孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

薬にも毒にもなる特別なブログの世界とは異なる、薬にも毒にもならない=普通=のブログです。

2016年02月29日 | Weblog
毒にも薬にもならぬのが=普通=です。

しかし毒が薬にもなるが、薬が毒にもなるのがこの世です。

然るに表裏一体の中で暮らしているのが私達です。

然るに大勢の人が集まっている人気のあるブログが目にかかると、何か良さそうに思い(効き目があるように思い)そのファンになったり、また巷の神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなる形に引き込まれたりする人が大勢います。

しかし矛盾の世界だけにそれが薬にも毒にもなる人がいますし、それものちに変化する不確かさもあります。

然るにわざわざ銭を出して薬を買ったけれども、その効き目があるようで無いようで、有ると思えばあるし、無いように思えばそうにも思えるが、ところが
その薬の効き目を信じればその効果が出てくるし、反対に信じなければその効果があってもそれが自覚できないのも人間ですから、
然るに「信じるか否か」にかかっているから、それを信じて(思い込みからして)効き目があったことならば、そこで妄信・自己陶酔・自己洗脳となる人も出てくるのです。

然るに「触らぬ神に祟りなし」と書いています。

ちなみに自己満足が薬であれば不平不満が毒に当たります。

その自己満足のままに続けばいいのですが、その自己満足が続かなくなると不満になるのが、生まれ持った人間の性です。

然るに薬の効き目があるうちは何とかなっていても、その効き目が無くなるとそれが不満の毒にも変わるわけです。

然るにニコニコしていた人がいつの間にやらブツブツ言いだすのです。

そしてその解決に自己満足の薬を(麻薬が如くに)再度・繰り返し与えなければ、何やら歯車が合わなくて、ぎこちない関係にもなるのです。

然るに私はそれが嫌になって過疎地暮らしになったとも言えます。

そして孤独の自由にして、薬にも毒にもならない普通の事ばかりするようになって、その毒と薬から解放されたのです。

また此れは良いだろうと薬を求めなくなると、当然ながらそれが毒にも変わりませんから、
然るに生きて行くのに必要なこと(必然のご縁)だけにして、あとは「来る者は拒まず去る者は追わず」の成り行きに任せることになったのです。

然るに自己満足の薬も不平不満の毒も味合わなくなって(苦楽を味わないで)心身の健全健康が維持されることからして、薬剤や医者にも頼ることなく健康体でもって生きています。

だから薬にも毒にもなる表裏一体のブログの世界とは異なる、
如何にもシンプルでこの世に稀マレなるブログとして、
薬にも毒にもならない普通の生き様を紹介しているのです。

だからこのブログに何度来ても内容は普通ですから、例え思い込み自己暗示や妄信になって実践してもその害はなく、然るに麻薬中毒患者のようにはなりません。

それどころか心軽やかで穏やかな心もちで生きて行くことが出来ます。

シンプルで、この世に稀マレなる、頑張らない~楽になるブログ

2016年02月29日 | Weblog
良い悪いで判断する矛盾意識・差別意識・偽善意識なる不完全意識を持っているからには「何を成せども」同じ不完全な結果にしかなりません。

然るに良い悪いで判断するその自己満足と不平不満の繰り返しからして文化文明が発展すれども争い人殺し戦争が繰り返されるだけですし自然環境の悪化が進んでいます。

とは言ってもこの世人間関係だけは個人の力量ではどうしようもありません。
そこで持って生まれた自分さえ良ければの個人意識丸出しでもって=自分の為に=心身の健全健康の為に=頑張らない・欲張らない・見栄張らない自己縮小の生き様にして=苦楽の無い精神安定でもって=普通に食って寝て糞をしながらにして「生きている」だけで納得できる心意識・精神になることを書いています。

と言うように何度も書いていることですが、基本が自己満足と不平不満にあるのが特徴です。

そして自己満足と不平不満が多いのが一般世間の人やその上に位置する人たちですが、反対に少ない事例として=他力に頼らない=「自力で生きている」ホームレスやニートやフリーターやBライフ・サイレントテロ・山奥ニートが常に登場してきます。

ちなみに「仕事をしたら負け」と言ったニートがいましたが、自己満足と不平不満が多い人は他力依存からして自力自信・精神力でも負けているのです。

そして国家社会経済や人間関係の柵から離れた孤独の自由がありますが、
しかし世間一般的な人の場合は何かと束縛制限されたり否定反発しあっていますから自由がありません。
その自由なくして平等も調和もありません。肝心要なところです。

然るに世間から落ちこぼれた人を疎んじ蔑んでいる特別意識の人のほうが、その愚かな精神を自らが味わうことになっているのです。

然るに自らの首を絞めてドツボにハマっているのです。

ただそのことに気付いていないだけですが、それも精神が未熟だからです。

ところで100日間世界一周の船旅を何度かしている姉が言うには、その船旅の費用を稼ぐためだけに仕事をしている若者が半数以上の乗客だそうです。
そして残る半分は老後を楽しむ高齢者だそうです。

また半年間働いて(半日働いて)残る半年間(半日)を仕事をしないで暮らしている人も全国に少なからずいるようです。

ところで私の所より一段下の集落に退職して帰郷した人がいますが、故郷が違う奥さんは時たまに来るだけですから両者共に孤独の自由を大いに味わっています。
ところが車の免許が無いから90分ほど歩いて下山したり往復を有料福祉バスを呼んでまとめ買いのショッピングや医院に立ち寄っています。

ちなみに同じ集落の親元に若者が帰郷して地元で就職している事例もあります。

また同じく親元に帰郷するも、その親のすねをかじって酒におぼれながらグータラ生活をしている人もいます。

ちなみに私は精神世界に目覚めたお蔭で時間つぶしにブログが書けるし、何にもすることが無くても頭の中は常に自問自答している感じですから、世間一般的な老後の生き様とは異なるし、また自然を相手にしているだけに人間関係の苦楽が無いのが何よりもありがたいので、十分納得した生き様になっています。

しかも心身共に健全健康ですから、このままに安らかな死に至ることを望むだけですから、当然ながらそれに似合うような心安らかな生活になっています。

太陽信仰と月信仰→ 火と水の関係→ 愛情と愛→ 特別意識と普通意識→ 集合と孤独→ 不自由と自由

2016年02月28日 | Weblog
考古学者が言うには(ムー大陸があったといわれる)縄文時代は集落が無くて独自独歩の自給自足でもって孤立した住居が点在していて、神事・祀りごとの時に祭壇がある個所に民族が集まるだけだったと言われています。

ところが他民族が侵略したきたが如くにいきなり縄文時代が終わり、次の弥生時代が始まり急速に集合化・合理化・近代化が始まったと言われています。

そのことに似通ったことを(私と宇宙エネルギーの水が縁でつながった)(否定反発・束縛制限のない愛を説いた)(過去性がムー大陸の姫だったという)霊能者が言うには、
ムー大陸の頃は「月信仰」で龍神を祀る=水を祀る=習わしだったそうです。

ところが太陽信仰の民族がムー民族を侵略したことからして、それ以来現在まで太陽信仰が続いているが、
宇宙の流れからして次の時代は「月信仰」に戻り「水」を大切にする習わしの時代に変わると、宇宙からの「お伝え」で言われていました。

と言うことは孤独静寂な月信仰を終わらせた太陽信仰の燃え盛る特別意識でもって集合化・合理化・近代化・巨大化してきたことになり、そしてその巨大化が災いして太陽信仰民族が滅び、再び月信仰の孤独の自由と水=自然=を愛する時代になるのです。

すなわち太陽意識が特別意識であり、月意識が普通意識になります。

そして特別が終わり普通の時代になるのです。

それも既に水面下で前兆的に始まっているし、その流れが速まっているようです。

ちなみに伊勢白山道なる者が太陽信仰からして、その太陽を善とし、月を悪にして説いているのも、何やら訳ありだったのです。

私からすれば伊勢白山道なる者が説く太陽を善として月を悪にするなんて馬鹿げたことを説いていると思っているのに、何で大勢の人に人気があるのか…
それは特別意識の特別大好き人間で他力依存の強い人たちが寄り集まっているからです。

とにかく何度も書いているように人が集まるところには欲が渦巻いているのです。

そして特別をエサにして他力依存の特別大好き人間をまやかし集めて世間に目立ちたがる者や飯の種にしている輩がいるのです。

然るに月意識&水意識の流れに沿っている私が書いているこのブログには特別意識・他力依存はありません。

まして人が集まる必要もありません。

しかも東西南北の老弱男女の誰もが公平にして実践できることを書いています。

然るに孤独の自由にして独自独歩の自力自信の精神力でもって素朴謙虚にして生きることを書いているだけです。

国家社会経済を心配している人がいますが、それが争い人殺し戦争や自然環境悪化の原因です。

2016年02月27日 | Weblog
個人の自由が無ければ平等にもなりませんし、心やすらぐ調和・平和にもなりませんから、
然るに個人の自由が原点・基本になります。

その自由と言っても植物のように地に根を張っていれば生きて行けるわけではありませんから、
この世で生きて行く為の自給自足にしてもその原材料や消耗品や道具や器具を得るために自由を犠牲にした労働・働きが必要なように、完全な自由を言っているわけではありません。

とにかく束縛制限支配や否定反発排除の無い愛を自由としています。

また良い悪いで判断することで自己満足や不平不満になり、それが行き着くところに争い人殺し戦争がありますから、
その自己満足と不平不満にならない普通の生き方を実行実践する必要があります。

とにかく個人意識丸出しの個人の自由にして不平不満&自己満足にならない生き方にしてこそ、心やすらぐ精神の安定があり、それが安心安全の精神力&心身の健全健康にもなるのです。

何度も何度も書いていることですが多分ながら自覚認識納得に至っていない人が大勢いるはずです。
何故なら自由にして「楽に生きる」ことよりも、何かと銭金を使って楽しく生きることが生甲斐・充実感に思っているからです。

そして己の見栄・世間体・プライドからして楽に生きることが横着者・怠け者や罪悪にも思えているかもしれません。

然るに孤独の自由を味わっているホームレスや働いたら負けと言ったニートや山奥ニートやBライフ・サイレントテロなる形やフリーターに対して(国家社会経済の観点からして)何かと問題に思いたがる人が多いはずです。

ところがその国家社会経済が争い人殺し戦争の原因になっているし自然環境の悪化の張本人なのです。

それなのに自分のことを心配せずにして(自分の首を自分で絞めていることに気付かずに)我が欲目からして人様のことを気にしているのです。

ちなみに巷の特別な神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなどの形を施し成している人たちも同じ穴の狢でして、然るに自分の墓穴を掘っていることに気付いていません。

だから己の欲目からして他人様の事をほっとけないで関わりたいのです。

そしてほっとけないことを私は正しいと主張して人集め・金集め・物売りまでして世間に目立ちたがる輩や飯の種にしている邪な輩になるのです。

そしていつしか施す者が己の善なる心・良心からして偽善に気付も、誰もが持つ欲が絡んで(欲に目がくらんで)その偽善者と自覚しながらも、そこで美化・自己正当化してまでも、その偽善を成し続けている未熟な上に邪な意識を持ったどうしようもない人たちなのです。

然るに先ほどの孤独の自由にして世間離れした生き方をしている人たちよりも、我欲にしてずる賢くも悪賢い特別な生き方をしているのです。

なのにそれらに惑わされて喜んでいる一般の人が多いから、自分と同じように惑わされる仲間・被害者を引き込み呼び込むことにもなっているのです。

然るにこれ等は「信じるか否か」ではなく真実事実なのです。

なんたって自己拡大し続けていた私が仕組まれ続けて自己縮小の形になり、これまでの16年間続けたことで次第に自己満足にも不平不満にもならいくらい自己縮小した結果からして生まれた、個人の自由にして楽に生きる実践真理
すなわち東西南北の老弱男女の誰もが公平にして実践できる、そのシンプルなこの世に稀マレなるブログの中の一篇を書いたまでです。

孤独の自由を味わっている若者・独身者・お一人様ほど自己縮小の実践がしやすいのです。

2016年02月26日 | Weblog
私にはまったく超能力らしきものはありませんで、成り行き任せながらも必然ご縁が仕組まれ続けて、あたかも奇跡が如くの現在があるだけです。

ただ成り行き任せに出来ることはあまり欲が無いことであり、それでも不安心配にならないだけの自信自力があるともいえます。

然るに現在の「孤独の自由&自力自信の精神力」「生きてさえいれば何とかなる」=「成るようになる」「成らないことはならない」=だから「ほっとく」ことにもなり、それが結果的には相手様の自力自信にもつながることにもなるし、それが束縛制限・否定反発しない自由にもつながっているのです。

何はともあれ人それぞれの生き方があって当然ですから、
その中にホームレスやニート・山奥ニートやBライフ・サイレントテロやフリーター、また独身主義者や別居離婚して孤独の自由を味わっている人がいても何ら特別ではありません。

それらを特別に思った人の中に特別意識・差別意識があるだけです。

然るに神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなどに関わっている人がいても特別ではありませんで、それを特別に思っている人の中にあるだけです。

ところが何で特別になるかと言えば、それらに自己満足して外向けに自慢したがる、見せたがる、人を集めたがることになれば特別意識になるのです。

ちなみに私が過疎地で暮らしていることに自己満足して外向けに自慢して人を呼び込みたい思惑が過去にはありました。

そして過去にご縁があった(宇宙エネルギーの先生を含めて)霊能者も耕栄さんも謙虚を見せながらも内心では人を集めたい、人に認めてほしいの思い欲目があったことは間違いありません。

それは事を始めた頃はそんなに自信が無いから、先ずは自分の成している能力を人様に認めて欲しいと思う事から始まるからです。

そして多くの人が集まることになるとそれが自信にもなり、そして慕われ尊敬され祀り上げられるようになると、内心では自信過剰の自惚れ慢心になり、さらに多くの人が集まることを望むようになっていくのです。

ところが何で人を集めたくなるのか他にも原因があります。

それは人間同士の意識の疎通が無いことからして(同じ屋根の下で暮らしていても)誰もが孤独なのです。
だからその孤独の穴を埋めるために(家族でも穴埋めにならずにして内心では寂しから)世間に目立つことを成して人を集めたがるのです。

そして何よりも嬉しいのが妄信が如くの信者意識の人がいつも身近にいて担ぎ上げ持ち上げてくれることなのです。
然るに霊能者も耕栄さんの場合も、常に行動を共にする数人の随行者・追っかけマンがいました。

またそれらの人も霊能者や耕栄さんと一緒に居られることが嬉しいから常に引っ付きたがるから両者共にうまい具合にかみ合うのです。

ところが良いこともあれば悪いこともあるのが常ですから、
引っ付き過ぎたり、なれ合いになって、隠していた欠点が(油断から)見え出すことです。

然るに妄信・自己暗示・自己洗脳に陥っていない限りいつしか離れて行きます。
中には恩を仇で返す裏切る人も確かにいます。

しかし入れ替わり新たな人が加わりますからいつも賑やかにしていられます。

しかし私の場合は特別な能力が無いことからして孤独のままです。
ところがもし超能力でもあればやはり巷のスピリチュアルと似た様なことをしていると思います。

然るに誰も同じでして、己が特別人間になれば、その特別が主体になるから自己縮小の極めつけ実践は無理になるのです。

だから、いつしか自らの真心からして偽善だと気付くも、ことが始まって人が集まることにでもなっていれば、また家族生活が懸かっていれば、その途中でやめるわけにはいかなくなるのです。

然るに皆さんの中にも家族生活がある人は自己縮小の実践に無理があるのです。

だから孤独の自由を味わっている人のほうが実践しやすいのです。

然るに今どきの若者も孤独を味わっていますし、中には世間に馴染めなかったりして引きこもりになっていた人が目覚めたようにスピ系を語るようになったりするし、中にはニート・山奥ニートやBライフ・サイレントテロやフリーターとなって孤独の自由を味わっている人もいますが、
この先の超高齢者社会になるほどに(若者の負担が多いだけに)世間離れする若者独身者が増えると思います。

しかし同じ若者でも特別大好き人間が大勢いますから国家経済も何とかなっていきますが、しかし真坂の有事や天変地異もあるだけに先行きは不確かです。

それだけに尚の事、心ある人は自己縮小の実践をしていく必要があると気付いているかもしれません。:

私たちは良い悪いで判断した、その自己満足と不平不満の繰り返しで生きてきた、その結果が現座です。

2016年02月25日 | Weblog
私たちは良い悪いで判断した、その自己満足と不平不満の繰り返しで生きてきた、その結果が現座です。

そして古今東西の聖人賢人・超人魔人がこの世に現れてきましたが根本的何ら解決していません。

然るにいつの時代も自己満足と不平不満の繰り返しで生きていることに何ら変わりはありませんから、その不平不満を解決するための手立てからして文明文化が進化しただけで、未だに争い人殺し戦争が絶えません。

しかも自然界がただならぬ有様になっています。

なのにその不平不満と自己満足に関わる根本的な原因&人間意識を真剣に考えて、その解決策を実践実行することにはなっていません。

それどころか自己満足を生甲斐・充実感・達成感に美化しているから、その自己満足を無くしては生きて行けないような心もとない人たちばかりが増える結果になりました。

ところがその自己満足を味わえなければそれが不平不満になるのが人間ですから、その不平不満が充満した闇意識の世界となっているのが現在なのです。

然るに自力自信の精神力でもって普通に生きている人よりも、特別大好きの他力依存の人間が多いということになります。

ちなみに不平不満を持っている人、他力依存の特別大好きな人などを多く集める結果になっているのが(諸手を広げて待っているのが)巷の神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなる特別な形を施し成している邪な輩でもあります。

ところがそれら特別な形を成している者にも様々な不平不満を持っています。

然るに魔術師が如くに術を成している本人も未熟さからして我が不平不満を解決する道筋さえも見出していないかもしれませんし、
座禅瞑想したり思い考えて何がしの解決策・理想目的を見出すも、ただ人に言うだけ聞かせるだけ書くだけで、
然るに自らが実践していないかもしれません。

何故ならば、不平不満の解決には自己満足を求めないこと、
然るに自己満足の無い生き方に方向転換しない限り(表裏一体ですから)如何なる魔人・超人でも無理なのです。

然るに瞑想座禅したり修行・難行苦行したり、お堂・ほこら・洞窟にこもったりして何かと集中しているときは出てこなくても、普段の生活に戻ればすぐさま出てくるのが不平不満であり自己満足なのです。

然るに生きているだけで十分に思えるような意識にならなければ出てくるのです。

だから自己縮小を極めて行く必要があるのです。

特別でないことの素晴らしさをしっかりと見せてくれた=情熱大陸:フリーランス医師・岩田雅裕

2016年02月25日 | Weblog
私が好きなのがドキュメンタリー番組でしたから、そうとう古い過去にNHK「プロフェッショナル」を見続けました。

そして毎日放送「情熱大陸」も何回か見ていましたが、テレビを見なくなった関係からして此れまで途絶えていましたが、
久しぶりにギャオ・無料動画でもって「情熱大陸」を何年ぶりかで見たのが=フリーランス医師・岩田55歳医師が“金”も“地位”も捨てて選んだのは東南アジアの医療支援=でした。

然るに此れまで似た様な番組を何度も見ていますが…

私が気にいったのは何の組織にも属していない「自由人間」だったことです。

しかも海水浴にでも行くようなサンダル履きとTシャツ姿で出掛けていることです。

然るに孤独にしての自由と貧乏紙一重の素朴な生き様と特別を匂わせない自然体で取り組んでいる姿に共感したのです。

だから生甲斐だとか充実感・達成感・使命感の類=俺がやらずにして誰がやる!を超越した=自分に出来ることをただやっているだけ=ごく当たり前の普通が如くにやっている自然体の姿が見られました。

然るに世間から見れば特別なことをやっているのだが、その特別をまったく匂わせないでやれる、警備員に呼び止められるような変な外国人=普通のおじさん的な雰囲気=その自力自信の精神力に感服しました。

然るに特別でないことの素晴らしさをしっかりと見せてくれました。

「生きてさえいれば」世の為人の為になっているのですが…自覚認識できていますか?

2016年02月24日 | Weblog
自分さえ良ければの自己中心の個人意識を持っているからには、生きて行く為に食って寝て糞をしながらにして普通に生きていること以外に成していることは特別なことですから、当然ながらその自己満足になるし偽善の積み重ねになります。

ちなみに私が自己縮小の実践をし続けている内に=人間生きてさえいればそれで十分=と思えるようになったのは最近のことですが、
その「生きてさえいれば」それが世の為人の為になっているのです。

だから世の為人の為にと自己満足と偽善になることをわざわざしなくても、生きているだけで十分役立っているのです。

然るに生まれたばかりの赤ちゃんでも、死に掛けていたり、死んだも同然の生き様であっても、生きている限りにおいては、それが身近な人に迷惑を及ぼしている形になっていても、
それでも何処かで何かと役立っているのです。

ちなみに「高齢者山奥ニート」が如くの私でも、Bライフ・サイレントテロなる形でも、街中のフリーターやニートやホームレスでも役立っているのは同じです。

然るに誰も皆が生きている限り何かと役立っているのですから、自己満足と偽善となる善行奉仕や寄付や援助救済活動に関わらなくてもキッチリと役立っているのですから、無理したり見栄張なくてもいいのです。

その役立っている基本が東西南北の老弱男女の誰も皆が「お互い様」「お蔭さま」の関係でつながっていることです。

その一例で判り易いのが生産製造販売の流通システムに関わる様々な分野が網の目の如くにつながっています。

また風が吹けば桶屋が儲かるような流れもあります。
ちなみに人の不幸が己の幸せになる臓器移植もあります。
また幸・不幸が金儲けになる冠婚葬祭関連があります。

また事故や災害被害に遭ったり病気や死に掛けていてもそれらに関わる関係者の労働収益や研究開発にも役立つことになります。

然るに泥棒や詐欺師や犯罪者や極悪人であっても、その行為と結果でもって様々な面で役立つことにもなっています。
ちなみに原因とその結果の有様を事実にして世間に見せ示すお手本の役割をしたことになりますから、そのご苦労さんな役割を果たしてくれたお蔭で(犯罪者も含めて)多くの人が有り難いこの世の学びにもなっています。

然るに宇宙・神・愛意識の仕組みには罰も無ければご褒美もありません。

とにかく人為的で目立つ特別な形ではなくて自然発生型・成り行きの阿弥陀くじが如くにつながりながら結果的に多くの人に役立っていきますが、それが直接的ではないからその原因の者が自己満足・自惚れ慢心になるはずもありません。

なのに特別な善行奉仕や寄付や援助救済活動でカッコよく世間に目立ちたがる特別人間がいるから、そのカッコよさを真似したがる同じ特別人間が増えることにもなっているのです。

然るに何度も書いているように特別には自己満足とその偽善がありますが、それが普通ならば上下左右の差の無い当たり前ですから、その当たり前のことに自己満足する人は先ずいないと思います。

ちなみに生きているだけで満足できるのならば、東西南北の老弱男女の誰でもが公平に味わえますが、
特別な自己満足・生甲斐・遣り甲斐・充実感・達成感となると特別なだけにごく限られた人になり、その公平さ平等性に欠け差別意識の原因にもなるのです。

何はともあれ諸々の特別から早く卒業することを繰り返しお伝えしているのです。

自己拡大で大きく生きるも、自己縮小で小さく生きるも、生き方が異なるだけで人間を終えます。

2016年02月23日 | Weblog

始まり終わる&終わり始まる、その宇宙・神・愛の仕組みからして、誰も皆が順繰りですから、
然るに生まれたばかりの幼子も何れ先祖になるし、その先祖がまた幼子としてこの世に生まれてくるし、生れてきたからには良いことも悪いことも様々なことをして死に至る、その繰り返しがあるのがこの世であり、それが宇宙・神・愛の仕組みですから、とどのつまり誰が良いも悪いも関係なく皆が同類ですから、お互い様でもあるしお陰様の関係にもなっているのです。

然るに誰も皆が先祖だった経緯があるのですから、その先祖を特別に供養する意味もありません。
それよりも今を生きていることのほうを大切にすればいいのです。

然るに親孝行も親不孝も順繰りに繰り返してきているのですから、そんなことを気にしないで今の自分を大切にすればいいのです。

然るにそれが自分さえ良ければの個人意識でもあります。

その先祖供養や親孝行を特別に思って是非を言うほうが特別大好きの特別意識&差別意識&矛盾意識&偽善意識になるのです。

そして自分の思いを世間に正しいと主張堅持する人が問題提起しているだけですから、それを特別に思わない人はそのままにほっとけば気楽で心身が疲れないで済みますし、個人意識がゆえの偽善の積み重ね上塗りにならずにすむのです。

ところが目立ちたがる欲目や世間体を守る見栄からしてほっとけない人がその苦楽を味わうことになっているだけです。
然るに自分が蒔いた種を自分が刈り取る苦労が伴うだけです。

そして自己満足するのです。
だから自己満足には苦楽が伴っているのです。

ところで座禅・瞑想して無想になったという人がいますが、その座禅・瞑想が終われば現実に戻るし、
宇宙から地球を見たとかいう人もテレビ映像で見たのが蘇っただけかもしれませんし、
あるはずもない宇宙人と何かがあったと言う人も妄想だったり注目されたいがための自己宣伝・偽装創作だったりしますから、
とにかく一般的ではない特別なことを言いたがる人・自慢したがる人は間違いなく特別意識・差別意識・矛盾偽善意識の人になります。

だから座禅・瞑想が出来る人であっても、摩訶不思議に遭遇したり、摩訶不思議を成せる人であっても、個人意識をしっかり持っていますから、欲絡みからして世間に出て大きな事をやればその大きな自己満足と不平不満の矛盾・苦楽を味わっているのです。

だからその苦楽・善悪を無くするために釈迦が修行を積み重ねてミイラが如くにもなったのですが、
それだけに、どんなに修行を積み重ねても無駄だと悟ったのは釈迦だけかもしれません。

然るに修行は無駄だと弟子に説いたと言い伝えられていますが、
その修業が無駄かどうかを会得するために修行した弟子がいるように、未だ修業が必要に思っているようです。

ちなみに自己縮小している私も生き様・生活が小さくなっているだけですから、当然ながらチョットした不平不満も自己満足も出てきます。
だからチョットしことでも、それが思い通りにならなければ、何やら気が沈みがちになるときもありますが、しかしそれがチョットしたことだけに、いつまでも気にして執着することにならないだけです。

然るに大きく生きるも小さく生きるも結果は同じです。

だから不完全意識の矛盾偽善・差別意識が消えることにはならないのです。

然るに宇宙意識・神意識・完全意識になるのは絶対に無理なのです。

然るに結果が同じならば、そこで大きく生きるよりも小さく生きたほうが、その苦楽・矛盾・偽善の積み重ねも小さくてすむし、それが呑気気楽な楽ちん省エネの生き方になるのです。

しかも自己満足がどんどん減ると不平不満が出てこなくなり、然るにいちいち良い悪いで判断する必要も無いほどの(宇宙・神の完全意識が如くの)生き様に変わり、それだけ心意識・精神が安定して心身が健全健康にもなるのです。

だから日々更新して繰り返しお伝えしているのです。

普通で十分な人と、特別が無ければ生きて行くのに不自由する未熟者になるのか、何れを選びますか、

2016年02月22日 | Weblog
自己満足にも自分の中だけで終わる普通の場合と、人様に話したがる・自慢したくなる特別な場合があります。

然るに不平不満も同じようなものですが、それが不安心配や怒りとなると特別になります。

然るに生甲斐も自己満足で終わっている普通の場合と、自惚れ慢心からして対外的に出して私は正しいと主張堅持して偉そうにしている特別な場合があります。

然るに自分さえ良ければの個人意識が出ても、自分の中だけで始まり終われば対外的な特別にはならずにして普通です。

とにかく人間として持って生まれたものが出てくるのは当たり前で普通なのですが、そこで執着すると特別になるのです。
そして差をつける特別になるほど良いと思い違いしているのです。

ちなみに衣食住にも普通と特別があります。
そこであれが良いとか悪いとかの選択があれば執着で特別になります。

だから何事も執着すれば特別になるのだから、その執着を無くすればすべてが普通になるのです。

そして普通の満足が物足りないとなれば、その原因は常に特別ばかり味わっているその特別な自己満足が原因にあるのです。

だからその特別な自己満足が無くなって普通の満足だけで納得している内に、いつの間にやら、その中に(隠れていた&忘れていた)喜び楽しさがあったことに気付くようになるのです。

然るに味気なかった衣食住の普通の満足が、有るものを着れる喜び楽しさ・食べれる喜び楽しさ・安心して住める喜び楽しさになります。

そして普通の喜び楽しさですから執着しません。

だからその時その時で一旦終わって尾を引きません。

また満足し「納得」したからには、それ以上の特別・贅沢を求める気にはなりません。

それが普通ではない特別な自己満足ならば、その苦と楽が伴っている関係から、中途半端な満足で納得できていませんから、それ以上の満足を追い求めることにもなっているのです。

しかし今あるものを味わい納得したからにはそれで十分ですから、それ以外の余計なことに無理しなくなり、当然ながら質素素朴になります。

そして無理のない楽な暮らしがいつの間にやら楽しい暮らしにもなるのです。

そしてそれが生きている喜び楽しさになり、それが地上の天国にも思えるようになるのです。

然るにそれを事実にして味わっているから日々更新してお伝えしているのです。

ところが特別な自己満足には余分な金銭の出費が絡んでいますから、それだけ収入が必要になってその分だけ苦労しています。
然るに特別な満足には苦楽が伴うのです。

だから納得し切れないままにその苦楽を繰り返し味わい続けることにもなっているのです。

然るに持って生まれた消し去ることのできない自己満足とその裏の不平不満の取り組み次第で、あなた方の人生が大きく違ってくるのです。

ちなみに巷の特別な神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなどが、
全く必要もない精神力・人間力の人になるのか、

それとも特別が無ければ生きて行くのに不自由する無能な人になるか、

その人間性が自ずと決まってくるのです。