、成り行き任せの宇宙・神の仕組みの必然・ご縁の結果に良い悪いは無い。

2011年03月16日 | Weblog
完全真理を知らない人がその真理を実践することは無いが、完全真理を知っていながらその実践意識を持ち続けられない原因にあるのは、やはり持っているものを失いたくないその守り意識にあります。

しかも不完全意識からは不完全な結果しか出てこない事実・真実を学び知り自覚していないのかもしれません。
更に何が完全で何が不完全かのその見極め判断となる完全を説く完全真理さえも中途半端な理解になっていると思われます。
だから何度も書いているように、完全真理を深く理解することが先になければ実践どころか絵に書いた餅になると書いてきました。

そして不完全意識からは不完全しか生まれないのだから、この世で何か事を成す事よりも無理の無い質素・素朴に生きる事を私の事例を示して書いているわけですが、その中に「あるがまま」の自然体、欲張らず先走らず慌て騒がず、「来る者は拒まず去る者は追わず」の成り行き任せ、宇宙・神に任せた必然ご縁のお仕組みに添った生き方、また放任主義や無関心薄情にも思えるような人様のことは「ほっとけ」の仏に任すことなどを書き添えていますが、その成り行きに任せらるだけのその自力自信や精神力意識力の必要性も書いていますが、それも完全真理を深く学び知ることから得られるものです。

ところが成り行き任せに出来ないのが持ち前の不信感であり、その不安心配や恐れから自分を守りたがる守り意識でもあります。
そして矛盾のある中途半端でどうせ無駄に終わる結果しか出ない不完全な形を如何にも大事に思うその意識です。

もしも、成り行き任せに任せたら良い結果になるのなら誰でもが従いますが、ところが成り行き任せに「良いも悪い」もありません。
例えそれが良い結果に思えてもそれは一時の途中結果ですから、いつの間にやらそれが悪い結果になっているかもしれません。
すなわち「良い悪い」で判断することでは無いのです。
現れ出た結果事実を素直に受け止めて、更に成り行き任せにしておれる自信・自力や精神力・意識力も必要になりますし、しかも成る様になるその結果を焦らず騒がずに静かに待つことにもなるのです。

そのことの私の事例を何度か書いていますが、それは私に出た結果であって他の人に当てはめることには少し無理があります。
すなわち「良い悪い」で判断して、良いと思った人にはその結果が良いことであって、それが悪い結果に思える人ならば都合の悪い事になるからです。 だから私の孤独自由が、他の人にとっては孤独感や不自由な生活に思えることにもなっているのです。

ところで今の私があるのも成り行き任せの宇宙の仕組みの必然ご縁の結果であることは事実ですが、私の意識が原因でホームレスになっていたかも知れませんが、それも必然ご縁でなったことであれば良い悪いで判断する事無くそのホームレスをしっかり味わい尽くせばいいだけです。
だからこれから先に事故にあって怪我したり病気になったり寝たきり老人やまた死に目に会うことにもなりますが、それも成ったらなったの必然ですから、それを良い悪いで思い考える事無くそれを大いに味わい学び知ることから「新たな気付き」が起こりますから、決して無駄になることはありません。
また「不幸中の幸い」とか言うように、悪いと思えることだけに執着が無ければ、悪い結果の他に良いことになる結果も含まれているという矛盾があるのがこの世であり、それが矛盾する意識を持った人間なのです。

私の成り行き任せの中に「来る者は拒まず去る者を追わず」がありますが、その来る者が完全真理やファバラに無関心であれば、それが家内や我が子であってもそのご縁は長続きしませんし、またそのご縁が来ることも無いと確信さえしております。
すなわち私を必要としない人が不便で変化・刺激に乏しい過疎地の私方へ来ることはまず無いし、また来たとしても(良いことがなければ・面白く楽しくなければ)先方から早々と逃げ出してそのご縁は長続きしません、それが事実に此れまでたくさんあります。

しかしその家内や子供やの身内が私を必要としているときは、暇で退屈しているから山菜などを手土産に出掛けて行く事になりますが、その相手の我欲が強ければ、それに巻き込まれたくないので適当に済ませて足早に帰ってきます。
そしてまたご縁必然があればそれに何とか添って動きますから、まず嫌われ者になることはありません。
そうしている内にそんな私を認めた格好になり、やがて完全真理やファバラに関心を示すようになれば、私の出番も多くなるのです。

だから不完全なこの世やその人間関係を見限る格好になるかもしれないが、その己の私欲や目標理想目的を持たずに自然体で成り行きませにしていける自信・自力があれば、完全な宇宙・神の仕組みに添った必然ご縁に巡り合えることは間違いありません。
そして良い悪いで判断せずに現れ出た事実・結果を十分に味わっていれば、今まで気付かなかった真実・事実を知ることになり、それがいつの間にやら意識改革・変革になっていくのです。

不完全意識だからこそ、無理をしない、余計な事をしない、無駄な事をしない、質素・素朴に生きる。

2011年03月13日 | Weblog
良い悪いで判断していることが原因でこの世が矛盾に満ちた不完全意識で成り立っている事を何度も説明しています。
それが自分さえ良ければの個人意識であったり、比較差別や私は正しいの特別意識や差別意識だったり、善悪・優劣・損得で良いとこ取りしたがる意識と悪い事を排除したがる正義感の矛盾意識や特別意識などの不完全意識のことです。

その不完全意識の人間同士が寄り集まってこの世の形を成しているのですから、何を成しても不完全な結果しか生まれません。
また此れまで精神世界・神や愛を説いてきたイエスや釈迦らも不完全だったことは明らかですし、それらに類する宗教家・教祖や思想哲学者も皆が不完全ですから、それらが説く宇宙や神や愛の真理も不完全です。

その不完全な者達が説く内容も不完全ですが、それがいつの間にやら「正しい」ことに思われて常識化されたことも数多くあるし、それらを信じる信者も正しいと思って崇拝・信仰していますが、それらの教えを言い始めた「言いだしっぺ」が矛盾のある不完全な内容だけに、それらの教えを忠実に守って実践しても、その結果は同じ不完全ですから、結局は実践する価値も無い無駄な事をしたことになり、その無駄な事を無理にしたことになり、(不完全な)余計な事を無理して無駄に終わったことになります。

例えば一般的に言われていることで夫婦仲良く、すなわち人間関係を良くすることが言われているのも理にかなったことですが、人間意識の原因に良い悪い(善悪・優劣・損得)で判断して悪い事を排除したがり良いとこ取りしたがる自分さえ良ければの個人意識を持っていても、お互い様やお蔭さまの調和の意識を持っていないのだから到底無理な話になるのです。

それを無理だと思わない人は何とかして仲良くしようと試みますが、(不完全意識のままでは)中身の無い「見せかけ」の仲良しであって本物ではありせんから、そこで仲良くする形でもって中身がともなったものにしようと無理な努力をすることになったり、また「成せばなる」と一生懸命に形で実践しようとしますが、しかし元の原因意識が不完全ですから良いこともあるが悪いこともあるという矛盾のある形・結果になり、一生懸命努力・無理をしたのに得たものと失ったものがある「割に合わない」算用になったり、また余計な努力・無理な努力をしたのに中途半端な結果しか得られなかったりするとそれが不足・不平不満になったりしてどうしても長続きしません。

すなわち始まりの原因が「完全」ではなかったから、その結果が中途半端であったり妥協が含まれていることからして、今まで通りの努力・協力・理解し合うことなどがいつまでも長続きしなくなり、やがて元の不完全な者同士の結び付き関係に戻ってしまい、結果的には此れまでの努力・協力が水の泡の如くに消えて終わり(わずか一時の仲良しで終り)、また不平不満とその自己満足を繰り返す不完全意識同士の関係に戻ってしまうのです。

だから常識化された常識・伝統風習や道徳にしても不完全ですから、何かと自由を束縛制限されて窮屈な思いをしているのに、結果的には得ているものや失っているものがあるという不完全な結果となり(趣味嗜好娯楽などを含めて)、割に合わない余計な事を無理してその時間・労力・出費を浪費した無駄な結果に終わるのです。

「参考」原因が矛盾や妥協の無い完全であれば結果も完全ですから、その完全な結果は永遠に続きますが(他からの不完全意識の影響を受けることは考えられますが)、矛盾や妥協のある不完全であれば結果も良かったり悪かったりして安定していません。
だからその時々で様々に心変わりして、それが結果的に共に裏切ったり裏切られたりの裏切り関係になったり、また搾取策略偽装の騙し合いや嘘偽りの偽善関係の不完全な関係を伴う事になります。

だから原因意識が不完全であれば結果も不完全ですから、その不完全な余計なことや無理なことや無駄になることを一生懸命努力協力しても、その結果も不完全な余計なことや無理なことになり、それまでのことが無駄なことになるのです。
だから余計なことや無理なことや無駄になることをしないためにも「質素・素朴」に生きることが言われているわけです。

そこで私の事例として、過去において質素・素朴が面白くないと思って金銭物質の豊かさを追い求めていた時期がありましたが、今では無理も無駄も無い質素・素朴な生き方をしていることからして、その両方を照らし合わせながらこうして書いているのですが、その面白くないはずの質素・素朴をいつの間にやら味わう環境・境遇になって気付いたことにあるのが、面白い生き方であったはずの豊かさを追い求めていたことが如何に馬鹿げたことや余計なことや無理していたことやそれらが如何に無駄な生き方だったかに(完全真理のお蔭もあって)気付いたわけです。

そして過去の苦楽・喜怒哀楽の感情に支配された生き方やその人間関係のしがらみに束縛された生き方よりも、今の孤独・自由の呑気・気ままの勝手し放題の平穏無事な生き方の方が、私の性格個性からすれば「お似合い」だったのです。
そして此れまでのご縁必然のお仕組み任せの「成り行き任せ」に生きてきた結果が「今」であること、そしてこの世で始まり終りとなる「完全真理」に巡りあえたこと、また「今」の発端となった摩訶不思議な効果効用のある宇宙エネルギー関連の学びが今の「ファバラ」につながったわけです。

そして「終わり良ければすべて善し」の結果になる事を心待ちにし、また此れまでの全てが中途半端な無駄に終わらないように実践意識を持ち続けているのです。

良い悪いで判断しなければ完全ですが、質素・素朴には妥協やさじ加減があることから不完全になります。

2011年03月10日 | Weblog
完全真理を深く理解し、それを実践・意識しているほどに、この世の形や人間関係の矛盾・不完全さに気付くことが多くなるし、自分さえ良ければの個人意識丸出しで生きていることが(自他共に)手にとって見ているように明確になります。

そして、この世で人間として生かされ生きていることがこの世で何かの「結果」を成して足跡を残すことではなくて、この世のあらゆる不完全さを身をもって味わい知ったことを無駄にせずに活かすことになる、(完全真理が説く)大元の「原因」である宇宙・神・愛意識の完全意識を学び知ることになればいいのです。
すなわち、この世の不完全意識と宇宙・神・愛の完全意識の両方を学び知ることが人間としての役割使命だったのです。

だから金銭物質の豊かさを追い求めることになる不平不満やその自己満足のために生きるのではなくて、先ずは心と言われる精神力・意識力・自力を高めて、何がなくても足りるを知る愛の心、今を生きていることに感謝できる裏の無い生き方になることです。
だからその為には形・結果に拘り執着しないことであり、生きる為に生きる質素・簡素・素朴な生き方・生活が言われているのです。

その生きる為に生きる(食って寝て糞をする)ことになれば、まず無理をしません、また余計な事もしません、だから無駄がありません。
ところがそんな生き方人生では面白くないと思うのは、ただ頭で思い考えるだけで実際に味わっていないからです。
またこの世が不完全だけに何を成しても矛盾や妥協のある不完全な結果になるのに、そうとは知らずに目指す目標・目的・理想を持って欲張り・頑張り続けることが良いと思っていたり、苦楽・喜怒哀楽で生きることが如何にも人間らしいと思い違いしているからです。

すなわち肉体・精神体・感情体を酷使する無理な生き方、自らの中にわざわざ波風や壁や坂を築いて無理難題に挑む生き方、他と比較競争して差を付けるために無理をする、(私が正しいと思って)人様の事に余計な口出し手出しをしたり、更に無理に自己主張したり堅持する、そんな不平不満とその自己満足で生きていることが、この世で通用してもあの世では通用しない無駄なことだと気付いていないから、しかも私は正しいと思い違いしているから完全真理が言うところの「あるがまま」に生きることや「来るものは拒まず去るものは追わず」の成り行き任せ、すなわち自然体で生きること、その宇宙・神・愛の必然・ご縁のお仕組みで生きること、また特別の無い普通・質素・簡素・素朴に生きる事、過去や未来を気にして未練や後悔をもったり執着しないことなどを知識で知っても・・・しかし自らがその真実を実際に味わってもいないだけに・・・自分勝手な思い込みや自分の都合でそれらを否定反発することにもなっているのです。
だから完全真理ではそれらの実践を説いているわけです。

そこで矛盾や妥協で成り立つ不完全なこの世やその人間関係に未練も執着も無くなれば見栄や世間体・しがらみが気にならなくなりますから、その確かな実践で実際に味わい知ることになれば、この世の金や物や形の豊かさで生きることの無理・無駄が我が身をもって学び知り悟ることになり、そんな無理も無駄も無い質素・素朴な生き方であっても不足のない穏やかな生き方が出来るのです。

そして自分さえ良ければの個人意識のままの人達と数多く世間的に接し触れ合うことよりも、すなわち同じ不完全意識の世間・集合体のしがらみの中で自分が納得できない生き方をするよりも、そのしがらみから離れた「お一人様」の単身・孤独の、自分に適した独自独歩の生き方のほうが(私の場合は)納得の出来る生き方になります。

そして私を必要としている人のところへ私が出向くことがあったり、また自分のために必要なところに出かけていったり、また私を必要とする人達が私方へ訪れてくれることでもあれば、その必然のご縁だけで十分ですから、それ以外の余計な事、無理・無駄なことに関わらないで済むのです。
そしてそんな必然ご縁の生き方の質素・素朴な生き方の中にも、(同じ不完全意識同士であっても)何かと完全真理を語り合え判り合える仲間が一人でも増えることや、またそれらの人と一時でも共に過ごせる時が数多くなる事を自然体で待ち続けているわけです。

ところで良い悪いで判断しなければ完全ですが、質素・素朴には人それぞれの線引き・さじ加減・妥協が含まれていますから、決して完全ではありません。
その完全でもない妥協のある実践で、しかも誰でもが「やる気」になれば簡単に実践できることさえも、何かと邪魔する形・人間関係・しがらみがありますから、なかなか思うようには実践できません。
だから同じような事を書き換えて、少しでも実践に役立つブログ・情報になればと、私の暇で退屈な時間を活かしているのです。