孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

宇宙・神が言う「人間らしさ」「愛の人」

2008年11月29日 | Weblog
人間は完全なものから生まれた完全を持っています。
優しさ思いやりの愛であり、お蔭様に感謝する心があります。
ありがたい優しさ思いやりの人情に感動することもあります。
でも良いや悪い、優や劣、損や得で分離する個人意識が災いしています。
そして自分の思惑期待に反すると不平不満になっています。
人の優しさ思いやりに慣れてくると、してくれるのがあたり前になって、何でしてくれないのと不満さえ持ちます。 一度感動を味わうと二度三度と求め期待し、初心を忘れて、雨やんで傘を忘れるように感謝が無くなります。

TVの人情時代劇「水戸黄門」を観て人情物語に涙します。
でも正義が良くて悪は悪いものとして、正義が正しいと洗脳しています。
良いも悪いも無い、事実を見るだけなら「あるがまま」になるが、虐められ損をした人が可哀想だからと思い、そのままでは面白くない人、それでは気に入らない人が大勢居るから、悪いと思う行為を問題にして悪と対決することになり、黄門さんが「懲らしめてやりなさい」となり、それが上手くいくと拍手喝采になり黄門さんは偉い人、人情のある人と絶賛されます。 しかし悪と言われる首謀者に従って言われるままに戦った家来たちは損をしたことになります。 また、首謀者が罰せられればその家族が路頭に迷うことになり惨めな思いをします。 その首謀者の関係者や親戚まで世間の批判を浴びて困ったことにもなっています。 また悪徳商人に奉公していた人も風評被害で倒産でもすれば困ったことになります。 
最近話題の食品偽装の内部告発・自己擁護・正義感によって同じことが起きています。
すなわち直接関係もない被害者が巻き添えで増えていることにはあまり触れません。

誰もが自分さえ良かったらの醜い心を持っているから、自分だけが損することは絶対に許せなくて内心穏やかではないから、腹いせでもっと多くの人を巻き添え道ずれにして損をさせることを平気でやって、内心穏やかではない自分の心をなだめているのと同じです。

テロや戦争による大勢の死傷者や損害被害が大きいことよりも、何れかの首謀者が正義の味方になって悪を滅ぼす行為が正当化され強調されています。
善悪何れかの首謀者や直接の関係者が損をしたり得をしたりすることが、その両者に関わる不特定多数の大勢を苦しめていることにあまり世間の意識は行きません。 自分が直接関わっていない限り個人的には大したことにはなりません。 ところが自分に被害が及ぶことになると仕返し復讐心に燃えて加害者になったり、結果的には被害者になったりして混乱に拍車がかかってきます。 すなわち一部の支配者・リーダーの思惑で大勢の人が加害者被害者の両方を味わっているのです。
一部の支配者リーダーの手先に大勢が使われ巻き添えにされているのです。
善悪・優劣・損得勘定で動くから、それ以上の善悪優劣損得勘定に拡大発展しているのです。 しかもその繰り返し積み重ねが延々と続いてきているのです。

島田神助のカンボジアに小学校を作ろうの偽善・売名行為にも人情から涙します。
しかし学校を作って「何を教えるのか」全く感じられません。 だから、偽善で始まったことは結果的に偽善しか生まれません。 すなわち差別や戦争になる教育しか行われないということですから、一時の喜び感謝があっても、教えられた良い悪いで比較競争差別の原因があるから、やがて子供の微笑が消えて困ったことになるのは目に見えています。

貧困や飢餓や病気に人道支援に関わっている人たちの活躍に涙します。
でも何が人道なのか、人を助けることが人の道であっても、その結果がどうなって行くかはその始まりの意識・原因にかかっています。
水戸黄門の可哀想な思いから始まれば、結果も(水戸黄門のように)もっと可哀想な結果に拡大発展していきます。 原因と結果は同じです。

事実だけを見て、その真実を知り、良い悪いで判断しなければ愛になります。
愛は完全ですから、原因が愛であれば結果も愛になりますから、差別や戦争にはなりません。 しかし残念なことに人間には私利私欲が隠れ持っていますから、人道的大義名分を掲げていても、私は正しい事をしていると言う自己満足や主張や顕示になっています。

もうどうしょうもない人間ですから、どうしょうこうしようと思い考え思惑を持ってやっても裏切られるのが人間なら、あれこれ思い考えずに「あるがまま」に任せ、その結果が成るようになっていくのは仕方ない事とあきらめ、そのことに執着さえしなければ被害損害、憎しみ妬み・ジェラシー・破壊意識が大きく拡大していくことも、他の人間が巻き添え道連れにされることも防ぐことが出来ます。 

良いことも悪いことも有ってあたり前、損することも得することも有ってあたり前、それが地球に生まれた人間だから、得ることも失うこともあるのが人間だから、それがあたり前になれば何ら問題にはなりません、問題を大勢の問題にするからややこしくなって混乱拡大するのです。
自分に起きたことは起きた事として良い悪いで判断しなければ愛の人となり、すべてに感謝できる、すべてが愛の表現・完全意識の人になっていきます。
それが完全な宇宙・神の言う「人間らしさ」「愛の人」ではないでしょうか・・・


人間一生の「命」に掛けるものに出会いましたか

2008年11月29日 | Weblog
人間一生の「命」をかけるものに出会いましたか・・・
・・・日本一や世界一になることでしょうか・・・
・・・冒険に命をかけることでしょうか・・・
・・・極意を極めたくて極めることでしょうか・・・
・・・世直し人救いのためでしょうか・・・
・・・諸般の有名人になることでしょうか・・・
・・・野心を隠した偽善者になることでしょうか・・・

残念ながらそれらは良い悪いで分離比較判断したことですから、良いと悪いの矛盾があり不完全ですから、人と比較競争差別する特別意識や救世主意識の偽善になり、得るものは自分だけの自己満足であり、私は正しいと自己主張や顕示することであり、その時の体感は二度と出来ないし、人様にその時のありのままを再現できない過去・記憶しか残らず、始まり無き終わり無き宇宙・神から与えられた人間本来の命・愛を知ったことにはなりませんから、結果的には何をやっても無駄骨だったことになります。

良いと悪いの裏表・矛盾がある以上は100㌫の完全ではなくて、良いも悪いもある半端な片寄ったものですから、何かの目的に限られ、限られた誰かの為であっても、すべての人に通じる完全ではありません。
例えば科学医学の物質薬剤や化学反応や手術反応のように、良い結果も出るが副作用や弊害の悪い結果も併せ持つことになります。
人間でいえば、誰かが善になり優になり得することになるが、その反対に誰かが悪になり劣ることになり損をする結果が出てきます。
神で言えば、特別な神とそうではない神が入り混じり、共に良い神と悪い神として比較競争差別し争い合っている現実があります。

与えられ持っている命をこの世の不完全にかけることは、始まりの原因が不完全ですから結果も不完全なのが当然ですから、命をかけても命の本質を知ったことになりません。 すなわち命以外の不完全を知り得たことになりますから、完全で消えることのない永遠の至福の時を知らずして、もう一度霊界・命だけが集まる次元に戻り、再度出直す転生を繰り返していたのが此れまでの人間の命です。

宇宙・神・愛の人間本来の命の役割使命を忘れてしまって、その大切な命を自我・自己中の欲の為にしか使っていないのです。 だから言い訳程度の大義名分で神や愛を語ることや、矛盾や妥協で染まった言葉でそれを言い訳正当化しつつ言うだけ・聞くだけ・祈るだけの偶像崇拝や世の中に混乱のタネを撒く差別・戦争のある宗教意識が蔓延するだけです。

過去現在や先を見れば一目同然なのだから、もういい加減に目覚める時が来ているのに、何で未だに同じ繰り返しや積み重ねしか頭に無いのでしょう。 何で、なんで、何で・・・
それは自分を守りたい欲があるからです。 過去や現在を守りたいのです。 今の自分が大事で先のことは人任せにしておきたいのです。 そして原因を見ずして現れた結果だけを見て判断して喜んだり悲しんだり自己満足したり不平不満を言っていることが「人間らしい」と錯覚勘違いしているのです。

ブログの女王やヒーロー・主人公になることではありません。
探検冒険スポーツで英雄・ナンバーワン・世界一になることではありません。
伝統文化芸術美術音楽芸能で有名になることではありません。
趣味嗜好娯楽の刺激で生きることではありません。
不完全で片寄った神様に祈り願うことではありません。
不完全が原因で起きている諸問題を解決するために命をかけることではありません。
我神なのですから、神を訪ね捜し歩くことでもありません。

矛盾の無い完全を知って完全になることに「命をかける」のが人間本来の役割使命です。
それ以外はすべて無駄なことであり、不完全な結果が出るだけの無駄骨になります。
言い訳正当化しないで真剣に考えれば誰にでも理解できるのが「完全真理」なのです。
そして完全を他に求めることではなくて、自分の命に課せられた役目・使命なのです。
だから完全に成るか成らないかに命をかけるしかありません。

長所短所も素晴らしい個性役割、神・愛の完全

2008年11月28日 | Weblog
人間は自分が見たいように見ていますから、見えている形を見ればその「差」が見えて分離差別になりますが、人それぞれの(見えない)個性を知ろうとすれば、その「個性の違い」を見ることになり、結果的に自分の個性には無いものを相手から見ることになるので(その人の役割を見るので)分離感も差別感も持たなくなります。(皆が神の多神の関係)
だから、人それぞれの「個性・役割の違い」を見るようにするのが個人意識を無くしていく自己縮小の実践になります。 

形の差を見るのでは無く、役割の違いを意識すればいいのです。 頭の記憶や知識で思い考え判断想像するのではなくて、自分に持っていない相手の個性役割を感じ取ればいいのです。 良い悪いで比較競争差別するのではなくて、自分に無いものを見つけ出せばすべての人の長所短所も素晴らしい個性役割だと判るのです。

自分さえ良かったらの個人意識や思惑期待の偽善・不完全を繰り返していて、それに人が振り向いてくれるのと、神・愛の完全真理をやり続けていて人が振り向いてくれるのとはまったく意味・中身が違ってきます。 
しかし、(いずれにせよ)それが自己満足や主張顕示になれば特別意識・救世主意識になります。 だから完全真理を実践していても、後ろを振り向いたり前を見すぎたりして比較競争したり結果を気にし過ぎれば特別意識・救世主意識になります。
ただ「ひたすらに」やり続けることしかありません。
そして人が気付いて振り向いてくれれば共(友達)になって歩んでいけばいいのです。

共に不完全・未熟ですから差はありません。上も下も、後も先もありません、早い遅いもありません、多い少ないもありません、共にやり続けるだけです。 
この実践が自己縮小になります。

自分が意識したところに自分が居て、思い考え判断したように相手を勝手に見ていますから、自分が見たいように見たのが投影されていますから、すべてが「私」中心になっている偽善であり非実在で不完全になります。
そんな不完全なものを意識に入れて一生懸命やり続けることは無駄骨になりますが、完全な神・愛を学び知り実践していけば実があります。 ※すべてが神・愛ですから神・愛以外に完全はありません、だからその完全な神・愛を知るのも実践になります。

不完全からはいっさい何も生まれません、完全だから完全が生まれ続けます。 
だから人間も神・愛であり完全です、ただ意識がまだ不完全なだけです。 だから意識が完全になれば神であり愛である全知全能の完全な命・意識体になります。
そして宇宙・一神が何万年と待ち続けていた、不完全を知った完全意識の人間が大勢誕生することになるのです。
しかし取り残された不完全なままの人間は二度と人間という形・衣・借り物を着ることは出来ません。 すなわち此れまで人間が必然で転生できていた次元も人間の意識が作った不完全で非実在の意識・命の集まる世界でしたので、既に完全が生まれることが宇宙で確定していますから、不完全意識が集まる世界の存在する意味がなくなり既に消えていると、確かな人が言っています。

そのことを地球次元上昇・・・今までに無かった新たな地球・人類の進化・誕生と言えるのかもしれません。
そして新たな地球の人類に必要とするエネルギー(全知全能)として、既に実用化されている常温核融合(自然界や体内であたり前に起きている現象)と言う弊害副産物が出ない完全意識エネルギーファバラがどんどん進化していくものと思われます。

このような今までぜんぜん知らなかった新たなことを聞くと必ず反発拒否するのも個人意識の人達です。 だから新たな事を知ることよりも、否定反発して自分の知っている「善」「優」を守りたい、自分に「得」していることを守りたい、そんな自己擁護からインチキ詐欺だカルトだと騒ぎ立てて加勢を求めて完全を潰そうとしてきます。 しかし完全は完全だから、不完全の非実在の力・他力で潰して闇に葬ることは出来ません。 反対に悪あがきをして自分が困ったことになるだけです。 また、そんな事とはつい知らずに自らが踊り踊らされたり面白がって騒いでいる人もいます。

これらの話がおとぎ話やまやかしではないことを知っているのも、良い悪い・善悪損得優劣で判断する個人意識を無くしていく完全真理を実践している人達になります。

神・愛の真実を知らなければ「知った」ことにはならない

2008年11月27日 | Weblog
今の世の中は諸問題を多く抱えていますが、その問題を解決するには「知っている」ことでしか対処できません。 「知らないこと」は知らないのだから解決にはなりません。
それでは何を知っているのでしょう・・・此れまでの経験体験の記憶知識しかありません。

神・愛や自由平等平和という言葉や知識で知っていても真実実在を知らなければ、これらを知っていることにはなりません。
だから差別・不自由・戦争があり、未だに解決できていません。
知っている体験経験・知識だけでは解決できないのです。 
解決できないということは完全ではないと言うことです。
また世間で言われている神や愛が完全であれば遠い昔から自由平等平和な完全な世界になっているはずです。 
すなわち神や愛を不完全に教えられ知っていたから差別戦争が続いているのです。
今見えている形・諸問題は今知っている結果の現れ・投影ですから、このまま推移している限りどうしょうもありません。 
過去の繰り返しの今があり、未来も同じ繰り返しになります。

その結果の原因にあるのが「分離」意識です。
あるがままの神や愛を良い悪いで分離判断するようになって裏表の矛盾が生まれ、自分の思惑都合に良い「良いとこ取り」ばかりして、悪いところを差別排除したがることから変な世の中になっていったのです。
人それぞれに違った思惑・意識を持っているのだから良いも悪いも無いのに(差が無いのに)、自分の思惑都合で良いとこ取りしたいから、そっちが悪でこっちが善だと比較競争し合って差別し合って言い張って、多数意見が占めるほうが勝ち、少数意見の方が負けた格好になり、勝った方が優になり得になり、負けたほうが劣になり損になり、勝った方が支配し、負けたほうが虐げられる形になったのです。 
しかも勝った方も負けた方も「私が正しい」があり主張顕示します。
だから負けて虐げられる方の人も黙ってはいませんから、反感を募らせ何かと画策して勢力拡大を狙っていますから、双方に安心安全・自由平等平和はありません。
すなわち自分さえ良かったらの分離差別意識、自分を中心にして良い悪いで判断する個人意識に原因があるのです。

その代表的な形が「悪者と思われるもの」を排除したがる「潔癖症」であり、戦争やテロの原因である「正義感」です。
だから小さな事で言えば「ばい菌」は悪だから殺して排除することになり、その結果ばい菌が抗耐力を増して現れ新型感染菌や新型ウイルスに変化して何度でも現われています。
すなわち戦争もばい菌もイタチゴッコをしているのです。

これら矛盾を知り完全を知ったところで直ちに解決できるものではありません。
長い時が必要です。 しかも他人任せの他力では絶対に自分のものにはなりません。
だから他力の力で自由平等平和・至福の時が来ても自分には手が届きません。
そして自由平等平和・至福の時は形ではなくて意識で感じることですから、自分に分離差別意識がある限り決して味わい感じることは出来ません。
だから自らが完全を知り、完全を意識して、真面目・真剣に、ただひたすらに取り組むしかありません。

しかしそれさえも気付かない、知ろうともしない無関心の人ばかりですから、このままに推移拡大していって20~30年後には自滅破壊の時が来るでしょう・・・
でも人間は永遠の命を持った意識体ですから、肉体が滅びても命の意識は生き続けます。
だから、意識しているところに命の意識は行きますから、完全を意識していれば完全なところ、すなわち完全な地球へ命の意識が行ける可能性がありますが、今の不完全しか知らない命の意識は不完全なところの形・場所に行き着くしかありません。
それがどんなところか行って見なければ判りませんが、人間の様な足を持たない、自由に動けない頑固強固な固形物の命・意識体になることは間違いなさそうです。

完全を知っても消化不良になれば惰性・無気力・破壊裏切りになる

2008年11月25日 | Weblog
多くの方々が山田耕栄さんの完全真理に必然で巡り会うまでにも色んな形を段階ごとに学び知ってきた事と思います。 一足飛びに完全真理を知った人は少ないと思っています。
すなわち完全真理に辿り着くまでに色んな学びが必要だったのです。
それが医学や科学の健康問題だったりエネルギー環境問題だったり、それがきっかけで摩訶不思議な世界だったり思想哲学や精神世界や宗教関係になったりしながら歩んできた事と思います。 また世間にはそれ以前の途中で止まっている人も多いことでしょう。

完全を知ったのだから今までの形・不完全には用がありません。 それは不完全からは不完全しか生まれないのだから無駄骨になるからです。
例えば、現れた結果・形の環境問題をこれまた形での対処法に関心を寄せて意識して取り組んでいれば、完全から離れた不完全な意識で居ることになりますから、結果的には真実を見ずして「よそ見」「寄り道」をしていることになるのです。
また、ネットや世間で主役ヒーロー・リーダーになりたくて自己満足・自己主張顕示することに意識を奪われていたり、可愛いペットから動物愛護に意識が行っていたり、献金・署名運動や人権問題・教育問題・擁護介護問題の運動に自主参加して翻弄していたり、専門学や思想哲学・心理学・精神世界・真理を知ったことで悩み相談・カウンセラー気取りの先生になって取り組んでいたり、念力・ハンドパワーで奇跡現象を起こして見せる形などで自己満足・主張顕示することに取り組んでいる人も居るかも知れません・・・ そしてそれらが無駄骨ではないと言い訳正当化するのに「無いより有る方が良い」経験体験は必要だから「しないよりか、したほうがよい」と、始まりの原因が自己中心の不完全・偽善なのに「私は正しい」と思い込んで、不完全なもの・形を自己擁護のために大切に守りたがります。

不完全な世の中で不完全な我々が生きていくためには不完全がつきまといます。
その不完全で意識が立ち止まっている限り完全真理を知っても消化不良になります。
しかも頭の記憶に止まっている限り過食の消化不良で下痢を起こして精神異常になることもあります。 特に一足飛びで来られた人は余程の理解力・持続・自力が無い限り真実を知るに至らないと思うし、一足飛びに早く知りたい焦りや欲が災いして、記憶を溜め込むことばかり熱心になり、完全を完全に知る喜びを知らないままに消化不良になっているかもしれません。

中途半端な消化不良で終わるのなら、完全真理を知ることも無駄骨になります。
完全を意識し続ける自覚・心構え・決心が必要と、何度も何度も耕栄さんが講演会で言っているのに、消化不良の性か、その場限りで終わっている人が多いのも事実にあります。

ファバラを深く知るにも宇宙エネルギー・摩訶不思議な力の出どころをそれなりに理解経験している人がより早く完全エネルギー・常温核融合を知ることになり、結果が出ればそれだけ長く続けることにもなるが、鵜呑み・盲信の一足飛びで取り付いた人は中途半端な消化不良のままですから、運良く効果結果が出ても、ファバラを長く使い続けるだけの自信確信に至らないままに途中で終わる可能性もあります・・・そんな人を何人も見てきました。 
ファバラも意識体ですから、信じる意識力・真剣さ・決心が必要になります。

すなわち真理もファバラも確信・自力・自信が無ければ中途半端になって、結果的には何も成しえないことになるのです。 何をやっても中途半端では完全な結果・真実の多くを見出せないのです。 
そして確かな感覚・自覚もないまま、つかず離れずに「惰性」で続けることになったり、途中であきらめ去ることになったり、13人目の裏切り者になってインチキだカルトだと言触らすことになったり、目指す道が途絶えて無気力な生き方になったりするのです。
すなわち、良い悪いの裏表・矛盾のある世界ですから、必然で知った完全真理が良い結果になったり、反対に無駄骨どころか裏切り者に成り下がることもあるのです。

※ 完全真理を知れば知ったで、他の形はすべて不完全と判ってしまうから、完全真理の学び実践から離れても、他に歩み進む道や行き場が何処にも見当たらなくなります。 だから惰性でやるか、無気力になるか、破壊・反発するしかありません。 
それらの形が今も現実に出ています。

それならば・・・己の未熟さ・不完全さを百も知った上で、まず知った完全を意識した上で二番目の不完全と仲良く付き合いながら(執着しないで)、更に完全を学び知る実践を続けていくしかありません・・・それがこの先の「完全意識の時」につながると確信しています。  

真理の早わかり=「意識したところに自分が居る」=重要項目

2008年11月21日 | Weblog
人間は意識を持った意識体ですから、意識したところに自分が居ることになります。
例えば、手足の指を切ってお風呂に入るときは(ばい菌が入る心配から)指を湯の中に浸けることをしません。
するとどうしても指の切り口が気になって(意識が行って)身体はお風呂に入っているのにお風呂の気分は十分に味わえません。
それは一番先に指の切り口や傷の痛みに意識が集中して、二番目三番目のお風呂に意識が行かないから、お風呂に入っているがお風呂に入っていない状態・感覚になり、いつものようなお風呂の気分が味わえないのです。

悩み事に意識がいっているときに美味しいものを味わうことになったり、好きな音楽が聞こえてきたりすると、それらに意識が行きます。 すると今まで意識していた事が消えて気持ちが和らぎます。 それを癒されると言っていますが、趣味嗜好娯楽・刺激などの物理的なものはそれらに依存することになり(依存症・依存症候群)、結果的には意識する事が一時変わっただけで元々の悩みの原因が消えたことにはなりませんから、何度でも繰り返し悩み事に意識が戻ることになります。

氷点下30度の極寒の地で住んでいても寒いと思わなければ寒さが気になりません。 だから猟をしていれば寒さより猟銃と獲物に意識が行きます。

虫に刺されて皮膚がかゆくてたまらない時に怪我をすると、その怪我の痛みのほうが強くなって皮膚のかゆみを忘れて消えていきます。 意識する場所や症状が変わったからです。

腰が痛いと意識すると腰が痛いことになります。 それでも危険が迫ると腰の痛みを忘れて一生懸命逃げます。 ついでに腰痛が治ったりもします。
だから、症状・病気を気にすればするほど医者や薬剤に依存して多用することになり、その弊害副作用で更に症状・病気をより深刻な方向に持っていくことにもなります。

お金儲けを意識していればお金を稼ぐ事が出来ます。 もっと欲しがればもっとお金持ちになれます。 だから過不足の無い普通でよいと思えば普通の暮らしになります。 しかし普通以上の暮らしを望んでいながら楽をしたいと二股をかければ、どちらも満足できない中途半端な結果に終わります。

風邪をひいていることを気にすれば気にするほど症状が長引きますが、札束を目の前にして嬉しそうに何度でも数えているうちにやがて風邪の症状を忘れて元気になります。
だから衣食住・財・刺激・名誉・権威権力に対して強欲な人ほど見掛けの身体は元気です。 
身体が灯す意識・心に関わる注意信号や危険信号の症状には意識が行かないから(意識・心は病んでいても)身体は元気(中身の無い空元気)にしておれるのです。
しかもそれらに執着心が強いことからも全てを失う死を怖がり執着することになるが、それでも「私は正しい」と思っていますから、それら原因が積み重なり重度のうつや痴呆症になったり、成人病やガン等と戦う闘病生活が長く続いたり、死んだ同然の寝たきり病人になったりもします。

怪我をするのも、料理を失敗するのも、仕事をミスするのも、勉強がうわの空になるのも、なかなか寝付けないのも、楽しいはずの場所が楽しくならないのも、行為行動していることに意識が行っていないで他の事に意識が行っている時に起こります。 すなわち「意識しているところに自分が居る」からです・・・真理を判り易くしてくれる重要なところです。

不完全な意識であっても「完全を意識していれば」その不完全に気付き見えてきますが、不完全を不完全と思わなければその不完全が正当化されて「私は正しい」の自己満足や主義主張を顕示する潔癖症や誤った正義感を持つことになります。

完全を知っていても、自分の思惑都合から不完全で生きることを選んでおいて、言い訳正当化しながら二番目に完全を意識して実践していても、それでは完全な実になら無いからその努力は無駄骨になります。
しかし「完全」を知ることで「不完全」を意識しなくなると、(完全が先で不完全が後だから)無駄に思い考え想像し迷い悩むことも無くなるし、現れ出た問題をあまり意識しなくなるから執着も無くなり、普通の静かで穏やかな生活が続きます。
すなわち不完全・未熟であっても、先に完全を意識した生活・実践があって続けていれば、完全を意識しているところに自分が居ることになるから、結果的に成るようになって、持って生まれた不完全が次第に消えていくことにもなるのです。 
だから完全に成ることを望み求めなくても完全に成っていくのです。
だから未熟な意識がゆえに我神なりを自覚確信できなくても、完全を意識し続けていると我も神だったと目覚める時が来るというものです。

人間の意識は意識したところに行きます。 しかし行きたいところに行けるのとは違います。 だから完全を知る必要があるのです。


まず「完全」を知る事が重要な理由

2008年11月20日 | Weblog
この世の中に良いと悪いがある以上、完全を知ることで不完全を知ることになったり、不完全に気付くことで完全を知ることになったりします。
そして完全を完全に知ることから全ての不完全が見えてきます。

「そのまま、このまま、あるがまま」は「私」の判断を入れて良い悪いで評価比較差別しない完全意識・過不足の無い調和・普通・あたり前をいいます。
それを勝手に解釈し歪めて、私は何にもしなくてもいいのだ、何も言わずに黙っていればいい、我慢していればいい、と言うように「私」の思いが入っていれば「あるがまま」ではありません。
だから必然で現れ出た結果を良い悪いで判断せずに確り見定めて、そこから真理の教えに気付き学ぶことも必要ですし、結果を予測したり思惑を持ったりせずに自分に出来ることがあれば、それを過ぎない程度に素直に接し触れて関わることも必要になってきます。

真理で言う「あたり前」も意識が違えば意味も違ってきます。
朝飯前のあたり前には、私の自己満足・自己主張や顕示・自惚れや欺まんがあります。
普通のあたり前には、「私」の思いが無いから完全になります。
また、「してくれてあたり前」だから「何でしてくれないの」というように、自分勝手な思惑を押し付けるための、感謝の無い「あたり前」があります。

「薬」という文字には、草の下に「楽」の文字がありますが、その楽を「らく」と読んで、「楽をする」為の薬にすれば、くすりを飲んで早く楽になりたい、仕事をするためなら内臓が少々悪くなる副作用が有ってもかまわない、早く助かりたい欲が出ます。
その意識が強くなると今度は心臓を助けるためなら肝臓を犠牲にしても良いと思うようになります。 それが今の不完全な医学であり薬剤ですから、軽い小さな症状を重くて大きな症状に進化拡大させています。
ところが必然で生まれた同じ薬を「楽しく」使うなら、くすりに感謝の心がありますから副作用弊害は出てきません。

また、同じ金額なのに満足する人も居れば不足に思っている人もいます。
同じ食べ物であっても美味しい人と美味しくない人もいます。
だから、同じ境遇であっても幸せに思える人も不幸に思える人もいます。
すなわち感謝が有るのか無いのかの違いです。
ありがたい感謝があれば完全になりますが、感謝が無ければ不完全になります。

必要以上にお金を稼ぐことで他の人に渡るはずのお金を奪っていることになります。
必要以上に食べることで他の人の食物を奪っていることになります。
必要以上に資源を使うことで皆に行き渡らなくなっています。
独り占めしたがるのは感謝を知らないからです。 その感謝があれば満足していますから、余計なものを人に分かち合える喜びも知っています。

教育育成や主義主張などの全ての既存の形には「良いと悪い」の二面性・裏表の矛盾がありますから完全ではありません。 その完全ではない不完全から完全は生まれませんから、全てが妥協の産物となり方向性が決まらないばかりか、主義主張の強い者が弱い者を虐げる結果にもなります。 だから世界中の何処を見ても似たような結果が出ています。
それを普通とは言わず不完全と言います。

だから「完全」を知らなければこの先何をやっても実にはなりません。 途中で折れたり、曲がって複雑に絡み合ったり、手入れを怠って枯れたり、頑固に硬すぎて食べられない実になったり、腐った実になって汚染腐敗感染を広げるだけです。
・・・「完全を知る」ことが何よりも大切なことが理解できたでしょうか・・・

不完全な「結果」の積み重ねの世の中

2008年11月19日 | Weblog
空気や水が汚れると、その空気や水を汚さないようにする手立てを行いますが、その空気や水を汚す元となっている人間の意識の原因を見ません。
だから学校教育や社会活動においても見える形の方法でしか教え伝えません。 せいぜい半端な道徳やマナーで教えるのが精一杯です。

人間は見えるものを見て判断していますから、何か見えて判る形の問題が起きてから対応していますから、すべてが後手後手になり、しかも全面解決にはならずに妥協によって、都合のいい人と不都合な少数の人に必ず分かれます。

後進国や開発途上国の諸問題が経済の遅れだと指摘する人が多数を占めたら、その経済主導の援助をします。
ところが思うように進展しないと、今度は教育の遅れに原因があるとして教育の援助を始めます。 ところがそれも上手くいかなくなると今度は貧困家庭にあると指摘するようになり、子供を学校に行かせるために教育援助金を支給します。 ところが貧困ゆえに子供が働き手として家計の足しになっていることを知ると、今度は子供を学校に行かせる家庭の親に給付金を支給してまで子供を学校に行かせる工夫をしています。

それらの支援援助で大勢の子供が学校に来るようになると、今度は学校を大きくしたり、遠くはなれた地方にも学校を建設したりして対応しますが、今度は教師が少なすぎて満足な授業が受けられなくなったりします。・・・といった具合です。

しかも教育・授業によって先進国同様に比較差別競争意識まで教えられています。
経済成長と共に教育格差で生活格差も生まれています。
そして極一部の人たちを潤すために先進国同様の道のりを歩きながら、自然破壊や資源の食いつぶしや環境汚染や公害によって苦しむ人が大勢出てきたり、地球の汚染拡大にもつながってきます。・・・と言うように、貧困当時より生活が豊かになれば成ったで、その先々にもまた別な問題、食糧難、汚職や政権争い、軍備強化、国境紛争、侵略殺りく、テロや戦争や核の脅威など次々に拡大して吹き出てきます。 

このように現れ出た結果を見て、その結果に対応して結果を出したがっています。
すなわち元の原因を見ずして、結果の積み重ねで解決しようとしていますから根本的な解決には絶対に至りません。

何度も書いているように、良い悪いで判断してやっていますから、結果にも良いと悪いが必ずあります。 すなわち矛盾しているから不完全になります。 その不完全から完全は出ませんから、何をやっても状況が悪くなる一方で、いつまでやっても時間つぶしにしかなっていせん。

無学歴無資格の年金頼りの貧乏老人が気付いているくらいだから、世界中の有能なリーダ達は既に「時間つぶし」だと気付いているはずです。
そしてもう手遅れだとも薄々気付いています。
それでも混乱・動乱・恐慌を恐れてその症状病名を国民に告げる勇気もありません。 
しかも到底無理だと判っているから今更大手術・大改革する勇気決断もありません。
そして自己防御・擁護の為にも一生懸命にやって見せて、そして少しでもいい思いを長くして、そして言い訳程度に国民の痛みを少し和らげながら、こんなことが何年続くかわからないけれど、たとえ少しでも長く続き生きていければいいと思っているのです。

ところが身近に絶望が押し迫った時になれば、やけくその破壊意識になって(道ずれ自殺のように)世界中を巻き込むとんでもない事をしでかすことになります。
それを防ぐ事が出来るか、反対に絶望を押し進める結果になるか、その選択も私たちの集合意識にかかっていますから、今までの自己拡大を止めて自己縮小していく実践が必要になります。
それにはまず「雨やんで傘を忘れていた」ことに気付き、アリガタイ感謝の心を持つ実践を始めなければなりません。

「我神なり」の人間が不完全になった原因

2008年11月17日 | Weblog
すべては「ひとつ」で「完全」ですから、完全から完全が生まれます。
そして、この世に神と言うものが実在することにすれば、すべてのものが神で無ければなりません。 それが完全と言うものです。 
だから万物すべて、動物も植物も鉱物も微生物も完全で神になります。 
それぞれの姿形は違っていても、すべてが神の役割を果たしているのです。
だから、植物は植物の役割使命を果たしている神になります。
人間は人間の役割使命を果たしている神になります。
ただ違うのは・・・植物は思い考える事が出来ない神・意識体ですが、人間だけは思い考え想像できる神・意識体という違いがあります。
すなわち思い考え想像することが人間の役割使命にあります。

神である人間が他と違って何で思い考え想像することが出来る意識体として地球で存在しているのか・・・そのわけを真理で言えば・・・すべてはひとつの完全から生まれた人間も完全ですが、その我神である人間が完全以外の非実在となる(思い考える)想像力を持てば、完全しか知らなかった神が不完全・非実在をも併せ知った神として地球で実在することになります。
すなわち、完全と不完全・実在と非実在を併せ持った神を地球上に創造するために人間と言う形を持った意識体が誕生したのです。・・・と真理で言われています

地球に誕生した頃の人間は完全でしたから宇宙・神とも意識が通じ合っていましたから、それが神代・神話の時代でもありましたが、ところが完全であった神・人間が不完全をどんどん使い始めたことから次第に意識体のエネルギーが下がり、今では殆んどが3次元意識までに成り下がっています。 それが私達です。
この例えを以前に「空気」→「水」→「氷」というエネルギーの違いで説明しています。

すべてはひとつで、(不完全は無く)すべては完全であり、すべては神・愛であり、すべては意識・命である・・・この事が理解できたでしょうか・・・

人間が想像することで・・・自分に都合がいいように自己中心に思い考え・・・自分にとって良いか悪いかで分離判断比較差別するようになってから宇宙・神意識・完全意識を失いました。
しかもこのままにほっとけば地球もろとも破滅破壊することになるので、宇宙の法則・仕組み・必然から此れまでに地球に降り立った宇宙の神々の神・意識体があれこれと居ましたが、それら神々の神意識体も地球で「ミイラ取りがミイラになって」結果的に役割使命を果たせずにいます。

そしてとうとうこの地球で人類が生き長らえる事が出来ないまでに成り果てております。
それが現在ですが・・・地球はもちろんのこと、人間以外のすべてのものは完全ですから何度でも生まれ変われますので・・・この地球が破壊され尽くされた結果から不完全な人間が生きる事が出来なくなって全部滅びても何ら問題ありません。
しかし今まで転生してきた不完全な人間の意識体は行き場を失います。
行き場を失うことは「歩く足」※心の足「愛」を失うことですから、自由に動けない意識体・命になるしかありません。 そして不完全のままの動けない意識体ですから、完全な植物や動物も鉱物や微生物にもなれません。 命・意識はあるが居場所が見つからないままに何処と無く漂いさ迷うことになります。 ※「愛」=心の文字の下に歩く足の文字があるのが愛という文字ですが、恋の文字には心に足がありません、すなわち愛は足があり自由ですが、恋は足が無くて束縛支配を意味しています。

しかしそうならないために、この世で最初で最後となる「完全真理」を説く者が現れました。 そしてもう二度とミイラ取りがミイラにならないように、宇宙の光・神・愛エネルギー・常温核融合エネルギーが高まりつつ地球に降り注いでいますから、必ず成功します。

しかしそれでも不完全な個人意識で居て、しかも尚不完全な意識を正しいと思い続けている頑固な人の心・意識には光・神・愛エネルギーが吸収できないばかりか、その否定反発心が強いエネルギーに耐えられなくなって、(それが原因となり)やけくその自己破壊の行動に出る人が今以上に増えていきます。 
同然ながらそのやけくその破壊行動に巻き込まれる人も大勢出てきますが、それも先に書いたように、己の意識が原因で人災に巻き込まれたのです。
そして、この先も人による破壊行動の人災も自然界の天災も今以上に増し続きます。

それらは人を苦しめるために起きているのではありません、自らを自らが苦しめる自滅に進んでいることになります。 だからその人の意識の過ち・錯覚勘違い・履き違いに早く気付くために必然で次々と起きていることになります。
それを教えているのが先ほどの完全真理でありファバラの常温核融合エネルギーです。
そのことを「知る」のも、そのことを否定反発するのも、そして迷うのも・・・それが今のあなた方の意識です。 そして否定するのは簡単ですが・・・知らないことを知ることが出来るのも・・・人間が持って生まれた役割使命があるからです。
 

意識した上での「成り行き任せ」は自然体

2008年11月16日 | Weblog
まったく見えない世界に無縁だったはずの私が持って生まれた好奇心を追求しているうちに、いつの間にか成るようなって現在に至っています。
すなわち好奇心が原因で始まっているだけに情報が今も過去も重要でした。
その寄せられた情報が集約されて方向性が決まると同時に、その集まる情報が結果的に「知った」ことになり、知った事が結果的に此れまでの実践行為行動になり続け、そのやり続けていることから山田耕栄さんの完全真理と宇宙エネルギーである常温核融合のファバラと過疎地での年金暮らしにつながっています。

だから知りたい意欲があっても、成りたいという欲はありませんでした。
だから今まで何かを目的にして目指していたわけではありません。
一つのことに集中・意識していることによる摩訶不思議な世界の必然・ご縁やお仕組みの流れに追従してきた結果が現在です。 まさしく予想だにしていなかった完全真理を知ることになり、望み願っていたはずも無い田舎暮しの現実があるだけです。

だから完全意識に成りたいとは思いません、自分には到底無理だと百も承知で判っているから無理はしません、執着もしません。 此れまでのように、知ったことを知ったなりに実践出来る方向性に意識を持っているだけです。
以前のように矛盾や妥協のある真理の教えで中途半端に迷ったり、不完全な世の中の話題や問題に否定反発した形で余計な口出しお節介をしたことが自らの執着になってしまって、その思いが過ぎた感情になって苛立つことも殆んどなくなりました。 
すなわち、私は人の為に良いことをしている、私は正しいことをしていると言うような結果予測・思惑を先に持たなければ、人それぞれに違って現れ出た結果に平然と接する事が出来るようになりました。

また、過ぎた衣食住・財を求めることも趣味嗜好娯楽・刺激を求めることもありません。 
また自分では必要と思っていても、与えられるまで「待つ」のが基本ですから、苛立ち焦ることになはなりません。 健康があればそれなりに生きていけます。

完全真理で言われている個人意識を無くしていく真の実践、良い悪いを持たない真の到達に至るには私には無理だと自覚していますから、あとは自己責任でやりたいようにやって此れまでのように成り行き任せにするしかありません。 それでも完全を知っているだけに個人意識が出たときはそれに気付けますからこだわり執着になりません。
そして形での見せ掛けの自己縮小が出来ているだけに色んな形でのアリガタサが少しは理解できるようになりました。 それらに感謝する心が無くても大切さは理解できました。 だから勿体無い意識から無駄にする事が減りました。
所持するお金が少ないことから必要とするお金に感謝できるし、そのお金が少ないことが幸いして質素倹約・創意工夫が面白いことになりました。 
また必然で知り合った人と接し触れることの喜びや楽しさと、思惑通りにならない非実在と接し触れ合い味わうことにもなりますが、その不完全とも仲良く付き合う意識があることから、否定反発したり後悔執着したりせずに無難に乗り切ることができています。
そして、学び知った完全を意識・集中した上での「成り行き任せ」の自己責任で生きることの面白さや喜びやアリガタサも味わい感じているこの頃です。

しかし何をするにもお金が必要な世の中だけに貧乏な私にはどうすることも出来ません。 だから、どうすることも出来ない先々の病気や老後や死などの想像の世界・非実在に思い悩むこともありません。 
また、自他共にどうにも出来ないこと「良い悪いの矛盾・分離意識から成り立つこの世の全ての不完全・非実在の諸問題」を何とかしたがる欲が自分を苦しめ、他を巻き込んで混乱を招き、更に進化拡大することになっていると理解しているところです。
だから急ぎ慌て欲し求めるのではなくて、自分があたり前に出来ることの積み重ねの結果がその道の達人・匠・専門家と言われる形になっていくのが「あるがまま」の愛の真理に合致していると思います。

これらのことは不完全な私の自己満足であり自己主張にもなりますが、それでも何かのお役に立てていると信じるものがあるから、今日もこうして書き残しています。