孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

しがらみを捨て、健康と孤独死を望む老後かな・・・

2020年03月30日 | Weblog
私は世間体や見栄と言ったものにこだわらない性格をしているので、特に世間の風習や冠婚葬祭に対応することが苦手でしたから、未だに新年の挨拶はもとより冠婚葬祭のときに言うべき挨拶さえもまともに出来ません。

新年の正月を迎えても新たな年が始まったとは思えないし、冠婚葬祭の準備で慌しくしていること自体が変に思えていたし、お中元やお歳暮の品定めからお祝いや悔やみの義理返しや、結婚式で仲人や来賓の品格や人数や引き出物が比較されたり、葬儀法要の品定めや花輪の数や仏壇やお墓といったものまでも同じように比較されたりしているのを知ると、何でそんなことに気をもまなければならないのか未だに違和感を持っています。

だから、面白半分に始まった過疎地での遊びの場がいつの間にか生活の拠点となり、本格的に移住した際に過去のしがらみから離れてみる気になったのも必然・道理だったのです。

だからその移住した先のご近所やご縁で知り合いになった人たちにも前もって葬儀には参列しないことをはっきり説明した上で伝えておりますから、実際その通りに実行しても違和感無く、そのご縁に応じたお付き合をすることができています。

マスコミ報道で孤独死が何かと言われていますが、しがらみから離れた私ですから孤独死は望むところです。

一日のほとんどが山の中の単独行動であり、用事がない限り電話を使うことも無く、しかも人口二人の限界集落ですからめったに人が往来することもありませんから、私が脳梗塞や心筋梗塞で意識を失えばそのまま死にいたる可能性が大ですから、便所や風呂場で発見されたときは腐敗して白骨化しているかもしれません。

何はともあれ…生まれたからには死は当然です。 
遅かれ早かれ死ぬ時がくれば死ぬだけですから執着はありません。 

死は単なる肉体の死ですから、命・意識・魂といわれるあの世に戻るだけです。

そもそも死を特別にしたのが世間ですから…その世間的見識のない私には…死は当たり前に受け止めることが既に出来ているのです。

だから孤独死も平気ですし、病気とは闘わない方針ですから健康診断もしていないし、がん等の大病を患っても手術や延命治療は必要ないし、また遺体を献体登録していますから、葬儀法要はもちろんお墓は不要と家族に伝えており了解してもらっていますから…
私が孤独死することは、人にあまり厄介をかけずに死ねるのだから価値ある死に方に思えているのです。

また高齢化社会の老人介護の問題が言われているときですが…
私の場合は娘や息子に親孝行は不要としっかり伝えており、親のことで自分の家族が犠牲になることをしてほしくは無いので、ほっといてくれることが逆に親孝行だとも伝えています。

誰もが死を前にして手厚い介護を受けられることは喜び感謝ではありますが、家族が負担するとなるとそこには必ず何らかの無理問題が当然あります。 

だから…私が死に対して執着していないだけに…また未練もないから…
たとえ看病されずに放置されて死期が早まることにでもなれば…その分だけ死を前にした寝たきり介護を受ける期間が短縮されますから…
私としても願ったり叶ったりなのです。

★死★を特別に思う人ほど執着心が強く、それだけに特別な名医の神の手の手術や延命治療や他人の臓器まで移植して生きながらえようとしますが…病気や死と闘う人ほど薬漬けの要介護や寝たきりになる可能性が高くなります。

私としては…自分のことを自分が出来る健康な内に…元気よくあっさりと死にたいのです。

人様からいろいろと気使いしてくれることもありがたいことですが…それが無くても大丈夫だから…のん気に好き勝手なことをして自由に生きていたいのです。
だから健康こそが基本になります。 
銭金や物が無くても健康さえあればどうにでも生きていける自信があります。

しかも豊かな銭金や物を持っていることが逆に人間としての生き方や死に方の邪魔をしているとさえ思えることからして…
他力に頼り欲張ることになる医者や薬剤に頼ることよりも…
先ずは価値観・意識を変えてストレスの無い生き方で楽しく生きて…
自分の備わっている自力・治癒力・生命力によって健康を維持することを実践しているのです。

何はともあれ…間違った常識や道徳風習や死の意味を見つめ直したり、高齢化社会の我が身に起こる健康問題や痴呆症などの老後や要介護や医術薬剤による寝たきり介護を考えてみるときかもしれません。

2009-04-28 投稿・リメイク版

夫婦のもめ事も会社のもめ事も国家のもめ事も…全ての原因に不満があり…不満と人殺し戦争も<同じ一つ>なのです。

2020年03月28日 | Weblog
ちなみに宇宙は一つです.
また地球も一つです。

ちなみに地球の人間たる私も一つですから…心も一つ・精神も一つ・意識も一つ・命も一つです。

また右と左に耳や目があっても耳や目は一つです。

また見える前姿と見えない後姿の前後がありますが私は私です。

ゆえに前後左右や上下があっても一つのものは一つです。

ちなみに大きい不満や小さな不満がありますが、不満は不満であり、一つです。

ところが小さな不満から始まって次第に大きくなっている事実があります。

ちなみに赤ちゃんがグズグズ泣いていたのが次第に泣きじゃくりになり、それでも止まらなければ全身を揺り動かしてまでギャギャ泣きます。

何はともあれ…赤ちゃんでなくても…小さな不満が次第に大きくなるとその満足欲しさに大暴れすることにもなります。

また不満からして違和感となったり不信感や不安心配や苛立ち怒りとなり、それが破壊意識ともなって喧嘩や殺傷沙汰や戦争にまでなります。

しかもその腹いせ・嫌がらせ・仕返し復讐やら憎しみ憎悪や因縁怨念を根強く持つことにもなります。

だから姿形結果が異なっていても★★★すべては不満★★★から始まったことなのです。
…すべては一つから始まった事なのです…

然るに小さな不満からして人殺し戦争ともなるのですから…
すなわち…大きな不満の原因は小さな不満が原因なのです。

だから夫婦のもめ事も会社のもめ事も国家のもめ事も…その事の始まりに小さな不満が原因にあるのです。

ゆえに不満と人殺し戦争も同じ一つなのです。

そして不満からして満足を欲しがることにもなりますから…不満と満足は一体なのです…すなわち離れていなくて一つなのです。

だから戦争に勝って満足するも、負けて不満になるのも、同じ不満から始まった結果なのに矛盾する結果となるのです。
…原因が一つなのに結果が二つになるから矛盾するのです…

すべては<一つ>なのです。すべては一つにつながるのです。

そのすべてが<不満>から始まったことなのです。

また不満からして欲張ることになるのだから…不満と欲は一体(一つ)なのです。

そして間違い狂った≒矛盾した結果が出ることになるのです。

だから不満が無ければ欲も出ないしその満足にもならないが…
それだけに間違い狂った結果が出ることにもなりません。

だから欲張らないで食って寝て糞をしながら…心穏やかな精神安定にして生きている価値に目覚めることができて…それを真摯に味わえるのです。

貴方様の人生は…欲を消すのか! 欲を残すのか?その選択でもあります。

2020年03月26日 | Weblog
何某に拘り執着することは欲張りになります。

ちなみに私も人間ですから…此れではダメだの不満と何とかしなければの欲が出てきますが、その不満と欲に拘り執着しないことからして…何とか欲張らずに済んでいるのです。

また欲に拘り執着しないでいられるのも、世間や家族から離れた孤独の自由を味わって呑気に気ままにグーたらしていられるからです。

何はともあれ…此れではダメだの不満と何とかしなければの欲からして拘り執着し事を成したことで世間で有名になった人が…
額縁付きの写真となって後生大事に飾られたり、記念碑となったり、銅像となっている事実があります。

ちなみに過去の釈迦やイエスらの類も不満と欲でもって人を大勢集めたことからして同じように飾られ祀られ「偶像崇拝」が如くになっていますが、それも本人が拘り執着した結果≒欲張った結果なのです。

またその拘り執着して欲張っている人に魅せられて・引き寄せられて・集まっている人も同じ欲にまみれている人たちなのです。

然るに欲が欲を呼び込むのが人間関係です。

だから欲が無ければ人は集まってきません。

それを言い換えれば…人が集まるところに欲が渦巻いているのです。

ちなみに何かと伝統風習を守るのも欲であり、それに拘り執着すると欲張っていることになるのです。

ゆえに神仏霊魂を特別に奉るのも欲があるからです。

だから冠婚葬祭や先祖供養や親孝行さえも欲絡みで始めていることになるのです。
また特別な記念撮影さえも欲があってのことです。
…何れも…見栄や世間体やプライド絡みの欲なのです。

然るに巨大なピラミッドを建造するのも、神社仏閣や教会を建造するのも、記念碑や銅像を建てるのも、お墓仏壇を残すのも、伝統風習を守るのも、冠婚葬祭を行うのも、親孝行を志すのも、皆同じ欲から始まることなのです。

その欲に拘り執着することは<欲張っている証>になります。

ちなみに欲が無ければそれらが始まることにはなりません。
…食って寝て糞をしながら生きているだけになります…

ところが皆して欲張ることからして自然界が破壊されたり汚染されたり、また人間関係が欲絡みでヘンテコにもなっているのです。

そして人間同士が憎しみ合い殺し合う戦争にもなっているのです。

ちなみに私は素朴謙虚に生きる自己縮小にして欲張らない実践をしていますから…ここ20年あまり…記憶にも残らないような・空白が如くの生き様・老後人生となっています。

然るに…飛び立つ鳥跡を残さない…如くの生き方になっています。

そして生きている今も、これから先も、死に目に遭う時も、その死後さえも、人様の迷惑ならないように心掛けているし・予め前もって配慮しています。

その詳細に関心があれば…2020/02/11 投稿の「このページは(家族が見れば)「私の公開遺言書」となります」を読めば理解が深まります。

ちなみにアルバムを残したり記念品を保存したり記憶に残したがるのも…
また名誉名声やの肩書や権威権力を残したいのも…
同じ欲張りになるのです。

然るに<欲>を後世まで残したいのです。

となれば…欲を消すのか! 欲を残すのか? その選択が己の人生となるのです。

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となりました。

「不満」「欲」「矛盾」の三位一体が如くになって間違い狂っているのが人間です。

2020年03月24日 | Weblog
此れではダメだの不満と何とかしなければの欲からして生きているのが人間です。

しかも不完全意識にして良い悪い・善悪優劣損得の矛盾でもって判断し比較競争し差別し合っているところがあります。

ちなみに宇宙生命体である人間同士が争い闘い殺し合うのが当たり前が如くにもなっています。

然るに人間は生まれながらにして不満と欲と矛盾の不完全意識でもって生きているのです。

言い換えれば…絶対に正しいがない≒完全ではない≒間違い狂っているその不完全意識でもって生きていますから≒「不満」と「欲」と「矛盾」の三位一体が如くになって間違い狂っているのです。

その不満と欲と矛盾でもって間違い狂っているのが不完全意識の人間なのです。
それを言い換えれば…間違い狂った<狂人>になるのです。

ちなみに自分が間違い狂っていることさえも自覚認識できないでいるのが本来の狂人なのですが≒狂人が狂人だと気付けないのが当たり前なのですが…

しかし人間には英知がありますから…賢い人ならば自分が間違い狂っていることにも気付けます。
となれば狂人は過去のことになり既に卒業したことになります。

ゆえにブログを読んで自覚納得できれば狂人ではなくなります。

ところが自分が狂人であることに気付かなければ…当然ながら狂人のままに人間人生を終えることになります。

ちなみに私は仕事や家庭の人間関係の中の理不尽さを味わったことが違和感や不信感となりましたが…今で言えば…不満と欲と矛盾でもって人間関係が間違い狂っていることに気付いたことになります。

そこで仕組まれ続けた結果と言えども…いつの間にやら人間関係から離れた…孤独の自由を過疎地でもって味わうことになったのです。

然るに狂人から卒業して世間離れした変人となったのです。

そして不満からして欲が出ても、そのことに<拘り執着>さえしなければ、やがて不満も欲も足早に自然消滅して…そんなときもあったな~と…その当時の不満や欲が笑い種にもなる事実があります。

それも人間関係から離れた自然界の中で心静かに暮らしていることが幸いしているようです。

とにかくその様な気付きが増えるほどに不満も欲も出てこなくなりました。
…孤独の自由にしての過疎地暮らし20年の成果とも言えます…

しかし世間では不満と欲と矛盾でもって間違い狂っていることに変わりないから…
その世間に巻き込まれないためにも・狂人に戻らないためにも…
自らが世間に出ることなく・静かな自然界と接し触れ合う・孤独の自由にして過ごす時間が多くなりました。

だから…信じるか否かの矛盾のない・常識離れした逆は真なりの・この世に稀なるブログを理解納得確信となることからして…貴方様の先行きが確かになり・心身が助かることにもなります。

<欲>からして事を始めたことが大間違いだったと自覚認識することで先行きが見えてきます。

2020年03月22日 | Weblog
持って生まれた本能からして…此れではダメだの<不満>と何とかしなければの<欲>からして生きているのが人間です。

ちなみに精神世界を信じるか否かの宗教の形にして事を始めた過去の釈迦やイエスも<不満>と<欲>でもって人を惑わし大勢集めたのです。

ゆえに古今東西の開祖教祖先生方も同じように事を始め不満と欲にかられた人を大勢集めて人気を得ていた事実があります。

その不満と欲にかられた人を惑わし大勢集めるのに役立ったのが神がかりに見せ掛けた超能力や霊力や念力などの特別な能力ですし、
また中には占い預言者なる形にして人を集めている場合もありますが、
いずれにしろ信じるか否かの<矛盾>からして事が始まっているのです。

然るに人間ならば<欲と不満と矛盾>でもって生きることになるのです。

だからこの世人間界は欲と不満と矛盾でもって間違い狂っているとブログに書いているのです。

またその矛盾意識からして何事も良い悪いの善悪優劣損得で判断し比較競争して差別することにもなっています。

また不満と欲と矛盾からして始まったことが常識化され伝統風習や冠婚葬祭や道徳にもなりました。

となれば…不満と欲と差別でもって生きていることになりますから…不自由不平等にして互いが守り闘うことにもなり…
太古より人殺し戦争が絶え間なく続いています。

とにかく欲からして事を始めたことが大間違いだったのです。

そこで何とかしなければと欲張るのじゃなくて…
逆に欲張ることをやめればすべてが問題なくなり解決していく事実があります。

しかし皆して欲張ることをやめるには無理がありますから…
この世人間界が不満と矛盾でもって間違い狂っていると自覚認識できた人から先駆け始めていくしか他に道はありません。

となれば…間違い狂った常識や伝統風習や冠婚葬祭や道徳に束縛制限されない個人の自由にして生きていくことにもなります。

ところが個人の自由にして独り立ちして生きていくには相当な自力と自信の精神力が無ければなりませんからそう簡単ではありません。

しかしながら欲張らない実践が出来てさえいれば事は簡単になります。

然るにただ食って寝て糞をしながら生きているような生活ぶりですから、世間一般的には変人に思われますが…
しかし間違い狂った<狂人>からは卒業できます。

然るに欲張って自然界の汚染や破壊や人殺し戦争につながる狂人のままにして人生を終えるのか…
逆に欲張らない変人となって・素朴謙虚にして・豊かな自然界と仲良く暮らし・人様に迷惑を掛けない生き方にして・個人の自由・孤独の自由にして・呑気気楽な人生でもって人間を終えるのか…
その選択でもあります。

貴方様は狂人が如くの人生で終わるのですか?と問い掛け続けているブログです。

2020年03月20日 | Weblog
頑張り努力するとか、意欲を持って取り組むとかの美化した言葉に洗脳され惑わされ踊らされ牛耳られていることに気付いている人は少ないと思っています。

ちなみに苦労を買って出てまでも行動することが美徳に言われたり、世のため人のために尽くしなさいとばかりに踊らされている事実に気付いていない人が多いと言うことでもあります。

だから此れではダメだの不満と何とかしなければの欲からして何か事を成すことが美徳で正しいとさえ思っているのです。

しかし不満と欲から始まった事のすべてが苦と楽の矛盾する喜怒哀楽の結果となっているのです。

然るに自己満足欲しさに苦労し苦悩する、その矛盾に気付かないままに、何か事を成すことが正しいことになっているのです。

だから事を成して自己満足し自惚れ慢心し自慢して誇らしそうに世間にアピールすることにもなります。

その結果からして命の綱とも言える豊かな自然界を破壊し汚染するばかりか…
自由平等平和を言いながらも…この世人間界の自由が阻害され差別が生じて不自由不平等ともなっていますが…それが当たり前の如くに馴染み親しんでいます。

と言うことは自分さえ良ければの個人意識&個人の自由でもって自分のために生きていくことの裏目が出て、自然界や人間界をめちゃくちゃにする結果となりました。

その最たる原因となるのが欲張る者同士が集まり集団化組織化され強力的に運営されていることにあります。

だから個人の自由が阻害され差別し合い奪い合い人間同士が戦い合い殺し合うことにもなっているし、勝てば官軍負ければ賊軍ともなる矛盾がまかり通っています。

だから勝った者が英雄勇者にもなり名誉名声や権威権力や財力を手にしています。

ちなみにその事実を根掘り葉掘り書き続けていますが、無関心なのか理解できないのか、それとも自分の都合からして…分かっちゃいるけどやめられない!…でいる人なのでしょうか…

ちなみに自己縮小の実践にして欲張らない実践をしている私が世間離れした変人ならば、何かと頑張り見栄張り欲張り続けて世間に目立っている人は自然界や人間界を狂わせている狂人になります。

然るに欲のある人間が集まることで集団化し狂人化してこの世人間界が間違い狂うことになっているのです。

ちなみに貴方様は狂人が如くの人生で終わるのですか?と問い掛け続けているブログなのです。

ところが矛盾なく根掘り葉掘り事実を書いているのだけれども精神が未熟な人や自分に都合が悪い人は素直に受け入れられなくて…信じるか否かにすり替えて…逃げ腰になるようです。

この世人間界が矛盾している事実を繰り返し書いていますが…理解できて納得確信となったでしょうか…

2020年03月19日 | Weblog
然るに矛盾していると言うことは、良いことが悪いことにも、悪いことが良いことにもなるのです。

だから薬が毒にもなるし、毒が薬にもなると言うことです。
然るに表が裏にも、裏が表にも変わるのが矛盾なのです。

だから定かではなくなり、間違い狂っていることになります。
ゆえに人間同士が殺し合うことにもなるわけです。

然るに過去の偉人賢人有名人が成したことにも矛盾の結果が出て間違い狂っている事実を根掘り葉掘り書き続けていますが理解できているでしょうか…

となれば現在の皆様方も同じく矛盾し間違い狂う結果を出し続けているのですが理解し納得確信となっているでしょうか…

ちなみに矛盾した結果が出ていることを承知しているならば…
頑張り無理して事を成すことよりも食って寝て糞をしながら何とか生きているだけのようなグーたら生活になるはずですが…
あなた様はどうしていますか…

自尊心からして見栄を張っていませんか、
世間体を気にして頑張っていませんか、

先行き無駄なことになるのを知らずにして毎日無理し苦労していませんか、

何はともあれ…何かを成すことで満足となるもその結果を出すために苦労しますから、苦労して満足となる喜怒哀楽でもってストレスを味わうことになりますが、
そんな繰り返しばかり積み重ねていてほんとうに大丈夫ですか…

特に人生の集大成となる老後生活&後期高齢者ともなれば元気印が消えたヨボヨボ爺さん婆さんになるし、長生きするほどに周りの友人知人同級生親戚兄弟姉妹が次々と亡くなり・置き去りにされて・寂しい思いをしたりして肉体的にも精神的にも弱り込みますよ…

しかも三人に一人が認知症と言う厄介な状況にもなります。

それでもまだ頑張り見栄張り欲張り続けますか?
しかも矛盾する結果を残すだけの人生で終わりますが…

それが人間らしい賢い生き方人生に思えますか?
それであなた様は納得できますか…

何はともあれ…何度も何度も繰り返し頑張り欲張れるのは<自己満足>が味わえているからです。

その自己満足がそれまでの苦労を忘れさせてくれるから…その自己満足を繰り返し味わいたがるのです。

然るに自己満足は人間にとって厄介な曲者なのです。

ちなみに矛盾からして毒がクスリにも変わるように…
苦い味わいが魅力の味わいにも変わるのです。

だから酒やタバコが嗜好品となって依存症にもなるのです。

また変化刺激快感快楽が味わえるセックスが依存症にもなり、それが人間関係までも狂わせてヘンテコにもなるのです。

然るに諸々の自己満足からして人間の生き様人生が間違い狂ってくるのです。

ちなみにその自己満足からどんどん離れた暮らしをしているのが私でありブログなのです。

だから自己満足に溺れている人…私は正しいことをしたと自惚れ慢心し自慢し主張堅持していれば…その人の精神意識が間違い狂った気の毒で哀れな人にも思えるのです。

なのにそんな自惚れ慢心の者を偉人賢人と祀り上げてお手本とするように教育指導している様にも違和感があるのです。

然るにこの世人間界の矛盾偽善を知り尽くし、自己満足欲しさからして欲張っている様をアレコレと書くことからしても…
私は世間的な生き様が出来なくなっている・意識変わりした変人なのです。

然るに人為人工的な諸々よりも、あるがままの自然的な方が似合う人間と意識が変わったのです。

そしてこの世人間界の先行き方向性の矛盾となるハルマゲドンとアセンションからして言えば…
間違い狂って人間同士が殺し合い戦争を繰り返しているハルマゲドンの方向性ではなくて…
欲張らない生き様からして自然界と仲良く暮らしながら人生を終えるアセンションの方向性を選んでいるのです。

しかし共に語り合える仲間がいない独り舞台となっていることが何やら気になるところです。

然るに…このブログが理解され納得確信となるには・仲間が増えるには・10年ほど早すぎたのかな…と思っているところです。

また11年連続で現れている飛行体であり発光体でありしかも透明体である地球外生命体が多くの人に認識されるのも10年後かもしれません。

2019-10-19 リメイク版

不満と欲と矛盾に満ちている人間関係の中に自由はない。自由が無ければ不自由になり不幸&不満になる。

2020年03月18日 | Weblog
不完全意識にして不満と欲と矛盾に満ちて間違い狂っている人間関係・仕事関係・家族関係でもって何かと束縛制限されたり否定反発されていますから…
誰も皆が不自由にして不幸に直面している状態になります。

またその人間関係からして何かと差別されたり虐げられたり、非情・無情な思いをしたり、耐えがたき理不尽な思いをしたりしています。

だからその不平不満がしょっちゅう出てくるのです。

その不満からして何とかしなければと頑張り欲張り精出し努力して事を成せば不満が満足に変わります。

しかし苦労苦悩した甲斐あっての満足ですから…喜怒哀楽の矛盾を味わったことになり…何だか中途半端でもって納得しきれません。

その納得できないことを言い返せば不平不満なのです。

しかも人間が持つ自我・サガからして得手勝手なところがありますから…
満足したことは足早に忘れるが、不平不満は妬みや恨みが如くになって根強く残ります。

ゆえに自己満足してもすぐに忘れるし、また喜怒哀楽の矛盾でもって納得できなければそれが不満にもなりますから…
その満足欲しさに次から次と苦労苦悩が続きます。

となれば先ほどの人間の得手勝手な自我・サガからして…結果的に不平不満だけが積み重なっていくことになります。

そして不満が諸悪の根源になり、そのストレスが万病の原因になります。

◎満足は足早に忘れるが「不満」は根強く残る。
◎「不満」と欲と矛盾に満ちている人間関係の中に自由はない。
◎自由が無ければ→不自由になり→不幸になり→「不満」になる。

だから人間は「不満」に満ちた状況になり、その不満からして満足を求め得る繰り返しの、その喜怒哀楽の繰り返しで生きていることになるのです。

然るに不満からして欲張ることになるし、自由が無ければ不満になるから…
そこで人間関係から離れた孤独の自由が必要になるし…
その自由を持続さすためにも欲張り頑張り見栄張りしないことです。

とにかく孤独の自由にして・何の気兼ねもなく・呑気に気ままに・不満も不安もない・心身にストレスのない生き方にして…
…巷の変化刺激や快感快楽のない…
ただ生きているだけのようなグーたら生活の中だからこそ味わえる・その生きている価値を見出して・その幸せな思いを味わえるのです。

何度も書いていることだけに要約しましたから…足早に読まずにして一区切りごとに真面目真剣にして…御身の精神に自問自答しながら…理解納得確信となればそれが自力と自信の精神力となります。

欲があるから生きていけるが・・・欲張れば滅びる。

2020年03月17日 | Weblog
人間の持っている本能が欲となっています。

だから欲は本能でもあるのです。

然るに本能と欲を否定していません。

ちなみに食欲本能からして食って、睡眠本能からして寝て、そして副産物の糞をしながらにして生きています。

ところが性欲本能は生殖本能でもありますが、性行為には快感快楽が伴っていますから、生殖本能というよりも副産物的な趣味嗜好娯楽に属していると思います。

だから性行為の快感快楽に酔いしれているところがあります。

また攻撃本能と防衛本物は矛盾しています。

だから守るためには戦うという矛盾からしてそれが人殺し戦争にもなって止まることなく続いています。

またそれが悪は成敗しても良いという正義感ともなって人間界をヘンテコにしています。

それがギロチンや火あぶりや首つりやの死刑であり、また血祭にするとか魔女狩りや異端児を処罰することにもなっていますし、極悪非道の人殺し戦争を正義聖戦とも讃えています。

何はともあれ…本能&欲だけは消し去ることはできません。

だったら否定反発しないで認めて仲良くするしかありません。

そこで欲が出ても執着して欲張らなければ大ごとにはなりません。

然るに食欲も空腹を満たせばことがすみます。

ところが欲張ると過食飽食となったり、またレシピとかで美味しさや食感や彩装飾に拘り執着することになるのです。

また着衣や住居も欲張ることが当たり前にもなっています。

だから自然環境が汚染され破壊されて人類滅亡に突き進んでいます。

ちなみに人間が自然界の一員仲間だという自覚認識に欠如しているのです。

然るに自分の首を自分で絞めていることになります。

それでは何で欲張ることになるのでしょう…

その最たる原因は…欲を持っている者同士が集まるからです。

ちなみにセックスでも一時のことで終わって離れていけば一件落着で済みます。

ところが欲張って同居すれば錢要らずにして手っ取り早くセックス三昧できます。

その互いの都合で同居・同棲・結婚生活となれば互いが束縛されてヘンテコなことにもなっています。

そして攻撃本能と防衛本能の矛盾からしても…(人が集まらなければ)…己一人の自己結果と自己責任でことなく終わります。

また私が正しいと主張堅持することにもなりませんが…(人が集まれば)…賛否両論で騒ぐことになるし、分裂して争うことにもなり、農民一揆や乱や維新革命となって人殺し戦争が正しいこととなります。

然るに…巷の精神世界・信仰宗教・神仏霊魂の世界・超能力などのスピ系などに…(人が集まらなければ)…問題にはなりません。

ところが人が集まれば…それが権威権力や勢力争いにもなりますし、私が正しいともなって、過去の歴史と同じことを繰り返すことになります。

何はともあれ…人が集まらなければ…
誰にも制限束縛されない「孤独の自由」にして思うがままに生きて…

己の中の正直な精神に問いかける自問自答でもって思いつくままに・気付くがままにやっていけば・結果がどうであれ・その自力と自信の精神力となります。

そして欲が出ても欲張らなければ…心静かにして孤独の自由を味わえるのです。

そして変化刺激や快感快楽に惑わされないで…豊かな自然界の恩恵でもって生きてさえいれば…それが地上の天国にも思えるようになるのです。

なのに欲張ると小さなことが次第に大きくなって困ったことにもなり、己だけでは止まらずに・はた迷惑な加害者の立場にもなり・自己責任だけでは済まされないのです。

だから欲張ることになれば己の心身のみならず人様に害を成すことにもなっているのです。

2018-01-10 投稿リメイク版

性欲で互いの肉体が交じり合ったり感情体で接し触れ合うことが出来ますが…真っ当な精神世界&精神体で生きていくには孤独の自由が必要になります。

2020年03月15日 | Weblog
人間は孤独にして生まれ育ち老いて死に至るまで天涯孤独です。

何たって持って生まれた不完全意識からして良い悪・善悪優劣損得で判断し比較競争し人を差別したがることや…
また自分さえ良ければの自己中心の個人意識からして…皆して妥協や協力することが出来ても…人と調和融合することが絶対に無理だから…

ゆえに始まり終わるまで不満と欲と矛盾意識でもって天涯孤独に生きていくことになるのです。

また此れではダメだの「不満」と何とかしなければの「欲」と…
表もあれば裏もある不確かな<矛盾意識>でもって生きていますから…
然るに絶対が無くて不確かなだけに…言い換えれば…この世人間界は間違い狂っていることになります。

そして人間は概ね肉体と感情体と精神体でもって生きています。

となれば…好きになった者同士が性欲でもって肉体が交じり合ったり感情体でもって接し触れ合うことが出来ますが…
不満と欲と矛盾に満ちている人間関係の中でもって心穏やかな精神安定にして生きていくには相当な無理があります。

となればやはり不満と欲と矛盾する結果の喜怒哀楽でもって暮らすしか他に道はないのです。

それらを要約すると…肉体と感情体でもって人間関係が築けるも、しかし精神体でもって調和融合した人間関係を築くことは絶対に出来ません。

ところが私の事例のように…自分さえ良ければの個人意識丸出しでもって自分のために生きる…
すなわち不満と欲と矛盾の人間関係から離れた孤独の自由にして…
自分の心身のためにも欲張らずにして…
その心穏やかな精神安定に過ごすことは可能です。

となれば当然ながら…肉体や感情体に拘り執着しないで…御身の精神体・精神世界の中で生きていくことになります。

そして精神安定にして生きていくからには欲張ることは出来ません。

だから持ち前の自力と自信の精神力にして普通に生きていくことになります。

ちなみに不満が出ることになれば普通意識ではなくて特別意識になります。

とにかく不満と欲と矛盾の人間関係の中でもって欲張りながらその苦と楽の喜怒哀楽のストレスを味わいながら生きるのか…
それとも孤独の自由でもって欲張らずにして心穏やかな精神安定にして生きていくのか…
その選択になります。

要するに…
肉体感情体で生きるのか?、精神体で生きるのか!、
矛盾のある人間関係の中で欲張って生きるのか?、孤独の自由にして欲張らずに生きるのか!、
それとも優柔不断のどっちもどっちの中途半端に生きていくのか…
その選択でもあるのです。