孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「楽しく」生きる事と<楽に>生きる事とはその赴き(原因意識)が違っています。

2013年05月01日 | Weblog
昔から「楽隠居」が言われています。
それが現在では数千万円貯蓄していなければ快適便利で豊かな老後が望めないと言われていますから、中には物価の安い海外で暮らす人までいます。

それもどうやら経済界・金融関係が意図的な情報でもって操っているような気もしているのですが、
昔の楽隠居のように食って寝て糞をして生きてさえいればいい、ではなくして、趣味嗜好娯楽・観光行楽の「楽しさ」を満たし、また子や孫に記念ごとにプレゼントやお小遣いを与えて気に入られ、また冠婚葬祭の費用や病気入院介護を受けることや死後のことまで含めた金額だと思います。

ところが私が過疎地で暮らすようになって「気楽な」楽隠居のような生活ぶりになったのですが、しかし廃屋を購入したり車道を作ったり修繕なんかで200万円を超えて私個人の貯蓄はゼロになり月5万円の国民年金頼りの生活になりました。

その楽隠居の中に俳人の一茶が如くに庭に舞い降りたスズメに(我と来て遊べや親の無い雀)語りかけるほどの情緒・風流さは私には無いけれども、
しかし金銭物質に執着する事無く、不足不満や不安心配も無く、ただ呑気気楽に食って寝て糞をしながら生きてさえいればそれで十分なわけです。

それでも過疎地暮らしの初期の頃は時間つぶしと食糧難を見据えた予行演習まがいに野菜果実やイモ類を栽培したりヤギや鶏を飼育していましたがそれも結果的にはお金と時間の浪費と苦楽が伴い必然性に欠けた無駄・無理・余計なことだと気付いて今は雑草に覆われています。

だから外面&形にして「楽しく」老後を生きることを考え実行すればその裏表の苦楽&自己満足と不平不満を味わう事になり気楽とは言えないが、
元からして「気が楽になる」(何事も気にしない)内面&精神での生き方なら、その形がないだけに裏が出難くなり本物の気楽な隠居になります。

ゆえに先程に書いた栽培飼育などの形有るものからして様々に楽しむことは出来るが、それには金と時間の浪費や栽培飼育に対する精神的負担が伴いますから、決して気が楽にはなりません。

だから楽しくと楽とではその生き方が自ずと違ってくるのです。
そして形有ることで楽しいことよりも、何が有っても何が無くても、精神心の気楽な生き方からして人間の本分が味わえるわけです。

だから楽しく生きることを捜し求めている限りにおいては決して気楽な楽隠居にはなれません。
ところが反対に気楽に生きることが出来るようになってからは今までの楽しく生きる形が少しずつ必要なくなってきたのは事実です。

だから趣味嗜好娯楽や映画ドラマやテレビ番組もどんどん必然性が薄れているし、また楽しく生きるための人間関係も不完全意識がゆえに厄介な事になりますからどうでもいいことになっているのです。

だから食って寝て糞をする時間や精神世界を意識している時間が主流になっているのは事実です。
だから尚更に暇で退屈するようになったわけです。

だから(今の私に最も必要なのは)私の身近なところで自由意識の(否定反発束縛の無い)気楽な人間関係が様々に仕組まれることを望みながらも、ただその時を静かに待っているのです。