孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「知る」ことから始まり「気付く」ことで前進します。

2015年05月31日 | Weblog
完全真理は完全だから矛盾・偽善はありません。
しかし良い悪い(善悪損得優劣)で判断しない実践は不完全意識・個人意識の人間には絶対的に無理です。

だから完全ながらも思惑理想目的の「絵に書いた餅」「棚の上のぼた餅」と同様になります。
然るに言うだけ、聞くだけ、信じるだけ、他力に頼る・祈る・願う・思うだけになります。

然るに不完全意識・偽善者が説く思い思惑理想目的や信じて頼ることや祈願するだけの精神世界とブログの世界と同様になり、然るに同じ偽善者が立ち上げ関わり、また同じ偽善者がそれに関心を寄せている構図と同様になります。

しかしそれでも完全真理だけに、この世人間関係の矛盾・偽善を根堀り葉堀り知ることが出来ますし、何たって完全なる宇宙・神・愛を知ることが出来ますから、この世とあの世の謎説き・違和感・矛盾解明にも役立ちます。

然るにそれがこのブログに詳細に書かれている内容なのです。
だから同じ偽善者が書いたブログと言えども、宇宙・神・愛の真実事実が矛盾なく理解納得確信できます。

だから知識の積み重ねや趣味嗜好娯楽が如くにネットサーフィン・ブログ巡りする時間があるくらいなら、このブログを何度でも繰り返し読むことで気付くことが多くなり、更にその気付きの積み重ね上塗りにもなり、然るに見極め判断力・自力自信・精神力を高め磨くことにつながります。

然るに「知る」ことから始まり、「気付く」ことで前に進めるからです。

ちなみに矛盾の世界・偽善の世界は既に此れまで積み重ねて分厚く上塗りしているのだから、それ以上に深く探らなくてもこのブログに根堀り葉堀り書いている矛盾・偽善を読むだけで十分納得できます。

然るにそれだけ無駄が省け、しかも先行きを照らす<灯台>を見出した如くになり、これからの生き様に迷いがなくなります。

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矛盾は=偽善です。

2015年05月30日 | Weblog
私が自己縮小の形に成ったことからしてこの世人間関係が矛盾に満ちていることを自覚確信納得できた経緯があります。
ちなみに不完全意識の人間が何を成せどもその結果も不完全であることも既に多く経験済みですから、尚更に自覚確信納得に至るわけです。

然るにその矛盾を偽善と書けばインパクトがあります。

その偽善と言う言葉に抵抗感を持つ者がいれば、私は正しいとして世間に目立っている人たちです。

然るにこの世人間関係は偽善に満ちている、またブログの世界は偽善に満ちていると書けば心の内で否定反発したがる人が多くなります。

ちなみに矛盾ならあまり気にならないが偽善と言われると己の心に刃物でぐさりと刺された感じになるようです。

何故なら矛盾意識(善悪・裏表・白黒=使い分ける)心精神を持っているだけに、己の善玉を意図的に表に出すからには裏の悪玉を奥に隠す(目立たない片隅に追いやる=嘘をつく)必要があることを張本人が一番よく知って・心得ているからです。

然るにそんな人ほど自分のブログを書くことに(私は正しいと)一生懸命ですから、大方にしてこのブログにはご縁が無いようです。

または(本格的な偽善者だけに)知って知らぬ振りをしていることでしょう。

然るに邪な輩(俗に言う狐や狸が如くの)騙し上手となっているかもしれません。

それでも自惚れ慢心・陶酔(自己洗脳)していたり、または他者洗脳されていれば己が偽善者だとは気付かないことでしょう。

とにかく矛盾は=偽善なのです。

それも個人意識の人間に課せられた宿命(役割使命)なのです。

だから完全なる宇宙=神=愛意識になれる仕組みが既に始まっていて、その使命を果たせる時が近づいていると言われるわけです。

ちなみに私も偽善者だと自覚しています。
それだけに私の中で真実事実となっていることや現われ出ている現実実情を根堀り葉堀り書いています。
だから何か不信があればコメントください。

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<人間らしさ>を味わえる生き方が自己縮小の中にあります。

2015年05月29日 | Weblog
大昔からして言えることですが、精神世界の中で生きていくとなれば俗世間から離れて暮らすことになるのが常道でした。
然るに俗世間から離れて出家するとか修行僧になるとか修道院の中でもって精神世界と関わるのが当然のことになるのです。
それが精神統一のためであり、また邪な誘惑・邪道に惑わされないためでもありました。

ところが私の場合は仕組まれ続けたその結果からして過疎地暮らしになったのですが、その過疎地暮らしを面白半分に味わっているうちに俗世間から離れて暮らすことの醍醐味を見出した形になっています。

然るに思惑理想目的を持って先付けで始めたことではなくして、成るようになった後付けの結果からして人間らしさを見出した形になったのです。

だから食って寝て糞をしながらにして生きているうちに成るようになって、今はフリーター・ニート・ヒッピー・ホームレスとなっている人の中にその俗世間と離れた暮らしからして人間らしさを見出した人が多いかもしれません。

となると俗世間で目立っている人や人間関係・家族関係を守っている人の中に人間らしさを見出した人はいないかもしれません。
然るに偽善のある中途半端な精神世界に関わって自己陶酔している者や私は正しい事をしていると偽善を美化して自己満足している人が多いことになります。

そもそも精神世界なる形を作ったのも不完全意識の者ですから嘘偽りの偽善・裏が隠れていても当然なのです。
然るにその偽善・不完全意識に自らが気付きながらも、しかしこの世で生きていくために、その偽善の上塗りをしている人が多いのも事実です。

ところが己の不完全意識・偽善すら知らないままに巷の精神世界やそのブログに関わっている人が多いのも、私が正しいと思い込み自惚れ慢心陶酔して自己満足しているから、尚更に偽善の世界に気付けないでいるのです。

然るに世間に目立つことばかり思い考えている人、見栄や世間体を気にしているプライドの高い人、私は正しいの潔癖完璧正義感の強い人たちだと思います。

ちなみに自他共に皆が偽善者であることに気付けば、人様のことを気にしないで、自らが謙虚な生き方にして、目立つことをせずに静かに暮らすほうが賢明だと思いませんか、

それとも家族や人間関係のことを思って行動しその偽善の積み重ね上塗りをしますか、

それとも知って知らぬ振り、どこ吹く風が如くに無関心を装いますか、

しかし自分の心を騙し切れるものではありません。
それが負い目となって心穏やかに暮らせるはずもありません。

だったら良い子ぶることよりも(人様を気にする事無く)個人意識丸出しで自分が思うがままの自由にして生きているほうが自分に正直ではありませんか、

しかしそれが自己拡大になると、偽善の欲絡み、他力の偽善関係が絡むだけに、その苦楽が多くなりますから、然るに「楽な生き方」にはなりません。
結局は偽善で生きることが多くなります。

だから「自己縮小」の道に進むしか他に道は無いと書いているのです。

だったら自己満足で楽しく生きることよりも先ずは「楽ラク」に生きることを意識して暮らせば不満不足もなくなり心穏やかにして素朴な生き方・人間として生きていることの値打ち価値が(人間らしさが)味わえるようになるのです。

ちなみに私の思いの中に偽善の心が出ると直ぐに気付き=あら出ちゃったのね=と我ながら苦笑することになりますから、なんだか精神世界を楽しんでいる感じになれます。

何はともあれ、偽善の心を持っていることは確かなことなのですから、それに気付きながらもそ知らぬ顔で過ごして人間人生を棒に振ることになれば、ハッキリ言って人間失格となり二度と人間に生まれ変わることがないと覚悟していたほうがよさそうです。

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人類皆「偽善」で生きている事実があります。

2015年05月28日 | Weblog
私たち人間は良い悪いで判断する矛盾意識とそれを使い分けて良いとこ取りしたり悪いと思われることを否定反発排除したりする、その自分さえ良ければの個人意識とその偽善を持っています。
然るにそれが欲なのですが、その欲を隠して私は正しいとして主張したがる偽善の心も持っています。

然るにそんな自分の事を一番よく知っているがゆえに人様に不信感を持つことになって当然です。

ところが自分の都合で人様と関わるときは善人ぶって(偽善)その不信感を隠す必要がありますし、またその他力が必要になれば己の不信感が邪魔になりますから、その不信感を隠して信じている振りをして頼むことになりますから、然るに偽善の信頼関係になります。

と言うことからして人類皆「偽善」で生きていることになります。

そこでその偽善を神に懺悔して許しを請うたり、またその偽善のない真人間になれるように神に祈り願う人達がいるかもしれませんが、その必要はまったくありません。
何故なら宇宙=神=愛意識の仕組みからして(基からして)人間を偽善者に仕組んでいるからです。

然るにそれが良い悪いで判断する人間意識・矛盾意識・個人意識の偽善に自らが気付き、その不完全な意識を修正改革する取り組み・実践することを人間の使命役割と定めているからです。

然るに偽善者同志の集まりの中で生きることからして、その矛盾・苦楽・喜怒哀楽のある中途半端な生き様の虚しさ気疲れ苦悩に気付き、
そこで偽善関係から離れて己が思うままに納得できる自由な生き方に方向転換する必要性に気付き、

その個人意識のままにして生きて、その中で欲が出ても欲張らないで(執着しないで)=偽善の人間関係・他力に頼らない=その自由な生き方にして、
その自力・創意工夫でもって自信・精神力を磨き高め、一人前の人間として成長し独り歩きが出来るようになればいいのです。

何はともあれ不完全意識の偽善に気付かない限り「新たな」事は始まりません。

その為にこのブログが役立つのです。

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他力に関わり信じ頼らずとも、己の心意識精神を介して気付きながら独自独歩で成長していけます。

2015年05月28日 | Weblog
誰もが良い悪いで判断してその良いとこ取りをしたがる「自分さえ良ければ」の自己中心の個人意識と矛盾意識を持って生まれています。

然るに自分の事だけなら何とかなりますが、その中に人様が関われば思うようにならない場合が多くあります。

然るに私が総理大臣になって教育改革を打つ出すも必ず反対派が出てきて思うようにはいきません。
また独裁者になって教育改革を強制しても、その体制が整っていなければなりませんから、その先々で挫折したり中途半端なままに止まったりして思うようにいかないはずです。

また己の思惑理想目的に従う者や仲間意識で協力し合う者が多くいても、それに反する異論反論・否定反発する者も多くいますから、然るに思うが侭の一筋縄の如くに上手くいかないのが世の常です。

然るにそれが夫や妻や我が子であってもまったく同じです。
だから人様を巻き込めばハッキリ言ってダメなものはダメなのです。
然るに矛盾・不完全意識が原因からしてその結果も不完全だから(何をやっても)どうしようもないのです。

そこで個人意識丸出しでもって自分の事だけをしているほうが己が望む確かな結果が出るわけです。

ちなみに食したいときに食事をし、寝たいときに寝れば、その確かな結果が出てきますが、ところが他の人に美味しい食事や安らかな眠りを提供しようとしても中々そう簡単ではありません。

然るにそれが善とするところに問題が隠れているのです。

また己が好きなことを寝る間を惜しんで一生懸命できますが、それと同じ事を人様に求め期待することは無理があります。

ちなみにその期待に添う者がいて満足することが出来ても、その関係がいつまでも続くことはありません。
然るにその期待に背く時があります。
それが寝返り裏切りと言われているわけです。

だったら(ハッキリ言って)前もってあれこれ思い考えずに基からして自分のことだけをやっていればいいのです。
然るに宇宙。神。愛意識の仕組みからして、人間誰もが個人意識を持って生まれた、その名目・本文、またお互い様お陰様の関係も成り立ちます。

何はともあれ、相手の言葉が本心なのか否かの不確かさがあったり、言葉と裏腹に隠し立てしていたり、また喜んでいたはずなのにすぐさま不満を言われたりするから、
そんな不確かな(寝返り裏切り偽善がある)人様の意識に巻き込まれてモヤモヤ・ヤキモキ・イライラしたり、また欲絡みからして意図的に惑わされてソワソワ、ワクワク・ドキドキすること等から早く卒業して、
ちなみに信じるから裏切られるのです、だから信じなければ裏切られません。

とにかく不確かな人様のことを気にせずにほっといて、

然るに人様を介せずにして、自分に出来ることを思うがままにやる、その個人意識丸出しで生きているほうが、その原因とその結果が「ハッキリ」自覚認識できますから、その自力自信・心意識・精神を磨き高めることに役立ちます。

ちなみに私は欲張らない生き様の原因からして呑気気楽な楽チン生活の結果を確かに味わっています。

然るに人様・他力に関わり信じたり頼らずとも、自分の心意識精神を介して(他と照らし合わせたり自問自答することで)自らが気付き省み修正しながらの独自独歩でもって成長していると思っています。
しかし欲張ることになればその成長は止まるとして自覚認識しています。

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このブログは理想空想の夢物語ではなくして、既に実践中の現実事実を書き表し伝えています。

2015年05月27日 | Weblog
私たち不完全意識の人間が宇宙意識・神意識・愛意識になることは不可能なことです。
然るに神仏霊魂や神懸り超能力者の類を信じて頼ったり祈り願っても無理なことは無理なのです。

然るに他力では「どうにもならない」のです。
ところが自分のことなら自分で何とかできるのが人間の特性です。
然るにそれが自分さえ良ければの個人意識の基なのです。

ところが自分だけでは自力自信がないから・心許無いから他力を介したがるその弱い心精神が原因からして結局は思い通りに事が運ばなくて中途半端なままに推移して納得できないままの人生で終わっているのがこの世人間なのです。

だから何を学び知っても、何を参考にしても、何を真似ても、誰に頼ろうとも、心から信じて祈って頼ろうとも、現実は大して変わりません。
然るにその苦楽の矛盾を味わって終わるだけです。

また自分のやりたいことなら昼夜も問わず寝食も忘れて没頭出来るのも人間です。

だから己が思うままの生き方なら(結果の是非に関わらず)納得人生で終われるのです。

然るに結果に後悔反省することがあっても(自力の結果の経験だから)それに執着しなければ、然るに拘りや未練を残さずに、然るに飛び立つ鳥水を汚さずが如くに人間人生が終わるのです。

然るに「成仏」できるのです。

しかしそれを邪魔しているのが人間感情でありその人間関係です。
それをハッキリ言えば人情愛情・義理恩義の親子愛・家族愛・親族愛や師弟愛やその絆と言われている偽善の義理人情愛情です。

もっとハッキリ言えばこの世人間関係を裏で牛耳っている邪な霊魂(不完全意識ながらも高い能力を持つ、俗に言う動物霊)に支配されている輩がいて、その輩の言うことが(洗脳されたが如くに)正しいと思い込んでいる人たち、然るに誰もが偽善者とは知らずにして「私は正しい」と思い込んでいる人たちの集合意識・闇意識に影響され邪魔されているのです。

更にハッキリ言えば神代の時代から受け継がれている偽善・裏表のある・ご褒美と罰の使い分けのある、その信仰心からして、それが正しい事と思い込んでしまって、それを更に広めようとして様々な思いを持つ輩が次々と現れ出たことからしてヘンテコな精神世界になったのです。

然るに神仏を説く輩の個の思いを「神の思召し」が如くに摩り替えて説き語ったその偽善が大間違いの元となったのです。
その陰の立役者となったのが神懸り神通力と思える(神と仕業と思える)超能力・霊力・念力の類なのです。

然るに此れまでの歴史がそれを語っています。

だから偽善の世界&良い悪いで判断する人間界が続くのです。

然るにその偽善の世界・人間界を終わらす時が来ているのです。

それが完全真理であり、その自己縮小の実践なのです。

ところが完全真理の言いだしっぺだった山田耕栄さんが自己縮小の実践がないままに道を外れたことからして(其処止まりになって)たまたま(私が仕組まれ続けていたその必然ご縁からして)私が引き継いだ形になっているだけです。

然るに耕栄さんの言う自己縮小は思い思惑理想の「先付け」になりますが、
私の場合は予想だにしなかった(成り行きに従った結果)(仕組まれた結果からして)自己縮小の形になっていましたから、然るに「後付け」の本物なのです。

だから理想空想の夢物語ではなくして既に実践中の現実事実を書き表し伝えているのです。

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偽善・矛盾のあるこの世人間関係だから思うように上手くいかないのです。

2015年05月26日 | Weblog
過去の釈迦やイエスが貧困差別を無くしたいその思いを持って修行瞑想し領民民人を導くも、その釈迦やイエスも領民民人も(全ての人が)偽善・矛盾の心意識を持っているのだから上手くいくはずもなく、然るに「どうしようも」なかったのです。

然るに「どうしようも」ないことを自惚れて「何とかしようと」するから偽善・矛盾になるのです。

だからそこで他の人を巻き込まずにして、釈迦は釈迦の思う精神世界を、イエスはイエスの思う精神世界を、然るに釈迦やイエスの為にも己が思うが侭の独自独歩で静かに歩むのが本来の精神世界となるのです。

然るに人様のことを思うことよりも、先ずは自分の心意識と「正直に」向き合って素直真面目謙虚に生きていくことが(自分のためにもなる)本来の精神世界なのです。

なのに自分の為にやっていることを隠して人様の為にやっていると表立てば、然るに偽善・矛盾になるわけです。
そして「どうでもいい」偽善矛盾のある結果を出して見せるために無理したり余計なことや無駄になることを頑張り見栄張り欲張ることにもなるのです。

そして「私は正しい」の自惚れ慢心・自己満足からしてやっているから尚更に偽善の心を隠したがるのですが、
それに都合がいいのが巷の神懸り奇跡の神通力・超能力・霊力・念力などの類で人心を惑わすことであり、また矛盾偽善のある言葉を美しい言葉に美化して如何にも正しいことをしているように思い込ませて洗脳・錯覚勘違いさせることです。

然るに私たちはそれら邪な意識の偽善&闇意識に惑わされているのです。

とにかく誰もが矛盾偽善意識を持っているからには世間に目立つ事無く静かに生きていればいいものを、
何かと世間に目立ちたがる者や人集め金集めにして勢力を拡大したがる者や権威権力を持ちたがる者がいるから、

そこでそれら邪な意識を持つ輩に惑わされない為にも自らが欲張らないことです。

そして個人意識丸出しであっても皆が同じだから(偽善関係・裏切り関係はお互い様だから)何の気兼ねすることも恥じることなく、己が思うままの自由=孤独の独自独歩にして、何ら特別のない普通&素朴にして呑気気楽に生きていけばいいのです。

またその楽に生きることを十分に味わっていれば(やがて)その先行きが見えてくるようにもなるのです。

然るにそれが(釈迦やイエスらの類が理想としていた)自由平等であり調和の世界なのです。

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釈迦やイエスの真似が出来なくても、普通にして楽に生きることで自由平等調和に近づく道になります。

2015年05月25日 | Weblog
人それぞれの姿形に違いがあるように(指紋が違うように)個性・役割・使命も異なりますから、然るに心意識・精神も人それぞに違いがあります。
と言うことは、人それぞれの精神世界があって当然になります。

然るに過去の釈迦には釈迦のための精神世界があり、イエスにはイエスのための精神世界があったのです。

だから釈迦は釈迦どまり、イエスはイエスどまりで終わり、
それらの弟子やその孫弟子たちが本家本元の真似をして釈迦やイエスと同等意識になることは絶対的に不可能なのです。

仮にそれが事実にして実現できていたなら、既にこの世は自由平等調和の世界になっています。

だから巷の開祖・教祖・宗教家も、また哲学思想家も超能力者も霊能者も念力などの類の人も、自分の思い思惑に似合った精神世界があって当然になります。
然るにブログの精神世界も同じでして、自分の思い思惑に似合ったその精神世界を書き込み投稿しています。

ところがそれらの中には個人の思い込みや思惑や理想や目的が数多く掲げられていますから、然るにそれら輩の思いに似合ったことを誰でもが実践・真似ることには絶対的な無理があります。

ところがそれら輩の思う特別な精神世界=実現不可能な精神世界に魅せられ憧れ尊び敬い、それを無理して真似たがる者・実現させたがる者が多くいることからしてヘンテコな精神世界がまかり通ることになったのです。

とどのつまり、中途半端なままに、それが宗教家の為の信仰宗教になり、超能力者のための精神世界になり、また霊力者や念力の類の者たちの為の精神世界になり、己の思いを込めたブログを書く者のためのブログの世界になっているのです。
然るに人様のためと言うよりも己の思いを成す為の精神世界となるのです。

然るに自分の為の精神世界ですから、それを世の為人の為の精神世界になると思えば自信過剰の思い上がり自惚れ慢心になります。
だから結果的には人集めや金集めや物売りや生業・副収入になっているのや世間に目立つ存在のままに止まっているのです。

だからそれら輩の思い思惑・理想目的を真に受け継ぎ引き継ぎ同様な実践が出来る者が表れてこないわけです。

そこで私のための精神世界、私のためのブログが登場するのですが、何度も書いていますから詳細は省略しますが、

何はともあれ、何ら特別な能力も持たない個人意識丸出しの私の思い生き様の真似なら誰でもが可能なはずです。

然るに欲張らなければ普通にして楽に生きることが出来ます。

そしてそれが宇宙=神=愛意識の自由平等調和の世界に近づく道につながるのです。

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複雑難解な精神世界の本を正せば、特別でもない=普通=が基本になります。

2015年05月24日 | Weblog
今のこの世は過去最高のときを迎えています。
然るにそれを精神面に限っても、巷には様々な形の信仰宗教や哲学思想真理や主義主張から摩訶不思議の世界に関しても、それらが多く出揃っています。

しかも今どきのインターネットによってそれらを簡単に学び知ることが出来ます。
その中にスピリチュアル系ブログも一万件を超えています。

然るに神社仏閣や教会に属さなくても、また講演会や講習会に足しげく通わなくても、またそれら専門著書をあさらなくても、また都合の良いときだけに限ることも出来る、そんな便利で恵まれた環境になっています。

ところがしかし実情はどれも此れも矛盾のある不完全な形ばかりです。
だからスピリチュアル系の学識知識を積み重ねたり、それを見せびらかして世間に目立ちたがることや、また私生活の中の良いとこ取りをして世間に示したり、また興味本位・面白半分・趣味嗜好娯楽的程度なら十分満足できるでしょう。

そんな中で本物・真の精神世界を知ることが出来るのはこのブログしかありません。
しかも宇宙意識とか神意識とか愛意識の者とか偉人賢人の学識知識教養などの「上から目線」でなくて、皆と同じ目線・同じ位置で書いている、然るに皆さんと同じく自分さえ良ければの個人意識丸出しで生きている私が根堀り葉堀り書いているのです。

その根堀り葉堀り書いている中にある根本は単純明快な<欲張らないで=楽に生きる>ということで「誰もが皆」実践できるという「公平」さもあります。

と言うことは、皆さんが此れまであまり気付いていなかったことに、私が気付いてそれを根堀り葉堀り書いているだけなのです。

然るに特別でも差でもない、ごく普通のことを当たり前に書いているだけです。

だから皆さんもまったく同じでして「自分が気付けば」いいことなのです。

そして世間に目立つことでもなく、まして先生になるわけでもなく、またその先生方の弟子になることでもなく、また皆と一緒でなくてもいいから、

然るに己の自由と独自独歩にして普通に生きているだけで十分なのです。

だから<欲張らないで=普通にして=楽に生きる>実践をしていればいいことなのです。

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頑張ることに違和感がある人は大勢います。

2015年05月23日 | Weblog
昔ほど貧困差別からして多くの人が苦労し苦悩していました。
その苦労苦悩は己の中にあることなのに、それを人様や神様仏様の他力に頼りすがろうとしたことからして、次第にややっこしい精神世界になりました。

しかしそれでも時代と共に何とか楽に生きられるようになったのに、更に(欲が出て)今より楽しく生きることを思い願うようになりました。

然るに本来なら「楽ラク」に生きる中に楽しさがあるのに、
例えば自らが創意工夫することや見定め見極めることが出来るその楽しさに気付かずにして、
他の人様が創意工夫したことの物真似やそのお膳立てに乗っかることで手早く簡単に自己満足することが出来るようになりました。

然るにそれが趣味嗜好娯楽の類であり、それを見定め極めることが創作・芸術・文化ともなり、然るに様々な形の創作芸術文化&趣味嗜好娯楽が根強く残ることにもなり、更に時代と共に進化発展し続けています。

だから楽しくなるためにはその裏の苦労が伴うようになって、然るにその苦と楽の矛盾を味わうことにもなりました。
だから少しでも楽しくなりたければ少しでも苦労しなければなりません。

然るに苦労するほどにそれだけ楽しくなると言う矛盾がまかり通ることにもなりました。
だから「苦労を買って出る」とばかりに美徳・美化されることになり、そこでその苦労に頑張り励むことにもなりましたが、しかし矛盾があるだけに思い悩み苦悩葛藤することにもなりました。

しかしそれにも屈せず・挫クジけずに頑張り通した人が(欲張り続けた人が)世間で評価され目立つ存在になれます。
だからそれをお手本として・それが正しいとして皆が頑張り苦労することにもなりました。

例えば子育てや看病介護や親孝行や先祖供養を(事実とは異なる)美徳・美化して頑張ることを善しとした風潮になり、然るにその苦労を楽しさに摩り替える偽善がまかり通ることにもなりました。

ちなみに「頑張る」ことは苦労の伴う欲張りなのに、それを隠して己の見栄や世間体・プライドからして如何にも楽しいや嬉しいとして美徳美化し自慢し、そんな私は正しいとして世間に伝え紹介して自己満足しているのです。

しかし自己満足は一時のことですし、しかも世間で目立ち続けるからには頑張り続ける、苦労し続ける、見栄張り続ける、その繰り返しのご苦労な人生で終わることでしょう。

だから頑張らないで=欲張らないで=自分に出来ることを当たり前にして普通にやっているだけで十分なのです。

そしてその繰り返しの中から思い付き創意工夫する知恵や見定め見極めが付いたりする眼力・直感・感性などの、その自力と自信を高め磨くことが楽しく面白くもなってくるのです。

然るに「楽ラク」にして「楽しく」なるのです。

だから我一人ながらも「地上の天国」「楽園」にも思えるのです。

だから同じ思いになれる仲間が増えて共に味わえるようになることを私は願っているのです。

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