孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

此れまでの矛盾した無駄な人生を「活かす」ことも、それを「終わらす」ことも出来るのが「完全真理」です。

2010年12月30日 | Weblog
様々に接し触れ合い味わう中にも「差」のある不完全なものがあります。
また自力を使って成すことが出来る自信の中にも「差」のある不完全なものがあります。
・・・それを文明社会の現代人と非文明社会の先住民族とで表すとしたら・・・

現代人は比較競争の差を味わい、その差を自信にしています。
だから勝った者は喜びますが、負けた者は悲しんだり悔しがります。
そして勝ったことを自信にしてプライドを持つことにもなりますが、負けた方は自信をなくしたりプライドが傷ついたりします。
だから自信が長続きしません。
だから比較競争で得た自信はいつ消えるかもしれませんから不完全なのです。

ところが先住民族が何か競い合うことがあっても、特別に練習・鍛錬したことではなくて日々の暮らしに密接した必要な事柄をしているだけですから、自分の能力・技術を披露しあっている感じで勝ち負けをあまり意識していないと思います。
だから勝った者も負けた者も競技をお祭りのように皆と一緒に楽しんだことになります。
それを現代人のスポーツ野球に例えると、先住民族は野球競技を楽しみますが、現代人は勝敗を楽しんでいます。

このことで思い出にあるのが・・・中学校の野球部の部活支援に生徒の親として数人が手伝っていたときのことですが・・・他校との練習試合に出向いて試合を静かに観戦していましたが、結果は生徒の技術不足で試合は負けたのですが、その相手チームの担当教諭が「試合には勝ったが、野球には負けた」と言って、(私方の部員はまず練習試合が出来る事を喜んでいますから)元気いっぱい楽しんでいる皆の気合とそのチームワークのよさとマナー・礼儀さを称えていたことが思い出されます。

人間として生きているからには楽しむことも必要です。
だから必然で多くの趣味嗜好娯楽があります。
そして上手下手に関係なく(差は無く)下手は下手なりに楽しめるのが本来の趣味嗜好娯楽です。
だから「差」を付けるために楽しんでいるのか、または自分に出来る事を楽しんでいるのかでその生き方が違ってきます。
(概ね)比較競争をして差を付けることを楽しむ形になっているのが現代人です。だから上手下手・勝ち負けを気にしています。特に勝敗に執着すると卑劣なことまでしかねません。
だから結果的には楽しんで終わるのではなくて、楽しむための形に苦楽がともなっていて、しかもそれがいつまでも続く(執着)残念無念の結果が付きまとっているのです。

だから良い悪いの比較競争のために生きてその自己満足と不平不満の繰り返しをしているのが現代人であって、生きる為だけに自然と共に生きているのが先住民族になります。
また生きる為に生きる中にも、宇宙の流れ・時の流れに逆らってまで生き延びようとするのが現代人であって、あるがままの自然に任す生き方が先住民族にあります。

そして宇宙の流れ・時の流れを川の流れの如くにして・・・その流れに逆らうこともなく、また必死になって岩にしがみ付いたり木の枝をつかまえようとすることもなく、ただ流れのままに我が身をゆだねていても安心しておれるのが★「自信」です。
だから喜怒哀楽で浮き沈みすることなく、見栄や世間体や生老病死を気にして止まる事無く、また多くを望まず簡素に生きて、自己満足や不平不満の繰り返しをしないためにも、無理なく自分に出来る事をやりながら、慌てず騒がずに確かな自信でもって平然と生きていけばいいのです。

だから捜し求めず、欲張って無理をせずに、事欠くことがあっても与えられ恵まれるまで待つ、そして分かち合う協調・調和でもって、宇宙の仕組みの必然ご縁の成り行き任せに生きることが「川の流れに身を任せて」生きる例えになりますが、確かな自信が無ければ出来ることでは有りません。

ところが比較競争から得た自信は不完全ですから本物には決してなりません。
だから日々の生活の中で不平不満・不安心配・恐れが出てきて「生きた心地」がしていないのです。
しかも何か事欠けば見境無く奪い合い(強奪・略奪・侵略)我先に欲しがるのが文明人です。

だから、始まりなき終わりなき川の流れに身を任せていたら楽ちんの人生になるものを(行くべき所に行けるのに)、そんなことでは先行きが不安だからと(邪魔な人を押しのけ排除してまで)流れに逆らったり、押し流されないように必死にしがみ付いてそこで止まったり、または上流にはもっと良いことがあるかもしれないと思って公害副作用のある文明の利器を使ってさかのぼったり、または結果を先取りしたくて我先に下流に急ぐようなことまでするように、そんな無理をして何とか克服し事を成したがるような、そんな「無駄な人生」で終える繰り返しを(この地球で)何度もしてきたのが我々人類です。

ところがその無駄な人生を「活かす」ことも、それを「終わらす」ことも出来るのが「完全真理」です。
すなわち苦楽の人生・無駄な人生だった事を完全真理の実践でしっかり悟ることで、その苦楽の無駄な人生を終わらすことが出来る英知になり、そして新たな進化・意識改革を成して、あるがままの宇宙意識の流れ(宇宙の進化)に沿った生き方になるのです。

完全真理の実践で自力を知り、その自力を高め磨くことにより不平不満が減り、それが「自信」になります。

2010年12月26日 | Weblog
完全真理に矛盾も妥協もありませんから完全です。
完全だから信じるか否かはありません。 だから信仰宗教とは違います。
しかも人類初の新たな真理であり、完全だから否定反発排除したり真理を歪めることは無論のこと、これ以上の真理がこの世に出てくるはずもありませんから、この完全真理でこの世の不完全は終わります。 すなわち人類初で最後となる真理です。

完全だから自由に学び知ることが出来ます。
完全だから誰もが平等に学び知ることが出来ます。
完全だから思い悩み・思考錯誤することも葛藤することにもなりません。
また自由・平等・調和のある真理ですから、実践すれば自由・平等・調和の人間関係を味わえる事になります。

自由だから時間も場所も関係なく学び知ることが出来ますし、学び知る方法も様々に用意されています。
だから講演会に参加したり山田耕栄さんの著書からも、また講演会の録画映像や音声テープも用意されていますし、完全真理の個人的な解説やファバラ製品などの個人情報をインターネットで見ることも出来ます。

平等だから学び知る人に対しての差別はありません。
だから誰にも束縛制限支配されること無く、誰もが自由に学び知ることが出来ます。
また布教活動をしませんから、無差別に押しかけ、押し付け強要することも、されることもありません。
また朝参り集会や参拝詣でや神社仏閣や教会などでお祈り祈願することもありません。
また寄付やお布施や善意善行を求めることもありません。
また修行・荒行したり、お堂などに閉じこもることもありません。

だから特別なことは一切ありません。
だからどんな状態や環境・境遇であっても、いま生きている日々の生活の中に完全真理の学びとその実践があります。
だから完全真理を学び知ることやそれを実践することに何の問題もありません。
だから万が一問題が起きたとしたら、それは個人の意識が不完全で起きたことであって、完全真理やそれを説く山田耕栄さんの責任ではありません、自らの意識が原因で招いた結果になります。
それを如何に勘違いしたのか知らないが、恋人関係が壊れたり夫婦関係が壊れたりした離縁や離婚を耕栄さんや完全真理の性にしてネットに書き込んでいる人達がいますが、そのように責任転換する自我の強い人にまともな恋愛や結婚が出来るはずもありません。

私達は自分さえ良ければの個人意識で生きている関係からどうしても不平不満が出てきます。
その不平不満を解消しても自己満足で終わりますから、直ぐにでもまた不平不満が出てきます。
しかもそれが解消できない繰り返しで生きていますから、不平不満が不安心配恐れにもなりその不信感で安心して暮らせません。
だからと神に祈ったり人様の力を借りることが多いほど、自分で成すことが少ないので結果的に自信がなくなります。
そうするとどうしても己一人の力では成すことが出来ないことから、そういった仲間同士・人同士が寄り集まりたがります。
その代表的な形が既存の信仰宗教や真理を宗教化した形に集まる人々が(先程書いた事例に)あてはまります。

ところが完全真理を学び知りそれを実践するのが日常の生活の中にありますから、わざわざ人が寄り集まる必要性がありません。
ところがそれだけに完全真理にまだ自信を持てない人には何か物足りませんし、不安・不信感が出てくることにもなっています。
だから同じ仲間が集まる事を望むのですが、それもまま成りませんし、たとえ似た者同士が集まったところで同じですから、やがて真理を理解しないままに途中で離れることにもなっています。
すなわち宗教ではないだけに仲間内が一堂に集まる場所や機会が少ないことから孤独感を持ったり自信喪失にもなりかねません。

それが欠点でもあり長所でもあるのですが、それだけに「自信・自力」が必要になります。
すなわち他力本願的な人ほど似た者同士が集まりやすい信仰宗教に流れますが、あまり他力を必要としない自分の生き様に自信がある人ほど無駄を省いて自力で事を成したがりますから、その点から言えば完全真理の方が適していることになります。

その「自信」は特別なことではありません。
自分に出来ることが自力であり、自分に出来るからそれが自信になっているのです。
また自力・自信があるだけ、その分だけ不平不満にならないのは確かな事実です。
だから反対に不平不満が多いのは自分に自力・自信が少ないからです。

いずれにしても「良い悪い」で判断しなければ人を責めたり自分を責めたりしないから不平不満にはならないと言うこの文言・真理に尽きるようです。
ところが「良い悪い」で判断するのが人間ですからどうしても無理があります。
だから少しでも多くの自力を使って生きることが結果的に不平不満が少なくなりますから、先々の不安心配恐れや不信感に至る事無く、平穏無事な生き方が可能になってきます。

だからジャングルや高原や山岳や海洋や極限に地で暮らす人達、また開発を望まないで自然と調和して生きる事を望む人ほどに多く自力を使う関係から言えば、自ずと不平不満が少なくて、人間関係も比較競争が無くて協調調和があることからして、皆が一同に集まって一緒に穏やかに暮らせる生活をしているのだと私は思っています。
だから開発途上国や未開の地に住む等で生活が貧し人ほどに(自力が多いことからして)不平不満が少なくて、逆に豊かな物質文明を築き上げたところで住む人達ほど(自力が少ないことからして)不平不満が多いという矛盾現象になっていると私は思っています。

だから先入観・喰わず嫌い・毛嫌いしているところの臭い汚い暗いきつい怖い寂しい等と躊躇せずに、必然のご縁があればそれらを賞味・正味し大いに味わうことで慣れ、やって出来ることがあればそれが自力・自信にもなることからして、やがて無理なく不平不満が減っていくことになり、例え良い悪いで判断しても(自力と自信があるから)それに執着しないで立ち直れますから、その先の不安心配・恐れ・不信感を持つに至ることはありません、だから心が安定した生活・調和のある生活になるのです。

だから万人に等しく与えれられ恵まれているこの世に対しての不平不満が多いほどに人間として生きている価値・生かされている価値が見失われていますから、この世でもあの世でも浮かばれることはありません。
すなわち不平不満を抱えたままにこの世で人間を終われば二度と人間としての意識・命を持つことはありません。
だから此れまでと違った人類初の、しかもこれで最後となる、しかも信じるか否かではない完全な真理が説かれているわけです。

何で、何でなの

2010年12月20日 | Weblog
完全真理は実践して何ぼの実践真理ですから、宗教のように神仏に祈ることも願うこともありません、ただ実践するだけです。
また信じるか否かの選択もありません。
意識で生きている人間の役割使命・事実・真実・本物を知るための「実践」真理です。

私は人と比べればぼんくら頭で遊ぶことだけは一人前でしたが、それだけに学歴がお粗末で性格も引っ込み思案だったので対人関係や社交性・社会性も欠けていますから、此れまでの色んな遊び友達や仕事関係などのご縁が未だに続いている限られた人達を除けば、未だに社交性・社会的な存在感が薄い存在なのは今も事実です。
しかも映画や漫画やテレビを見ても新聞雑誌は無論のこと書店には無縁だっただけに一般的社会教養はあまりありませんでしたが、ただ遊ぶことだけは参考文献が無くても、見よう見まねと自前の自力で創意工夫していました。

そんな私だから、此れまでの精神世界・見えない世界・摩訶不思議全般も、皆様から寄せられた端的な情報だけで十分でしたから、仲間から親切にも参考文献や専門書が送られてきても、目次の文言や太字で書かれた見出しを読むだけでしたし、知りたがる自らの意思でわざわざ講演会に出かけることはありませんでした。
だからすべて端的な情報の寄せ集め積み重ねから判断しての成り行き任せでやってきました。

そんな私が「良い悪い」で判断しなければ比較競争・差別することも無くなり・・・云々の二行足らずの文言に納得したことからもっと知りたがることになり、そして今があるのですが・・・(私としては)誰でもが完全真理の「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で分離比較判断しなければ比較競争も差別も無くなり自由平等平和になる事を素直に納得理解できて、大勢の人が完全真理を学び知りそれを実践する人がどんどん増えると確信していました。

ところがです・・・既存の宗教やそれに類した形のものや新たな精神世界を説く団体に所属していたりする人とのご縁がありましたが、その人達は聡明で能力的にも恵まれていてそれを活かしていたり、また新たな事を成すために積極的に頑張っている人や、今やっている事に多くの人達が集まり囲まれている人望があったりして、とにかく能力もさることながら人付合いが上手で親切で人から好感を持たれ信頼される立場の人達が多くいました。
しかし何故か完全真理には理解を示さずにご縁が終わったり、中途半端に縁が終わったり、それらの人が関わっている宗教や他の真理や思想哲学・学術文学・教養的な類や差別問題などの取り組みから離れる事無く、今もそこで頑張っているようなのですが・・・私にしたら完全意識の完全真理があるのに「何で」今更そんな不完全なことが大事に思えるのと、なるわけですが、私としては(去るものは追わずで)こればかりはどうしようもありませんでした。

それと此れまでの9年間に山田耕栄さんの地元講演会を3回ほど参加しましたが、毎回新人が殆どいなくてベテランや追っかけ集団が目立つし、前回までリーダー的役割をしていた人までが離脱したりしているのですから、「何で」そうなるのと、改めて完全真理の普及進展の難しさを実感しています。

その原因にあると思われるのが、世渡りが上手な人で人望を集めていればそれを大事に守り続けるほうが自分に都合が良いからなのか、いま成している事に意識が支配されていて完全真理を意識できないのか、とにかく完全真理の本質を知らないままに大したことは無いと勝手に決め付けてやり過ごす人達や、耕栄さんの完全真理に関わっていても、概ね知ったかぶりで(聞くだけ言うだけで)十分通用するところもあることからして・・・個人意識丸出しの未熟さを痛感している私だけに「何で」完全真理の実践で事実・真実・本質を学び知ろうとしないのか不思議なくらいです。

また誰もが個人意識を持っているのは事実ですから、日々忙しく動いていれば良い悪いで判断したことも、不平不満に思ったことも、自己満足・自己主張したこともあるはずですから、実践意識・真剣さを持っていれば気付くことはそんなに難しいことではないと思います。
だから実践は「気付き」にあると私は確信しています。

そこで、実践する前に気付くことは理論・知識で気付いた事になると思っています。
それも重要なことですが、それだけでは自覚悟りには及ばないようです。
ただ過去の記憶が蘇って真理と照らし合わせて、なるほどと自覚納得できることはたくさんあります。
しかしそれも記憶の中のことですから悟りとは言えないようです。
ところが思ってもいなかった必然ご縁のお仕組みによって知らない間に(あるがままの自然体で)成るようになっていたことに気付き納得できれば、その事実が真実になり本物になったことであれば気付・自覚・納得・自信・悟りになったと思います。

だから無理をして気付いたことは自己満足の気付きになります。
それも必要ですが、また繰り返し無理をしたがります。
それが原因で不和・不調和が出てきて職場や恋人や夫婦・家族などの人間関係に摩擦混乱波乱が起きる原因にもなります。
そこで守り意識が働いて完全真理の本質を見極めないままに止まったり遠ざかることにもなります。

★完全真理にせっかくのご縁があったのに、「何で」簡単に見過ごすのでしょうか、「何で」関心を持てないのでしょうか、また「何で」途中であきらめたりするのでしょうか・・・その多くは、やはり今持っているものを失いたくない人が多いようです。
★それが「差」なのです。
せっかく努力して得た「差」を失いたく無いのです。

いずれにしろ不完全なこの世人間関係でいても「差」を持っていれば自己満足・自己主張できるから、またはプライドが維持できるから、または寄り集まってくる人たちを前にして自分がリーダになれるから、または便利よく都合よく指図したり操作できるからなの、または差を持った同じ仲間意識で頑張っていられたり、目立つ存在で偉そうにしていられるからなの、それとも今の立場位置なら良いとこ取りがたくさん出来るからなの、財産や家柄や人望があったり、人より一つ上の役職を持っているからなの・・・など等まだたくさんありますが、それらを失いたくないし、すでに築いているものがあるのに今更新たなことにゼロからスタートするのは何だからと敬遠するのか・・・とにかく実行性・実践がともなわないのも完全真理があまりにも完全すぎて、他の真理や宗教のように矛盾はそのままにしておいて、都合によっては妥協したり言い訳正当化することが完全真理では通用しないからかもしれません。

すなわち、すべて自分の都合を優先したいのが個人意識なのですから、相反する完全真理は(心の奥底では)不都合な真理に思われるているのかもしれません。
だから誰もが直ぐに理解できる事柄であるのに、完全真理をあまり知らなかったことにしてみたり、または比較競争・差別意識を隠して仲間内と交流することを楽しみにしていたり、または完全真理を自己流に解釈して矛盾があることに気付かなかったりして、そんな自分を偽ってまで、言い訳正当化してまで、(何とかして)今まで通りの生き方を守っていたいのかもしれません。
そして今も真理を学び合う仲間内の中でも、完全真理を宗教のように信じているだけで(差を持ったままにいるのに)私は大丈夫と思っていたりすると、やはり気付きが起こる実践が後回しになっている可能性が大いにあります。

ところがそんな人達であっても・・・来るものは拒まず去るものは追わずで、来るからには何とかして「浮かび上がって」こられるように配慮・思いやっているのが山田耕栄さんであり、それが一般市場に出回っているファバラ製品なのかもしれませんと、私は思っています。
・・・だから何かご意見ご感想があれば書き込んでください、参考にさせていただきます。

良い悪いの裏表の事実・真実を深く知ることでその裏表の矛盾が消えて良い悪いの差が無くなります。

2010年12月17日 | Weblog
私たち個人意識の人間は「良い悪い」で判断していますから、良いときも悪いときもあります。
また良いと思っていたことが後で悪い事に思えるようになったり、悪いと思っていたことが後で良い事に思えるようになったりして不確かで矛盾があります。
その不確かな矛盾の中で生きているのが私たちですから「絶対」や「完全」がありません。
だから絶対にとか完全とか言っていたことでさえ、後に間違いであったり、矛盾が出てきて不完全だったことがわかったりしています。
・・・それがこの世ですが、詳しいことは省略します。

私は戦中生まれの戦後育ちですから食糧不足・物不足・人材不足を経験体験しています。
そして昭和の高度成長期の物質経済主義・生産拡大と消費拡大も味わってきました。
そして「スイッチ・ポン」の便利で快適で時間短縮の素早さを大いに味わってきました。
すなわち昔と比べれば良い時代になったと言われたのです。
ところが公害問題で環境がどんどん悪化してきました。
その国内公害問題が一段落すると今度は世界中の排気ガスCO2が騒がれています。
すなわち「良いとこ取り」してきた弊害副作用が出続けていて、悪い事に今も人類地球を脅かし続けているのです。

・・・ここで本文・本筋を書く事になりますが・・・
私が中学生の頃遊びがてらに山へ行き枯れ木や落ち葉を集めて背負って帰りお風呂の燃料にしていました。
その時親父が「お前が山から持って帰った木で風呂を沸かしてくれているから良く温まる」と言っていたことが記憶にあることから、田舎暮らしで一番してみたかったことが「薪で風呂を沸かす」ことでした。
だから毎日のように薪で風呂を沸かしていますが、その薪で風呂を沸かすと体の芯まで温まるのは確かですし、薪の燃え残りが湯冷めを補ってくれるから、水を追加することはあっても追い炊きすることはまずありません。

その焚き木・薪作りもそう簡単ではありません。
近くの山へ行って杉やヒノキを間伐しますが、切りたての生木は非常に重たく、それを人力で引っ張って自宅まで運び、薪の長さに丸太切りし、そして薪割して、雨露が掛からないところへ運んで、一つ一つ積み重ねて、しばらく乾燥させます。
また風呂を沸かすにも薪を運んできたり、湧き上がるまで火が消えないように見張りながら次々と焚き木を入れるなっどの手間がかかります・・・その薪が燃える炎(揺らめく炎)と一定の燃え方をするガスや熱が赤く見える電気の炎とはまた味わいが違います。

だからスイッチ一つで風呂には入れていた頃と比べれば相当な手間がかかっています。
だからそれを面倒で都合の悪い事に思うと過去の快適便利な生活の良さが身にしみて判ります。
ところがまた(大したことでも無いけれども)自らが手間をかけて自力でやり遂げて入る風呂とスイッチポンで簡単に入る風呂とは何か意識的に違うのです。
その違いはどうやら原因から結果までの全てを味わうのと、簡単に(良いとこ取りして)結果だけを味わうのとの違いだと思います。

だから面倒で都合の悪いことでも、それを面倒くさがらずに奥深く味わっているうちに、今まで悪いと思っていたことが違ってきて、それをしいて言えば、悪かったことが良かったことに思えるようになるのです。
すなわち過去の思いが消えて(裏が消えて)今の事実の「表」だけを味わっていることになります。
それを言い換えれば、元々から良いも悪いもない事実・真実・本物を味わっている事になるようです。
だから過去のスイッチポンも今の手間を掛けるのも、その違いがあっても良い悪いの差は無かったのです。

そして、この先で私が病気になっても、その病気を賞味・味わう事にしています。
そうすれば健康だったときの数々のありがたさに気付き、それを実感で自覚することにもなり、また病気になったことで今までとは違う新たな事に気付いたり、または今まで知らなかった事を始めて知ることになるような、そんな楽しみみたいなものが私の中にあります。
だから病気を後悔する事無く、病気になった事を味わって今後の生活・生き方に活かすことが出来れば、過去の病気になったことが結果的に良かったことになり、その病気の裏と表の両方・事実を味わったことになります。

だから「死」もまったく同じ思いを持っています。
生まれた時のことを本人が知るすべはありませんでしたが、死ぬことであれば、自らの死が如何なるものかを知る二度とないチャンスになると思っています。
また死ぬ直前まで、例え苦しんでいても、今を生きている事を実感で味わえると思っています。
そうなれば死を怖がることも、また死ぬまで苦しんでいても、その死を後悔することも、また生に対する執着を持たずにして、少しでも安らかに死ぬ時を「待つ」ことが出来そうです・・・先のことは不確かですから絶対とは言えませんが・・・

だから皆さんも(良い悪いに囚われずに)此れから起こる有事・事実・結果に(後悔・未練)執着せずに、それを素直に味わえばいいのです。 必然のご縁あって恋愛ならその恋愛を、結婚ならその結婚を、不倫ならその不倫を、離婚ならその離婚を、離別ならその離別を、リストラ・定年・倒産破産・アルバイト・フリーター・ホームレスならそれを素直に味わえばいいのです。
・・・見栄・世間体・常識・道徳・伝統風習に関係なく、必然のご縁があったのなら、それを素直に味わえばいいのです。
・・・欲張る事無く、無理する事無く、成り行き任せでそれらを十分に味わえばいいのです。

この世で名を残すことでも、大事を成すことでも、家族や子孫繁栄を望むことでも無かったのです。
生から死までの過程を必然ご縁のお仕組みに任せて「あるがまま」に生きて多くの矛盾・裏表を味わい知ればいいのです。
・・・しかし未練後悔執着があれば、それは味わうことではなくて抱え込む事になります。

そして現れ出た結果・事実に未練や後悔や執着することがなければ、それらを味わっただけで終わり過去になるのです。
そして新たな必然のご縁から始まれば過去に止まる事無くして、その分だけまた違ったことを多く学び知り得る事にもなることから、やがてこの世の裏表を深く知ることになり→それは裏表の両方の事実・真実を深く知ることから→更にその裏表の矛盾が次第に消えて無くなり→その矛盾が消えれば良い悪いの差が消えて無くなりますから→その差が無ければ良いと悪いで判断する必要が無くなっていきます。

そうなれば街中の便利な生活と田舎の不便な生活の違いはあっても差がありません。
金持ちと貧乏の違いがあっても差はありません。
病気と健康の違いがあっても差はありません。
生誕と死亡の違いがあっても差はありません(始まりなき終わりなき永遠の命・意識ですから)。
違いがあっても差が無ければ不平不満も自己満足も自己主張もプライドも出てきません。
違いがあっても差が無ければ平等自由の調和の意識で生きることが出来ます。

違いがあっても差が無ければ欲を出さずに必然のご縁のお仕組みで与えられ得るまで待つことが出来ます。
違いがあっても差が無ければ裏を見ずに表の事実だけを見て「あるがまま」に生きることが出来るようになります。

その為にも、何よりも日常生活の中で知らない間に「良いとこ取り」している事に気付かなければ、また自分の思い・理想目的を成す事を望んでいれば、完全真理を確かに実践しているとは言い切れません。

進化拡大している宇宙ですから、同じ人類もその進化を終えて新しい命・意識として進化を重ねています。

2010年12月15日 | Weblog
元からある命・意識が形をなして見えているのが、「始まりなき終わりなき」永遠に進化拡大している宇宙そのものです。
だからニワトリが先でも卵が先でもありません、その形を成す以前から(元から命・意識)実在していたのです。

そして宇宙が進化拡大している最中に新たな形あるものが誕生したり、また進化拡大し続けて終りを迎える形あるものがありますが、形が消えて見えなくなってもその命・意識はまた新たな形となって生まれ変わっています。
それを地球に例えれば、地球が誕生して水や空気が新たに生まれ、そして生物が生まれ、その生物が進化拡大して恐竜時代を築きそして終り、そしてまた違った生物が現れ消えながら進化拡大し、その中から人間の祖先が誕生し進化拡大しながら現在の人間がいま実在しているのです。

だから進化拡大し続けた今の人間も必ず滅びる時が来て、そしてまた新たな命・意識あるものに生まれ変わりますが、今はその途中・終末に実在している人間の命・意識(体)が私たちです。
だからその事を昔から生まれ変わりの「転生」といわれているように、原始人以前からも、大昔の神代の時代・アダムやイブの頃からも、また縄文や弥生時代などと色んな時代を進化拡大しながら同じ命・意識を引き継いで現在に至っているのです。
だから皆が同じ神であり同じ人間であり同じ意識・命ですから、その姿形が違っていても差はありません。

ところがその「差」を意識するようになったのが、「良い悪い」で分離比較するようになった神代の時代・アダムやイブの頃にさかのぼると私は思っています。
しかしその「良い悪い」で判断している人間を終わらして新たな意識・命の時代に導くために、(進化拡大する宇宙の流れの中の)宇宙の法則・必然・お仕組みから釈迦やイエスらが現れた時があるように、現在ではそれらより完全に進化した「完全真理」が山田耕栄さんによって説かれています。

そして「完全」を説いていますから、成るものは成って、成らないものは成らないままに終りを迎えます。
それが良い悪いで判断しない「完全意識」なのか、それとも此れまで通りの良い悪いの矛盾で生きる「不完全」意識なのかで、その進化の道筋が概ね決るようです。
これらの事は古い過去のことであったり先々のことですから完全ではありません、だから「信じるか否か」に分かれますが、完全真理は完全ですから信じるか否かではなくて、「ひとつ」の結果・答え・事実を完全に教えてくれています。
・・・だから自信ありげに・・・こうして私の中にあるものをブログを書いているわけです。

だから「欲」張らなくてもいいですよ、そんなに無理をしなくてもいいですよ、必然ご縁の成り行き任せに生きていても十分人間らしく生きていけますよ、その為には臭い・汚い・暗い・危ない・きつい等と毛嫌いしないで、また不便だから、面倒くさいから、また信じられないからと言わないで、すなわち何事も否定反発排除しないで、それら(知らない裏側)を十分に味わっていればその内に本物・真実・事実が分かりますよと書いています。

そして出来れば喜怒哀楽や生老病死などを感情的に囚われないようにして、見栄や世間体や常識や伝統風習や道徳に縛られないようにして、また人間関係においても束縛制限支配関係にならないように自由と平等を尊重すれば自らも自由平等になりますよと書いています。

それらを「確かなもの」本物にするには・・・先ず学び知る実践から始まり、それが自信自覚・悟り・英知に至るまでの実践が欠かせませんよとも書いています。
そうしている内に「良いとこ取り」していることが減ることで不平不満や自己満足が減っている事に気付けば、知らない間に本物に少しずつ近づいていることになります。
それが本物の実践です。
すなわち「意識はしているけれど、意識していない」「実践しているが、実践していない」・・・過去にご縁があった「明暗流」尺八の家元の「吹け、吹くな、鳴らせ、鳴らすな」の自然体がいいようです。

それには完全真理を信じるか否かではなくて、自分のものとして自信・自覚を持って真剣に接し触れ合っていれば、実践の思いを先に意識していなくても日々日常生活の中で知らない間に気付き、やがてそれが悟り・英知になるのです。

能力や個性に関係なく、己に自信・自力が少ないほど群れを成したがり、また背比べをしたがるようです。

2010年12月11日 | Weblog
その原因は不服・不平不満にあり、それが不安心配・恐れにもなり、それが不信感や孤独感を持つことにもなりますから、それだけに一人では怖いから大勢の人と一緒にいることで(赤信号も怖くない例えで)安堵・安心感を得ていたいようです。
ところが人が集まると必ず評価判断・比較競争・差別意識が出て来ますから、知らない間に人様の姿形や能力的なことまで対比・評価・チェックしているときがあるはずです。

だから同じ仲間同士の会合や講演会なんかでも同じことが起きていますから、完全真理の耕栄さん関係者の中でも同じことが言えます。 しかも全国各地の講演会に足を運んでまで何度も参加している人の中には、比較競争意識だけではなくて、親しい仲間との交流・群れを成すために参加している場合もあります。(それが良いとか悪いとかで書いていることではありません)

ところが真理を学ぶことなら幾多の講演会の録画ビデオやCD・MD・カセットテープが会場の中で購入できるし、耕栄さん著者の小雑誌や単行本も売られているし、書店に行けばもっと著書が売られていますから、真理を学ぶのに不都合はありません。
なのに講演会に何度も参加して群れたがるのは(先程書いたように)己に自信が無いのが原因だと思います。
その自信が無いということは日々の実践が行われていないと言うことにもなります。

だから何かと不平不満を抱え、それが不安心配や恐れや怒りや嫉妬などにもなり、それら不信感が孤独感にもなっていることから、同じ仲間が集まって過ごせる時間・孤独感を癒せる場を得たがっているのかもしれません。
だから必然ご縁の地元近郊以外にまで金と時間を浪費して何度も足を運ぶことになるようです。
その無理・無駄が原因で恋愛関係や夫婦関係・家族関係に支障が出ている事例があるのです。
・・・信仰宗教が原因で不和が起こるのと同じ類です。
・・・また講演会の回数が減った原因の一つかもしれません。

だから教会や修道院で仲間が群れたがるのも、神社仏閣や会館で人が群れたがるのも、仲間内で写経や座禅したり托鉢に回るのも、また仲間で巡礼するのも、仲間が一緒だから出来ることであったり、同じ事をしている人が近くにいるから出来ることであったりするから、また皆が注目し評価してくれるから荒行・修行も可能になるということです。

自信があればお金や時間を浪費してまで皆で群れる必要はありませんし、修行じみた真似をすることもなく、ただ日々日常の中で行為行動・表現・「実践」しているはずです。

しかも仲間で群れると(私も同じく)仲間内で必ず対比・比較競争意識が出てきます。
そうすると私の場合、自分が自己満足することよりも自分の能力・力不足を思い知らされます。
だから一般的に人が集まる集会・伝統・風習や特に冠婚葬祭は苦手です。
しかし人様が未だ知らない事を私が先に始めれば独断の孤軍奮闘とその慣れとで力不足を補う形になりますから、それが自信にもつながってきました。

それが何度も紹介している事柄の先行先取りの繰り返しになったわけですが、自分の力不足・限界が見え始めた頃に次の新たなことに巡り合えて来たことから、いずれも集中・熱中すれど無理が無かったから、未練・後悔・執着にはなりませんでした。
だから(欲を出さずにいるから)今も無理をしないでいられるのです。

しかも己一人の孤軍奮闘が通用する精神世界・意識の世界ですから、私には最も好都合なわけです。
しかも完全真理でこの世は完結しその終りと始まりが一緒に起こることからいえば、もはや不完全なこの世に未練も執着もありませんから、さらに無理する事無く此れまで通りに必然ご縁のお仕組みに任せて呑気に生きていき、この先の必然ご縁でもしも選択の時があれば、そこででも欲張らずに無理をしないで行ける方向を選ぶことでしょう。

成り行き任せの必然のご縁のお仕組みだけで人間としての自覚をもって十分に生き長らえることが出来ます。

2010年12月09日 | Weblog
此れまでの私の人生そのものが今で言う必然ご縁の成り行き任せで生きてきたようなものですから、概ね自らが捜し求めて得たというものはあまりありません。
だから成すことに熱中・集中する以前に何らかの必然ご縁の「きっかけ」があったことから何気なく始まり、それを続けているうちにまた新たな必然ご縁があればそれを意識するようになり、その新たなことが今やっていることよりいいものであると実感できれば、以前のものを惜しげなく・未練執着も無く終わらせて、新たに知った事に集中し熱心に取り組んできた、その幾度かの繰り返しから今があります。
・・・「二兎追うものは一兎も得ず」「来るものは拒まず、去るものは追わず」の感じでした。

(参考)それが何度も書いているネットビジネス→環境関連・健康食品→特殊・多機能性健康食品→宇宙エネルギーの水→霊魂想念の世界→過疎地暮らし→完全真理・ファバラで完結しますから、これ以上のものが出るはずも無いことから言えば、この先に必然のご縁のお仕組みで味わうとしたら、それは「高次元・意識の世界」に身を置くことですが、それだけはその時が来なくてはわかりません。

小中学校・定時制高校は友達と遊ぶために行っていた様なものですから学力学歴はお粗末そのものでしたしが、遊ぶ事に関してはひけをとりませんでしたから、(まだ物不足の時代でしたから)手作業に近い道具を使うことも手馴れて手際よいし、見よう見まねで自分のものにしたことも多いし、それだけに創意工夫・アイデアや先見の目・先取り意識もあったことから、それらが概ね現実化しました。

仕事のご縁では親戚からの「大工さん」と「船員」のお誘いがありましたが、それが私の仕事につながる事にならなかっただけです。
ところが長屋を貸していた学校の独身先生のご縁がその父親のご縁につながり、その父親から紹介された総合食品問屋に丁稚奉公風に勤めることになり、その4年後には営業マンとして昭和の高度成長期に新規顧客開拓や新製品の販促に取り組んで物事の多くを知りましたが、父が急死したことでいきなり家業を継ぐことになりました。

そして人任せのお見合いを10回くらいしましたが全て成り行き任せでしたから、今の家内と結婚することになったのも成り行き任せでそうなっただけです・・・私から相手に望むことは殆ど無く、ただ私と一緒に暮らしても良いと思った人が居て(来るものは拒まずで)、それが何の障害も無く結婚に結び付いたのが家内です。

そして妻が何時も側に居てくれる喜びを味わいながら、また妻の喜ぶ姿を見ることが私の喜びにもなったことから、まず姑・母よりも嫁の味方になって嫁の言うなり(成すがまま)になりました。 だから夫婦間で喧嘩になったのはビデオ業をやり始めたときに反対する嫁との一回だけです。 田舎暮らしは嫁にその気が無いから離れて暮らしているだけです・・・ご機嫌は悪いけれど・・・既に始まっていたからには今更しかたがないことですから、私の中には新たな気持ちがあっても過去の未練後悔・執着はありませんでしたので、持っている自力を使いながらも成り行き任せにして今日までどうにかやってきています。

そこで家族・世間・常識・伝統風習・道徳などの「しがらみ」から離れて暮らすことの「良いとこ取り」の自由を味わい知ったわけです。
そして家族や世間の良いとこも悪いとこも、田舎暮らしの良いとこも悪いとこも、その両方を既に実感で味わっているのです。
そして人間関係に束縛制限支配されない「自由」の大切さを知り、またその自由を生かし切るには金銭物質よりもまず身の健康、それには先ず意識・精神の健康が何より大切な事を再度確信することになり、それには未練執着後悔を持たないことであり、それで気にしなくなると不平不満を待たなくてすむことになり・・・ それらを学び知ったことを改めて振り返れば・・・此れまで必然ご縁お仕組みに任せた生き方を知らない間にやっていたことの不思議さを改めて思い知ったことにもなります。

そして世間から見れば「世捨て人」のような生活をしなければ、この世の比較競争社会やその人間関係の矛盾から離れることが出来ないというお粗末な現実を知ったわけでもありますが、それを悲観しての世捨て人としてではなく、また夢や希望や理想目的やの欲を持たずにして、ただ自然の成り行きで起きた必然ご縁のお仕組みで始まったものが今ある限り、それだけで十分人間としての役割使命・自覚を持って生き長らえることも自らが学び知ったわけです。

だから欲張らなくてもいい事を知りますから、望まなくなり、望まなければその不平不満や自己満足を繰り返すことにはなりませんから、世捨て人ではない、時の流れの成り行き任せの気楽さで十分人間として生きていることを味わえるのです。
すなわち人間の姿・格好でもなければ、成して持っている形や肩書きでもなく、すべて「意識」が原因で地球時間を生きている人間ということを、我が身でもって自覚出来までになるのです。
そしてそれが悟り・英知になっていけば(地球時間を超えた)新たな「意識の世界」でそれが活かし切れることにもなるようです。

ただ一箇所の人達との必然ご縁の数々を紹介します。

2010年12月07日 | Weblog
私とのご縁があったことから今も続いている事例の中で紹介したいものがあります。
その一つにビデオ撮影制作がご縁の始まりで今も尚続いている一番長い事例を紹介しますが、その紹介する人は結婚式場を個人経営している人達ですが・・・そのビデオの仕事も私が営業に出向いたことが無いだけに、やはり必然ご縁のお仕組みが働いて得た仕事の中の一つですが・・・

そのビデオ業を廃業して過疎地で暮らすようになってからも、そこの社長とは宇宙エネルギーの「水が縁で」お付合いが続いていたのですが、家内のいる我が家への帰り道に立ち寄り、山で採れた自生のフキが多かっただけにそれを何気なく差し出したところ、ちょうど仕出料理に添える季節の青物を考えていた時だったので、それを見通したようなグットタイミングでしたからたいそう喜んでくれました。

ところが元気だった社長が患いその息子が後を継いでいたのですが、その社長が元気になって退院する予定だったのが急変してお亡くなりになり、その葬式の当日に私が久しぶりに立ち寄ったのも不思議だが、ビデオの仕事でお世話になった社長の葬儀には(私が最も苦手とする儀礼風習だけに)無礼になる私は遠慮して行きませんでした。
そんな無礼な私が葬儀後に「水」をポリタンクに入れて立ち寄ると・・・世間の常識からすれば恩義・礼儀知らずの並外れた部外者に属するはずなのに・・・以前と変わらずに奥様や息子夫婦が笑顔で接してくれました。

そして山菜のフキやワラビを届けると、早速社長のお母さんが嬉しそうに(亡くなった息子がワラビやフキが好きだったと言いながら)下準備に取り掛かる様を私も嬉しく見ていました。
また私の姉が好きなツクシがたくさん取れたので、もし宜しければと何気なく差し出すと今度は息子の嫁の笑顔がぱっと出て、思いも寄らない好物のツクシが手に入ったことで大喜びしたのです。 それではと好む人が少ないイタドリを採って届ければ喜び、山の敷地で栽培しているキウイを持っていけば孫の大好物だと奥さんが喜び、家内や姉のために年末の飾りに赤い実を付けるヒイラギ南天を余るほど取れたので、帰りのついでに立ち寄りヒイラギ南天を出すとちょうどクリスマスの壁掛け飾りが出来上がる寸前だったので、その赤い実のヒイラギ南天がまさにグットタイミングだったので若奥さんが驚いていました。
・・・時期的なものだけにそれらを意識して毎年恒例のようにお届けしているわけではありません、その時任せでやっていることです。

また私のご近状のおばさんが「しだれ桃」の苗木を何処にでも植えてと頂いたのでそれを山野草の好きな家内に渡したのですが、何かなおざりにされているようなので、せっかく頂いたのに申し訳ないと思いその式場の奥さんに託すと、珍しい「しだれ桃」だからと庭園の中心的な位置に植樹したのです。
そして庭師の手入れも有ったことから見違えるような立派な風格を備えた主役として今も立っており、その垂れ下がった数本の枝先にボンボリ提灯のような赤い花が見事に咲き誇る時期が今も毎年続いています。

またつい最近では、山へ遊びに来た知人が手土産に自社製品の焼き麩を味噌汁にと大量に頂いたので、そのおすそ分けのつもりで何箇所に配ったのですが、その内の一軒の式場の若奥さんの赤ちゃんが丁度離乳食に入ったばかりだからと喜んでくれました。

あれこれと一箇所の必然ご縁の事例を大げさに書いていますが、それにもう一つ付け加えることがありました。
一年に数回独身の姉妹が遊びに来るのですが、その妹さんが規模の大きい総合病院の看護士をしているのですが、私が必然ご縁の事例をあれこれと話している中でその結婚式場の社長たちの事例を話していると、(数年時がたっているのに)その看護士がひょっとして○○さんのことですかと聞いてきたので、私も驚いて何で知っているのと聞き返すことになりましたが、その看護士が担当していた患者さんだったのです。
それで今度はその事を式場の奥さんに話すと、お世話になったことからまだその看護士の名前まで覚えていたのです、そしてその看護士が私と長いご縁がある事を聞き知って、その思いもよらないご縁の巡り合せに驚いていましたから、ご縁というのは不思議な巡り合わせになるもんです。

あれこれとこまごま書けば他の人達に関してもいろいろとありますが、未だにご縁が続いている人達に共通することにあるが、まず「宇宙エネルギーの水」で未だにつながっていることであり、次の霊能者の霊魂の世界にも何とかつながり続け、そして今の完全真理やファバラにもつながったことから、それらの人を私が道先案内している格好になっています。

此れまでの幾多の経験から言えることですが、私の摩訶不思議な事例や水にまつわる不思議な話や完全真理やファバラの内の一つでも関わっていれば何とかそのご縁も続きますが、やがてそれらにまったくご縁がなくなると私とのご縁も当然終わります。
せっかくいいところまでつながっていたのに勿体無いとも残念にも思いますが、此ればかりは私としてもどうにもなりません。

ただ不思議なことに何故か結婚式場の人達とのご縁が「水」だけなのです、それも見えない世界の摩訶不思議な話との関係ではなくて(関心が無いから)、亡き社長とのご縁で今も私が水を運んでいることで起こる必然のご縁があるだけです。
だから水を運ばなくなるとご縁は無くなる事を知っているだけに、今も何とかしていますから、この先で予想だにしなかったことが起こる可能性はまだ残っています。

こうして必然ご縁お仕組みの数々をしつこく書くのも、過去の摩訶不思議な情報がきっかけから今の私があるのですから、また私も同じように私の中の情報を書くことがお役になるのではないかと思いつつ、こうしてあきもせずに書き続けて、この世が必然ご縁のお仕組みが働いて成るようになっている事実を知るきっかけになればと思って書いているのです。

そして皆さんの今があるのも必然ご縁の巡り合わせの中の選択した方向に進んでいるだけのことですから、それを良い悪いで判断しなければ不平不満にも自己満足にもなりませんから、此れからは人様の事をあまり気にせずに、あまり欲を出さずに、金銭物質に頼らずに、執着して無理をせずに、少しずつでも実践していけば、自分・自力に適した成り行き任せの必然ご縁に任せて生きていくことも可能になるし、それが自信確信にもつながっていくはずです。

公平・平等で自由に使える一日24時間ですが、「意識」によって同じ時間の味わいが違ってきます。

2010年12月05日 | Weblog
自然界は元々皆のものでしたが、良いとこ取りする人が現れ、それを権利化して、自分のものにして、他を自由に寄せ付ける事を排除するようになりました。
また水が流れる河川や海まで境界線を引き自由になりません。
しかも上流でせき止めて良いとこ取りすれば下流が水不足になったりして困ったことになるし、上流で廃棄物を捨てれば下流ほど困った事になりますが、その原因は皆のものではなくて我々のだと思う良いとこ取り・横取り意識・個人意識にあります。

また魚類などの海産物を日々必要なだけ捕っていた住民が大型船団に根こそぎ良いとこ取りされて荒れ果て、日々の漁が激減している事例も数々あります。
そして河川の汚れが海岸や国境を越えてまでも影響しているように、空気の汚れも同じく国境を越えて他国を困らせています。

それでは皆に同じの「時間」はどうでしょうか?
時間そのものは皆に公平・平等であり自由に使えることからして、誰かが人様の時間を束縛制限支配できても、完全な時間そのものを独占支配することは出来ませんから、平等で自由であり、完全で規則正しく動いていますから、それが原因で良いや悪いの矛盾が出てくることはありません。

ところが時間の使い方であれば、皆それぞれの使い方によって、良いときや悪いときに思えたり、長かったり短かったり思えることがあれば、その時間の使い方に矛盾が出てきますから、良いと悪いがある矛盾の不完全な時間が頭の中にあることになります。
・・・同じ時間なのに頭の中に良い時間と悪い時間があることになります。
そうなるとどうしても「良いとこ取り」したがるのが個人意識の人間ですから、能率効率・便宜性を高めて時間の節約・短縮すればそれが時間の有効利用の良いことに思えることから、その時間の良いとこ取りが正しいことのように思え意識するようにもなります。

だから24時間をフル回転させて事を成すことが多いほど自己満足が増えます。
そして同じ24時間の使い方に人との比較競争の「差」が生まれ、それが差別意識や特別意識を持つことになっています。
だから同じ24時間を使うにしても、生産性の高い都会に憧れ、生産性の低い田舎を敬遠・逃げ出したくなるのでしょう。
すなわち自己満足の多いほうを選択し、自己満足が少ないほうを敬遠したり忌み嫌ったりしているのです。
しかもそれによって仕事の選択・生き方まで狭められているのですから、自分で自分の首を絞めているようなものです。

ところが(私が)生産性の高い街中から離れて生産性がまったく少ない過疎地で暮らし始めてまず一番に、(不完全な人間関係を知る以前に)生産性の低い生き方が如何に自由で気楽かを気づき知り、また老人ばかりの過疎地だけに対比する比較競争やプライドもあまり必要としなくなりました。
そして街中では見栄や世間体や伝統風習や道徳に縛られることや、対比する競争意識やプライドなどの重たい荷物を背負い続けていたことや、不平不満が正しいことのように平然と言う人がいればその人間関係に巻き込まれないように背をかがめて低い態度で接しなくても済むなど、人のことを気にせずに「のびのびと暮らせる」ことに満足した次第です。

だから過去のおいて生産性が高くて人様に誇れるようなことばかり追い求めていたときにはまったく気付かなかった、生産性の低い生き方に人間本来の生き方を見つけた感じがしたのです。
そして山暮らしの道先案内役をしてくれた娘から今度は山田耕栄さんの完全真理を道先案内されて、そこで今の私の生き方に自分なりの自信が持てたのは確かです。

そして何度も書いているように街中で思うがままに生きているときに毛嫌い喰わず嫌いしていた生産性の低い雑用や臭くて汚いと思えていた仕事にいつの間にやら関わるようになり、その臭くて汚いと思っていた牛のエサやりのバイト・下手間仕事に今は十分満足していますから、(過去も今も同じ24時間の一日を)以前とはまったく違った意識で日々をつつがなく過ごしている次第です。

すなわち同じ24時間の一日でも、己にひとつしかない「意識」次第でどうにでも変わるのです。
そして大きな満足が多いほどそれに意識が使われることから(時間が使われるから)他の事を意識する時間が少なくなります。
だから直ぐ目の前の身近なところの満足がたくさんあることにも気付けなかったのです。

ところが同じ24時間を自然の中でゆっくり味わっていると意識が開放され余裕が出てくることから、今まで気にもしなかったことに気付きが起きたりして、いつの間にやらお金や時間を掛けないで得られる満足や、理想や目的としていなかった思いもよらないことで与えられる満足や、今まで敬遠していたり見逃していたことを実際にやっているうちに満足が得られている事にも気付いたのです。

その反対にあれもしたい此れもしたいと思ってやった事やお金を掛けたことの殆どが自己満足で終わっただけに、結局は興ざめして長続きしなかったり、無理をしてまですることではない事に気付いたりして、結局はお金と時間を掛けたその残骸や足跡が残っているだけであまり用を成していません。
だから過去の街中で暮らしていることに限らずとも、何かと欲張って捜し求めて得た自己満足の時間や思い通りにならなかった不平不満の時間があっただけに、今では何でそんなことにお金や時間を無駄に使っていたのかと改め気付き学び知ったわけです。

そしてお金も時間も掛けないで与えられて得られる満足が多いほどその反対の不平不満に思う時間が減っていくのですから、それだけでもありがたい事に思えるように意識が変わっていくのです。
そしてその思い・意識があるから、日々の中の暇で退屈な時間を真理の実践に活かすことになり、どうでもいい世間的なことに意識を使う時間が減っていくのです。 だから更に成り行き任せの呑気な生き方が板につくのです。

そして限られた小数のご縁がある人達と時々関わっていることがあると、それが短い時間の会話であれ、また大したことでも無いのに(至福に近い感じで)何だか楽しい時間になっているのです。
また生活していく中の必然でその時々のご縁があった人であれば(私に対して不服を持っていなければ)誰が来られてもその時間を笑顔微笑で接することが多くなってきました。
またお会いすることで私が楽しい思いになるからと、自分から用も無いのに出向いていくことはありません。 それは私の欲でもあり、それによって相手の「時間を私が奪う」ことになったり「気遣いさせる時間」を持たす事になるからです。

それだからこそ、自らが探し求めずに、また「来るものは拒まず、去るものは負わず」の心境で、成り行き任せの必然ご縁のお仕組みに任せていられるのです。

必然ご縁の恋愛・結婚・生活の中で不平不満が出るのは「慌てる乞食は貰いが少ない」から?

2010年12月02日 | Weblog
皆さんの今が有るのは必然ご縁の巡り合わせの「結果」です。
だから特別なことでもなければ良い悪いで判断することでは無いのです。
すなわち結果で判断することではなくて、その結果を味わい知り、そしてその結果の「原因」を知ることが重要になってくるわけです。

例えば恋愛関係になる前に必ず必然ご縁のめぐり合わせがあったからで、ご縁も無いのに恋人関係になるはずもありません。
ところがその恋人関係になる以前から多くの場合「私欲」が絡んでいたはずです。
だから自分に都合が「良いか悪いか」で判断していたはずです。
そして自分に都合が悪ければ恋人関係になることはまずありません。
そして自分に都合が良いことが続けば恋人関係は続きますが、都合の悪いことになれば離れる事になるだけです。

だから「好き」という感情の裏側の「嫌い」が出てきたことにもなります。
また「愛情」の裏側の「憎悪・憎しみ」が出てきて嫉妬・仕返しの報復制裁や破壊意識になる場合もあります。

その自分に都合が良いことから「結婚」に至る場合で言えば、それ以前の離れ離れの逢瀬を楽しんでいるのが恋愛中ですが、その離れ離れがもどかしくて一緒に暮らすようになれば、もっと長く多く良い思いが出来るのではと欲を出した結果が結婚ですから、一緒に居る時間が長く続くと良いことばかりではなくて都合の悪い問題がいろいろと出てきてそれが不平不満になります。

だから恋愛中ではあまり出なかった不平不満が次々と目立つようにもなりますから、そこで恋愛中のほうが良かったが結婚したら悪いほうも出てきたことになります。
すなわち欲から生まれたご縁だけに自己満足していただけですから、その裏の自己「不満」が出てきて、その自分の思い通りになっていないことに対する「不平」が出るようになるのです。

成り行き任せの必然ご縁の思わぬ巡り合わせとは違って、原因に<欲>があってのご縁必然で結ばれた偽善関係ですから当然ながら表が出たり裏が出たりしながら成るようになっていきますから、いつまで関係が続いてもその結果も良かったり悪かったりの自己満足と不平不満の繰り返しの生活になります。
そして恋愛中の楽しい出来事までが偽善の自己満足ですから、その恋愛も結婚も色あせて、その恋愛中のトキメキまでが嘘っぽい偽善・錯覚勘違いに思えるようになったり、良かったことよりも不平不満の方が根強く残ることにもなったりして、何かの折に結婚を後悔するときもあるのです。
・・・前回に紹介したドラマ・映画「ビフォア・サンセット」のストーリー(セリフ)に似たような事が描かれていますので参考に・・・

何度も書いているように人間関係は欲がらみで不完全なのですから恋愛や結婚に夢や期待を寄せることは無理があります。
そして夢に思い描き期待するから、その反対の裏切りが出てくることにもなりますが、成り行き任せであれば期待していないのだから裏切りに思うことはありません。
だから思い思惑期待をしなければ「あるがまま」ですから、どんな結果になろうとも、その結果を味わえばそれで済むことですから(良くても悪くても)結果に執着することにはなりません。

好きになれば嫌いになることもある、愛情が憎悪にもなることもあるのですから、そんな感情・喜怒哀楽に左右されない自力を持てば、そして欲を出さなければ、それに見合った必然ご縁に恵まれて欲得がらみではない人付合いが出来るようになりますから、いつしか相手の欲に巻き込まれたとしても、自分に欲が無いのだからその縁に支障・障害があっても執着心はでてきませんからそのままにしておいて、そしてまた必然ご縁を待っていればいつか仕組まれて新たな人付合いが始まりますが、その場合は欲張らずに期待もせずに自然体で与えれただけに、そのご縁は以前よりもっと確かな手ごたえの有る関係になると、私の経験から自信を持って言えます。

ただそれがいつの事やら判りませんから、やはり与えられるまで待つことになりますが、それを待ちきれずに自分から捜し求めた関係が出来上がっていると、どうしてもそれに意識を奪われていますから、またとない恵まれたチャンスが目の前に来ていたのに、それを自らが断ち切る事になったり、または見逃すことになったりして、そこで「慌てる乞食は貰いが少ない」の例えに近い結果になります。

また恋愛や結婚やその生活の中で互いが束縛制限支配し合わなければ自由ですから、概ね歯車の合ったスムーズな関係が長く維持できますが、その関係・形はあくまで結果ですから、その結果を意識して生活するのではなくて、良い悪いで判断しているその意識の事を深く知るその実践に結び付けることが何よりも大切になります。