孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自己縮小に「自力・自信」が必要ですが、「他力依存」「願望・祈願」は<自力・自信>に欠けている事実。

2012年04月28日 | Weblog
このブログに書かれている事を人それぞれに受け止めているとは思いますが、精神世界・宗教真理のブログとなると、我が教祖・わが師は何を成して何を語ったと言ったことが詳細に書かれるのが普通ですが、このブログのように完全真理に照らし合わせた私個人の思いを書いているのは珍しいのではと我ながらに思っています。

その完全真理では「良い悪い」で判断しないで、そのまま、このまま、あるがままの自然体で生きることが説かれていて、その良い悪いで判断するのが人間だけにそれが無理になり、そこで良い悪いで判断しても執着しなければいいとなったことからして、私の個人的な文言・事例で説明する形が多くなったのですが、その執着しないで、無理しないで、ただ食って寝て糞をするだけのような生産性の低い生活を既にしていることや、それ以前の過去も現在も必然ご縁の仕組みに任せた「成り行き任かせ」(自然体)に生きてきた部分も多くありますから、何やら私の出番のように書いているところがあります。
ゆえにこのブログに書かれている内容も前期と中期と現在とは自ずと違っていますから、完全真理そのものの基本を知るには前期が適していると思っています。

ところでその成り行き任せに出来るのも(己の意識が原因の)宇宙・神・愛のお仕組みの、その必然ご縁のままの成り行き任せで生きる事に自信があるからですが、その自信の中にも「自力」を多く使って生きることの真価・真実を味わうことが出来たその納得確信も含まれています。

その自力を多く使うことで「他力依存」が減り、その他力をあてにしなくなるとそれも自信になり、また自然界の中でいることが多いだけに人様に対する気疲れのない穏やかな安らぎの生活も味わえましたので、その気疲れの元となる人恋しさ(孤独感)よりも、その人間関係で気疲れしないですむ過疎地の自由な孤独を堪能することのほうが私には最も都合が良かったこともあります。

他にも放任主義的に育ったことや自力を使って遊ぶのが大好きだったことやそれで無学無教養のままに成人したこと、それだけに何でも知りたがる・やりたがる・食わず嫌いも忌み嫌うこともなくなり、その否定反発しないことの重要性も先取りしていた感もあり、また伝統風習・冠婚葬祭やの常識や喜怒哀楽の感情面よりも人間性・精神面で捉えていたことから非常識・薄情・恩儀知らず・世間知らずになり、そして感動で涙するがその感情には溺れないでいられたことなどから、物事に集中熱中するが乗り換えも速く諦めも早いので無理も執着もしないで前に進めたことからして、様々な事柄を広く浅く多くを知ることになり、しかもそれら全てが完全真理につながり、その理解やその実践・自己縮小に添った生き方にもなっていたことから、その私的な事ばかりが多くなっているのです。

そして「食って寝て糞をする」だけのような生き方にも<自力・自信>がなければ無理なことになります。
また「来るものは拒まず去るものは追わず」の必然ご縁の「成り行き任せに」生きるにも<自力・自信>が必要です。
すなわち「あるがまま」「自然体」「自己縮小」の生き方にも<自力・自信>が必要なこと。

しかし「他力依存」「他力願望」には<自力・自信>に欠けていること。
よって完全真理に添った生き方をするには「自力・自信」が無ければ無理なこと。
よって他力依存や願望・祈願がある限り完全真理の理解にもその実践にも不向きなことを書いていることになります。

だからこのブログに書かれていること以外に完全真理の理解やその実践に役立つものがあるのであれば、それが自らのことではなくて先人先生のお言葉であっても、それを私に教えていただければ参考にしますので是非ともお願いします。
ところがそれらしきものが無ければ、(その必然からして)このブログに書かれている事を学び知りその実践しかないとも言えますが、皆さんはどうでしょうか? そのご意見も併せてお願いします。

特別のない「自力・自信」「安心・安全」の精神力の穏やかな生活をしながら生き続けることが出来ます。

2012年04月27日 | Weblog
自分に不可能かも知れない不釣合いの事を仕方なくやる時に自信があるとは言いませんが、自分に出来る事なら「自信がある」となります。 だから自分に出来ることが「自信」なのです。

ところが勇気ある行動が出来る人を「自信のある人」と思い違いしているところがありますが、その勇気を出せる人を「勇気のある人」と言うのが妥当になります。
そしてその勇気を必要としないで当たり前の如くに「無理」なく出来ている人を「自信のある人」と言えます。

だから誰もが出来そうもない危険を顧みずに荒海に乗り出したり岸壁をよじ登る勇気が必ずしも自信とは言えません。
それは「安心安全」に出来る事が自信ですから、危険を覚悟の勇気のあるその自信は「自信過剰」の自惚れになります。
だから自分の出来る事を普通にしているその自信には特別はありませんが、それが特別に思うことになれば自惚れになります。

その勇気と自信がつながっているだけに、その勇気が自信過剰にもなりますし、自信が勇気に結び付けば自信過剰にもなります。
しかしそれは特別意識・不完全意識ですから、その結果も良かったりも悪かったりもするのが常にあります。
ところがその結果がうまい具合になるとその特別な成果に(ヒーロー・時の人となり)多くの人々が羨むことにもなります。

それがいつの間にやら、特別な事を成すには大きな自力・自信・勇気が必要に思えるようになり、その自力・自信・勇気が無ければ大きな事を成し得ないこととなり、そこで自分に過ぎた勉学教養や技術能力を身に付ける事に熱心になったり、また比較競争で人を蹴落とすことも辞さない勢いで進んでいくことで自信を持つことにもなりますが、その自分に過ぎた無理をしてきただけに奥底には不安心配も併せ持っていますから、確かな自信とはなりません。
そこでより強固にする為に「他力依存・願望」を持つことにもなり、また信仰宗教や神社仏閣の神仏に祈願することにもなるのです。

その自信があるから特別なことが出来ると思い違いして、特別ではない普通ではそれを自信とは思えなくなり、その普通を超えた特別を成す事が理想目的にもなったわけです。
そして理想目的の無い者は人並みより遅れた劣る存在に思うようにもなったのです。
しかし皆が皆してその思い通りになるはずもありませんから、それで多くの人が自信喪失することにもなったのです。

だから特別を求めている中に自信はありませんが、自分に出来る普通の事に自信があるのです。
そこで、自分に過ぎた特別な事を成そうとしていたことに気付くことが出来れば、その元からある自分に成せるその自信が蘇ってくるのです。
しかも、その自分に無理なく成せることが己の個性・役割だとも気付き、他の人様と比較競争することも無くなり、自分の本分を全うすることだけに意識が使われるようにもなるのです。

しかも、この世にある形・結果を成すことよりも、その形・結果が出る大元の原因意識(精神世界)に目覚めることになるのです。
そこで完全真理を学び知りその実践の中に「自信・自力」の精神力が活かされることにも気付けるわけです。
そしてその自信・自力で生きているだけで十分になれば、良い悪いで判断することがあっても、それに執着しなければ不足・不満にも先々の不安心配・恐れやその守り意識を持つことにもなりません。

そして「自力・自信」からの「安心・安全」の精神力の穏やかな生活をしながら生き続けることが出来るわけです。

苦楽を繰り返しずーッと味わい続けるままに人生が終われば人間の役割使命を果たすことは出来ません。

2012年04月26日 | Weblog
最近の報道ニュースで歩行者の列に車が突っ込み多数の死傷者が出る事故が立て続けにありましたが、その中に通学児童の列に無免許の若者が運転する乗用車が突っ込んだのがありますが、その通学児童を守るために交通量の少ない脇道を通学道路にしていたのが裏目に出たことから、その通学対策を再検討することにもなったようです。

しかも「集団登校」していなければ被害が少なかった筈ですが、その大人が付き添っての集団登校が始まったのも異常者・不審者から学童の安全を守る為でしたから、その対策が被害を大きくした結果にもなっていますから、それも皮肉な結果・矛盾の結果になります。
すなわち「良い」と思っていたことが「悪い」結果を招いたわけですから、まさしく良いこともあれば悪いこともあるという矛盾のあるこの世を象徴した事故でもあります。

そして世間では罰則・法令・対策強化などや我が子が被害者や加害者になることの不安心配やその守り意識が強くなるでしょうし、精神的にも宗教的にも良い悪いで判断してあれこれ言われるでしょうが、(私にすれば)その世間的な意識・認識と完全真理との大幅なズレが気になるわけです。
またそれだけに矛盾のない完全を説く完全真理の真実・事実を学び知ることの重要性を再認識することにもなるのです。

そこで(前兆・象徴)有事の結果形の対策よりも、その結果形の出る大元の原因である人間意識に関心を持つことが人間としての本分なのですが、しかし手っ取り早く対策を講じるほうが見える結果になりますから、(世間的には)見えない精神世界が後回しになるのも仕方がないことですし、しかもその精神世界を人に強要・押し付けることも出来ません。
だからこそ現れた結果・前兆・象徴からして、その人間意識の間違い・矛盾に「自ら」が気付き反省できる精神力が必要なのです。

またその矛盾のある不完全なこの世の形やその人間関係で此れまでイヤになるほどにその矛盾を味わってきているし、その矛盾をどうすることも出来ない・どうしようもない事に悟り気付いたのであれば、あとは精神世界に関心を持って集中するしかありません。

だから身近な人との人間関係も元々は精神世界を共に学び知り気付く(修行)ための必然の形なのです。
だから精神世界を知るために特別な艱難辛苦の荒行苦行修行をする必要も無いのです。
だから過去のイエスや釈迦も自らが修行して、その修行が無駄なことだと悟り知った事実もあります。

その身近な人間関係から多くを学び知ったところでそれは不完全な矛盾を味わっただけですから、その矛盾する不完全な形から脱却して、完全な宇宙・神・愛の意識を学び知る実践が必要になるのです。
そこで不完全に慣れ親しんでいた関係を維持・守ることよりも、それら関係から離れた意識で共に暮らせれば都合がいいのですが、その不完全な人間関係の中には「自由」がありませんから、その自由が無ければ平等・調和意識にも絶対になりません。
だから共に暮らしている形があっても、自力自信の安心安全の独自独歩の成り行き任せに生きることになります。

また不完全な関係に慣れ親しみ過ぎた為にその親しみに信頼・依存することにもなったし、過去の自己拡大からスイッチポンの快適便利な道具に依存する生活にもなっていましたから、その他力依存の良いとこ取りの生活からも脱却して自力・人力を多く使う素朴な生活に戻らなければその他力依存の簡単手短な良いとこ取りから抜け出せません。

ちなみに「自力」を多く使うことになれば生きていることの価値・真価が味わえそれが生きていることの「自信」にもなります。
また特別な自信でその無理をしてまで、その特別な満足・自己満足していた、その過去の虚しさにも気付くことにもなります。
だから確かな実践の必要性を書いているわけです。

また他力依存の良いとこ取りには必ず裏がありますから、先程の事例のように良いことにも悪いことにもなるその矛盾・苦楽を味わうだけで終わり、宇宙・神・愛の完全を知る手立てにはなりません。
その苦楽を繰り返しずーッと味わい続けるままに人生が終わるのであれば人間の役割使命を果たすことは出来ません。
だから「他力依存」「他力願望」「他力祈願」の<他力>をあてにしない独自独歩の自由と自力と自信の精神でもってその精神世界・意識の世界を学び知り味わう生き方が必要なわけです。

自己拡大の「大」を味わうことが無くなれば自己縮小の<小>を味わえる意識に戻るのが人間の意識です。

2012年04月25日 | Weblog
自己拡大で生きていると「事を成す」結果を出し続けていなければなりませんので、当然ながら無理が伴いますが、自己縮小だと結果・成果を出すことよりも、自分がやりたい事・出来る事・特別ではない普通の事をやるだけになりますから、その過程を味わい感じたその事実・結果が出るだけですし、その時々の結果で一旦終わりますので、引き続いてやる気が失せれば(特別重要なことでもないので)そこで終わらすことも出来ますから無理・執着することになりません。
だから楽ちんな生き方になるわけです。

また趣味嗜好娯楽で変化刺激の大きい事を成すことで自己満足をする繰り返しを続けていると次第に面白さ(変化刺激)に欠けてきてそれ以上の特別な事をしたくなるのも自己拡大です。
その自己拡大をやめて普通の意識になると、それまでの特別な変化刺激から意識が離れる事になりますから、その分だけ普通・簡単・単純・素朴の当たり前と接し触れ合いそれを味わうことにもなりますから、その普通・簡単・単純・素朴の中にある無理・執着のない生き方・真価に目覚めたり、その余裕の意識から(今まで気付かなかった)その特性・情緒を感じ気付くことにもなります。

すなわち大を味わうことが無くなれば自ずと小を味わえる意識に戻るのです。
だから人間は何とか成りながらも、成る様になっていくのです。
また無ければないで何とかなるし、有ればあったで特別では無いのです。
だから特別な事を無理にしたがるその特別意識や人と差を付けたがる比較競争差別意識が無くなれば、すなわち自己拡大が終われば(成る様になって)安心安全の安らかな平穏な生き方に変れるのです。

ところがその自己拡大の為にスイッチポンの快適便利で素早く事が運ぶ、その良いとこ取りの生活をしていれば時間短縮になります。
また買い物に行くのに歩いたり自転車に乗らないで、自力軽減・時間短縮から自家用車で出掛けることも多いようですが、その自力・体力・エネルギーを節約してまで時間短縮したのに、その余った時間をジョギングやストレッチなどの体力・エネルギー消耗に使っている矛盾があります。
それを癒しとか気分転換になるとしていますが、その癒し・安らぎ・気分転換が必要になるのも、快適便利な足早に良いとこ取りしているその意識に原因があることには気付いていません。

昔話に「おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」があります。
また図画・図案の中に家が描かれていると殆どが屋根の上に煙突が描かれました。
そんな生活が消えて、まさしく昔話になりましたが、私が子供時代はそれがまだ当たり前でした。
だから誰もが自然界の恵みの良いところもまた干ばつ洪水・災害被害の悪いところも「丸取り」したような生活をしていただけに、当然ながら自力を多く使わなければ生活が困る時代に育ったのです。

その自力を多く使う時代が昔話になった今では、車が多く通る道路に飲料水の自動販売機が並んでいるのが当たり前になりましたので、牛舎のパート帰りにのどが乾けば直ぐに買えて便利でしたが、そんなにのどがカラカラでもないのにと思い直してそのままに帰路につきました。 ところがそうなると自宅に帰れば冷蔵庫にある各種飲料水が飲めるという期待・楽しみに変わったのです。
また空腹で帰宅しても、その食事の準備も自分でしますから、ガスレンジでサンマを焼くにもその手間も時間も掛かりますから、その空腹の中でサンマが焼けるまで待ち、やっとのことで食事になったときのその美味しさには格別なものがあります。 
だから食事の時間が来て座っていれば食事にありつけていた(他力依存の)過去とは味わいが違っています。

そこで気付いたことにあるのが、自己拡大の快適便利な生活をしていると手早く良いとこ取りの結果が出て直ぐにも満足できます。
また不足・不平不満さえも口に出せば直ぐにも思いが叶うことも多くなりました。
そうなると苦も短くなるし手短に満足も出来ますから、その苦楽の価値・正味・味わいも手短で薄くなります。
そこで特別な満足を手短に欲しがる繰り返しにもなって、その特別な自己拡大がどんどん進むことにもなったのです。

そして豊かな「他力の時代」になり、「自力」の乏しい時代となったのです。
だからその「他力」便利を使わなければ生活しづらい時代になりましたから、何らかの原因・有事からその他力・便利を多く使えなくなると困ったことになりますが、そこで「自力」を多く出せないと更に困ったことになります。

そこで更に他力依存や願望が強くなり、結果的に「自力」も無いし「自信」も無い、精神的に弱々しい人間になり、そこで身近な人達にすがりつくだけでは心もとなくなり、そこで特別な神仏や奇跡を成す人や有能な人を信じて頼ることにもなり、それら人間関係・形・絆を強固・完璧にしたがりますが、しかし元々の他力依存の自信の無さから不安心配は消えませんから、その不信感から守り闘う「守り意識」も相当に頑丈になったようです。

そこでやはり<自力>を多く使う生き方に転換するのが重要になりますが、それには「良いとこ取り」のスイッチポンの快適便利な生活や生産性・効率性・能力性・収益性・経済性を求めすぎていることから抜け出すことも必要になります。
それが自己縮小にもつながり、その意識にも余裕が出てきますから、そこで未知の事を学び知り味わい感じ取ることも多くなりますし、また創意工夫する楽しさ喜びも味わえることにもなるし、それが節約・倹約・省エネにもなります。

それが結果的に理想目的を遂げるための他力依存やその願望で成績・成果・結果を出し続けるしんどい生き方から開放されて、自由・自力・自信の独自独歩の肉体的にも精神的にも呑気気楽な生き方に変わります。
そして急ぎ焦らないゆっくりした生活になり、その余裕から意識が開放されて自由さを味わい、その自由のためにも束縛制限することや不信感からの守り意識も必要なくなり、安心安全の呑気気ままな生活が続くことにもなります。

「自力と自信」「安心安全の精神力」「孤独」と「孤独感」「他力依存・願望・祈願」「守り意識」の関係

2012年04月23日 | Weblog
私が過疎地で暮らすことになる以前のままに暮らしていれば、それまでの自己拡大の裏側が出てきて、多分ながら大きな有事(倒産)(肉体的・精神的)に見舞われていたと思っています。
ところが摩訶不思議な世界に関心を持ったことから仕組まれ続けて(安心安全の)現在があるのですが、それ以前から私の個性的な感覚・感性から「先覚的」(先取り意識)取り組みをしていた事例も数々紹介してきました。

だから遊び半分から(成る様になって)過疎地暮らしが始まったときも「時代の先取り」意識があったのも事実ですし、その意識は今もありますから、その思い通り・予測どおりに推移している現状状況に満足・納得確信しているのも事実です。
またそれ以前の先覚的な(世間にあまり馴染みが無かった)目新しく優れた健康食品・栄養補助食品・特殊機能食品・特殊環境用品に関わったり、また摩訶不思議の情報に接していましたが、それら全部を結び付けたような宇宙エネルギー・奇跡の水に転換しそれが霊魂・想念・精神の世界につながり、そこで私の意識も大きく転換したのですが、それまでのその都度ごとに「情報」として私にご縁があった方々にその都度に開示して来ましたが、その新たな事を次々と始めた私に連れ立って仲間となった人は極少数ですし、それも長続きはしませんでした。

その総数にすれば百人以上にもなりますが、その方々が今も私の情報に連れ立っていれば、我ながら凄い事になるはずでした。
しかし「成り行き任せ」(来るものは拒まず去るものは追わず)だけに「成ることは成る」が「成らないことは」ならなかった結果です。
その原因が人それぞれの意識にあることは皆さんにも理解出来ていると思います。
同じくして、このブログに約100人以上の人が日々訪れているようですが、成る様になっている人も、成らないままに続いている人も、また関心が薄れて離れて行った人もいると思います。

ところで最近の書き込みを読んでみて如何でしょうか?
肩の力が抜けたような軽い・薄っぺらい内容に思えている人も多いと思います。
なんたって名の知れたお偉い先生方の講演会や信仰宗教のような威厳・格式・体裁もない、そんな見栄えのない私の思いが書き綴られているのが多いからです。

しかし威厳を示して(用語・語録を並べて)完全真理の基本を詳細に書いたところで、それを理解するにも過去の豊かな(専門的)知識や相当な頭の回転力が必要ですし、何とか理解できても単なる知識で終わる可能性もあります。
そこで「良い悪い」で判断するその不完全意識のままの未熟者であっても(完全意識になることは無理でも)(完全真理に付随する事柄なら)何とか実践できそうなので、その付随したことを主体にして書くことが多くなりました。

そして「孤独と孤独感」の関係、その孤独が自由であることを、その孤独・自由のままに暮らせるその自力とその自信の精神力が必要な事を、ところが孤独感に陥る人には自力も自信にも欠けていることを、ゆえに他力依存や他力願望を持つことになる事実を、そうなれば確かな実践は無理な事になるので、そこで奇跡を成す人らに依存し願望する信者意識になることを、ゆえに完全真理は知っているが中身は薄い、だから完全真理を知っているようで無知なところが多いことを、そして実践しているようで絵に描いた餅・棚ボタ・寝て待て式になっている事実があるのではないの?と書くことにもなっています。

このブログの中に書かれていることの実践が無理ではなくて、やれば出来る内容ともなっています。
また実践の邪魔になる壁を越える内容も矛盾なく書いているとも私は思っています。
その実践で最も必要なのが「自力と自信」です。
それには「他力依存」「他力願望」(信じて・頼る)(人間関係の執着)から抜け出さなくてはなりません。
そうなれば良い悪いで判断することがあっても(自力自信の独自独歩で他の人が余計に絡んでいないだけに)執着せずに済みます。
そして不信感・不安心配・恐れからの「守り意識」も消えていきます。
そうなれば「安心安全」の精神力が身に付きます。
そして「完全真理」さえあれば十分になり、その実践が滞りなく出来ていることで十分満足になります。
そうなれば「完全真理」「神」(宇宙・自然界の仕組み)と結婚したも同然になり、人恋しさの孤独感に陥ることにもなりません。
そのあとは「我も神なり」の意識になる宇宙の仕組みに任すしかありません。

※これらは不完全意識の未熟な私の中にある「思い」ですから、その説明に不具合・不一致・矛盾することがあれば、私のために遠慮なく書き込んでください。

成り行き任せの「自力・自信の独自独歩」と他力依存・他力願望の生き方の違い

2012年04月22日 | Weblog
自然体といえばカッコいいが、私には抽象的になりますので、そこで「成り行き任せ」が多く使われるわけです。
そして「成るものは成る」が「成らないものは成らない」ことからして、その成らない事をどんなに一生懸命に頑張り努力しても無理なわけです。
ところがそれが成ることであれば、頑張り努力し無くても、成る様に成ります。
ただ頑張り努力すれば、成る様に成るその時間が早まります。

そこで無理をしなくても(成り行き任せであっても)成る様になっていればそれは楽チンですが、それを無理をしたがるのは結果を早く手に入れたい欲が原因ですから、その無理をした苦労と併せて人より早く手に入れた自己満足が得られますから、その苦と楽の矛盾を味わったことになります。

ところがそこに他の人が加わる人間関係となれば、その互いが良い悪いで判断する矛盾意識を持っていますから、成る様に成ったその結果にも各々の思いで判断評価されて、その自分の都合の良い悪いで自己満足したり不平不満になったりして、「同じ結果」なのに矛盾する結果になり、その矛盾する結果に執着する人がいると問題化することになります。

しかしその問題が矛盾しているだけに絶対に解決できませんから、その中途半端なままになっているのに、それを「正しい」とする人たちが多いと(その集合意識が原因から)いつの間にやら常識・伝統・風習・道徳化されているのが現代に多くあります。
その事例は何度も書いているので省略しますが、その常識などの絶対ではない中途半端なことに執着して「私が正しい」と言い張るその矛盾の人間関係に自由も平等も平和も絶対にありません。
ゆえに、この世は不完全な結果形に満たされ、その不完全な人間関係に(自他共に)巻き込み・巻き込まれての苦楽・喜怒哀楽の矛盾を味わうことになっています。

そこで独自独歩の孤独であれば、自らの意識が原因のその結果が(成る様に成って)出るだけですから、その自己責任の自己結果だけに(良くても悪くても)(執着することなく)自らが納得できます。
しかも「成り行き任せ」であれば尚のことに執着しません。

しかしその独自独歩の生き方の中に自力や自信が無ければどうしても「他力依存」や「他力願望」にもなりますから、その独自独歩の生き方に多くの人たちが関わることにもなり、必ずしも独自独歩の生き方にはなりません。

そこで「自力・自信」があれば他力を多く使わずに独自の自力で成すことが多くなります。
その他力を多く使わないで自力で成していることが自信にもなっていますから、他力依存や他力願望になることも殆どありません。
その自力・自信があれば安心安全の精神力になり、それで不安心配や恐れることも無くなりますから、その敵対意識の不信感や守り意識を持つことになりません。

だから臭い・汚い・暗い等と忌み嫌うことにはならずに平気・平然となります。
ところが忌み嫌うようであれば、まさしく自力自信がないという証になります。
そして雑菌・ばい菌・ウイルスを怖がる人には守り意識も強いはずです。
その怖がる意識や守り意識が原因から潔癖・完璧や正義感も強く持っているはずです。
それだけに見栄や世間体・プライド、また常識・伝統風習・道徳、また名誉名声・肩書き・権威権力や財力に執着することにもなります。
またそれだけに「私は正しい」の自己主張・顕示も精一杯だしたがります。
また「死」を恐れていますから、それにつながる事故・事件・怪我や病気を怖がる意識とその守り意識も強いはずです。

その守り闘う意識のない自力・自信の安心安全の精神力があれば自ずと自然死を望みますから、その死の形が孤独死・無縁死になろうとも、それらを気にしないままに安らかに死すことを望むはずです。
だから病気見舞いや死に目を看取ってもらうことや死後のことにも拘り執着しません。
また自然死を望むことになれば、最先端の医科学に依存したり、また神仏や超能力・奇跡やの神懸り的なことに頼る願望もなく、また身近な人達の生活に迷惑をかけたくない思いも強く、それだけに死ぬまで元気に生きる事や死に至る時まで楽しく生きる事を願っていると思われますから、ゆえに(死に逝く者を気にせずに)周りの人が楽しく過ごしている事を望んでいるはずです。

他がどうであれ、自らが完全真理に添った実践をするしか(絶対的に)他に道はありません。

2012年04月21日 | Weblog
このブログに訪れている人なら概ね理解できていると思われますが、先ず良い悪で判断しているその矛盾意識・不完全意識でいる限り、その人間関係に自由も平等も調和も無いことに気付いているはずです。
またその不完全意識で何か事を成しても、その結果も不完全ですから、当然ながら良いときも悪いときもあって、その自己満足と不平不満の苦楽・喜怒哀楽を味わうことの繰り返しが続くだけで絶対的な結果には決してなりません。

しかもその不完全意識のままに生きることではなくして、宇宙・神・愛の完全真理を学び知りその実践でもって、その不完全と完全の矛盾・裏表を味わい知る役割とその完全意識になる使命があることを知ります。

そこで実践する事になるわけですが、簡単なようで難しいところがあるのも、それも良い悪いで判断しているからです。
すなわち自分の都合が先んじていて、実際のところ完全な宇宙・神・愛のことは後回しになっているのです。
何たって此れまでの自己拡大やその守り意識を捨ててまで実践するとなると躊躇・思い悩むことになるわけです。
その際たるのが完全真理が自分のもの・本物になっていないのが原因にあります。

その自分のもの・本物になるにもやはり実践からですから、何か少し矛盾している感があります。
だったら尚の事に実践意識で暮らすしか無いのも事実ですが、そこででも、その実践意識が世間に通用しない壁があることから、そこでまた躊躇・思い悩むことになりますが、その原因に「自力・自信」の度合いが隠れていますので、それが守り意識にもつながっていることからも実践が難しくなっています。

しかし完全な宇宙・神・愛を学び知るのが役割使命と自覚しているのであれば、やはり自己縮小の実践で執着のないその生き様を味わいつつ、特別のない自力と自信の安心安全の精神力で、その他力依存や願望のない自力を多く使う素朴な生き方からして宇宙・神・愛の真実・真価を学び知り味わうしかありません。

その特別のない、無理のない、執着のない、思い思惑・理想目的・願望・欲望・良いとこ取りのない、あるがままの素朴・普通のままに生きることによって、たとえその結果が図らずも世間の片隅でひっそりと静かに暮らすような形になっても、その自前の自力と自信と安心安全の精神力で穏やかな安らぎのある生活・生き方で十分に思えているはずです。

そして我が子を「末は博士か大臣か」と思惑・期待することもなく、ただ元気で明るく楽しく自由に生きてさえいればそれで十分に思える意識にもなっているし、夫または妻や親が自力で何とか無事に生きているだけで十分に思えることにもなっているし、何が無くても完全真理の実践が滞りなく出来ているだけで十分な自分に気付くことでしょう。

だから見栄や世間体のプライドを気にしている人達や常識・伝統風習・道徳に縛られて不自由している人達や私は正しいとばかりに自己主張・顕示している人達や名誉名声・肩書き・権威権力・財力を見せびらかして生きている人達や自由平等平和を言いながらも自らが不自由・不平等・不調和の特別意識・差別意識に染まっている人達などを見たり知ったときに、その不完全意識の成れの果て・結末を見たような感じで、それらの人達を羨むことも敬うこともなく、その生き方・生き様に(皆さん)「ご苦労さん」と思える意識に到っていることでしょう。

その苦楽・ご苦労な生き方になっているのか?苦楽のない楽チン人生を歩んでいるのかは、その人の意識が原因のその結果であることは間違いありません、だからこの世の形を意識して生きることよりも、すべてが意識の世界で成り立っているその事実・真実やその裏表・矛盾を我が身でもって学び知るのが人間の役割使命だと確信悟ることが重要なわけです。

孤独感の原因は「他力依存」「他力願望」が強くて、自力・自信の安心安全の精神力が弱いからです。

2012年04月20日 | Weblog
私が世間から離れた過疎地で暮らせる中にその自力と自信の安心安全の精神力があります。
だから自力と自信が少ない人には不向きです。

その中で一番多いのが「寂しい」ですが、その孤独感をもっていれば絶対的に無理です。
その寂しいと感じたり思うことになるのは<他力依存><他力願望>を持っているからです。
すなわち「自力も自信も」ないままに、多くを他力依存とその願望で生きていることの証にもなります。

だから否定・反発心やそれらから守りたがる守り意識も相当に強いものを持っていると思えます。
だから不信感・不安心配やその恐れ・恐怖心も強いはずです。
だからその執着心も強く持ち続けているはずです。
だから(安心安全の)成り行き任せ・自然体で生きるなんて程遠いことにもなります。

ゆえに暗い・汚い・怖いことを嫌うこともも多く、それだけに潔癖症や完璧・正義感・私が正しの自己主張・顕示が強かったり、また高所恐怖症や閉所や暗闇の恐怖心を併せ持っている場合があります。
それだけに快適便利を求めたがりますから、街中の暮らしを田舎に持って来なければ不自由することになります。
またパトカーや救急車・消防車が到着するにも相当な時間が掛かりますから(他力依存が叶うまで)その分だけ余計に不安心配になりますが、それら(全て)が寂しいという孤独感にもつながっていきます。

ゆえに自力と自信の精神力が弱い人ほどにその分だけ不完全意識を強く出すことにもつながっているはずです。
それゆえに自己縮小の実践もままならないはずです。
それゆえに尚のこと他力依存・他力本願を望むことになり、それを叶えてくれる神懸り的な人を特別視して信じたがることにもなります。

ゆえに意識改革につながる「気付き」も少ないはずですし、愛情などの個人意識を完全に思い違いしている場合もありえます。
だから完全真理を学び知っていても、それが自分のもの・本物になるには程遠い感があります。

しかも他力依存で接し触れ合い絆で結び合うことにもなり、その関係に他力願望の思い思惑・理想目的を持つことにもなるし、その他力依存や願望が叶わないことが多いほどに不和・破綻・別離・離縁の裏切りにもなりやすいようです。
・・・自力だけでは成しがたい事を他力を借りてまで成そうとする事を「理想・目的」に掲げていると言われています。

本来なら人を好きになったのなら、何が無くても、その好きな人と一緒に居られるだけで満足・十分なはずです。
なのに何でその関係が崩れるのか? それが(好きになった裏心の)他力依存や他力願望を望むご都合主義の意識に原因があるわけです。
またそこで自分に都合の良いことが少しでも長く続くためにも、相手に気に入ってもらい為の気配り・気遣い・思いやり優しさの愛情・親切を形や言葉に出して「見せる」ことにもなるようです。

しかもその人間関係がややこしくなって不満に思い悩んで思考錯誤・葛藤しているのに、その思いから離脱・脱出し得ないのも、己の他力依存や願望を捨て切れない(守っていたい)その自信・自力の弱さに原因・関係があるようです。
すなわち「寂しい」孤独感を他力依存や願望で癒し合ったり慰め合っている内は何となっているが、それが不調和・不釣合いになると不満不足になり、しかも更に執着することにもなり、その執着が止まることが無ければその感情も進化拡大して出続けるのです。

しかもその不完全意識の人間関係だけは「どうしようもない」のだから、それを何としようと思うよりも、そんな事を気にしないで自分一人でも独自独歩で進んでいくしかないとも書いているわけです。
そして姿形の格好や生活・能力面や感情的に人を好きになることよりも精神面での人間性・個性・相性を見極めてのお付合いであれば長続きもするわけです。
しかも他力依存や願望を持たずに自力・自信でもって成り行き任せにして、その時々の必然ご縁でなる様になっている(過不足のない)結果に満足していれば何の問題もなく穏やかなままに時が経過していきます。

しかしそれを身近な人との関係に当てはめることには相当な無理が生じます。
そこでやはり自由な独自独歩の自力・自信でもって生活しながらも(未熟なだけに)全てを成り行き任せにするしかありません。
そして好きで惚れ込んだ完全真理一筋・一途にして、何が無くても、その完全真理さえあればそれで十分に思えるような意識になるしかありません。

ちなみに孤独と自由が孤独感に変るのは人恋しさにあります。
ところがその人恋しさから自らの自由が阻害されることにもなり、厄介なことにもなり、その苦楽を味わうことにもなります。
しかしその人恋しさよりも「自由」に生きる事を選べば、その自由の真価・価値を十分に味わうことになり、その人恋しさの苦楽・喜怒哀楽を過去に十分味わっていれば、その自由を捨ててまで人恋しさの(不完全でわずらわしい形に)再び戻ることはありませんが、しかしその孤独と自由が孤独感になればその人恋しさに溺れる結果に戻ります。

すなわち感情で生きる事を選んで宇宙・神・愛の「意識・命」の精神・心で生きる事を怠っていることになります。
それを宗教的に言えば「神を選ばないで人間を選んだ」ことになります。
だから完全真理が説くところの「われ神なり」の神意識になることには無理があります。
だから宇宙・神・愛の仕組みによる「新たな」地球の人間(意識・命)となることは不可能でしょう。

生きているからには人様と楽しみたいし喜び合いたいものですが、その思い通りにならないのがこの世です。

2012年04月19日 | Weblog
完全真理を知った私が個人意識丸出しでいるだけに気付きが多いわけですが、その気付きがあるから執着しないでもすみます。
ただ自己縮小しているからには不平不満がそんなに出ているわけでは無いのですが、それでも不完全意識がある限り小さなことからでも不満が出てきます。
そしてその不平不満が出ると、それが仇討ち仕返し・報復制裁をしたくなるのが常にあります。

先ずは犬畜生がしでかした不始末・不都合に腹が立って暴力的な仕返しをしたり、またしつけ目的から制裁するときがあります。
またパート先オーナーの後始末の悪さに不満が出ると(その度に)いつも通りよりも少し手抜きをして帰りたくなります。
また過去の人間関係であった古傷・不満が蘇ってきて、その仕返しが出来るチャンスが有ればと、ふと考えていることに気付くときがあります。
また親切心でもっての行為行動に相手が満足しなければ、その相手に対する思いが反発嫉妬に変わったりして、その腹いせ・あだ討ちをしたくなるときがあります。

すなわち不完全意識を持っている限りにおいて、その「持っているものが出る」ときが頻繁にあるわけです。
しかし、持っているものが出た事に「気付ける」ことから、それに執着する時間がすぐに消えるのです。
また、そんな「どうでもいい」ようなことを真剣に思い考えていた時間が少しでもあったことに気付いたときに、その変になっていた自分があほらしくもまた可笑しくも思えて、つい鼻先で小さく笑って(その鼻息で吹き飛んで)終わって、すぐに普段に戻ります。

また、そんなことの繰り返し(気付き)を何度もしていると、いつしかその回数も減るしその時間も短くなります。
だから不服不満になっている回数や時間も次第に少なくなるわけです。
しかしその気付きが無ければその回数が減ることもなく、更に執着する時間まで永くなったり、同じ事を同じように何度も繰り返すことが続いたり、また(私は正しいとばかりに)些細なことでも余計に探し出してまでも、その量的に増やしたがることにもなります。

それらの気付きの実践を疎かにしていると、その不満の度に執着するのが当たり前になったり、またその執着に自らが苦悩することにもなったり、更に執着するほどに苛立ち腹立ち・言いしれぬ怒りを内心に持つ事になったり、更に執着すると自分の思いを裏切られたと思うようになり、そしてその仕返し報復・制裁として周りの人に告げ口して(言い触らし宣伝して)、その自分の収めきれない不満の思いを(自慰的に)治め遂げたくもなるのです。
すなわち執着している事に気付かない限りその不満の思いが更に進化拡大してその問題事が大きくもなるのです。

だから(些細なことであっても)自らの意識に気付くことが重要な実践になるのです。
その些細な事に気付いているその精神力が別件の(真坂の有事などの)大事に執着しないで済むことにもつながるのです。
だから(大の元の小を)事細かく書き表しているのです。

その執着することの害があっても何の利もない事を知っている私だけに、親身に接している身近な人が(どうでもいいようなこと)(どうしようもないこと)執着しているのを知ると気になるわけですが、その執着に気付けるようにと私がアドバイスするにも(不完全意識の者同士だけに)(素直に聞く耳が無ければ)難しいのが現実にあります。
だから人様のことは「ほっといて」静かに見守るしかないと書いているのです。

すなわち「良い悪い」で判断する不完全意識を持っている限り絶対はありません。
だから人様に親切にしたと思っていても、それが必ずしも親切な結果になるとは限りません。
それどころか余計なお節介に思われていることも事実にあるのです。

また私とて人様から親切にされると(今は必要としていない親切でも)私の事を思ってのことですから当然ながら嬉しい限りです。
それだけにその親切を惜しみなく出せている人を見ると羨ましくもなる私です。
ところがその親切が度をすぎると執拗(不必要)になりますから丁重にお断りする事になります。

だから執着のない(飾りのない)単純・簡単・素直に互いの思いを出し合える関係の必要性、また不信感・否定反発のない素直な関係の重要性を書くことにもなっています。
それだけに不完全意識のややこしい人間関係が消えることになる意識改革・地球維新・宇宙の夜明けに期待するところがあります。

また生きているからには楽しみたいし喜び合いたいものですから、その人間関係を何とか築きたいものですが、それも絶対的に無理だと思えるようになったので、そこで自分一人の独自独歩の成り行き任せで歩む中での必然ご縁で仕組まれた人であれば私に似合ったところがありますから、そこで共に分かり合えたり喜び合えたり楽しみ合えるその時々を味わうしかありません。

しかしそれさえも極まれですから、やはり一番身近な自然界を意識することやブログを書くことが多くなるし、唯一つの娯楽で一人遊びの出来るパチンコに行く事にもなっているのです。

そんな暮らしぶりが長く続くほどに思い思惑(欲)を持つことの馬鹿らしさ(余計で無駄なこと)に気付きますから、やはり成り行き任せ(自然体)に生きることが結果的に自分の都合にいいことになっている、その事実だけで十分になるのです。
ゆえに世間的な変化刺激に乏しい生活にも慣れ親しみ、孤独感に陥ることもなく、その俗世間では味わえない自然界の成り行き変化を直接味わうことにもなるのです。

逃避・無責任・無関心・薄情・非常識・非道徳・不親切・不義理・裏切りも「どっちもどっち」の同じ穴の狢。

2012年04月18日 | Weblog
このブログで私の過去を告白して懺悔しているところがありますが、その中に日常以上の挨拶・儀礼が出来ないことも書いていますし、妻や我が子を身近な人で親身に付き合える人といった感じでしたし、また先祖供養や親孝行が必ずしも必要にも思えないし、また兄弟仲よくしなければならないといった特別な思いもなく、ゆえに人に親切にするとか思いやり優しさの愛でもって接するとかの抽象的な具体性にかけることには苦手意識がありましたから、要するに「薄情」「自己主義」で「非常識」で「半端者」「反骨的」で「ひにくれ者」のようですが、それでもしっかりとこの世で自己拡大して成してきたし、地域社会にも一応認められた活動もしてきましたし、また俗に言う夫婦円満・家族円満でしたし、事業所・商売を兼ねた新築家屋を増築も新築もしてきましたし、趣味嗜好娯楽も贅沢三昧に十分過ぎるほどに味わってきたことを紹介してきました。

その根底にあるのが、自分さえ良ければの個人意識を十分に発揮してきたことです。
その中に自分をあまり着飾らない、自分をあまり偽らない(偽れない)、世間体をあまり気にしない、劣等感の裏返しのプライドをあまり出さないでいたのも、それも自分を大事にしていたことですから自分の為になります。
また自分が思い通りにしたいが為に妻やの家族も束縛制限しなかったのも要するに自分のためです。
また不平不満を聞きたくなかっただけに、自分も不平不満を言わなかっただけです。
また個性・自力・創意工夫を多く使った独自独歩で様々な事を成してきたのも、また世間や家族やのしがらみから離れて今の過疎地での単身生活も、自分の為にしていることです。

それら全てが自分の為でもありますが、それらが「成り行き任せ」の結果ですから、その事の成り行きを楽しんだ感があってそれに満足していますから、その自分の事だけであれば何の問題もなかったに等しいのですが、ところがそれらに関わるときの人間関係に問題が多かっわけです。
それでも執着しないで済む個性的なものを持っていたのが幸いしたのは事実です。
だから大事・問題になることなく、何とかなりながらも、その成り行き任せの、その必然ご縁で仕組まれ続けた結果が現在です。

だから完全真理から言えば個人意識丸出しのままに歩んできたのは事実です。
ところがその完全真理の言うところのこの世で完全意識になることが到底無理なのも事実です。
だから完全真理を厳しく当てはめてその実践をわざわざ難しくしなくても大丈夫なのです。

それでも「良い悪い」で判断しなければ何の問題にもならないことは事実です。
だから此れまでの私の生き様も何の問題もなかったのです。
そして皆様も何ら問題はなかったのです。
問題なのは「良い悪い」で判断した人の中にだけ、その問題が実在することになるのです。
だから「自由がない」「差別されている」と思った人の中に、その不自由・不平等が実在している事になります。

そしてその問題に思った人がそのことに「執着」することからして、その当事者同士が自他共に<巻き込み、巻き込まれて>いる関係にもなるのです。
そうなると「どっちもどっち」のお互い様で<執着しあっている>関係になって、当事者同士が加害者でもあり被害者でもあり、また私が正しいと共に言い張っていることからして、そこで問題になるのです。

だからせめても巻き込まれなければその問題に関わる事から自らが離れることが出来るわけです。
それを人様が逃避・無責任・無関心・薄情・自己主義・非常識・非道徳・不親切・親不孝・不義理・恩知らず・裏切り等と言い張る人がいても、それも皆が(どっちもどっちの)お互い様で同類(同じ穴の狢)になります。
だから人様の事を「気に」しないで(巻き込まれないで)堂々と(食って寝て糞をしながら)生きていけばいいのです。

ゆえに誰もが個人意識丸出しで生きていることは仕方がないことであって、あとは<執着>しなければ大丈夫であり、日々その実践ができれば十分になるわけです。
だから「肩に力」を入れないで生きていればいいのです。
と言うことからして成り行き任せの呑気とも気楽ともいえる(肩の力が抜けた)執着のない生き様も妥当な利口な生き方になります。

それでも皆が不完全意識であることの事実は変わりありませんから、その不完全意識である自分を(厳しくして)恥じることも卑下することもなく、その不完全意識丸出しでいてもそれに執着しなければ大丈夫になります。
しかし完全真理を深く学び知ることが無ければ、過去の事を含めて(自らが)(様々な)不完全意識丸出しで生きていることにも気付けません。
まして自らが執着していることも、また巻き込まれて執着していることにも気付けません。

ゆえに完全真理を深く学び知り悟ることが先決重要だと、なるのです。
そしてそれが「気付き」にもつながるのです。
そして執着することが減っていくのです。
そして不完全意識を持ってはいるものの「安心安全」の大丈夫な生き方に変っていくのです。