孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

人の不幸不満が己の幸せ満足になる矛盾がある。

2018年11月30日 | Weblog
数に限りがある有限の世界でもって欲張ることで弱者が困ったことになっている事実があります。

それを言い換えれば…自分の幸せ満足のために人様を不幸不満に陥れていることにもなります。

ちなみに難民救済や子供の人身売買を無くする募金活動がネットで広告されています。

また昔から…風が吹けば桶屋が儲かる…と言われているように…
人が困ったときに喜ぶ人もいるのが矛盾の人間界です。

ちなみに人が死ねば儲かる職業にお寺さん・葬儀屋さん・花輪屋さんがありますし、それに付随してお供えの花屋さんお菓子屋さんや、また呉服洋装店・クリーニング店・タクシー会社も営業になります。

また臓器移植が定着していますが、人様のものを自分のものにするということは…人の不幸不満が己の幸せ満足になる事例です。

ちなみにお医者さんも看護師も人の不幸不満が己の幸せ満足につながっています。

となれば輸血関係者や臓器運搬会社や製薬会社や薬屋さんも同じです。

またファッションやレシピだと欲張ることで儲かる人がいるように、余計な失費で困ることは誰かが喜んでいる矛盾があります。

また子供の成績で困って欲張れば学習塾が儲かります。

書けばキリがありませんが…自然界に元からしてなかった人為人工的なものには矛盾があります。

然るに人為人工的な諸々に多く関わっているほどに精神安定はありません。

なのに欲張ることは比較競争のみならず…弱肉強食が如くに…食うか食われるかの矛盾で生きていることにもなります。

また人様の幸せを妬み逆恨みすることになれば…人の幸せが己の不幸になります。

然るに…人の不幸が己の幸せになる…矛盾で生きている限り絶対に幸せにはなれません。

だから素朴謙虚に生きる自己縮小の実践でもって心安らかに生きていくしか他に道はありません。

ちなみに食って寝て糞をしながら生きていれば…己が満足納得するだけではなくて…生きていくための衣食住にかかわる人たちの満足にも貢献しています。
…己の満足が人様の満足にもなる…

然るに矛盾がなくてお陰様とお互い様の愛の関係になります。
…不満にならなければ丸く収まるのです…

私は水不足や電気が無くなっても平気で暮らせます。

2018年11月29日 | Weblog
私は水不足や電気が無くなっても平気で暮らせます。
ちなみに私は自分さえ良ければの個人意識丸出しでもって・世間や家族と離れた孤独の自由にして生きています。

となれば当然ながら…自分一人のことなら何とかしながら不自由なく生きていけます。

ちなみに現在は雨量が少なくて水源から雀の涙くらいの水しか流れてきません。
だから風呂を沸かす薪が山ほどあっても水が来ないから風呂が沸かせません。
ちなみに衣類の洗濯はパート先の牛舎に備え付けている洗濯機でもって洗濯しています。
また食器洗いの水も足りませんからポリタンクに水を入れて持ち帰り、バケツの中で軽く洗って済ませています。

また普段から洗顔や手洗いをしていませんから水が無くても困りません。
また排便は普段からポリバケツをオマル代わりにして用を足していますから(スイッチポンの水洗式ではないから)何ら不自由していません。

…臭い・汚い・ばい菌はまったく気になりません…

また停電して電気が使えなくなっても不自由しません。
ちなみに普段から早寝していますから(20時ころには布団の中ですから)電灯が使えなくても不自由しませんし、死ぬまでパソコンや電話が使えなくても不自由しませんし、電気コタツも使っていませんし、電子レンジやホットプレートが使えなくてもガスレンジで十分ですし、そのガスレンジが使えなくても囲炉裏やダルマストーブの熱量で湯沸かしや焼き物ができますし、火鉢も用意しています。

ゆえに災害で電気や水が使えなくても何とかしながら生きていけます。

また石油ストーブやガスストーブを使っていませんから燃料不足になっても平気ですし、ガソリンが無くなったり山崩れや陥没やで車が使えなければ歩いて山越えしていきます。
ちなみに過去に山崩れや豪雪で三回ほど歩いて山越えしたことがあります。

また食糧に困ることになっても自然が豊かなだけに四季折々の草や木の実を食べたり木の根っこをかじってでも生きていく覚悟ができています。

ちなみに精神安定にして日々暇していますから…何事か生活に不都合が起これば…それが苦になるよりも…普段では味わえないだけに…それが一風変わった変化刺激にもなって…それを楽しんでいるような余裕があります。
そして少しでも便利にするための創意工夫とその結果を味わってもいます。
だから自慢げに書いているのです。

皆さんは電気が使えなくなると一体どうなりますか?
また水や石油や燃料に不自由する暮らしになれば?
また水没・陥没・崩壊で道路や線路や空路や船舶の岸壁が使えなくなれば?
また災害被害者に補給する諸々の物資食糧が無くなれば?

ちなみに自然界に元からしてなかった人為人工的な諸々が使用不能となれば?

だから真坂の有事や天変地異によって街中都会がコンクリートジャングルが如くの廃墟になっても…豊かな自然界の中で暮らしていれば(放射能汚染からも)なんとか生き延びれるかもしれません。
…ありがたいことです…あなた方もいかがですか!

生活の安定なのか「心の安定」か…二兎追うものは一兎も得ず…その選択決心の時です。

2018年11月28日 | Weblog
自分さえ良ければの個人意識を持ったこの世人間界は矛盾のある不完全でしかも過去未来に執着して思い想像する非実在で生きているというその真実を書き込んでいますが…

不完全だけに誰もが(石橋を叩いて渡る)不信感を持ち、そして守り闘うことになる「私は正しい」を持ち続け、それを自己満足し主張顕示して更にプライドまでも持ち続けることからして…
更に不信感・守り闘う・潔癖・完璧・正義感・プライドを強め、更にそれらを守り戦うという同じ繰り返しで此れまで生きてきたことも書き込んできました。

そして自分さえ良ければの「良いとこ取り」ばかりしてきたそのツケである裏側の悪いところの部分が地球環境や人間関係の崩壊破壊に出ていることも書いてきました。

しかもそれらが<氷山の一角>が見えているだけの前兆でまだまだ拡大してきますから、この先々にいろんな「真坂の有事」が待ち構えていることも書いてきました。

…はっきり言って崩壊破壊が止まることなく地球全体の危機を避けることはもはや無理です…

だから誰もが平常心を装いながらも奥に隠している不信感や不安感はどんどん高まっています。
それでは「生きた心地」がしませんから、反対に安心を得たがります。

…心の安心が無いから代替に生活の安心で平常心を保とうとしているのです…

だからチョットしたエコや環境保護で誤魔化しておいて、その反対の生活の維持拡大、経済の維持や発展ばかり願っています。

…良いとこ取り…をやめようとはしません。

だから地球規模の破壊崩壊が止まることは決してありません。

その生活の安定ばかり気にしている人の意識は神や愛の心を忘れた<闇>意識の人になります。

だから此れまで(有史以来)闇意識が支配していたことからして、その闇意識の勢力拡大による政治経済主導の舵取りによってここまで進化拡大してきたのです。

しかも「心の安心」「調和・安定」の<光意識>を育てる役割使命だったはずの宗教までもが舵取りを間違えてしまって(ミイラ取りがミイラになって)、反対の闇意識(名誉・権威・権力・財力)の組織力・勢力拡大をもくろんで、それを正義・聖戦と偽り争い戦っているくらいだから…

…この世の闇が濃くなるのも当然です…

…皆して赤信号(闇)を渡れば怖くないが如くに…皆の集合意識の中(井の中の蛙・同じ穴の狢)でいる方がかえって安心しておれるのかもしれません。

しかし生活の安心よりも先に「心の安心」を意識する生き方に方向転換・意識変わりしない限りにおいては、今まで通りの闇意識に巻き込まれたままに生きることになります。

だから生活の安心も大切ですが(それを守り戦うことなく)、それよりももっと大切な心・意識を指針にして生きることを決心しなければ…二兎追うものは一兎も得ず…のどっちつかずの中途半端な結果に終わります。

ちなみに心の安定となれば…自ずと(貧しくても)生活の安定ともなります。

この世で初の最後となる完全真理によって既に<答え>が出ているのですから、その答えを知る実践さえしていれば…完全なだけに何処にも矛盾・不完全はありませんから…思考錯誤・葛藤することも無く順調に理解納得に至ります。

しかも既存の宗教のように行為行動を指図されたり形に制限束縛されることは一切ありませんから、常日頃の生活を通して気付き学び知ればいいだけです。

何はともあれ生活の安心を求めている限り「心の安心」は得られませんが…先に心の安心を得れば…自ずと生活の安心が得られる事に早く気付くときがきているのです。

そして理解力や実践力が未熟であっても完全真理が導き出している答えを得るための実践意識でもって「その時」「終末」が来るまで穏やかに生活していればいいのです。

(2019・12・17投稿・リメイク版)

自分を守り闘う「守り意識」がプライド・差別・不信感になるが、それは知るべきことを「知らない」からです。

2018年11月26日 | Weblog
人は皆自分が大事だから必ず「守り」意識を持っています。

それが往々にして世間体や見栄を気にしたり、自分は騙されたくない、損をしたくない、恥をかきたくない、惨めな思いをしたくないと、とにかく損になることは避けたがりますから何かと用心注意してかかることから、それが「不信感」の原因になります。

だから最初は先ず疑ってかかりますから、今まで知らないことを聞いたり見たりして不思議に思えることも、それを信じなければ知ったことが不信感につながります。

だから「見えない世界」に関しては、決め手が無いだけに不思議がることも多く、その決め手の無いことが違和感や不信感・否定反発拒否につながるし、決め手・結論が出せない疑心暗鬼や試行錯誤にもなる原因です。

また宗教に染まっている人たちが神を信じていてもそれは空想・想像の神であり鵜呑み丸呑みの妄信や洗脳された神ですから、本当の神を信じていることにはなりません。 
また奉られ尊ばれている特別な神を信じているがそれ以外の神を信じていなければそれは不信感になります。

また自分に都合が悪いことなら「誰でも」が否定反発拒否しても「当然」と自分勝手に思い込んでいますから、その誰でもが当然に思うことが歪んで「私は正しい」私は間違っていないという原因にもなっていますが、その私は正しいが差別や不信感になっていることに気付いている人は少ないでしょう。

然るに守り意識がプライドになり差別になり不信感になっているのです。

特に「見えない世界」のことになると間違ったことを信じていたり、信じなければならないことを違和感を持っていたり否定反発している人も大勢いますが、
良い悪いを持たない完全真理を学び知れば「見えない世界」も実在の世界になり、言い訳・正当化することも違和感を持ったり疑心暗鬼になることも、矛盾に試行錯誤したり中途半端な妥協で終わらせることもなくなり、
見えない世界が摩訶不思議でも奇跡現象でも無くなり、神や愛が特別でもなくなり、
すべてが「あるがまま」の当たり前に動いていることを知ることで、
この世に特別が一切無いことを知り、
特別で無いほうが人間本来の生き方だと知ることで不平不満・不安心配から守り闘うことも不信感を持つことも無くなって心安らかな日々が訪れるのです。

自分を守り闘う「完璧」を知っていても、すべてを認め差の無い「完全」を知る人はごくわずかですから、その知るべきことを知らないと中途半端な生き方にもなるし、
事実真実を知らないことで不信感の原因にもなりますが、
知るべきことを知れば当然ながら自信になりそれが自力になります。

すなわち中途半端で矛盾のある神や愛を知ることでそれが不信感の原因となるが、
完全な本物の宇宙・神・愛を知れば「完全に信じる・自覚納得」となるのです。

そして完全な宇宙・神・愛を自覚納得し生き続けて人間を終えるのか、不信感を持ったまま生きながらえて人間を終えるのか、この白黒の選択によって人間の人生からあの世の居場所までが決まるのです。

人間が地球で生まれ育ち死に至る原因(役割使命・本分)は「白い玉」を選ぶためであることは間違いありません。

そしてこの世で唯一つの完全真理が説かれていることは此れで「最後の選択」になることも間違いありません。

またそれを信じるか否かの選択も自分自身が決めることになります。

(2009・07・21投稿・リメイク版)

「今日の言葉」…宇宙・神・愛は完全だが、人間は不完全だから矛盾がある…

超能力や他力を必要としない・世界で初めての真実事実のブログ

2018年11月24日 | Weblog
結果と原因は離れていません。
然るに原因あっての結果です。

そしてこの世は結果であり原因はあの世にあります。
然るに人間は結果なのです。

そして人間は生まれながらにして欲を持っています。

然るに此れではダメだ何とかしなければと頑張り事を成すことは欲張りになるのです。

ちなみに冒険家発明家や学者先生になりたいとか政治経済家や音楽芸術家になりたいと等と拘り執着することは欲張りなのです。

それらに拘り執着し欲張ったことで新たな結果が出ても…不完全意識の矛盾のある人間が成したことだけに…良い結果にも悪い結果にもなる矛盾がついて回るのです。

ちなみにお酒を造れば良いこともあるがヘタをすると酔っ払いになったり飲酒運転にもなります。

また発明発見やで快適便利なスイッチポンの生活をすればその弊害副作用やそれらの危険に遭遇することにもなります。

ちなみに真坂の有事や原発事故や放射能汚染や天変地異でもって水や電気や石油などの諸々が使用できなくなると都会が廃墟となる可能性があります。

また巷の不完全な欲絡みの精神世界・信仰宗教・神仏霊魂の世界や超能力まがいのスピ系などの諸々に関わり良いことになってもその矛盾偽善に巻き込まれた被害者にもなります。

その宗教を含めた超能力まがいは摩訶不思議な結果が出ることがあっても人間本来の精神意識(原因)を変えることは絶対に出来ません。

然るに結果じゃないよ原因だよとなります。

ところで私には超能力まがいはありませんが宇宙・神・愛のお仕組みの連続からしていつの間にやら自然界の恵みの中で孤独の自由を味わいながら暮らす自己縮小になり、
食って寝て糞をしながら生きているだけで十分に納得できる…欲張らない生活となっていますし…その実践の事実からして気付いたことをブログを書き続けています。

そこで一例を参考に書きますが…スイッチポンでもって何もせずに暖を取って趣味嗜好娯楽に欲を出している人も多いとは思いますが…私は暇だけに自力を多く使って暖を取っています。
然るに…暇ながらも…己が自力でもって今を生きている自覚が味わえます。
だから人間関係から離れた孤独が空しい寂しいの孤独感にならないのです。

また此れまで誰もが経験できない(UFOを含めた)幾多の異次元に遭遇していますし、極めつけにあるのが…10年連続にして地球外生命体と身近な庭先や手が届く近さで接し触れ合っていますから…それが大きな自信となっています。

そこでせん越ながらも…私は(結果を出して見せる超能力を使わないで)(人を一堂に寄せ集めないで)(お金と時間の浪費無くして)(他力に依存しないで)読者各々が自ら実践して意識を修正改革できることからして言えば…このブログは…原因意識を修正改革できる精神世界の本物になります。
…不完全な釈迦やイエスやサイババの類を超えています…

しかも拘り執着して欲張らなければいいのですから、東西南北の老若男女の誰もが公平にして実践できます。
…世界で初めてのブログです…

守り闘わない「調和」があれば、被害が被害ではなく、病気が病気ではなく、死が死ではなくなります。

2018年11月23日 | Weblog
「調和」とは…良いも悪いもない・差もなく・丁度いい・普通の状態を言いますが…それが「愛」でもあります。

「妥協」は…良いと思う人と悪いと思う人が寄り集まって妥協策を講じている結果ですから必ずしも「安定」していません。

そして「否定・反発」することは妥協も調和もありませんから愛から離れていき孤立します。

「調和」の愛には<特別>がありませんが、妥協や否定反発には「守る」べき特別なことがあります。

それを「守る」ということは外部に敵がいなければ成立しません。
その敵に当たるのが自分以外の他のものですから絶対に「調和」することはありません。

すなわち愛の無い状態で生きていることになります。

だから調和が無いから良いことも悪いことも繰り返し続きます。
だから喜怒哀楽・生老病死を気にして良かったり悪かったりしますから…その良いとこ取りするために常に闘っています。

だから特別な人も否定反発する人も妥協する人も心が安らぐ暇もありません。
せいぜい良い思いをしたことを満足したと思い込む自己満足やそれを自己主張するくらいで手一杯な人生になります。

調和のある人は良い悪いの判断が無いから何事の結果にも動じません「あるがまま」です。

…雨が降ろうが矢が降ろうが如く…雨不足の干ばつや大雨の洪水が起きても動じません。

…病気になろうが死に掛けていようが…いま生きていることにお陰様の感謝やお互い様の心・意識でもって、いま生きていることを活かしているからです。

そのお陰様とお互い様があるから人を責めたり、そして不平不満に成ることもありませんから、いつも平常心でいられます。

その平常心でいるから守り闘いません、守り闘わなければ敵は存在できなくなり、愛が出てきます。

すなわち被害が被害ではなくなり…お互い様になり。

病気が病気ではなくなり…薬剤に頼らないで自力・治癒力・生命力・意識エネルギーの愛のお陰様で回復することになり。

とうぜん病気と闘わなければ死とも闘わないことから…死の不安や恐怖がなくなり。

肉体の死が…すべての死ではなくなるのです。

死が死ではなくなれば…新たに生まれるしかありません。

だから「0」で終わるのではなくて…「0」から新たに始まり10にも100にもなっていけるのです。

ちなみに「0」になることを恐れていると…せいぜい「9」まで止まりで10や100には成れません。

だから衣食住や財や名誉名声・権威権力を失い無くなることを恐れ、死や病気を恐れることにもなっています。

すなわち失い無くなっていくことを不平不満・不安心配に思い、そうなる事に「恐れ」を持って生きていることになるのです。

そして「恐れ」を持っていれば「生きた」心地がしません。

そこで好きな嗜好趣味娯楽に興じることや夢や希望を持っていなければ生きてはいけません。

ところがそれら手にすることに意識がいけば今の不安・恐れから一時的に逃避は出来ますが…良い悪いで判断していることが続く限り…以前より以上の不平不満や不安心配や苛立ち恐れを抱え持つようになります。

だからまたそれ以上の変化刺激(強い刺激)を捜し求めて生きることを繰り返すことにもなっています。

すなわち…生きてはいるが…生きた心地がしていないので…死んだも同然の状態になるのです。

その内にそれら困難なことに取り組んでいることが生き甲斐になって(生きていると思える証になって)(我が身を苦しめることで生きていることを確認したがることになって)…
その理想や夢に向かって鍛錬試練に耐えることや波乱万丈の人生を歩むことを選んで…
その成功を自慢したがるか、失敗を卑下したがるかの…
その両極端な(良かったことや悪かったことの)生き様を人に見せつけようと自己主張することにもなっています。

しかしそれらの原因を見ずにして結果だけを見て…
そんな人を憧れ羨ましがったり、真似したがったり、反対に妬み逆恨みすることになったり…
また蔑んだり、気の毒に思ったり…
また救い助けてあげたくなったりしていますが…
そう思う自らが「良い悪い」で判断していることに気付かないかぎり(調和にならずに)あらゆる努力が自分の為でも人の為でもなくなり、時間や金の浪費や苦労と混乱が続くだけになります。

それを例えればニュース報道で熱心に救済援助奉仕貢献・金集め人集めに関わっている人や、娯楽番組で波乱万丈の人生を紹介したり、学校を建てたりする取り組みを見ていると…
それらの人の真剣な努力や生き生きとした表情を見たりしていると…
そんな真似は到底ながら私には出来ないことだけに、頭が下がる思いもするし心打たれて涙も出てきますが…
じゃそれで此れから先はどうなっていくの?となると…原因と結果は同じですから…以前とは結果形は変わっても原因が変わらない限り…一時しのぎの結果で…矛盾や妥協のある…此れまでと同じ繰り返しが見えてくることからして…私は無駄に思えるのです。

すなわち善意と言われる形で何千・何万・全ての人が救われ助かっても…
また全ての人の教育が同等になっても…
良い悪いを持たない調和の意識になっていない限りにおいては…

逆境から助かったことや知恵が付いたことがアダとなって…
経済発展で更に自然破壊が進んだり…

また増え続ける問題や不平不満を解消すべき反体制派になって世情を混乱させることになったり…

以前に増して比較競争が激しくなりその勝者を目指すことで起こる貧困格差や無いものを欲しがり奪う侵略・戦争にもなります。

またその被害者が仕返し制裁・報復テロをするようになれば…これまでの繰り返しが形を変えて増え続けるだけです。

だから原因となる個々の<意識改革>が先になければとブログに書き込んでいるのです。

(2009・11・17 投稿・リメイク版)

常識によって洗脳され牛耳られ束縛支配され差別されることになる

2018年11月22日 | Weblog
完全な真実・事実には洗脳は入れないが、不完全には自己暗示や他者暗示の洗脳が入っています。

ちなみに卵を見れば誰もが卵と見ますから完全ですが、卵を見て鳥だと言えば不完全になります。

その不完全は事実を見ていませんから…矛盾していて、あいまいだったり、妥協だったりします。

そして事実ではないことを事実に見せかけるのには言い訳したりして正当化するしかありません。

その結果…事実ではないのに…「私は正しい」と主張したり顕示誇示することにもなっています。

その正当化されたことを丸呑みして信じれば洗脳されたも同然になります。

しかも正当化されたものが集合して常識や道徳・伝統風習にもなっているのです。

その不完全を信じているのが我々だと気づいている人は少ないでしょう。

完全な宇宙の全知全能で創造された自然界は完全ですから調和が取れています。

ところが不完全意識の人間が生み出した現代科学や医学や産業技術なども不完全ですから、それらの影響を受けて自然界の調和が崩れ弊害・副作用・公害などが現実に出ています。

そんな不確かな科学や医学の(良いとこ取りした)データーを信じている人が大勢います。

また常識は人の集合意識から生まれたものですから全員一致の完全ではありませんが、その常識を「正しい」と信じている人が大勢います。

しかも集合意識から外れた少数派を非常識扱いにして否定反発排除したがるのがこの世にあります。

例えば、葬儀は悲しみを表すのが常識であり、葬儀の参列者が派手な服装をしていたり笑顔でいれば非常識と言われます。

また服装で男は右前で女は左前とか髪型・着付けに至るまで、また夫婦は一婦制に限り、重婚・浮気・不貞・近親相姦・レズやホモはだめと…あれはダメでこれは良いからと善悪で判断することが常識化され…
いつの間にやらそれが正しい事にされ、それも時代と共に次第に増えていき…それがマナーや道徳・風習や伝統にもなっていることから、その常識・マナーで要らぬ苦労・浪費を重ねたり、意識しすぎて気疲れしたりして…
常識・伝統風習道徳で自他共に牛耳られ束縛制限・差別されて自由平等が妨げられているのです。

また非常識に入る不潔・不衛生が主要原因で感染症や病気症状になるとは限りません。
反対に黴菌は悪いから全部殺してもよいと悪者扱いにする過剰意識に問題・原因があります。

病気の原因は意識にありで…その過剰意識・意識負荷・ストレスが大きく影響しています。

また病原菌や感染ウイルスやガン細胞も意識体ですから、守り闘って相手を殺そうとすると対抗してくるのも当たり前ですから…その「抗体」を持つことになるし…
それらを薬剤や手術で排除して姿形が消えても…それらの意識・命は永遠に生きていますから…転移再発や感染は…形を変えてでも続きますから…
この世からは病気が無くならないばかりか病例症状が強力になって増えているでしょう…

また細菌ウイルスの役割個性が違っていても人間と同じ意識体ですから…悪者扱いで守り闘わなければ…
すなわち相手(細菌ウイルス)の存在を認めていれば…敵対意識がないから…その菌の活動が穏やかになり安定してきますから…
あとは成り行き任せにして病気と仲良く付き合っていれば…寿命が尽きる時でなければ…元々の生命力や自然界のエネルギーによって次第に症状・病気が回復治癒していきます。

その実例にあるのが大腸菌O-157騒動のときに大病院で菌を殺しにかかって重症化したが、ある小さな病院では下剤で菌を体内から出した患者は軽症ですんだ事例が有名です。

でも下剤と抗生物質を投与するのとでは病院の儲けが違いますから…その病院側の意識が患者の病気・症状の回復を左右する原因にもなります。

他にも、潔癖症の人ほど拒否反発する意識が強いことから体質も同じように拒否反応を示すことになり(原因と結果は離れていませんから)アレルギー体質の皮膚炎になったり、また「私は正しい」と執着している人が花粉や植物アレルギーを持つことにもなります。

結局は…多数派の集合意識の常識を信じていれば…少数派を否定反発排除することになり…その結果・危険な赤信号の横断歩道を皆で渡っているようなものになり、今後とも問題・結果が出続ける事からすれば少しも油断することは出来ません。
だから…心穏やかに安心して暮らすことは不可能でしょう…

ちなみに…巷で言われる3K(臭い汚い危険・守り意識・敵対意識・排除意識)からして…自らの墓穴を掘っていることは真実事実です。

(2009・10・19 投稿・リメイク版)

それでも英知ある人間ですか!

2018年11月21日 | Weblog
この世は…原因あっての結果…の世界なのです。

だから原因を作らなければ結果は出てきません。

…何度も書いていますから簡単にします…
ちなみに飲酒運転すると罰せられますが…元からしてお酒がなければ何の問題も起きません。

またタバコを作らなければポイ捨てや禁煙室もありません。

と言うことは…自然界に元からしてなかったお酒やタバコを造ったのが結果的には間違いの元なのです。

また車両がなければ事故もありません。

また石炭や石油を使わなければ弊害副作用もありません。

また電気が必要なければ原子力発電所もありません。

然るに発明発見がなければ…元の自然界のままならば…この世人間界がヘンテコにはなりません。

ゆえに人間が作った諸々には矛盾があり依存症にもなっているのです。

それゆえに法律化され制度化されシステム化され自由を失い差別されるのです。
…自らが墓穴を掘っているのです…

だから不完全意識の人間が作った諸々から離れた生活をすることで己の心身が救われるのです。
…他に道はありません…

ちなみに豊かな自然界の恵みによって食って寝て糞をしながら生きているだけで十分なのです。
…ひと昔と比べれば十分すぎるほどです…

何はともあれ…欲張った結果を省みて…欲張らない実践となることが…人間として生まれてきた意味・原因があるのです。

その事実真実をしっかり自覚認識し見極めることができれば…矛盾に惑わされずに…喜怒哀楽のストレスを味わずに…日々精神安定にして生きていけます。

然るに独自独歩の自由にして「欲張らなければ」…あなた自身が大きな問題の被害者にも加害者にもなりません。

ごく簡単なことなのに何で理解し納得し実践できないのでしょうか?…それでも英知ある人間ですか!

「この世」は<結果>であり、大元の原因は<意識>にある。

2018年11月18日 | Weblog
姿形で見える宇宙・地球、その万物・人間も自らの「意識」で動いている「意識体」ですから、意識が「原因」であってその姿形は表現された「結果」にしか過ぎません。

その原因の「意識」には永遠の「命」がありますから、その原因の結果である表現体の姿形が滅びてなくなっても、その「意識・命」は永遠に<実在>し続けることが出来ます。

すなわち、始まりなき終わりなき完全な宇宙の愛意識エネルギーから創造されたすべてのもの、宇宙や神と言われる全知全能の愛意識エネルギーから創造された宇宙・地球・人間・万物として実在するものにも、同じ愛「意識・命」を持っています。

ゆえに宇宙万物すべてが愛であり、その愛(意識)から全知全能の生み出す力・エネルギーが出ています。

だから今も宇宙万物が(愛の意識エネルギーによって)進化拡大し続けることが出来るのです。

そして人間の場合は意識したことが(意識の力・エネルギーが)身体に伝わることからその身体を使って行為表現することができます。
 
しかし何も意識しなければ…肉体は働きませんから(死体同様になり)…姿形の肉体が有っても・無いのと同じ<非実在>となるのです。

すなわち「意識・命」が本命の実在であり愛ですから、二番目の姿形は表現するための仮の姿・道具にしかすぎません。

その意識のことを分かりやすく説明すると…家族団らんでTVを見ている形があっても、TV画面に意識がいっている時に家族のことは意識にありませんから、家族が身近にいても(実在していても)非実在になります。

また恋人同士が接し触れ合っているときは意識を感じますが、意識が別なところに行っていれば、恋人と触れ合っている意識はありませんから(接し触れ合って居ても意識・実感していないから)、直近に居るけれど居ないのと同じになり、実在しているけれど実在していないことになります。

そして人間は実在で生きている今が…過去や未来を意識していれば…過去と未来は頭の中の「記憶」「思い」ですから、その過去や未来に執着していれば非実在で生きている事になります。

だから、過去未来ではない今の時間を生きていることが「今を実在で生きる」「愛に生きる」ことになりますが、過去の事に未練執着したり未来の事に執着していれば、それは頭の中の思いですから非実在(空想・想像の世界)で生きている事になります。

すなわち、意識したことを実際に行為表現するする事で実在・愛の事実になりますが、単に頭で「思う」だけでは行為表現が無いから非実在になります。

また「この世」と言われる人間界も、元々の「原因」である意識・命が仮の姿形となって表現されている「結果の世界」になりますから…この世は「原因が結果」となって表れている結果にしかすぎません。

ところで、その原因となる意識・命の居場所として…見えない「あの世」と言われる…次元世界があることを世界中の様々な宗教で言われていて、実際にそれを信じて信仰している人や生活慣習や伝統風習にしている人が大勢居ますが、ところがそれとは裏腹の「あの世」では必要ないはずの衣食住や財・名誉名声・権威権力に拘り執着して、それらを得たい欲得の思い思惑・目的理想(非実在)で生きようとしています。

たぶん、非実在の結果の「この世」にある非実在の形・敬称である肩書・名声を持つと「あの世」でも身分階級が高いところで居れると思う間違った宗教観念・概念を教えられて信じている人が居るかもしれませんが、それは競争・差別意識ですから到底ながら「あの世」「愛意識の世界」で受け入れられ歓迎されるはずもありません。

また、神仏を信じ、お祈りを重ね、人が喜ぶ善行を重ねたりすれば、やがて神や仏の世界に行けるという「先々の結果」を予測期待したりする思い思惑・目的・理想でやっていることであれば…
それは有りもしない非実在で生きていることであり、勘違いした神仏を信じている偽善であり、自分さえ良ければの欲で非実在を求めているのですから、到底ながら今を生きる実在・愛で生きていることにはなりません。

だから現実に「あの世」へ行ったときに…あれだけ人生頑張ったのに…まさか何で私が…と後悔する事になります。

何はともあれ…原因の意識から出て現れた結果を「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断さえしなければすべてが愛になります。

だから…そのまま、このままの「あるがまま」が愛・意識なのです。

だから判断せずに「当たり前」「必然」でやっていることが愛になります。

しかし自分の思いを込めた愛の思いは愛情になり、実在の愛とは違った(非実在の)形の表現になりやすく、束縛制限支配したがる思い思惑・期待が込められています。

だから恋人や家族などの愛情関係は互いを束縛制限支配しあう不自由・不平等の関係ですから、互いの思い思惑期待を裏切る「裏切り関係」で成り立っていることになります。

だから、己の思いのこもった愛情を与え求めることよりも…あるがままの愛、当たり前の愛、小さな喜び・愛に気付き、心から満足し感謝できる生き方に意識改革・自己縮小する必要があるのです。

そして「この世」は<結果>であり、大元の原因は<意識>にあることを知れば「意識改革&自己縮小」が進みます。

(2009・09・20)投稿・リメイク版

愛は自由・平等、愛情は不自由・不平等の中にある。

2018年11月16日 | Weblog
愛と愛情はぜんぜん違います。

愛していると思うのは…個の思い思惑・想像ですから、白昼夢・夢物語と同じ非実在の愛ですから本当の愛とは違ってきます。

愛していると言うのは…個の得手勝手な思いを口に出して、相手に言って聞かせるだけの愛ですから、相手が嬉しくなって満足しても、実在の愛エネルギーでもって心身に届きません。 

すなわち思ったほうも、言ったほうも、聞いたほうも、仮の一時的な自己満足の思いであり、直ぐにでも忘れ去るような非実在の不確かな思いの愛であり…個人の思い情の入った愛情になります。

その愛情には裏と表の差がありますから、比較評価判断して多い少ないとか、価値が高い低いで愛情の深さを比較判断しているから、表だった愛情がひっくり返り裏側の憎悪に一変することもあります。

完全な愛は(裏表のある)形になりませんが、愛情は形にしたがります。

だから愛は束縛制限支配しませんが、愛情は相手を束縛制限支配したがります。

すなわち愛は自由平等の中にあり、愛情は不自由・不平等の中にあります。

だから愛情で結ばれた恋愛・結婚・夫婦・家族家庭はいつなんどき裏切り裏切られ破綻・崩壊するか知れません。

そこまで行かなくても常に不平不満不信を抱いているが、それを辛抱我慢・妥協協調することで関係を維持・守っていますから、互いの心が解け合う調和にはなりません。

その完全な愛を知るためには良い悪いで判断しない完全真理しかありません。

愛は求めたり与えるのもではなくて自然体で得るものです。

然るに自然界は愛に満ちています。

しかし人間は感情でもって愛を判断しているから不完全で矛盾があるのです。

そして愛情には見返りを求める裏心が必ず隠れています。

だからプレゼント交換でもって愛情を確かめ合うことにもなるのです。

しかしその見返りがなければその仕返し報復に何かと責め立てたり裏切ることにもなります。

然るに愛情は有限で・求め続けますが、愛は無限に・与え続けてくれます。

(2009・07・02)投稿・リメイク版