完全意識の者同士の意識が交じり合い解け合う(融合する)ことは出来ても、不完全意識の者同士のその意識が交わり合い融合することは出来ません。
しかし個々の意識が引っ張り合い引き寄せ合ったりして引っ付き合うことは出来ます。
それが愛情や人情や友情で結ばれているとか、血縁や恩義であったり、または引き寄せられ(魅了され)ていることでくっ付いている事も出来ますが、それが表なら裏側に相反するものが必ず有りますから、引っ付き合っていたものが反発しあってバラバラに離れることにもなります。
しかしそうならない為に(そうさせない為に)束縛制限支配する(牛耳られる)形がこの世にあります。
・・・いつの世でも人心を牛耳って得をするものが裏の世界・闇意識の世界にいるからです。
(参考)霊魂の世界で言われているのが、大きな愛・霊力・お役を持っていた者の愛がいつしか憎悪・怨念になったことから動物霊(神社仏閣で祀られている類)に成り下がり、それら霊(意識・命)が良くも悪くも人間界・人間意識を裏で操っていて、その大将が九尾狐や大蛇と言われるものですが、それらは大きい善を成すと同時に大きい悪をも成していることから(この世がそうなっているように)、それら霊魂を否定反発・排除せずに(否定・排除するほどに憎悪・怨念が高まりますから)見失った愛・お役に気付かせて意識を修正するお役目をしているのが(以前にご縁があった)霊能者Kさんです。
※イエスや釈迦らがそれらを邪悪として否定排除したことが「正しい」ことに思われ、それ以来「悪を排除する」ことが正しことになり、それが「神は正しい」「私は正しい」「正義・聖戦」として定着したようです。
その牛耳る形・束縛制限支配したがる形が法律や道徳や常識や伝統風習やまた愛国心や正義感や宗教思想の中にあります。
ところがそうなると自由がありませんし、自由がなければ平等も無理になりますから、調和することは絶対にありません。
それでも自由・平等・調和の平和を理想目的にして目指せばそれらが得られるかのように思わせ錯覚勘違いさせている指導教育や宗教思想がこの世に定着していますから、それに惑わされて一生懸命に目指し頑張ることにもなっていますが、しかし無理なものは到底無理なのです。
※その無理な事を神の力に頼る事を教えられたり、その神とも思われる能力を持つ特別な人を崇拝することにもなり、それらの起こす奇跡的な事柄に魅せられ人が集まりだし、それらがいつしか指導者・支配者・王様・王族貴族やの権威・権力者にもなり、それらお偉いさんの言う事に素直に従えば困った事を何とかしてくれると思う他力本願的思想にもなったと私は思います。
ところがそれら不完全な世の中やその人間関係やの根幹を成す個人意識を不完全意識として教え、あるがままの宇宙・自然界を神意識・愛意識の完全意識として、その完全意識の有様を説く完全真理がこの世で始めて登場してきたのです。
ところがいつの時代も同じですが、先程に書いた自由を束縛制限支配している形に属する者やそれらに支配されている事を知らずにいる者たちでさえ完全真理を否定反発排除したがりますから、なかなか思うように完全真理が広がり浸透していきません。
またいつの時代でも同じですが、自由を束縛制限支配されている立場の人達や世の中の矛盾に気付いた人達の中から「事が始まり」そして広がっていくのです。
ところがいつの時代でも邪魔立てするものが大きく現れてくるのですが、完全真理に関しては完全ですから「付け込む・漬込む」隙間がないことから下手に手出しできないのです。
・・・手出しするほどにその者の不完全さが露出して墓穴を掘る事になるからです。
ところがその邪魔立てするものが個人意識を持った我々なのですから皮肉なものです。
すなわち不完全意識が原因から(自他共に)完全真理の実践を邪魔立てしているのですからおかしなことです。
またそれでも何とか実践しようとしても、これまた身近な関係の人たちが行くてに立ちはだかるのも、いつの世にもあることです。
・・・だから闇意識に覆われているとも言われるのです。
また(有り得ない事ですが)、「時の支配者や女王様」や豪傑・英雄・ヒーローらが完全真理を口に出せば、一応注目されるが反発もされるし、中には妄信する者がいたりと、それらが入り混じって混乱し仲間割れや疑心暗鬼になるのが見えていますし、また一度反発したらなかなか収まらず修正がきかなくなるのも個人意識の「私が正しい」があるからです。
すなわち「鶴の一声」で口に出して事が成るような簡単なことではないのです。 また理解出来ただけで事が成ることでもありませんし、信じていたら他力本願で成ることでもありません。
確かな実践があってこそ完全が完全に成るのです。
そこが既存の信仰宗教と違うところです。
また完全真理であっても、そこで無理をすればその無理をした結果も出てきますから、(理解不足も重なって)それが真実とは異なる違和感や不信感になったり、また自己不信や自信喪失になったりして、そこで止まる事になったり離脱することになるかもしれません。
・・・此れまで見た限りにおいてこの事例がもっとも多いと思います。
と言うことからして「一筋縄」で事が成せるわけではありません。
色んなことが絡み合っている不完全な世の中ですから真面目・素直・真剣さがなければ乗り切っていくことが出来ません。
そこで自信・自力・意識力・実践力が必要になりますが、それも完全真理を知ることからして始まり、そして自覚悟りに至る必要がありますが、それには実践意識で気付くことにありますから、やはり自信・自力・意識力・実践力が伴わなければなりません。
それでも個人意識が消えているわけではありませんから、余計な事に口出し手出ししたり、余計な事に無理を通すことにもなりかねませんから、(そうならないためにも)自分に無理なく出来る事だけをし続ける質素・素朴に生きる事を意識して実践していなければなりませんが、その実践によって質素素朴の中にも味わい深いものが数々ある事に気付きますから、その質素素朴な生き様にも自力・自信が付くし、それだけでも十分に思えるようになりますから他の事に魅せられて深みに入ることもなくなりますし、またそれらが「どうでもいい」事にもなりますから、質素素朴が板についた(安定した)生活になります。
しかし個々の意識が引っ張り合い引き寄せ合ったりして引っ付き合うことは出来ます。
それが愛情や人情や友情で結ばれているとか、血縁や恩義であったり、または引き寄せられ(魅了され)ていることでくっ付いている事も出来ますが、それが表なら裏側に相反するものが必ず有りますから、引っ付き合っていたものが反発しあってバラバラに離れることにもなります。
しかしそうならない為に(そうさせない為に)束縛制限支配する(牛耳られる)形がこの世にあります。
・・・いつの世でも人心を牛耳って得をするものが裏の世界・闇意識の世界にいるからです。
(参考)霊魂の世界で言われているのが、大きな愛・霊力・お役を持っていた者の愛がいつしか憎悪・怨念になったことから動物霊(神社仏閣で祀られている類)に成り下がり、それら霊(意識・命)が良くも悪くも人間界・人間意識を裏で操っていて、その大将が九尾狐や大蛇と言われるものですが、それらは大きい善を成すと同時に大きい悪をも成していることから(この世がそうなっているように)、それら霊魂を否定反発・排除せずに(否定・排除するほどに憎悪・怨念が高まりますから)見失った愛・お役に気付かせて意識を修正するお役目をしているのが(以前にご縁があった)霊能者Kさんです。
※イエスや釈迦らがそれらを邪悪として否定排除したことが「正しい」ことに思われ、それ以来「悪を排除する」ことが正しことになり、それが「神は正しい」「私は正しい」「正義・聖戦」として定着したようです。
その牛耳る形・束縛制限支配したがる形が法律や道徳や常識や伝統風習やまた愛国心や正義感や宗教思想の中にあります。
ところがそうなると自由がありませんし、自由がなければ平等も無理になりますから、調和することは絶対にありません。
それでも自由・平等・調和の平和を理想目的にして目指せばそれらが得られるかのように思わせ錯覚勘違いさせている指導教育や宗教思想がこの世に定着していますから、それに惑わされて一生懸命に目指し頑張ることにもなっていますが、しかし無理なものは到底無理なのです。
※その無理な事を神の力に頼る事を教えられたり、その神とも思われる能力を持つ特別な人を崇拝することにもなり、それらの起こす奇跡的な事柄に魅せられ人が集まりだし、それらがいつしか指導者・支配者・王様・王族貴族やの権威・権力者にもなり、それらお偉いさんの言う事に素直に従えば困った事を何とかしてくれると思う他力本願的思想にもなったと私は思います。
ところがそれら不完全な世の中やその人間関係やの根幹を成す個人意識を不完全意識として教え、あるがままの宇宙・自然界を神意識・愛意識の完全意識として、その完全意識の有様を説く完全真理がこの世で始めて登場してきたのです。
ところがいつの時代も同じですが、先程に書いた自由を束縛制限支配している形に属する者やそれらに支配されている事を知らずにいる者たちでさえ完全真理を否定反発排除したがりますから、なかなか思うように完全真理が広がり浸透していきません。
またいつの時代でも同じですが、自由を束縛制限支配されている立場の人達や世の中の矛盾に気付いた人達の中から「事が始まり」そして広がっていくのです。
ところがいつの時代でも邪魔立てするものが大きく現れてくるのですが、完全真理に関しては完全ですから「付け込む・漬込む」隙間がないことから下手に手出しできないのです。
・・・手出しするほどにその者の不完全さが露出して墓穴を掘る事になるからです。
ところがその邪魔立てするものが個人意識を持った我々なのですから皮肉なものです。
すなわち不完全意識が原因から(自他共に)完全真理の実践を邪魔立てしているのですからおかしなことです。
またそれでも何とか実践しようとしても、これまた身近な関係の人たちが行くてに立ちはだかるのも、いつの世にもあることです。
・・・だから闇意識に覆われているとも言われるのです。
また(有り得ない事ですが)、「時の支配者や女王様」や豪傑・英雄・ヒーローらが完全真理を口に出せば、一応注目されるが反発もされるし、中には妄信する者がいたりと、それらが入り混じって混乱し仲間割れや疑心暗鬼になるのが見えていますし、また一度反発したらなかなか収まらず修正がきかなくなるのも個人意識の「私が正しい」があるからです。
すなわち「鶴の一声」で口に出して事が成るような簡単なことではないのです。 また理解出来ただけで事が成ることでもありませんし、信じていたら他力本願で成ることでもありません。
確かな実践があってこそ完全が完全に成るのです。
そこが既存の信仰宗教と違うところです。
また完全真理であっても、そこで無理をすればその無理をした結果も出てきますから、(理解不足も重なって)それが真実とは異なる違和感や不信感になったり、また自己不信や自信喪失になったりして、そこで止まる事になったり離脱することになるかもしれません。
・・・此れまで見た限りにおいてこの事例がもっとも多いと思います。
と言うことからして「一筋縄」で事が成せるわけではありません。
色んなことが絡み合っている不完全な世の中ですから真面目・素直・真剣さがなければ乗り切っていくことが出来ません。
そこで自信・自力・意識力・実践力が必要になりますが、それも完全真理を知ることからして始まり、そして自覚悟りに至る必要がありますが、それには実践意識で気付くことにありますから、やはり自信・自力・意識力・実践力が伴わなければなりません。
それでも個人意識が消えているわけではありませんから、余計な事に口出し手出ししたり、余計な事に無理を通すことにもなりかねませんから、(そうならないためにも)自分に無理なく出来る事だけをし続ける質素・素朴に生きる事を意識して実践していなければなりませんが、その実践によって質素素朴の中にも味わい深いものが数々ある事に気付きますから、その質素素朴な生き様にも自力・自信が付くし、それだけでも十分に思えるようになりますから他の事に魅せられて深みに入ることもなくなりますし、またそれらが「どうでもいい」事にもなりますから、質素素朴が板についた(安定した)生活になります。