孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「プライド」なんか持っていないという人に・・・

2009年05月17日 | Weblog
人は皆「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断していますから、自分に都合が悪ければ不平不満を持ち、その不平不満が悩み苦しみ悲しみや不安心配や怒りにもなり、
それに執着すれば妬みやきもち嫉妬に変わり、更に腹いせ仕返し報復復讐心にも拡大していき、やがてやけくそになって自己破壊・他者破壊に至ります。
それが自殺や他殺でありテロや戦争でもあります。

そして「私は正しい」を持っていますから、常に悪いものを見極め敵対して排除否定拒否したがります。

そして騙されて馬鹿を見ないように用心しているから、必ず「不信感」と「守り意識」を持っています。

だから自分に都合が悪いことから「守る」のは正しいと思い込んでいますから、すべての悪い奴は排他的に隔離抹殺しても良いというご都合主義がまかり通っており、
悪いことをいっさい近寄せない潔癖主義や自分を守るのは正しいという正義感にもなっており、
それが拡大したのが正義の戦争や聖戦であり、その名誉を掛けた戦いや報復のテロが実際に起きています。

すなわち「良い悪い」で判断して問題を作り、その問題を良い悪いで判断して解決しようとしているから、その良いと悪いの両者・裏表の矛盾があるかぎり根本的な解決は無くていい加減なところで妥協するしか方法がないのです。

だから例えどんな主義主張や思想哲学を持ってきても良いと悪いで判断している限り中途半端な妥協しか生まれてきません。

だから共産主義や社会主義や民主主義であっても、また過去の古臭い宗教や新興宗教であっても、それらの形が違うだけで中身は良いと悪いの判断で出来ているからです。

だから思想主義主張や宗教の違いが原因で言い争い、それが拡大したのが侵略侵攻や戦争やテロにもなっているのです。

「良い悪い」の判断が「私は正しい」になり、それを主張顕示しあうことが争いの原因であり、また「不信感」や「守り意識」が問題化しているだけではありません。

わりと気付かないのが誰もが「プライド・自尊心」「優越感・劣等感」「勝ち負け」に執着しています。

プライドなんか持っていないと思っている人も多いかと思いますが…
負けるが勝ちや損をして得をとるとか、プラス思考もプライドから出たことであり、自分が損をしたり負けたと思いたくなくて言い訳正当化することで自分が納得したがっているのかもしれません。

また人前で控えめに謙そんを示すことも、裏側・裏腹ではプライドを示していることなのです。

すなわち劣等感を裏返したのが優越感や自尊心・プライドなのです。

「私が正しい」を示すためにも人の目が気になる、世間体を気にする、すなわちプライドなのです。

だから世間的な儀礼を尽くすのもプライドから出ているのです。

すなわち人の目を気にした窮屈な生活を自らが選んでいるのです。

だから何も偉そうにしている人だけがプライドを持っているのではありません、
皆が持っていることです。

人それぞれの劣等感の基準の違いによってプライドも違ってきますが、裏表のある生き方をしているだけに、劣等感が強い人ほど優越感を持ちたがる傾向にありますから、自己慢心で偉そうにしている人ほど劣等感が強いという裏返しにもなります。

またその劣等感が強いから誰にも負けないように競争社会で生き残りをかけて一生懸命頑張れるのです。

だから反対に劣等感が少ないほど競争社会の負け組みになりやすく、その結果社会の底辺で生きることになりますが、
その劣等感(すなわちプライド)が少ないから貧困・ホームレスにも何とか耐えて適応できているということにもなります。

だから自らが生きることをやめて自己破壊・自殺をする人の中に劣等感・プライドが強すぎた傾向がみられるのです。

だから何度も書いているように、良い悪いで判断して、その良い悪いで解決しようとしている限り、その矛盾で問題が解決できないばかりか、それら問題が複雑に絡み合いながら枝分かれをして更にどんどん拡大進行しているのです。

だからすべての問題が良いと悪いの判断が原因になっていることを知らない限り絶対に何の解決も得られません。

しかしこの世の中から良い悪いを無くすることは不可能です。

でも自分の中の意識から良い悪いを無くすることは不可能ではありません。

その良い悪いを無くしていく自己縮小の実践をしていれば確かに不平不満が少なくなり悩み苦しみも減り、
穏やかな心で今までになかった喜びやありがたい感謝を味わえることになり、
それが確かな自信・自力にもなり、自己縮小が進んでいくことにもなるのです。

それをただ頭の中で思い考え試行錯誤しても無駄な時間が経過するだけですから、確かな答えは実践の中にしかありません。

…実践するために私たちは生きているのです…

…良い悪いを持たない完全真理は「実践真理」なのです…

しかも山にこもったり滝に打たれたり艱難辛苦の修行をしなくても、いつも通りの日々の生活の中で自由に、皆が平等に実践できる真理なのです。 

だから何かの形にいっさい束縛制限支配されることはありません。

これまでの言うだけ、聞くだけ、知るだけ、鵜呑み暗記・記憶するだけの真理とはまったく違うのです。

だから、学び知ったことを実践してみない限り「完全・本物」が完全・本物であることを自覚・悟ることは出来ないようです。

(2009・05・17)投稿・リメイク版

「私は正しい」は不平等・不自由を生む

2009年05月07日 | Weblog
自由と平等は同じです。 自由があるから平等だし、平等だから自由があるのです。
その自由と平等をあれこれと言っている人も多いが、その自由を奪って束縛しているのや差別意識を持っているのが、当の自分自身だと気付いている人は少ないと思います。
すなわち、すべての原因と結果が自分自身にあることを知らないのです。

その原因の中に「私は正しい」という思いを誰もが持っていますから、その思い通りに誰もがしたがります。
だから家庭や社会の中でいて、自分に都合が良くなるように「こうしなさい」「それはだめです」と意図的に指図したり、頭の中でそう思っているからには、相手を束縛制限支配していることになるのです。
また自分自身も「あれはだめ」「これはだめ」「それは良い」「それは悪い」と思って自分自身を束縛制限しているのです。
自分に自由がないとぼやいて他の者が自分の自由を束縛していると思う前に、自分自身が自分の自由を束縛・自縛しているし、自分が他の人の自由をも奪っているというお互い様の関係に気付く必要があります。

また差があって平等ではないと言って主張・顕示している本人が「私は正しい」と思って他と差を付けているのに、それさえも知らないで差別を無くする活動をしていたり、平等を唱える政治家や宗教家や聖職者らに上下の位を付けて自らが差別していることに気付いていないくらいだから、この世の中から差別が無くなるはずもありません。
ゆえに束縛制限し合い差別しあっているお互い様の世の中に自由・平等・平和が構築されるはずも無く、人類が共に闘いあい戦争しあっているのも当たり前のことなのです。

★「あるがまま」の普通に思っている人からは何も問題は起きません★
しかし「私は正しい」を持っていると必ず「守り」意識が働くし、正しいことをしていると自己主張したり顕示したがりますから、それに相反するものに敵対意識を持つことになります。
その敵対意識は不信感ですから、「私は正しい」のなかには必ず不信感を持っていて、自分の味方に思える人がいて信じている振りをしても、心からは信じていません。 だから自分が困れば味方に思える人でも平気で切り捨て裏切ることが出来るのです。

そして不信感が強い人ほど神や愛を信じてはいませんが、それでは不安だから自分に都合が良い神や愛なら信じたがります。
だから、皆のものではない制限された不完全な神や愛、特別にして他と差をつけた神や愛、偶像・形で示す神や愛、想像するだけの神や愛、言うだけ聞くだけ祈るだけの神や愛、それら非実在の不完全な神や愛を信じることになります。

そしてそれらの不完全で非実在の神や愛を信じることで何かとその形・形式にこだわり束縛支配されることになりますから、それらの神や愛を信じることで自由も奪われ差別までされていることに気付いてはいません。 だから鵜呑み丸呑みの自己暗示や他者暗示、妄信や洗脳されていると言えるのです。
更に「私は正しい」が「私の信じる神は正しい神」になり、その宗教観の違いが争いや戦争になり、その正義感で殺りく侵略することも正しいことになっているのです。 

「不信感」と「私は正しい」は同じになります。
その不信感と私は正しいを持って動いていると、その思い通りにならなければ必ず不平不満を持つことにもなります。
その不平不満が過ぎると今度は悩み苦しみ不安を持つことになり、生きていても楽しくありません。
すなわち「私は正しい」を持っていて「得」をしているように錯覚していますが、実際は「損」をしていることに気付いていません。
だから人様によって自分が被害を受けると「損」をしたと不平不満を言って「損」した分を取り返しにかかりますが、それが当たり前であり、それが正しい事と思っていますから、「私は正しい」と主張顕示してこだわり執着することになり、そのことで頭がいっぱいになって悩み苦しみ不安をいつまでも引きずることになって、結果的に日常生活がうわの空になってちっとも楽しくありません。

それだから(小が大になり)更に腹立ち憎しみが増して仕返し復讐報復制裁することになり、どんどん問題化拡大していって取り返しの付かない修羅場・怨念に発展していくことにもなり、結果的に誰も「得」にならないで「損」ばかりが連鎖・積み重ねている格好になります。 それが大きくなってやり合っているのが国際紛争の制裁発動やテロの報復連鎖や戦争に見られます。

だから良い悪い(善悪・優劣・損得)で人を責めたり不平不満を持たなければ「差」もなくなり平等・自由になり、皆が心穏やかに楽しく暮らせるようになると完全真理で教えてくれているのです。

自己拡大の「闇」「競争社会」と自己縮小の「光」「感謝の心」

2009年05月04日 | Weblog
15年前に奇遇ともいえる必然・お仕組みが起きて、その方が「お告げ」で説かれる「想念の世界」を知り学んでいる当時から、人類滅亡のシナリオに突き進んでいる人間の闇意識のことを知り、その闇意識に覆われた地球が崩壊寸前であることが言われていて、その当時からいろんな前兆がすでに起き始めていましたが・・・ その闇意識といわれる自分さえ良ければの個人意識を悔い改めなければ、人間という姿形である肉体を持って地球に生まれ変わることが出来なくなり、その魂・命といわれる人間の原因体・意識の行き着くところが光の届かない闇の世界に漂うことに成ると、教えられ学んできましたが、それと同じ闇意識・闇に覆われた地球のことを8年前に知った完全真理を説く山田耕栄さんも言われております。

その両者の言われる違いとして、想念の世界ではイエスや釈迦らのやり残した「正義感」の過ちを指摘され、ゆえに今日の闇世界の原因だと指摘され、このまま闇の世界に行くことになるか、新たな光がさす夜明けの地球・宇宙維新で生き残っていくかの白黒の選択として、お陰様のありがたい「感謝の心」を学び知り、その感謝の出来る想念・心を持つことが言われていましたが・・・ 
今の山田耕栄さんの場合は正義感以前の「良い悪い」を持たない100㌫の完全意識になることを説いていました。
しかしどうやら「良い悪い」の判断を持って生まれたからには完全は到底無理となり、今度は執着しなければ何とかなっていくと説明するようになり、良い悪いを持たない自己縮小の実践を続けているだけで大丈夫ですと明言し、その自己縮小の実践を継続させる為には「感謝の心」「雨やんで傘を忘れない人」になれるようにと説明するようになり、更にそれを応援・協力してくれるファバラ・意識エネルギー製品を世界初の製法で世に出しています。

以上が此れまでの大まかな経緯ですが・・・ ありがたい「感謝の心」を取り戻すこともなかなか容易ではありません。
多分ですが・・・今まで通りの生活を維持しながら自己縮小していき、ありがたい感謝の心を持てるようになるのも至難の道だと思っています・・・ だからファバラの意識力・エネルギーの手助けが必要になっているのです。

私の場合は・・・自己縮小という言葉さえ知らなかった当時・・・世間に目立つかっこよく生きる自己拡大ばかりしてきたことに飽きがきたのか、それとも疲れていたのか、嫁いだ娘夫婦が田舎暮らしの候補地を探す手伝いをしたことがきっかけで、娘夫婦ではなく他人事のように付き合っていた私自身が奇遇ともいえるご縁があって、今の過疎地で月5万円の年金頼りで、いやがる妻と離れた独り暮らしをすることになったのです。
その思ってもいなかった田舎暮らしを少ない年金で自由気ままに楽しむためにもいろいろと創意工夫を生かしていますが、人が見れば哀れと思えるような廃品同然の家具調度品や電気製品ばかりの質素倹約なエコ生活・形での自己縮小を通して、結果的には感謝の心を学ぶことになりました。
とは言っても形ばかりの感謝が多く、心から感謝できることはそう多くはありません。

感謝の心とは言えないかも知れないが、働き盛りには思ってもいなかった年金のありがたさも知りましたし、廃品同然の物を使えなくなるまで創意工夫や手直しで使う面白さも知りました。 四季折々の移り変わりや山の幸を楽しむことを知りました。
ようするに貧乏を自慢して楽しむことが出来るようになったのです。

ご近所や縁あって知り合いになった人から作業や仕事のお手伝いを気軽に頼まれることの喜びや、そのお礼に頂いている謝礼金や農産物を頂いたり食事をご馳走になる喜び感謝やその楽しさも味わっています。
つい先日には、50頭ばかりの肉牛を飼育している人から一日二回の餌やりを飼い主と二日交代で頼まれ、9日間で3万円とお米を30キロ頂きましたが、その3万円が高額金に思えたのも年金暮らしをしているからです。
しかも飼い主の年中無休のストレスによる高血圧が正常に戻ったとか、時々餌やりを任せられて重荷負担に思っていた奥さんが気楽になり、消えていた笑顔が出るようになったので、これからも引き続き餌やりを続けて欲しいとまで言われれば、それが私自身の何よりの喜び感謝にもなります。

なにやら私の自慢話になりましたが、自らが貧乏生活を選んだことで価値観が変わったことを書きたかったのです。
哀れで可哀想にも思えるはずの貧乏を価値観を変えれば自由気ままに楽しめるのです。 
どうしょうも無いくらい困っている暇と退屈さがあるから、時々は人様のために役立ち生かせるのです。
犠牲になるとか奉仕精神とかではない、自らが助かり楽しみ喜び感謝にもなるのです。

「個の私」を意識しすぎるから「私が正しい」の自己主張や顕示になり、その正しいと間違いとの「差」を持つことになり、その差が比較競争になり、負けて損をしたくないから自分さえ良ければの個人意識を優先させることになり、ところがその思い通りにならないことから不平不満になって、それが更に思うようにならないことから野心を持つようになり、そして自己拡大に突き進み山谷坂のある悩み苦しみ不安の多い生き方を進むことになっているのです。

だから(今から見れば)有り余るほどのお金や物に恵まれていたのに、常に欲求不満・不平不満を持っていた頃の生き方には二度と戻りたくはないのです。 見栄や世間体やしがらみに縛られ制限されたり、接する人の顔色を見ながら気遣い気疲れしていた頃には戻りたくないのです。
自分という性格を正面に出しても気兼ねなくお付き合いが出来る人が数人いるだけで孤独感には至らないのです。
過去を悔やんだり、未来の不安心配をしなくなれば、たとえお金や物が少なくても呑気に生きていけるのです。
ようするに、世間的な自己拡大を続けていた自分と、自己縮小の実践を意識している今の自分を思い比べれば、やっぱり精神世界・神や愛に通じる自己縮小・感謝を意識して暮らす方が人間として楽な生き方であり、お金や物がなくても十分楽しめることであり、差のない自由平等の意識に通じるものと自信が持てるまでになったのです。

すなわち過去から続く、必然の巡り合わせ・お仕組み・ご縁のレール・方向性に素直に従ったことで確かな答えが出てきているから、今まで後悔することにもならずに、また先々の見通しや選択も此れまではどうやら間違っていなかったようだから、この先の結果・宇宙維新をあまり意識することなく、このまま成るようになり続けていくことでしょう・・・