孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

比較競争・差別の不自由・不平等・戦争の「自己拡大」から自己縮小へ

2009年08月31日 | Weblog
私は知ることの大切さを改めて知りました。
そして「知らないのに」知ったかぶりをしていることが多いことにも気付きました。

例えば私が質素倹約な年金・田舎暮らしを始める以前は世間的にカッコいい仕事や家庭生活をしていただけに、自分以下の生活を見ると蔑んだ思いや暗いイメージで見ていましたし、田舎でお年寄りが何するでなしに畑の草抜きをしている姿や、整理整頓されていないおんぼろ屋敷や如何にも貧しそうな生活ぶりを見ては・・・(見下したように)張り合いの無い、つまらない生活に見ていました。

また若い夫婦が・・・仕事よりも日常生活優先で、しかも生活に必要なだけのお金を得るためだけに短時間労働に従事し、それ以外は夫婦で共に過ごす時間を大切にする一方でそれそれが自由に行動するというと言うような生活ぶり・生き方が10年前にTVで紹介され、そのVTRを見た番組出演者・コメンテーターが(私は正しいと言わんばかりに)国家社会や将来のことをまったく考えていない無責任主義で自己主義だと批判的にコメントするのを観ていましたが・・・私も違和感を感じて観ていました・・・

ところが、お仕組み・必然から思ってもいなかった年金・田舎暮らしを実際にやるようになってからは・・・
質素倹約の大切さや面白楽しさ、呑気気ままな生き方、時代の流れやその常識に反するかのような自己流・個性派の生き方、世間体を気にしない自由な生き方・・・それらの良さを見出して味わい楽しんでいるのが・・・今の私です。
と言うことは・・・私の過去において(実際に接し触れ合い味わってもいないのに)・・・見ただけで(想像判断して)、如何にも知ったつもりでいたのです。

すなわち、真理で言われているように・・・自分が「見たいように見て」如何にも知ったかぶりでいたのです。
そして、過去のカッコいい生き方・生活ぶりは・・・(真理で言われるところの)自分さえ良ければの結果・自己満足・自己主張・顕示や、他との差を付けたがる自己拡大を目指していたことになります。
すなわち、急ぎ焦る生活・苛立ち慌てる生活、気苦労の多い生き方、比較競争で差を付ける生き方、「不自由・不平等」な生き方をしているのに、それが正しいことに思い込み、その「私は正しい」の思いを多くの人に押し付け押し売りしていたのです。
それが誰の為でもなくて・・・自惚れ・自己満足していたことだと・・・真理で学び気付き「知った」のです。

たぶん・・・これを読まれても・・・多くの人は否定反発、または違和感を持つことでしょうが・・・それは「知らない」からです。
知らないことは味わえませんから、知らないことは絶対に実在になりません。
また実際に「知って」味わったことでも、それを自分の価値観や善悪・優劣・損得勘定で判断すれば、それは自分の見方であって皆のものではありません。
それを「皆のもの」と思い込むのは・・・それが多数意見であっても、また集合意識の常識・伝統・風習や道徳であっても・・・自分に都合が良いことの(自分に都合が悪いことを否定・排除した)良いとこ取りをしている自己主義・個人意識になります。

比較競争・差別の不自由・不平等の自己拡大で生きるのは決してカッコよいことではなかったのです。
個性で生きてこそカッコよくなるのです。
それも世間で作られたカッコいい個性ではなく(見栄や世間体)、また自分に都合が良い思惑や理想のカッコいいことでもなく、今の自分に今すくにも出来ること・・・それが「自己縮小」することです。
此れまで不自由・不平等・戦争となる自己拡大をしてきた生き様を「知って」いるからこそ、新たに「知った」自己縮小の実践で本当の価値ある生き方や生きる喜びが見出せるのです。

此れまでのような自己拡大には生活の慌しさと気苦労が耐えませんが・・・自己縮小には気苦労がありませんから、ゆっくりと呑気に楽しみながら実践できます。
・・・でも勘違いしないでください・・・質素倹約とか田舎暮らしという「形が先」ではありません・・・ 自己拡大の間違いに気付く意識改革が出来て、そして自分に自己縮小が確かに必要となる自己意識・自信がなければ、形から先の実践に無理が生じるかもしれません。だから今の生活の中から意識改革の実践に取り組んでいれば・・・自ずと生活や仕事に思いやり優しさのある心穏やかな自己縮小に向かっていくことでしょう・・・

とは言っても・・・比較競争の不自由不平等の社会に身を置いての自己縮小も大変だと思います・・・
それでも・・・此れから先の不安定な世情・環境要素・時代の流れ・宇宙の流れを知れば・・・否応なしに何らかの形の縮小になっていくと思いますし、大怪我や病気・感染症で入院という形での縮小、そして避けて通れない定年や老後や死を目前にしたときなどの形の縮小が待っていますし、あの世とやらの衣食住・名・権・財と言う形の無い世界へ行けば自ずと自己縮小になりますから、そうなる以前に「完全真理」を<知って>意識改革していれば、<知ったことが無駄にならずに>何とか平穏無事に乗り切れると思います。

此れまでの自己拡大(差別~戦争)を無駄にしないためにも自己縮小が必要

2009年08月27日 | Weblog
過去のイエスや釈迦が自ら「修行」してみたものの、結局は「無駄」であったと弟子達に教え伝えたが、その事を知っている筈の弟子達が・・・修行が無駄なことだと知るためにも、その修行を実際にしてみなければ分からないと思い・・・釈迦やイエスが無駄だと悟った修行が未だに続き繰り返されています。
すなわち、イエスや釈迦らに従い信じる大いなる弟子達でさえも(人間誰もが不信感を持っているから)・・・その釈迦やイエスの悟り・教えを素直に信じずに否定反発、または(修行することを)言い訳正当化していると言うことになります。

だから釈迦やイエスに限らずあらゆる宗教においても同じでして、それら教祖の言うことを信じている振りはしていても、自分が知らないことに対する不信感が根強くあることから(自分が実際に知ったことしか信じようとしないから)、誰しも本心からは信じることが出来ないでいるのです・・・(釈迦やイエスが活動していた当時に、そのイエスや釈迦を信じていなかった人が多いように) また同じく・・・現在実在で活動している最中の宇宙・神意識の山田耕栄さんを信じる人が少ないように・・・です。

また、我が身に起きた結果、「救われ助かった」結果があったから信じていたり、我が身の欲から「救って欲しい、助けて欲しい」の強い思い思惑があってのことで信じているのであれば、それら欲得がらみの見せ掛けの信仰で信じている振りをしているだけになります。
すなわち、何らかの結果を期待する思い思惑がらみの(自分に都合が良いだけの)、実在する神の愛と離れた別格の真理・宗教・信仰の特別な形になってしまうのです。

・・・完全なる神の世界・次元が人間には絶対に見えないだけに・・・それが証拠に世界中で想像神・偶像が崇拝されているように・・・その元となるイエスや釈迦らを含めて、すべて100㌫完全に神を信じ切っていた人が誰一人も居なかったかも知れません・・・
勿論のこと、強い思い込みや妄信による自己暗示や他社暗示や洗脳を受けている場合であれば・・・それは錯覚勘違いの非実在を実在に思い込んでいるだけだから、本当の神を信じていることにはなりません。

ところで・・・修行と言える行為行動を・・・「良い悪い」で判断しない「あるがまま」の完全真理で言えば、その修行となるのが日々の暮らしに当てはまります。
だから例えば・・・此れまでの自己拡大をやめて自己縮小を実践することを説き教えていますが・・・その無駄な修行が「自己拡大」にあたります。
すなわち此れまでの生き方、人と差を付けたがる生き方から成り立っている生活そのものの発展、すなわち衣食住や財産といった物質経済発展や人と差を付ける特別な資格や権威権力・肩書きを持つことを目指していたのが自己拡大になりますから、我々は日々無駄な修行を繰り返しながらその結果の自己満足に酔いしれていたことになります。
そしてその結果が現在の比較競争社会・差別・格差社会、争い戦い奪い合い破壊し合う人間・国家社会、自由平等平和のない地球・人類という結果に現われています。

その自己拡大という無駄な修行を・・・無駄にさせない為にも・・・「自己縮小」の実践が必要になります。
すなわち人類の自由平等平和を失ってまでも自己拡大を続けてきた此れまでの経験体験(修行)を生かす為にも、ここで自己縮小を実践することが必要になると言うことです。

すなわち裏表の世界ですから・・・(表の)自由平等の宇宙・神の愛を知るためにも、(裏の)比較競争・差別する自己拡大が必要だったと言うことかも知れません。
そうすれば・・・此れまでの自己拡大をしてきた生き様、すなわち喜怒哀楽・生老病死などで思考錯誤したり、愛とは違う自己満足の繰り返しで苦労している中での「自己縮小」の実践になることから・・・裏を経験した上での表の実践になるから・・・ その自己縮小の実践で実際に得られる至福の時を経験体験で知ることになり、(自己拡大で心を乱すことよりも)心の満足・安心安定が人間にとって大切なことだと言うことに実感を持って気付き学び知り会得することになり、二度と自己拡大や自己満足に意識が戻ることはありません。

言い換えれば・・・此れまでの結果を無駄にしないためにも・・・自己縮小が必要なのです。
すなわち、此れまでの(前世を含めて)色々とあったことが・・・「終わり良ければすべて善し」の結果になるのです。
・・・更に言い換えれば・・・
自己縮小することで自己拡大の過ちに始めて気付くわけだから、このまま自己拡大を続けて地球・人類の破壊・崩壊(人間失格)になっていくのか、それとも自己縮小したお陰で自由平等の至福の時を味わえる新たな地球人類になるのか、その選択・生き様を問われているのが・・・今・現在ということです。

今まで通りに比較競争し差別するように・・・他と比べて己をより上に位置づけようとして自己拡大を続けている限り、それを成しても自己満足で終わるから直ぐにまた欲しくなり(絶え間ない欲望が続き)、今までと同じ喜怒哀楽・生老病死を意識した生き方・生き様から離れることは出来ません。
しかも比較競争・差別社会からも抜け出せませんから、山・谷・坂・壁ありの苦汁の人生しか味わえません。
更に、あらゆる有事に対処できる精神力・自力の欠乏はもちろんのこと、この先に待ち構えている予期せぬ真坂の有事によって二度と立ち上がれないほどの精神状態に陥り、自らが破滅・破壊の道を辿ることにもなるのです。

ところが自己縮小を実践していれば・・・此れまでの自己拡大・自己満足が本当に馬鹿らしいことに思えてくるのは事実なのです。
そして実際に実践していれば高望みすることもなくなり・・・喜怒哀楽や生老病死を意識しすぎての悩み苦しみや迷い混乱することも次第に無くなりますから、常に心が安らぐようになるのです。
だから実践することが落ち着きのある楽しいことになり、苦悩・苦渋とその自己満足の自己拡大に戻ることもありません。

有史以来「自己拡大」することしか意識してこなかっただけに・・・「自己縮小」という内容に違和感を持つのも当然ですが・・・ 原因・事の始まりから間違っていたことを学び知れば簡単に分かってくるのです。
それを教えてくれているのが・・・良い悪いを持たない(山田耕栄さんの)「完全真理」なのです。
そして「信じ」切れるのか・・・ 中途半端で止まるのか・・・ 否定反発するのか・・・ 知らぬ存ぜぬで通り過ごすのか・・・ それはその人の意識次第です。

自己満足の愛・自己満足の幸せvs至福・心の満足

2009年08月16日 | Weblog
自分さえ良ければの個人意識を持っている限り<幸せ>はありません。
自己中心の個人意識を持っている限り<愛>はありません。
だから個人意識の「幸せ」「愛」は自己満足の幸せ・愛になります。

自己満足ではない本物の愛・幸せを知らなければ、自分が<幸せ・愛>の人にはなれません。
その幸せ・愛は自分の中にあるものを「あるがまま」に出すだけで、他力から幸せ・愛を叶えて頂くものではありません。
また、愛を見える形・結果で頂くのではなくて、・・・自分の心・意識で感じて頂くものです。

自然体の「あるがまま」に出ている本当の愛は自分が「出した」と思っていませんから、・・・自己満足にもならないし、もう過去のことだからすっかり忘れます。 ・・・すなわち「感謝されたい」「感謝して欲しい」「喜んで欲しい」と言うような「恩着せ」意識も、返礼・見返りの期待感すらありません。

人様から頂いた愛の「形」は自己満足になりますが、・・・人様から何気なく出されている(あるがままの)愛を自らが「感じて」頂いた愛は至福の満足で心が満たされますから、いつも心の奥に暖かく感じています。
だからそれ以上のもの(価値観)や多く(回数)を欲しがり求めなくても十分に思っています。

しかし自分が「求めた」形の愛が叶えば、それは自己満足になりますから・・・ また次も欲しい、できれば以前より大きい愛が欲しい、(もう慣れ飽きたから)変化に富んだ目新しい愛が欲しいと、依存心・依頼心・おねだりが強くなり、また当然ながら前もって期待するようにもなります。
そしてその期待が外れるとがっかりするだけではなく、そんな相手を責めることも当然のことのように思ってしまいます。

夫や妻や我が子・家族のためにと思い思惑・目的を持って出した結果の愛は自己満足の愛になります。
だからその結果が気になり、その結果を相手から聞きたがります。
その聞き出した内容・結果が自分の思惑と一致していれば自己満足しますが、それと違った結果を聞けば不平不満をあらわにします。
・・・すなわち、自分に都合良く行っている内は自己満足しているが、ちょっとでも都合が悪いことになると・・・自分が愛を出して与えていると(自惚れ慢心)思っているだけに、その相手に「裏切られた」という感情を持ちます。

そんな自己満足の偽善・愛を授受し合っているのが個人意識の我々です。
完全な神・愛に裏切り関係は一切ありません・・・ 愛を満遍なく当たり前に出しているだけです。

愛は形で見聞きするものではなくて感じるものですから、その愛を感じられるような意識力が必要になります。
その意識力を高めるのに邪魔しているのが「自己満足」です。
すなわち自己満足の中に愛は無いのだから、その自己満足を追い求めている内は(目先の自分の事で精一杯だから)愛を感じるだけの意識力・感性は身に付きません。

とは言っても・・・自己満足を否定しているものではありません。 本当の幸せでも愛でも無い自己満足に気付かないでいるその意識が問われているのですから、・・・出来れば・・・その自己満足に自らが気付き、それを素直に認めればそれでいったん終わりますから、後日まで引きずり・こだわり未練執着を持たなくなります。

形では無い満足、心・意識で感じる満足、言葉形で表せない満足・至福は・・・ 大きな特別の中にはありません・・・ 思い願っていることの中にもありません・・・ 理想や目的に達した中にもありません・・・ 頭の中の判断にもありません・・・ 「自己縮小」した意識の中にある・・・ 大切な空気のような存在・・・皆に大切なものなのにそれをいっさい主張顕示誇示しない・・・ 有るようで無いような、無いようで有る「空」が愛と言われています。 

自分の持っている個人意識のすべてを知る実践真理

2009年08月13日 | Weblog
良い悪いを持たない「完全真理」は実践真理ですから、知ったことを実践してみなければ単なる記憶で終わり、言うだけの真理で止まって悟り知るところまで行きません。
それでも先ずは完全真理を知ることから始まりますから、山田耕栄さんの講演会に参加したり出版本を読んだりすることも重要になります。 ・・・私は講演会の録音テープを寝る前に順繰りに繰り返し聴くことから完全真理を学び知り気付くことも多くありました。

そんな知識を積み重ねることよりもっと大切なことは・・・まず知った知識・真理を日々自分の意識に照らし合わせてみるのです。
そうすることから完全真理で言われているところの「自分さえ良ければ」の個人意識を持っていることに気付き知ります。
例えば・・・プライドなんか持っていないと自信ありげに思っていたら、そのプライドの裏の劣等感を持っていて、いつも人と比較して負けたくないから頑張っていたのです。 すなわち劣等感からプライドを出していたことに気付いたのです。

また・・・劣等感は持っていても自己主張・顕示・誇示するほどの特別なものを持っていないと思っていたが・・・暇で退屈だから山道や神社や廃屋の草刈を自主的にして自己満足していたが、自己満足だけに「私が」したことを人に言いたくなるのです・・・すなわち主張顕示しているのです・・・ こうしてブログに書くのも主張顕示誇示・自己満足です。

また・・・過疎地で呑気に暮らしているから怒りなんか持っていないと思っていても、ヤギや鶏で少し気に入らないことになれば・・・口癖で「くそどれ・・・「ほんまに・・・と何となく腹を立てています。
だから今は怒りとして大きく出て無くても「隠し」持っているから、この先にいきなり爆発したように怒り出す事や破壊意識になることだってあるのです。

その怒りの原因が不平不満にあるのですが、その怒りが嫉妬心にもなるし、ことの分からない分からず屋や忌み嫌うものや憎い相手を懲らしめてやっつけたがる仕返し復讐心にもなり、それが虐めや暴力や破壊・戦争にもつながるのです。

そして自己満足から自己主張・顕示・誇示にもなるし、私は良い事をした、私は正しいことをした、私は常に正しい・・・と自己拡大に思えてそれがプライドにもなり、自分より劣るものを見下して同情したり、その劣るもの(悪いもの)を何かと(認め許せなくて)否定・排除・更正させたがる(悪いものを指導教育改善して良くしたがる、悪いところを切り捨て除いて良くしたがる)潔癖症や正義感まで持つようになったり、そんな正しいはずの自分に否定反発して歯向かう分からず屋がいれば許せなくなって、自分も偉そうに反発して言い争い執着し、その味方・仲間・賛同者が互いに寄り集まれば抗争・闘争や戦い争うことに拡大していくのが・・・良い悪いで比較競争・差別する個人意識なのです。

すなわち「良い悪い」で判断している限り(今は出ていなくても)、個人意識と言われる<すべて>を隠し持っているのです。
・・・私は「持って」いないわ・・・という人は・・・自分が気付いていないだけです・・・そして「私は正しい」をもっているのです。

そこで「良い悪い」を無くしていけばいいのですが・・・絶対と言っていいほど無理なことも分かりました。
・・・その当時の山田耕栄さんも・・・どうやら無理だと思ったのか?・・・何事にも「執着」しなければ忘れることになるから・・・と講演会で話すようになりました。

それからと言うものは・・・完全真理を知っての意識の実践ですから・・・持っている個人意識が出るたびに、その個人意識が出たことに自分から気付き、それを言い訳正当化せずに、素直に<認める>ことで「執着」しなくなることが分かりました。

ところが「言い訳正当化」したくなるのが人間ですから、その言い訳正当化することに執着すれば自己主張にも顕示・誇示することにもなって引っ込みがつかなくなり、尚も頑固な執着で問題となり、更に問題拡大にもなっていくのです。
・・・あっさり認めて謝るなり反省すればそれで終わるのに・・・ちょっとしたどうでもいいことが、どうにもならないことにもなるのです。

それが加害者の立場でなくて「被害者」の立場であっても、その被害を主張・顕示・誇示せずに(執着せずに)、お互い様・お陰様の関係であることを素直に認めればそこで終わるのです。

とは言っても今の世間に通用しません、まして自分さえも無理なのですから人様に押し付けるものでもありません・・・すなわち他人事ではなくて自分の意識が問われている実践真理なのです。
その実践で個人意識のあらゆる問題を知り深めて学び悟り、素直に認めて「すみません」と謝ることも、また相手を「認め」ることも、また「許す」ことも実践していかなければならないのです。

とにかく「完全真理」を学び知り、実践意識でさらに真理を深めていかなければ上っ面だけで終わるかもしれません。

老後の擁護や要介護を最低必要限に抑えるのが肝要かな・・・

2009年08月11日 | Weblog
私のすぐ近くに要介護の80歳のおばさんが、他県にいる親孝行な息子の誘いを何度も断り・・・本人が言うには、数日間でもお互いが気兼ね・気疲れするのに、同居となればもっと無理が多いからと・・・今も単身で暮らしています。
・・・年老いた頃の脳梗塞で片手片足が麻痺しているから、家の中で何か行動を起こすときは這いずるようにしています。
それでも炊事洗濯から用足しまで自分ひとりでやっています。 また庭先に這いずり出て草むしりをすることもあります。

それでも足腰が痛いときも多く、そんなときでも気丈に振舞ってはいますが、本人が言うには・・・苦役を言ったところで楽になるわけでもないし、親切な人が代わりに背負ってくれる訳でもないから・・・とあっさり言ってのけます。

一週間に二回ヘルパーさんが一時間ほど来ていますが、食料などの買い物をして届けに来ているのが主な仕事で、掃除機を使ったり重たいものを動かし片付けたりする程度で、残った時間はおしゃべりをして帰っています。
また一週間に二回リハビリと入浴や昼食を受ける施設から送り迎えされています。

そして自力では出来ない困ったことがあれば、山一つ離れた所にいる姉妹に用事を頼んだりしていますが、ちょっとした用事なら私に電話をしてきます。 それ以外は日中独りでいる時間が多く、時たま知人やが訪れておしゃべりしているときもあります。

そんな暮らしぶりを9年間ほど見ていて気付いたのが・・・家族の擁護や施設入所で至れり尽くせりで過保護にされるよりかは、何かと不自由であっても自力で出来る限りのことは自力でやり、また多くを望まずに暮らし、どうしても必要最低限の無理なことだけに他力を使う暮らしぶりであれば・・・金銭的にも楽だし、人様に気づかれしないですむから呑気に暮らせる、そして先ず体を使うことが多いから早期の寝たきり老人にならなくてすむこと、そして何より他力に甘えないからその他力を使う頻度が僅かだから、頼まれた人も面倒がらずに気持ちよく来ていることです・・・互いの話し振りや笑顔を見れば分かります。
だから、おばさんを知る者は・・・おばさんに頼まれたら断ることも出来ないと冗談めいて本心をも言っています。
だから近隣縁者に限らず時々様子を見に訪れる人が多いのです。
・・・だから同じ自治会の中で一番人の出入りが多くにぎやかな所になります・・・

介護を仕事にしている人でも、また優しい家族が面倒を見ていても、介護を受ける人が甘えん坊だったりして面倒をかけることが多すぎると・・・世話をかける頻度が多すぎると、いつしか(意識では)厄介者扱いになりますから、いくら仕事とは言え家族肉親とは言えても
、その日々毎日を心穏やかに接することが出来なくなります。
そして、そんな不機嫌な仕事振りや世話振りを目の前にしている受ける側も同じく不機嫌になります。

だから人様にも自分にも決して甘えることなく、使える限りの自力を使い果たしている状況の中で、どうしても他力に甘えなければならない必然のときにだけにすれば、自ずと生きる張り合い気力が出てきたり自力が増したりするし、四六時中の擁護・介護ではなくなることから世話人の余裕時間が多くなり、お互いに笑顔も出るというものです。
だから擁護・要介護を持つ側も、それを受ける側も、それを我が身に振り替えて省みれば多くが見えてきます。

そして、いくら想定できる限りの形を金銭関係で整えていても決して思い通り・期待通りには行きませんが・・・意識であれば意識したような結果が必ず出ます。
だからその老後のことや擁護・介護の「形」を優先させる意識よりも、自分がどのような意識になっていればいいのか、それを意識していれば自ずとその道が開けて見えてきます。

結果「形」を見てあれこれ思う前に、その結果の元である原因「意識」が<すべて>であることを知ることが肝要です
 

この世は<差>を付けた「自己満足」で成り立っているの・・・

2009年08月09日 | Weblog
私たち人間が「良い悪い」を持って生きている限り、その<差>を付けて「自己満足」したいがために生きていることになります。

それがたとえ衣食住であっても、他と比べて自分なりに自己満足したいのです。
その自己満足が叶わなければ不平不満に思って、その不平不満を減らすべく頑張ることでまた自己満足できるのです。
だから次々と欲しがってそれが叶うと自己満足し、また次なるものを欲しがって頑張りだす、その繰り返しを続けているのです。
だから経済発展が伴うのです。
だから経済発展なしでは自己満足できない世の中になっているのです。

また名誉肩書き・権威権利を欲しがるのも、自分の野心・野望をかなえて自己満足したいのです。
また世間的にカッコよく見せるための自己満足や、偉そうに威張れる自己満足でもあります。
また世間体や見栄を気にするのは、プライド・自尊心を重んじることで自己満足しているのです。
また伝統風習・道徳や常識を守り維持することでも自己満足しています。

また同じく、ヒーロー・主人公や英雄になりたがるのも自己満足を求めていることであり、その甲斐あって大勢の人から憧れ羨ましがられることで自己満足を満たしているのです。
周りの異性関係や同性関係の中で他と差を付けた人気者になって自己満足したいのです。
学業・成績を上げたいのも差を付けて、人様に認められたい思いを成して自己満足したいのです。
絵画芸術・音楽や職業でその道を極めるのも、他と差を付けて自己満足したからです。
色んな趣味嗜好娯楽に興じるのも、すべて自己満足(主張顕示を含めて)のためです。
矛盾や妥協や違和感がある映画ドラマ演出ものに感動感激するのも、自分が登場者・出演者の気持ちになって(なりきって)自己満足できるからです・・・ だから錯覚して出演者・俳優に憧れたりするのです。

社会問題化にして自己主張するのも、そう言う「私が正しい」と主張顕示するのも、自己満足しているから言えることなのです。
援助・救済・人助けを掲げるのも、「私が正しい」と自己主張・自己顕示して自己満足したいためです。
人を差別で見て気の毒哀れ可哀想に思うのも、自分がそんな立場に立っていないという安堵感と優越感の自己満足になります。
特別な偶像崇拝の神を信じているのも、特別な安堵感と差のある優越感・自尊心で自己満足していたいのです。

皆が皆同じ同等意識ならば絶対に自己満足も主張顕示もありません。
逆に言えば、皆と差を付けることで自己満足したいのです。
だからこの世は自己満足で成り立っていると言えるのです。

そして大きな自己満足を欲しがるほど、それだけの気苦労や労力や特別な才能が必要になります。
だから万人向きではなくなり特別な差のある自己満足になります。
そして大きな事を成したと自己満足すれば、それだけにそれをいつまでも持続させておきたい欲も出るし、それで十分だと思わなくなり、それ以上の自己満足を欲しがるようにもなります。

そんな比較・競争の<差>のある満足、判断・価値に差がある満足、特別な満足であれば(普通ではないから)・・・顕示・誇示したがる欲が出る、また誰かが忌み嫌い羨み妬む心が出るから・・・ その差に素直に納得できませんから満たされたことにはなりません、すなわち自分が出した結果を自分が勝手に拡大評価して自己満足していることになります。

ところが大したことでもない有り触れたことで満足を知ると・・・他愛ない満足、無理のない満足、欲張らない満足、満足したとはいえないが満たされている感じであれば・・・ それらを誰もが気楽に満足を味わえることから言えば、(満足は満足だから)同じ満足なら満足に<差>はありませんから、特別な「差」を見せつけることにもなりませんし、自分が満足したことにそれなりの納得説得があります。
だから(自己満足であっても)それだけで十分な気持ちにさせてくれますから、無理に多くを欲しがり求めなくなります。

だから「大きな結果」よりも「小さな結果」の中にこの世の真実が隠れているようです。

自己満足であっても、小さなことに満足できるようになれば大きな満足が必要なくなるのは確かです。

2009年08月08日 | Weblog
自己満足すると・・・もっと欲しい、もっとハード・レベルの高いもの、もっと希少・価値の高いもの、もっと別な新たなことを求め欲しがるが・・・
満足を味わうと・・・それだけで十分だから、それ以外のものを多く捜し求め望まないようになります。

例えば・・・大衆的なサンマやサバを美味しく頂いているとそれで十分ですからあまり高級魚を求め欲しがりません。
それでも此れまで味わったことがない食材や調理例があれば一度は味わってみたいものです。
そしてその食べたときの記憶をよみがえらせば、その時の味覚や視覚聴覚・状況を思い出すだけでも・・・(人間は意識で生きている意識体ですから)食べた「気」にはなれます。 それを言い換えると・・・不味い思いをしたものは欲しがりません、恥をかきそうになったことを思い出せば止まることも出来ます、パチンコで勝った時の事を思うと行きたくなるが、負けた時のことを思えば行かずにすみます・・・
すなわち、知っていることを意識すればそれで確かめられるから、(欲さえ出なければ)実際に行為行動しなくても意識で納得していれるのです・・・ すなわち一度「至福・満足」を味わい知れば、いつでも至福・満足が蘇ってそれを意識で味わえるのです。 

だから、また食べたいと無理をしたり、未練がましく我慢したり、とにかく拘り執着しませんから、またチャンスがあればそれで十分ですし、二度とチャンスがなくてもそれで十分なのです。
ただ空腹だけは我慢できませんが、その空腹が何でも美味しい味にしてくれます・・・だから食べ飽きることはありません・・・だから食材の選択に迷いすぎたり食べ飽きることは贅沢の内に入ります。
ただ多様性の世界ですから、欲の無い・無理のない必然から新たに知ることは幾らあってもかまいません。

また「車」でもそうです・・・A点からB点までの運行に支障がなければ車の役割を果たしてくれるからそれで十分です。
だから以前とは違って最新型や新車に拘ることはありません。 また車体の傷や凹みも気にならないからおんぼろな中古車で十分です、だから街中を走る車としての見栄えは最低の最低です。 だから相手の一方的な不注意で接触して傷が付いても修理代を請求することにはなりません。 それより相手の綺麗な車が気の毒に思います。

また立派な家具調度品や快適便利な設備品に溢れた街中の家屋を離れて今は過疎地の廃屋を修繕して暮らしていますが、今は最低限の家財道具設備もその機能を果たしてくれるだけのリサイクル品で十分です。
また過去の贅沢三昧していた頃の着衣も相当ありますが、街中に出かけるときでも機能性十分な質素ななりで十分です。

と言うように・・・過去の私は趣味嗜好娯楽を言うに及ばず見栄や世間体やで、出来る限りの贅沢三昧をあれこれとやって自己満足していただけに・・・その自己満足と「満足」との違いを身をもって知ったのです。
そして同じ自己満足であっても・・・小さなことに満足できるようになれば大きな満足が必要なくなるのです。
・・・だから以前のような大きな自己満足の生活・生き方・人生観に二度と戻ることはないのです。
すなわち、大きな自己満足を求めないから質素倹約で十分な生活ができるのです

また、あらゆるしがらみを意識しなくなったし、最低限に近い生活ぶりで満足しているから過去の未練や執着がありません。
また、(大したものを持っていないから)他から守り闘う拘り執着もありませんから、性格的にはわりとあっさりしたものになりました。
だから癌などの死につながる重病も平気ですから・・・健康診断はもとより早期発見の検診を受ることもなく、この先特別な薬剤や医術で病気や死から守り闘うこともしないでしょう・・・

とにかく真理に沿った実践とファバラエネルギーのお陰様で健康一番で生きながらえ、要介護の病気や寝たきりの老後にならないような生き様を意識してそれを実践していきます。
それにはまず不平不満を持たないことです・・・すなわち良い悪いで判断して<差>を付けたがる「欲」を持たないことでもあります。
そうすれば思い悩み迷うことも、不安心配・恐れ恐怖・怒り・嫉妬復讐心を持つことにもならないから、それらの苦悩に対して浪費する意識エネルギー・生命エネルギーの無駄使いがなくなり、精神・肉体共に元気な生き方が出来るものと信じております。

そして死ぬ時、その時が来たら・・・人生色々とあったがそれでも楽しかった、未練も執着もない、人間に生まれて良かったと感謝の気持ちで人間を終えれば、それが最高の生き方になるのでは・・・ないの・・・
それとも・・・こんなはずではなかったのに・・・なんで私が・・・と悔しがることになるのか・・・ あの世へ行かない限り分かりません。

「見えない」あの世のことを知るために「見える」この世が宇宙・神・愛により創造されている・・・

2009年08月06日 | Weblog
人間は意識で生きていますから「意識体」と言い表します。
すなわち人間と言う形の原因は意識にあり、その結果が肉体・形になります。
すなわち「見えない世界」が原因であり「見える世界」が結果になります。
すなわち形ある現代科学や医学や政治経済・環境・生活は原因あっての結果ですが・・・その結果がまた別な原因になり、その原因がまた結果を出すと言う、その繰り返し・積み重ねの連続がこの世ですから、大元の根本原因をまったく見ていません。

例えば不平不満の原因は・・・衣食住や名・権・財などの見える結果・形が原因ではなくて・・・実際は「良い悪い」で思い考え判断している「意識」に原因があります。  しかもその不平不満があるのが当然に思ってもいます。
また人間が動いて生きている結果は科学や医学で言う栄養成分と言う「見えるエネルギー」のお陰ですが、その元となる原因は生命エネルギー・命の灯火とか、宇宙とか神とか愛とか言われる「見えない」エネルギー出力・・・すなわち宇宙・神・愛と言われる意識(体)から出ている「見えない」意識エネルギーが融合変換されて・・・現代で言われる栄養成分と言う「見える」エネルギーになって・・・その見えるエネルギーのお陰で人間の肉体が動いています。

すなわち「大元の原因」は見えない世界にあり、その原因が結果となって現われているのがこの世の「見える世界」になります。
すなわち「見えない」あの世のことを知るために、いま「見える」この世が宇宙・神・愛によって創造されたと言えるのです。

ところが肝心なことに人間は「見えない」ものはなかなか信じませんから、いつの間にやら「不信感」を持って生きていて、その見えない敵・思い考え想像した仮想の敵から実害・被害が起きないように用心するのが当然と思っていますから、その為には前もって「完璧」な防護壁や頑丈な門や扉を備えていなければなりません。
そしてその完璧な世界の中で「井の中の蛙」同然の生活をすることで不信の心を仮の安心にすり替え、また自分に不都合なことは寄せ付けずに守り戦い抜き、もし不都合が起きれば直ちにそれを完璧・潔癖に否定排除するために守り闘います。
 
ところがなんと自分に都合が良いことだけは(良いとこ取りする欲があるから)素直に扉を開けて受け入れるように・・・自分たちの都合でしかこの世を生きていません・・・それを自己中心の個人意識の世界と言います。

そんなことから心に強固な壁や頑丈な扉を持って自己擁護・自分を守り闘っているのだから、そんな心の人に宇宙・神や愛の意識エネルギーが届けられることはまずありません。
そうすると、元々持って生まれた生命エネルギー・命の灯火・意識エネルギーがどんどん消費されてか弱くなります。
それでは大変と科学・医学の人工的なエネルギー・力で直ぐに結果が出る体力増強剤や薬剤・医師に頼るような生活になり、それが積み重なっての薬漬けの毎日や入退院を繰り返すことにもなり・・・生きていても廃人同様の生き様になることが多いようです・・・

そんな不信感の強い人に実在する「見えない世界」をいくら説明しても心の扉を開けようとはしません。
ところが体力が弱ったり入院加療ともなればこれまでの生き様の後悔反省で少しは心の扉が開くことになる場合があります。
言い換えれば、あの世の仕組み・必然から「注意信号」が出された格好になりますから有難い「チャンス」でもあります。
すなわち、不信感を持っていた「見えない世界」にも関心が行くかもしれません。
・・・特に「赤信号」で死に掛けた時ほど無関心だったあの世のことが気になるのが人間です。
それが「きっかけ」となって宇宙エネルギー・意識エネルギーの実在を知ることになればもっと心の扉が開くことになり、そのお陰様で意識エネルギーがどんどん吸収されることになれば意識改革さえも起こるようになります。

その「きっかけ」の役割をするのが宇宙・神・愛の完全意識から生まれた「ファバラ」意識エネルギー・常温核融合エネルギーです。
すなわち、「原因」である(見えない)意識エネルギーを高めることで、その見える「結果」が人体に現われるのです。
すなわち、意識エネルギーの出力が(常温核融合によって)此れまでの「見える栄養成分」だけに止まらずに、生命力・機能性を高めるエネルギーや過不足が無いように調和されたり協調が促されるなどの「見えない」エネルギーを作り出す結果になり、人体・五感・能力などの様々なことに作用することになるのです。
しかも意識エネルギーが高くなるほど人間の意識体そのものにも変化が起こり意識改革・変革されるのです。

そのファバラ効果・結果を実感体感して知ることで・・・その原因である「意識・命」の世界、宇宙・神・愛のエネルギーの実在を「信じ」られる人になり・・・やがて「不信感」も次第に消えていくのです。
そして不信感から「守り」闘わない平和な時・心が安らぐ日々が訪れるのです。

ところがそれでも「見えない」宇宙や神や愛の意識・命のエネルギーを本心から信じていなければ、この先に起こる「真坂の有事」によって宇宙・神・愛の「見えない世界」を信じるか否かの選択・白黒が必ず問われることになります。
その選択結果が見えない世界に不信感を持ったままであれば、必ずや死や病気に対する恐れ・恐怖を持っていますから、それが原因となって人工的な医学や科学の他力で自分の体を守ることになり、その肉体の病気や死の恐怖と戦うことになります。
すなわち「信じ」切れなかった不信感があるから病気や死と「守り闘う」意識を持っことになるのです。 

しかしどんなにあがいても、遅かれ早かれ寿命が尽きる人間の肉体の死は避けられません。
そしてその屍を残して命・意識は元の原因体に戻り、あの世の意識の世界で生き続けることになります。
ところが、見えない世界を信じることが出来なかった不信感(守り闘う意識)を持った愛の無い不完全な意識・命であれば、完全な宇宙・神・愛の意識の世界を見ることができませんから、見えなければ入ることは絶対に出来ません。

そしてもう二度と人間にも戻れないし、完全な神や愛の意識にもなれないままに、その中途半端な不完全な意識の世界・霊界でさ迷い続けながら、(辿り着くところは)愛・光のない暗い闇の意識の世界になります。

私が長年続けてきた宇宙エネルギー関連の実態とその実感

2009年08月03日 | Weblog
始まりなき終わりなき宇宙は全知全能のエネルギーで満ち溢れていますから進化拡大し続けています。
その元からある宇宙を一つの「命・意識」とすれば、その大元の宇宙の命・意識に包まれ創造された新たな命・意識(体)が宇宙銀河であり太陽系の地球であり人間・万物ですからから、そのすべてが宇宙の命・意識・全知全能のエネルギーの内に実在していますから、一神にして多神の関係で何一つ宇宙とは離れていません。

その大元の全知全能エネルギーを宇宙の「意識」エネルギーと言い表してもいるし、宇宙の「光」エネルギーとも言い表していますが、何れにしろ現代科学で特定してそれを測定することができない「見えない」エネルギーであることは確かです。

ところで・・・人間として生きている時は科学的に言う栄養成分で生きていることになっていますから、あの世の魂の世界・意識次元の世界へ行けばその栄養成分は不要になり、先ほどの自らが持つ意識エネルギーと宇宙に充満する意識エネルギーで自らの命・意識が生きていくことになります。 

その人間の肉体を動かすエネルギーを栄養カロリーで表していますが、人体が摂取した栄養カロリーの4分の1ほどは脳の機能に消費されていると脳科学で最近言われています。
道理で神経質な人がやせていたり楽天的な人が太っていたりするのも概ねあたっているような気がしますが、当然摂取する量的な関係が影響している場合もあります。

その直接的な肉体エネルギー(行為行動エネルギー)以外にもエネルギーが使われています。
例えば・・・脳内や体内の神経細胞を流れる微量電流=指令・伝達エネルギー、また記憶力・判断力・精神力・意識力・生命力と言われる能力・エネルギー・・・ または意欲・やる気・気力、気兼ね・人見知り・羞恥心、劣等感・プライド、善悪・優劣の判断や損得計算、不平不満・不安心配・怒り恐怖・嫉妬復讐心などにもエネルギーが使われますが、それがどんな栄養成分を使っているかは定かでは有りませんから、それを精神・神経を司るエネルギーすなわち意識エネルギーとするのが妥当と思われます。

そこで重要になるのが肉体的エネルギー(行為行動エネルギー)より、その元となる生命・意識に関わる部分に使われる意識エネルギーです。
体力的な栄養カロリーは良いとこ取り(栄養成分抽出)の人工的・科学的な物質で補充しやすいが、科学などで作れない意識エネルギーは生きる元となるエネルギーでもありますから、万物の生命から生きたエネルギー・意識エネルギーをそのまま丸ごと摂取(伝達・転写・記憶)しなければなりません。
もちろん生物・鉱物などの直接摂取・消化吸収することで栄養エネルギーと併せて若干意識エネルギーも一緒に得ることが出来ますが、しかし脳内で使われる物質エネルギーが半端でないように当然意識エネルギーは相当多く使っています。
しかも肉体的疲労は薬剤などで回復しやすいけれど精神的疲労は簡単に消えないから深刻な状態になりやすいのです。

ようするに、精神的疲労と肉体的疲労を他力の栄養剤や治療薬で何とか誤魔化しているのがこの世に多くあります。
だから精神的な疲労・ストレスが影響して一見健康そうだが肉体的にも精神的にも万病持ち予備軍であったりするから、その先では重度の要介護者や自殺者が増えたり精神病を患う人がどんどん増えていくのです。

そこで結論を早めると(私の此れまでの見識ですが)・・・宇宙意識エネルギー関連の「ファバラ」製品を愛用しても効果効用が早く現われない人の多くは、「意識」エネルギーを相当に浪費しているのか、愛用する以前から意識エネルギーが相当に欠乏していたものと思われます・・・万病持ち予備軍や要介護予備軍の可能性がある・・・ 

そのファバラに限らず世界中の宇宙エネルギー関連で効果効用の結果が出ている人が大勢いるのだから結果は出ているのです。 だから結果が出ていないのとは違います、出ていてもまだ表面的に気付けないでいるのです。
だから「知った」限りは「信じる」ことからはじまり、次に信じるからこそもっと「知りたがる」、その知りたがることから必然で更に他の高度な情報を知ることになる。
・・・その繰り返しを何度かしているうちに、この世で完結となる完全真理とファバラに巡りあえたのです。

そこでどうやら分かってきたのが、本人の「意識力」が低いとその分だけエネルギー吸収率が少ないようです。
その意識力の低下の大半が・・・誰もが持っている「不信感」疑心暗鬼・半信半疑にあります。
その不信感を持っているのに・・・思惑が強くて高望みをする人ほど期待はずれで愛用期間が一ヶ月から3ヶ月で終わったり、それなりに結果が出たことがあっても長くて半年一年で心変わりしています・・・それがまた不信感にもなって(せっかく知った)宇宙エネルギーを意識しなくなる現実・事実があります。

と言うのも・・・今までの過去15年間の関わりで必然・ご縁があった人たちが延べ3百人ほどいましたが、もし今も引き続き信じてやり続けていれば・・・この世に一つしかない完全真理とそのファバラ・エネルギーにつながっていたのに・・・と思うと残念であり勿体無いことに思っています。

それが・・・長年続けてきた宇宙エネルギー関連の実態とその実感です・・・