孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

地球・人類が破壊崩壊に至るまでに不完全意識を悔い改める意識改革ができていなければ・・・

2010年08月31日 | Weblog
良いと悪いで判断する(矛盾のある)「不完全意識」の人間関係でこの世の形が成されていますから、それが原因で不平不満・不安恐怖・怒り・嫉妬などで苦悩する事が当たり前になっていますが、それも必然で起きていることですから決して無駄なことではありませんが、その無駄な事にならないためにも精神世界・意識の世界を説く完全真理で(矛盾・裏の無い)「完全意識」を学び知ることが重要になってきます。

すなわち人間意識の裏表・不完全意識と完全意識の両方を学び知るためにこの世に人間・形として生まれてきているのですから、そうとも知らずに不完全な喜怒哀楽・生老病死・見栄や世間体・常識や伝統風習道徳・趣味嗜好娯楽などに意識を束縛支配されたままに人生を終える事になれば、それらすべてが無駄なこと(無駄な修行)となって人間を終えることになりますから・・・
そうならないためにも昔から精神世界を説く真理・宗教が次から次とこの世に現れているわけですが、しかしそれでもその元が矛盾のある不完全だったから結果も同じ不完全な結果で終わっているのが現代です。

だからそれら喜怒哀楽・生老病死・・・等が己の不完全な良いとこ取りの自己満足やその自己主張であり、自分の思い通りにしたがるその思いが原因で苦労・苦悩を背負い込んでいたことなどを(この世ではじめての)完全真理で知ることから、これまでの生き様・人生の修行が無駄にならずに(終わり良ければすべて善しで)完結することになるかもしれません。

例えば、過去の私が上を目指して次々とカッコよく生きることをしてきて経緯があるからこそ、その自己満足や自己主張やそれに伴う苦悩も一緒に味わってきたわけですから、それを新たに学び知った完全真理に照らし合わせることで、その過去の生き様の不完全さが身にしみてわかることにもなり、また不完全な人間関係のしがらみから解き放たれた過疎地での単身生活もあって、それらが完全真理の理解を深めた結果になったのは事実です。

しかしその過去に宇宙エネルギーそして精神世界・想念の世界、そして今の完全真理や過疎地暮らしに接し触れる事が無ければ、今も上を目指した自己満足で頑張り続けることになり、この世の不完全な人間関係の渦に巻き込まれたままに、その束縛制限支配関係や裏切り関係に巻き込まれて不平不満・苦悩を多く抱える事になっていたのは間違いないでしょう。

その完全真理を心から深く理解するために比較競争して差を付ける自己拡大をやめる自己縮小の実践が説かれているわけですが、これまで慣れ親しんだ(比較競争・差を付ける)自己拡大をやめて自己縮小していくには、とにかく己の判断で否定反発排除しない、すなわち敵対意識・不信感から守り闘わない実践も必要ですから、それを実践する事になると当然これまで自己拡大して得たものを失うことになるし、大事に守っていたものが消える心配もあってなかなか難しいはずです。

それでも完全真理の学びからこの世の不完全さ人間関係の不完全さを知れば、その不完全が消えて調和(自由平等平和)のある生き方が得られることを知りますから、たとえ他がどうであれ自らが意識を変えていくしかないと決断決心することができますが、未だにその決心決断が出来ないままの中途半端であれば、その原因にあるのが完全真理の理解が乏しいからといっても過言ではありません。
・・・不完全な闇の中にいても完全真理を知ればそれが「光」となって先々を照らし出してくれます。
・・・しかし実践が無ければ納得確信悟りに至らずに先を見通せる「光」にはなりません。

そして喜怒哀楽や生老病死を気にして生きる無駄な修行(艱難辛苦や波乱万丈の生き方を含め)が続き、その見栄や世間体や常識・伝統風習・道徳や趣味嗜好娯楽に束縛支配されながら、その自己満足や自己主張で何とか生きるかたわら、それが原因の苦脳を抱え持ったままの無駄な人生で終わる可能性が十分にあります。

しかもこれまでは成し遂げられなかったことを再度やり直す転生を繰り返すことが(宇宙の愛の仕組みで)何度でもできましたから、その時代ごとに神の使いとやらが転生してきて精神的な安定・満足を教えたり、それだけでは片手落ちになるからと物質面で満足させることの出来る文化文明を進化発展させる役目の人が大勢出てきたりして、何かと思考錯誤しながらあれもやりこれもやりしてきましたが、結局は元々の生まれ出た人間が不完全意識を持っているからには何をやっても不完全な世の中・人間関係しか生まれませんでした。
・・・そして事の結末が・・・良い悪いを持った不完全意識によって不自由・不平等の人間界になり、それが人殺しや侵略・戦争になるだけではなくて、さらに自己拡大・進化発展を続けることで地球人類の破壊崩壊・滅亡にまで至ることを(不完全意識の結末を知るために)我々人間に自覚・悟らせるために(宇宙の仕組み・必然から)転生していたのかもしれません。

そこで(宇宙の仕組みから)この世で初の完全真理を説くものが現れ、不完全意識の人間に完全な宇宙・神の愛を説いて教え、その真理を実践することでこれまでの不完全さを知ることになり、やがてその完全意識に成ることでしかこの世のすべての問題を無くする事が出来ないことを悟り、その不完全意識を悔い改めるた新たな意識の者(意識改革した者)のその実践によって、その完全な人間関係を押し広める役割にもなり、それがやがて実を付ける事になればこの世の不完全が消える事になるかもしれませんが・・・
それもどうやら(自力では)到底無理な様相を示していますから(意識エネルギーのファバラ頼みになっているように思えることから)・・・宇宙の仕組みの「リセット」<終りと始まり>(是新)が起こるのかもしれません。

それはともかくとして、この世で完全真理が説かれているからにはやがて「完全」になります。
だから・・・地球・人類が破壊崩壊に至るまでに不完全意識を悔い改めるた意識改革ができていなければ・・・(リセットが起きたときに)もう二度と今の人間の形(三次元)に転生することにはならないでしょう・・・だから人類最後の「真理」と言われるわけです。

「良いとこ取り」の表ばかり追求しないで、その裏側も一緒に受け入れれば真実を知ることになります。

2010年08月26日 | Weblog
完全真理の講演会に参加している常連の人の大多数が真理の実践がまともに出来ていないことを耕栄さんが指摘することが何度かあったのですが、その多くは真理がうろ覚えだったり漠然と理解してるだけだったり、耕栄さんの成すことの言動を信じて何かと盛り上げる事が実践になるように勘違いしている人がいたりするから・・・(当人は実践しているつもりでも)その実践での実際の気付きが少ないのではないでしょうか・・・

私たちが常に良い悪いで判断しているのだから、日々雑多の生活の中で数えきれいなほどの「良いとこ取り」することで否定反発・自己主張・自己満足をしている事に気付いて当然なのですが、その良いとこ取りの意味さえも理解不足であれば実践がまともに出来る筈もありません。
だから臭い、汚い、暗い、危ないからと否定反発したり、それだから必然以上に快適便利さを追い求めたり、執ように安全を追い求めたり、製品・食品の品質・賞味期限に固守したりして、あれはいけない、これはだめと、一見なんでもないようなことにも良い悪いで判断して「良いとこ取り」をしています。

それも今は良かったことが後に悪いことに変わったりするように、善悪・優劣・損得もその場限りの個人の思いですから、後々の結果がころころと変わってきます。 また長所短所や好き嫌いも同じく逆の場合もあって矛盾することにもなります。

そこで例えば、開放感や静寂さを求めれば不便なところになりますが、その不便さを受け止めれば丸ごと収まります。
だから田舎で暮らそうが街中で暮らそうが、その裏側すべてを受け入れれば問題なく暮らせます。
仕事も同じで、生きるための犠牲として丸ごと受け入れれば仕事やその人間関係に何の問題も無くなります。
すなわち裏側の真実・事実・真意を知れば、その裏側に執着しなくてすむようになるのです。

★だから「良いとこ取り」の表ばかり追求しないで、その裏側も一緒に受け入れれば真実を知ったことにも成るのです。
だからその良かったり悪かったりするその矛盾を確かな実践意識で(裏も表も)味わい知ってしまえば真実を知ったことに等しいから、その現れた結果にいちいち執着しなくなり、その事実・現実をただ見て(その原因となる意識のことを真理で知っているし、お互い様の真実・事実も知っていることから)「成るようになった」と思えるようになります。
・・・だから完全真理を理解して、それを実践して、「気付く」ことが重要なわけです。

また意識で生きているのが人間だから、今の生活を天国に思えば天国に思えます。
しかし不平不満で生きていると面白くない生活になるもの当然ですが、(実践意識が無ければ)(日々雑多の中で忙しくて)その不平不満を自分が持っている事にさえ気付かない人も多いことでしょう・・・

だから真理を実践しているつもりでも実際に実践していないから、仕事や家庭やの人間関係・お互い様のことを(真理を介して)理解できずにいて、ただ否定反発する事が多くなったり、しかもその否定反発している事にさえ気付かないのかもしれません。
・・・私も同様ですから・・・それだけにその不完全さに「気付く」ことも多くあり、それらを事例で書いています。

その不完全な者同士が(同じ穴の中で)一緒に暮らしているのですから、互いの思いの「歯車」が噛合って回ることは殆どありません。
だから人間関係の中に「裏切り」関係があることを真理で説いていますが、お互いの思いが噛合っていないことで起こる裏切りですから「お互い様」の関係になります。
それなのに「裏切られた」と言えば一方的に自分を正当化したことになり、他を「裏切った」悪者扱いにしたこと(正義感)になります。
その事に気が付かなければ起きた事実に私見・思いが入って、妻が裏切った、夫が裏切った、信者が教祖を裏切った、教祖が信者を裏切ったと、互いが言い合い正当化することにもなります。

また「吸殻を捨てた」と事実を言ったことが・・・それが人の悪口・文句を言ったことに思う人がいれば・・・その悪く思った人に善悪の判断が働いたことになり、そして「私は正しい」の意識で自己主張したことになります。
しかも事実だけを言った人に対して(自分の思い・考えを押し付けて)その間違いを諭す真理の言葉を添えてまで述べる人もいますが、それでは未熟な理解のままに「真理ごっこ」をして自己満足しているに等しいことになります。
・・・私も同様ですから・・・人様の事に口出し手出しすることになったり、否定反発することにもなっています。

この世が不完全ですから人間関係も不完全です。 
だから不完全は「お互い様」の関係であることを理解しただけでもだいぶ意識が変わります。
それでも相手方の不完全を一方的に押し付けられればどうしても巻き込まれやすくなり、その分だけ気になります。
・・・ただ私の場合は単身過疎地で暮らしていますから、その分だけ気楽な生活になっています。

その過疎地暮らしを始めたことで気付いたことですが、とにかく否定反発しないこと、そして不必要に「人を巻き込まない」ように気配りしていますし、そうなっても足早に自らが引き下がることにしています。
また不完全な者が大事に思っている<喜怒哀楽や生老病死><常識・伝統・風習・道徳><趣味嗜好娯楽><快適便利>に執着していないことから、完全真理で言うところの自己縮小の実践が大切な事が理解できるのです。

だから自由気ままに生きて、そして守り・闘わないで、欲しがらないで成り行きに任せた生き方をして、それでもって人様を巻き込まないように自立・自力を養い活かして、そして願わくば健康で安らかな死が来れば(大勢の人を巻き込まない孤独死・無縁仏は望むところ)最高の人生だったと(終わり良ければすべて善しで)思い残すことも無くあの世とやらの意識次元の世界に旅立ち還れば、その意識のままに(完全と不完全を知った意識体として)あの世でも安らかな時が過ごせるようです。

すなわち完全真理の実践によって、生まれながらにして持っている不完全意識を完全に無くして「完全意識になることは不可能でも」、その良い悪いで判断した事に気が付く実践意識を持ち続けていたなら、この世の不完全意識とあの世の完全意識の両方・裏表を学び知ることに成った意識体・人間になることができます。

この世に完全真理・ファバラ・山田耕栄さんを超えるものは実在しない。

2010年08月20日 | Weblog
私は正真正銘の個人意識丸出しの不完全意識を持っていますから、このブログを書くときに注意していることがあります。
まず「他を否定反発」しないこと、そして私は正しいと自己主張しないこと、また確信・自信の無いことは書かないこと、だから完全真理の真実や見聞した事実だけを書くが、その真実や事実に軽々しく私の思い判断を差し込み、その自分の思いを込めてまで書かないことにしています。

そして真理を理解しやすくするために個人的な事例を書き込むことも多いのですが、そのときに登場する人様や物事の事実を私的に判断評価して否定したり、自信も無いのに推測・憶測で深く入り込んで書かないようにしています。

例えば・・・タバコの吸殻を捨てる人を見たときに・・・「タバコの吸殻を捨てる人を見ましたと書けば」見た事実だけになります。
しかしその事実に私の判断を入れて「マナーが悪いと書けば」良い悪いで判断して、それは悪いことだと否定反発して書いていることになり、その悪いことを指摘している私は正しいことをしていると主張して書いていることにもなりますから、いつもそうならないように注意しています。

それと吸殻を捨てた人が自分が悪いと知っていたのか、それとも悪いことと思わずに捨てたのか、また無意識や必然性からそうなったのか、その時のその人の意識・心情・真意まで踏み込んで見ることは不可能ですが、私がこれまで見聞きしたり思い当たる事例・事実を差しさわりが起きないように注意して書くことはあります。

そこで古い話になりますが・・・真理を学ぶ集会で耕栄さんが皆から集めたお金で「真理に添った新たな学校を創ります」や「皆が好きな温泉を作ります」とか、最近では「これまで何かと出費の多かった人に何倍ものお金にしてお返しするときが来ます」・・・と語ったようですが・・・(その時の耕栄さんの真意・心情・意識を計り知ることは私にはできませんが)(ただ理解できる点もありますが省略します)

それを聞いて喜び期待の拍手喝さいをする人(信者)もいると思いますが、ところが完全真理を知っていれば「それらは先々の予定・目的・理想であり、思惑・期待を持たすことになるから、それは頭の中の想像になり非実在の不完全になる」と真理での事実を示すことになるが・・・それが良い悪いで判断されていなければ・・・ただ耕栄さんが言った非実在の不完全な言葉・事実を示しているだけであって、完全真理を説く耕栄さんを否定反発して私が正しいの自己主張をしていることにはならないと思いますし、まして「完全真理」を不完全だと書いてはいませんし、私も愛用している(年金5万のうち1万円近く出費している)「ファバラ」(耕栄さんの意識エネルギーで作った)をインチキだとも書いていませんので、そこを錯覚勘違いしないで下さい。

ところでその不完全な発言に気付いた人が宇宙意識・完全意識の耕栄さんというのは嘘だインチキだ裏切られたと思って(潔癖・完璧を求める人が)耕栄さんから離れることになるかもしれないし、それ以前に自分の都合勝手や何らかの失敗・失態の責任から留まることが出来なくて仕方なく離脱していたのに、その不完全を如何にも前もって知っていたかのように装い、過去の自分の離脱を旨く正当化する人もいるかもしれないし、また比較競争意識の強い人がいて、その自分の不完全さや劣る未熟さを周りの人たちに見破られる以前に離脱したいのだけれど、それでは負け犬や裏切り呼ばわりされることを心配していた人であれば、これ幸いと離脱を正当化して逃げ出す人が出てくるかもしれません・・・(これに似たような事例を耕栄さんが話していたのを覚えていますから、それを引用したようになります)

個人意識の強い人ほど自分が可愛いことから(我が身の保身・守り闘うことから)自分の責任・原因を棚に上げておいて、仕損じたり不都合になったことを他者の責任に転換して自分を正当化したがります。
また競争意識の強い人は人の意見に自分なりの解釈や文句をつけてから私が正しいことを主張したり、一言余計な文言を付け加えてから、(これだけ私の方がよく知っているから)私の方が上だと示したがるプライドを持っています。
・・・そんな不完全さを身にしみて知っているだけに注意して書いているつもりです・・・

ところで・・・耕栄さんが講演会でしっかり説明しても・・・自分に都合がいいように「聞きたいように聞いて」「見たいように見て」いることがあることから(私も同様ですが)、真理を知っているようで中身の「真実」をあまり知らない、だから自分勝手に真理を解釈した錯覚勘違いの矛盾があったりして、だから真理と矛盾した不完全な勘違いされることをスタッフや仲間内で平然とやっている、また耕栄さんを憧れ慕い集まりつつもいつの間にやら耕栄さんを特別に崇め奉っているような雰囲気が感じられたりすることから・・・真理は憧れ信じ奉り願望期待する宗教ではないこと、だから知らないことを言われるままに妄信・信じるのではなくて自らが気付くこと、その真理の実践でその事実・真実を自分で確かめ知ること、また世界初の完全真理でありこれが最後となる真理であること、また完全真理の真価・本物を知らないうちに離れていくことの勿体無いこと、その本物を知るには自分が本物に近づくしかないこと、だから中途半端なところで止まって他力を期待しないこと・・・すなわち「自らの意識は自ら変えていくことしか」他に方法はありませんと・・・いつもと同じことを入り口切り口角度を変えながら書いているだけです。

また現実に「完全真理・ファバラ・耕栄さん」から離れている人の中で完全真理を越えた真理や宇宙・意識エネルギーに接し触れている人は絶対に誰一人いませんから(居るはずがありませんから)、もし離脱したことが正しかったとか良かったとか得したとか言っている人がいれば、それは自分を誤魔化して正当化している偽りの偽善者になります。
この件に関して・・・直接メール{fabala@nexyzbb.ne.jp}をBB契約期限切れの11月まで受けることが出来ます。

ところで(いつものことですが)こうしてこと細かく書くのは・・・完全真理の真実・事実をわかり易く事例で示して書くことで、それがきっかけで誰かが新たな気付きになるのではと思いつつ・・・私の暇で退屈な時間を活用しての書き込みブログになります。

奇跡を成す山田耕栄さんやファバラを知ることよりも完全真理を完全に知ることが重要です。

2010年08月17日 | Weblog
完全真理を理解すれば神や愛は特別ではないこと、イエスや釈迦らは特別ではないことを知りますが、それらを特別に思っている人から見れば(私が)否定しているように思う人がいます。
それと同じように耕栄さんやファバラが特別ではないことを書けば、その耕栄さんやファバラを特別に思っている人からすれば私が否定しているように勘違いする人もいますが、そんな人の場合は完全真理の真実を理解できないままに、ただ奇跡を成す耕栄さんやファバラは凄いから「信じています」といったような宗教観で見て読まれているのかも知れません。

だからこそ耕栄さんやファバラを知ることよりも「完全真理」を学び知ることが先決ですよと繰り返し書いているのです。
・・・完全真理を知った上での耕栄さんでありファバラであることが重要なのです。

私は元々神仏霊魂には無関心であり教養や学歴もないのですが(数学の方程式でさえ理解できていませんが)・・・それでも矛盾も妥協も一切無い完全真理が説くこの世の矛盾・不完全さやあの世の意識の世界の実在を確信・自信でもって自覚できるまでになりましたので、今までの「信じるか否か」だった見えない世界全般の実在するものを概ね悟った事になりますから、もう信じるか否かは卒業している事になります。

その完全真理の説いている真実を知ることよりも、その真理の理解が中途半端なままにただ奇跡を成す耕栄さんを「信じて」ついていっている場合であれば(信じる裏に不信感、期待の裏に期待はずれ、憧れの裏に失意、またジェラシー・仕返し裏切りが付いて回りますから)、その真理の真実・本物を見ずに教祖的に耕栄さんを見ていることが多いことからいえば、長く親しく交わる中で起こる何かのきっかけから教祖的に信じていた耕栄さんを不完全に思えたり見えたりすることがありますから、それら不信感が積もり重なると神がかり的に見ていた耕栄さんに対する不信感を強く持つことにもなるし、その反動・反感から肝心の完全な真理さえも不信感を持つことにもなったりして、それら不信感に執着しているとやがて真理からも離れていくことにもなりかねません。
・・・耕栄さんが有望視し期待していた人達・スタッフの中からも事実そういった事例が後を絶ちません。

=重要=
ところが完全真理の真実・本物には矛盾も妥協もありませんから、(真理を熟知していたなら)(例え耕栄さんに不信感を持っても)その矛盾も妥協も一切無い完全真理に対して不信感を持つということには絶対になりません。
また真理によってこの世とあの世の真実を完全に知った者が(真理の価値・必要性・本物を知った者が)(例え未熟であっても)真理の実践が思い道理に進まないことから自己不信に陥ったり、あきらめたり、尻ごみしたり、尻尾を巻いて逃げ出すような「勿体無い」ことには決してなりません。

だから山田耕栄さんの完全真理やファバラに裏切られたと思って去る者も、また去った者を裏切り者と呼ぶ者も、肝心な完全真理のことよりも耕栄さんやファバラを期待・特別視している偶像崇拝意識に原因があるものと私は思っています。

山田耕栄さんが説く完全真理は・・・この世で初めてで最後となる完全な真理ですから・・・(耕栄さんやファバラに何らかの不信や妨害・障害があっても)・・・この世に芽生えた完全意識は完全を成すことが出来ますから、(信じようが信じまいが)やがて遠からず人類が完全意識になることが宇宙の法則から確約されているのです。

良い悪いを持たない完全真理の実践が無ければその完全真理を知ることにはならない

2010年08月13日 | Weblog
ご縁があって真理を共に学ぶ仲間としてお付き合いしてきた人の中に、真理の理解不足やその勘違いからご縁が途絶えたこともありました。
例えば人に感謝されるのが好きから自分の特技を教習するのをボランテア的に取り組み、多くの人から感謝されていることを自慢していた人に(特別意識の人に)「感謝されることよりも、感謝できる人に」と助言をしたら、それが気に入らないで完全真理から離れていった人もいましたが、(自分の思惑と違ったり、自分に都合が悪くなると真理から離れていく)それに似通った例は他にも数々ありました。

また、共に学びあう仲間としてお付き合いしているベテランの人が差別問題に取り組んでいることを知ったので、「差別と思う人に、その差別意識がある」ことをメールで助言したら、それ以来メール交換も途絶え、その後に講演会で会っても無視されるようになりましたが、その講演会に差別問題をプリントしたTシャツを着込んで来ることで、その差別問題に取り組んでいる自分を主張顕示していましたが、それら差別意識や特別意識を人前に出して見せているのに、それでも「私は正しい」ことをしていると主張顕示している姿が如何にも矛盾した格好に見えました。

また何度もつまずきながらもなんとか長年のご縁が続いている人の事例ですが、その人が耕栄さんから頂いたメッセージ(一言)に「守り意識が強い」ことを指摘されたと言われたので、その守り意識になる原因である(私は間違ったことをしていない、他が悪いと思う)自己防衛・言い訳・正当化したがる「私は正しい」の意識や自他共に潔癖・完璧を望んでいる意識のことを(長年のお付き合いの中で思い当たる点を)書いてメールをしたら、それが余計な事になり迷惑メール扱いされました。

ところで私の場合は・・・数々の奇跡を成して見せる宇宙意識の山田耕栄さん本人のことを知る以前に、娘から預かった講演会録音テープを聴くことで完全真理を学び知ったのですが・・・
その娘を含めてベテランの人ほど「結果を出して見せる・奇跡を成す」耕栄さんを機会あるごとに何度も見ていますから、講演会で説明する完全真理を深く知ることよりも先に奇跡を成す耕栄さんの信者になっているような気がしています。

だから完全真理を深く知りそれを実践することよりも、特別な耕栄さんを「信じて」ついて行けば何とかなる他力本願になっていたり、講演会や冥想会・懇親会などで耕栄さんのエネルギーに接し触れているだけで十分に思っている人が大勢いるようです。

だから全国各地で開催される会場に来ているのは常連さんが多くて新人が殆どいません。
その原因の中にあるのが、何かと耕栄さんを熱心に慕い奉っているような集団・雰囲気が会場内で見られますから、何かと違和感を感じたり不信感を募らせたり、信仰宗教臭くなったり、超能力でファバラを売り込む詐欺に思えたりして、完全真理を理解できていない新人・初心者が離れていくのもあると思いますが、それに相反して先ほど書いたように完全真理よりも「奇跡を成す」耕栄さんを妄信・信じる人が増えることにもなっています。

だから会場内が特別意識の集団・集合意識になっていますから、そこに集まる者の完全真理が不完全に理解されるのも無理がありませんし、その多くの者の実践が確かに成されているとは思えませんから、何かと耕栄さん頼み、ファバラ頼みが増しているようで、その必然から講演会の回数が減ることにもなり、反対にファバラの奇跡を期待する「信者」が増えることにもなっていると思っています。

そんな私の意識の中には「完全真理」さえあれば十分に思っていますし、耕栄さんやファバラを特別に思っていませんから・・・すなわち「原因」である完全真理を学び知り実践するのが先であって、「結果」形・偶像の耕栄さんやファバラは完全真理を広めるための役割にしか思っていませんから、耕栄さん信者・ファバラ信者ではありません。

すなわち・・・耕栄さんが成して当たり前であり、そのファバラ効果・結果が自他共に出ても当たり前であって、その形・結果は「特別」ではないのです。
だから耕栄さんや関係スタッフに不完全さがあったとしても、またファバラで集めたお金がどんな結果・形になろうとも(お金の必要な人にお金が集まっている形ですから)、この世で初めての完全真理の真実やあるがままの宇宙の愛エネルギー・全知全能エネルギーとは次元が違います。

だから完全真理を意識した実践が先であり、耕栄さんの成すことやファバラ効果に大した意識は持っていません。
・・・見える結果を数々知ることよりも、見えない原因(意識)を深く知ることが先にあるからです・・・