矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

この世が不完全意識で覆われていて「どうしようもない」事実を知れば<執着>も次第に消えていきます。

2012年02月28日 | Weblog
巷に様々な主義主張論理や西洋東洋の思想哲学や宗教真理やそれに類する精神世界を説くのや宇宙自然論や教育論理がありますが、私のような学識教養知識や宗教知識の乏しいものには難解な言葉が多くありすぎるし、しかも内容が複雑すぎるので、それらの文書や著書をまったく読む気にもなりませんし、それらを語る講演会にもまったく関心がありませんでしたが、私には知らない事を知りたがる好奇心や知った事をやりたがる意欲もあったことからして、その時々聞こえてくる(伝わってくる)私にも理解できるような簡単な言葉とその内容などを「広く浅く」知ることはできました。

それだけに「良い悪い」で判断しない完全真理を知った時は、これほど簡単に理解できる真理が有史以来今まで出てこなかったことが摩訶不思議なくらいでして、まさしく皆が今まで見逃していた「穴場」「当たりくじ」に気付き巡り会えたような感じでした。
だからこのブログもそうですが、そんなに学識知識教養が無くても理解できる筈です。

ところがしかし巷の信仰宗教のように、自分が知った神仏をただ信じているような形にすれば、その学び知った完全真理を活かせませんから、やはり確かな実践が必要でした。
しかしそうなると、如何に完全真理と言えども、その「良い悪い」で判断するのが人間だけに、どこか無理があり何か矛盾するような思いが私にはありましたから、耕栄さんが期待を込めていたことにある「この世で生きながらにして完全意識になる人が数人いる」と言う話は多分無理だろうと思っていました。

その私の思いが言い当てたようになったのが(後日)良い悪いで判断しても「執着」しなければいいと言われ始めたときでした。
そしてその頃からファバラ・エネルギーのシールが販売されるようになったのですが、そのシールの必然性には納得できるものの、(完全真理だけでいいのに)何で今更摩訶不思議なシールを出すのよと言うような違和感がありました。
それは摩訶不思議エネルギーの実在事実を知らない人にはインチキ・カルトに思われる疑念があったし、(必ずしも結果が出るとも限らないことから)薬事法違反や誇大広告宣伝になるような言動がなされていたからですが、その金儲けが原因で脱税事件に発展するとは思いもよらない予想外の出来事でした。
・・・完全真理を広めるための良い形にしてもそれが逆に広めることを邪魔する形にも(裏表)なるのがこの世です。

それと耕栄さんの講演会や命送会で摩訶不思議な結果を出して見せる形(俗に言う奇跡現象)や、またファバラ製品の現象結果は「人集め」の道具にはなるが(完全真理を世間に広める結果になっても)、それが裏目に出て(奇跡を見たことから)信仰宗教のように耕栄さんを信じるだけの(妄信)信者意識の人が増えていることも気になっていました。

それでも「完全真理」は完全ですから(私のような薄っぺらな人間でも)その矛盾も妥協も一切ない完全真理にどんどん深く目覚めることが出来たのです。
しかも自己縮小とか執着しなければいいとか素朴であればいいとか言われだした時には「水を得た魚」同然になりました。
それは若い時から執着することがなくて概ね成り行き任せに生きていたことや、その成り行き任せが仕組まれ続けて「しがらみ」から離れた質素素朴な過疎地暮らしを独自独歩の自力と自信で無理なく味わっていたからです。

すなわち自然体の成り行き任せの「来るものは拒まず去るものは追わず」や「食って寝て糞をする」だけのような特別も執着もない自己縮小をしたような生活に既に馴染んでいたことから、その完全真理が素直に納得確信・悟りにもなっていったわけです。
しかも、何か不平不満があってもそれに執着しければ実際に困ることもない(困ったと思わないで済む)その事実を既に我が身でもって味わっていただけに、その事実を自信ありげに何度も書くことにもなっているのです。

だから皆さんの中にも既に執着のない実生活を味わっていられることと思いますが、しかしまだ気に病むことが少しでもあればそれも執着ですから、その執着している事柄に自らが気付くことでその執着が直ぐにも消えることになるその事実を早く味わうことも必要です。
または、その執着が執着で残っている限り、それも「どうしようもない」事だと気付けば、その執着が消えることにもなるのです。

また、この世が不完全意識で覆われていることの事実を知ることからして、その不完全で「どうしようもない」事実に執着することも次第に消えていきますが、ところがしかし身近な人間関係ともなるとそう簡単ではないと思っています。
何たって日々接し触れ合っている間柄だけに執着してしまうのが正直なところでしょうが、しかしそれも「どうしようもない」ことと気にしなくなれば執着することにはまずなりません。

それを簡単に言えば、やはり自他共に「成り行き任せ」にできる自信・精神力が必要になりますが、またそれを邪魔するのが己の我欲・自我の見栄や世間体でしょうから、やはり自己縮小が伴わなければ無理かもしれませんし、その自己縮小のためにも執着心を無くする必要がありますから、兎に角<執着>しないことに尽きるようです。
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豊かな「感情体」で生きることよりも、自力自信の豊かな「精神体」で生きることが重要になります。

2012年02月26日 | Weblog
完全真理を学び知った私達はこの世の形やその人間関係が不完全である事に気付きました。
そしてその原因意識である「良い悪い」で判断する事を無くする実践を試みましたが、それが絶対的に無理だとわかりました。
そこで判断して思ったことに「執着」しないことを実践する自己縮小・素朴・過不足のない普通に生きる実践をすることになりました。

ところが既に自己拡大をしてきた過去・しがらみがありますからそう簡単ではありません。
それに感情が豊かでその優しさ思いやりの人情・愛情を出している人も大勢いますから、困っている人を見て(ほっとけずに)手を差し出すことが当たり前に思っている人もいますが、それが執着とは気付かずにそれが善行・恩返し・孝行になると思っていますから、その自分の思いを成す事に(特別な)生き甲斐を感じたりして一生懸命頑張ることにもなっています。

しかしそれは良い悪いで判断している不完全意識の者が同じ不完全意識の者を救い助けても同じ不完全な結果しか出てこない事・事実に気付いていないからです。

また困っていること自体が神仏や人様の他力・お蔭で解決することは絶対にありませんが、それでも、その優しさ思いやりの親切に感動したりすることにでもなれば、その感動を胸に入れてその類似・物真似に挑む人もいるでしょうが、しかし、それも自分の思いですから、その思いを成そうとすることは(自分の都合が含まれた)自己拡大になります。
だからその時々の途中結果に自己満足したり不平不満になったりする繰り返しが続くだけで完全解決には絶対に到りません。

それでも、その繰り返しが続くその矛盾を味わうことが、いつしか完全意識を説く完全真理に活かされるときが来れば、それが無駄にはなりません。

だから病気になって健康の有難さを知るように、また死にかけて生きていることの有難さを知るように、また苦楽を味わい知ってその苦楽のない生き方に満足するように、また人様の成す優しさ思いやりにも裏心があることも知り、それら不完全を味わい知ったからこそ宇宙・神・愛の完全を学び知り気付くように、その不完全と完全の両方を味わい学び知ることが人間の役割と使命だと気付けば、そこで自己拡大が止まり自己縮小の実践が進むことにもなるのです。

そして「困った」と思うことが自分の執着だと気付き、その執着をなくして忘れることができれば、その困ったことから開放されて、その問題が自らの中で解決できたことになるのです。
だから「困った」困ったと連発している人を気軽に救い助けることよりも、またそれら人様のことに気を病むよりも、先ずは自分の意識を改革することが先決なのですが、それでも、それら困っている人が自ら解決できるように完全真理の真理を教える(アドバイスして)ことは出来ますから・・・未熟な者同士で共に歩む事を促すほうが親切とも言えますから・・・そこで(親切心から)(巷の信仰宗教の布教勧誘のように)完全真理の布教活動をすることにもなります。

しかしそれも無理押し・押し付けすることではありませんから(不完全意識の者同士だから深く関わることなく)、やはりその人達の自由意識に任せてほっとく事になります。
そこで「来るものは拒まず去るものは追わず」の必然ご縁のお仕組み任せ・自然体の成り行き任せになるのです。

また身近な人達や自らが有事に遭遇して被害者・被疑者・被災者になっても、それに執着すればするほどに自分が困った事になるだけで何ら解決には結び付きませんし、その自分の思いに反して(その思い入れが)人様に迷惑をかけていることも十分ありますから、そんな済んでしまった過去のどうしようもない事に気を病む事無く、早く忘れ去ることが出来るだけの精神力・自力・自信も必要になるのですが、それにはやはり完全真理の深い理解とその実践が無ければ無理なようです。

だから前もって思い考え予測することよりも、すなわち先々に執着して前もって(苦と楽に)気をもむ事よりも、また過去の事に執着して気をもむ事よりも、その時その時の出たとこ勝負の「今を生きる」のが肝要になるのですが、それが自分の意識が原因で仕組まれ起こる必然ご縁の成り行き任せに生きることになります。

そのためにも、何事にも<否定反発>しないで「知りたがる」「やりたがる」実践力も必要なのですが、それが見掛け先入観・潜在意識や価値観やで勝手に判断して「食わず嫌い」のままに終われば、如何に優れた学識知識教養があっても、まだ未知の事を味わい知らない無知な人や自力自信・精神力の少ない人になるとも書いているわけです。

また私が感情の薄い非情とも薄情ともとれる(感情不要論ともとれる)事例や生産性の低い内容を多く書いているのも、不完全なこの世の形の中やその不完全意識の者同士では「どうしようもない」事・事実に早く気付いて納得確信になることを願っているからです。
そして(世間で喜ばれる)豊かな「感情体」で生きることよりも、(この世でもあの世でも役立つ)自力自信の豊かな「精神体」(意識体)で生きることからして、その「意識・命の世界」の完全真理・完全意識により早く近づけると(私は)思っているからです。
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「困った」と思わなければ(判断しなければ)困ったことにはならないのが「意識の世界」です。

2012年02月23日 | Weblog
過疎地で暮らすようになってからは私の家族を含めた身近な人たちに対して概ね無関心でしたから、それぞれ皆が大した問題もなく生活しているものと思っていましたが、最近になってその身近な人達の実情を聴くことが多くなったことから、それぞれに何らかの(困った)問題を抱え込んでいることを知ることになりました。
例えば浪費癖の息子、不登校の子供を持っている、認知症の親を持っている、寝たきり要介護の老人を持っている、また過労が原因で一家の柱が突然死したり糖尿病で若死にしたり、また近所の一家の主がレジャーボートで衝突死したこと、また離婚調停になっている人とそれに巻き込まれているその子供たちや親戚、また離婚状態の夫婦も身近にいますし、またシングルマザーの家庭がご近所に多いことなどがあります。

しかもこれ等が特別ではなくて普通にさえなっているのが現在です。
だから今はそうでは無くてもこの先で何らかの問題に直面したり巻き込まれたりする可能性は十分にあります。
しかも(自分が健康であっても)厄介な重病人や寝たきり介護や痴呆症老人を抱え込む可能性が誰にもあります。
しかも(健康診断を受けていても)成人病や癌や脳梗塞の心配は消えません。

また成人病や整形外科やの病院通いが当たり前になる人も多いでしょう。
そして死ぬまで何種類もの薬を飲み続けることになる人も多いでしょう。
すなわち医者漬けクスリ漬けが当たり前の老人社会になる可能性が大きいです。
また若年者も安心しておれない過去の添加剤・栄養剤や嗜好の強い食生活の副作用・弊害が出ています。
それ以外に地球環境問題やエネルギーや食糧問題や国際紛争や国内問題が山積みですから、まさしく闇の中です。

だから今が幼少・少年期であれ青年期であれ熟年期であれ老齢・高齢期であれ、今より良くなるのに見栄や世間体の自己満足や自惚れがあっても、それ以外のことであれば概ね誰もが今よりも悪くなる一方であることは間違いないようです。
その原因が「良い悪い」で判断して、自分に都合が良いことばかり取って、その都合が悪いことは否定反発排除しているその意識にあるのですが、更に拘り執着しているその意識が原因で困った事になっているのです。

また心身ともに健康であれば生きているだけでも十分なのですが、それでは不足な人たちの特別を欲しがる自己拡大によって自らが闇の中を生きていくことにもなっているのです。
だからこの世の形やその人間関係に原因があるものの、元を言えば己の意識が招いた自己責任の結果なのですから、この世の形やその人間関係に関係なく(他はどうであれ)自らの意識を改革・改善していくしか他に手立てはありません。

そこで「良い悪い」で判断することがあってもそれに執着しないことが肝要になります。
そこで私は自己縮小の実践をしているわけですが、そのお蔭もあって余計な事も無理な事もどうしようもないことに手出しせずに、ただ食って寝て糞をするだけのような生活を十分に味わっているだけですから、自他共に不平不満・不安心配を持つことには先ずありませんし、その不満心配が出てもそれに執着することにはなりません。

だから如何なる有事が起きてもそれに執着することにはなりません。
また己の意識が原因で起こるのがその結果ですから、うつ症状が出る事になったり痴呆症になるほどに執着していませんから多分大丈夫でしょうし、他力依存が少ないだけに重症・重病が仕組まれることもないと思っているし、特に高度な治療手術・臓器移植・癌腫瘍治療・延命治療を望まないだけにあっさりと死ねると思いますし、また何かと自力を使っているだけに老齢要介護で面倒をかけることも少ないと思っていますし、また献体登録済みで葬儀法要は無用としていますから死後の面倒を掛けることも少ないはずです。

だから同じくして妻や我が子に有事があっても成り行きに任せて執着しません。
そして当事者の意識が原因で有事が起きた事として、他力をあてにしないで自力で問題解決するように促しているのは事実です。
それは(世間体の良い妻や親孝行の息子であることを私が願っているわけではありませんから)何らかの有事をきっかけにして精神世界・生きる価値・完全真理に目覚める事を私は願っているからです。

しかしその私の思い(アドバイス)を否定反発するようであれば、困っているのは当人ですから(私の成す術もありませんから)、そのどうしようもない事はやはり精神世界に目覚めるまでほっといています。
それが当人の「意識・命」の精神修行修養や気付き悟りになる可能性がありますから、(中途半端に手助け手出しするよりも)それが私の親切心・優しさ思いやり・愛だと思っていますから、その逆に私が大きな有事に遭遇しても(他力に頼らずに)自力と精神力で解決する自信・自覚・覚悟があります。

要するに「困った」と思わなければ(判断しなければ)困ったことにはならないのが「意識の世界」です。
だから「執着」しないことや「自力」を多く使う素朴さを味わうことで「今を生きている」ことが実感で味わえるとも書いているのです。
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この世にある形で精神世界を学ぶことは出来ますが、その形で問題が完全解決することは絶対にありません。

2012年02月21日 | Weblog
この世にある形で精神世界を学ぶことは出来ますが、その形で問題が完全解決することは絶対にありません。
例えば信仰宗教で何か一つでも完全解決したことがあるでしょうか。
また同じく思想哲学・真理を学び知りそれを実践して完全解決したことがあるでしょうか。

また悩み相談・カウンセラーやヒーリングや癒しエネルギーで問題解決したことがあるでしょうか。
また山田耕栄さんのエネルギーやファバラエネルギーで問題解決したことがあるでしょうか。
その耕栄さんが指摘してくれた我が身の潜在意識を知ったことでそれが解決できたでしょうか。
また精神世界を学び合う仲間内のお蔭で問題解決したことがあるでしょうか。

もしもこれ等の中で何か一つでも完全解決した事例があるとしたなら、もう既にこの世は自由平等・調和の世界になっているはずですが、しかし未だに不自由・不平等・不調和の世界に変わりありません。
何故なら、人それぞれの(個の)原因意識をそれら他力ではどうすることもできないからです。

だから我が身の問題意識・個人意識・潜在意識を誰かに指摘してもらうことも必然ですが、その問題意識・潜在意識の解決は自力で成すしかありません。
しかも問題意識・潜在意識(裏心)を指摘されても、その指摘に違和感・否定反発・不信感を持つ人が多いくらいですから、その指摘さえも余計で無駄になるかもしれませんから、思うほどそう簡単には進展しません。

また(私に言わせれば)他力によって我が身の精神分析・問題意識・潜在意識を知る必要さえありません。
何故なら「すべて」の不完全意識を持っているのが私達ですから、それをわざわざ人様に分析・指摘・特定してもらわなくても、「良い悪い」で判断している意識が原因で起きている不平不満が問題意識であり、その問題に執着している事を裏心・奥底に隠せばそれが潜在意識になっているだけですから、その潜在意識に注視するよりも大元の原因意識だけに的を絞れば済むことです。

また他力によって分析・指摘・解消してくれたことが原因で心が安らいだとしても、それは一時的なことですから本物にはなりません。
例えば潜在意識にあった「自己主張」「私は正しい」「怒り」などを指摘され表に出たことで(改善されて)それが治まったとしても、その元の原因である不完全意識が消えたことにはなりません。
それなのに信仰宗教の神仏に頼ることや、超能力者・奇跡を成す人のエネルギーに期待したり、ヒーリング・人為的な癒し・人工的な癒し(エネルギー)に頼る意識を持っています。
その他力依存が邪魔をして自力と自信の独自独歩の実践が無理に思えるようにもなるのです。

そこで何度も登場する事になる「執着」の出番になります。
すなわち問題意識・潜在意識は<執着>が原因です。
だから不平不満が出てもそれに執着しなければ問題にも潜在することにもならないですむのです。

そんな簡単な事を複雑にして宗教家・教祖・学者・先生・学識経験者や特殊能力者・超能力に頼ろうとするところがあるから(医科学も含め)、更にこの世がややこしく複雑にもなるのです。
しかもそんな人並み以上の特別資格・特殊能力・超能力を売り物にして人を集め金を集め人気を集める手立てにしているのが巷に多くありますから、完全真理を知らない無知な人がそれらに惑わされている場合もとうぜん多くなります。

しかも完全真理を学び知りその実践を説く仲間内の中にさえも、自らの不完全意識を棚に上げておいて、また自らの自己縮小の実践を忘れてまで、(反対の特別意識でもって)自分の特殊能力・超能力を人様に特別ぶってみたり、人を集めて先人・先生・教祖ぶってみたり、また宣伝・勧誘し人気度アップ(主役・ヒーロー)を狙うものがいたり、それで収入を得る手立てにしているものまでがいるようです。

とは言っても此れも精神世界・完全真理につながる道のりの役目役割にもなりますから否定しているのではありません。
だから巷の色んな形に寄り道回り道しても、そこで矛盾・偽善や真実のひとつでも「気付く」ことが出来れば、それが完全真理に活かすことが出来るのです。
そして何かの問題に執着していないか、すなわち「困った」と思っていることがないか自問自答することも必要です。
またその困った事を奥底に隠すために何らかの癒しを求めたり、また趣味嗜好娯楽・刺激快楽に興じたりしても、そこでまた新たな問題が出てきて複雑にもなりますから、何はともあれ<執着>しないことです。
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事を急ぐよりも(特急)、よく噛みしめる(普通)ほうが「味わい深い」ようです。

2012年02月19日 | Weblog
去年以上に今年の寒波もすごい事になっていて、去年の12月半ばから雪が積もり、その雪が溶ける頃には新たな雪が積もるという具合でしたし、その積もった雪が凍結するくらいですから気温も水温も低く、その凍てつく中での生活を味わっています。
そして去年の4月に乗り換えた中古の四駆にスタットレスタイヤがおまけについていたことから、その凍結した山道でもスリップする事無く安全に走行できているのも、運が良かったというよりも必然ご縁で仕組まれたことになります。

今年の9月になれば12年の山暮らし生活になりますが、やはり自然界の中で居ると暑さ寒さも当たり前の感覚になりますから、暑いからどうだの寒いからどうだのと、その不都合な思いが出ることもなく、まさに「味わっている」感覚です。
それも天候や気候に左右されない生活(生産性が低い生活)(呑気気楽な生活)をしているからだと思いますが、その無理のない欲のない無駄のない生活が当たり前になると、その分だけ自然界に親しむ意識が使われるからだと思います。

だからその凍てつくような中で暖をとるのが、足元を暖める小型電気ストーブ・電気コタツ・足温器と寝床に敷く電気毛布だけです。
また去年の寒波で購入した暖め直し専用の小型電子レンジが今年も活躍していますが、瞬間湯沸し機はまだありません。
だから凍りつく寸前の水や冷め切った調理器具や食器を炊事に使う事になりますから、その凍てつくような寒波を十分味わっています。
ただ洗濯は薪ボイラーのお風呂の残り湯を注いで常温にして洗濯しています。

食後の食器は蛇口凍結予防に出しているチョロチョロ水(一日で風呂桶一杯程度)で漬け置き洗いになります。
そして雑菌の心配がないからその漬け置いていた食器を再度使うことが多くなります。
その漬け置いている食器を取り出すときに手を入れないで、(創意工夫?)お箸やスプーンで取り出しますが、そんなことをしている自分が可笑しくて笑がこみ上げてきます。
また汚れの大きい調理器具や食器は猫になめさせれば(ペットに顔や手をなめさす感覚ですから違和感はありません)汚れはきれいに取れますし、その猫も大喜びして一挙両得になります。

このような世間的ではない事例に「なんか面白そう」「なんだか楽しそう」と思える人の意識には否定反発が少ないだけに会話が進みますし、それが精神世界の会話にも進展することにもなります。
ところが何かと否定反発したがる人にはその分だけ「味わえる」ことが少ないはずです。
そして不平不満と自己満足が多くなり、またそれらに執着することも多くなりますから、この世にある多種多様の「味わい」を知らないままに人間を終えることになるでしょうから、その分だけ(未知のことを)学び知り気付くことも少ないはずです。
だから学識知識が多くても、実際に味わっていない未知の部分が多い分だけ「無知の人」になります。

ところで私も昔はお風呂を薪で沸かしていましたが、それがガスや電気に変わってそのスイッチポンの便利さを味わいました。
ところがまた昔のように薪でお風呂を沸かすことを味わっているのですが、そこでガスや電気にないその「味わい」を味わっています。
また電子レンジも過去のスイッチポンとは違った「正味」(有り難さ)を味わっています。

ちなみに、貧乏だから瞬間湯沸かし器や石油ストーブを購入出来ないのではなくて、呑気な独り生活だけに必要性があまりないから使っていないのです。
またスイッチポンよりも自力を多く使って成すことのほうが(成している時間を含めて)味わい深いのです。
だから暇で退屈する生活も続けることが出来るわけです。

そして更に付け加えれば、そのガスや電気や電子レンジやの便利な道具が無くなっても、此れまでの自力と自然環境が身近にありますから、そんなに困ったことにはなりません。
ところが(汚い・臭い・暗い・危ない・寒い・暑いや好き嫌いで選り好みをしたことで)未知のことが多い無知な人になると(その分だけ自力が少ないことから)有事に対応できないで困った事になるのです。

そこで更に他力をあてにすると自力が増しませんから、また何事かあればまた困った事になるその繰り返しになるのです。
また他力を使うほど出費が多くなるので、その分だけまた無理をすることにもなります。

ところが私の生活が食って寝て糞をするだけの生産性が低いだけにその分だけ自力が増しました。
またその自力を率先して使うことからしてむやみに他力を使いません。
だから生産性が低くても生活には困りません。
だから退屈しのぎのエサやりパート収入の使い道が少なくて、貯蓄する気がないのに少しずつ溜まっています。
それも必然ご縁の仕組みですから、成り行きからそのお金が活かされることになるかもしれません。

こんな私のような生活に馴染める人はまず少ないと思います。
それだけに(人様を巻き込まない)独自独歩の孤独と自由を味わうことにもなっているのです。
ちなみに私の生活に馴染めない人を巻き込むと気の毒な事になるし、その馴染んでいない人が私の身近にいるとその雰囲気・違和感・否定反発心に私が巻き込まれて気疲れします。

そして私の過去の生き様を振り返ると・・・(自分だけの問題・自己責任であれば自力で何とかできていたことからして、また来るものは拒まず去るものは追わずの無理が無かっただけに)・・・私の自我に人様を巻き込むことよりも、その人様の自我に私が巻き込まれていた部分(精神ストレス)が多かった事にも気付いたのです。

また(学歴・学識知識が無くても)(未知なるものを)「知りたがる」「やりたがる」ことで多くの事を味わい知り、しかもそれが完全真理とその実践に合致したことからして、更に味わい知り気付くという重要性にも気付いたのです。
だから更に否定反発することや、自らを束縛制限することや、どうにもならないことやどうでもいいことに拘り執着することにもならずにすんでいるのだと思います。

そして「よく噛みしめる」言葉があるように、(何事にしても)急ぐよりも(特急)ゆっくり(普通)のほうが味わい深いことにも気付きました。
また良いことがあれば悪いこともあるのがこの世ですから、その事を急ぐほど(時間の先取りから)そのしっぺ返し(悪いこと)(良いとこ取りの残留物蓄積)から(老化・衰退が早まる)(公害弊害副作用)が仕組まれて困った事になるようです。

だから「単純」「質素」「素朴」(過不足のない)「普通」に生きることが言われる訳です。
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完全真理の完全は「絶対」になります、ゆえにすべての問題が解決する(絶対の)<答え>になります。

2012年02月15日 | Weblog
完全真理は完全で「絶対」です。
ゆえに問題が解決する(絶対の)<答え>です。
ゆえに完全には「元から何ら問題も無い」のです。
ゆえに矛盾も妥協も一切ありません。
だから完全な自然界は元から何ら問題なく当たり前の如くに(始まり終わるその繰り返しから)進化しています。

その自然界の一員である人間も完全ですが、「ひとつ」のことを分離して判断する矛盾意識・不完全意識をもっています。
ゆえにどんなに時代が変わっても不完全な問題が出続けておりますし、しかもその問題までもが次第に進化拡大して危機的な状況になっています。
そこでその不完全な人間意識にたいして宇宙・神・愛の完全意識を説く完全真理が必然で出てきました。

その完全真理で「すべてはひとつ」が言われ、ゆえに「この世に差はなく特別は一切ない」の文言は完全です。
だから結果事実は「ひとつ」なのに、それを「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で分離判断すれば矛盾が出てきて不完全になります。
だからその矛盾のある不完全からは色んな問題が出てきますが、その不完全から生まれた不完全な問題を解決することは絶対に出来ません。

なのに「何とかしよう」と頑張っても、元から不完全なのだから「どうしようもない」ことに取り組んでいることになります。
しかもその「どうしようもない」ことだと気付いていなければ、それを「何とかしよう」と思い考え思考錯誤・葛藤しならがらも惜しみなくその努力を積みかせねますが、しかしその結果は不完全ですから、無理な事を余計にして無駄になる結果になります。

また完全真理の不変の確かな実践が出来ないのも、その不完全意識に気付いているものの(自分の思いを大事に守りたがる)我欲・自我をしっかり持っているからだと思えます。
また「成せばなる」で思惑を持って、その自分の思い通りに何とかしていれば何とかなると思っていることは、それは自然体の「成り行き任せ」とは違います。

不完全な「どうしようもない」ことを「何とかしようと」することよりも、またその不完全な余計な事を欲張り頑張り無理して執着することよりも、簡単単純で無理もない「素朴」に生きて、その必然ご縁の仕組みに任せて呑気に生きるほうが楽ちんだと書いています。
そして宇宙・神・愛の仕組みで完全真理が説かれていることから言えば、その「答え」が必ず絶対に出る事になります。
すなわち完全ゆえに完全が生まれ、そして不完全が消える時がくるのです。

無料映像の韓国ドラマ「雪の女王」の中で<数学には必ず答えがあるが人間には答えがない>というセリフがありましたが、それが「完全か不完全か」「絶対か妥協か」になります。
だからその絶対の答えが出ないこの世の形やその人間関係に拘り執着することよりも、先ずは必ず答えが出てくる完全真理の実践をすることが重要になるわけです。

そこで先ずは「執着」しないことになります。
だから無理をしないで気にしないで成り行き任せにすることが必要なわけです。
そこで宇宙・神・愛の仕組みである必然ご縁のことも書いているのです。
そしてそれも己の意識が原因で仕組まれることだから、先ずはその意識の事を完全真理で学び知ることが重要にもなるのです。
だから完全真理を意識した実践の日々が必要になり、その「気付き」が必然ご縁で仕組まれ起きますから、それで他力に頼らない自力自信の独自独歩の実践が可能にもなります。

その為にも完全真理の基本を学び知り自覚納得・悟りとなることが先決重要なのです。
それが中途半端な理解や妥協があると完全真理が不完全真理にもなるのです。
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無理のない、執着のない、独自独歩の自由から多くを気付き、完全真理・意識改革の実践が進みます。

2012年02月13日 | Weblog
完全真理の実践において「良い悪い」で判断しないことが基本ですから、何が良くて何が悪いと判断することもありません。
だから清廉潔白・品行方正・完璧・潔癖に生きる事が良いとか、同じく仙人や修行僧やまたホームレスやルンペンを特別な人だと思うこともありません。

だから趣味嗜好娯楽が必要であればそれでもいいし、好きな人と恋愛し結婚し、また離婚や再婚やまた不倫・浮気・援助交際があっても仕方ありません。
それらを良いとか悪いとかで判断せずにいればそれでいいのです。
そして無理をしない、執着しなければそのままになりますが、しかしそれも時間と共に変化していくことになりますが、それも成り行き任せであれば無理もなく執着にもなりませんので平然と普通に生きていけます。

しかし、好きな人に恋焦がれてご飯が咽を通らないとか、側にいない相手の人が今は何をしているか気になる、また他に好きな人がいるのではないのか、もしやその人と一緒に居るのではないのか、留守電やメールを出したのに返信がないのが気になる、など等と気になるのは執着ですから(不信感や嫉妬で)決して楽しいことばかりではありません。
ゆえに執着しなければその恋心・ワクワク・ドキドキを味わい楽しめます。

そして相思相愛でめでたく念願成熟しても、しかし人の意識は時間と共に変化します。
そして不平不満を言い合う仲になったり、他に好きな人が出来たりして仲たがいすることもあります。
それでも執着しなければ「あるがまま」になって時間とともに成るようになっていきます。

また恋焦がれる中にも性本能が伴います。
また恋愛感情とは違う好奇心などからでも性本能が出てきてます。
しかしそれが性本能であって普通ですが、それを良い悪いで判断して道徳・倫理を出したりして不道徳・不謹慎だの裏切りだの不倫だの浮気だのと特別にしているから問題になっているのですが、それも気にしなければその性本能を味わっている事実だけになります。

ところで私の楽しみである一円パチンコも単なる時間つぶしだけではありませんで、やはり欲得金銭がらみの勝敗が含まれいるだけにそれが刺激にもなっていますから、その勝ち負けの苦楽を味わうことにもなりますが、その勝敗の苦楽・刺激を時間つぶしで味わっているだけで一旦終わりますから、そのパチンコが未練後悔執着にはなりません。

だから趣味嗜好娯楽・刺激・快楽を否定しているのではありませんで、執着しない事を書いているのです。
またそれらを意識することが多くても少なくても同じ不完全意識にはかわりありません。
ただ執着するほど苦楽が多くなり執着が少なければ苦楽も少ない事を書いているのです。
またその苦楽が少ないほど心穏やかにすごせる事実を書いているのです。

そして世間がどうであれ、身近な人がどうであれ、お互い様とお蔭さまの関係から、それらを気にしないままに独自独歩の自力と自信で自由に生きていける事を書いているのです。
しかし執着すれば自らの自由を見失う事になったり人様の自由までも阻害することになるとも書いているのです。

そして私達の不完全意識で何を成しても不完全な結果になる事実を書いていますが、その不完全を大いに味わい学ぶのも、また不完全を味わうことが少ない素朴な生き方をするのも自由です。
しかし身近な人達を巻き込まないように配慮することが独自独歩であり、その身近な人の自由を尊重することにもなるのです。
また相手を尊重して自らがその犠牲になるのも自由ですが、その犠牲が必ずしも相手のため(意識改革)につながらなくて一方通行で終わることにでもなれば、その犠牲が無駄になるとも書いています。

そして不完全意識であっても<執着>が無ければ、それが天変地異の有事であっても、また世間的な有事であっても、また予期せぬ真坂の有事であっても、執着しなければそのままになりますから、それが困ったことにはならないのです。
ところが自己拡大のままであればその執着が強くなり困ったことになりやすいが、自己縮小に向けていればその執着も小さくなります。
そしてその執着から開放される時が来ればその自由を味わえることにもなり、その自由を味わうことで更に執着することが次第に消えることにもなります。

そして自らの不平不満や不信感でもって否定反発排除することもなく、また束縛制限支配することもなく、そのままにしておけば自由意識が味わえるのです。
また自他共に自由が必要なことにも気付くのです。
そしてその自由を味わっていれば、持ち前の不完全意識が次第に出てこなくなることにも気付きます。

その不完全意識も多いに味わってきただけにその自己縮小の必要性に気付いたように、また過去に束縛制限され否定反発されてきただけにその開放である自由の必要性にも気付けたのです。
その矛盾・裏表を味わうことが人間の役割であり使命ですから、自己拡大を味わっただけでは無駄になるばかりか、宇宙の進化・地球の進化につながる人間意識の進化には役立ちません。
だから此れから起こる宇宙・神・愛意識の進化の仕組みに乗ることには無理があるようです。
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単純ほど真実があり、複雑ほど真実が隠され、それが闇となり、その闇の中で私達は生きているようです。

2012年02月10日 | Weblog
私の過去は自己拡大で生きていましたが今はその反対の自己縮小の実践をしていますから、その自己拡大と自己縮小の両方を味わい経験していることになります。
そして自己拡大のときは仕事や家族生活で山あり谷ありの苦楽・喜怒哀楽を味わっていましたが、今は至って単純な牛の世話をパートでしているだけだし、家族と離れた独自独歩の自由な生活をしていますから、心身ともに気楽・楽ちんで平穏な日々がすぎるだけの生活になっています。

そして自己拡大で生きるよりも自己縮小で生きることの大切さが身にしみて確信納得・悟りとなっています。
その際たるものが(私の場合は)自己拡大で仕事や家族親戚やの人間関係に気疲れしていたのが、無理しない欲張らない成り行き任せの自己縮小によって気疲れすることがなくなったのです。
だから心身ともに楽ちんな生活になっていると書いているのです。
そして苦楽を味わっているときは心身の健康状態が気になるほどでしたが、今はその心身ともに健康状態にあると言えます。

そして自己拡大の時に気付かなかったことが自己縮小によって気付くことが多くなったことです。
だから、今まで知らなかった未知なるものを知ったことの感激・喜びみたいなものを味わっていますし、学識・常識で知ったかぶりしていていても実際はその中身・正味を味わい知っていなかったことにも気付く事になったわけです。

それらの事例を数多く紹介していますのでここでは省略しますが、人間関係で気疲れするその原因がこの世の矛盾でありその人間関係にあるのですが、それが「事を複雑」にして、そのややこしいことに気疲れしていたのです。
それに気付けたのも牛にエサをやるだけの(自慢・自己満足にもならない)生産性の低い単純動労を実際にやって、その単純な仕事でその報酬が頂けるその気軽・気楽さとその喜び感謝を初めて味わい知ったのです。
・・・これも自己拡大していた経緯があったからこそ、その反対の自己縮小の正味・真実が味わえているのは確かです。

しかも牛舎で給餌するのと飲用の水管理をしているだけですが、その牛を相手にしていると人間とは違い本能のままにいて素直ですから、あまり気疲れしませんし、牛のお腹が減っているとエサをくれるのを待ち切れないようにしてエサ場に顔を出してきます。
そして旺盛な食欲を見せてくれますから(裏切りませんから)そのやりがいがあります。

しかし人間はどうでしょう・・・見栄や世間体を気にして生きています。
だから素直に個性・役割を出して生きることよりも、それを超えた複雑な特別なことを求めたがります。
そして特別なだけに(複雑なだけに)無理をしますから、結果的には自らの自由を自らが(複雑に)損ねています。

そして(犬猫畜生のように)食って寝て糞をするだけの単純で素直で欲のない普通の生き方ではつまらないと思い込んでいます。
しかしその犬猫畜生は自らの役割使命を(無理なく無駄なく)果たして成仏していますが、人間は未だに未熟な不完全な意識のままに生きているがゆえに他の万物「命・意識」にまで多大な迷惑を掛けどうしになっています。

その犬猫畜生にも劣る(成仏できない)意識でありながら、その犬猫畜生と人間を分け隔てる特別意識がある限り、その犬猫畜生から学び知り気付くことも無理かもしれません。
だからその犬猫畜生がエサを食べられることに全身を使って素直に喜びを表しているその姿格好を見て楽しんでいるのが(ペット感覚)人間ですが、その人間に欠けているのがその素直な喜びだと気付いているでしょうか。

また犬猫畜生が(必然ご縁で)恵まれ与えられる給仕によって(単純に)空腹が満たされると、あれほど(単純に)喜べるのに、ところが(人間だけが)それ以上の(複雑な)贅沢を望むのが当たり前に思えるようになり、その自己拡大(複雑さ)を繰り返してきた現在に気付いているでしょうか。

(私が思うに)
単純ほど真実があり、複雑ほど真実が隠され、それが闇となり、その闇の中で私達は生きているようです。
また学校先生から複雑な学識を積み重ねることよりも、単純な自然界で素直に接し学び知ることが役立つようです。
だからか、過去は複雑なことが得意だったのにそれが苦手になり、簡単明確な単純・素朴に生きるのが楽ちんになっています。

その単純・素朴に生きることでボケ・認知症になると心配する人もいますが、心身ともに無理することもなく自力を多く使うことからして、その心配はないようです。
それよりも複雑なことに意識が縛られて執着(思考錯誤・葛藤)するほうが精神体・感情体が酷使されて(判断が定まらない)(見境を失う)認知症やうつ症状や自殺願望の人が多くなっているものと私は思っています。
すなわち単純・簡単・素朴な生き方をしている民族よりも文明の進化した現代人の文明病とも言えると思っています。
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結果は同じ一つなのに、不満な人とその結果に満足な人との二つの結果が出るのがこの世です。

2012年02月06日 | Weblog
この世に偶然はなくて、すべてが意識が原因の必然ご縁のお仕組みで起きている事を書いていますが、その人間の意識は一つしかありませんから同時に複数の事を意識することは出来ません。
だから意識する事をあれこれと切り替えながら、その意識する事を違えています。
また一つの事に集中していても、雑念の如くに別な事が意識をよぎると、その事に意識が使われます。

ところで衣服のバーゲンを意識しているときに、それがチラシとして既に仕組まれていて、そのチラシに気付くことがあれば、それが偶然ではなくして意識していたからこそ気付けた必然ご縁になるわけです。
しかし前々から意識していた家電商品のバーゲンが仕組まれていても、それに気付かずに見落としていれば、その意識力が原因でその必然・チャンスにご縁がなかった事になりますし、また衣服のバーゲンを意識している人に家財道具のバーゲン情報を教えても概ね余計なことで無駄になります。

その事例として、先日10数年以上も前にネットビジネスと摩訶不思議にご縁があった人から電話が掛かってきましたが、その目的は摩訶不思議ではなくてネットビジネスの勧誘でしたので、私は精神世界一筋で過疎地で暮らしていることを説明して、そのご縁であれば聞く耳はあるが、それ以外にはまったく関心がない事を説明してそこで終わりました。
すなわち過去の意識が原因の今回の仕組み(情報)に、私の必要性・必然が無かったためにそのご縁がそこで終わるのです。

そのネットビジネスの事例を完全真理に置き換えてみるとよく判るのですが、過去に摩訶不思議や想念の世界でご縁があった人に私が電話で完全真理を熱心に勧誘しても、その相手が必要としていなければ(聞く耳もなく)断わられるのは当然ですから、結果的には余計な事を無理にして無駄になった事になるわけです。

だから完全真理にしても摩訶不思議なファバラ製品にしても、私方から出向いてまでも(執着・繰り返し)勧誘宣伝することは(数年前に卒業していますから)ありません。
それに準じているのが、私の思いに人様を巻き込まないこと、すなわち良かれと勝手に思って提言・売り込み・無理押ししないままにして「来るものは拒まず去るものは追わず」の必然ご縁の成り行きに任せにしていることです。
そしてそれが気楽で楽ちんだと実感を込めて書いているわけです。

しかし世間一般では、自分が良かれと思った事(親切・善意・善行)に何かと人様(身近な人を含めて)を引き込み巻き込もうとしていることが多いのですが、その必然ご縁の内容が如何なることであっても、すべてが余計なことで無駄になることです。
それは人それぞれに意識が違っていていますから、その思いもそれぞれに違ったものを持っていることからして、その不調和の(交じり合わない)意識が原因だからその結果が出るのです。

ところで自分が納得して十分に思っているつもりでいても、しかしそれでも、それとは違う異種を宣伝勧誘されて惑わされる事になるのもあるのですが、それは自分に自信がないその意識が原因で起きた必然ご縁になります。
だから宗教思想から完全真理に来る人も居れば、その反対もありえるのです。

だから見える世界のバーゲンセールでも、また見えない世界・精神世界のことであっても、すなわちこの世の結果であっても、またあの世へ逝ったときのその結果であっても、その人の意識が原因の必然ご縁の仕組みの結果がでるだけです。

だから(意識している事に仕組みが起こることですから)、その意識をわざわざ行為行動表現の形にしなくても、すなわち余計なことや無理なことに頑張り通したその結果であっても、また食って寝て糞をしているだけの結果であっても、その原因意識は同じ不完全ですから、どちらにしても似たような(不完全な)結果になります。
だからどうせなら無理をしないで楽ちんに生きているほうが苦労しないで済むというものです。
しかしそれが嫌で精出し苦労をしたがるのも(人それぞれに)自由です。

この世では行為行動表現を意識して出して、その結果を出して「見せ」なければならないように思っている人が多いのは事実です。
・・・過去の私がそうでしたから、皆様も同じだと勝手に思って書いていますが・・・
その好意行動表現を意識して出さない「自然体」の必然ご縁の成り行き任せの結果となれば、その結果を人様に自慢して見せるような形の結果というよりも、出して見せることが出来ない精神面での結果が多いだけに、それを言葉にして書いたり話したりは出来るが、しかし自分の意識の中にあるものを十分に伝えることは無理です。

また人様に「見せ付ける」ようなことに頑張り努力無理しても、その一時の自己満足を味わえることがあっても、その結果は不完全ですから、いずれ自分の思惑と違った結果になるのがこの世です。
すなわち、わざわざ「形」にして見せたがるということは、自分の意識の中にある本物ではなくて(原因ではなくて)、偽り装飾・思惑・欲がらみですから、その偽善・思惑・欲がらみのその意識が原因のその不完全な結果しか出てきませんから、時間と共に変化して自分の思惑通りの結果とは違った形(世間で言う裏切り)にもなるのです。

そして頑張り通して苦労している人も、食って寝て糞をしているだけの人も、その不完全意識は同じです。
しかし喜怒哀楽を意識して暮らす人と、その苦楽を意識しないで暮らしている人とは、その不完全意識は同じでも、その生活の有様がぜんぜん違ってきます。

また喜怒哀楽に意識が縛られている人と(執着している人と)、その苦楽に意識を使っていない人とでは、その意識の使い方・あり方が違っていますから、精神面や肉体面で忙しい思いをしている人と心身ともに余裕のある人とに分かれます。
そして忙しい思いをしている人には、人生行路の赤や黄や青の信号が意識の世界で仕組まれていても、それに気付かずにやりすごすことが多くなりますが、余裕がある人はその都度その仕組みに気付くことが多くなります。

しかも同じ仕組みの原因と結果であっても、その人の意識の持ち方次第で、その結果も違って受け取ります。
だから、ある人は少ないと思うかもしれませんが、それで十分だと感謝になる人もいます。
だから結果が地獄に思える人には地獄になりますが、天国だと思える人には天国になります。

すなわち結果は同じ一つなのに、その結果に不満な人とその結果に満足な人との二つの結果が出るのです。
だから同じ不完全意識の同じ結果であっても、自己縮小している人ほど「アリガタイ」が多くなるわけです。
だから「あなたなら、どうしますか」とブログを書いているのです。
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私の自力で身近な人を幸せに出来ないだけに、私の不幸・困った事に巻き込まないその覚悟があります。

2012年02月04日 | Weblog
人間として生きている中で何よりも「健康」が一番です。
若い時には健康をそんなに気にしていなかったのですが、中年ころから健康を意識するようになりました。
そして家庭常備薬を備え、特に胃薬や目薬や肩こりなどの鎮痛剤や栄養補助剤が欠かせないほどでした。

ところが薬用効果のある健康食品を愛用するようになってからは家庭常備薬が不用になり、その健康食品を意識していることから摩訶不思議な効果効用(奇跡現象)のある特殊多機能食品にご縁がありましたが、それが高価なためにもっと安価なものはないのかと思っていたら、同じ摩訶不思議な効果効用の出る宇宙エネルギーの浄水器に巡り会い、それが縁で精神世界・霊魂の世界につながり、そして「此れしかない」という完全真理につながり今があるのです。

そして前々から知っていた「病は気から」の事実・真実を確信することになり、肉体的健康よりも先ず精神の安定が一番大切な事を自覚納得した次第です。
そして肉体的な無理をする「肉体の酷使」、そして喜怒哀楽で「感情体を酷使」する、その原因が精神体にあること、すなわち「意識」が原因でその結果・形が出ている事実・真実を悟るまでになったわけです。

そして否定反発・不信感・私は正しいの意識が原因で様々な症状(拒絶反応・過剰反応)が現れていること、そして肉体的なストレスよりも精神的なストレスが自覚症状のある万病につながっていることであり、その精神が病むほどに自覚症状が伴わない(本人が気付かないままに)精神病を持つ事になり、それで生きる気力を失ったりまた廃人同様の深刻な状態や自殺を考える原因にもなっています。

すなわち「健康」には精神の安定・平常心が必要なわけです。
ところが「特別」を欲張り捜し追い求めることから肉体的にも感情的にも精神的にも病んでいくのです。
そして何が無くても健康が一番と(健康のありがたさに)気付く老後になってから、我が身がすでにクスリ漬け・病院通いになっていることを悔やむことになるかもしれませんし、しかも身近な人達をも巻き込んで厄介なことになっているかもしれません。

また家庭常備薬や栄養剤や健康食品を過信して愛用し続けることは(健康を金で買うことは)肉体的老化が早まるし、また抵抗力・治癒回復力を減退させるし、安易に医者・医術に頼る他力依存症になり(回復治癒を金で買う)、自力(予防治癒回復)や自信(精神安定)の少ない不安定な生き方になることでしょう。

また我が身が病むことは自己責任で済みますが、それが重症になるほど身近な人達を巻き込む事になるのです。
すなわち我が身だけではなくて、幸せにしたかった人までも(我が身の困ったこと・不幸に)巻き込む事になるのです。
だから(私の場合は)先ずは精神の安定、それには欲張らない無理しない、その為にも他力依存にならない、すなわち自力とその自信で生きていける背丈に似合った普通の事をしながら、必然ご縁の成り行き任せに生きて、死ぬ時が来たら素直に従う自然死を望んでいるわけです。

すなわち私の自力で身近な人を幸せに出来ないだけに、せめても私の困った事・不幸に巻き込まないだけの覚悟があるのです。
その為にも先ずは「健康に生きる」ことであり、今の健康がありがたいことと自覚できていることであり、すべての結果の原因である我が身の意識を我が身でもって改革変革するその実践をし続けるしかありません。

すなわち、「我が身」のことばかりの個人意識丸出しではあっても、他の人様を出来る限り巻き込まない独自独歩の、その自力と自信で穏やかな老後を生きていく実践しかないのです。

※「他力依存」が強いと(その意識が原因の関連性から)、尚のことその他力依存を余儀なくされる有事が仕組まれやすいようです。
だから反対に他力依存心が少なければその分だけ他力に頼るような(必要性がないから)有事も起き難い(仕組まれない)という事になりますから、当然ながら持ち前の自力を多く使って生きていくことが当たり前になります。
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