孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

この世がどうであれ、「今に」不平不満を持たなければこの世も楽園・地上の天国になります。

2010年07月29日 | Weblog
考古学者の説によると、人間が自然(神)と調和して生きてたのは縄文時代までであって、その長く続いた縄文時代から弥生時代になってから(他の文化に侵略されたかのように)急変して、生産合理主義の合理化・機能効率化・集合化が進み、効率よく生産するためにもどんどん開墾整地を広げ、そこに水路を張り巡らして生産性を高め、その収穫が増えれば更に多くの人が暮らせるようになって集合化・拡大していったそうです。

そうやって進化拡大してきた今の現在であれば・・・(昔と違って)正に地上の天国な筈なのだが、しかしながら常に不平不満が渦巻いいれば、この世が地上の天国とはなりません。
それでも今よりもっと進化した世の中になれば科学や医学などで自然環境から生活環境までもが快適便利で安心安全の夢のような世界になると思っている人もいるかもしれませんが、さにあらず、今よりもっと深刻な自然環境や人間関係の崩壊破壊が進行していくのは覆しようの無い事実です。

それを例えれば・・・昭和ブームとやらで昭和の時代を懐かしむ人も大勢いることから言えば・・・
仮にその昭和で満足していたのなら地上の天国になっていたはずなのですが、ところがそれにも満足できずに更に不平不満を積みかせねて進化拡大して来たのが現在ですし、まだこれから先も止まる事無くどんどん進化拡大していくでしょうから・・・やはり人類滅亡・地球破壊に突き進んでいることになるのです。

しかしながらその過去や未来がどうであれ、現在の「今」を生きているのは私たちなのです。
その私たちの「不平不満」の心・意識が消えさえすれば・・・あるがままの今が楽園・地上の楽園にもなるのです。
・・・多様性に満ち溢れた自然界のすべてと接し触れ合い味わえているのですから・・・
・・・多種多様の産業化学によって豊かな暮らしが出来ているのですから・・・
・・・あらゆる趣味嗜好娯楽文化に恵まれているのですから・・・
・・・人それぞれが持つ豊かな個性を自由に発揮出来るのですから・・・
・・・認め合い助け合うお互い様・お陰様の人間関係があるのですから・・・

それなのに何故「不平不満」が出るのでしょうか・・・
その原因が「良い悪い」(善悪・優劣・損得)で判断してしていることにあるのです。
またそれが原因で不安心配・恐れ・苦悩を持つことになり、それが争い喧嘩や人殺しや戦争にもつながっています。
すなわち不平不満の意識が今の楽園・天国を邪魔しているのです。

それも仕方がないこととして認めた上で・・・今のこの世・社会がどうであれ、今の人間関係・人様がどうであれ、また己の今の状況環境がどうであっても・・・その自分の中に「不平不満」が無ければ、この世は地上の楽園になるのです。

その不平不満を持たないためには(先ほど書いたように)豊かさに恵まれた「今」に満足さえすれば不平不満は消えて楽園・天国になるのです。
しかも、その恵まれた豊かさに感謝してそれを味わい接することで心から満足することが出来れば、その満ち足りた思いがあるかぎり次々と欲しがる事も無くなっていくのです。
すなわち満足を味わい知ると多くを必要としなくなるから皆と分かち合えることにもなるのです。

ところが、思い描き理想目的を持つことは今に満足していない己の欲になりますから、その欲・不平不満を満たすためにやって得た満足感は自己満足になりやすいから、それだけでは満足しきれずに(満足感を求めて)次々と欲を叶えたがることになるのです。
すなわち「今に満足」できないから不平不満の生き方になっているのです。
だから・・・他と比較競争して差を付けて自己満足したがることにもなります。
そこで・・・勝った負けたと(優劣損得で)喜怒哀楽することにもなっています。
また(今に満足していないから)・・・生老病死が気になって、(恵まれ豊かな)満足を十分に味わいきれません。

そして「自己満足」ばかり積み重ねていると・・・(自己満足は自慢話になるから)人に言いたがりますから、自己主張が強くなります。
更に自慢話ばかり積み重ねていると「私は正しい」思い・意識になり、それを主張顕示することにもなります。
だから(真実・事実を知り味わい接していないのに)自分勝手に判断したところの良い悪い・好き嫌いで決め込んでいるのに、それらの意識が多く集まれば集まるほど(集合意識となって)それが正しいことのように常識化・正当化・偶像化されたりもします。

その私は正しいの潔癖・完璧で囲い(他を敵とみなす不信感から)自分を守る正義感を持つようにもなります。
その潔癖・完璧・正義感が原因の宗教思想主義や常識・伝統・風習・道徳やで自由・平等を束縛制限されることからも多くの不平不満が生み出されているのです。
だから・・・多様性に恵まれた豊かな今に満足感謝できずに、それに相反する不平不満を問題化正当化して、その問題解決のために進化拡大を続けることが「正しい」ことになっているのです。

だから「地上の天国」を味わえないままに人間の一生を終えることにもなっているのですが・・・
そこで・・・完全真理を実践していればやがて訪れるであろうと言われる(未来の)地上の天国を言われるままに「信じて待つ」のではなくて・・・誰にも出来そうな「今に満足する」実践のほうが実感でもって味わい知ることが出来ることから言えば、自ずと自己縮小の実践も進んでいく事になると思っています。

私は正しいの分離意識・差別意識・特別意識を守り闘うことになる個人意識を無くしていく完全真理

2010年07月20日 | Weblog
完全真理で言われるところの「すべてはひとつ」は・・・ひとつのものを良いと悪いで<分離>して善悪・優劣・損得で判断する分離意識の過ちを説き、その分離意識で比較・競争して<差>を付けたがる差別意識やその差を<特別>に思う特別意識を持たなくするために「すべてはひとつ」であると説いています。
だから神と人間を分離して神を特別にするのは差別意識であり特別意識を持っていることになります。
また同じ人間同士を良い悪い(善悪・優劣・損得)で分離して比較競争差別するのも同じです。
また人間と他の動植物や鉱物や微生物などの自然界に有るすべてのものと比較して差を付けるのも同じことです。
またその自然界の同じ仲間同士を見比べて(分離・比較して)良い悪いの差を付けるのも差別・特別意識になります。

その分離意識・差別意識・特別意識を持つのは人間だけです。
その人間が持つ意識が個人意識であり、ひとつのものを良い悪いで分離してその良いとこ取りすることを自分さえ良ければの自己中心主義といわれています。

すなわち人間には良い悪いで分離・比較・競争意識があり、その結果から差別・特別意識を持つことになり、その差別・特別意識が正しいとしてそれを大事に守る「守り意識」を持つことになると、その必然から相反する敵を仮定・想定することにもなり、その仮定・想定する敵対意識が「不信感」になり、それが原因で不安心配・恐れの「恐怖心」を持つことにもなり、それが過ぎると怒りややきもち嫉妬・ジェラシーにもなり、それらが歪んで制裁・復讐・仕返しの「報復心」を持つことにもなり、それが原因で喧嘩、抗争・闘争、戦争やテロなどの「破壊意識」と進んで行きます。

その破壊意識の事例が・・・苛立ちまぎれに手元のお茶碗やコップを投げるのや人を痛めつける暴力・破壊意識であり、その最たるものが無差別殺人や戦争やテロなどの破壊意識なのです。

まさに(他を巻き込んで)自分中心の自分の思い道理に生きることを選んでいるのが今の人間関係・社会国際関係なのです。
だから親子家族・恋愛・職場・社会国家関係のなかで共に裏切り・寝返り・切捨て・見捨て・破滅・破壊したがることになるのも、自分さえ良ければの思い・個人意識で生きているからです。

そんな自分さえ良ければの個人意識を持っているのに「私は正しい」を持っています。
だから(自分の思いと違う)相手の間違いを忌み嫌います。
それが「不平不満」になって現れるのが最初ですが、それが先ほどの不信感・恐怖心や復讐心や破壊意識にも進んでいくのが私たち個人意識の人間なのです。
ところが自分が間違いを起こしたときは言い訳して正当化したがります。 それが事故・犯罪・破壊・戦争であっても同じです。

しかも「私は正しい」が確信・信念になっていると、そんな自分の思い・思惑・理想目的や思想主義と相反する事柄であれば、それは「間違っている」として主張顕示したがりますから、そこで意見対立で大勢を巻き込んだ問題化になっています。
そして独裁・強権や宗教・思想の勢力争いや是非を決める多数決で事を決めたがりますから、そこで取り残された反対勢力が根強く巻き返しを図りますから、両者共に不安心配・恐れの不信感で安心してはいられません。
すなわち「私が正しい」を持つことで他を否定反発排除したがる不信感を強めることになるのです。

そんな不信感が渦巻く「どうしようもない」人間関係・社会国家関係のなかで共に生きているのが私たち人間です。
それでも「何とかなる」のがその個人の意識改革であり、そのお手本を示しているのが「完全真理」なのですが、それも実践が無ければ「絵に書いた餅」同然ですから、完全真理が説く真実・本物を味わい知ることにはなりません。

そこで何度も書いているように・・・個人意識丸出しの不完全意識であっても、「私が正しい」(差別意識・特別意識)を無くするために「お互い様」「お陰様」の関係であることを実践意識するようになれば、いつの間にやら(自然体で)完全真理を実際に味わい知ることになり(不平不満の無い満足を味わい知ることになり)差別意識・特別意識を無くしていく自己縮小が進んでいくことになるのです。

良い悪いで判断しても(逆も真なりで)それが不平不満にならない損得計算があります

2010年07月16日 | Weblog
完全真理は「良い悪い」で比較競争差別しなければ平等・自由・調和の人間関係・社会になることを説いているわけですが、その実践が伴わなければ気付き・悟りにもならず、まして自分さえ良ければの個人意識が消えてなくなることは絶対にありません。
ところが人間生まれ持った善悪・優劣・損得で判断するようになっているのですから、実践するにも相当な無理が有るようで、事実未だに誰も到達した者がいません。

だから(私の場合は)良い悪いで判断して人を責めたりして不平不満を持てば、その自分が損なのか得なのか「損得計算」で判断したところ・・・己が不平不満を持つことで気疲れ気苦労を背負い込むことに気付き、また執着・主張顕示すればするほど気苦労が増して更に損を積み重ねることになると気付いたのです。
だから、不平不満を持ったら「自分が損」をすることに気付いたのです。

例えば、私が家内に不足を思って何か言えば、その不足を補う願いが叶うことよりも(思惑がはずれるだけではなくて)、それが原因で家内が不機嫌になったり、家内の言い分・言い訳をくどくど聞かされて正当化・主張顕示される羽目にもなったり、それとは直接関係ない過去のことを持ち出されて責め立てられたり(逆襲されたり)、また別なことで仕返し報復・制裁まで受ける事にもなり兼ねませんから、得するどころか損ばかりした事になります。

また世間的な欲が絡んでの金銭損出のトラブルが起きたとき、それに執着すれば弁護士を立てて調停裁判に持ち込むことになり、更に弁護費用の出費だけでなくて、その解決に掛かる時間的な無駄やそれまでの間あれこれと思い考える精神的・感情的な苦労・負担まで背負うことになりますが、それでも万事が順調に思惑通りにならずに終わり、結局は未練後悔執着する事になるのがこの世の常にあります。 

ここであれこれと事例を書くことを省略しますが・・・何かと「私が正しい」と主張顕示しても、相手側も同じように言い訳正当化して主張顕示してきますから、互いが泥沼状態になるのがこの世の常にあります。
その結果、いい加減なところで妥協し合うか、喧嘩別れになって恨み辛みを持つか、負け犬になるか、自分が退くしかありません。
それが例え「勝った」と思っても、それは犠牲を伴った上での自己満足ですから後味の悪い満足感になります。

だから不平不満を持ったほうが更に損を重ねることを悟り知ったわけですから、あとは執着しないためにもきれいさっぱり諦めるしかありません。 すなわち不本意ではなくて、損得を超えた納得済みで自らの本意・意思でもって諦めるわけですから、未練後悔執着が無いから意外と簡単に早く「忘れる」ことができるのです。

だから損得で判断しても執着することがなくなっていき、そして直ぐに忘れることが出来るようにもなり、その内に問題が有っても気にもならなくなり(どうでもいいことになり)、意外と簡単に「許せる」ようにもなっていくのです。
その「許す」ことで自分も気が楽になって結果的には得をした事になることに気付き知るようになれば、それだけに何かと不平不満を持つことの馬鹿らしさにも気付いていますから、既に問題が問題ではなくなっていて、常に平常心を保てるだけの穏やかな心・意識になれるのです。

更に気付きが続けば、一方的に許す関係ではなくて、過去性や現世の過去において既に自分も多くの過ちを犯し繰り返していることや、それを何度も許されていることにも気付き、皆が同じ「お互い様」「お陰様」の関係になっていることを悟ることが出来るのです。

だから「良い悪い」で判断することがあっても、それが原因で不平不満になることが無くなれば、それが元で不安心配・怒り・嫉妬・破壊意識になることもありませんから、(その安心感から)過去や未来のことに未練後悔執着することもなくなり、先々の財政的な問題や災害災難・怪我や病気や老後や死や死後のことさえも気にならなくなりますし、それらに直面してもそれが不平不満になることもありませんから、平穏無事で心安らかな生活を続けることが可能になってくるのです。

その心安らかな生活が続けば金銭物質的な自己満足ではない、何処にでもあることで喜び感謝の満足を味わうことも多くなります。
その心の満足を知ればそれ以上の満足を望むこともなくなり、更に不平不満が消えていくことにもなります。

すなわち「良い悪い」で判断することがあっても(未熟であっても)、直ぐに忘れることが出来るから、それで不平不満を持たなくなり、それがきっかけで、これまで忘れていたり見逃していた些細なことで「満足」を味わえることにもなるので、更に不平不満の意識・心が消えていく事にもなり、自分さえ良ければの個人意識を無くしていく自己縮小が進む結果にもなっています。

ところがどうしても不平不満を言いたがる人には必ず「私が正しい」と思う自尊心・プライドがありますから、そのプライドを守るためにも自己主張したり顕示誇示(問題化)したがっているのですが、(裏表のある矛盾の世界ですから、逆も真なりで)その自分を「守る」ことで敵を作りますから平穏無事な生活が成り立つ訳がありませんが、自分という個人意識・プライドを「捨てる」ことで(失うものがなくなり)不平不満にならない心の安定した生活が訪れるのです。
それを教えてくれているのが裏の無い完全真理なのです。

「私は正しい」原因で不平不満にもなり、それを主張顕示することにもなる。

2010年07月10日 | Weblog
すべての原因は己にあることを真理で知っていても、それが実践になると自分が出ます。

自分が不完全意識であることを忘れていると「私は正しい」が必ず出てきて、結果的に(自分に不都合なことがあると)人を責めることになり、そして自分は正しかった(他が間違っている)と主張することになります。
それが自分を守る意識から来る「私は正しい」であり、その守り意識が原因で完璧主義や正義感となって現実に現れているのです。

「私が正しい」と思うのにあるのが「私は一生懸命やっている」「頑張り努力し苦労している」「重責を果たしている」「私はあれもこれもやっている」「私は確かなことをしている」「私はあんな人達とは違う」等と思うことにあるが、それらを「裏返せば」→私がしてやっているのにと思う、その過剰意識・自信の裏返しや潜在意識から「私は正しい」が出てきて、更にその裏づけのために言い訳してそれを正当化して私は正しかったと思い込むことになり、更にそれを守る完璧な壁や強固な殻で自分を守りたがります。

その誰もが持っている守り意識から不信感・敵対意識が出ているし、それが原因で否定反発・排除したがることになり、更に言い訳・正当化の思いの中での自己満足や、それを他に表立って主張顕示することでも自己満足を味わうことになっているのですが・・・

とにかく、不平不満を持つことになったり、それを言い訳正当化するのも、また他にそれを自己主張・顕示したがるのも、その裏に必ず「私が正しい」があるからですね。

皆同じ不完全意識の似た者同士の集まりのなかで私だけが「正しい」とはならないのです。
他と比較競争差別し合っているのに「私は正しい」とはならないのです。
 他を押しのけてまで自分の都合を優先しているのに「私は正しい」とはなりません。
他を否定反発排除したがっているのに「私は正しい」筈はありません。
 人を信頼しないで不信感を持っているのに「私は正しい」とはなりません。

そんな間違った「私は正しい」を持つことで手前勝手に満足しているとしたら、それは(犬や猫さえも見向きもしない、まったく味気のない)自己満足になります。
そんな味気ない自己満足を得ている以上に、不平不満やイライラ・カリカリの苛立ちや怒りを味わうほうが多くなるのが、「私は正しい」を持っている人です。

それを世間の損得で言えば、私は正しいを持って得することより損をしているのが多いのですから、少しでも早く私は正しいと言う観念・概念を捨て去って、完璧な壁や強固な殻を破って、皆が同じ仲間であることの「お互い様」や「お陰様」の関係になっていることを学び知りそれを味わうことで、やがて「私は正しい」が消え去って平等・自由・調和の人間関係を味わうことになっていきます。

そのお互い様で共に許し合い助け合い認め合う信頼関係やその喜び楽しさを味わえるお陰様・感謝の関係になれば、その人間関係には気苦労が無くて「楽しい」ものになり、お金や物や自分の都合で味わう自己満足とは違った心に届く満足が味わえます。
そして大きな喜び(衣食住・名権財)を得る自己満足を目指していていることで今まで気付かなかった身近に起きている日常の中の小さな満足を味わい知る事になれば不平不満も無くなり心に届く満足を知る事にもなるのです。

その心の満足を味わい知れば、人を責めたり不平不満を持つことの後味の悪さに本心から気付くことが出来るのです。
そして、まだ未熟な不完全意識であっても(例え完全意識になれなくても)、皆が同じその「お互い様」「お陰様」の関係で成り立っていることを知れば、それで自分の中の不平不満も消えていく事になり、そして不信感の無い(裏の無い)信頼関係で接し触れ合うことにもなり、そこで(他がどうであれ)自らが苦悩を背負わないで、壁や殻の中に閉じこもらないで、あらゆる多様性に恵まれたこの世を味わいながら平然と呑気気楽に生きることが出来るようになるのです。