矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自力・自信・自由からして他力依存や比較競争・差別意識が消えて自由・平等・調和になります。

2012年05月31日 | Weblog
「良い悪い」で判断して、その良いとこ取りをする、自分さえ良ければの個人意識を持った不完全意識の私だけに、如何に完全真理の実践意識でいても、何か気に入らないことがあれば不平不満を持つこともあります。

しかしいつまでも執着してその不満を持っているとその精神の乱れから精神的・気分的な負担から面白くない時間帯を持つことになりますが、その面白くない思いをしているのは私自身ですから、それを損得で判断すれば私は<損>をしていることになりますから、その損な事を早く終わらすためにも執着しないことにしています。

すなわち不平不満を持った人にその不平不満があるわけですから、その不平不満を早く終わらすことが出来るのも<自分>なのです。
ところが(自分が損をしているところの)不平不満を人様に吐き出すことで(人様を動かし)(他力を使わせて)自分が少しでも得をする立場になりたがることからしてその人間関係に影を落としているのです。
その他力の中に衣食住やの物質金銭や医科学からまた精神的なこともあります。

すなわち不平不満を持つことになるその多くは己の自力で解決しないでおいて、他力に頼るその弱い心の「他力依存」を持っているからです。
だからそんな他力依存の人が完全真理を学び知ってもその実践となると相当に難しくなります。
そこでまた実践することよりも「信じて頼る」その他力依存や願望や神仏祈願にもなるのです。

しかもその他力依存を持っているから<自由>になれないでいるのです。

だから完全真理の実践には絶対的な自力とその自信の精神でもって自由・独自独歩に歩んでいくしかないと書いているわけです。
しかしその自由・独自独歩の歩みを邪魔して難しくしている世間やその人間関係がありますから容易ではありません。
ところが私の場合は既に世間離れした過疎地で「お一人様」生活しているだけにその人間関係で邪魔されていません。
だからその自力と自信の精神力があれば安心安全の自由に生きる事が出来ることを「実感」でもって私は味わっているのです。

しかしその自由の為に仕事・収入に支障が出てきたり、家族との関係にも支障が出てきたりして、生活が大きく変ることにもなりますが、それが自己縮小につながれば申し分ないわけです。
しかしそれらが不足・不平不満になるようであれば(前頭に書いたように)自力で解決出来ない未熟さと他力依存の思いがあるからです。
だからその他力依存の多い人ほど完全真理もその実践も不向きになります。

すなわち他力依存の強い人ほど自らの自由も失い、また人様の自由までも巻き込んで邪魔をすることになる、はた迷惑な「どうしようもない」意識の人になります。
しかも己が持つ不平不満の原因を何かと人様の責任に思い違いしていますから、自分のその間違った不完全意識を改革修正することよりも、(赤子から老人までの)人様を「正し」たがる(はた迷惑な)ところがあります。

それが「私は正しい」の潔癖・完璧主義であり、しかもそれを主張し顕示したがりますから、尚更に困った人になります。
しかもその「私は正しい」の意識を持つ人ほどにその守り意識も強く持っていますから、尚更に「どうしようもない」意識の「はた迷惑な」「困った」意識を持つ人になります。
更に私は正しいの正義感の主張顕示からして喧嘩・暴力沙汰になったり抗争・戦闘・戦争にも至っています。

そこで自力・自信の自由に生きることからして他力依存に頼る必要もなくなり(その不平不満を持つことにもならず)、またその他力の比較競争・差別意識も消えていきますから、その自由と平等の調和意識で生きていくことが可能になるわけです。

※衣食住や名誉・肩書き・権力・財力や医科学などの<他力>をあてにする事無く、宇宙・神・愛のお仕組みによる必然ご縁の「成り行き任せ」(自然体)の結果であれば、前もって思惑期待したことでもなく、また欲を出して無理し執着していなかっただけに、その結果を得たことが成り行きだけに「ありがたい」思いになることがあっても不平不満になることはまずありません。
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<謙虚><素直><真面目><真剣>が完全真理を呼び込み、その実践から調和を求める意識になります。

2012年05月29日 | Weblog
<謙虚>で無ければ小さなことを大げさに思いますから、その小さな自己満足を大げさに誇張し自惚れそれを人様に自慢したがりますし、また小さな「不平不満」であってもそれを大げさに思い、(当然のように)それを吐き出さなければ気が治まりませんから、その吐き出したことが原因から人様をも不愉快にする(巻き込む)ので、「はた迷惑」な意識を持つ人になります。

<素直>で無ければ(私が正しいとばかりに)「否定反発」することが多くなりますから、これまた人様の心を傷つけることになる「はた迷惑」な意識の人になります。
<真面目><真剣>で無ければ意識力・精神力に欠けていますから、人様に「はた迷惑」を及ぼすことに気付かずにして自分勝手なエゴ・行動・振る舞いが目立つようになります。

「完全真理」に必然・ご縁があった人は概ね「謙虚」「素直」「真面目」「真剣」になれる人だと思います。
だから「不平不満」を持つことも少ないはずです。

愚痴・小言・不平不満・陰口を吐き出すその「人の口」に戸を立て掛けられません。
だからその場から逃げるなり、その人から離れるなり、諦めるなり、気にしないでほっとくしかありません。
それが出来なければ自分までが巻き込まれる格好になります。

「不平不満」を吐き出したがる人が完全真理にご縁があるはずは(絶対的に)無いと思っています。
何故なら「意識が原因の結果の世界」だけに、真面目・素直・謙虚・真剣の精神力・意識力やその実践行動力に欠けている人に「完全真理」が仕組まれるはずもなければ、また目の前・身近なところにあっても「気付く」はずもなければ、また自分に不都合なことが説かれているのが多ことからして否定反発したがりますから、絶対的に「知りたがる」ことにもなりません。

自己満足・自惚れや不平不満を人様に吐き出したがる人が自己縮小できるはずもありません。
その不平不満に執着して不安心配や恐れから自分を守ることになる人に自己縮小の実践が出来るはずもありません。
寂しがる孤独感を持つ人が自由になれるはずもありません。
自力と自信が少ない人ほど他力をあてにしますしから自由もなく、また他力依存が思惑期待に変わり、それが期待道理・思い通りに成らなければ不平不満になります。
だから他力依存の人ほど不自由することになり、その分だけ不平不満が余計に増えることにもなります。

宇宙・神・愛の仕組みの必然ご縁から完全真理を知ることになる人もごく限られています。
その完全真理の実践が出来る人となれば更に限られます。
その実践が本物となって、他力依存や願望や祈願することもなく、独自独歩の自由に生きることになる人は更に限られます。

自力を多く使うことでの肉体的・精神的な苦と楽の矛盾を味わうことなら自己意識の進化に役立ちますが、衣食住やの金銭物質的な他力や人頼み神頼みが原因の苦と楽となれば、その他力依存・他力任せの弱い意識が根底にありますから、自己意識の改革・進化・変化に役立つ精神力向上の自力・自信にはつながりません。

真面目・素直・謙虚・真剣な実践意識であれば自分の未熟さ・不完全さに「気付く」ことができます。
その気付きが多いほどに些細な気付きも多くなります。
そして差のない価値観の伴わない、ごく有り触れた「素朴」の真価・価値を丸ごと味わえるような意識に変化・進化していきます。

素朴には調和があります。
その調和を求める意識が無ければ絶対的にその調和を味わえる意識になることはありません。
だから完全真理を「意識した実践」が必要と書いているわけです。 
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自己拡大で潔癖・完璧を求めていると余裕がありませんが「完全」を求めている人には<余裕>があります。

2012年05月25日 | Weblog
完全真理は矛盾も妥協もない完全ですから、嘘偽りの無い真実・事実である事を知り、そして完全だけに絶対に「成る」ことだと知ります。
そして完全真理を深く理解できた人であれば<人間>として生きていくのに絶対に必要だと自覚できます。
そして此れまでの「良い悪い」で判断していた矛盾のこの世が終わり、宇宙・神・愛の完全意識の「調和意識」による人間史上初めての<至福>で生きる時(進化の時)が来ることを知ります。

また完全真理を心底理解しなければ我が身がもつその矛盾する意識に(些細なことにも)気付くことは出来ません。
その理解もその実践もままならないままにいる人や、もう既に完全真理を意識することさえも忘れているような(どでもいいような)人がいれば、それらの人は完全真理を(求めていなかった)必要としなかったことになりますが、それも完全真理を深く理解できなかったことが原因です。

また自己拡大で潔癖・完璧を求めていると精神的にも時間的にも余裕がありません。
しかし「完全」を求めている人にはその<余裕>があります。

また己の「意識が原因の結果」からして言えば、矛盾・裏表のない「調和」意識による<至福>を望む意識、すなわち調和・至福を「求める」だけの意識、そのためには調和・至福の「必要性」を自覚悟っていなければ(意識に無ければ)到底無理なことになります。

また「私は正しい」の潔癖・完璧主義やその「守り意識」を持っていれば、その裏の不安心配・恐れでもって安心・安全の精神が失われていますから、当然ながら実践が疎かになっていることの証になります。

ところが安心安全の精神であれば先行きの不安心配もありませんから「成り行き任せ」の自然体に生きることが出来ます。
だから真坂の有事の事件や事故や重病や死にいたることを心配したり不安に思うことにもなりません。
そして己の意識が原因から真坂の有事になった時にでも(自己責任で素直に受け入れて)自分なりの自力と自信で対処すればいいだけです。

その有事が我が身に起こることは、此れまでの「良いとこ取り」の裏が出て困ったことになっているのですから、その悪いこと(有事)になった全部をそのままに受け取ることでその良いと悪いの両面・裏表のバランス・調和がとれて、その困ったことに「執着」しないままに平然と味わえる意識になりますから、その困ったと思うその思いが消えていきます。

それが怪我であれば、それを全部受け入れて、その怪我の痛みや苦しみを(余裕でもって)十分に味わえばいいのです。
そしてその怪我が重傷で生きていくのに支障がある時には必然から医科学に頼ればいいのです。
それを安易に薬剤や医術に頼ればそれも「良いとこ取り」になりますから、たとえ症例症状が治癒回復することになっても、やがてその裏が出てもっと困ったことに進化・変化することになります。

ちなみに生きていくのに支障がある重症になるのも、それ以前の小さな怪我や風邪などを自然治癒力・養生・休養の余裕でもってゆっくりと治さずに(症状を丸ごと味わずに)、安易に薬剤や医術の良いとこ取りで手っ取り早く治癒させるたがるその余裕のない意識が原因の裏が出て(弊害副作用)次第に進化・変化(重症化)してきたものですが、その怪我や風邪などを患う原因意識も我先に欲張り無理する「良いとこ取り」にあります。

私はその真実・事実を知っているだけに(此れまで何度か)3針から5針ほど縫い付けるような切り傷でも、血止めにヨモギやタバコをあてがうだけですませて、完全治癒するまでその怪我・痛みを十分に味わいます。
また無理な姿勢の連続から腰を痛めたときや転落から打撲したときなども薬剤や整体士に頼ることをせずに、その腰痛・打撲痛を十分に味わいながら自然回復するまで余裕でほっといています。

だから私が要介護を受けることや死する時が来て相当に難儀し苦しむことになっても、此れまでの良いとこ取りの裏の自己責任を果たすためにも(負の帳消し罪滅ぼし)(来世につながる成仏のためにも)安易に薬剤や医術介護に頼る事無くその難儀・苦しみを丸ごと味わうつもりでいます。

すなわち小は大につながるだけに、その小さな些細なことにも十分意識していることからして真坂の有事の大きな事にも同じ対応が出来るわけです。 ゆえに小さなことに気付ける自己縮小が必要にもなるわけです。

そのごく些細な良いとこ取りも実践意識で気付けますから、その気付きによって良いとこ取りが次第に減っていくのです。
またその良いとこ取りが少ないほどに何かと思惑期待することもそれらに執着することも減っていくのです。
すなわちピラミッドが一夜にして築けないように完全真理も同じでして(時間を掛けた)(余裕のある)日頃の実践意識の継続が必要なわけです。
そして(手っ取り早い)他力依存や他力願望・祈願にもならずに自力と自信で続けることができるのです。

そして「完全」を求め知りたがる実践意識には自ずと自己縮小が伴いますから、精神的にも時間的にも<余裕>があるのです。
また余裕から暇で退屈しているだけに些細なことを十分に味わえるし、それがまた新たな気付きにもつながるわけです。
だから大きな変化刺激が無くても平然と生きていけるのです。
それが波風のない安心安全の生活にもつながるわけです。
すなわち「些細」なことが<すべて>につながるのです。

前頭に書いたように「意識」が原因の結果の世界ですから、完全真理を求め知りたがる意識でなければその完全真理を自分のもの・本物にできるはずも絶対になりませんし、その実践意識によって調和・至福を味わえることを求めていなければその調和・至福も絶対に得られません。
だから中途半端な他力依存や他力願望があれば同じく(全部丸ごとにならずに)中途半端なままに終わるのです。

だから知りたがる、やりたがる、味わいたがる、実践したがる意識が無ければ、その完全真理の正味・真価を知ることにも無理がありますし、まして調和意識の至福の時の正味・真価を味わいたがる意識にはなれません。
ちなみにこのブログも同じでして、ただ読むだけ、ただ文字列を見て(飛ばし見して)いるだけでは、些細な真実・事実を(一行一句)奥深く書いていてもその真価を読み取り感じ取ることには無理があります。
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見えない忘れ物を捜す「満足探し」「自分探し」「神探し」と「謎解き」が<完全真理>で完結します。

2012年05月22日 | Weblog
人間としてこの地球に生まれ人それぞれの生き方があると思いますが、その中で精神世界を意識して暮らしている人がどれほどいることでしょう。
殆どの人が物質経済の一般的生活を意識して暮らしている中での時おりの冠婚葬祭や困ったときの神頼みなどで神仏祈願する程度でそれ以上に進むことはありません。
だから自らの意識でもって常に精神世界を意識している人がごく限られているのは事実です。

しかもその中に宗教を信じている人が多いのも事実ですが、その宗教となると、その宗教家や教祖によって人為的に彩られ装飾・創作・偶像化された特別な神様が祀られているのもや宗教家や教祖に都合が良い様に神を説くものですから(宗教家のための宗教になり果て)、そんな偽善の神様を信じることでは真実事実の神を知ることには絶対的な無理があります。

と言うことは(このような状況であれば)精神世界の宇宙・神・愛の真実・事実を知る者が極々限られていることになります。
となると(不完全な宗教真理などに馴染むことなく)完全な宇宙・神・愛を説く完全真理を学び知ることになった人達は導かれ・招かれ「選ばれし者」同然と言えるわけです。

だから信じて頼る他力依存や願望や神仏祈願する意識も少ないはずです。
そして暮らしぶりがどうであれ、自力・自信からしてそんなに困ったことにもなっていないはずです。
また真剣真面目で集中・熱中するがそれでも無理のない余裕のある生き方になっていると思われます。
・・・私の事例を踏まえてのことですが・・・

だから何か忘れたその「忘れ物」を捜すような感じ、それを「自分探し」「心の満足探し」「神探し」と言えるような感じではないでしょうか?
だからそれが見つかるまで止まる事無く進んできた感じではないでしょうか?
そして未だに「探し物」が見つかっていない感じではないでしょうか?

そこで(このブログで)私の過去から現在までの経緯を何かと書いていますが、とにかく人より先んじて行う先取り意識が強くて次から次と先んじてきましたが、その先んじることが以前のものより選りすぐれていたからであって、それが劣ることであれば(誰も)見向きもしなかったはずです。
そしてその際に、此れまでの優れたものよりもそれ以上の優れたものを手にしたわけですから、その過去の優れものが色あせてきますから惜しげもなく捨てる・手放すことも出来るわけです。
だから結果的に言えば「優れたもの」を探し続けることにもなります。

だから先取りで満足してもやがて面白さが薄れて飽きが来ることのその繰り返しをすることにもなったのです。
その中に物質文明の進化の先取りで贅沢してきた過去がありますが、その先取り意識からして世間的ではない摩訶不思議な見えない世界を意識するようになり、それが精神世界・霊魂の世界に進化し、更に完全真理に進化して現在はそれ一途になって約12年になります。

もしその新たな物(探し物)が既に得て持っているものよりも「劣る」ことになれば、その途中で止まり元に戻るでしょうし、そしてまた次ぎなる新たな物に意識を使うはずですが、しかし元に戻ることなく、また寄り道することなく、約12年間ほど完全真理一途にいるということはそれで十分満足していることになります。

しかも物質文明の進化中に贅沢を精一杯していたのに今や過疎地で暮らすことが満足になっているのですからまさしく意識の変化です。
それがもし過疎地で暮らすことが過去の生き方よりも劣ることに思えたのであれば途中で止まり元の派手な生活に戻るはずですが、その元に戻ることが虚しい生き方になると実感でもって気付き・確信悟っているのですから、当然ながらこのままがずーッと続きます。

更に完全真理に添った自己縮小の実践にもなるのですから今以上の生き方が私にあるはずもありません。
だから今後仕組まれるとしたら、それは調和意識の「至福」しかありません。
しかし今は未熟な不完全意識には変わりありませんから調和の至福は絶対的に無理です。

だから此れまでの自力と自信と安心安全の精神力でもって心穏やかに生きる事を意識して死するまで無理なく生きるだけです。
その私の思いをブログに書き続けているわけですから(多分)私に似た者がこのブログに集ることになると思っています。
そして選りすぐれたものを探し出すその進化の歩みが完全真理で完結するはずです。
そして「調和」の人間関係から「至福」を味わえることになる新たな地球人類の次元に必然ご縁で仕組まれるその進化を<待つ>だけです。

(付記)
誰もが世間一般的な人生で終わる確率が多いのは事実です。
ところが(私の場合は)欲張らない無理のない執着のない「成り行き任せ」に生きているところが多かった中で、その成り行きからして確率的に低い「見えない世界」摩訶不思議の世界に導かれ・招かれてそれをマスターして、更に確率的には極まれな「精神世界」霊魂の世界にまでも導かれ・招かれてそれをマスターして、更に最も確率の低い「完全真理」に導かれ・招かれてそれを自分のものにしてきた経緯があります。
しかも自己意識の転換(意識変わり)によって長年続いていた自己拡大・贅沢三昧を家族と共に味わっていたのが今やその家族から離れた・しがらみから離れた(世間離れした)(確率的には極まれな事例となる)過疎地で自力と自信と安心安全の精神力とその独自独歩の歩みの単身生活を十分に味わっていることからして言えば・・・このブログに必然のご縁あって読まれるその内容は目新しくもまた深い味わいのはずです。
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完全真理が自分のものに成らない人や確かな実践が出来ないままにいる人の多くは「守り意識」が強いようです

2012年05月19日 | Weblog
このブログに来られる人達は摩訶不思議な見えない世界・精神世界を学び知り気付いている人だと思われますから、ここに書かれていることの完全真理のその矛盾のない完全さに納得しておられるはずです。
だったら何をさて置いても完全真理の実践になっていくはずです。

それが宗教であれば仏門に下るが如くに世間離れした生き方になって、中には洞窟やお堂にこもって座禅・冥想したりまた艱難辛苦の苦行・荒行・修行をするところですが、そんな特別な事をし無くても普通の生活の中で誰もが実践できる簡単なのが完全真理です。
ところがその簡単な完全真理の実践を出来ないでいる人が大勢いるのも事実ですが、その人は完全真理の理解に欠けていてまだ自分のものになっていないのが原因にあります。

すなわち完全真理が自分のものとなって本物になっていないのです。
しかも実践さえも中途半端なままですから、尚のこと自分のもの・本物にはなりません。
また知識を溜め込んで自分のもの・本物にしたがるのですが、実際の実践で気付き悟らなければ単なる絵に書いた餅で終わるのです。
またその中には奇跡を成して見せることの出来る耕栄さんを信じて頼る、その他力依存や他力願望の人がいるのも事実です。

そして完全真理が自分のものに成らない人や確かな実践が出来ないままにいる人の多くは「守り意識」が強いようです。
その守り意識には不信感や否定反発心やで(良いとこ取りはするが)悪いことは排除したがるわけですから、その意識には安心安全は無く不安心配や恐れが多いわけですから、当然ながら生きていても苦が多くて中には生きていることが辛くなる人もいるわけです。

だから必然のご縁で完全真理を知ることになったのに、その日々の生活意識は変わらずに、執着するし無理するし欲張るし比較差別はするし自己主張はするし、また不安心配を持つことにもなりそれが怒りや憎悪にもなったりして、自分自身が困ることにもなっているわけだから「どうしようもない」わけです。
また自力を多く使うことよりも他力を多く使う他力依存や願望ばかりが多くて(欲が多くて)自己縮小どころではなくなっているわけですから尚更に楽よりも苦の多い生き方になるわけです。

すなわち、何をさて置いても完全真理の実践一本やりに成れないままにその中途半端なままに生き続けることになるのです。
それはすなわち完全真理の理解も実践も中途半端なままに終わっていると言う絶対的な「証」でもあるのです。
その中途半端なままに一部の望みを他力に託すことよりも、再度完全真理を学び知り悟る覚悟でもって日々を過ごし自分が持っている守り意識に気付くことです。

またその「気付く」ことが実践になるとして、そのことを自覚・納得・確信する必要があります。
そしてその守り意識の根本に臭い・汚い・暗い・危ないと忌み嫌っている部分(否定反発・排除意識)が多いことにも気付く必要があります。

また自然体・あるがままに生きることが言われているその真実・事実を知るにも「成り行き任せ」が必要ですが、その成り行き任せに出来ないのが守り意識が原因だと悟る必要があります。
そして自己縮小するほどにその守り意識も少なくなり苦も少なくなるというその事実を味わうことが絶対的に必要なわけです。
だから実感で味わえない完全真理は「絵に書いた餅」同然だと言われる訳です。

また前もって思い考え理想目的にしても、成る事はなるが、成らない事はならない事実を知ることになります。
また前もって思い考え理想目的にし無くても、成る事はなるが、成らない事はならない事実を知ることになります。
すなわち成る事はなるが成らない事はならない事実からして、当然ながら「成り行き任せ」にしても同じことになるその事実を知ります。
それならば理想目的にして欲張り頑張り苦労する(早く欲しがる)(思惑期待する)ことよりも、自分の意識が原因の必然ご縁で与えられるまで待つ、その成り行き任せのほうが(成っても成らなくても)楽ちんになるわけです。

その楽ちんを味わい続ければ、良いとこ取りで欲張り頑張り続ける自己拡大も、また不信感・否定反発・排除したがるその守るために闘いたがる「守り意識」も必要なくなるのです。
そして自力と自信と安心安全の精神でもって気楽・楽ちん・自然体に生き続けることが出来るようになるのです。
だから知識を溜め込むことではなくて、その知った事を実践して実感することでしか、完全真理を活かすことにはなりません。
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人様の事を気にせずにそのままに「ほっとく」(仏に任す)ことのその真実は?

2012年05月16日 | Weblog
現れた結果の原因に人それぞれの意識が関わっていますから、その意識を変えない限りその結果も何ら変わりません。
すなわち現状を変えるには意識を変えるしかありません。
しかし人様の意識を変えることには相当な「無理」があります。

私が摩訶不思議な世界に関わることになったり、それが縁から精神世界・想念の世界・完全真理に関わることになったりした、その一連の流れに乗って成る様になってきたその事実からして思うに、宇宙・神・愛の仕組みの必然のご縁に乗れる人とダメな人の分かれ目・選択そのものが既に予め決っているようです。

だから私が宇宙エネルギーに関心を寄せているときにご縁があった人達が精神世界・霊魂の世界に追従してきた人は一人もいませんが、既に精神世界・霊魂の世界を学び知っている人が摩訶不思議な宇宙エネルギーに関心を示すことは多くありました。
ところが宇宙エネルギーや精神世界や霊魂の世界を学び知っている人が新たな完全真理に追従して来た人は一人しかいません。
と言うことは様々な分野に関わっている人達の中から完全な宇宙・神・愛を説く完全真理に必然のご縁がある人は極限られていることになります。

また私の身近な人達の事例を紹介しますが(10年以上も前から)私と娘とが完全真理やファバラを話題に話し合っているのが多いのに妻は未だに全くの無関心です。
また(同じく)娘の旦那さんは人格的にも人柄・家族的にも申し分ない(娘には勿体ないくらいの)性格・個性を持っていますが、未だに摩訶不思議な事例さえも違和感を示します。
また私の兄は全くの無関心ですが、その兄嫁は霊魂の世界や完全真理やファバラの話を私から聞きたがります。
また私の姉は若い頃から自立心や積極性から世間並み以上の経験体験をしてきた経緯がありますが、その姉がまさか奇跡や精神世界に通じるものを既に持っているとは思ってもいませんでしたが、それが今では完全真理とファバラの話で始まり終わる間柄になっています。

と言うことは、必然のご縁からして完全真理を選んだ人達は、その完全真理に「選ばれた人」とも言えるわけです。
また宇宙エネルギーに関心を寄せている人はその宇宙エネルギーを選んだ人であり、また選ばれた人とも言えるわけです。
その中にオーラーとかヒーリングや霊感・霊力の類も含まれます。
また信仰宗教に止まっている人はその宗教を選んだ人であり、その宗教に選ばれた人とも言えるわけです。
だからそれらから次の段階に進めないで止まっているのです。

だから(完全真理を知る)私とご縁があった人の中にオーラー・ヒーリング・霊感霊力の人やまた信仰宗教のエホバの証人・幸福の科学・真光教・キリスト系などに関わっている人に対して私が幾ら完全真理を話しても(聞く振りは出来ても)「聞く耳」を持っていませんでした。

だから(精神世界を知るものさえもそうなのだから)人様のことは「ほっとく」しかないのは事実なのです。
そして人の意識が原因だけに、成ることは成るが、成らないことはならないのです。
だから成り行き任せにしていても(同じ結果が出ますから)前もってあれこれと思う(不安・心配する)ことでは無いのです。

そしてこのブログに必然のご縁があったことはまさしく己の意識が原因から起こったことですから(過去性・前世も含めて仕組まれた結果ですから)完全真理に巡り会えるべくして選ばれた人でもあるのです。
しかもこの世で初まり終わる完全真理だけに、これより優れた別な真理・宗教が仕組まれることには絶対にありません。
すなわち「完結」するのです。

だから身近な人達を含めた人様の意識を変えることは絶対的に無理でも、己の意識は己の自力で変えることが出来るわけですから、そこで必然ご縁の完全真理を学び知りその実践をしながら(無知な人や無関心な人のことは気にせずに)(必然ご縁のその時がくるまで)(ほっといておいて)宇宙・神・愛の完全意識を学び知り気付くしかありません。
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執着しない・素朴に生きる・無理しない・成り行き任せの実践からして完全真理の理解が早まります。

2012年05月13日 | Weblog
宇宙・神・愛の意識の世界・精神世界を学び知るにも、人それぞれの意識・個性の独自独歩で学び知ることになります。
その為の窓口・入口が様々に用意されていますが、それが信仰宗教であったり思想哲学や真理であったりします。

またそれらを説教・伝授・指導・教育する者の中に、摩訶不思議な奇跡を成して見せるとか神懸り的な事を成したと言われている指導者・教祖がいますが、それら奇跡や神懸り的な事を成すのも(入口を示すための)人寄せ人集めの類ですから、それに惑わされて丸呑み妄信したり、その人を特別視して憧れ敬い・崇め奉ることになれば邪道の道を進むことになります。

また過去の釈迦やイエスらも宇宙・神の真実を学び知り気付いて自覚悟りに到っていたとしても、それによって100%完全・絶対の神意識・完全意識に成っていたわけではありません。
だから耕栄さんも完全な宇宙・神・愛を人様に<説く>ことができても、自らがその「完全」「絶対」の神・愛の意識に成ってはいません。
すなわち「人間」として生まれたからには皆が「未熟」(~99%止まり)ですから、皆して(耕栄さんと共に)学び合う関係なのです。
だから過去の釈迦やイエスらも同じ未熟な仲間であり、皆と共に学び合う関係であって、何ら特別ではなかったわけです。

すなわち生まれながらにして完全意識に到達していることは絶対にありません。
だから耕栄さんであっても(過去の釈迦やイエスらと同様に)道半ばにして「ミイラ取りがミイラに」なる可能性があります。

だから耕栄さんを敬い尊び付添って共に学びあうことも必然・必要ですが、既に完全真理によって宇宙・神・愛意識の入口を知ったわけですから、耕栄さんが言われることを鵜呑み丸のみ信じて(神頼み耕栄さん頼みの信心・思惑から)妄信したかのように従い真似ることから早く卒業して、自分の個性・本分に見合った独自独歩で進むことがなければ、いつまでも他人のものを真似たり借りたりした「借りもの」(仮りもの)のままに進むことになり、その完全真理が自分のもの<自信>本物には絶対になりません。

だから完全真理が説くところの「良い悪い」で判断しなければ云々の基本が自覚納得に到っているのであれば十分ですから、あとはその実践意識から様々なことに気付き実感していくことになります。
しかし残念ながら知識的に学び知ることばかりが多くて、実践から真実に気付くことが少ないのが事実にあります。

だから知識を幾ら溜め込んでも実践が無ければ自分のもにはなりません。
その実践が簡単なことなのに、その実践を難しくしているのは、自信の無さです。
すなわち「自分のもの・本物」になっていない事実がその実践を難しくしているだけです。

だから知識よりも実践が先になければ「絵に書いた餅」同然だと書いています。
また実践したくても実践し難い現実の問題も幾度となく書いています。
それが不完全意識の者同士の人間関係だと書いています。
となるとやはりその人間関係から脱するしかないとも書いています。

そこでせめても不完全な人間関係を「気にしない」で独自独歩で行くしかないと書いています。
しかしこれまでの「しがらみ」から離れることにも無理があるようですから、中途半端なままが続くことでしょう。
となるとやはり不完全な人間関係から脱するしか他に道がないようですが、それにも「自信」が必要になります。

すなわち完全真理を自分のものにするのも「自力・自信」が必要であり、その自信で完全真理が本物になれば、その実践も本物になっていきます。
そのためにも「信じて頼る」「他力依存」「他力願望・祈願」から脱する実践が必要になります。

しかし自力を無理に出すことになれば苦労が伴います。
その苦労をしているのにそれを(確かな)自力・自信と思えば(自分を偽る)偽善になります。
だからその偽善から完全真理を学び知っても特別な思いの完全真理になり、その自己満足や自惚れになったり、他の人と比較競争することになりますから、学び知った知識が本物であっても、その実践は見せ掛け偽りの偽善になります。
だから同じような内容の講演会を次から次と追いかけるように講演会に集る仲間の多くが、ただ耕栄さんの成す奇跡見たさに(信じて頼る・他力依存・願望から)来ているようです。

また先ほどに書いたように「知識」を溜め込むよりも実践が先に無ければ「本物」にはなりません。
と言うのも、私が完全真理を知る以前から自己縮小した格好の生活に慣れ親しんでいたことからして、後に知った完全真理の理解・納得・確信が早まったのが事実からして言えば、頭の知識よりも「実践が先」のほうが本物になるのが早まるわけです。

だから自己縮小・執着しない・素朴に生きる・無理しない・欲張らない・自然体・成り行き任せの実践が先にあれば自ずと完全真理の理解が早まるわけです。
しかしこれ等の事柄はあくまでも私の思いです。
しかし自己縮小の実践に無理な人が多いのも事実だけに、こうして何度も同じような事を詳細に書くことにもなっています。
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誰もが皆<偽善者>であることを自覚して生きる必要があります。

2012年05月10日 | Weblog
人間として生きている中に「至福の時」「調和で生きている時」があれば、何が無くても、それで十分になります。
それを満足と言うでしょう、それを幸せと言うでしょうし、愛を感じている時と言うでしょう。
それも特別な事をしているときのことではなくて、静寂のときであったり、情緒であったり、会話・団欒・料理を囲んでいるときであったり、軽やかな作業をしているときだったりします。

だからディズニーランドで過ごすことやハワイや沖縄へ旅立ったり北海道でスキーを楽しんでいるときやの特別な一時的な行楽娯楽よりも一般的生活の中のごく有り触れた中にある「至福」「調和」です。
そして孤独で味わえることよりも人との交わりで味わえるほうが味わい深くもなります。
そして何よりも「調和の会話」が続いているときが人間同士の親交を味わえ更に深めます。

だから(私としては)地域の人たちが集り山道の路肩の草刈に精出したあとのしばしの休憩のときに道端に座り込みお茶しながら雑談しているときに至福・調和があればいいわけです。
しかし残念なことに皆が不完全意識だけに自惚れや見栄を張るものがいたり比較競争意識や不信感・否定反発があったりするので十分ではありません。

また子供であれ大人であれ何かと忌み嫌うことや好き嫌いが多いほど一緒にいてもその雰囲気が失せてきます。
それが臭い・汚い・暗い・危ない・怖いであり、また不機嫌になって疲れたなどと言われると雰囲気が台無しになります。

だから不完全意識の比較競争・差別意識・特別意識があれば至福・調和は無理なわけです。
だからこそ!(簡単ではないだけに)生きている中で味わえる「至福」「調和」に<真の価値>があるわけです。
しかしそれに気付いていないだけに物質金銭的な衣食住や趣味嗜好娯楽の形やの自己満足を欲しがるわけです。

だから比較競争差別意識を持っているのは事実です。
だから忌み嫌い否定反発しているのも事実です。
だから自由平等調和の人間関係になれるはずもないのが事実です。

だからどんなに愛情深い人でも偽善者です。
またどんなに信心深くても偽善者です。
私達人間は生まれながらにして偽善者なのです。
その偽善の我が身や身近な人をどんなに守っても偽善に変わりはありません。
そしてその偽善のままに人間を終える事を繰り返してきた事実があります。

そんな不完全な人間関係では至福・調和を味わえないことからして、一人歩きの独自独歩の自力と自信でその至福・調和を味わえる意識になっていく実践しかないのも事実です。
それが共に歩めるのであれば今や完全真理が花盛りになっていて当然ですが、現実では同じ屋根の下で暮らしている中でさえも別個・孤立している事実があるように絶対的な無理があるのです。

だから見栄や世間体やご都合主義やから脱する取り組み実践をおろそかにして偽善者のままでいたがるところがありますが、それが守り意識でもあるのです。
その守り意識に自由があるはずもありません。
自由が無ければ不自由・不平等・不調和なのは当然です。
だから否定・反発・差別することにもなるのです。

しかしその自己保身・守り意識を捨てることから自由が得られます。
しかしそれも実践せずに何かと言い訳正当化して守りたがります。
それは偽善者同士が互いの傷をなめ合う(癒し合う)(ご都合主義で助け合う)関係のほうが(偽善者同士であることも忘れて)居心地がいいからです。

ゆえにいつの日か(互いが)「裏切」られたという思いを持つことにもなっている現実・事実があります。
だから偽善の者が成すことが偽善で終わるのも当然の結果です。
しかも自分がその偽善者だとも気付かないでカッコつけている人も多いのです。
だから性懲りなくまた偽善を繰り返すことにもなっているのが事実にあります。

そんな偽善を性懲りなく繰り返す輪廻を終わらすことが出来るのは<自分自身>です。
だから奇跡を成す人や神懸りの人の他力依存や願望・祈願は通用し無いのです。
だから自分を捨てる、我を捨てる、偽善を捨てる、思い思惑を捨てる、欲を捨てる、無理をしないで生きることのその楽ちんで生きることの余裕からして精神世界に目覚め気付くしかありません。
それが「完全真理」を学び知り気付くことです。
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自力・自信でもって<生きて>いる事を実感していなければ「死んだ」も同然の生き方になります。

2012年05月07日 | Weblog
「良い悪い」で判断することからして人を責めたり自分を責めたりしてそれが不平不満になっています。
その不平不満に執着しているとそれが不安心配や恐れに変っていきますから、そこで執着しないことが説かれているわけです。
その不安心配・恐れを持っていると(内心では)「生きた心地」がしていません。
ゆえに「生きて」いる気がしないことから「死んだ」も同然の心持になっているのが事実です。
その死んだも同然の心持でいるとそれが自殺願望にも変わります。

すなわち「生きて」いる事を実感していなければ「生きていけなく」なります。
だから絶対的に多くの自力を使って生きていた昔ほど自殺する人は少なかったが、その自力を多く使わなくなった近年ほど自殺願望の人や自殺をする人が増えているのです。

しかしながら、いつも自力を多く使っている人は日々生きている事を味わい実感しています。
またその自力を多く使うことからしてそれが自信にもなっていますから、良い悪いで判断して不平不満になることがあっても、その自力・自信からして執着することになりませんから、その不平不満が不安心配や恐れに変わることにはなりません。

ところが快適便利な生活から(昔ほどの)自力を必要としなくなって、その代替に趣味嗜好娯楽で自力を使うことになりました。
すなわち「生きていることの実感」を<趣味嗜好娯楽>やの変化・刺激によって(生きている事を)味わうことに変ったのです。
すなわち本編ではない(本物ではない)付録を楽しみにしているのと同じです。

しかも近年ほどにその趣味嗜好娯楽・変化刺激の中に素朴さが次第に消えて、選りすぐれたものを追求するその繰り返しからして、誰もが真似ることが出来ない高度で難度が高く知能・技能・能力・学識・教養も必要になりました。
しかも比較競争して選りすぐれたものを選ぶことが当たり前になって、その比較競争に遅れたものが「落ちこぼれ」に思えるようにもなり、その選りすぐれた者やその競争に参加できる者だけが楽しめるものが多くなりました。

しかも比較競争に落ちこぼれた者は、その個性・本分・自力を多く使うことが少なかっただけに、その自力も自信も少ないだけに生き辛くなり、これまた生きて行くこと・生きていることが苦に思えるような感覚に陥る人も増えました。
そして酒に溺れるアルコール依存や覚せい剤などの薬物依存やパソコンや携帯電話依存やの様々な依存症にもなったり、また引きこもりや不登校にもなっています。

すなわち「生きて」いる気がしない(生きる価値を見失った)<虚しく><うっとうしい>(明るさ元気のない)ことにもなるのです。
しかも内心には不安心配の憤り怒りが隠れてますから、それをいつ吐き出すことになるかもしれません。

その注意信号・危険信号に気付いていない人が多いのも事実です。
しかも確信・自信もないのに「私は大丈夫」に思いたがるのが事実にあります。
と言うのも、不安心配では生きていけないから(生きている気がしないから)、それを裏返した「偽りの自信」でもって相当な無理をしながら生きるしかないわけです。

しかもその無理が生きるために絶対的に必要だと錯覚勘違いしていますから、その苦労を趣味嗜好娯楽の自己満足で癒しているのですが、その趣味嗜好娯楽のためにもまた苦労しているのですから「どうしようも」ありません。
しかもその無理・苦労がたたって(災いして)その人生の末路ほどに厳しい状況になるその有事を招くことにもなります。

だからその執着・無理を無くすることができる自己縮小が説かれているのです。
そして実際に素朴な生き方になれば、その過去の自己拡大で生きることよりも安心安全な心持で生きていけるその事実を味わうことが出来るのです。

そこで此れまでの自己拡大をやめれば自ずと無理なく自己縮小に進むことになります。
しかしそこででも自力・自信が無ければなりませんが、それでも「成り行き任せに」生きることができれば何とかなっていきます。
その「何とかなる」のは持ち前の<個性>が出ることからして、その(当たり前の個性からして)何の無理もなく執着にもならずに済むのです。

そして不安心配のない「安心安全」の成り行き任せに生きることが出来るようになったその自信に加えて、この「完全真理」を学び知りそれが自分のものとなったその自信も大きいものがあります。
ゆえに完全真理を知らなければ、今の私の自信も無かったことでしょう。
ゆえに(何が無くても)完全真理「一本やり」の意識で暮らすことにもなっています。
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「飴と鞭」を上手に使い分ける不完全意識の人間関係にあなたの「人生」を掛け続けるのですか?

2012年05月04日 | Weblog
人間関係に「自由・平等・調和」が必要なことは誰もが知る事実です。
なのにその<自由>を束縛制限支配しているのがその人間関係であれば矛盾しています。
なのにその<矛盾>を気にもしないで、その人間関係を守ることにもなっています。
その<守り>意識がこれまた自由を損なっていますから、この世の人間関係に自由が無いのです。
その自由が無ければ平等にも調和にも絶対になりません。

その自由を自らが諦め・放棄しているからには(絶対的に)自分の思い通りにはなりません。
そこで人様を束縛制限支配することで(代替)自分の思い通りにしたがる形・矛盾がこの世にあります。
それが奴隷のようにムチ打ってこき使い自分の思い通りにしたがることであったり、甘い飴を与えて手なずけて自分の思い通りにしたがることでもあります。

言い換えれば、エサを与えて生かし続けて馬車馬のように扱うことであったり、ペット・愛玩動物であったりするわけです。
そして用済みになったり邪魔になったり負担が多くなったり気に入らなくなれば使い捨て・切り捨て・裏切ることにもなります。
そしてまた自分に都合の良い新たなもの(浮気・愛人・再婚)(新品)に切り替えれば不自由しなくて済みます。

すなわち自らの自由を捨ててまで(代替に)他者を束縛制限支配し合う関係で成り立っているのがこの世の人間関係です。
その自らの自由を捨てる原因にあるのが、自らの自力・自信・安心・安全の精神力に欠けていることの原因から、不安心配・恐れ・不信感を持つことにもなり、それが原因から信じて頼る他力依存や他力願望や他力祈願にもなっています。

その自らの力量・精神力の無さからの依存・もたれあい・慰め合い・持ち上げ合う・自己満足し合う関係から<調和>のある人間関係になるはずも絶対にないわけです。
だからせめても、自分だけ(自分の為にも)(独自独歩)でも調和意識になるしかないともいえるわけです。
それにも先ずは身近な人達をも併せて自由にしなければ自らの自由も決して望めません。

ところがその自由を実際に味わうことが無ければその実践意識になるはずもありません。
ところがその自由を味わうにも不調和の人間関係の中では相当に無理があります。
ところがその不調和の人間関係を<気に>しないままの「あるがまま」(自然体)で生きていれば自らの中に自由・調和意識が目覚め蘇り、その自由と調和で生きることの素晴らしさに気付くことができます。

そして人間として生きていく中に最も大切なのが「調和」で生きることだと確信納得できます。
そして自由・平等・調和が別々ではなくて一体になっていることにも気付きます。
だから比較競争の差別・特別が無ければ自由にも平等にも調和にもなるのです。

また自らが自由を味わえばその自由の大切さが本物になるだけに、他者を束縛制限支配したがる意識にもなりません。
また先入観や思い込みの食わず嫌い・忌み嫌うことによる否定反発や不信感を持つことにもなりません。
まして不完全な人間関係に執着することにもなりません。

そして気にもしなければ気にもならないのが執着のない意識です。
そして気にしても「どうにもならない」ことだと気付き知るのも執着のない意識からです。
そして執着がある限り「調和」することは絶対にありません。
だから「あるがまま」「自然体」「成り行き任せ」に生きるしか<調和>を味わえません。
その<調和>が完全真理で言われる宇宙・神・愛の完全意識です。
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