孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自分の不完全意識が原因となって完全真理の実践を邪魔しているのですから、変な関係・矛盾になります。

2011年04月30日 | Weblog
完全意識の者同士の意識が交じり合い解け合う(融合する)ことは出来ても、不完全意識の者同士のその意識が交わり合い融合することは出来ません。
しかし個々の意識が引っ張り合い引き寄せ合ったりして引っ付き合うことは出来ます。
それが愛情や人情や友情で結ばれているとか、血縁や恩義であったり、または引き寄せられ(魅了され)ていることでくっ付いている事も出来ますが、それが表なら裏側に相反するものが必ず有りますから、引っ付き合っていたものが反発しあってバラバラに離れることにもなります。

しかしそうならない為に(そうさせない為に)束縛制限支配する(牛耳られる)形がこの世にあります。
・・・いつの世でも人心を牛耳って得をするものが裏の世界・闇意識の世界にいるからです。
(参考)霊魂の世界で言われているのが、大きな愛・霊力・お役を持っていた者の愛がいつしか憎悪・怨念になったことから動物霊(神社仏閣で祀られている類)に成り下がり、それら霊(意識・命)が良くも悪くも人間界・人間意識を裏で操っていて、その大将が九尾狐や大蛇と言われるものですが、それらは大きい善を成すと同時に大きい悪をも成していることから(この世がそうなっているように)、それら霊魂を否定反発・排除せずに(否定・排除するほどに憎悪・怨念が高まりますから)見失った愛・お役に気付かせて意識を修正するお役目をしているのが(以前にご縁があった)霊能者Kさんです。
※イエスや釈迦らがそれらを邪悪として否定排除したことが「正しい」ことに思われ、それ以来「悪を排除する」ことが正しことになり、それが「神は正しい」「私は正しい」「正義・聖戦」として定着したようです。

その牛耳る形・束縛制限支配したがる形が法律や道徳や常識や伝統風習やまた愛国心や正義感や宗教思想の中にあります。
ところがそうなると自由がありませんし、自由がなければ平等も無理になりますから、調和することは絶対にありません。
それでも自由・平等・調和の平和を理想目的にして目指せばそれらが得られるかのように思わせ錯覚勘違いさせている指導教育や宗教思想がこの世に定着していますから、それに惑わされて一生懸命に目指し頑張ることにもなっていますが、しかし無理なものは到底無理なのです。
※その無理な事を神の力に頼る事を教えられたり、その神とも思われる能力を持つ特別な人を崇拝することにもなり、それらの起こす奇跡的な事柄に魅せられ人が集まりだし、それらがいつしか指導者・支配者・王様・王族貴族やの権威・権力者にもなり、それらお偉いさんの言う事に素直に従えば困った事を何とかしてくれると思う他力本願的思想にもなったと私は思います。

ところがそれら不完全な世の中やその人間関係やの根幹を成す個人意識を不完全意識として教え、あるがままの宇宙・自然界を神意識・愛意識の完全意識として、その完全意識の有様を説く完全真理がこの世で始めて登場してきたのです。
ところがいつの時代も同じですが、先程に書いた自由を束縛制限支配している形に属する者やそれらに支配されている事を知らずにいる者たちでさえ完全真理を否定反発排除したがりますから、なかなか思うように完全真理が広がり浸透していきません。

またいつの時代でも同じですが、自由を束縛制限支配されている立場の人達や世の中の矛盾に気付いた人達の中から「事が始まり」そして広がっていくのです。
ところがいつの時代でも邪魔立てするものが大きく現れてくるのですが、完全真理に関しては完全ですから「付け込む・漬込む」隙間がないことから下手に手出しできないのです。
・・・手出しするほどにその者の不完全さが露出して墓穴を掘る事になるからです。

ところがその邪魔立てするものが個人意識を持った我々なのですから皮肉なものです。
すなわち不完全意識が原因から(自他共に)完全真理の実践を邪魔立てしているのですからおかしなことです。
またそれでも何とか実践しようとしても、これまた身近な関係の人たちが行くてに立ちはだかるのも、いつの世にもあることです。
・・・だから闇意識に覆われているとも言われるのです。

また(有り得ない事ですが)、「時の支配者や女王様」や豪傑・英雄・ヒーローらが完全真理を口に出せば、一応注目されるが反発もされるし、中には妄信する者がいたりと、それらが入り混じって混乱し仲間割れや疑心暗鬼になるのが見えていますし、また一度反発したらなかなか収まらず修正がきかなくなるのも個人意識の「私が正しい」があるからです。

すなわち「鶴の一声」で口に出して事が成るような簡単なことではないのです。 また理解出来ただけで事が成ることでもありませんし、信じていたら他力本願で成ることでもありません。
確かな実践があってこそ完全が完全に成るのです。
そこが既存の信仰宗教と違うところです。

また完全真理であっても、そこで無理をすればその無理をした結果も出てきますから、(理解不足も重なって)それが真実とは異なる違和感や不信感になったり、また自己不信や自信喪失になったりして、そこで止まる事になったり離脱することになるかもしれません。
・・・此れまで見た限りにおいてこの事例がもっとも多いと思います。

と言うことからして「一筋縄」で事が成せるわけではありません。
色んなことが絡み合っている不完全な世の中ですから真面目・素直・真剣さがなければ乗り切っていくことが出来ません。
そこで自信・自力・意識力・実践力が必要になりますが、それも完全真理を知ることからして始まり、そして自覚悟りに至る必要がありますが、それには実践意識で気付くことにありますから、やはり自信・自力・意識力・実践力が伴わなければなりません。

それでも個人意識が消えているわけではありませんから、余計な事に口出し手出ししたり、余計な事に無理を通すことにもなりかねませんから、(そうならないためにも)自分に無理なく出来る事だけをし続ける質素・素朴に生きる事を意識して実践していなければなりませんが、その実践によって質素素朴の中にも味わい深いものが数々ある事に気付きますから、その質素素朴な生き様にも自力・自信が付くし、それだけでも十分に思えるようになりますから他の事に魅せられて深みに入ることもなくなりますし、またそれらが「どうでもいい」事にもなりますから、質素素朴が板についた(安定した)生活になります。

この世の結果・形に意識を使うことよりも、その結果の原因意識を学び知ることが重要になります。

2011年04月27日 | Weblog
完全真理が説く「良い悪い」を持たない実践は(人間だから)どうやら無理だと書いていました、次に「執着」しなければいいと言われだしても、それもどうやら無理があると書きました、そして今は「素朴」(質素は私が付け足したものです)であればいいと言われるようになりましたが、それさえもどうやら無理があるとも書いています。

それは今まで良い悪いで判断して、自分の都合の悪い事を不平不満に思い、その不平不満を解決して自己満足する、その繰り返しから此れまで文明文化が発展してきましたし、それが良いことだと思って皆が頑張り無理してきたのですから、その無理をしないで素朴に生きる実践にもどうやら無理があると思っているのです。

すなわち「素朴」の良さが知識・頭で判っていても、発展する文化文明を味わってきた現代人には無理があると思っているのです。
例えば昔の過去が素朴に思えることで「昔は良かった」と思うことがあるのですが、ところがその過去の人さえもより豊かな生活になるように頑張り無理し続け成してきた事実のその結果を味わいつつも、そうなる以前の一昔前の素朴な生き方に思いを寄せて「昔は良かった」と思っていたのではないのでしょうか・・・私達が昭和の自然環境や人間関係を思い懐かしむように・・・
※考古学者が言うには、素朴な時代は縄文時代までで、何故か弥生時代から急変したとの事です。

私は「食って寝て糞をする」だけのような「素朴」に生きているジャングルの奥地に住む先住民族や南海の孤島や大平原や山岳地帯や極限の地で生活している民族を紹介するテレビ放映を見るのが大好きでした。
だからそれら民族を哀れ気の毒に思うよりもその生き方に共感するところや憧れているところが多くあります。
※私に来世があれば、衣食住を多く必要としない南海の孤島で「食って寝て糞をする」だけのその日暮しを望んでいますから、衣食住や名誉名声権威権力や財を必要としない死後の身軽な「意識の世界」に逝く事も気に入っています。

また、それら民族の子供たちの生き様やその目の輝き笑顔を見て思ったのが、それを失う事になる環境や状況に大きな変化が起きないように思っていましたから、それに反する文明社会の宣教師や侵略者が持ち込んだ形や物質に染まっているのを見ると大きな違和感を持ちましたし、それ以上に民族の生活を乱している文明開発やその教え・教育に反発しているところがありますし、その文明開発を善しとして取り組んでいる仕組みにも不信感を持って見ているところがありました。

例えば「無いよりかは、ある方が良い」と思っての、その中途半端な不完全な偏った仕方、万人に公平ではない一方向に限られ形で教育指導・援助救済・改善改革している、その良いものを与えているという善人ぶっているところにも違和感があります。
また同じく、未開の地や貧困・開発途上国にたいして指導教育する者達・先生・聖職者がいれば良いと思うこと、またそれら設備施設・学校・教会があれば良いとすること、そして比較競争の優劣・損得計算の政治経済を教えることが良いと思い、また偽善の正義・愛国心を教えることが良いと思い、それらを成すために多大な犠牲を払い功績のあった優秀な者達・勇者・英雄・ヒーローを褒め称えれば良いと言ったことです。

そこで何度も書いていますが、私は物不足・金不足の時代に、親や学校の指導教育の不足のままに育ってきましたが、それでも成る様になって、過去も今も私なりの自力と自信でそれなりに生きてきましたから、やはりそれら「形」が先ではなくて元となる<意識>に原因があるという完全真理の教えに追従する実践に私の意識が多く使われています。
※だから薄情者と思われるくらいこの世の形に執着していません。

また不完全な私には「どうすること」も出来ない人様のことや「どうしようもない」その人間関係に思い気遣い意識しても、それが双方共に不完全なだけに無駄になることを知っているからこそ、先ず自らが「どうあるべきか」に意識を多く使っています。
ところが今は質素に生きていることからして素朴にもなっていますから、私の意識がどうであれ、とりあえず今はあまり無理もせずに、あまり余計なこともせずにいて、そして過去の無駄な事をしていた全てに気付きその反省があるだけです。

ところでご近所の人は私以上に質素な生活をしているようですし、中には下半身麻痺でヘルパー頼りの一人暮らしをしている気丈なおばさんもいるし、最近定年退職して生まれ育った我が家を修理修繕して暮らし始めた人がいますが、その人は車の免許がないために往復3時間以上の山道を徒歩で上り下りして用足し買い物に行っています。

ところがそれら人達が自ら望んだ田舎暮らしでありその質素素朴であっても(意識が原因の結果であっても)、先程の事例で書いた民族であっても同じですが、完全真理を学び知っての今の結果ではないということです。
だから成り行きでなったことは皆同じでも、完全真理を知ってその実践をしている状態ではないということです。

だから皆さんも「形」に意識を使うことよりも、その原因意識を学び知ることが重要なわけです。
すなわち田舎暮らしがどうの快適便利な生活がどうのと思い考える前に、完全真理を学び知りそれを理解し納得悟るために実践していくことが先なのです。

そしてその実践力やその自力や自信によってその結果が出てきて「成る」ようになっていくのです。
しかしそれも生きている途中の結果ですから、その結果も変化し続けますから、やはり完全真理を如何に深く学び知るかによってその生き方も変わってくるのです。
そして質素素朴に生きることでこの世・世間で起きている様々な有事に負ける事無く心強く生きていける事を書いているのです。

結果は後から付いてくるものです。しかしそれも途中の結果でしかありません。
だから「終わり良ければすべて善し」になるのです。
それで先ずは完全真理によってこの世とその人間関係の不完全さに気付き、また宇宙・神・愛のあるがままの完全を学び知り実践し自覚納得に至り、そこで質素素朴に生きる実践をし続けて「終わり良ければ」の結果になるように生きていくことしかありません。

※同じ事を形を変えて繰り返し書いているようですが・・・私の経験から言えば・・・概ね一度読んだ文書を期間をあけて何度も繰り返し読まれる方は少ないと思っています。 だから全部を読んだつもりでも理解できたことだけしか知識に入っていませんから、理解不足のままや読み残したままになっている状態の部分があります。 それが形を変えて二度三度出てくると理解が早まったり新たな気付きで奥深く知る事になるからです。
(参考)私の場合は録音テープが主でしたが、100巻以上のテープを順繰りに聴いて約一年間で三度繰り返し聴きましたが、あとは寝るだけの寝床で聴いていたのがどうやら功を成したようです。

大事な「探しもの」をしているのに見つからないのは、それと関係ないことを意識し執着しているからです。

2011年04月26日 | Weblog
先日のことですが、牛舎でエサやりをしているときに納入業者が来て「カットわら」(20kgX50個)1トンを運ぶのにフォークリフトを探していたのですが、それが見つからなかったのか、私にその所在場所を聞かれたので上の牛舎に置いているのではと答えたのですが、それでも見つけられなかったのか、他の場所で使っているものと業者が勝手に判断して(探すのをあきらめて)全部を手作業で済ませて帰りました。

そこで私も気になったことから仕事の帰り際に覗いて見れば、上の牛舎に行けば直ぐにも見つかる場所にちゃんと鎮座しているのに、それが「何で」見つけられなかったのだろうと変に思ったのですが、こんな場合の多くは「他ごと」に意識が支配されていて「探しているようで実際は捜していなかった」(見ているようで見ていなかった)ことになり、その原因は意識するその意識力にあるのです。
・・・その為に無理をして余計な労力や時間を無駄にする結果になったわけです。

私達夫婦が年子の幼い二人を連れて海水浴場に行っていた時のことですが、離れ小島の砂浜だったので少し水の中に入るだけで深みが増していく危険な場所でもありました。
そこで妻は2歳の娘を水辺で水遊びをさせていたのですが、その娘が砂に足を取られて転んだところ、それが尻餅状態なら問題なかったのに、運悪く前向きに倒れて海水の中に頭を突っ込んだ状態になりましたので、幼いなりに両手を伸ばして一生懸命に顔を上げていたのですが海面に顔を出すことが出来ていませんでした。

たった30cmや40cmの水深で溺れるところだったのですが、運良く私が妻のいる陸に向かって海から上がっていたことから、その娘が海中で目を見開きして頭を必死に持ち上げている様を見て直ぐに抱き起こしたのですが、それまで妻は水辺だけに安心していたのかその異変にまったく気付いていなかったのです。
幸い気付くのが早かったのか、娘は海水を飲んでいなかったし、驚いたようだが少しも泣かなかったのを覚えています。

その気付くか気付かないかで生死の分かれ目になることは娘に限らず、私の幼少期や青年期にもありましたが、特に国内発売当初のアクアラング潜水中の怖い物知らずでやっていた単独夜間潜水中の思わぬアクシデントて命拾いしたことが何度かありましたが、もし気が動転・同様してパニック状態になっていれば助かる方法にも気付かずにそのまま溺れ死んでいたことでしょう。

それが生死に関わらず、全てに当てはまり通じることにあるのが<執着心>です。
その執着が(一つしかない)意識を束縛制限支配することになり、それで見ているつもりが見ていなかったり、気付けるはずの事に気付かなかったり、味わい感じているつもりでも意識が他に向いていればその味わいも味気なくなりそれでは満足できません。

だから完全真理でも同じことが言えます。
私達人間に必要だからこそ起こる、その必然のご縁のお仕組みを見逃すのも、真理を知っているつもりで知っていないのも、聞くだけ言うだけで満足しているのも、実践しているようで実践していないのも、また中途半端なままに止まっているだけに他の事に意識を使っていますから、それが無理なことや余計な事になり無駄に終わることにもなっています。
・・・それが事実なのにそれにまだ気付かないでいるのも、また別な違う事を意識し執着しているからです。

だからこの世の形やその人間関係が矛盾に満ちていて(結果と原因は同じで)「どうしょうも」ない事になっていることに気付けないから、それが自覚できないままになっているのです。
また完全真理であっても、その完全を自覚していなければ多くが「信じるか否か」の宗教と同じになります。

そして大事な「探しもの」をしているのに、それが(本物・真実が)見つからないのも(理解できないのも)、それとは関係ないことに意識し執着しているからです。

人間関係の小さな不平不満であっても、それを行為行動に移せばその責任が我が身にも及びます。

2011年04月25日 | Weblog
物事を良い悪いで判断して、その良いとこ取りをする、その自分さえ良ければの個人意識でもって生きている限り、調和のある生き方には絶対になりませんから、その人間関係も不調和でもって絡み合いますから、その関係の始まりが良くても、またそれ以上に親密になることがあったとしても、いつの日か疎遠・お粗末な関係になっていくことが多いようです。
だから生涯の友とか夫婦とかで互いの関係を「完全」に全うすることは無理があります。

すなわち良い悪いで判断して生きているからには、その表の自己満足と裏の不平不満の繰り返しが続きますから、何かと自己満足もするがその裏の不平不満をも持っていることになります。
すなわち自己満足と不平不満は表裏の因果関係になります。
だから先に自己満足が無くなれば不平不満も無くなりますし、その不平不満が先に無くなると自己満足も出てこなくなりますから、ひとつの事実だけの「あるがまま」になり、良い悪いで判断することも必要無くなっていきます。

しかし不平不満を消すことが出来ないその人間関係であれば、その不平不満も少しずつ積もっていますから、以前に自己満足したことよりも(一宿一飯の恩義を忘れ)不平不満の思いに執着するようになります。
それが今の人間意識であり、それが人間関係でもあります。
すなわち自分さえ良ければの意識でもって「自分が良くなりたい」という思いが優先されているからには不満が先立つのです。
※だから自己満足することが幾ら多くあっても、いつも不平不満が先立ってくるのです。

しかも自分が良くなりたいというその思いがなかなか叶えられなくなると焦り苛立つことにもなり、それを相手に判らすために自分の事を恩着せがましく言うことになったり、それでも思うようにいかなくなると妬み嫉妬にも変わることにもなり、その叶わぬ思いを今度は仇討ち・仕返し・報復することで相手に「思い知らせ」ようとしますから、どんどん深みにはまっていきます。

だから自己満足がいくら多くあっても、その不平不満の思いを我慢できなくなって吐き出すときが必ず来ます。
それが小言文句や恩着せで済むうちはまだしも、それが行為行動に出るようになると問題化したり、それでも満足・解決できなければ更にエスカレートして行くのがこの世の形やその人間関係です。
・・・そして裏切りだの貧乏くじを引いたと言われるような結果にもなっています。

実例として書くのもなんですが(完全真理を学び合う仲間内で有能な関係者・スタッフの中であったことですが)、そのリーダ的な役割をしている人達の中でさえ、ごく小さな不平不満の積み重ねが原因となり、その嫌がらせで不平不満を吐き出す仇討ち仕返しの行動となり、それが原因で思わぬファバラ製品の脱税騒ぎにまでなったと聞きました。

またネットのQ&Aでの事例ですが、耕栄さんやファバラシールをインチキ・カルトに思ってのその不平不満の書き込みに対して、その肯定的な書き込みには快く反応するが、インチキでも宗教でもないと否定する書き込みには真摯に対応しないで(投稿者の思いを否定されたがために)、結果的に恋人関係が破綻したり離婚に至ったようですが、それも真実を知ることよりも自分の思い・否定反発・不平不満を言うことだけで終わった、その行為行動の形によって自己責任を課せられ、その恋人関係の破綻や離婚に至ったのです。

また私の妻に「貧乏くじを引いた」と言われた私の事例であれば、夫婦で協力し合って仕事(この場合は牛乳販売店)をしているからこそ、その収入も手伝ってより豊かな暮らしが出来ていても、その仕事の後片付けを妻がすることに(恩着せに思い)不満を言い出せば、私の性格からして否定反発することよりも、他にも米屋とビデオ撮影があったことからも、その余裕でもって妻が気に入らなくなった仕事・商売を廃業することにもなるし、また妻の更年期の頃に寝床の布団の後片づけを手伝わない私を不平不満に思いその小言・文句を言うが、それでも従わない私に不満を強め、その恩着せ仕返し報復心が絡んでか、ベットのある別部屋で寝るように仕向けられれば、それも私の性格からして否定反発せずに従うことになりますから、それで味気ない夫婦の夜が続くことにもなりました。
※妻の思いに従わない後片付けだけが原因ではなくてそれまでの不平不満の積み重ねで起きたことです。

それでも我が天職にさえ思ってやっていたビデオ制作が順調に売り上げを伸ばしていたので私自身はご機嫌に仕事をしていました。
(私の場合)何か一つでも(多くあるのが望ましいのは当然ですが)自分に出来ることがあれば(それが放浪やホームレスやフリーターであっても)それだけで何とか生きていくことを味わえるのも私の性格です。
・・・だから「来る者は拒まず去る者は追わず」の必然ご縁のお仕組み任せの呑気な性格にもなっているようです。

ところが(数多い情報の中から)たった三行程度の寄せられた情報が縁で摩訶不思議な宇宙エネルギーを知り、それが縁で想念・霊魂の世界を知り、そこで意識変わりが起き出したことやそれらに関心がある仲間との交信・交友も増えましたが、そんな私を不可思議・いぶかしがって(娘が縁の完全真理を知った今も同じですが)、その波長がどんどん合わなくなり、互いの思いが違えば会話も少なくなりますから、一人テレビを観ている妻に(そこで私から始めて)それとなく田舎暮らしでも始める気になっている事を言い出したところ「貧乏くじを引いた」と言われたことで、更に妻との距離が離れたままの現在に至っているのです。
※(私ごとを書いたのも)不平不満を行為行動に移せばその責任が我が身にも及ぶ事を書いているつもりです。

その小さな不満から事の次第が大きくなるのは恋愛や夫婦や家族に限ったことでは無いのです。
地域社会や企業団体や国家・国際関係の紛争や抗争や戦争であってもまったく同じなのです。
だからその不平不満の闇意識がこの世のあらゆる有事の原因になっているのです。

しかも此れからも有事が目白押しに出てくる今時だからこそ、その不平不満やその自己満足が出てこないためにも、無理のない質素・素朴が言われているのです。
そしてそれら有事に強く生きることが出来る自力・自信・精神力・意識力・実践力が求められていることにもなります。

そこで・・・必然ご縁の成り行き任せの結果が・・・いつの間にやら質素素朴を先取りしたかのような過疎地の生活になっていることからして、その我が身に起きたことと完全真理とを照らし合わせて何度も似たような事を書いているのです。

自己管理や自己責任だけでは「どうしようもない」ことが、この世の形やその人間関係の不完全さにあります。

2011年04月24日 | Weblog
私が肉牛の飼育場にエサやりのバイトに行くようになって約2年が過ぎましたが、その雇用主に心身ともにゆとりが出てきたことから、60から80頭飼育しているその牛の変化に気付くことが多くなり、此れまで年間約一頭の割合で事故や病気で牛を殺していたのが、この二年間に一頭も出なかったり、肉質の等級が普通が多かったのに、悪くても普通止まりで、割合では普通以上が多く出るようになりました。
・・・その結果の原因は意識に「ゆとり」のある、その意識にあることは確かな事実です。

すなわち普通ではないその変化を見逃さずに気付けたことであり、(仕事・時間に余裕もあって)その気付いた事をすぐさま実行実践したからこそ、その成果・結果が出たことは事実です。
その気付けるだけの意識力・飼育力は雇用主自らが前もって持っていたのに、忙しさのあまり見逃していただけのことで、私が飼育のお手伝いをするようになったことで、その雇用主の自力が十分に出てくるようになったのです。

また私自身が意識する力の意識力によって結果・形が違ってきたことの事例としては、(雇用主があまり気にしていなかったことから)牛の水飲み場やエサの食べ残しの清掃を面倒がって疎かにしていたのですが、それが気になった私がこまめに回数を増やしたことであり、食べ残しが多くあっても(早く大きくなれとばかりに)注ぎ足していたのをやめて、エサの食いっぷりでその量を頻繁に調整して食べ残しを少なくしたことであり、一日二回のエサやりを日曜日だけ一日一回にすることを提案して、それを実践したら、日々飽食することなく概ね意欲的に食べ続けるようになったことです。
またそのエサの食いっぷりの異変に気付いきその変化が大きくなれば、その牛を雇用主に伝えることでその異変に雇用主も気付き、なに事も無く済んだことも何度かあります。
・・・まだまだ書きたいところですが次回にします。

長々と書きましたが、常日頃繰り返している中に何となく気付く事にその意識力があります。
私は仕事であれ夫婦や家族や子育て教育にも「何で、そうなの」が出てきましたが、しかしその殆どが成り行き任せにしてきただけに私の中では後悔することも無く、また自分に出来る限りの事を無理なくやっていたのですが、ところが相手が顧客だったり学校の先生や生徒の親御さんであったり、また私の家族や親戚や身近な人達であれば、やはり「なんで、そうなるの」と違和感・いぶかしがったり、時には反発したり悔しがったりしたこともありました。もしてきました。

すなわち自分一人であれば、それが自己満足であれ不平不満であれ、その自己管理や自己責任で事無く済むのに、どうも相手がいるとそれだけでは済まされずに、何だか変な方向に少しずつ傾いていくことが気になっていました。
そんな中にも思う以上にうまく行った場合も何度かありますが、それも途中結果ですから、その残した足跡があっても、それも時と共に私とは無縁となり、私がその形・結果を作ったというその思い・記憶だけが私の中に残ることになります。

また此れまでの仕事や趣味嗜好娯楽であっても同じでしたから、その途中結果がややこしく・ごちゃごちゃし出すとあっさり引き下がったり、あきらめたり、後腐れのないように整理してから離脱していましたから、それらに執着することもありませんでしたので、また新たな気付きによって目新しい事に取り組むきっかけ・必然に恵まれば、それを「余裕」でもって実行することができました。

だから此れまであれこれと数多くやってきましたが、その始まりや途中結果がどんなに良くても、しかしその終りは過去の彩が色あせた何とも味気ないものになりました。
すなわち不完全な人間関係やその仕組みに私が素直に上手く追従することが出来なかったのが原因です。

それが親密な夫婦関係であっても、また仕事のことであっても、また摩訶不思議な宇宙エネルギー関連や精神世界や想念や霊魂の世界であっても同じく、その始まりが良くて満足できるものであっても、その進行途中に「何で、そうなの」と私に違和感が出てきだすとそれが気になるだけに更にそれを意識することになります。
そしてその「何で」が少しずつ判ってくるほどにその違和感が今度は疑問になり、その疑問を意識しだすと更に疑問が強くなり不信に変わりますから、以前のような熱心さや親しみが薄れかけると同時にその必然性やそのご縁も次第に遠のいていくので、何の未練も執着も無くあっさりとあきらめることが出来ました。

と言うような此れまでの経緯・足取りが、私としては良かった結果になったのは今の事実にあります。
それが現在の「完全真理」に巡り会えたことです。
そして真理が完全なだけに矛盾も妥協も無く、成るべく事はなるが、成らないことはならない、そして事実はひとつだから、やる前から思い悩むことも思考錯誤することも無く、ただ知った事を実践するだけでその結果が忠実・確実に出てくることからして、私自身からは何の文句も付け様が無いし、また真理に否定反発する材料・矛盾がないだけに誰からも文句の付け様がないことからも、これほどまでに完全なことは他にないと悟った事になります。

しかも過去のことがすべて完全真理を学び知る事に活かされているのですから、更に文句の付けようがありません。
だから完全真理よりも上の先を行く「何か」を知っている人がいれば教えてください。
過去にも、現在にも、また「この世」が続く限り、完全真理よりも上の先を行くものが出ることは絶対にありません。

質素・素朴に特別はありませんから、刺激的なことよりも「普通」の事にその意識・五感が使われます。

2011年04月22日 | Weblog
毎年同じ繰り返しを見せてくれる自然界の中での四季折々に見せてくれる普通のことであっても、(私の場合)初霜や初雪や初氷や氷柱や大雪となると、久しぶりに見せてくれただけにそれらが格別な味わいになります。
そして古木の梅に紅梅の花が咲き始めた頃やその梅の香りが周りに漂いだしたときや満開になったときはひとしおですが、その梅の花が散りだす頃にはあちこちの山桜が咲き始め、そしてご近所に植林された吉野桜や八重桜が満開になり、またそれら桜が散り始めると桜吹雪が見られたり、その花びらのじゅうたんの上を車を走らせたり、梅や桜の花びらの散り積もった道を歩くのも格別な味わいがあります。

その桜が散り始めた頃になると山の道端に早咲きの日本タンポポが一輪一輪ぽつんぽつんと咲き始めたかと思うと、次々とそこらあたりにタンポポが咲き誇るようになり、その色鮮やかな黄色い花びらが周囲の緑にいっそう映えるようになります。
そして良く見ているとツクシが出てきていたりワラビが出てきていたりしますが、それもやがて一気に芽吹きだしその周辺に背比べするかのように立ち上がってきますし、フキノトウも背丈を伸ばして花を開くようになるし、名も知らない雑草の花も色々と咲き誇ります。

そのツクシが終わればワラビの全盛になり、ふもとの人たちがワラビ採りにくるようになり、静かな過疎地に人の声が聞こえてくる時期になりますが、やがてゼンマイも一気に芽吹きますから、そのワラビやゼンマイ目当ての人の声が時折聞こえてきます。
その内にイタドリが芽吹いてきて鶏のトサカのような葉っぱをつけてどんどん背丈を伸ばしていきますから、それを目当てに高知県から出かけて来る人達も恒例になっていますが、それら山菜採りが終わる頃になるといつの間にやら空き地にイタドリの林が出来たような感じになり、それを放置していると萱やつる草に覆われて盛り上がりますから、そうなると草刈の時期到来となります。

我が家の庭先に「にょろ」と呼ばれている大木が三本ありますが(学術的にも珍しいほどの大木が一本含まれています)、冬場は葉っぱを落としているから大木であっても庭先に日ざしを受けていますから、冬場でも日当たりよく暖かい庭先になります。
その大木に葉っぱが生い茂る頃になると初夏が訪れます。
そして夏場の暑い日ざしを葉っぱが遮ってくれますから、いつも庭先は涼しのでそこにデッキを設けていますし、母屋の軒先にハンモックを吊るして昼寝をすることも出来ます。
ただ厄介なのが蚊ですから、昼寝をするときは蚊取り線香が必須です。

庭先から見える遠くの山並みや近くの山に新緑や紅葉が見れたり、目の前・目線の高さから日の出が見られるし、お盆の満月の頃も目線の高さでその満月が見られます。
その新緑の頃の月夜になると、その芽吹いた新緑が月光を浴びて、うす暗い山肌の中で薄青白く浮かび上がったように見えます。

またペット化していない(ペットでは味わえない)ヤギやニワトリや犬や猫の本能・習性・特技を見せてもらって腹の中で笑ったり腹が立ったりするのも、まったく毛色の違ったイタチやハクビシンやイノシシに出会い見せてくれたのも、アオダイショウの驚くべき能力や毛虫やクモの生態、また見たことがない異種・貴種生物、また一生に一度も見れないような自然現象が色々と見られたり、身近に飛んでいるUFOをしばらく見たり、小さな発光物体・生物に何度も遭遇したりするのも・・・それが山の中の過疎地であり、何ら刺激の無い、何ら特別が無い普通の中にいて、しかも暇で退屈しているからこその五感・感性が働いたりしたりして、奇遇を見ることが出来たり、それらの「実在に気付く」ことが出来たのだと思っています。

また私の性分は皮肉れていますし、また暇で退屈していることからして、自分の身に起きる危険・事故や怪我・病気などやまた自然の大雨や台風や地震や雷などを不安心配・怖がりながらも、その一方ではそれら起こる変化を刺激的に捉えて味わっているし、もっと危うい事になっても、そうなればそうなったで、それを味わってみたいという思いがあったりしますし、また現実に起きれば「これから先どうなっていくことやらと」第三者になったかのように客観的・平常心で見て、その後の経緯・推移を刺激や変化に見て、その成り行き次第を楽観的に楽しむ癖・変コツなところが有ります。

だからこの先の老後も、また病気や死に目に遭うことも、まだ知らないそれらを味わい知りたいというような変な好奇心みたいなのがあります。
だから何事も「否定反発排除」することなく、来る者は拒まず去る者は追わずの成り行き任せが板についたのだと思っています。

ところで私の場合はたまたま田舎で暮らしているからのこともありますが、しかし田舎でいようがいまいが、街中都会であっても、それらに関係なく、ごく当たり前の普通に起きていることを意識しその感性で味わうことになれば、特別なことや刺激的な事を思い考え欲することもどんどん減ってきて、その普通が居心地のよいものになるのは確かなことです。

だから質素素朴を実践しない限り、その普通を大いに味わい知ることは出来ません。
その普通を味わい知らないから特別なことや刺激的な事を味わいたがることになり、その特別や刺激を味わっているからこそ普通が味わえないでいるのです。
すなわち特別が無ければ普通になり、その普通意識が有れば特別意識が不要になるのです。
その矛盾を知り、それに妥協を加えなければ普通になるのです。
それが実践です。

すなわち居場所・形ではなくて、実践する意識が有るか否かの、その意識が<すべて>なのです。
それに付け加えるのが、この世の形やその人間関係が不完全なことであり、その不完全な諸々の事を意識して暮らすよりかは普通の質素素朴を意識して暮らしているほうが居心地の良い暮らしになると書いているのです。

「蒔いた種」を自らが刈り取る事になるのが自己責任であり、「自力」が多いほど自己責任が軽減されます。

2011年04月21日 | Weblog
映画・ドラマ・アニメには何かと善と悪が登場します。
だから悪の限りを尽くす悪者に善人・正義の味方が登場してその悪人を排除するストーリーほど人気を得ています。
しかも内容が過激なほどに人気が出ることから、悪人も過激な行動・破壊を平気でしますし、相対する善人も悪人に対して相当な過激さで描かれる場合が多いようです。
また「人情」物も同じように善人を苦しめる悪人が登場してきて性懲りも無く悪さを企み、それを未然に防いだりその悪を懲らしめる善人が必ず登場してきます。

私はその人情物が好きで歴代の水戸黄門を見てきましたが、悪人を殺さないで懲らしめるて終わるだけに、描かれた人情だけが浮かび上がり、その涙した快いままに終わるので好きでした。
また宮崎駿のアニメが好きですが、「となりのトトロ」を見たときに悪が描かれていないのに気付きました。
またNHKで放送された「チャングム」を見て魅了されましたので、無料映像のギャオ!でも見て、また今も見ていますから、此れで三回目になりますが、その大まかなストーリーが判っているだけに見る余裕があって、そのチャングムのひたすらな思いに(前に増して)何度も涙しています。

ところで皆さんは今回の震災を「悪」に思って否定反発排除していませんか?
先程の映画ドラマではないけれど、大きな悪が目立つと小さな善が目立ち、善が大きく目立つと小さな悪が目立つようになります。
だから大きな悪に立ち向かって小さな善をしていることに大勢が賛同・感動し涙していると思いますし、自分も何か良い事をしなければと思っている人もいることでしょう。

また被災地で善行をしている者同士が集まるとその中で比較競争意識が出てきて、その善を成す働きに見劣りする人や怠けている人がいれば悪評・批判的になる場合があります。

その人情・善意・善行・対策であっても、その期間や範囲の期限・限度が限られたからには恒久的ではないし、目立つ事をしたがる見せ掛けの善意や売名行為まがいもあったりするように、元が不完全意識の人間がすることだけにその矛盾や妥協のいい加減差も出てきて、偏った不公平な差のある形で終わるのも仕方がないことです。

その結果から言えば、皆がどんな形でやっても(授受する者同士が不完全意識なだけに)、これまでの善意・善行・対策が中途半端なままに終われば、まだ何かと欲しがる不足・不平不満を抱えたままになりますから、(始まりが良くても)その不平不満を抱えたままに見放されたり、また「雨やんで傘を忘れる」ような不完全な結果にもなっているのです。

ところで自然災害・震災で人間が成した形を破壊し水で押し流す自然現象は、その人間が持つ個人意識の中の破壊意識(怒りなどから出る衝動的行為の暴力・抗争やの傷害行為や人殺しや人を殺し合う戦争などで物や形を破壊したくなる意識)の集合意識や、また自然界から良いとこ取りして自然を破壊しているのが原因で起きている事を知っているだけに、私としては「蒔いた種を自らが刈り取っている」風に見ている冷静な部分と、またニュース報道で伝えられる救護・救済・救援によって人が助け合うその人情に涙しているところがあります。

そして私は戦後の物不足・食糧難を経験しましたし、その当時の質素素朴な生き方も味わってきただけに、その時の地道な農業生産や漁業関係の一次産業に関わっていた人の状況を見て、物不足で生き残れるその「強さ」を知りました。
すなわち、いつの世であっても、大きな有事に強いのが一次産業なのです。
そして有事に軟弱なのが近代産業の集まる都会なのです。
・・・質素素朴が有事に強く、快適便利な暮らしが有事に弱いのです。

ところでわが国は地震大国であり、毎年の如くに神風・台風に見舞われていますから、その災害被害はとっくに経験済みです。
なのに「私は大丈夫」と思っていることからして真坂の有事になっているわけです。

自動車に乗ることの危険性から「保険」を掛けますが、その保険に入っていなければ困った事になるのは当然のことです。
だから健康保険や生命保険や火災保険や地震災害保険に加入していることで困ったことが軽減されます。

洪水や津波の心配が有るのであれば、その対策を他力に依存せずに自らが講じればいいのです。
水不足や燃料不足や食糧不足が予測されるのならば、その対策を前もって講じていればいいのです。
それを怠ったり中途半端でいい加減だと、その分だけ災害・被害・混乱が多くなるだけです。

危険な道具を使ったり、危険な仕事に従事したり、危険な場所や大災害・被害が起こる可能性がある所に住むからには、その自己責任が課せられても当然なのです。
すなわち「自らが蒔いた種を刈り取る事」になるのです。
だから対策・予防なり注意なりを常に意識している必要が有るのです。

病気を怖がるのであれば先ずは健康を気遣えばいいのです。
死を怖がるのであれば先ずは完全真理を知ればいいのです。
すなわち他力を当てにするのではなくて、「自力」(体力・精神力・意識力・実践力)を付ければいいのです。

また有事によって困ったことや人様に助けられたその有り難さを忘れなければ無駄にはなりません。
ところが往々にして「のどもと過ぎれば・・・」や「雨やんで傘を忘れる」のが不完全な個人意識です。

しかも、故郷・しがらみから離れられずに被災地・避難場所で不安を抱えたままに止まる者や、また快適便利さを忘れられずに欲張り無理をしたり、または便利で都合の良い市街地や都会暮らし(移住)を望む者がいたり、またこのままの危険を承知で無理する者がいたりするように、人様に良かれと思う助言・忠告や善行・善意・人情だけでは事足りずに「どうすること」もできないし、また「どうしようもない」のが個人意識の人間関係なのです。

すなわち不完全意識の集まりだけに「どうしようもない」結果で終わるのです。
しかも自己選択ですから、当然ながら自己責任が生じても文句は言えないのです。

ところが質素素朴であれば危険も災害・被害も少ないだけに多くの対策費や保険加入を必要としませんし、多くの自力を使って事を成しますから、その分だけ収入が少なくても何とか呑気に暮らしが成り立ちますし、自力を多く使うことで諸々の「不足」にも強い生き方になります。

また良い悪いで判断するその表と裏とは同じですから、その良いこと(自己満足)が少なければ、その裏の悪いこと(不平不満)も少なくなり、そして安心安全の大丈夫が多くて、不安心配・恐れ怒りが少なくなるのです(実践すれば判ります)。
そして成ればなったでそれも必然ですから、それを大いに味わえばいいだけですから、前もって思い考え想像し対策を講じる「余計」なことも「無駄」になることも「無理」をすることもありません。

しかしこの文書を否定反発したがるのも「私は正しい」の個人意識であり、それら有事の原因・真実を知ったとしても、その実践ができなくて無駄に終わるのも不完全な個人意識が原因ですから、この先々で「自らが蒔いた種を刈り取る」有事にもなるのです。
そしてその有事によって「意識変わり」「意識改革」が起きない限り、その有事を活かした事になら無いばかりか、救いようが無い不平不満の闇意識のままに人間を終える時が来るのは事実ですから、いま生きている内に質素・素朴に生きる事を実践しておく必要があると言われているのです。

この世で<始まり終わる>「完全真理」と言われる、その根拠・真実を知るのも確かな実践に重要なことです。

2011年04月19日 | Weblog
始まりも終わりもない(元から有る)無限の宇宙は矛盾も妥協もない「完全」です。
その完全なる宇宙の法則・自然の法則の仕組みによって「すべてが調和」でもって実在し、そして変化し進化し続けています。
そして地球万物が創造され、そして人類が誕生しましたが、それらすべてが変化し進化しているのも事実にあります。

その矛盾も妥協もない完全なる宇宙の仕組み(神とも言われますが)から人間が誕生したからには(創造されたからには)その理由・原因が必ずあります。
すなわち、完全な神・愛であれば<絶対>に無駄になることや無理なことや余計なことを創造する筈がないからです。
(参考)この世で「絶対」を言えるのは完全な宇宙・神だけです。

その人間が(宇宙・神によって)必然で創造された原因となるのが(何度も書いているように)宇宙・神の完全意識と人間が持って生まれた「良い悪い」で判断する個人意識の不完全さを味わい学び知り、その不完全意識と宇宙・神の完全意識の両方を学び知る事にあります。
そして完全しか知らない宇宙・神・万物の中で人間だけが完全と不完全を味わい学び知ったことになり、その味わい学び知った「意識・命」が更なる宇宙の進化に役立ち貢献することになります。
・・・その完全意識と不完全意識を知ることが出来るのが山田耕栄さんの説く「完全真理」だけです。

すなわち宇宙の仕組みの必然から不完全意識の人間が誕生し、その不完全意識の人間に「完全意識」を教える真理がこれまた宇宙・神の仕組みの必然でこの世に初めて登場したのですから、その完全真理が無駄に終わることは絶対に無いのです。
だからこの世で「始まり終わる」ことになるのです。

このことは何度も書いていますが、その理解力・読解力・意識力・実践力が少ないほどに「信じるか否か」に捉えがちなので、今回も「すべてはひとつ」の完全なる宇宙・神の「完全意識」のことやその完全なる宇宙の仕組みから起こる(決して無駄に終わらない)「必然・ご縁」を書いているのです。

そしてこのブログに来られたことも偶然ではなくて、摩訶不思議な世界・見えない世界・精神世界などを「意識」していることが原因で起きた宇宙の仕組みの必然・ご縁あってのことですから、このチャンスを決して無駄にしないで下さい。
そして完全真理を学び知り気付き目覚めることになるのにも、此れまでの生き様で味わい知ったこと、すなわちこの世の不完全な形やその人間関係での苦楽・喜怒哀楽などを味わった、その不完全意識が原因で起きたその結果が必ず役立つことになるのです。

そして人間は一つの意識で生きていますから、あれこれ余計なことや無理なことや無駄になる事を意識せずに生きていくことが出来る、その質素素朴な生き方を通して更に多くを学び知り自覚することが必要なのです。
またその為にも、この世の不完全な形やその人間関係の結果に意識を奪われること無く、気にする事無く、完全真理の理解力やその実践力・自力・自信によって己の道を平然と歩んで行き、あとは必然ご縁のお仕組みに任せていくことになります。

またその為にも先ずは完全真理を深く学び知ることになりますが、その為にもこの世の不完全さを味わい知り気付くことも必要になりますから、ゆえに、この世の不完全な結果・現実も「無駄」ではなくなるのです。
そして「終わり良ければすべて善し」の結果になれば、まだ不完全意識を持っていても、(いつまでも人間意識・命が三次元のままでいては)進化し続けている宇宙の都合もあることからして、(人間を創造したからには)(それを無駄に終わらせないためにも)(前もって予定していた人間界最後の仕組みとして)その必然の仕組みによって人間の意識・命が五次元あたりに進化できるかも知れないと(何度も)書いているのです。

しかし・・・この世で<始まり終わる>完全真理の説く宇宙・神・愛の<完全意識>となるにも(その必然のご縁が仕組まれるためにも)、予め「完全真理」を深く知った者に限られるのは当然のことになります。






「完全真理」を学び知ることが無ければ、此れまで人間として「生きて」きたことが全て無駄に終わります。

2011年04月17日 | Weblog
このブログに「諸悪の根源は神にあり」と書き込まれていたのを見てそれも一理あると思ったのですが、残念なことにその一面だけで終わっていて、じゃなんで諸悪をする人間(個人意識の人間)を神が創ったのか?なんで創る必要があったのか?その真意・真実を書いているのに(読まれなかったのか)理解されていなかったのです。

確かに自分さえ良ければの意識でもって諸々の不完全な事を成しているのが人間であり、その人間を創造したのが神であれば、その神が原因ですから「諸悪の根源は神にある」とも言えます。
しかし何度も書いていることですが、この世(裏表のある三次元界)の不完全意識を味わい知ることで宇宙・神・愛の完全意識の有り難さを知ることになり、その不完全意識と完全意識の両面・裏表を知った、宇宙で始めての「意識・命」が誕生することになり、始まりも終わりもない無限に進化拡大している宇宙に相応しい、新たな地球人類(良い悪いで判断しない五次元意識の命)が誕生することになると言われているのです。

だからこの世の「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断している形やその人間関係を(諸悪を)「否定反発排除」しないで、すなわち「良い悪い」で判断せずに(忌み嫌わないで)(あるがままに)それら全てを味わい知ることも必要になるのです。
だからこの世で始めてでこの世で終りとなる(始まり終わる)「完全真理」が説かれているわけですから、その完全真理を学び知りその実践によって不完全と完全を学び知り自覚悟りとなる必要があるのです。

だから★「完全真理」を学び知る★ことが無ければ、この世に必然で(何度も繰り返し転生して)人間として生きてきたことが全て無駄に終わり、二度と人間の意識・命として転生することは無いと言われているのです。

またこの世の矛盾ある不完全な形やその人間関係を深く知るためにも完全真理の理解が無ければ中途半端で終り意味を成しません。
そうなると完全真理を知っているだけで止まり、いま言われている質素素朴に生きることの真意も判らずに無理なこと余計なこと無駄になる事をし続けて、その不平不満とその自己満足の繰り返しの、その多忙な刺激性に富んだ生活から抜け出せないままに、好き嫌いやより好みに意識が使われ続け、その良かったり悪かったりする結果に喜怒哀楽する不完全意識から離れることは出来ません。

すなわち元の原因・意識が不完全なら同じ不完全な結果・形しか生まれないのに、その結果に満足できなければその結果を原因に思って更に良い結果を出そうと無理しますが、大元が不完全から始まっただけに(同じような事を何度繰り返しても)不完全な結果・形になって現れ続けますから、その「どうしようもない」余計な事を無理して無駄に終わることになっているのです。

ところが多くの人はその「どうしようもない」事の真実を知らずにいますから、あれこれ思い考えては何とかしようと「意識」を使い「体」を使い「時間」を使ったり「お金」を使ったりしているのですから、「あるがまま」の自然体の宇宙万物から見れば、なんと愚かな人間(意識・命)なんだろうとなるわけです。
・・・完全な宇宙万物の意識・命より劣る人間意識・命がこの地球で偉そうにしているのも、その不完全意識が原因にあるからです。

その不完全な形やその人間関係は「どうしようもない」のですから、せめて質素素朴に生きることで余計な事を無理にして無駄に終わらすことがどんどん減っていくのです。
そして「どうしょうもない」特別な事をしなくなれば心身ともに静かに暮らすようになりますから、今まで気付かなかった「生きて」いることに喜び感謝があることにも気付くことになるのです。

その質素素朴に生きているだけで十分になれば、世間的な見栄や世間体・名誉名声・権威権力や喜怒哀楽などに意識を使わなくなるし、衣食住や趣味嗜好娯楽に拘ることも少なくなりますから、当然その分だけお金や時間や労力を使わなくなり(使い道がなくなり)、その余力が出てきた分だけ自力を多く使うことにもなります。

そして夫婦家族親子で接し触れ合う時間が多くなったり、子育てに余裕が出てきたり、創意工夫や手料理が増えたり、自家菜園をしたり、野山や河川や海に出かけることが多くなったりして、此れまで味わえなかった諸々からも(特別な自己満足ではない)(当たり前の)喜び感謝が出てくるようにもなります。

なんか良いこと尽くめに書きましたが、多分「絵に描いた餅」で終わることでしょう。
何故なら、大人も子供も皆が同じ不完全意識の者同士だから、それぞれの思いもそれぞれに違っていますから、そう簡単に問屋が卸してくれそうもないのです。
もしも「絵に描いた餅」ではなくて実在でそれらを味わえるとしたならば、近い将来ではなくて、もう既に遠い昔から(皆で揃って)それが実現しているはずです。
それが未だに実現化されてないのは「無理」だったからです。
すなわち自分さえ良ければの個人意識が邪魔をしているのです。
だから個人意識を持っている限り「どうしようもない」ことになるのです。

しかし個々の個人であれば、自分の意識次第で「どうにでもなる」ことからして言えば、何とかなる可能性が十分にあります。
だから宇宙・神・愛の完全真理を個人で実践するしかないのです。
しかしそれをも邪魔する形・人間関係がありますから、それらを気にする事無く実践意識を高めたままに、完全真理の完全とこの世の不完全を深く理解して、その実践意識のままに人間を終え、後は成り行き任せにするしかないと(何度も)書いているのです。

そして出来ることなら、同じ実践意識の者同士が寄り添い互いに学び合い助け合う関係になれば申し分無いのですが、それを邪魔するのも互いの不完全意識ですから、付かず離れず、また「来る者は拒まず去る者は追わず」の自然体で、何ら未練後悔・執着することなく、何ら足跡・しがらみを残す事無く、空気のような存在であり続けられれば、その学び合う関係を損なう事無く平然と当たり前の如くに続いていくかもしれませんが、此れも「絵に描いた餅」同然になることでしょうから、やはり(あれこれ考えずに)必然ご縁のお仕組みに任せて、あとは成るようになって行くしかありません。

不完全なこの世の形を否定反発排除せずに、それらを味わい知りそれを無駄にしないのが完全真理です。

2011年04月15日 | Weblog
私が約15年前に取り組んでいた宇宙エネルギーの「水」がご縁で、悪を否定反発排除しない想念を持つ霊能者と必然のご縁で仕組まれ、その霊能者(東京・主婦Kさん)が高次元のお霊さんと言霊(第三者の霊能者の言葉)を使って交信し、それを録音し、その録音テープの内容を文書化して「お伝え」(宇宙からのメッセージ)として私達に無料配布されたのを読むことで、その想念の世界・霊魂の世界を学び知る事になったのも、神仏や霊魂にまったく無関心・無縁だった私にすれば不思議ないにしえですが、それが偶然・奇遇の連続からでしたから明らかに「仕組まれた」のは事実です。
・・・その当時、娘が同じくして高知の霊能者(男性)の会合に熱心に通っていたのも何かの縁でしょう・・・

その霊能者と5年間ほどご縁が続いたのも、私がその「お伝え」の内容を三次元界風に文書化して皆に配布することが出来たからですが、私自身は宇宙エネルギーが見えない世界の表側、すなわち物質的なだけに、裏側の霊魂・想念の世界(今で言うところの意識の世界)を知ることの物珍しさと、持ち前の知りたがる意識で続いていたのですが、また同時に今の田舎暮らしになるべくしてのお仕組み・必然ご縁が連続していた時期でもあります。
・・・そして娘が田舎暮らしの物件を探していたのに気が変わり、私がご縁あって探し当てた物件が不用になり、その物件・廃屋を気に入っていたことから私が購入することになったのが今の住居です。

そこで購入した廃屋を別荘感覚で手直ししているうちに何やら本格的に移り住むようになったのですが、それ以前に軽い気持ちで年金暮らしを口に出したら、妻が「貧乏くじを引いた」と私に言ったことが空しく身にしみて、じゃ此れまでのことは一体なんだったのよと、これまでのことが一気に色あせて(此れまでに味わったこの世の形・人間関係の矛盾を含め)「どうでもいい」ことになり、(そんな妻だから街中に住む事を選んで当然ですから)私だけで単身移住したのですが、その当初は(妻にすれば)どうせ直ぐに飽きて帰ってくるだろうと思っていたのか?あまり反対されなかったのは事実です。
・・・その頃に娘が山田耕栄さんの講演会に行って急に目覚めたようでして、その講演会の録画ビデオを私に見せるようになりました。

そのビデオを暇で退屈な夜に見ていたのですが、使う言葉は違っていてもほぼ同じような(否定反発排除しない)内容でしたので、見えない世界(裏の世界)霊魂を愛意識で悟らせ修正したり、この世の間違いや先々の方向性・成り行きを聞き出したりしているのが「K」さんで、表の人間意識を修正しょうとしているのが耕栄さんに思えていたわけです。
・・・あの世の霊魂を修正することでこの世の人間界をも修正できるとして水面下でお役を果たしていたKさんと、この世の人間意識を修正するために表立ってお役をしている耕栄さんとにご縁があったのです。

ところが耕栄さんの完全真理の良い悪いを持たない、すなわち良い悪い(善悪・優劣・損得)で判断しなければ不平不満にならないという完全真理の基本が説明されたビデオを見たときに、あれ!何で今まで宗教家も霊能者も気付かなかったのだろうという思いと、此れだけ簡単明瞭な真理だけに(誰にでも理解できる真理だけに)「此れしかない!」と納得確信に至ったわけです。
・・・そして結果的には娘が私の道先案内の役目をしたことにもなります。

そして毎日が暇で退屈しているだけに、意識する事といえば完全真理とその実践意識だけになりますから、他のことは「どうでもいい」ことになり、そして今日に至っています。
だから完全真理さえあれば他は必要なくなったのですから、ただ「食って寝て糞をする」だけのような日々の生活が此れまでの約10年間続いたとも言えるわけです。

しかも昨今では「素朴」であればいいと言われるようになったわけですから(未熟であっても)更に「鬼に金棒」となったわけです。
しかもそうなる以前から摩訶不思議な数々のお仕組み・必然ご縁に恵まれながら何かと導かれていたような感じがしていただけに、尚更の事に確信自信に至ったのです。

それらを言い換えると世間的なことは(有っても無くても)「どうでもいい」ことになるのです。
しかしそれら(常識や宗教も含めた)世間的なことも必然から出てきたことですから「否定反発排除」することでもないわけです。
そして何度も書いているように、それら世間の事を味わい知った事を「無駄」にしなければいいのです。
・・・完全真理の完全意識の素晴らしさを学び知るに必要なのが今の不完全意識が原因のこの世の形・結果なのですから。

ところで如何にも完全真理を悟ったように書いている私でも個人意識・不完全意識丸出しで生きていることには変わりありません。
ところが幸いにも、あらゆる「しがらみ」から離れた過疎地で呑気気ままな「お一人様」生活を十分に味わい、そして成り行き任せの無理の無い質素・素朴に暮らしていることからして、何かと不平不満も少なくなりますし、また完全真理を知っていることも含めてそれらが自力にも自信にもなり、それが先々の余計な不安心配・恐れを消し去ることにもなりますから、それら不完全意識が頻繁に出てくるような状況ではなくなっているのです。
・・・前もって予期・準備していたり、前もって思い考え理想目的にしていたわけでもありません、成り行きでなったことです。

それが何度も書いているように「否定反発排除」する事無く「来るものは拒まず去るものは追わず」の「必然ご縁のお仕組み」任せの欲の無い自然体を意識実践することにあります。
・・・「意識」していなければ必然ご縁のお仕組みや完全真理の奥深さに「気付く」ことは絶対にありません。

ゆえに「完全真理」の完全さを身をもって学び知り・気付かなければ、あれもこれもと思い描き欲張り無理する事になります。
だから完全真理さえあれば他に必要なものはいっさい無いのに、未だにあれこれと余計な事(この世の形やその結果)に手出し足だし口出し意識している人も大勢いるかも知れません。
・・・今回の震災や温暖化や貧困差別や老人問題や教育問題や医科学や政治経済や国家国際情勢などの「形」に意識を使うことよりも(原因が有る限り同じ結果が出続けることから)、この世で「始まり終わる」唯一つの「完全真理」を学び知ることが先決なのです。

すなわち現れている「結果」ではなくて、その大元の原因<意識>を知ることにあるのです。