自己縮小して心身ともに楽にしていても不完全意識はそのままに残っていますから、その不満不足や見栄やプライドが出ます。
だから人が大勢集まる温泉に行くときはシワだらけの着衣にアイロンがけしていますが、それ以前ならシワだらけのヨレヨレの着衣やほころびた肌着や穴の開いた靴下でも平気でした。
また以前なら牛舎の汚れや臭いや粉塵も気にしていなかったのに人が集まるところでしかも裸になることからしてそれらが気になっています。
そして気になることがあるとそれを何とかしなければと思いますから、仕事に行く前から着て行く着衣のことに(以前よりも余計なことに)気を配ります。
また温泉で大声の気合を入れから行動する人、また全身を洗い終わるまで蛇口の湯をフルに出しっぱなしにしている人、肉体美を見せるかのようにボディビルダーをする人などに出くわすたびにそれが気になります。
また牛舎でオーナーが歌謡曲を大音声にして仕事をしているときや大型スーパーの店内宣伝放送の流しっぱなしや温泉場のBGMが私には雑音になります。
ちなみにカエルの大合唱やパチンコや工場などの騒音は当たり前ですから雑音(不自然)ではありません。
しかし以上のことはその場面に出くわしたときのことですから、そこから離れたら気になりません。
すなわち過ぎた思い悩み(執着)にはなりません。
と言うように探し出せば幾らでも出てくるのです。
そして「ちりも積もれば山となる」し小さな嘘が大きくもなるのです。
また人には厳しく己には甘くなるのが一般的です。
だからそれを人為的&意図的に大きな事(悔やみ悩み苦言や腹立ち)にも自らが変えれるのです。
すなわち些細な原点・原因からして(起因になって)(執着するほどに)大きくもなっているのです。
だから気にせずにほっとくことで執着にならないのです。
また大きな事に係わらなければそれだけ穏やかに過ごせるわけです。
だから波乱万丈を自慢する人や名・権・財に執着している人を見れば私は愚かな生き方の人に見えます。
それでもって私は(裏のある不完全ながらも)謙虚素直真面目に立ち振る舞うことにもなっています。
しかし今はすべてが「どうでもいい」ことに思えるだけに(考え直すことも出来るだけに)執着しなくなりました。
だから心身ともに楽チンなのです。
だから人が大勢集まる温泉に行くときはシワだらけの着衣にアイロンがけしていますが、それ以前ならシワだらけのヨレヨレの着衣やほころびた肌着や穴の開いた靴下でも平気でした。
また以前なら牛舎の汚れや臭いや粉塵も気にしていなかったのに人が集まるところでしかも裸になることからしてそれらが気になっています。
そして気になることがあるとそれを何とかしなければと思いますから、仕事に行く前から着て行く着衣のことに(以前よりも余計なことに)気を配ります。
また温泉で大声の気合を入れから行動する人、また全身を洗い終わるまで蛇口の湯をフルに出しっぱなしにしている人、肉体美を見せるかのようにボディビルダーをする人などに出くわすたびにそれが気になります。
また牛舎でオーナーが歌謡曲を大音声にして仕事をしているときや大型スーパーの店内宣伝放送の流しっぱなしや温泉場のBGMが私には雑音になります。
ちなみにカエルの大合唱やパチンコや工場などの騒音は当たり前ですから雑音(不自然)ではありません。
しかし以上のことはその場面に出くわしたときのことですから、そこから離れたら気になりません。
すなわち過ぎた思い悩み(執着)にはなりません。
と言うように探し出せば幾らでも出てくるのです。
そして「ちりも積もれば山となる」し小さな嘘が大きくもなるのです。
また人には厳しく己には甘くなるのが一般的です。
だからそれを人為的&意図的に大きな事(悔やみ悩み苦言や腹立ち)にも自らが変えれるのです。
すなわち些細な原点・原因からして(起因になって)(執着するほどに)大きくもなっているのです。
だから気にせずにほっとくことで執着にならないのです。
また大きな事に係わらなければそれだけ穏やかに過ごせるわけです。
だから波乱万丈を自慢する人や名・権・財に執着している人を見れば私は愚かな生き方の人に見えます。
それでもって私は(裏のある不完全ながらも)謙虚素直真面目に立ち振る舞うことにもなっています。
しかし今はすべてが「どうでもいい」ことに思えるだけに(考え直すことも出来るだけに)執着しなくなりました。
だから心身ともに楽チンなのです。