巷に様々な主義主張論理や西洋東洋の思想哲学や宗教真理やそれに類する精神世界を説くのや宇宙自然論や教育論理がありますが、私のような学識教養知識や宗教知識の乏しいものには難解な言葉が多くありすぎるし、しかも内容が複雑すぎるので、それらの文書や著書をまったく読む気にもなりませんし、それらを語る講演会にもまったく関心がありませんでしたが、私には知らない事を知りたがる好奇心や知った事をやりたがる意欲もあったことからして、その時々聞こえてくる(伝わってくる)私にも理解できるような簡単な言葉とその内容などを「広く浅く」知ることはできました。
それだけに「良い悪い」で判断しない完全真理を知った時は、これほど簡単に理解できる真理が有史以来今まで出てこなかったことが摩訶不思議なくらいでして、まさしく皆が今まで見逃していた「穴場」「当たりくじ」に気付き巡り会えたような感じでした。
だからこのブログもそうですが、そんなに学識知識教養が無くても理解できる筈です。
ところがしかし巷の信仰宗教のように、自分が知った神仏をただ信じているような形にすれば、その学び知った完全真理を活かせませんから、やはり確かな実践が必要でした。
しかしそうなると、如何に完全真理と言えども、その「良い悪い」で判断するのが人間だけに、どこか無理があり何か矛盾するような思いが私にはありましたから、耕栄さんが期待を込めていたことにある「この世で生きながらにして完全意識になる人が数人いる」と言う話は多分無理だろうと思っていました。
その私の思いが言い当てたようになったのが(後日)良い悪いで判断しても「執着」しなければいいと言われ始めたときでした。
そしてその頃からファバラ・エネルギーのシールが販売されるようになったのですが、そのシールの必然性には納得できるものの、(完全真理だけでいいのに)何で今更摩訶不思議なシールを出すのよと言うような違和感がありました。
それは摩訶不思議エネルギーの実在事実を知らない人にはインチキ・カルトに思われる疑念があったし、(必ずしも結果が出るとも限らないことから)薬事法違反や誇大広告宣伝になるような言動がなされていたからですが、その金儲けが原因で脱税事件に発展するとは思いもよらない予想外の出来事でした。
・・・完全真理を広めるための良い形にしてもそれが逆に広めることを邪魔する形にも(裏表)なるのがこの世です。
それと耕栄さんの講演会や命送会で摩訶不思議な結果を出して見せる形(俗に言う奇跡現象)や、またファバラ製品の現象結果は「人集め」の道具にはなるが(完全真理を世間に広める結果になっても)、それが裏目に出て(奇跡を見たことから)信仰宗教のように耕栄さんを信じるだけの(妄信)信者意識の人が増えていることも気になっていました。
それでも「完全真理」は完全ですから(私のような薄っぺらな人間でも)その矛盾も妥協も一切ない完全真理にどんどん深く目覚めることが出来たのです。
しかも自己縮小とか執着しなければいいとか素朴であればいいとか言われだした時には「水を得た魚」同然になりました。
それは若い時から執着することがなくて概ね成り行き任せに生きていたことや、その成り行き任せが仕組まれ続けて「しがらみ」から離れた質素素朴な過疎地暮らしを独自独歩の自力と自信で無理なく味わっていたからです。
すなわち自然体の成り行き任せの「来るものは拒まず去るものは追わず」や「食って寝て糞をする」だけのような特別も執着もない自己縮小をしたような生活に既に馴染んでいたことから、その完全真理が素直に納得確信・悟りにもなっていったわけです。
しかも、何か不平不満があってもそれに執着しければ実際に困ることもない(困ったと思わないで済む)その事実を既に我が身でもって味わっていただけに、その事実を自信ありげに何度も書くことにもなっているのです。
だから皆さんの中にも既に執着のない実生活を味わっていられることと思いますが、しかしまだ気に病むことが少しでもあればそれも執着ですから、その執着している事柄に自らが気付くことでその執着が直ぐにも消えることになるその事実を早く味わうことも必要です。
または、その執着が執着で残っている限り、それも「どうしようもない」事だと気付けば、その執着が消えることにもなるのです。
また、この世が不完全意識で覆われていることの事実を知ることからして、その不完全で「どうしようもない」事実に執着することも次第に消えていきますが、ところがしかし身近な人間関係ともなるとそう簡単ではないと思っています。
何たって日々接し触れ合っている間柄だけに執着してしまうのが正直なところでしょうが、しかしそれも「どうしようもない」ことと気にしなくなれば執着することにはまずなりません。
それを簡単に言えば、やはり自他共に「成り行き任せ」にできる自信・精神力が必要になりますが、またそれを邪魔するのが己の我欲・自我の見栄や世間体でしょうから、やはり自己縮小が伴わなければ無理かもしれませんし、その自己縮小のためにも執着心を無くする必要がありますから、兎に角<執着>しないことに尽きるようです。
それだけに「良い悪い」で判断しない完全真理を知った時は、これほど簡単に理解できる真理が有史以来今まで出てこなかったことが摩訶不思議なくらいでして、まさしく皆が今まで見逃していた「穴場」「当たりくじ」に気付き巡り会えたような感じでした。
だからこのブログもそうですが、そんなに学識知識教養が無くても理解できる筈です。
ところがしかし巷の信仰宗教のように、自分が知った神仏をただ信じているような形にすれば、その学び知った完全真理を活かせませんから、やはり確かな実践が必要でした。
しかしそうなると、如何に完全真理と言えども、その「良い悪い」で判断するのが人間だけに、どこか無理があり何か矛盾するような思いが私にはありましたから、耕栄さんが期待を込めていたことにある「この世で生きながらにして完全意識になる人が数人いる」と言う話は多分無理だろうと思っていました。
その私の思いが言い当てたようになったのが(後日)良い悪いで判断しても「執着」しなければいいと言われ始めたときでした。
そしてその頃からファバラ・エネルギーのシールが販売されるようになったのですが、そのシールの必然性には納得できるものの、(完全真理だけでいいのに)何で今更摩訶不思議なシールを出すのよと言うような違和感がありました。
それは摩訶不思議エネルギーの実在事実を知らない人にはインチキ・カルトに思われる疑念があったし、(必ずしも結果が出るとも限らないことから)薬事法違反や誇大広告宣伝になるような言動がなされていたからですが、その金儲けが原因で脱税事件に発展するとは思いもよらない予想外の出来事でした。
・・・完全真理を広めるための良い形にしてもそれが逆に広めることを邪魔する形にも(裏表)なるのがこの世です。
それと耕栄さんの講演会や命送会で摩訶不思議な結果を出して見せる形(俗に言う奇跡現象)や、またファバラ製品の現象結果は「人集め」の道具にはなるが(完全真理を世間に広める結果になっても)、それが裏目に出て(奇跡を見たことから)信仰宗教のように耕栄さんを信じるだけの(妄信)信者意識の人が増えていることも気になっていました。
それでも「完全真理」は完全ですから(私のような薄っぺらな人間でも)その矛盾も妥協も一切ない完全真理にどんどん深く目覚めることが出来たのです。
しかも自己縮小とか執着しなければいいとか素朴であればいいとか言われだした時には「水を得た魚」同然になりました。
それは若い時から執着することがなくて概ね成り行き任せに生きていたことや、その成り行き任せが仕組まれ続けて「しがらみ」から離れた質素素朴な過疎地暮らしを独自独歩の自力と自信で無理なく味わっていたからです。
すなわち自然体の成り行き任せの「来るものは拒まず去るものは追わず」や「食って寝て糞をする」だけのような特別も執着もない自己縮小をしたような生活に既に馴染んでいたことから、その完全真理が素直に納得確信・悟りにもなっていったわけです。
しかも、何か不平不満があってもそれに執着しければ実際に困ることもない(困ったと思わないで済む)その事実を既に我が身でもって味わっていただけに、その事実を自信ありげに何度も書くことにもなっているのです。
だから皆さんの中にも既に執着のない実生活を味わっていられることと思いますが、しかしまだ気に病むことが少しでもあればそれも執着ですから、その執着している事柄に自らが気付くことでその執着が直ぐにも消えることになるその事実を早く味わうことも必要です。
または、その執着が執着で残っている限り、それも「どうしようもない」事だと気付けば、その執着が消えることにもなるのです。
また、この世が不完全意識で覆われていることの事実を知ることからして、その不完全で「どうしようもない」事実に執着することも次第に消えていきますが、ところがしかし身近な人間関係ともなるとそう簡単ではないと思っています。
何たって日々接し触れ合っている間柄だけに執着してしまうのが正直なところでしょうが、しかしそれも「どうしようもない」ことと気にしなくなれば執着することにはまずなりません。
それを簡単に言えば、やはり自他共に「成り行き任せ」にできる自信・精神力が必要になりますが、またそれを邪魔するのが己の我欲・自我の見栄や世間体でしょうから、やはり自己縮小が伴わなければ無理かもしれませんし、その自己縮小のためにも執着心を無くする必要がありますから、兎に角<執着>しないことに尽きるようです。