孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「実践できない」から<実践する>ことがが言われているその矛盾があります。

2013年05月22日 | Weblog
巷の精神世界を知らずにいても、
「楽に」生きることからしてその行為行動表現&実践が完全な矛盾の無い真実の精神世界の学びにもつながっていきます。

何たって不平不満が出るようでは気楽&楽に生きていけませんから、その不平不満に気付けば自らが自問自答してその原因&行為行動を省みる事になります。
そして何処かで無理をしていたことに気付くことになれば(楽に生きるために)その修正のための実践が必然でなされますから、その結果からして言えば既に精神世界に係わっていてその実践をしているのと同等になります。

また楽に生きる実践の中に「楽しく」生きることが含まれていれば、それが矛盾の苦楽となって必ず現れ出ますから、その苦楽の中の「苦」を味わっていれば「楽に」生きる事に反していますから(矛盾していますから)、そこでまた自問自答することになれば、その楽しく生きたいというその裏が出て心労苦労している矛盾を実感でもって気付き悟ります。

その気付きと自問自答と更なる気付きを繰り返しをしているうちに矛盾意識が(成り行きからして)(自然体&無理なく)少しずつ修正改革されていきます。
となれば自己縮小という教え導きを知らなくても、それに向けた実践が既に成されていることになります。

ちなみに精神世界の説教でもって自己縮小の実践の必要性を学び知った場合は、
その実践がまだ成されていないだけに、どうしても「実践しなければならない」と思い込み、その思いが先走る&先立つのが大方でしょう。
(ちなみに私の場合は自己縮小を知る以前から既に実践になっていました)

また既に先祖供養や親孝行が出来ている人であれば、それは精神世界&信仰宗教の教えに従っているのではなくして、元からしていつの間にやら先祖供養や親孝行になっているはずです。

だから巷の精神世界の説教&外形が先ではなくして、己の意識の中に自らが<気付く>と言う精神世界が基からしてあるのです。
ゆえに自らが気付きながら自らが修正しているのです。
それが本来の精神世界だと思います。

ちなみに「実践しなければならない」と思った人はその実践にはまだ到っていないからその実践の必要性に気付いた事になりますが、気付いたからとてすぐさまその実践が出来るはずはありません。

それを手短に言えば「実践できないから」その「実践をしなさい」と教えられているようなものです。
もっとはっきり言えば未だに実践できていないことを今から実践するのは相当な無理難題があります。

それを言い換えれば精神世界の形に頼るのは自らの「自力でもって」<成せない>その実践力精神力の弱い人になります。
ちなみに神社仏閣のお守りやおみくじを買ってそれに期待祈願するのと似通った意識でもって精神世界&信仰宗教に係わっているようなものです。
だから大勢の人が集まる神社仏閣や名だたる信仰宗教や神懸り奇跡の超能力や念力霊力やの人並みはずれた能力に魅せられているのです。

その実践力精神力の自力自信が有っても無くても、
とにかく自らに出来ることをやりながら気楽楽チンでもって生きていれば(他をよそ見することがなくなれば)(外を気にしなければ)その心身の余裕&内在心からして「気付き」が起こるのです。

何故ならば生まれながらにして自らの中に(宇宙・神・愛なる)我神なりの内在神&内在心&意識命を持っているからです。
だから精神世界の形を知らずにしていつの間にやらその実践が出来ているのです。

だから巷の(他力依存的な)(形道理のお仕着せ的&服従的な)精神世界を必要としなくなるのです。

すなわち自らの自力でもって気付くからこそ自らが動くことが出来るのです。
それなのに対外的な精神世界を知ってから動くのでは遅すぎるのです。
だから実践できないのです。

だったらせめても無理の無い楽チンで穏やかに生きながらにして自らの精神に自問自答すればいいのです。
すなわち自らの「肉体」「感情体」で生きるよりも<精神体>で生きることを意識していればいいのです。