孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「実践できない」から<実践する>ことがが言われているその矛盾があります。

2013年05月22日 | Weblog
巷の精神世界を知らずにいても、
「楽に」生きることからしてその行為行動表現&実践が完全な矛盾の無い真実の精神世界の学びにもつながっていきます。

何たって不平不満が出るようでは気楽&楽に生きていけませんから、その不平不満に気付けば自らが自問自答してその原因&行為行動を省みる事になります。
そして何処かで無理をしていたことに気付くことになれば(楽に生きるために)その修正のための実践が必然でなされますから、その結果からして言えば既に精神世界に係わっていてその実践をしているのと同等になります。

また楽に生きる実践の中に「楽しく」生きることが含まれていれば、それが矛盾の苦楽となって必ず現れ出ますから、その苦楽の中の「苦」を味わっていれば「楽に」生きる事に反していますから(矛盾していますから)、そこでまた自問自答することになれば、その楽しく生きたいというその裏が出て心労苦労している矛盾を実感でもって気付き悟ります。

その気付きと自問自答と更なる気付きを繰り返しをしているうちに矛盾意識が(成り行きからして)(自然体&無理なく)少しずつ修正改革されていきます。
となれば自己縮小という教え導きを知らなくても、それに向けた実践が既に成されていることになります。

ちなみに精神世界の説教でもって自己縮小の実践の必要性を学び知った場合は、
その実践がまだ成されていないだけに、どうしても「実践しなければならない」と思い込み、その思いが先走る&先立つのが大方でしょう。
(ちなみに私の場合は自己縮小を知る以前から既に実践になっていました)

また既に先祖供養や親孝行が出来ている人であれば、それは精神世界&信仰宗教の教えに従っているのではなくして、元からしていつの間にやら先祖供養や親孝行になっているはずです。

だから巷の精神世界の説教&外形が先ではなくして、己の意識の中に自らが<気付く>と言う精神世界が基からしてあるのです。
ゆえに自らが気付きながら自らが修正しているのです。
それが本来の精神世界だと思います。

ちなみに「実践しなければならない」と思った人はその実践にはまだ到っていないからその実践の必要性に気付いた事になりますが、気付いたからとてすぐさまその実践が出来るはずはありません。

それを手短に言えば「実践できないから」その「実践をしなさい」と教えられているようなものです。
もっとはっきり言えば未だに実践できていないことを今から実践するのは相当な無理難題があります。

それを言い換えれば精神世界の形に頼るのは自らの「自力でもって」<成せない>その実践力精神力の弱い人になります。
ちなみに神社仏閣のお守りやおみくじを買ってそれに期待祈願するのと似通った意識でもって精神世界&信仰宗教に係わっているようなものです。
だから大勢の人が集まる神社仏閣や名だたる信仰宗教や神懸り奇跡の超能力や念力霊力やの人並みはずれた能力に魅せられているのです。

その実践力精神力の自力自信が有っても無くても、
とにかく自らに出来ることをやりながら気楽楽チンでもって生きていれば(他をよそ見することがなくなれば)(外を気にしなければ)その心身の余裕&内在心からして「気付き」が起こるのです。

何故ならば生まれながらにして自らの中に(宇宙・神・愛なる)我神なりの内在神&内在心&意識命を持っているからです。
だから精神世界の形を知らずにしていつの間にやらその実践が出来ているのです。

だから巷の(他力依存的な)(形道理のお仕着せ的&服従的な)精神世界を必要としなくなるのです。

すなわち自らの自力でもって気付くからこそ自らが動くことが出来るのです。
それなのに対外的な精神世界を知ってから動くのでは遅すぎるのです。
だから実践できないのです。

だったらせめても無理の無い楽チンで穏やかに生きながらにして自らの精神に自問自答すればいいのです。
すなわち自らの「肉体」「感情体」で生きるよりも<精神体>で生きることを意識していればいいのです。

神仏霊魂&宗教も超能力&霊力も巷の精神世界も必要なく、自由公平な「楽に生きる」実践。

2013年05月21日 | Weblog
巷の冠婚葬祭の風習や神社仏閣&神仏霊魂の世界や信仰宗教に違和感があって60歳近くまで精神世界をまともに意識したことがありません。
その違和感が神社仏閣や信仰宗教に係わる人たち&集団のための精神世界(人集め金集め物売り勢力権威権力のため)に思えていたからです。

だから盆暮れ正月や冠婚葬祭の神社仏閣の参拝や仏壇やお墓参りやの法要やまた古今東西の信仰宗教の説教形式風習に違和感があって、それが「何で」になって潜在意識に積み重なっていました。

ところが興味本意から知った無限エネルギー&宇宙エネルギーの実在が人為的な念力霊力や神懸り奇跡の超能力にもつながり、そして完全真理のお陰ですべてがつながり、それら全てが私の中で「ひとつ」になりました。

それらをブログに書いているうちにいつの間にやら私の中の精神世界では「楽に生きる」ことが実践真理の本命になりました。

ちなみに「何で」の違和感だらけの(矛盾だらけの)信仰宗教の説教や形式&実践形態では信者だけの実践になることからして誰もが自由公平に実践できない弱点欠点があります。

また山田耕栄さんが説く完全真理を学び知った頃にも、その実践となると絶対的な無理があると感じていたのがその通りでした。
そして不完全意識ながらも無理執着の無い素朴な精神&意識になる、その自己縮小の実践が言われるようになったことからして、何だか私の出番が来たような感じでブログを書き続けています。

そして今では「気を楽にして」心身ともに<楽に生きる>ことを書いています。

すなわち不完全意識ながらも「楽に生きれば」その不完全意識&不平不満が出てこなくなるのです。
すなわち不完全意識の原因&源である不平不満が出なければ何事も無く平穏に生きていけます。
すなわち「苦」も無いが「楽」もない(特別が無い)(喜怒哀楽が無い)(当たり前&普通の)生き方になるのです。

それに神仏霊魂を信じなくても、偉大なる神様&教祖様を崇め奉らなくても、神懸り奇跡の超能力も霊力念力も必要ないし、まして布教宣伝&人集め金集めや人助けの慈善奉仕活動をしなくても、また自らも余計な出費も無駄な時間の浪費も無く、また何ら無理する必要もありません。

何たって「楽に生きる」実践ですから。

しかも幼い子供からお年寄りまでの誰もが実践出来ます。
また貧乏人であれ財産家であれ、肩書きが有っても無くても、何処で住んでいても、その実践をする人を選びません。
だから死に掛けている人でも実践出来ます。

しかも実践しなければ絶対に味わえません。
ちなみにその実践か否かは自由であり、実践した結果は皆に公平です。

そこで皆が実践すればいいのですが、人それぞれに異なる意識をもっていますから、残る問題は人間関係です。
しかしそれも実践する人だけのことですから(自己責任ですから)その人自らが自力と自信でもって無理も無く楽チンにして係わっていくしか他に道はありません。

すなわち当たり前の自力で成すことであって他力が絡まないだけに尚更に味わい深くなるのです。
ゆえにそれが自力と自信にもなり、それが先行きの安心安全にもなるのです。

しかも楽に生きることですから、親が子に教えるが如くに簡単明解ですから此れまでのような複雑難解な精神世界を学ばなくて済みますから、信仰宗教に入信したり仏門に下ったり冥想したり修行したりする必要もありません。

だから私に言わせれば(誰もが実践できる)(信じるか否かもない)(指導教育の授受関係の無い)(金銭物質や時間を浪費しない&心身ともに無理も無駄も無く余計な事にならない)極めつけの実践真理になります。

しかし世間では精神世界を特別仕立てにしている趣がありますから、何だか当たり前すぎて「ありがた味」(貴重品・高品質)(高貴・気品・気高さ)(価値観)がありません。

しかしそれが自然体&あるがままで特別が無く、嘘偽りのない真実&本物の証だと思いますが、皆さんはどう思いますか、

天にはばかる事無く楽に生きていけばいいものをそれさえも自信が無いのでしょう?

2013年05月20日 | Weblog
不完全意識の者が何か事を成してもその結果も不完全になるとその事実を書いています。
だから人を愛すればその結果も出ます。
だからして我生きていると実感でもって味わえます。

ところが過去の史実を見れば判るように、不完全意識の者が頑張って巨大なピラミッドを作ればその形は出来ましたが、そのピラミッドのお陰で自由平等調和になったでしょうか、しかし未だに得体の知れない巨大建造物でしかありません。

また過去に様々な帝国ができましたが、その帝国が現在まで続いていてそこの住民が自由平等調和で暮らしているでしょうか、しかしそうならずに帝国が滅びその痕跡残骸が虚しく残っているだけです。

だからあなたの愛情もそうなるでしょう。

また過去の釈迦やイエスが精神世界を説いてそれを広めましたが、そのお陰で自由平等調和になったでしょうか。

しかしこの世の何処の何を見ても不完全な結果しか出ていないのが事実なのです。

だからその不完全意識を修正改革するしか他に道は無いと自覚することからして第一歩が始まります。

その事を皆さんは既に承知しているはずです。
あとは実のある実践をするしかありません。
それもわざわざ田舎暮らしをしなくても今の場所で十分実践出来ます。

しかしながら皆がそれぞれに異なる思い考えの個人意識を持っているがゆえにどうしても己が独自の独自独歩で自問自答しながらの孤独な実践になるのは仕方が無いことなのです。

しかも不完全意識を持っているがゆえに何をやっても余計で無理で無駄になるのだから、それらを省いた楽な生き方の中でやるほうが心身ともに余裕が出てその分だけ精神世界の気付きが増える事になります。
すなわち自らが精神世界の中で生きる事になるのです。
またその道しかないのです。

ところがそれを良しと思わない(理解しない)人が身近にいますから何かにつけ苦言を聞かされたり、心を入れ替えるように論じられたり諌められたり、行くてに立ちはだかり邪魔する者が必ず現れてきます。

それでもってしても確かな実践が出来るその精神力&実践力が必要になるのは言うまでもありません。
ところがそれだけの精神力&実践力が無いからして未だに止まっている人が多いはずです。
仮にその実践力&精神力のある人であれば、このブログを読む以前からその自力と自信でもって既に独自独歩に歩んでいるはずです。

ちなみにあの世の天にはばかる事無く楽に生きていけばいいものをそれさえも自信が無いのが大方の人でしょう。
と言うよりもそれだけの理解力さえも得られていないと言うのが事実でしょう。

これだけ(私から)コケにされているのですから何か異論反論を書いてみては如何でしょうか、期待しています。

私は自分さえ良ければの個人意識丸出しで生きていますがそれを恥じてはいません。

2013年05月19日 | Weblog
私は自分さえ良ければの個人意識丸出しで生きていますがそれを恥じてはいません。
何たって天が意図して(原因からして)個人意識の人間を創造誕生させたのだから、その天に恥じなくても大丈夫です。
だから精一杯自分のために生きています。

ところが巷の精神世界では世のため人のために生きなさいとか説く輩がいますが、その輩自らが個人意識丸出しで生きていることを隠して聖人君子が如くに、神の遣いが如くに、神意識&宇宙意識が如くにして説教指導しています。

しかし私は先ず自分があります。
だから自分が楽しく生きる事にしていました。
しかしその為には(自分の為にも)係わる身近な人も楽しくさせる必然がありました。だから潜在的にくたびれていました。

それを60歳近くまで続けていましたが(結果的には)現在は人様のことはほっとくしかないと悟った気分でいます。だから楽チンになりました。

とにかく自分の事さえもままならない未熟者が何で人様の事情に係わることが出来るでしょうか、
すなわち未熟者が助け舟を出したり出来るでしょうか、
だからミイラ取りがミイラになるのと同じくして救助船が救助を求める結果にもなります。

また自分の船を抱え持っているのに(余裕が無いのに)何で人の抱え持つ船の中に乗り込んでまで操船操作することが出来るでしょうか、
何たって不完全意識の者が何を成そうともその結果も同じ不完全だからです。
ちなみにその結果として迷惑で余計なことを無理にして無駄なことになっているその事実があります。


と言っても(この世では)確かに他力も必要ですが、ところがその他力があるとそれに頼りたがるのが人間の癖にあります。
だから信じて頼る信頼という言葉が好きなようです。
だからその他力に依存する他力依存もどうやら都合がいいようです。
すなわち自力を使うよりも他力を使って自分の都合がいいようにしたいのです。
だからそれを人情や愛情の言葉にして大切に守ろうとします。

しかしその裏には不信感があり、しかも思い通りにならなくなると裏切りが言われ、結局は此れまでの経緯が水の泡の如くに消えて無かった事になるどころか恨み辛み妬みまで根強く残る場合があります。それが事実です。

ちなみに自力でもって自分の船を動かすのが役割であり使命です。
だから先ずは自分の船を上手に操船することが先決です。

そして必然のご縁からして助け舟を出す事になっても(共倒れにならないためにも)自分の自力を超えたことをしません。
だから世間を気にしてカッコつけずに、自分に正直に生きながらにして、しかも無理も無駄も無い気楽&楽チンにして余計な事に手出ししません。

だから個人意識丸出しでもって先ずは自分が生き残る道筋を探しながら(自問自答しながら)(学び知り気付きながら)ゆっくりと歩きます。
だから特別なものが無くても何とか生きていれば、それも何とかなっていくでしょう。それには自信ありです。

ところが(一般的には)それ以上を望む(欲張る)ことからして自らが泥沼に入り込みおかしなことになっているのです。
だから苦労することにもなり、この先々で自分の首を自分が絞める結果&有事にもなるのです。

巷の精神世界を知らなくても「人を見て我が身を見る」&「我を見て人を見る」があります。

2013年05月18日 | Weblog
私の知りたがる、やりたがる、その性格からして、また成り行き任せに生きていることだし、また面倒に巻き込まれたくないこともあって、ゆえに否定反発することにもなりません。

だから反対に必然にして私が事実を話してもそれを無視されたり否定反発されると面白くはありません、
またそれだけに尚のこと人が言っていることを無視したり否定&反発しないようになりました。
それゆえに(尚更に)知らないことを知りたがることにもなりました。

また自分が嫌いなことを(同じくして)それを人様に押し付けることにはなりません。
それと同じくして自分に出来もしないこと&自分がやりたくもないことを身近な相手に押し付け強要することにもなりません。

だから「人を見て我が身を見る」&「我を見て人を見る」ことになります。
だから巷で言う精神世界を知らなくても自らが精神世界を学び知り気付いている事に相当します。


私と係わる人の中に優れた能力や感性からして楽しく会話している機会があるのですが、しかし仕事に追われてオーバーヒートしているときは何だか近づき難い雰囲気を出しているときがありますが、そのことは本人も(イラついている事に)気付いているはずです。

それを私に置き換えれば、そんな私自身もまったく面白くない精神状態だし、そのままに人様と接する事で相手に精神的な迷惑を及ぼすことにもなりますから、そこで自らの心身に余裕が必要な事にも気付きますから当然その実践に向けた意識と行動になります。

しかも私の場合は楽しく生きたい性分からしてみれば「自分が損をしている」ことになりますから、その損から抜け出す術を意識することにもなります。

そして「気にしている私に原因がある」ことに気付いた結果として(成り行き任せなところがあるだけに)やはり気にせずに「ほっとける」心境&精神状態、すなわち執着しないでほっとくことが自分の為にも「得策」だと会得実感したのです。


また自分に起きた有事さえも他人事のように客観的&沈着冷静に捉えられることからして、動揺しない、感情的にならない、ゆえに執着にならない、そんな私にも気付いたのです。

そんな私から言わせてもらえば、
自らの意識でもって船を進めているのに何でその舵を取らないの、
ちなみに自らの船を動かすも止めるも自らが決めることです。

そして自らの意識でもって自らの意識に気付いたのに何でそれを活かす術を取らないの、
すなわち自らを活かす&生かす術を気付き知ったのに何でその方向に自らが動かないの、となり、

この世の大海に乗り出しているのに神仏霊魂やの他力任せにしていて大丈夫なの、
それとも漂流しているのではありませんか、
また目の前や足元(船底)に暗礁(まさかの有事)があることに気付いていなのでは、

それで本当に「真実を知る」「本物を知る」本来の精神世界を意識していると言えるのでしょうか、
ゆえに信じるか否かの不完全な精神世界、信じてた頼る他力依存でもってしてその結果を求める精神世界に染まっていませんか、

やはり自問自答が必要になりますね。

人間関係の中で重要なのは否定反発の無い聞く耳のある楽しい会話です。

2013年05月17日 | Weblog
私たちは楽しく生きていなければ尚更に愚痴や小言の不平不満が出てきますから、そのためにも気晴らしの(癒しの)趣味嗜好娯楽を必要としています。

ちなみに私が世間的な人間関係から離れているだけに尚更にその人間関係の必要性に気付いています。
そして私が望むのは不完全意識ながらも人と接するときに一番多いのが会話ですから、やはり会話が楽しければその人間関係も良好に推移します。
そのためには先ず否定反発や嘘偽りの無い会話が必要になります。
それに素直に聞く気になっていること、すなわち「聞く耳」があること。

更に会話中に機転の利いた突っ込みや即座に出るしゃれた言葉やユーモアな駄じゃれが入れば更に楽しい会話になります。
しかも様々なジャンルの会話が出てくれば次々と話題が変わるので飽きることも無く続くことでしょう。

また数人が集って単調単純簡単な共同作業を効率的に黙々と続けるよりも少しは会話の有るほうがその作業も楽しくなります。

だから私は映画アラビアンナイト&千夜一夜物語のように千日間の会話が一日にも思えるようなそんな会話が続くことを夢の如くに願っています。

そのためにも様々な見聞知識も体験経験もあるほうがいいのですが、ちなみにそれらが無ければ素直に聞く側になれば今まで知らなかったことを知ることにもなって結果的には有効な楽しい会話になります。

皆さんも夫婦の会話や我が子との実感のこもった会話(素直で穏やかな会話)で時の経つのを忘れた経験もあることでしょうし、予想だにしなかった機転の突込みや洒落た言葉や駄じゃれが突然出てくれば互いが顔を見合し思わず笑いがこみ上げてきたこともあるでしょう。

また仲良し仲間が集ったときに和気藹々の会話を楽しめたことがあるでしょう。
だから趣味嗜好娯楽に興じるものの、その形を楽しむことよりも会話のほうが楽しかったのではありませんか。
何たって会話の無い趣味嗜好娯楽は味気ないものですからね。

ゆえに同じ屋根の下でいるのにその会話の減った家族関係ほど孤独感を感じますからね。

だからこそ(何が無くても)否定反発&束縛制限支配の無い「調和の人間関係」があればそれで十分になるのです。

「実」のある<実践>

2013年05月17日 | Weblog
私が不完全意識丸出しながらも気を楽にして「楽に生きている」ことは事実です。

しかしそれが天国の一歩手前なのか地獄の手前なのかは私には判りません。
またそれが幸せなのかといえば幸せでも不幸でもなさそうです。

じゃ今が楽しいのかといえば楽しいとも面白くないとも言えません。
じゃ苦労しているのかといえば楽チンにしています。

そして安心安全な心持でいるのは事実です。
何たって不安心配・恐れ怒りが出てこないのですから。

ゆえに何の変化も刺激も無くてそれで暇で退屈していることは事実です。

だからと言って食ってばかり寝てばかり糞してばかりはいられません。
また一日中パート勤めに行くのも(先方が求めていませんから)(また私は給与収入を必要としていませんから)その必然性がありません。

じゃ何をすればいいのでしょう。
そこで趣味嗜好娯楽に興じていてもそれが終わればまた暇で退屈します。
だからと言って一日中毎日していればしんどくなるしまた飽きがきます。

そこで暇で退屈しているのなら山歩き散歩でもすればその分だけ時間つぶしは出来ますが、それで解決するのなら最初から続いています。

そこで自家菜園でもすれば新鮮な野菜が食べられそうですし、また収穫して家族に持って行けば喜びそうですが、それもその時限りの時間つぶしで終わりますし、また私には似合わないし、プロが栽培した物より商品価値も劣るし、また市場には豊富に安価に品揃えされているので今は必然でもないからして、そんな面倒のかかる余計なことを無理するくらいなら暇で退屈なほうが呑気気楽にしておれます。

そこで上記の事柄を様々に取り入れて暇で退屈しないようにすれば一件落着したかのように思うかもしれませんが、
しかし不完全意識の者が何を成してもその結果も同じ不完全で無理無駄余計な事になりますから、
ゆえに何を成しても「実」が無いのです。

すなわち「今」を生きていく為の絶対性&重要性&必然性&実用性に欠ける(有っても無くてもいい)「どうでもいい」ことになるのです。

だったらその暇で退屈している時間&不完全意識が原因のその結果(喜怒哀楽)(無理無駄)の余計な時間を「実りのある精神世界」に活かせれば自分の為にもまた係わる人にも何かと役立つ事にもなります。

すなわち「実」のある実践になるのです。

ブログの中に個人的な思い考えが入り混じっていますがその内容は事実しか書いていません。

2013年05月16日 | Weblog
私は不完全意識の不完全な人間関係の事実を書いているのであって人間嫌いではありません。
それどころか人間関係があってこそ生きる価値がありますので、その人間関係が調和の意識でもって自由平等の生きながらにしての天国楽園になることを願って書いているのです。

そのためには「矛盾」の中で生きることをやめなければ無理があります。
だから先ずは私の中にその矛盾が無いような生き方を実践しているのです。

だから己が自由を味わっているからこそ人様にも自由でいて欲しいのです。
それを己が自由を望んでいるのに身近な人や家族を何かと束縛制限していれば矛盾します。

また己が成り行き任せに生きることを実践しているのに身近な人や家族の心配をしていればそれも矛盾します。
だから事実にして私は気にせずにほっといています。
またその事実からして私は気を楽にして生きていられます。
ゆえに世間的に見れば人間性&協調性に欠けた常識はずれの薄情者になります。

また成り行き任せなのに先々のことを不安心配していれば嘘になります。
だから自分の病気や事故や死さえも気にしないで暮らせている事実を書いていますし、その準備も心構えも整っていることを事例でもって書いています。

また不信感を持っていれば成り行き任せには出来ませんから、その不信感を持たないためにも絶対的に気にしないでほっとけるその精神力が必要になりますが、それも此れまで成り行き任せに生きてきたことで証明されます。

また私が正しいを持っているがゆえに何かと自己主張や自己顕示をしたがりますので(私の場合は)私の思い考えを書くにしても(矛盾の無い様に)その裏側も表側も一緒に書いてその実態事実を書いています。

その中に神懸り超能力は客寄せパンダになる事実、ミイラ取りがミイラになるその事実、また人が集まるところには欲が渦巻いている事実、愛情人情・義理恩義・絆の不完全さとその裏切り関係の事実、精神世界の見える対外的な実践はしやすいが見えない内なる精神の実践がし難い事実、信頼と不信の矛盾の事実、美しい言葉の裏には隠れたトゲがある事実、まだまだありますが省略します。

また不完全意識ながらも自己縮小の必要性を書くからには私自身が自己縮小を味わっていなければ想像創作したり嘘八たれを書くことにもなりますが、過去の必然ご縁のめぐり合わせからして無理も執着も無いままの成り行きからしていつの間にやら自己縮小の形になっていましたから、まんざら嘘ではない事実が書けていると思っています。

また完全真理を理解納得確信したのに未だにそれを信じるか否かと書いていれば矛盾しますが、このブログの初期の頃は完全真理や耕栄さんやファバラを信じるような言葉で書かれていたかもしれませんが、最近はその裏も表も含めたその事実を書いていますからその矛盾は無いと確信しています。

だから違和感や疑問や矛盾があれば書き込んで下さいと何度も書いています。

楽に生きていると(変化刺激に惑わされて外ばかり見ていたのが)内を見る意識に変わります。

2013年05月14日 | Weblog
私が少年時代のころは野球ルールは知っていてもその野球道具が高価なために紙を硬く丸めて紐でくくり絞めたボールを手の平で打ち返したり竹の棒をバットにして野球ごっこをして楽しく遊んでいました。
それも下級生や上級生が入り混じってのチームでしたからその打順を決めるのも勝敗につながりました。

また将棋でも厚紙を将棋盤の形に切って線を引いたのと将棋の駒も厚紙を形に似せて切った駒で遊んでいました。
だから将棋をしたければ高価な将棋盤や駒でなくても(価値観が伴わなければ)将棋は出来るのです。

ところで楽しむ方法は様々にありますが、その「楽しい」感覚は皆同じです。
だから美味しい物も数々ありますが、その「美味しい」感覚も皆同じです。

だから紙のボールの野球であれ、また紙に書いた将棋であれ、また専用道具を揃って楽しむのも同じですから、
ゆえにその専用道具が無くても楽しめることは同じなのです。

また缶詰のサンマも塩焼きサンマも美味しいのは同じですが、その味わいが違うだけです。

その楽しいや美味しいことは同じであればそんなにあれこれと数多く必要としませんが、しかし人間には飽き性がありますから、その必然からして様々な趣味嗜好娯楽が増えたり進化発展してきました。
しかもその楽しいや美味しいの中に変化刺激や価値観の違いや見栄世間体までが入り混じっています。

私はその楽しい&美味しい趣味嗜好娯楽を捜し求めることから遠のいたことからして今度は「楽に」生きることを味わい知りましたが、その楽にしていると美味しい楽しいの形が減っても残る今有るものを飽きずに味わえるようになりました。
すなわち多くを必要としなくなったのです。
だから尚更に生活が単純化しています。

すなわち趣味嗜好娯楽&変化刺激快感快楽を多く味わうことをやめれば残った少ない分を十分に味わえるからです。
それを言い換えれば先に書いたようなゴムボールが無くても野球ごっこを楽しみたければ(昔に戻って)(元に戻って)手製のボールで遊ぶことは出来るのです。
それを邪魔しているのが見栄世間体の自尊心と価値観なのです。

だからその見栄世間体・自尊心・価値観を無くすれば、昔に戻って(元に戻って)食って寝て糞をしているだけのような生き方でも(素朴ながらも)その楽しさも美味しさも同じように味わえるのです。
だから昭和の時代に戻ってもまた明治時代や江戸時代に戻っても同じように味わいながら生きていけるのです。

すなわち変化刺激に惑わされて外ばかり見ていたのが内を見る意識に変わっていくのです。
すなわち生きていく形を味わうのではなくして、生きていく有り様の中の価値中身を味わうことになるのです。
またその価値&事実だけを見て己の価値観で判断しなくなると単純&素朴になり自己縮小に進んでいきます。

楽しく暮らした人ほど不満不足・不安心配が多いが、気を楽に暮らしたい人ほど少ない。

2013年05月14日 | Weblog
巷に「一度ルンペンやるとやめられない」なる言葉がありますが、それをルンペンを始めると元に「戻りたくない」意味と、ルンペンに堕ちると二度と「戻れなくなる」意味にもとれます。

私の場合は元に「戻りたくない」意味にとれます。
何たって人間関係から離れたような生活を一度始めると二度と戻りたくないのですから。

ちなみにプロレスのアントニオ猪木が自らホームレスを体験してそれを話題にしたり、タレントが中学生ホームレスだったことがあると書けば人気が出たりするのとは趣が全然違っています。

ちなみに私も不完全意識丸出しで生きていますから気になることもあります。
例えば温泉に行くときのシワだらけの上着や古びた下着が気になるのと、その風呂場でビックリする大声の気合を入れてから飛び込んだり一気に立ち上がったりする人がいるのがいつも気になっています。

それと牛舎の粉塵からして鼻糞・目糞・耳糞が多く喉の調子が悪いです。
あと付け加えるならば暇で退屈しているときにパチンコに行っているその私自身の意識の有り様を気にしています。

とにかく多くの人間関係が無いことと必然ご縁の時に限られているだけにそのご縁は良好ですから少し気になることがあってもすぐに消えますから心&胸に抱え込む(執着する)ことにはなりません。

皆さんは如何ですか、自問自答してはどうでしょう、
生きていくための生活自体にはあまり無くても、その中の人間関係に多くありそうですね。

巷で「無くて七癖」と言われるだけに、気になることが無い様に思っていても自問自答すれば気になり続けていること(不満不安不信・心配悩み)が多く有るのではないでしょうか。

それが家庭の中に少なくても仕事やパートになると出勤するたびに(対人関係などで)気になり続けることがありませんか。

私はオーナーとの人間関係・精神面でも良好ですし給与待遇も至れり尽くせり配慮してくれて申し分ないのですが、それだけに些細なことが気になります。
それは足の踏み場も無いくらい後始末・片付けが雑なオーナーの癖です。
ちなみに大きな気掛かりが無いだけにその分だけ些細なことが気になるようです。

ところがそれら些細な気掛かりが解決することになればそれで終わりにならずにして、また目障り気掛かりになることを自らして探し出し見つけることになるのが不完全意識の私たち人間ですから、これまたその繰り返しがいつまでも続くのです。

ちなみに大きな気掛かりなことに意識が行くと些細なことが隠れて気にならなくなる場合がありますが、その大きな気掛かりが頭の中から消えないでいると(食って寝て糞をして)生きていてもちっとも楽しくありませんから、そこで趣味嗜好娯楽(変化刺激快感快楽)に興じることで代替にしています。

しかし楽しんだその余韻が消える頃になるとまた気掛かりなことが次々と出てきますから、これまた新たな楽しさを次々と始めることにもなるのが私たち不完全意識の人間の癖・実態・事実です。

ちなみに何とかして「楽しく」暮らしたと思っている人ほど目障り気掛かりになることが多いはずですし、そこを何とかして「気を楽にして」暮らしたと思っている人は目障り気掛かりになることが小さくその数も少ないはずです。

さて皆さんは何れを選んでいますか