孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

神仏霊魂&精神世界を熟知した玄人クロウトさんの言われることや真似をすることは無理です。

2015年01月31日 | Weblog
ラジオをつけっぱなしにしてゴソゴソとやっているときに時たま仏教の教え御仏の心を語るお坊さんが選ばれて出演していてその会話に聞き入るときがあります。

その中で般若心境の教えが完全真理にマッチしていると感じたことがあります。

また先日のことですが、司会者と対談したその内容は忘れてしまいましたが、その語り方がさすがわ修練鍛錬修行を長年積み重ねてきただけに御仏の教え御仏の心とやらの真髄を物静かで温和で優しさが溢れんばかりに、また如何にも洗練された語り口&何度も語り尽くしてきた感じでミスが無く、しかも内容は誰が聞いても納得できる筋道が通ったこと(思い思惑理想目的期待が込められた内容)を親身に語っていましたから、私も「この人は凄い」と感銘できるほどでした。

ところが私ときたら日付曜日も時間もあまり関係ないような暮らしぶりであり、しかも便器代わりのポリバケツに座って用を足したりそのまま手も洗わないで食事をしたりするしまたパチンコにも行くようなふしだらな?性格であり、また料理らしいこともせずにスーパーの値引きお惣菜ばかり買い込んで賞味期限など気にしないで何日間も冷蔵庫に入れているし、しかも必然ご縁以外に誰とも会わないような生活ぶりからして24時間無言の日が続くときがあります。

またこのブログも寝起きしているときに私の中にあることがふと出てきて書き始め、その書いているうちにまた思いついたり気付いたことを書き足しながらにしてやっとこサ何とかサして文書になっていますから、
然るに人と接するしぐさ・態度や言葉使いも下品で下手な上にしかも日常の会話さえもできないし、着飾らないから見た目にもかっこ悪いし、また自分の知っていることしか会話が出来ませんし、その内容もあちこちとわき道にそれたりしますから、
然るに「あんたは凄い」と感銘されるほどにもなりませんから、此れまでご縁があった人も次第に寄り付かなくなります。

何はともあれ私の中の思いを文書にして書き表すことしか能がないから、
それに比べたらラジオに出演して対談しているお坊さんは何事も成績優秀な感じで、しかも陰日なたがない感じでして、まこと心がきれいな感じで受けとめることができます。

ちなみに私は個人意識丸出しですから何か不都合なことがあれば静まっていた不満がすぐさま頭の中によぎり巡ります。
しかしそれに執着しないからすぐさま納まって平常心に戻ります。

と言うことからして、精神世界の玄人クロウトさんのような立派で清潔清純潔白で温和で感銘深さを匂わす言動表現などが見事なまでに出せる生き様の(あんたは凄い)人やまた仙人が如くの生き方が到底無理な(私と同様な)人たちならば、
そこで個人意識が出てこないように(世の為人の為にも)生活を工夫するしかありません。

となるとやはり欲張らない生き方からして(己の心意識精神の安定と成長の為にも)個人意識を静かに鎮めることしか他に道が無いようです。

そして心の油断からして不平不満が出たならば、そのことに執着しないだけの自力自信精神力を身につけることも重要になるわけです。

「皆して赤信号を渡る」ことになるその原因を理解し納得確信できていますか、

2015年01月30日 | Weblog
過去の釈迦やイエスも最初は単独でした、ところが「あんたは凄い」と次第に集まる人が増えて世間に注目されることになり、その注目されることでこれまた多くの人が集まることにもなりました。

然るに釈迦やイエスを持ち上げる人がいたことからしてそれが組織団体になりやがてこの世で有名になりました。

然るにヒトラーも単独で動いていたのだが、そのヒトラーのカリスマ性を見込んだ権力者が「あんたは凄い」とはやし立て担ぎ出して己の組織団体の金集め人集めや勢力権力の拡大や名誉名声を高めるために利用した者がいたのも事実です。
そして組織勢力が拡大していく中で裏切られた人や裏切った人もいるわけです。

それと最初は組織とはいえないほどの小さな形であっても、己に都合がいい事からしてそれを世間に目立たせるように援助協賛する者がいたり、また援助協賛して大きくなったら己の組織に引き入れる、その濡れ手に粟の如くの目論見があったり、また人気が出て多額の金を集めることが出来るようになってから(詐欺師の如くに)皆の金を集めて持ち逃げする人もいます。

ところで第二次世界大戦で日本帝国が負けそうになった時に「鬼畜米英」と掲げて、その憎しみを国民に浸透させる為に組織団体教育指導者を動かすことになりますから、となると鬼畜米英と思っていなくても自分の立場や命を守る為に従うことにもなります。

ところが「あんたは凄い」と思っているそれらの人が皆の前で鬼畜米英と声を出して訴えているからにはそれに同調して協力しなければならないと思い込んだ人たちも大勢いたことでしょう。

然るにそれが集合意識となり、更に大きな集合体にもなり、それに関わる者の名誉や権威権力や勢力にもなっていくわけです。

また己の名誉名声権威権力勢力の拡大のために、他の勢力を金や名誉や権力を餌にして誘ったり、または脅迫して従わせたり、または勢力権力を行使して敵対する者を滅ぼすこともできます。

然るにそれが国家政治経済であり、また指導教育の中にも含まれています。
だから既にそれらの集合意識に惑わされて危険な橋を渡っているかもしれません。

だから「あんたは凄い」ことからして祭り上げられ&祭り上げた結果からして世界を揺り動かすことになった歴史上の人物が大勢いました。

然るに皆さんの中にも「あんたは凄い」と持ち上げている人がいるかもしれませんし、または先ほどの鬼畜米英の集合意識が如くになって神様仏様の教祖や先生やリーダーが言うままに思い込み洗脳され同調して行動を共にしたりまた応援部隊になったり宣伝布教に惜しみなく働いたりした結果がオーム真理教が如くになったり、または極悪非道の犯罪者となる者を支援していたり、また人質誘拐テロ組織に知らない間に加担したことになっていたりするかもしれません。

たとえ其処までならなくても、あの神様仏様なら、あの凄い教祖や先生なら、あんなに優しくて親切なリーダーが大勢いるのなら、有名な人が何人も入信しているから、あんなに大勢の人が信じ信頼して一堂に集まってくるから、然るに当然私も信じて従っていても間違いは無いと(善はあっても悪は無いと)(得があっても損は無いと)(優越感があっても劣等感にはならないと)勝手に思い込んでいるところがあるかもしれません。

しかし何度も書いているように欲の無い人はいません。

然るに人を集めて、また大勢が集まる中にいて、その良いとこ取りをして甘い汁を吸いたい人がいるように、何かと人が集まるのは欲が絡んでいるからです。

その結果「皆して赤信号を渡る」ことにもなるのです。

釈迦やイエスに優しさ思いやりがあったのでしょうか?

2015年01月29日 | Weblog
完全なる宇宙&神&愛の仕組み&宇宙の法則&自然の法則から言えば=人間意識のためにこの世が創造されたようなものだから=その人間意識が原因からしてその結果が出る仕組みがあるだけです。

また完全なる愛には人間的な優しさ思いやりなどの思い感情が無いから(元からして無いのを出すことは出来ませんから)この世の人間に仕組んで介入することにはなりません。

然るに宇宙万物も同じですから、例えば南極のペンギンやジャングルの象が死に掛けていても成り行きに任せてほっときます。

だから人間が怪我したり病気になったり死に掛けていても、その意識が原因の結果のその成り行きに任せます。

だから怪我したり病気になったり死に掛けたり不幸になるのは神様仏様を信仰していなからとか神仏霊魂や先祖に感謝してその供養をしていなからとか親孝行をしていないからと説く者がいれば、それはそれを説く人の不完全な思い入れ込みであって事実とは異なります。

だから釈迦やイエスと言えども宇宙&神の愛を知ることが出来ても、神の優しさ思いやりを(無いのだから)知ることは出来無かったはずです。

然るにその釈迦やイエスが人間の優しさ思いやりを説いたかどうかは知りませんが、
然るに不完全で矛盾のある人間の優しさ思いやりの愛情人情が神の愛になると説いていたならば、
それは人間である信者の気を引くための「嘘も方便」の類&嘘偽り偽善になります。

ちなみに私が崖から落ちて気を失っていても神の愛でもって助けてくれません(あるがままにほっとかれます)し、其処に誰もいなければ手助けしてくれませんから、そのままに死んでも自分が招いた自己結果でありその自己責任を果たしたことになるだけです。

ところがまだ死ぬ時でなければ、仕組まれた如くに誰かが通りがかり結果的には助かったり、または意識が戻り自力と創意工夫でもって何とかしながら生き延びる道を歩むことになるでしょう。

だから神様仏様&神仏霊魂の助けが無くても、また人様の優しさ思いやりの助けが無くても、己の創意工夫できる自力と自信自立心からして(成り行き任せにして)平然と生きて行ける仕組みがこの世にあるのです。

然るにそこで無理し頑張り欲張り見栄張りしなければ心身ともに楽チンでもって生きていけます。

そして死ぬ時が来れば(生き延びたいがために)無理難題を成すこともせずにそのまま素直に従えばいいのです。

またその方が楽チンに死ねるだろうと思っています。

そこで一言加えれば、子供が歩いていて石につまずき転んでも自力で起き上がり傷があれば舌でなめて何事も無かったが如くに歩き始めるのが本来の姿なのです。

なのに痛がり泣きわめいて親や身近な人の気を引きその他力に甘えたがるのは自力自信不足の我侭&他力依存になるわけです。

然るにそれを病名でいえば精神に障害がある他力依存<症>になるわけです。

また助け合うのは頼り合うのとは違います。
だから互いが自力を出し合いながら、互いが補い合いながら何か事にあたることになります。

だから転んで歩き難くなった人を側で支えて一緒に歩くことになります。
しかしそれでも歩行が無理となれば、その状況を見ていた人が(仕組まれて)加われば、その人数が増えて皆で何とかなります。

そして転んだ人もまたその人を支える側の人も、互いの意識が原因からして共に仕組まれたことになり
ます。

ところが運悪く他に人がいなければ、また誰も駆け寄らなければ、それも仕組まれたことですから、そこで自力を出し切ることになります。

そしてまだ死ぬ時でなければ難儀しながらも何とか自力で助かります。

ところが手早く間単に楽することが出来る救急車に頼れば、もっと困って緊急を要している人の助かる手段を、己の我侭・我欲からして一時奪ったことになるかもしれません。

然るに死ぬも生きるも苦労するのも楽するのも己が意識が原因で仕組まれたその成り行きからして結果が出るのだから、それなら最初から「成り行き任せ」にしているほうが余計な不安心配する事無く呑気気楽になれるのです。

ちなみに成り行き任せに出来るのも(私の場合)己に何か事が起きても自分で何とか出来るその創意工夫や自力や自信があるからです。

また私は感情が高ぶることも無いから動揺することも無く、また後悔し過ぎたり未練を持ち過ぎたり執着心にもならないから、
然るに成り行き任せに「ほっとく」ことになるし、また必然のご縁が仕組まれない限り余計なことをしないで「ほっとける」のです。

然るに今の私があるのも仕組まれながらにして成るように成ったその結果です。
そしてこの先どんなことが仕組まれるかは定かではありません。

然るに思い思惑期待せずに今を味わっていればいいだけです。

結果の形よりも心意識精神の原因を改め修正できない限り、誰が種をまけども実にはなりません。

2015年01月28日 | Weblog
善良なる者がこの世の形あることを成してもそれは一時しのぎであって、まさに焼け石に水が如くの結果になりますし、しかもその地域の限られた所だけの結果であって、まだまだ多くの人が取り残されていますから公平さに欠けます。

だから震災災害や貧困飢餓で飢えている者に食料を与えてもそれを食べれば減り続けるからその繰り返しをすることになりますし、その食料の心配が無くなれば今度は夜露や雨風をしのげる住む場所の心配&欲求もありますし、更にその立地条件や快適便利さを欲しがることにもなり、次に収入を得る働き場を欲しがるし、何とか落ち着けば今度は苦労の少ない楽を望むし、更に、更にとキリも無くのが欲です。

だからと言ってどこかで打ち切れば中途半端で終わり完全とはいえませんから(結果的には途中でほっとくことになりますから)此れまでの経緯が有っても無かったことになり、あれ程まで感謝していたのが「雨やんで傘を忘れる」が如くの無常なことにもなるかもしれません。

然るに善良なる者&偽善者が一生尽くし切っても(種をまき続けても)キリも無く続く欲がある限り、その途中結果が出ても(花が咲いても)実はなりません。

だから結果の形よりも心意識精神の原因を改め修正できない限り、種をまけども実にはなりません。
然るに助けたと思っていても心意識精神までも助けてはいないのです。

結局は無駄骨だったのです。
然るに結果を見ずにして原因の心意識精神を見るのが精神世界の根本なのです。

なのに「何もしないよりもマシだろう」「有る方が無いよりもマシだろう」と正当化して自己満足したがることにもなるわけです。

そしてまたその自己満足&偽善からして何事かを成したがるわけです。

然るに(私ごとですが)偽善の私が同じ偽善者を作る結果になるよりも、最初から「ほっとく」ほうが(相手任せにしておくほうが)私が無理もせずに余計なこともせずに無駄なこともせずに、然るにいらぬ苦労&気苦労もせずにすむし、何たって他力依存の者&死んだも同然の意識の者を増長させる結果にはならないわけです。

そしてほっとけば反対に自力でもって自立して自由に振舞うことになるかもしれません。

ちなみに他力依存型だった妻が(私に頼れなくなって)自力で自立して(私に何の遠慮も無く)妻の意のままに暮らしています。

また過去の贅沢が無理になったことで(不本意ながら?無駄使いが出来なくなって)倹約することが身に付いたようです。

然るに皆さんに何か思うところがあれば&違和感があればコメントを書いてください。

欲張らずに食って寝て糞をしながら生きていることが地上の天国になる

2015年01月27日 | Weblog
宇宙&神&愛の全知全能にして天地創造されたことの他は不完全意識・矛盾意識の人間が形作ったものですから、当然ながら同じ不完全で現れ出る結果に矛盾があります。

然るにそれが医科学によるものであればその弊害副作用があって当然になります。
またそれが信じる神仏霊魂先祖や超能力者によるものであれば尚更のことです。

然るに医科学で健康を取り戻したり怪我や病気が治っても、また人間の命が救われたとしても、その原因である肝心要の心意識精神が治癒修正され救われたことにはなりません。

だから何かと困ったことが何度でも繰り返されるわけです。

また信じる神仏霊魂先祖や超能力に頼ったことでたとえ体が救われても心意識精神が救われることは絶対にありません。

それでも信じるがゆえに心意識精神が救われたと思うことがあるかもしれませんが、それは錯覚勘違い思い込みすり込み現象の自己洗脳や魔術が如くの他者洗脳を受けているからです。

ところで「風邪は万病の元」と言われますが、その風邪を自力治癒力によって治すことをせずに(静養しないで)急ぎ慌て手短に医科学に頼れば、その弊害副作用からして更なる病気を招くことになるのは間違いありません。

ところで「助け合う」ことは他力に頼り合うことではありません。

それぞれが自力を出し合って共に結果を出す働きをするのが真の助け合いです。
だから偽善はありません。

然るに善意からして手短に誰かのお金を集め合う形の寄付金や義援金による助け合いも他力に頼る他力依存ですから、その裏に弊害副作用となる偽善が隠れているわけです。

また体の苦痛を癒すのに手短な他力に頼ることになればその弊害副作用が起こることにもなりますが、しかしその苦痛を真摯に受けとめてしっかり味わうほうが己の為になるようです。

ちなみに苦しみもがくことで過去の罪滅ぼしになり、また心意識精神の汚れが清められるとも言われています。
然るに苦しみもがくことで何かと精神的に気付くことにもなるのです。

ちなみに心意識精神からして喜んだり悲しんだりするのは「己の思い」から起きていることですから、然るに自己満足と不平不満の苦と楽で矛盾する結果にもなるわけです。

ところがその喜びをいつまでも忘れないで心に留め置けば満たされたままに時を過ごすことになります。

しかし反対に不満不足を抱いたままにいれば(小さなことで)喜べるはずもありません。

然るに生きていることに喜びを見出せば、その生きている限り満たされた心持を味わえます。

然るに特別なことで喜びを見出すのはその能力からして難しいが、ごく些細なことで喜びを見出せるようになれば至極簡単になります。

然るに食って寝て糞をしながら生きていることで何の問題もなければ地上の天国とも思えるわけです。

何はともあれ欲張らなければ(人に頼らなければ)その苦楽の矛盾を味わずにして生きながらえます。

世間の片隅で静かに生きている人は「選ばれし者」となる可能性があります。

2015年01月26日 | Weblog
現代の何でも簡単に知ることが出来る&お膳立てが整っている時代に生きている人は選ばれし者と言えるかもしれません。

何たって高度な教育指導を受けて読解力・理解力や判断力も備わって利口にもなっているし、地球の果てから隅々まで起きていることを瞬時にキャッチできる環境にあるし、また地球誕生以来から現在までの時代の推移(始まり終わる繰り返し)も学んで知っているし、またこの世人間関係の矛盾・不完全さも大いに味わっているので、
ここで私が事細かく書かなくても簡単に納得できるだけの知識能力が備わっているはずです。

それでも誰かが語ることも書くことも無ければ確認できないから&確信自信が持てない場合もありますから、然るにその道の先生の言うことに聞き入ったりネット検索で様々なことを検分することもできるわけです。

然るに見えない世界・摩訶不思議の世界となると尚更のことです。

ところが肝心要の精神世界が後回しになって、占い運勢や予言予知やUFOや宇宙人と言った未来・未知の世界を知りたがることになったり、また超能力の類に魅せられたままにそこで止まっている人も多いはずです。

となると此れまでの学問知識や体験経験見聞したあらゆる分野の情報・自力を活かすことにならずにして、
何やら他力依存的な人任せのようになり、そして言われたことをそのままに鵜呑みにして受け入れてそれを信じて従うような形になり、結果的には自分を見失っている形になり、生きているが死んだが同然の生き方になるわけです。

また矛盾のある邪な精神世界に関わってその被害者になっていることも知らずにしてそれをブログなどに書き込んだり、また不特定多数の者にわざわざ出向いていったりして、その宣伝布教に精出して同じ被害者を作ることになっている人も大勢います。

またそれ程の能力があるわけでもないのに不確かなことを如何にも確かで自信あるように見せ掛けてまで己を売り込みたがる目立ちたがる輩も何かといます。

だからヘンテコな精神世界に関わらずにして
世間の片隅で静かに生きている人のほうが(今の時代を選んで生まれ)(滅びて新たに始まる時代に生きる)「選ばれし者」となるかもしれません。

然るに(私が思うに)この時代を破滅に追いやる比較競争のピラミッド型の組織に馴染めずにして落ちこぼれた人のほうが(特別が少ないから)何かと欲張らずに謙虚質素素朴に暮らしていると思われるからです。

何はともあれ医科学や物質経済を優先してきたそのツケが目白押しに起きているからにはその災害被害に遭遇することになりますから、然るに多くを持っている特別な人よりも少ない人のほうが動揺することも少なく(未練執着にならないで)その心意識の立ち直りも早いから、困ったことに執着することなく平常心で生きていけるようになるからです。

そして多くを求めない・欲しがらないままに(無理する事無く)生きていけるから、結果的には自己縮小したことになり、その自己縮小を実際に真摯に味わうことにでもなれば更に欲張らなくなってそれだけ自力を多く使うことになり、その自力を使って生きていくことに真の価値があることにも気付きます。

だから(例えば)必然ご縁からして欲張らない者同士が(少人数でも)集まることになれば、それぞれの個性役割&自力を出し合いながら共に生きていくことになれば、互いに否定反発されることも束縛制限されることも無く、その自由と平等にして共に生きる調和の人間関係にもなれるのです。

そうなれば、今まで誰も味わったことがないような人間関係にして(新たな始まりの前兆&お手本として)新たな生き方が出来るようになるのです。

欲を抑える抑制心・自制心を超えるのもその<欲>です。

2015年01月25日 | Weblog
私たちは学問教育のお陰で様々な知識を得ています。
然るに石器時代が滅びることになったのは青銅の武器によるところがあり、また青銅よりも硬くて切れ味の鋭い鋼鉄の武器が出てきたり、更に爆薬までが使われるようになったりして同時に時代が進化発展して来たことを学び知りました。

然るにそうなったのも、少しでも優れた物を欲しがり、少しでも便利で少しでも速くしたい欲や少しでも多くを得たい欲からして生きてきたからとも言えます。

そして岩をも砕くダイナマイトが爆弾になり、多くの物を運ぶ船や車が戦艦や戦車にもなり、空を飛んで距離を短くしたり高速で時間短縮するための飛行機が戦闘機になり、ロケットが核ミサイルにもなりましたが、それも最初は良かれと思ったことから始まったことなのです。

また泥棒が悪い事とは知りながら泥棒をする人があとを絶ちません。
然るに人を殺めることは悪い事と知りながらもそれを繰り返す人もいます。
その原因に少しでも良くなりたいと手前勝手に思って欲しがる欲があるからです。

その良かれと思った欲からして大事になるのは、その欲からして自制心が失われて心意識精神が闇に覆われたが如くになって闇雲に突き進むからです。

然るに欲ほど恐ろしいものは他にありません。
しかもその欲からしてすべてが始まってもいます。

ところが少し位ならいいだろうと思うことからして、然るに「あまり」欲張らなければいいとして、欲張ることを正当化したがります。

然るに少しでも良くなりたいと思ったり、人を少しでも良くして上げたいと思うことが良い心であって欲ではないと正当化しているのです。

ところが欲だけは止まることを知りませんから、然るにキリも無く続きながら更に大きくもなります。

そして欲を正当化すると私は正しいと思うようになり、持ち前の抑制心自制心さえも突き破ることからして大変なことを仕出かすことにもなるのです。

またその欲が集合すると岩をも砕くような破壊意識となって互いが争い戦うことにもなり、そして少しでも早く決着をつけるがための欲からして大量破壊兵器や核爆弾のスイッチを押すことにもなるのです。

だから大事になる前に欲張ることをやめなくてはなりません。
ところが皆して欲張ることをやめるのには無理があります。

だから欲が自制心さえも超えて恐ろしいことを仕出かすことを知ったならば、その知った者だけが欲張らずに生きていくしか他に道が無いのです。

ちなみに欲張らなくなると必然ご縁の成り行き任せにして生きることになり、そこで特別な自己満足が無くなりますがその苦も当然ながら無くなりますから(喜怒哀楽が無くなり)然るに心穏やかにして「楽に」生きることになります。

何はともあれ、この世に欲があるのは皆して欲張るためではなくしてその欲を無くする事にあると自覚納得確信に至ることです。

「人間」やめますか!?

2015年01月24日 | Weblog
暇なことからしてその時間つぶしに精神世界を多角的に捉え事細かく書いていますが、どの内容を読んでも筋が通っているし矛盾もないからブレていません。
然るに同じ言葉が何度も何度も出ています。

ちなみに私は自分さえ良ければの個人意識&不完全な矛盾意識を持っていますから、それがどこかで出ていてもおかしくはありませんが、しかし矛盾が無く事実を書いていますから筋道が通るわけです。

それを言い換えれば不完全な矛盾意識ながらも書いている内容は事実にして神意識に到達したかのような内容となるのです。

それが何故ならば「完全なる答え」完全なる宇宙&神&愛を説く完全真理を知っているからなのです。

そして不完全ながらも結果的には完全となる「欲張らない」自己縮小の実践で締めくくるから矛盾なく終わるのです。

そして完全なる宇宙&神&愛意識からして人間的感情がありませんから、然るに喜びや悲しみや苦あれば楽ありの矛盾がありませんから、然るに常識離れ世間離れ薄情にも思えるのです。

しかも人間はその思いの世界&空想仮想の世界で生きているようなところがありますから、現われ出た真実事実だけを素直真摯に受け入れることが苦手となり、やはり偽善となる人情感情導入や裏のある美しい言葉で飾り立てたりまた飴と鞭のある一般的なほうが馴染みやすいようです。

だからこのブログを読んで納得できないままの中途半端になり、結果的には完全な答えを知らないままに終わっていることでしょう。

また納得できなければそれをコメントにすればその答えを知ることが出来るのに、その価値さえも無いと自己評価しているところがあるかもしれません。

何はともあれ、精神世界&哲学思想&宗教&真理を知らなくても、何かと欲張らなければ不満不足にもならないことが常識の範囲で誰でもが理解できるはずです。

なのに自分の都合からして否定反発したり無関心を装うならば、
然るに体は生きていても心意識精神は死んだも同然になりますから、

然るに「人間やめますか」となるのですが、
それさえも理解できない人も多いことでしょう。

「ほっとけない」良心的介入が弱い心の人や弱い国を惑わし侵入して侵略略奪支配し勢力にもなります。

2015年01月23日 | Weblog
このブログはどうしようもないこの世人間関係を書くことで個人の自由&孤独の自由を書くことになり、その孤独の自由を実際に味わうことからしての実感を様々な事柄に当てはめて書き続けています。

然るに「ほっとく」「ほっとかれる」関係からして<自由>があり、それが人間愛にもなることを書いていますが理解できているでしょうか、

そして「ほっとけない」ことを良心と見せ掛けて欲絡みの介入介在となり、結果的には弱い心の人や弱い国を惑わし介入侵入して侵略略奪支配し勢力拡大の形にもなっている事実に気付いていますか、

また「ほっとけない」で関わったことからしてキリも無く続いている現実事実に気付いているでしょうか、

然るにその途中結果が今のこの世でありその人間関係だと理解できますか、
然るにそれがキリも無く(過去から)続いてきたことやこの先々までキリも無く続くことに気付いていますか、

然るに途中結果ばかりで完結しないままに続くその原因が人間の心意識精神にあることに気付いていますか、

然るにいつの時代でも「少しでも良くなりたい」「少しで良くして上げたい」その心意気良心が偽善となり欲張ることになっている事実に気付いていますか、

然るに「どうする」ことも出来ないこの世人間関係を己の力量で何とかしたがることが無理で無駄で余計なことになる事実があることに気付いていますか、

その個人の力量を超えたことになると神頼み奇跡頼みやその道の教祖先生頼みになって人が集まるから、それが名誉や権利にも勢力にもなり、そして敵対する者同士が競い合い争い戦うことにもなっていることに気付いていますか、

然るにそんな世の為人の為ではなくして、己の為に己の心意識精神を改め修正して玉ねぎの皮をむくが如くに磨き上げることが先にあるのが真の精神世界だと思えていますか、

然るに他力に頼る事無く自力を高め創意工夫することを続け、そして自分に出来ることを成しながらタダ生きていくだけで満足して特別を欲しがらなければ、

然るに欲張らなければ不平不満になる事も無く(何事も無く)それで一旦終わることになりますが、
しかしそれでも欲張ることは必要と思いますか、

何かあればコメントしてください。

ほっとく&ほっとかれる関係が愛の自由関係になり否定反発&束縛制限支配されることにもなりません。

2015年01月22日 | Weblog
阪神・淡路大震災から20年になることからしてその特集番組をラジオで聞き流していましたが、しかしその司会者や著名人のお客さんやその道の専門家やリスナーや災害被害者の言葉に引き込まれその温かい心に涙していました。

ところが皆が自分さえ良ければの個人意識&不完全意識を持っていることを知っているだけに、聞こえてくる言葉のどこまでが本物本心なのかと勘ぐるところが私にあります。

また善意の寄付金募金の全てが被災者に渡るわけではないその事実が私の中では違和感になっています。

何たって仲介する組織団体財団が無償のボランテアではないから、その役員や社員の給与や管理維持費に使われて大半が消えているのではないのかと気になっているのです。

またその仲介する者の権限権力で支給額が線引きされたりしますから、一見公平に見えても個々の状況からして見れば、その線引きされたことでランクが上や下になることでその差&質と量が大きく違えばその不平不満が出てきます。

また公平平等にしたくても条件的に無理だから、そこで多くの人が非常に困っていることを強く主張するところに援助救済が優先される傾向にあるが、ところが同じように困っていても皆と離れていたり欲張らずに静かにしている人が後回しされたりして質と量が違ったり残り物を受け取ることになるかもしれません。

しかもこの世の現実&世界を見れば到る所にもっと困っている人が大勢いますから、援助が無いよりも有る方が良いだろうとして一度関わると途中で止めることができないほどキリも無く続きます。

然るに根堀り葉堀り書いてもキリがありませんが、
何はともあれ不完全意識の者が同じ不完全意識の者と関わるからにはその結果も不完全ですし、それがキリもなく続くかもしれませんから、そこでごちゃごちゃとややっこしいことをせずに(下手に関わるらずに)「ほっとく」ほうが世界中で困っている人にも公平ですし、また困っている人同士で少しでも助け合うことにもなったり、また自らがなんとか生きて行くための創意工夫をすることにもなり、その自力が付いたり自信や自立心につながると思います。

然るにライオンが子を突き放すが如くの親心の愛にもなるのです。

何はともあれ生きていく中で一時しのぎの形を用意することよりも、一生使える自力や創意工夫する能力を身に付けることが重要になるのです。

そして自分さえ良ければの個人意識を出さずに済む自己縮小からしてその自力自信や創意工夫することが身に付けば、それが肉体的にも精神的にも「己を救う」結果にもなるのです。

だから困ったと思わないですむ自力自信の精神力を磨くことも必要になります。

然るに生きてさえいれば何とかなるその精神力、また思い思惑理想目的を持たないままに成り行き任せに生きることができるその精神力も必要になります。

そして皆のことを「ほっとく」からには、己自身が皆に「ほっとかれ」て生活苦や孤独になることや家族に看取られない孤独死や野たれ死も苦にならないその精神や成り行き任せに生きることができる精神&自力自信も必要となるわけです。

然るにその「ほっとく&ほっとかれる」互いの関係からして矛盾はありません。
その矛盾の無い関係が愛の自由関係でもありますから、そのほっとく&ほっとかれる関係からして何かと否定反発されたり束縛制限支配されることにはなりません。

とにかくほっとけないで介在することは欲絡みなのです。
そして自力自信の欠如した人が他力依存になり(介在されて)そこで自由を失うことになっているのです。
その自由なくして幸せになれることは絶対ありません。