孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

宇宙・神・愛の精神世界を知ったのなら、その自分を偽り裏切らないその実践を

2012年12月30日 | Weblog
欲が無ければ先々の思惑もその期待も持ちません。
だから先々を見込んで目指すその理想や目的も無く、また志し望む希望やそれを超えた野心やその願望・期待もありません。
また持っているものが失われたり使えなくなっても、それも原因(必然ご縁)があっての成り行きの結果ですから、その諦めも早く後悔したり未練を持ったりしてそれに執着することにもなりません。
だから守る必要も無いことからして見掛け先入観や不信感でもって忌み嫌ったり否定反発排除したがることにもなりません。

だから「来るものは拒まず去るものは追わず」の成り行き任せの自然体で生きることになります。

だから必然がなければ自ら先んじて動くこともありませんからそのご縁もありません。
しかし何らかの欲絡みで自らが動けば押しかけた事になり相手の人の自由時間を奪いまた接客する心使いやその手間を強いる事になります。

ところが先方の必然性から私が動いたそのご縁は、先方が私に出来ることを期待していたことですから、喜ばれる結果が出ても迷惑がられることにはなりません。


また食って寝て糞をしながらの生活で十分なのに、その私が何かにつけ欲張れば、その分だけ必然としている人様に行き渡らないことになりますから、(いまの私に必要としないものを無理して得ることは)それを必要としている人様から間接的に私が奪った結果形になります。

ところがそれに気付かないで十分過ぎた生活をしていて、時おり災害や被害に見舞われた人に親切にしたり貧困生活者に役立つ金銭物質の寄付や無償の援助をしているのは、自分が余計に奪ったものを(親切心を装って)(間接的に)返却している形になりますから、それは偽善であり(私は正しいことをしていると思う)自己満足になるのです。

だから皆が欲張らなければ食って寝て糞をしながら生きることに不自由する人がいなくなり、略奪し合う争いや人殺し戦争も無くなり、また自然環境の破壊も無くなります。

しかしそれは絵に描いた餅になるのがこの世ですから、
せめて宇宙・神・愛の真実のその精神世界を知ったのなら、
その自分を偽らずに(自分を裏切らないで)自らがその実践をしなければ、
その精神世界も絵に書いた餅同然になりますし、
自らが招き呼び込んだ苦楽・喜怒哀楽の矛盾生活からは抜け出せません。


そう偉そうに書いている私にも欲があります。
しかし過去のビデオ事業で(他力を使ってまで)欲張って苦労したその結果が一時の自己満足で終わり、その無理無駄が余計なことだったと実感でもって(成り行きの自己縮小から気付き)学び知ったことからして、
やはり(私本来の)必然ご縁の成り行き任せにしていれば欲張ることにはならないし、その必然ご縁の成り行き任せからしてその時々の今を無理なく生きているという感覚を十分に味わってきたことからして、その欲を出さないでいられるのです。

そして人間は形結果を気にして生きることではなくして、自分の中の意識の有様に気付きながら日々を生きることになれば、当然ながら欲張ることにはなりません。

その事を実感でもって書いているのです。

学び知るのも実践するにも精神世界はシンプルほどいい!

2012年12月29日 | Weblog
完全真理の実践意識で生活していると(意識は一つだけに)その分だけそれ以外の余計なことを思い考えることも少なくなりますし、当然ながら世間一般的な雑多を見聞してそれを意識することも、また不平不満になるようなことに目線も行きません。
だから俗世間の中でいても仏門に下った如くの意識状態でいられて世間の雑多に意識が使われないで済むのです。

そしてパート先の牛の世話も至って単純単調ですからその気苦労もありません。
だからその分だけ(仕事中でも)精神世界を意識している時間も多くなります。
それだけに仕事で何か不満を見つけてもそのことに執着しないばかりかその不満に思った自分を自分で言い聞かせるような(反省した)格好になります。

そんな呑気で単純な仕事をしているのにオーナーから喜ばれて時々おまけの謝礼や気遣い配慮までされていますから尚更にありがたいことになります。

それだけに不平不満にならないから、その分だけ欲も出てきません。

その欲が出てこないことからして常日頃のサバやサンマの缶詰や売れ残りの半額惣菜を美味しく味わえています。
だから食生活もいたって単純で単調です。

また必然が無い限り人様のところへ自分から出掛けることもありませんから、その分だけ世間的な人間関係も単数ですしその風習や伝統や道徳や儀礼マナーやに無縁ですからいたって単純で単調になります。

だから食って寝て糞をしているだけのような生活にも思えるわけです。

ところが俗世間に自らが染まっていれば何かと不平不満が原因からして結果的には欲張る事になりますし、その欲張ることからして不平不満にもなるのです。
また複雑な雑多で忙しくしていることからして自由時間が少なくなります。
その自由が無いことからして何かと不平不満にもなりますから、それを解決するためにその欲が出てきます。

ところが自由が多くて暇で退屈する時間が多くなるとそれが不平不満になるかと言えばそうではなくして、その呑気気楽を十分に味わえるのです。

だから欲さえ出なければ何の問題も無いのです。

しかし私とて仙人ではありませんから変化刺激を求めるその欲が出てきます。
それが一円パチンコに行く原因になっています。
またこの歳でも性欲はありますから、色気たっぷりのご婦人の誘惑によって精神世界の道を外すようなことになるかもしれませんが、人里離れた過疎地で貧乏生活をしている老人だけにその心配はなさそうです。

また仏門に下ったが如くの精神世界を意識した日々の生活だけに、その仏門に下った時のような同じ仲間が身近に大勢いれば何かと心強いのですが、
ところがそんな思いも到底無理なことですから、やはり孤独にして独自独歩の実践で生きていくしかありません。

それゆえに人間関係からの面倒に巻き込まれることもなく、また面倒くさいことはしないでほっとけるので、やはり食って寝て糞をするだけのような単調で単純で素朴な生活になります。

ところがそのシンプルさが精神世界に必要なのです。
ところがそれを教え説く者も、またそれを学ぶ者も、複雑怪奇で謎解きや格調威厳のある言葉を使うほうを何かと好むようですから、
私の自叙伝風な変化刺激も複雑怪奇さもカッコよさも無く、世間で言われているような道理を私の事実事例で示して解説したような精神世界のブログでは物足りないかもしれません。

しかし誰にも通じるシンプルほどいいのです。
しかもやる気になれば誰もが実践できることですから尚更にいいのです。

「今を味わい生きる」

2012年12月27日 | Weblog
此れまでに何度か書いていますが、
私は人見知りする赤面症があったし、またしつけ教育教養などを押し付けられることの無い放任でしたし、その親からはお前は頭が悪いから家業を継ぐように言われていましたから、商売の見習いで就職(丁稚奉公)するまでとにかく食って寝て糞をして楽しく遊ぶ毎日でした。

その就職が決まる前に親戚の船長さんから船員になる話や親戚の棟梁から大工さんになる話もありましたが、それも自分から乗り出すほどの意欲が無いことからして当然ながら成り行き任せになりましたが、そうこうしている内に親が所有する長屋を間借りしていた(親戚でもない)独身教員の親から食品問屋を紹介してくれたのが縁で就職が決まりました。

その5年後に父親が癌で他界したので葬式の翌日から(次男の私が)家業を継ぐことになりました。
そして約3年間の成り行き任せの7回目の見合いで結婚が決まりました。

と言うように、いくつかの選択肢から何か一つを選んだとか、思い描く理想や目的も期待や願望もまったくなく、自分の出来ることを言われるままに素直真面目にやりながらのその時々の運任せ人任せの今で言う必然ご縁の成り行き任せからして私の人生の方向性が決まってきたようなものです。


そして摩訶不思議な宇宙エネルギーにご縁があったのも最初で最後となったネットワークビジネス情報誌が無料配布されて来たその中の3行程度の摩訶不思議に魅せられたのがご縁でした。

その宇宙エネルギーの水がご縁からして宇宙的愛の霊能者が我家に来られたことからして私が霊魂の世界・精神世界をはじめて学び知る事になり、約5年間のご縁で多くを学び知り摩訶不思議に巡り会いしながらも基本的なことが概ね判ってきました。

その5年間の中に私のビデオ事業が縁のその必然で来られた大学助教授とのご縁も同じくらい続きました。
またその当時、嫁いだ娘が田舎暮らしの物件を探していたことが縁からして、私が何気なくその一件を大学助教授に話したところ、その教授が既に田舎暮らしを実践していたのが縁からして現在住んでいる物件が紹介され、それが縁で私がいつの間にやら成り行きからして田舎暮らしをするようになったその経緯があります。

そして私が暇で退屈していることからして娘が山田耕栄さんの講演会のビデオや録音テープなど大量に持ち込んできたのが縁と、霊能者とのご縁が私の違和感からして切れ掛かっていたそのタイミングが重なり合って、約一年間寝床で3回ほど繰り返し聞いたことからして現在に至っているのです。


と言うようにこれまた成り行き任せから成るようになって現在があるのですが、
その過疎地暮らし13年目にして水源が枯れて生活の根幹の水に不自由する事になる、その思いもよらない有事で困った事になるのに、
しかしこれまたご縁が次のご縁になりして今の牛舎のオーナーが私を必然とするそのご縁からしてパートに出向くことになり早くも5年目になりますが、その牛の世話で汚れた着衣を洗えるようにと全自動洗濯機を小屋に設置してくれていたお陰で(元からして)洗濯には何ら支障ありません。

しかも牛舎の直ぐ近くに太古の地下水を汲み上げている温泉施設があり、その年間5万円のパスポートの半額を負担してくれていますから、お陰で毎日温泉三昧を味わっています。
だから真坂の有事が起きても生活に支障があまりありませんし、その有事のお陰で日々温泉三昧が味わえる生活に変わりました。

と言うように、思い思惑・理想目的・期待願望したわけではないのに成るようになって素朴に謙虚にして過不足なしに平穏無事に過ごせるのも、
自らが望み、また自らが選り好み選択することがなかった、その成り行き任せにしておける心・意識があっての結果・形です。

そこで例えば牛舎の仕事が臭い汚れるとして必然のご縁を拒んでいたら今の水不足で過疎地暮らしが相当な苦労になってるか、または元の街中に帰っていくことでしょう。

だから先程に書いた経緯の中で否定反発することや無理して求めるその意識があれば、私の人生の方向も大きく違っていたかもしれません。


それらを簡単明確に言うと、
現在の状況環境に不足があるのは欲が原因のその結果であって、
またその状況環境がどうであれ満足しているのは現在欲が無い状態だからです。
じゃなんで欲を出さないでいるのかと言えば、欲を出せば心身ともに疲れるからです。

その欲の無い成り行き任せにしていれば必然のご縁しかありませんから(良いも悪いも好むも好まざるもなく)(成るようになるだけですから)(平穏に事が進むだけですから)その結果事実を素直に味わうだけになります。

すなわち「今を味わい生きる」ことになるのです。

神や愛の精神世界の真実の気付き、その<気付き>こそが実践になるのです。

2012年12月25日 | Weblog
人それぞれに役割使命があるだけに、それに適した個性・感性・能力を持って生まれています。
だから様々な職業や医科学・工業・産業や芸術文化や伝統風習やその教育指導やでその適正能力が生かされています。

だから科学者が電気や動力や化学製品や爆薬や核融合を生み出したりすることも出来ました。
また電子工学からしてパソコンや電子映像などを生み出しました。
また医学医術でもって難病を治癒したり臓器移植まで出来るようになりました。

一昔前には夢物語だったのが今や現実となって更に進化発展していますから、まさしく神懸り奇跡になります。

その神懸り奇跡を超能力でもって成している人たちがいますが、それら神懸り奇跡も医科学者が成していることも、自分の適正能力でもって、今あるその形を変化させたり進化させていることは同じです。

だから医者が此れまでになかった神懸り奇跡的な「神の手」を持った術者の医術でもって難病を治癒するのも、また超能力者が「神懸りの手」でもって奇跡的に治癒することになっても、その病気という形を治癒することは同じことなのです。

だから大方の人がその医科学や超能力に(他力に)期待するところがあるのです。

 
ところがしかし、神懸り奇跡の超能力者や医科学などの超学者のいかなる力量能力でもってしても、形の無い人間の心・意識を(神の手の術者が形を変えるが如くに)直接操作してその意識を修正改革変化させることは絶対に出来ません。

だから大昔から神や愛の精神世界を様々な人たちによって様々に説かれているのです。

なのに神懸り奇跡の超能力や超学術者に期待するところのその他力依存やその願望祈願が未だに残っていてなかなか消えません。


そう言う私も最近まで他力に期待するところがありました。
しかし私なりの独自独歩の精神世界の学びからして気付いたのが、
今も過去もその他力によって変わったのは形だけでして、元から持って生まれた人間の意識を根底から変えることは土台無理なことだと(私の見聞した此れまでの経緯からしても)気付き納得確信した次第です。

すなわち自らの意識の修正改革はその自らの力量でもって成すことが人間に課せられた役割使命だとなったわけです。


だから今の形を気にすることなく先ずは(仏門に下った如くの意識と自由な独自独歩でもっての)精神世界を意識した生活でなければ自分の意識を修正改革できるはずもないと確信するに至ったわけです。

そして如何なる神懸り超能力や優れた能力力量を持っている人であっても、
大元の宇宙・神・愛の完全な意識の世界では中途半端で不完全な未熟者だから、皆と共に学び合うその「学びの途中」である事に気付いたのです。


しかも過去の釈迦やイエスを含めた神懸り超能力者や優れた力量能力でもって成した形が不完全なだけに、その不完全な形が受け継がれながらも故意に歪められて進化拡大していき、その時代ごとに尚更おかしな方向に進展していって、今や終末的状況になっているのです。

だから神の愛の精神世界を学ぶにそれら未熟なる不完全意識の者が語り説くことが何かと役立つことがあっても、
しかしその中に薬にも毒にもなる矛盾が含まれているだけに、真実の神の愛を知るには(本物を知るには)自らがその精神世界に身を置いてその学びを日々実践しなければ自覚納得確信の悟りにはいたりません。

その実践を中途半端なままにして、
説教を丸呑み盲信する人や導き指導者を信じて頼ったりする人が多いことからして、その不完全なままが広がりそれが繰り返し続き続けて今日に至っているのです。

そこで本物の精神世界を知るには矛盾も妥協も無い完全なる真理しかありません。
それが山田耕栄さんが説く完全真理なのです。
そして未熟ながらもその真理の実践をし続けるしか他に道が無いのも事実です。


だから完全真理を学び知ることから始まりますが、
とにかく目先の欲に駆られたりせずに、また他力に依存することなく、また説教を丸呑み盲信することなく、また保身することなく、完全真理の実践一筋にして、
自らのその意識の有様に自分の意識・感性・能力・自力を使って自らが真実に気付いていく、その独自独歩の実践しかないのです。

すなわち精神世界を意識して日々を暮らし、その暮らしの中からこの世の矛盾やその人間関係の過ちに気付いていくのが実践になるのです。


ところがどっこい目の前に見える形が気になって(執着して)精神世界を意識した暮らしの実践には至っていないのが大方でしょう。
だから欲を出している事に気付かないままに、それでも真理を実践しているつもりになっているのも大方でしょう。
だから無理もするし余計なことに手出しするし無駄になるとも知らずに頑張ることにもなっているのです。

また神懸り超能力者がこの世の道理や精神世界やその真理が言えるのに、
なんでかしらそれらの人が(自らが)その道理や真理と違う道筋を進んでいる事に気付かないで、結果的には欲張り無理する事になるのです。
しかも(未熟さからして)私は正しいと思っていますから尚更に気付けないのです。

だから謙虚さも素朴さも忘れて(愛を見失って)いつしか自己拡大につながるのです。
しかもそれさえも気付かないのが大方でしょう。

だからどうしようもないのが人間であり、どうすることも出来ないのが我々なのです。
だから先程に書いたように
自らの独自独歩の実践でその矛盾も妥協も無い真実に自らが<気付き>そして更に気付き続けることしか他に道は無いようです。
だからその為にも謙虚さや素朴さの自己縮小が必要になるのです。

何で欲を出して生きるの、判っているがやめられない、それが本音でしょうか。

2012年12月23日 | Weblog
不平不満になる原因に善悪損得優劣で判断することにあります。
その中に欲張ることが原因と
また私が正しいの意識から不平不満が出ます。

その不平不満を言っている人や欲張っている人を何かと批判的に思う人がいますが、
その批判する思い(否定反発)が不平不満だと気付く人は(私は正しいと思っているから)少ないでしょう。

また裏切られたという人も自分が被害者のように言いますが、
その裏切られる結果になったのも己に欲があってのことです。
もし欲張ることが無かったのならば絶対に裏切られることにもなりません。
だから裏切られたと思うその大元の原因は自らの欲にあったのです。

と言うように、往々にして人様のことは見えても、自分のことが見えていない場合が多いようです。
それが(私が正しいと思っている)神懸り奇跡の超能力者や聖職者にも言えることなのです。


ところでイエスがサタンを滅ぼした正義の味方のように思う人もいるでしょうが、
その滅ぼしたはずのサタンの意識&命は完全消滅することなく永遠に続きますから、その滅ぼされたサタンと言われる意識&命はイエスを憎み怨み続けますから、その執念執着からして成仏できずに動物霊となってこの世の裏世界・裏社会で(能力霊力で人心を惑わしながら)存在し続けることにもなります。

だから否定反発排除するその意識、私は正しいの意識がこの世を覆っている限り、その裏の闇意識が集り高まり邪魔立てして、自由平等平和・調和の世界には絶対になりません。


ちなみにその邪な意識となった霊魂・動物霊を忌み嫌い否定反発排除するのではなくて、その闇意識を愛意識でもって諭し修正しているのが以前にご縁があった霊能者です。

ちなみに釈迦が悪を滅ぼした事例は無いようですが、
この世に漂う邪な霊魂を排除することで釈迦自身(邪な誘惑に打ち勝つ強い信念)(私は正しい)の意識を守ろうとした(その守るために闘う、それが修行の積み重ねにもなった)事例があるようです。


だから否定反発排除する意識、私は正しいの意識、そして欲張る意識がある限り「どうしようもない」し「どうすることもできない」と書いているのです。
何たって過去の釈迦やイエスさえも不完全意識だったことから言えば古今東西の神懸り超能力者を含む誰しもが完全な神や愛の学びの途中なのがこの世の人間界です。

その不完全意識の人間界である限りにおいてはその神懸り奇跡を成す人を信じて頼ることにも当然問題があります。
だから触らぬ神にタタリなしから神様仏様になりそして神も仏もあるものかとなり、その思い思惑期待(願望祈願)を裏切られたと思うことにもなっています。


その根本に「欲」があったのは事実です。

またそれが人のために尽くすという思いであっても、
自分が正しいことをしていることを人様に見せたがる気持ちがあったり、自分の能力行動を出して見せて人様の関心を引き寄せたい思いや相手に好かれたい思いやの欲心が隠れているのが不完全意識の人間なのです。

だから人気を得て人が集まり皆からもてはやされる事を喜んでいるのです。
また中には謙虚を装いながらも内心では特別に羨まれ尊ばれ奉られることを喜び、また頼られ願われて先方から頭を下げてやってくる人やお金をもってくる人が増えることを密かに目論んでいる場合もあります。

もっと性悪な場合は相手が我欲から欲張っているのを承知の上でその願いを霊力でもって何度か喜ばせて相手を調子に乗せておきながら、その頃合いを見計らって突き放して奈落の底へ陥れ、その困り果てている姿を裏影から眺めて微笑んでいるのが、俗に言う人心を惑わすして喜ぶ動物霊と言われる類です。


しかし欲張らなければ何事も無く(余計なことも無理も無駄も無く)平然と生きていける事実があります。
なのに「何で」欲を出して生きるのよ、となるのです。
植木等のスーダラ節の「判っているがやめられない」のが本音でしょうか。

そして欲を出して生きていて良かったと思う裏にはその落とし穴があって、いつしか世間一般の有事や真坂の有事で失意のどん底を味わうことになるそのしっぺ返しが待ち受けています。
だから人生の終末を少しでも穏やかに過ごしたいならばその分だけ欲を捨てるしかありません。


また先程のように欲に駆られた人心を惑わして喜んでいる動物霊・霊魂もそうですが、それを先祖供養や葬儀法要に結び付けている(原因付けしている)場合もあります。

しかしそのしっぺ返しは俗に言う神仏霊魂の仕業(神の罰)ではなくして自らの意識(欲望)が原因で招いたその結果だと知らないことからしてその神仏霊魂を恐れることにもなったのです。
ちなみに完全真理で言うところの神(意識)とは愛(意識)のことになります。
だから「宇宙・神・愛」と一緒に書いています。

ちなみに成仏できなくて動物霊に成り下がったのも己の欲や野心が原因からして人に騙され裏切られたその憎しみ恨み嫉妬執念からして動物霊になったのですから、その騙され裏切られたその腹いせからして同じ欲に駆られた人をもてあそんでいる(人心を惑わして楽しんでいる)とも言われています。

だから欲が薬にも毒にもなるのです。
だから欲からして進化発展するが破綻破壊破滅にもなるのです。
だから欲を出せばとんでもない罰が当たるとも言われるわけです。
しかしその欲を捨てられないのが人間ですから、俗に言う欲もほどほどにして身の丈に見合った欲で治めておくことです。

しかしその欲の無い生き方を十分に味わい知れば、なにも欲を出してまで生きる必要性(必然)がなくなるのも事実です。
しかしその欲(意識)が完全に消えて無くなったのではありませんから、油断していると、その心の隙間に欲が見え隠れしてきます。
だから謙虚に素朴に生きることが言われているわけです。

人間は想像の世界・仮想空間・白昼夢の如くにしか生きられないのでしょうか。

2012年12月20日 | Weblog
地球上で生きている生命体の中で欲やその期待を持っているのは人間だけです。
まず性欲・食欲があり、自分だけのものにしたがる独占欲や自分の思うがままに支配したがる欲があり、名誉名声肩書きを持ちたがる欲、私が正しいと主張したがる誇示堅持欲、そして金銭欲や物質欲があります。

またその中に正義や完璧や潔癖潔白を求める(欲しがる)こともあります。
そしてそれらで自己満足したりまた不平不満になったりするその喜怒哀楽が繰り返される生き方になります。

その欲も生まれながらにして持っているものですから決して人様に教えられて身に付いたものではありません。
だからまずはその欲で生きることになりますが、そのうちに欲とは無縁の神や愛の精神世界を知るときが来ます。
そこで精神世界を意識して生きることになる人とやはり此れまで通りに物欲やの自己満足とその不平不満の苦楽の繰り返しで生きる人とに分かれます。

その精神世界で生きることを選んだ人は欲離れしていきますから、やがて食って寝て糞をして生きているだけで(過不足の無い)十分になり、その生き様にも楽しみ喜びの感謝があることを実感でもって悟ります。

しかも過去の欲で生きているときの苦楽・喜怒哀楽の無い穏やかな安心安全の心持で暮らせますから二度と欲で生きることを望んだりはしません。

すなわち欲の裏表・矛盾・苦楽を味わい知り、また欲張らない精神世界で生きることの真価を味わい知ることになり、その精神世界で生きることが人間本来の役割使命であることも悟ります。

ところが欲の世界で生きることを選んだ人は(生かされ生きてはいるが)神や愛の世界を知らない、人間として生きている意味の無い死んだも同然の生き方と言われるわけです。

ところが神や愛の精神世界を学び知り気付いたのに何故か欲が原因の自己満足と不平不満の繰り返しから離れられないままにいる人が多いのは何故でしょうか。
しかも神や愛の精神世界を信じるか否かの無い完全な真理によって絶対的に説かれているのだから迷うことにもならないはずですが。
また私の自叙伝的なブログで様々な事例実例を余すところ無く紹介しているつもりなのですが。

やはり持ち前の不信感や守り意識が邪魔しているのでしょうか。
それとも精神世界を学び知るだけで十分だと勘違いしているのでしょうか。
それとも特別な神仏霊魂や神懸り奇跡を信じて頼って期待しているだけで十分だと思っているのでしょうか。
それとも私は神に守られていると思い込み過信しているのでしょうか。

それともやはり「どうしようも」「どうすることも」出来ないと諦めてしまっているのでしょうか。
それとも中途半端なままでいるしか成す術も無いのでしょうか。
やはり目の前に見える美味しいそうなアメや効果抜群が期待できそうなクスリが無いからでしょうか。

すなわち自力と自信ではなくして、また己の意識が原因ではなくして、
何かと人様の性にして、人様の意識が原因にして、
自分は蚊帳の外でいるほうが都合が良いのでしょうか、
それとも言い訳正当化して自他共に誤魔化しているのか、

いずれにしろ過去現在未来に思いを馳せるだけのその想像の世界や仮想空間や白昼夢の如くにしか生きられないのでしょうか。

それで大丈夫に思っていると真坂の有事で苦境に立たされる結果が(見えないが)目前に迫っている事実があります。

しかし神や愛の精神世界を意識して暮らしていればその有事で動揺することにもならずに、また新たな気付きがあったりして、その有事がきっかけの変化を新たな楽しみに結びつける、そんな心の余裕も生まれます。

だから大昔から神や愛の精神世界が説かれてきたのです。
それを生かすことが出来るのも己の意識次第です。

耕栄さんの完全真理もこのブログもその実践が無ければ価値・真実事実が見えません。

2012年12月17日 | Weblog
この世はすべて必然で成り立っています。
だから精神世界を学ぶ形も必然からしてあります。
また趣味嗜好娯楽を必要とする人のためにその形があります。

しかしそれらは必要・必然とする者に限られます。

また欲しがっている物のバーゲンに縁があるのも、目の前にあるその縁を見逃すのも、その時の意識が原因からして仕組まれたご縁と必然の関係になります。
また精神世界に係わるために仏門に下ったり、または恋人や夫婦関係に支障が出たのも、その意識が原因の必然の結果でありそのご縁があったといことになります。


だから精神世界を学ぶ必要がある人にその精神世界を学ぶ形が色々とありますが、その精神世界を必要としていない人にはその形が必然ではなくして無用になります。

しかし触らぬ神にタタリなしの人が何か困ったときに神様仏様を求めることになりそれがいつしか神も仏もあるものかに様変わりするのも自分の都合からです。

だから自分の都合・欲から求めた必然の形にはその裏の不都合が隠れています。

しかし自分の意識が原因からして仕組まれた(予測外・偶発的)ご縁から始まるのは必然性があってのことですが、そのご縁が(良かれ悪しかれ)必然から起きたことと気付かなかったりまた否定反発排除することになればそのご縁必然が無縁無用になります。


そのご縁必然を意識している私だけに、ふと何かに気付いたことも必然ご縁として無視否定反発しないままにそれに従います。

またご縁が続いている限りいつしかその縁から別なご縁に巡り会えてまた更なるご縁につながっていくことにもなりますから、
だから最初の些細なご縁からしてつながり続けて(捜し求めたわけでもないのに)自分の人生に変化をもたらすご縁にもつながっていくのです。

だから捜し求めなくてもその意識が原因から仕組まれる必然ご縁からして向こうからご縁あってやってきます。
だから(欲張らなくても)しぜんに与えられ恵まれるまで慌てず騒がず静かにして「待つ」ことが精神世界で言われているわけでもあります。

だからこそ成り行き任せの来るものは拒まず去るものは追わずの自然体の心構えで今までやってこれました。

そして妻と離れ離れになって暮らすようになったのも必然ご縁の成り行きなのですが、
その妻が私を必然(必要)とすることよりも、その妻の思い(自由意志)が優先された、そのご縁と必然からして別居になっただけのことです。

すなわち妻と一緒に過疎地で暮らすことを提案したが否定反発されたことからして致し方なく別居となりましたが、それも必然ご縁だからして、その妻を無理に従わさせることなくほっといていますが、
それが現在も続いているだけのことです。

そのお陰で私も妻から束縛制限されることの無い自由になれたのです。
だから前もって私が自由を求めたたり、
また自己縮小の必然からして過疎地暮らしになったのではありませんで、
すべてが必然ご縁の成り行きです。

そして結果的にしがらみから離れたその自由からして精神的な負担が無くなって心身ともに軽やかになり、その一年後に完全真理にご縁必然があったことからしてそれが自己縮小に当てはまり、
欲を出して生きることよりもその欲を出さない生き方のほうが精神世界に似合っていることが判っただけに、それが大いに自信にもなったわけであり、こうしてブログを書き続けることにもなったわけです。

だから「自由」を書き、「否定反発」しないこと、
そして他力依存よりも「自力」とその「自信」を主に書いています。
その否定反発しないことが「成り行き任せ」であり、
その他力依存が消えてそれが自力と自信の「食って寝て糞をする」だけのその欲も無理も執着もない謙虚で素朴な生き方に通じているのです。

だから前頭に書いたように一般世間が必然としていることの多くがいつの間にやら私には必然性が薄くなり、それが結果的には世間離れした生活になっているだけです。

そして無理をしていないからそれが無駄なことや余計なことにもならないから、結果的には精神的にも肉体的にも楽チンで物質エネルギー的にも省エネの生き方になっているわけです。

そんな私の自叙伝風の書き込みが精神世界の学びにつながっているのですから、
しかも完全真理が基本だけに矛盾も妥協も言い訳正当化もまた誇張も装飾演出も無く、その真理にも道理にも沿った書き込みになっていると思っています。

しかし耕栄さんの完全真理や私のブログの内容からしても、その実際の実践が無ければその価値・真価・真実事実が見い出せないのに、
その実践がどうやら一般的には相当無理な気がしていますから、
どうやら無用の長物にもなりそうなその気配が(仲間の此れまでの経緯からしても)感じられますので、
そうなるとこのブログの書き込みを続けても結局は無駄になりそうなのですが、

それでも書き続けているのは
不完全で矛盾のある信仰宗教や邪な意識の霊能者や超能力者に惑わされる人が出ないようにと、
また他力依存やその思惑期待からして離れないでいる信者意識の人にもその過ちに気付ける様にと、
また不平不満から始まる様々なマイナス感情が出てくるのは、人様が原因ではなくして己の意識に原因があること(すべては己の意識が原因であること)(意識が原因の世界であること)を自覚納得できる人が増えることを願って書いています。

過疎地暮らしの水源が枯れたことで困ることよりも、新たな楽しみ喜びが出来ました。

2012年12月14日 | Weblog
欲張る人ほど不平不満が多いのは事実です。
また不平不満の多い人ほど自力が少なく、また不精からして自力を使わないでおいて、その代わりに他力を多く使いたがるところがあります。
また自力が多くあっても、先行き目先の忙しさからして他力に任せて頼るところがあります。

反対に不平不満の少ない人は欲張りません。
またその分だけ自力を多く使って事を成します。
また先行き目先のことよりも、今やるべきことに自力を使って「今を生きる」ことになります。

すなわち目先のことやその思い思惑やその期待をすることなく、今現在の必然ご縁からして自らが動きます。
そして欲張りませんから、自力を超える事に手出ししません。
だから心身ともに疲れたりしません。


ところで私は水道が無い過疎地で暮らしていますから、山の中のわずかな湧き水が枯れると生活に大きな支障があります。
ところがその水源が最近になって枯れてしまいました。

だから炊事洗濯お風呂がダメになりました。
そうなると過疎地暮らしを続ける事に無理があって当然ですが、
幸いにも今年の春に牛舎のオーナーが全自動洗濯機を私のために設置してくれていたのを使っていたので洗濯&乾燥には問題がありません。

またお風呂ですが、牛舎からほんの少し離れたところに吉野川ハイウエイオアシス(インターチェンジ)の施設の中に深層地下水を汲み上げて沸かしている大型温泉がありますから仕事帰りに入浴しています。
その入浴料が一回ごとに600円ですが、それを一年間(約13ヶ月)フリーパスにすると5万円ですから、朝の仕事帰りと夕方の仕事帰りの二度も入浴しています。
しかも牛舎のオーナーが親切にも半額負担してくれています。

そして食事&惣菜は主にスーパーの半額商品(パック製品)ですから殆ど洗い物は少ないし、飲料水は宇宙エネルギー浄水器の水を持ち帰ることができますし、
食器類の洗い物は牛舎の水道水をポリタンクに半分ほど入れて持ち帰るのでそんなに不自由しません。


本来なら水は生活の根幹ですから、その水に不自由するとなると不平不満・不安心配になるのが当たり前ですが、
(必然ご縁の成り行き任せの私に突然仕組まれて)水に不自由することになって生活が少し不便になることよりも、それ以上にそれが新たな変化刺激となりますし、そのお陰で暇で退屈する時間帯も減り、しかも一日二回の入浴三昧で清々しい思いのままに日々生活できることを大いに喜びそして楽しんでいます。

とにかくもオーナーの親切によって全自動洗濯機が既に用意されていたこと、
しかもお風呂屋さんが無くなっている現在なのに仕事場の直ぐ近くにレジャー施設の大型温泉があって格安に使用できるのですから、
しかも(高価な)ファバラ・エネルギーを愛用しなくなっていた私に(以前通りの格安な)宇宙エネルギーの水を意識し直す事にもなったのですから、
私にすれば「仕組まれた」ことになるのです。
しかも普段なら過疎地暮らしをやめなければならない状況なのに喜び楽しみが増えたのですから有難いことです。

ところがもし私が他力依存が多くて、その自力も自信も少なく、その不平不満や否定反発することが多ければ、牛舎のパートや親切なオーナーとのご縁も無かったしその収入も無いままの当初の暮らしが続いていたのならば、その水が使えなくなる仕組みによって今の過疎地暮らしを過不足なく続けることが状況環境金銭的にも相当難しくなるはずです。

またそれが目先のことやその思い思惑や期待でもって与えられるのとはぜんぜん違っていて、自然体の成り行き任せから成る様になってそれが「思わぬ」楽しみ喜びにつながったのです。

そして思い思惑やその期待からして得たものは一時の自己満足で終わってしまうが、自然体で仕組まれ得られたものは(必然ご縁からして)心を満たす満足につながるのです。

だからこの先々に枯れた水源に再び水が来ることを待ちながらも、今の水不足生活を此れ幸いにして楽しんで喜んでいるのですから、何の不平不満も不安心配もなく暮らせるのです。

私の自叙伝的な精神世界のブログは実際に味わっている事実を書いています。

2012年12月11日 | Weblog
コメントが殆ど無いだけに皆さんがこのブログを読んでどう思われたかを知ることは出来ませんが、
また釈迦やイエスらのことを書いた著書を私が読んだこともありませんが、
またサイババやユリ・ゲラーの著書も、また神仏霊魂やの精神世界の著書も同様ですが、
また山田耕栄さんの著書も三冊程度(読んだと言うよりも)目を通しただけですが、

そこで思うに、このブログのように(一般書籍や専門的著書とは違った)自叙伝的な書き込みによって、
摩訶不思議の世界・神仏霊魂の精神世界や完全真理のことが学べるのは珍しいのではないでしょうか?

しかも一般世間から見れば相当に見劣りがする生活をしているし、その過去も現在も大した事を成したわけでもなく、
また超能力や霊力の摩訶不思議を成して見せる能力もまったく無くて、
此れまでの自分の中で自覚納得した精神世界のその思いを文書にして伝えているだけですから、
一般世間から見れば相当に見劣りがする者が書いた自叙伝的な精神世界のブログやまた一般書籍著書は何処にも無いのではないでしょうか?
それを逆に言えば、やはり客寄せパンダの摩訶不思議を成すことがなければ世間に注目されないのかな?


そこで私の自惚れですが、以前にご縁があった霊能者が言うには、
私の思いを伝えたいがために書いたその文書が「お伝え」(宇宙からのメッセージ)になっていると言われたことがあります。
しかも私が書いているのではなくて「書かされている」とも言われました。
だからか、書いた内容をすぐに忘れてしまいます。


そんな私ですが、
欲張らないから無理する事にならないのも道理でありそれが事実です。

また不満不足がないから過不足が無い、だからそれで十分に思えるわけです。

また人工的で人間的な変化刺激が少ないから、その分だけ些細なことで楽しめます。

だから気落ち(虚しさ孤独感)することにもなりません。

まだまだありますが何度も書いていることなので省略しますが、
そこで何を多く書いても、私の実感したその思いを文字にして伝えるだけですから、やはり片手落ちでどかしいところがあります。

だから尚更に<実践>が必要と書いているわけです。

だから尚更に事細かく何度も書くことになるのです。

しかも既に(私に)結果が出ているその事実を書いているのです。


それでも欲張るのが人間ですから、どうしようもない、どうすることもできない、と書くことになっているのです。
だから私だっていつしか欲張る事になる可能性は十分あります。

それでも欲張れば心身ともに疲れますから、今の楽チンさを味わっているだけに、多分欲張ることを止まると確信しています。

すなわち無理の無い生活を<実際>に味わって生きているからです。

それだけに欲張ることを認めている人にはこのブログは不向きです。

神懸り超能力者も神や愛の「学び」の途中だから欲を捨てる実践が必要です。

2012年12月10日 | Weblog
前回に書いたような超神懸り者・超医科学者・超政治経済家や教育指導者やが現われ出ても、それらの者も神や愛の「学び」の途中であることは間違いありません。
だから過去の釈迦やイエスらの類もこの世で学ぶために現われ出た不完全意識を持つ未熟者だったわけですから、この世で特別な事を成して見せるために生まれ出たわけではありません。


ところが自分の役割個性能力を自然体で出しているうちに多くの人が憧れ敬うようになりそして多くの人が足下に寄り集まるようになり、それからして自己満足したり自惚れたり自己主張するようになり、そして一段高い所に立つ特別意識を持つことになり、結局は死してその世界に戻り再度出直すことにもなると思います。

それが俗に言うミイラ取りがミイラになり下がることであり、
ところが中には自分より長けた能力を持つものに操られたり騙され裏切られて、その悔しさ憎たらしさの憎悪を持つことになって、俗にいう動物霊に成り下がったものも多くいるようですが、

過去のご縁があった愛意識の霊能者が言うには、それら動物霊は弱い意識の人間にアメと鞭を使い分けて操り、自らが操られたその仕返しを足下に集まる弱い意識の人間に同じようにしているのだそうです。

そして従順に従っている内は喜んでご褒美のアメを与え続けるが、その操られている者がお礼の感謝・奉りごと・供養を忘れたりすると、こやつは信用できない裏切り者として急変し、今度は鞭を振り下ろして懲らしめの罰を与え続けられて(その罰に気付き悔い改め懺悔謝罪しなければ)いつしか奈落の底に堕ちることにもなるようです。
(操られている者の中に裏が多い土木建設業や政治経済家に多く、また瞬きの極少ない人や反対に多すぎる人が当てはまる場合があるようです)

その信じるか否かは別として、
神懸り超能力や医科学や教育指導や芸術関係などの天才的能力者やは何度も同じ転生の繰り返しをしているようです。 だから時代ごとにその進化が早まるのです。

しかし一般的な能力のものは(学びのために)例えば
今は貧乏人であっても過去世で金持ちを味わっていたかもしれません。
また今は警察官の人が過去世では悪事を働いていた場合もありますし、その逆の場合もあります。
また私のように来世は南海の孤島でその日暮らしの生活を望んだりする場合もあります。


何でこのような事例を書くことになったかと言うと
先程に書いたようにすべての人は「学びの途中」ですから、その不完全意識の気付きと修正をこの世で実践することにあるのです。

そして欲が我が身(意識&命)を滅ぼす事になることを学び知ったのならば、その欲を捨てる実践が成されなければ何度も同じ欲絡みのその裏や表の人生を繰り返す事になるのです。

だから神懸り超能力者といえども欲を捨てる実践が必要なのです。
そうなると人を集め導くことよりも先ずは自らが欲を捨てた実践によるその意識&命からして皆のお手本・先を行く人(先人)・道先案内になるのが先決重要だとして、
私の独自独歩の実践のその気付きからして書いているのです。