人間は完全なものから生まれた完全を持っています。
優しさ思いやりの愛であり、お蔭様に感謝する心があります。
ありがたい優しさ思いやりの人情に感動することもあります。
でも良いや悪い、優や劣、損や得で分離する個人意識が災いしています。
そして自分の思惑期待に反すると不平不満になっています。
人の優しさ思いやりに慣れてくると、してくれるのがあたり前になって、何でしてくれないのと不満さえ持ちます。 一度感動を味わうと二度三度と求め期待し、初心を忘れて、雨やんで傘を忘れるように感謝が無くなります。
TVの人情時代劇「水戸黄門」を観て人情物語に涙します。
でも正義が良くて悪は悪いものとして、正義が正しいと洗脳しています。
良いも悪いも無い、事実を見るだけなら「あるがまま」になるが、虐められ損をした人が可哀想だからと思い、そのままでは面白くない人、それでは気に入らない人が大勢居るから、悪いと思う行為を問題にして悪と対決することになり、黄門さんが「懲らしめてやりなさい」となり、それが上手くいくと拍手喝采になり黄門さんは偉い人、人情のある人と絶賛されます。 しかし悪と言われる首謀者に従って言われるままに戦った家来たちは損をしたことになります。 また、首謀者が罰せられればその家族が路頭に迷うことになり惨めな思いをします。 その首謀者の関係者や親戚まで世間の批判を浴びて困ったことにもなっています。 また悪徳商人に奉公していた人も風評被害で倒産でもすれば困ったことになります。
最近話題の食品偽装の内部告発・自己擁護・正義感によって同じことが起きています。
すなわち直接関係もない被害者が巻き添えで増えていることにはあまり触れません。
誰もが自分さえ良かったらの醜い心を持っているから、自分だけが損することは絶対に許せなくて内心穏やかではないから、腹いせでもっと多くの人を巻き添え道ずれにして損をさせることを平気でやって、内心穏やかではない自分の心をなだめているのと同じです。
テロや戦争による大勢の死傷者や損害被害が大きいことよりも、何れかの首謀者が正義の味方になって悪を滅ぼす行為が正当化され強調されています。
善悪何れかの首謀者や直接の関係者が損をしたり得をしたりすることが、その両者に関わる不特定多数の大勢を苦しめていることにあまり世間の意識は行きません。 自分が直接関わっていない限り個人的には大したことにはなりません。 ところが自分に被害が及ぶことになると仕返し復讐心に燃えて加害者になったり、結果的には被害者になったりして混乱に拍車がかかってきます。 すなわち一部の支配者・リーダーの思惑で大勢の人が加害者被害者の両方を味わっているのです。
一部の支配者リーダーの手先に大勢が使われ巻き添えにされているのです。
善悪・優劣・損得勘定で動くから、それ以上の善悪優劣損得勘定に拡大発展しているのです。 しかもその繰り返し積み重ねが延々と続いてきているのです。
島田神助のカンボジアに小学校を作ろうの偽善・売名行為にも人情から涙します。
しかし学校を作って「何を教えるのか」全く感じられません。 だから、偽善で始まったことは結果的に偽善しか生まれません。 すなわち差別や戦争になる教育しか行われないということですから、一時の喜び感謝があっても、教えられた良い悪いで比較競争差別の原因があるから、やがて子供の微笑が消えて困ったことになるのは目に見えています。
貧困や飢餓や病気に人道支援に関わっている人たちの活躍に涙します。
でも何が人道なのか、人を助けることが人の道であっても、その結果がどうなって行くかはその始まりの意識・原因にかかっています。
水戸黄門の可哀想な思いから始まれば、結果も(水戸黄門のように)もっと可哀想な結果に拡大発展していきます。 原因と結果は同じです。
事実だけを見て、その真実を知り、良い悪いで判断しなければ愛になります。
愛は完全ですから、原因が愛であれば結果も愛になりますから、差別や戦争にはなりません。 しかし残念なことに人間には私利私欲が隠れ持っていますから、人道的大義名分を掲げていても、私は正しい事をしていると言う自己満足や主張や顕示になっています。
もうどうしょうもない人間ですから、どうしょうこうしようと思い考え思惑を持ってやっても裏切られるのが人間なら、あれこれ思い考えずに「あるがまま」に任せ、その結果が成るようになっていくのは仕方ない事とあきらめ、そのことに執着さえしなければ被害損害、憎しみ妬み・ジェラシー・破壊意識が大きく拡大していくことも、他の人間が巻き添え道連れにされることも防ぐことが出来ます。
良いことも悪いことも有ってあたり前、損することも得することも有ってあたり前、それが地球に生まれた人間だから、得ることも失うこともあるのが人間だから、それがあたり前になれば何ら問題にはなりません、問題を大勢の問題にするからややこしくなって混乱拡大するのです。
自分に起きたことは起きた事として良い悪いで判断しなければ愛の人となり、すべてに感謝できる、すべてが愛の表現・完全意識の人になっていきます。
それが完全な宇宙・神の言う「人間らしさ」「愛の人」ではないでしょうか・・・
優しさ思いやりの愛であり、お蔭様に感謝する心があります。
ありがたい優しさ思いやりの人情に感動することもあります。
でも良いや悪い、優や劣、損や得で分離する個人意識が災いしています。
そして自分の思惑期待に反すると不平不満になっています。
人の優しさ思いやりに慣れてくると、してくれるのがあたり前になって、何でしてくれないのと不満さえ持ちます。 一度感動を味わうと二度三度と求め期待し、初心を忘れて、雨やんで傘を忘れるように感謝が無くなります。
TVの人情時代劇「水戸黄門」を観て人情物語に涙します。
でも正義が良くて悪は悪いものとして、正義が正しいと洗脳しています。
良いも悪いも無い、事実を見るだけなら「あるがまま」になるが、虐められ損をした人が可哀想だからと思い、そのままでは面白くない人、それでは気に入らない人が大勢居るから、悪いと思う行為を問題にして悪と対決することになり、黄門さんが「懲らしめてやりなさい」となり、それが上手くいくと拍手喝采になり黄門さんは偉い人、人情のある人と絶賛されます。 しかし悪と言われる首謀者に従って言われるままに戦った家来たちは損をしたことになります。 また、首謀者が罰せられればその家族が路頭に迷うことになり惨めな思いをします。 その首謀者の関係者や親戚まで世間の批判を浴びて困ったことにもなっています。 また悪徳商人に奉公していた人も風評被害で倒産でもすれば困ったことになります。
最近話題の食品偽装の内部告発・自己擁護・正義感によって同じことが起きています。
すなわち直接関係もない被害者が巻き添えで増えていることにはあまり触れません。
誰もが自分さえ良かったらの醜い心を持っているから、自分だけが損することは絶対に許せなくて内心穏やかではないから、腹いせでもっと多くの人を巻き添え道ずれにして損をさせることを平気でやって、内心穏やかではない自分の心をなだめているのと同じです。
テロや戦争による大勢の死傷者や損害被害が大きいことよりも、何れかの首謀者が正義の味方になって悪を滅ぼす行為が正当化され強調されています。
善悪何れかの首謀者や直接の関係者が損をしたり得をしたりすることが、その両者に関わる不特定多数の大勢を苦しめていることにあまり世間の意識は行きません。 自分が直接関わっていない限り個人的には大したことにはなりません。 ところが自分に被害が及ぶことになると仕返し復讐心に燃えて加害者になったり、結果的には被害者になったりして混乱に拍車がかかってきます。 すなわち一部の支配者・リーダーの思惑で大勢の人が加害者被害者の両方を味わっているのです。
一部の支配者リーダーの手先に大勢が使われ巻き添えにされているのです。
善悪・優劣・損得勘定で動くから、それ以上の善悪優劣損得勘定に拡大発展しているのです。 しかもその繰り返し積み重ねが延々と続いてきているのです。
島田神助のカンボジアに小学校を作ろうの偽善・売名行為にも人情から涙します。
しかし学校を作って「何を教えるのか」全く感じられません。 だから、偽善で始まったことは結果的に偽善しか生まれません。 すなわち差別や戦争になる教育しか行われないということですから、一時の喜び感謝があっても、教えられた良い悪いで比較競争差別の原因があるから、やがて子供の微笑が消えて困ったことになるのは目に見えています。
貧困や飢餓や病気に人道支援に関わっている人たちの活躍に涙します。
でも何が人道なのか、人を助けることが人の道であっても、その結果がどうなって行くかはその始まりの意識・原因にかかっています。
水戸黄門の可哀想な思いから始まれば、結果も(水戸黄門のように)もっと可哀想な結果に拡大発展していきます。 原因と結果は同じです。
事実だけを見て、その真実を知り、良い悪いで判断しなければ愛になります。
愛は完全ですから、原因が愛であれば結果も愛になりますから、差別や戦争にはなりません。 しかし残念なことに人間には私利私欲が隠れ持っていますから、人道的大義名分を掲げていても、私は正しい事をしていると言う自己満足や主張や顕示になっています。
もうどうしょうもない人間ですから、どうしょうこうしようと思い考え思惑を持ってやっても裏切られるのが人間なら、あれこれ思い考えずに「あるがまま」に任せ、その結果が成るようになっていくのは仕方ない事とあきらめ、そのことに執着さえしなければ被害損害、憎しみ妬み・ジェラシー・破壊意識が大きく拡大していくことも、他の人間が巻き添え道連れにされることも防ぐことが出来ます。
良いことも悪いことも有ってあたり前、損することも得することも有ってあたり前、それが地球に生まれた人間だから、得ることも失うこともあるのが人間だから、それがあたり前になれば何ら問題にはなりません、問題を大勢の問題にするからややこしくなって混乱拡大するのです。
自分に起きたことは起きた事として良い悪いで判断しなければ愛の人となり、すべてに感謝できる、すべてが愛の表現・完全意識の人になっていきます。
それが完全な宇宙・神の言う「人間らしさ」「愛の人」ではないでしょうか・・・