孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

<人間死んだらどうなるの>

2011年12月31日 | Weblog
この世に人間として生まれたその役割は「良い悪い」で判断するその矛盾・裏表を色々と味わいつくす事にありますから、誰もが不平不満とその自己満足の苦楽の繰り返しから自己拡大する事になり、その時代ごとに文化文明が進化発展してきました。
その苦楽の矛盾を味わったからこそ、その矛盾のない「あるがまま」の宇宙・神・愛の調和意識の素晴らしさを完全真理によって知ることになり、その矛盾のない調和意識・完全意識になることが人間の使命だと知りました。

ところが人間としてこの世で生きている限り「良い悪い」で判断することから抜け出せないことも知りましたから、この世で生きている限りにおいてはやはりこの世の矛盾を味わうことになりますが、それは人間として生きているからこそ味わえるアリガタイことであって、死して人間の肉体・姿形の無いあの世に行けば味わうことが出来なくなります。

例えば肉体が無ければその肉体美・スタイルが良いとか悪いとかで判断することもありません。
また髪形や肌のことや健康状態などを良い悪いで判断することにもなりません。
食べることも衣装を着ることもありませんし、天気や気候や季節などの自然界の影響も受けませんから(味わえませんから)、それらを良い悪いで判断することにもなりません。
物質金銭も必要ないから生産や収入の多い少ないの判断もありません。
この世の形である医科学や芸術技術も各種免許もあの世にはありませんからそれらを学ぶ必要もありません。
事故や怪我や病気もありません。
また趣味や嗜好や娯楽もありません。
忌み嫌う形もありません。
異性関係・同姓関係・恋愛関係・セックスなどの人間関係・家族血縁関係もありませんから不倫浮気や裏切り関係もありません。
・・・漫画「ゲゲゲの鬼太郎」で歌われているように「時間も勉強もなんにもない!」意識・命だけの世界です。

と言うことからして人間の時は日々忙しく過ごしていたのにあの世では暇で退屈することでしょう。
それでも人間の時の意識記憶は残っていますから、その思いだけで宇宙時間を過ごすことになります。
しかも自己満足は殆ど記憶から消えていますが、その分だけ不平不満・後悔未練は数多く根強く残っていますから、そればかりが多く蘇ってきて、時と次第では地獄に思えるかもしれません。

どうやら、この世にあった形が消えて何にもない意識だけの世界において、何を成すこともなく、観掛けは平然と、それぞれがその意識・命から出ている意識エネルギーを「感じあう」「感じ取る」ことになるようですが、自殺した霊や怨念の強い霊は成仏していませんから、三次元の霊のままに(怨念を持ったままに)永遠に漂うようです。
私が若い頃に丹波哲郎の映画「人間死んだらどうなるの」を観ましたが・・・成仏できた霊が明るいところで何を成すこともなく平然と穏やかに過ごしていることが描かれ、また自殺したり怨念・執着心から成仏できなかった霊が暗い地底の地獄のようなところから這い上がろうとうごめいているのが描かれていました。

ところが、宇宙・神の必然から仕組まれて起こる地球の進化と人間意識の進化によって三次元界と死して後の四次元界が無くなりますから、その宇宙の流れに乗れなかった意識・命は他の銀河惑星で地球のような人類の進化が始まるまで人間の意識・命に転生することは無いと言われています。
そうなると人間だった頃の思いだけで宇宙の時を過ごしますから、それを人間時間にすれば何百年何千年何万年になることでしょう。

と言うことからして自己縮小が必然になるのですが、そこまでの理解力や自信や自力がなくて今は無理ならば(逆も真なりで)、完全真理を学び知りながらも同時にこの世の幾多の矛盾を意識して味わい尽くすことです。
その矛盾を味わい尽くすことと完全真理の真価を知ることからして(裏表を知ることで)自ずと自己縮小の実践の必要性を知ることにもなるでしょう。

「完全真理」の概要・早分かり

2011年12月21日 | Weblog
時代が進化拡大発展したお蔭から、ネット・ブログで完全な真実の宇宙・神・愛を知ることが出来るのですから有り難いことです。
昔なら神の啓示を受けたとか神懸り的なことが出来る人が修行したりして天界の神を知ることになっていたようですが、それも世直し人救いと思いながらも「良い悪い」で判断した不完全意識からやったことだけに、やはり良いも悪いもない完全な真実の神を説くことにはならずに、特別な差のある神を説く事になったのは事実にあります。

そこでこのブログを読まれた方であれば矛盾(差)も妥協もない<完全>な事実を知る事になります。
すなわち「良い悪い」で判断しなければ比較競争や差別もなくなり、自由・平等・調和になるその事実を知る事になります。
そして自己満足・自惚れ慢心・プライドや私が正しいの自己主張や制裁復讐・正義感やその守り意識や破壊意識などの不完全意識が出ることにもなりません。
また不平不満から不安心配・不信感・恐れ・怒り・嫉妬・憎悪を持つことにもなりません。

そしてニワトリが先かタマゴが先かの矛盾もない、大元から実在していた宇宙万物が「すべてはひとつ」(一神にして多神、多神にして一神)であることの真実・事実を知る事になります。
その宇宙・万物・すべてに「意識・命」と「役割と使命」があることの事実を知ります。
またその意識・命に「エネルギー」があることの事実を知ります。

そして摩訶不思議なこと(奇跡現象)が起こる「宇宙・フリーエネルギー」「意識エネルギー」と言われる、この世の物質や形を変化させることの出来るエネルギー(常温核融合・原子転換)の実在・事実を知る事になります。
だからこの世で言われる「奇跡」がインチキ目くらましのトリック・手品ではないことのその信実・事実を知る事になります。

またすべてのものに役割個性があることからして、万物・宇宙・神や教祖や奇跡を成す人が特別ではない事実を知ることになります。
また「すべてはひとつ」の関係から、皆が「お蔭さま」と「お互い様」の関係になっている、その事実を知る事になります。
だから加害者も被害者もなく、また裏切った者も裏切られた者も実在しないことの、その事実を知る事になります。

そして「原因」があってその<結果>が出ていることからして、その原因と結果が矛盾することは絶対にありません。
だから「この世」が結果で「あの世」が原因であることの事実を知ります。
だから人間の「意識・命」が原因でその肉体・姿形は結果であることの事実を知る事になります。
だから人間死しても、その意識・命は原因である元の世界(意識の世界)で実在し続けることの事実を知る事になります。
だから生まれ変わり・輪廻転生・過去性を持つ「仕組み」があることのその事実を知ることになります。

だからその「意識・命」が宇宙の仕組みにより常に進化し続けている事実を知る事になります。
だからその「意識・命」が時代の進化をもたらしていることのその事実を知ることになります。
そして物質文化の進化・時代の進化の原因にあるのが不平不満とその自己満足の繰り返し(自己拡大)にあることのその事実を知る事になります。
そしてその自己拡大を終わらして自己縮小する<時>になっているその事実を知る事になります。

その自己拡大と自己縮小の裏表・矛盾を味わうことが人間の「役割」であることのその事実を知る事になります。
その拡大と縮小の矛盾を味わうことから、その自己縮小で生きることの<真価>を自覚悟ることになるその事実を知ることになります。
そして「この世の矛盾」と「あの世の完全」な宇宙・神・愛を知った、その人間の「使命」を果たした<意識・命>が、この宇宙に始めて誕生する事になるその事実を知る事になります。

その<事実>を知ったからには「自己縮小」の真価を味わうしかありません。
それには先ず執着しないことであり、そして素朴で自然体で生きることであり、それが成り行き任せに生きることや過不足(良い悪い)で判断する必要もない普通意識になることにあります。

またその実践をいくら先延ばししていても、この先で自己縮小の羽目に遭うことになる、その仕組みがこの世にあることのその事実を皮肉にも真坂の有事に遭遇することでその事実を知る事になります。
だからその先々で待っている真坂の有事に強い自力・自信・精神力・意識力を付けるためにも、やはり自己縮小するしかありません。

そして人間の姿形・肉体を終える時まで自己拡大し続けていれば、その「意識・命」の粒子が大きいことから「ふるい落と」されたり宇宙のフィルターに引っ掛かって、宇宙の進化・地球の進化となる、新たな地球人類の意識の進化(次元進化)の<流れ>から取り残されるようです。

「成り行き任せ」にすれば不信感のない(裏切り関係のない)「お互い様」「お蔭さま」関係になるのです。

2011年12月16日 | Weblog
私達人間が「良い悪い」で判断している限り必ず<不信感>を持っています。
その不信感を持っていると不安心配や恐れから生きた心地がしませんから(死んだも同然ですから)、(バランスを取るために)そこで裏心に「信じて」「信じて頼る」ことで<安心>したがる他力依存・他力本願の思いを持っています。

そして他力を信頼したことで自分の思いが叶うと自己満足しますが、その思いが叶わないと騙された裏切られたと思うことになります。
だから信仰や宗教の神仏を信じていても裏切られることにもなるのです。
だから完全真理や耕栄さんやそのファバラを信じていればその事が騙され裏切られたことにもなるのです。

だから完全真理が説く宇宙・神を信じていれば安心安全になるかと言うとそうではなくて裏心では必ず不信感を持つことにもなります。
だから天変地異や真坂の有事に巻き込まれたときにその裏心が出て騙されたとか裏切られたかのように思い悔やんだり恨んだりすることになるかもしれません。

しかし「完全真理」では、「信じる」ことよりも実在・事実・真実を完全に見極める必要性を説いていますから、当然ながら他力を信じて頼るとかの「信頼」「信仰」「他力依存」は不完全だから良いときも悪いときもあるとその矛盾を指摘していますから、実践意識でいれば「信じる」ことにはなりません。
・・・「信じ」なければ裏切られたと思うことにはなりません。

しかし「不信感」が消えることはありませんから、その裏では誰かや何かを「信じ」たがることにもなります。
それが神仏や人様だったり、また金銭物質だったりして、自分に足らないものを他力に頼って、それを信じたがる事になっているようですが、「信じる」「信頼する」は他力依存の<欲>であり、自力を惜しむ不精者であり、また果報者は寝てまてや濡れ手に粟や棚からぼた餅のご都合主義な生き方になります。
・・・だから「自力」で生きる事をブログに書いています。

そして不信感を持っていても<欲>を出さなければ他力を「信じる」ことも「信頼」することにもなりません。
だから欲を出さずに「成り行き任せ」に生きる事を書いていますが、その成り行き任せの意識になるのにも「自信」と「自力」がなければ無理になります。
だから「食って寝て糞をする」だけのような<成り行き任せ>が横着でも不精でも諦めでもありません、(背丈に見合った)自力と自信より過ぎた欲を出していないだけです。

そしてこの世の不完全な形やその人間関係の不完全さを見極めた上での「無理のない」「無駄のない」「余計な事」にならないための成り行き任せですから、その時々の必然のご縁がなければ無駄に動くことにはなりません。
だから心身ともに余裕がありますから、何処かで何かの必然ご縁があれば、いつでも自力を出すことが出来ます。
しかしそれでも「無理」することにはなりません。

そんな生き方が定着してくると自我(主張や欲)が少なくなりますから、(意識の世界の鏡現象の仕組みから)必然ご縁で関わることになる人様にも同じく自我やご都合主義が少ないことからして、その似た者同士が個性を出し合っても違和感なくお付合いが出来ます。
だから無理も気兼ねも余計な気遣いもありませんから自然体に近いお付き合いになります。

きれい事に聞こえる「信じる」「信頼する」その裏心に偽善の欲得が隠れているのです。
だから到る所で「裏切り」関係が起きているのですが、信じ信頼していた欲得意識の裏心の者にも責任があったことですから、双方共に痛みわけの裏切り合った関係になります。
・・・(人間が)不信感を持っているから、その(人間同士に)裏切り関係が出てくるのです。

その際たるものが「愛情」に見受けられます。
だからその愛情が大切だと思う人に「裏切り」の思いが多く強く出てくるのも当然です。
しかし(不信感のない)成り行き任せにはその結果の愛しかありませんから、自己満足も不平不満も執着も出てきません、ただ成るようになった結果・事実だけで終わります。

そして神や教祖を信じる「信仰」も同じでして、信仰することで生きているときに良かったり悪かったりする矛盾がありますから、その矛盾が不信感にもなります。
その不信感を隠してまで、尚も信じたがるのは、自分の都合もあってのことですから、真の信心ではありません。
だから死してあの世に行けば何で私がこうなるのと悔しがることにもなるようです。

しかし信じる神に全託する、信じ切ることが出来ればそれは成り行き任せですから、その結果に良い悪いの判断は加わりません。
しかしそこに判断が加わっていれば、神を信じきった結果ではなくなりますから、何で私がの結果になります。
だから「成り行き任せ」の結果に判断を加えたり、その判断に執着しないためにも、やはり欲心の特別を望まないことにあります。

何らかの欲心を隠しているから、「信じ」ようとしていることになり、そして裏切り関係が出来ているのです。
だから自己縮小をし続けて素朴・自然体に生きるほど<不信感>が出てこなくなり、必然ご縁の成り行き任せに出来るのです。
そして不信感のない(裏切り関係のない)「お互い様」「お蔭さま」関係になるのです。

「摩訶不思議」「見えない世界」「精神世界」「霊魂の世界」<完全真理>と「必然ご縁のお仕組み」

2011年12月13日 | Weblog
完全真理を学び知りそれを実践できている人を「選ばれし者」と大げさに書いていますがそれも事実です。
何故なら極限られた人にしか実践出来ていない事実があるからです。
そして今後もそんなに増えていくはずもないからです。

私が過去に奇跡的な症例回復が出る多機能性特殊健康食品の販売に関わっているときでもそうですが、不信感が先立っている人が多くてご縁があった人が極限られていたこと。
次に宇宙エネルギーの浄水器に取り組んでいるときもまったく同じでした。
そして健康維持を気遣っている人が愛用者になるが、病人はクスリ依存症になっていること。
また医者やクスリに頼れば健康保険で負担が少ないが、健康食品・民間療法(器具)で全額負担で購入するのを嫌うようです。

その中に身近な人もいましたが、実際に愛用した人はそれなりの結果が出たことから、今の完全真理とファバラ(高額商品)にもご縁がつながっていますが、ところがその身近な人の夫やまた妻やその両親や親戚家族となれば未だ不信感でもってその必然ご縁がありません。

また完全真理の前に「霊魂の世界」の宇宙的霊能者とご縁があったときもその「知られざる」情報を公開していましたが、とにかく宗教とは異なる「見えない世界」「精神世界」に関心を寄せる人が極少ないことは事実です。

また色んな信仰宗教に関わっている人ともご縁がありましたが、その信者になっていたり宣教活動までしている人に、神は特別ではないことや神仏を偶像化したりそれを奉る必要性のないことなどを指摘しても(妄信状態で)無駄な事だとも知りました。

だから見えない世界の真実事実を知ることが出来る「完全真理」も同じでして、信じるか否かの宗教でも無いのに、最初からまったく聞く耳を持たない人や詳しく知りたがる人が少ないのも事実です。

だからそれら「摩訶不思議の世界」「見えない世界」「精神世界」「霊魂の世界」<完全真理>と進んできた中で気付いたのが「必然ご縁のお仕組み」でつながらない限り無理が多くなり無駄になり余計な事になるということです。
だから売込み宣伝するような形になる人様と接する事をやめて、ネット・書き込みで不特定多数に情報公開して「来るものは拒まず去るものは追わず」の成り行きに任せることにしたのです。

そして情報公開の書き込み・ブログにご縁があって来られた人の中で耕栄さんの講演会に行った人やファバラを愛用しだした人もいますが、いつの間にやら最初の意気込みが消えていて、その言い訳に耕栄さんのことやファバラのことで不信感や不満を言うようになり、その不信感や不満に対して私なりの説明を加えるのですが、その不信感や不満をいう人の中にある私が正しいの思いが消える事無く離れていく場合が多く、また関心が薄らいでしまって私の説明・情報が用無しになることが多いのです。

すなわち肝心要の完全真理の中身・真価が理解できていなことから(深く理解しようともしないことから)、講演会での耕栄さんや愛用するファバラに対する自分の思いが優先され、それに何か気に入らないことがあれば、それだけで「信用」できないとして簡単に離れることになるのですが、完全真理の内容・完全さに関係ないところの見掛け・見せ掛けの形やその結果に自分勝手な思い判断を加えて違和感・不信感・から否定反発するのですから、私にしたら「何で」となるのです。
・・・だから知らない事を「信じる」ことではなくて、実在する完全な宇宙・神の真実を深く知ることが先だと書いているのです。

また完全真理に接し触れ合っているのだが、その信者意識になっていて、肝心要の真理の理解が進んでいない人が多いのも事実ですから、そんな人が真の実践をしているはずがありません。

それだからこそ、極少数ながらでも、自らの意識で、自己縮小の実践に取り組んでいる人を、宇宙・神・愛の意識の世界の仕組みの必然ご縁で<仕組まれた>「選ばれし者」と応援の意味で書いているのですが・・・「霊魂の世界」のときに意識改革が起こる2013年11月の「地球維新」に「選ばれし者」が仕組まれると言われていましたので応用しました。

とにかく完全真理を深く理解していなければ自己縮小の実践ができるはずもありません。
また完全真理によってこの世の不完全を知り尽くし、そして何ら特別のない宇宙・神の完全意識を知る、その不完全と完全の裏表を学び知ることが人間としての「役割使命」だと理解した人でなければ、自己拡大が当たり前のこの世の中でわざわざ自己縮小の実践をすることは絶対にありえません。

だから<自己縮小>する「真価」を理解した人でなければ真の自己縮小に取り組めるはずもないということです。
だから完全真理の上っ面だけを知識で知っている人が多く、また実践しているつもりになっている人も多いことからして、とにかく不完全意識を持っている限りその自己縮小の実践が続く事を本心で気付いていて、その実践意識でい続けている人となると極少数になるわけです。

だから完全真理を深く学び知り自己縮小の実践に取り組んでいる人は、実在する真実の宇宙・神・愛の完全さを知った、その自信と自力の精神力(感性・霊性)と実践力があることから仕組まれた「選ばれし者」となるわけです。

「選ばれし者」の自己縮小の実践は、拘り執着や特別の無い、素朴な自然体に生きることにあります。

2011年12月10日 | Weblog
この世で初めての最後となる完全真理を学び知ったからにはその<実践>しかありません。
それには先ず誰もが簡単に実践できる自己縮小が言われていますが、その簡単な実践がそう簡単にはいかない守り意識とその人間関係があります。

ところがその人間関係が不完全なだけに誰にも気兼ね遠慮せずにやれるはずですし、まして自分に都合が良いことであれば他を押し退けてもやりたがる個人意識を持っているのに、ところが何故か躊躇い気兼ねしているところが見かけられますが、その原因が自分の守り意識にあるのに、それを隠しておいて、自己縮小そのものに難点・原因があるように思うことで自分を正当化しているご都合主義が見受けられます。

またその自己縮小には何ら特別がありませんから、その自己縮小の実践をしていても同じでして、あの世の神仏から褒め称えられることもありませんし、この世の聖人君子や学者先生や先輩諸氏に認められて世間でヒーロー扱いされることにもなりませんから、その自己縮小を実践している人が世間で脚光を浴びて注目されることにもなりませんから、それだけに実践するその価値(やりがい)を見出せないかもしれません。

それが宗教的な出家・冥想・修行・艱難辛苦の荒行であればそれが特別なだけに注目されて「やりがい」があります。
また人の為にと慈善・奉仕・布教活動や寄付集めやカウンセラーであれば世間に目立ちますから、その「やりがい」があります。
しかし特別のない自己縮小にはそんな「やりがい」はまったくありません。
それは自己意識の意識改革であって、他の人様を意識した世の為人の為の<見せ掛け>ではないからです。

しかもその自己縮小(執着のない普通・素朴な生き方)が進むほどに世間的なことに対する意識よりも、先ずは自らの意識の中に起こる完全真理の「気付き」が主になりますから、尚更に国家社会や人間関係や趣味嗜好娯楽といった世間一般的なことに対する意識がどんどん薄れていきます。

そんな世間的な事や趣味嗜好娯楽に意識を使わなくなると、自らの意識が開放されて、その意識・心の「余裕」から感性・感受性・霊力・霊感が養われるのか、次第に(何気なく)ふと気付くことが量的に多くも深くもなるようでして、その分だけ心に届くことの質量が違ってきました。
それがいま時期なら毎年繰り広げられる紅葉ですが、その紅葉も過去と今とでは何やら心に届く質量が違っているような感じです。
だから何度も見ているはずなのに、紅葉した葉っぱがひらひら舞い落ちる様を見たことが始めてのような新感覚にもなるのです。

だから自己縮小の「やりがい」が無くても、自らの感性・霊力が豊かになった事実に気付いたことで十分になるわけです。
それがまた何ら過不足のない普通・素朴さに更に馴染み親しむことになり、それがまた味わい深まるわけです。
・・・だから以前とは変わらないようでも次第に味わう内容が濃くなるような感じです。

とは言っても自分勝手な思いの個人意識は十分に持っていますから、一般世間の中で生活していると何かと執着することになりやすが、自然界に囲まれた静寂・簡素・素朴の中でいると常に平常心でいられるだけのことです。
・・・だから余計な事を意識しないですむので(惑わされ巻き込まれ邪魔されずにすむので)、自己縮小が必要なわけでもあるのです。
そんな私から言わせれば・・・どうやら巷の刺激変化に意識を使っていると(人間に意識が一つしかないことからして)それがいつの間にやら拘り執着に変わることからして、その自己意識がこき使われ続ける結果ともなり、それが原因で精神力・意識力・感性・霊力が衰えたりして(集中力・注意力欠如も含めての)<気付き>が起き難くなるという、そんな仕組みが人間意識の中にあります。

だから(特別が一切ない)宇宙・神・愛意識に近づくためにも、(特別のあふれた)俗世間の事に執着しないためにも、(自己縮小を極める為にも)自然界の中で素朴に生きることにしか、「自己縮小」「意識改革」の道はないとさえ私は思っています。
それだからこそ(自己縮小のために)洞窟やお堂に閉じこもって冥想・修行したり、仏門・出家しないでもすむとも言えるのです。

だからこそ、特別は要らないと思いながらもその特別からなかなか離れられないままに「見せ掛け」や言い訳程度の自己縮小で止まる事無く、今からでも完全な宇宙・神・愛の意識の世界の「進化」のための道筋を補っていく本筋・本物の自然体の自己縮小をするしかありません。

それが自然界に囲まれた場所でなければ、そこで拘り執着にならないためにも、世間の中の「特別」を求めない、憧れない、思わないことが先ず重要になります。
そしてそれら特別が一切無くても平常心・普通に生きていけるだけの(特別に惑わされないだけの)「自力と自信」を付けることも必要になりますが、それも実際の実践で培われるものですから、やるしかないのです。

そしてこの世の人間界の不完全を味わい知り尽くす「役割」と、そして「あるがまま」に実在する完全な宇宙・神の真実を本心から悟る「使命」の、その「役割使命」を果たす実践(自己縮小)しかありません。

だから自己縮小の中に見せ掛けの「やりがい」もその自己満足も無いのが当たり前なのです。
それでも、此れまで苦楽が伴う特別を求めていたときには気付かなかった自己縮小・自然体・素朴の真価を味わえることになりますから、それで十分になれるのは事実です。
そして「食って寝て糞をする」自然体・生活の中で起こるその必然とご縁のお仕組みを深く味わいながらも、それらと関わる中にある「お蔭様」と「お互い様」の<調和>(自由・平等)意識を学び知ることが人間にとってもっとも重要なことにも気付きます。

そこでせめてもその「意識の調和」(至福)を生存中に一度でも真に味わうことができれば、そこで人間としての役割とその使命を果たすには十分なことになるのですが、それも不完全意識を持っているだけにどうやら無理な様相です。
だからあとは宇宙・神・愛のお仕組みに任すしかありません。

人間の役割使命に「選ばれし者」が完全真理を学び知りその実践をしている私達とも言えます。

2011年12月07日 | Weblog
このブログに訪れる人達すべてが完全真理を学び知り納得理解できるわけではありません。
まして実践意識にまで至る人となると更に限られます。

だから完全真理の講演会もめっきり減っていますし、それに集る仲間内が一向に増えていないわけでもあります。
まして友人同士や恋人同士や夫婦が共に完全真理に触れ合い実践している事例は先ずありません。
だから殆どの人が自前の独自独歩から始まったはずです。

そして(過去性を含めて)精神的な学びやその体験経験の自力とその自信とその意識力と実践力を持っていなければ(不信感や否定反発心から)完全真理を素直に理解できるはずもありません。
まして特別が好きな人がその反対の自己縮小を説く完全真理に魅せられるはずもありません。
だから名誉名声の肩書きや権威権力を欲しがる人が完全真理に引き寄せられることは先ずありません。

だから皆さんが必然ご縁で完全真理を学び知る事になったことは、自らの意識で選んで起きた事でもありますが、すべてはひとつの意識の世界だけに、その大元の宇宙・神の必然ご縁で仕組まれた「選ばれし者」でもあるのです。
・・・ただしそれを特別な「選民」意識になると不完全意識になります。

だから此れまでに、この世の不完全な形やその人間関係の矛盾にいい知れぬ違和感を感じていたり、その人間関係で内心的・精神的に気疲れ苦労していた人が多いとも思います。
また過去性やの潜在意識や持ち前の霊感・感性や先見性からして、何かしらの「捜し物」(自分探し、天職探し、この世探し、あの世探し)をしていたとも思われます。
・・・そうでなければ「良い悪い」で判断しない完全真理(知名度の低い形)に引き寄せられ、また魅せられるはずもないからです。

何たって国民皆が自己拡大を目指している中でその反対の自己縮小の実践を意識するのですから、その自己縮小の本質を十分に見極めた理解力・精神力・自力・自信が無ければ(到底ながら)実践意識になれるはずもありません。
・・・だから「選ばれし者」と書いているのです。

しかし完全真理は信仰宗教とは違っていますから、完全真理やその耕栄さんやファバラエネルギーを「信じて」いるだけでは他力依存ですから確かな実践になるはずもありません。
だから信じるのではなくて、何故に「自己縮小」が必要なのか!その<本質>を学び知り自覚することが先決になります。
しかも自己縮小に限りはありませんから(不完全意識を持っている限り)その自己縮小が止まることはありません。

だから前もって思い考えることよりも必然ご縁の自然体の成り行き任せに生きることが必要になるのです。
そして自己縮小が進むほどにその本質の「あるがまま」の調和意識の大切さを自覚することになります。
すなわち特別を目指していたことで(自己拡大で)味わったその不完全意識に気付くことが人間の「役割」であり、この世で初めての最後となる完全真理の実践意識で学び知った宇宙・神・愛の調和意識を自覚悟ることが<使命>となるのです。