朝日の陽光で目が覚め小鳥の声に誘われて起き上がり行きかう車の音も人の声もせず静かに玄関を開ければ朝日がまぶしく緑に覆われた庭先や山並みが見え遠くの山並みは春霞に覆われています。
何か詩人のようですね。
ところが春霞ならぬ黄砂現象やただならぬ寒暖の差の異常(異変)気象をも味わっています。
そして近隣では此れまでのイノシシの被害から新たにサルの出没被害が取り沙汰されています。
そして原発事故の放射能の広がりや新たな巨大地震も気になるところでしょう。
しかしどうすることも出来ませんから成り行き任せにするしかありません。
ところで山の中で立っているときに地震が起きた時は地面が揺れるだけですぐ近くに建造物が無ければその震動音も聞こえません。
だから立ちくらみ目まいがしたのかと錯覚します。
また台風の強風は木立で防いでくれますから、強風でなぎ倒される杉やヒノキがあってもオンボロ家屋の被害は殆どありません。
その杉やヒノキの被害が多いのは背丈が細長くて葉っぱが密集しているのと雑木のように根を張っていないからその根元ごと倒れるのです。
だから大型台風で倒木した杉やヒノキで一年分の風呂炊き用の薪が出来ました。
と言うような一見浮世離れした過疎地・自然界の中でいるだけに巷の人間関係のいざこざにも巻き込まれないでいる私にしたら平和そのものです。
その自然界のことなら成り行きに任せるけれどもそれが人間関係となるとほっとけないのが人情です(私も同様です)
そしてその人情でもって何とかなったと思うことが間違いの元でして例え一時的に収まってもその根っこは(雑木の如くに)残っているのです。
それが今で言う不完全意識からして完全は無く、その不完全意識からは同じ不完全な結果しか出ないこと、その原因と結果は同じ事になるという原理原則&真理に気付いていなかったのです。
その原理原則&完全を知った今はその実践意識でいますから、余計で無駄で無理する事になるその人間関係に関しては気にせずにほっとくことが(徐々に)できるようになりました。
ところで皆さんは如何でしょうか、
それでもやはり人情からしてほっとけないのでしょう、
しかしその裏心に己の都合があるからでしょう、
ちなみに己の不都合になることならば(誰でもが)ほっといて避けて通るでしょう、
だから人のことはほっとけるのに、それが自分の事になればほっとかれないで何かと係わって欲しいというご都合主義&他力依存の人も大勢いますが、
その矛盾からして(ほっとき&ほっとかれの自由&孤独ではなくして)ご都合主義&依存心が原因の疎外感・孤独感を味わうことにもなります。
それでも私は精神世界を学び知っていますと自信を示すことができますか、
それでも私は大切な人を守っていますと本心から言えるでしょうか、
そんな嘘八たれでもってカッコつけていてもそのメッキはいずれ剥がれるでしょうし、そのことは己の心が一番良く知っているはずでしょうに、
だから自問実が必要なのです。
ところで私の場合は生まれ育ち家族まで持った居場所から隣県の過疎地に単身移住して来ましたが、その今住む過疎地でもそのままにして(しがらみとなる)根っこを張っていません。
だから必然ご縁があれば何処へでも自由に移動移住できます。
それでも私は(自らの足元から)根元から倒れずにいて、その自由勝手・呑気気ままの気楽元気に過ごしています。
また自らが捜し求めたわけでもないその必然のご縁からして共に支え合う人間関係も一つや二つはあります。
また例えそれが無くなっても(始まりの元からして無かったものですから)元に戻るだけですから何ら支障ありません。
だから必然ご縁の成り行き任せにしておれるのです。
しかしもっと年老いて根元&足元から倒れることにもなりますが、それも自然界同様にそのままに朽ち果てても後悔したり未練が残る事無く、ただ静かにして穏やかなままにあの世&元々の世界に戻れることを望んでいるだけです。
何か詩人のようですね。
ところが春霞ならぬ黄砂現象やただならぬ寒暖の差の異常(異変)気象をも味わっています。
そして近隣では此れまでのイノシシの被害から新たにサルの出没被害が取り沙汰されています。
そして原発事故の放射能の広がりや新たな巨大地震も気になるところでしょう。
しかしどうすることも出来ませんから成り行き任せにするしかありません。
ところで山の中で立っているときに地震が起きた時は地面が揺れるだけですぐ近くに建造物が無ければその震動音も聞こえません。
だから立ちくらみ目まいがしたのかと錯覚します。
また台風の強風は木立で防いでくれますから、強風でなぎ倒される杉やヒノキがあってもオンボロ家屋の被害は殆どありません。
その杉やヒノキの被害が多いのは背丈が細長くて葉っぱが密集しているのと雑木のように根を張っていないからその根元ごと倒れるのです。
だから大型台風で倒木した杉やヒノキで一年分の風呂炊き用の薪が出来ました。
と言うような一見浮世離れした過疎地・自然界の中でいるだけに巷の人間関係のいざこざにも巻き込まれないでいる私にしたら平和そのものです。
その自然界のことなら成り行きに任せるけれどもそれが人間関係となるとほっとけないのが人情です(私も同様です)
そしてその人情でもって何とかなったと思うことが間違いの元でして例え一時的に収まってもその根っこは(雑木の如くに)残っているのです。
それが今で言う不完全意識からして完全は無く、その不完全意識からは同じ不完全な結果しか出ないこと、その原因と結果は同じ事になるという原理原則&真理に気付いていなかったのです。
その原理原則&完全を知った今はその実践意識でいますから、余計で無駄で無理する事になるその人間関係に関しては気にせずにほっとくことが(徐々に)できるようになりました。
ところで皆さんは如何でしょうか、
それでもやはり人情からしてほっとけないのでしょう、
しかしその裏心に己の都合があるからでしょう、
ちなみに己の不都合になることならば(誰でもが)ほっといて避けて通るでしょう、
だから人のことはほっとけるのに、それが自分の事になればほっとかれないで何かと係わって欲しいというご都合主義&他力依存の人も大勢いますが、
その矛盾からして(ほっとき&ほっとかれの自由&孤独ではなくして)ご都合主義&依存心が原因の疎外感・孤独感を味わうことにもなります。
それでも私は精神世界を学び知っていますと自信を示すことができますか、
それでも私は大切な人を守っていますと本心から言えるでしょうか、
そんな嘘八たれでもってカッコつけていてもそのメッキはいずれ剥がれるでしょうし、そのことは己の心が一番良く知っているはずでしょうに、
だから自問実が必要なのです。
ところで私の場合は生まれ育ち家族まで持った居場所から隣県の過疎地に単身移住して来ましたが、その今住む過疎地でもそのままにして(しがらみとなる)根っこを張っていません。
だから必然ご縁があれば何処へでも自由に移動移住できます。
それでも私は(自らの足元から)根元から倒れずにいて、その自由勝手・呑気気ままの気楽元気に過ごしています。
また自らが捜し求めたわけでもないその必然のご縁からして共に支え合う人間関係も一つや二つはあります。
また例えそれが無くなっても(始まりの元からして無かったものですから)元に戻るだけですから何ら支障ありません。
だから必然ご縁の成り行き任せにしておれるのです。
しかしもっと年老いて根元&足元から倒れることにもなりますが、それも自然界同様にそのままに朽ち果てても後悔したり未練が残る事無く、ただ静かにして穏やかなままにあの世&元々の世界に戻れることを望んでいるだけです。