孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

911テロ・真珠湾奇襲・特攻隊の映像を見て・・・

2008年07月31日 | Weblog
911同時多発テロの映像を見てショックを受けた世界の人がいる反面、帝国に仕返し復讐できたと喜んでいる世界の人もいます。

日本軍の真珠湾奇襲作戦で多くの戦艦や飛行機が炎上しているシーンを見て、日本軍の戦果をあげている勝利感で見ていたり、日本の特攻隊がアメリカの戦艦に体当たり突撃する映像を見ていて、銃弾の雨の中うまく敵艦に命中した場面を見てやった!と思ったり、寸前のところで撃ち落されて海に墜落する場面ではもう少しだったのに・・・と残念がるように見ていました。
要するに事実を自分の立場でしか見ていないのです。
相手の立場なんかどうでもよいのです。相手が困っているのが喜び快感にもなるのです。
他の人の不幸が自分の幸せに思えるのです。
それが個人意識の人間なのです。

テロや戦争の悲劇を見て反対運動を起こす人もいれば、身近な悲劇を見て仕返し復讐心を持つ人もいます。 そしてどちらも正義なのです。 またそれらが多数意見で反映されているのが民主主義であり、反対勢力の正義を押さえ込む民主主義も正義なのです。 立場が違うだけなのに双方が正義を主張している矛盾があるのです。
つまり民主主義だの正義だのと言って聞こえはいいが、自分さえ良かったらの主導権争い権力争いなのです。 そんな争いごとで世の中が良くなるはずは絶対にないのです。 

主義主張は自分の立場をよくしたいだけの個人意識なのです。 相反する立場の人のことなどどうでもよく、自分さえ良かったらいいのです。 そして私は正しいと正当化して言い張っているだけなのです。

正否、善悪、優劣、損得勘定で世の中が動いている限り争い事は無くなりません。
競い合い奪い合っている今の世に安心安全が無いのに、その安心安全を求めている矛盾もあります。
それは生活主体の形での安心安全を求めているのであって、心の安心安定を求めていることではないからです。
本気で心の安心を求めているのであれば、争いごとの原因である「私は正しい」を主張顕示することはありません。 優劣損得で競い合うことも奪い合うこともありません。
また人を責めたり自分を責めたりしていて心の安心安定はありません。
そして人頼み神頼みで簡単に心の安心安定をもらうことは出来ません。
実践実行の自らの力・自力で得るしかありません。
そのために役立つのが「良い悪い」を持たない完全真理です。



「となりのトトロ」「ルパン三世」と完全真理

2008年07月29日 | Weblog
「となりのトトロ」が素晴らしいのは・・・
世間で言うような悪人や正義の味方が出て来たりして戦うシーンがまったく無いことです。
長編アニメで悪といわれる形が表現されないのは今まで無かったように思います。
登場人物やキャラクターの表現だけであれだけ見ごたえのある作品は珍しいのでは・・・

「ルパン三世・魔法のランプ」は暇で退屈しているし他に見る番組が無かったのでつい見てしまったのですが、登場人物の「次元」の決め文句にある「また、つまらないものを切ってしまった」と同じく、私は「また、つまらないものを見てしまった」のが感想です。

戦闘や格闘シーンで刺激の強いものが好まれるのは、見る人の心が安定していないからです。 趣味嗜好娯楽と同じように集中・熱中している時だけ一時的に日頃の不満不安心配を忘れて逃避できるからです。
お笑いタレントが大勢出てきているのは、実生活に満足喜び笑顔が少なくなって、それだけ心から喜び笑えることが減ってきているのです。

NHK「探検ロマン・世界遺産」で国名地名は忘れましたが、「木造建築の高い教会」があるところの住民が「普通が永遠に続くことを願っている」といっていました。
大型機械を使わないで主に荷馬車と人力頼りで作業しているのや、結婚式で集まった400人近い人が手作りの食事を頂きながら夜明けまでダンスを踊るだけなのに、皆が笑顔で楽しんでいるのが印象的でした。・・・太り過ぎの人が多いのが気になりましたが・・・
働いて食って寝て糞をするだけのような暮らしだからそれほどの特別はあまりありません。 たぶん結婚、出産、葬式、感謝のお祭りくらいではないの・・・

当たり前の「普通」には強い刺激を必要とせず、大した問題も抱えていません。
欲張り、多くを得ようとしないから「心が安定」しているのです。
心が安定しているから趣味嗜好娯楽や刺激を求めなくても済むのです。
求めなければ「そのまま、このまま、あるがまま」の普通で満足できるのです。
すなわち「心の安定」が先に無ければ生活の安心安定・幸せは望めないのです。
生活の安定が幸せだと勘違いしている限り心の安定・本当の幸せは無理なのです。

幸も不幸もない「普通」が一番なのです。

表裏一体ですから・・・(表の)幸せを願い求めていると、(結果的に)今の私は幸せではないと思い込み錯覚することになり、(当然ながら裏が必要になって)今の私は不幸だと(勝手に)「思わなければならなくなる」のです。 
今日は良かったと思えば、これまでは悪かったことになるのと同じ道理です。 
だから「良い悪い」幸・不幸は有って無い矛盾する「個人の思い・個人意識」なのです。
その個人意識をなくしていかない限り「あるがまま」の普通が幸せに思えないのです。

人間は「いのち・命」「意識体」です

2008年07月28日 | Weblog
私たち人間は「いのち・命」です。 
その「いのち」には意識があります。
すなわち「いのち」を持った意識体が人間の形をしているのです。

人間の形は行動表現するためだけにある道具なのです。
その道具は形・固体ですから、自分で動くことは出来ません。
すなわち道具が一人歩きすることは出来ません。
すなわち道具・形に力・エネルギーは無いのです。飾り人形と同じです。

見えている形は仮のもの・借り物・飾りでしかないのです。
「いのち」・「意識」にエネルギーがあるのです。
すなわち「いのち・意識」が実在するものであって、仮のもの・飾りにはエネルギーが実在していないのです。
実在するものは「いのち・意識」であって、他のものは非実在になるのです。

エネルギーの無い非実在の道具を使う事や役目を果たす事が出来るのは、実在する「いのち・意識」があるからなのです。
だから大切なのは道具ではなくて「いのち・意識」ありがとうなのです。
ところが「いのち・意識」より大事に思っているのが道具である姿形・風貌であったり、行動表現されて見えていることを気にしているのです=形ばかり気にしているのです。

見えている形ばかり気にして「いのち・意識」のことが二の次になっているのです。
もっとも大切な「いのち」が後回しになって、道具・形にばかり意識を働かせているのです。
「いのち」を大切にする生活ではなくて、まず安定した生活を大事にしているのです。

「いのち」を大切にする暮らしをしていれば今のような地球環境・生活環境にはなっていません。 今日の荒れ果てた環境にしたのは「いのち」を粗末にしてきたからです。
今日の荒れ果てた環境が、「いのち・意識」の荒廃を示す鏡なのです。 

どんな対策・政策を打ち出しても、どんな科学応用学を持ち出しても、ほんの一時しのぎにしかなりません。 根本的な「いのち」のありがたさ・おかげさまに気付かない限り何をやっても解決できません。
そのことに早く気付きなさいと、これまでずーっと見せ続けてくれていたのがこれまでの歴史の中であったことであり、それが未だに解決できないままに現代まで持ち越され続けているのが今日です。
※道具である人間の形が無くなっても「いのち・意識」は永遠に続きます。

すなわち過去は過去だが、過去と同じ事が今も繰り返され続けているのです。 今が変わらない限り、過去を引きずった今が続き、そのままに未来も今と同じになるのです。 もうそんな繰り返し輪廻を終わらす時が来ているのです。 
その証しとなるのが山田耕栄さんの完全真理でありファバラ・意識エネルギーです。
有史以来今まで出来なかった意識改革・宇宙維新を起こすことができるのです。

TV[聖徳太子」「水戸黄門」と完全真理

2008年07月28日 | Weblog
聖徳太子を描いたテレビドラマを見たときに思ったことですが・・・聖徳太子が敵と戦って勝利していくシーンの中に「神よ、我に味方したまえ」と祈ってか?念じたのかしらないが、遠く離れていてしかも木立ではっきりと姿が見えていない(居るかもしれないと)敵のリーダーに向かって弓矢を放ち見事しとめるシーンがありました。 これも正義の味方・神が味方するもの・ヒーローが必ず勝つというシーンです。

「自分が正しければ」必ず「神は味方してくれる」と正義を描く事が多いが・・・
自分の意に反する者、すなわち敵対する者を悪に定め戦わなければならないの?
なぜ敵対する者・集団を大勢人殺ししなければ世の中を変えられないの?
世の流れを改革するのになぜ戦争人殺しをしなければならないの?

たぶん、改革を成し遂げようとする時代のヒーローに自力が足りないからです。 自分独りの力だけでは成し遂げられないからです。 それで大勢を巻き込んだ闘争や戦争になるのです。 そして勝った方だけが時代の流れを作る正義に思われるのです。 
敵側にも味方側にも寝返り裏切り造反者が同じように出てくるが、そのお蔭でさまで戦いに勝った方が「正しい」行為だったと評価されています。

しかも、勝った方にも負けた側にも大勢の被害者・悲劇があったのに・・・勝利しためでたい事に水をさしたくない心理が働くのかな? 陰・マイナスを意図的に隠したがるのか?・・・被害を出しているのに勝ったことだけを手放しで喜ぶ意識が正義感になりやすいのです。 だから無差別爆撃や原爆投下も他国への侵略侵攻も正義のためにやったことになりやすいのです。
 
西洋のモーゼやイエスらの聖者が自力・神通力で悪を滅ぼす事が描かれていますが、その聖者が真に神を信じているか否かを試されるシーンに我が子をいけにえにすることがありましたが・・・結果的には羊・山羊のいけにえで済んだが・・・真の神がいけにえを欲しがったり、人の心を試すことなんて絶対にありません。 神は愛の心「ひとつ」だけですから、信じる信じないの「二つ」に分離差別する意識は元々からありません。 相反する矛盾する裏表の心を持つものは神では無くて個人意識の人間になります。

私は「水戸黄門」をよく見ています。 いつも似たようなストーリー展開なのに人情味があって涙する事があります。 人殺しのシーンが無いのも気に入っています。 私腹を肥やす悪代官をこらしめるだけで終わっていますから。
しかし「印籠」は権力を意味していますから、見えて判る形・印籠を使うのではなくて、見えていない心の器、すなわち水戸黄門という個人の意識力・自力で相手の間違いを気付かせ悟らす事ができればいいです
すなわち、良い悪いで判断して相手と闘ってやっつけて倒すのではなくて、双方の戦う意識の間違いに気付き、その意識を変革・改革させることができればいいのです・・・時間をかけて一人でも多く・・・ 

その見えない心の器には「良い悪い」が入っていません。
良い悪いで分離判断せずに「そのまま、このまま、あるがまま」に事実だけを見る愛意識・神意識があります。 だから比較することも差別することもありませんから、競い合う競争や戦争になることもありません。 人それぞれ(一人一人)に自由・平等の愛があります。

アメリカ映画「ベンハー・十戒」と完全真理

2008年07月24日 | Weblog
アメリカ映画で「ベンハー」か「十戒」だったか、主人公が神の力かなんかで海を真っ二つに割って海の中に逃げ道をつくり、そのおかげで避難民が対岸に逃げ延びる事が出来たが、その海の中に出来た同じ道を追いかけてくる軍隊がいて、その軍隊は海に飲み込まれて滅びるのですが、いわゆる正義が勝って悪が滅びるシーンなのですが、それが聖書にも書かれているようです。

それでは逃亡している側が善人で、追いかけている軍隊は悪人なのでしょうか? 国家平民を守る義務のある軍隊がなぜ悪人になるの? 上部から命じられたままに任務を遂行しているだけなのになぜ悪人になって滅びていかなければならないの? 海に飲み込まれていく軍人の中には避難民と同じように大切な家族や恋人がいます。

善人と言われる人達・集団がなぜ軍隊に追いかけられる羽目になったの? 国家に対して反逆など何か悪い事をしたから追いかけられているのなら、国家から見れば避難民は悪人ではないの?

回りくどく書きましたが、見方によればどちらも善人でどちらも悪人になるのです。
それでは矛盾していませんか? まして人殺しをして善人面できるのは変ですね。 
戦争が正義の善になり、敵を大勢殺せば英雄ヒーローになれるのも変ですね。

911同時多発テロを仕掛けた方も正義聖戦、テロを受けた側もテロ組織国家に報復復讐するのが正義の為にやっているといっていますね。 

また神の力を借りて、または聖者の力で人殺しするのも変ですね。
また神が人殺し戦争を手助けすることはありえないでしょ・・・しかし自分勝手に神を味方に付けている事実はありますね。 何か変だと思いません。
神に敵味方意識があるなんて考えられません。 それでは神同士・神の世界でも「私が正しい」「あっちはサタン」と言い張って神と神が戦争していることになるからね。 

此れとまったく同じ事、良い悪い(善悪・優劣・損得)の判断が家庭や社会国家(比較競争社会)の中で大なり小なり起きています。 だから世界で起きていることも身近なところで起きていることもまったく同じ事が起きているのです。 家庭の出来事も世界の出来事も形が違っているだけで中味・原因は皆同じです。 原因は「自分さえ良ければ」の個人意識から出てくる「良い悪い」の分離判断から起きていることなのです。

人類史上初の、この世で初の、これが最後となる完全真理(矛盾も妥協も無い)、それが良い悪いを持たないという山田耕栄さんの真理です。

報復・復讐の腹いせ事件、無差別殺人に至る原因

2008年07月23日 | Weblog
良い悪いで分離判断して人を責めたり自分を責めたりしなければ不平不満を持ちません。
その不平不満から不安や心配も、怒ることも憎しみ嫉妬・ジェラシーを持つことにもなり、それが仕打ち・仕返し・あだ討ちやの報復復讐にもなっていきます。
すべての原因は「良い悪い(善悪・優劣・損得)」で判断して執着したことからはじまっているのです。 だから不平不満や不安・怒り・ジェラシー・復讐などは個々・別物に分離されるものではないのです。 元は同じで「すべてはひとつ」なのです。

セクハラや痴漢にストーカー、いじめや虐待、ノイローゼやうつ、自殺や集団自殺、通り魔事件、無差別殺人、親が我が子を殺すのも子供が親を殺すのも、バスジャック・人質や拉致・・・など等の大元の原因は良い悪いを持って不平不満になり、それに執着したことからはじまっているのです。 現れた形・現象は違っていても中身・原因は同じなのです。 すべては「ひとつ」なのです。

今は不平不満だけで止まっている場合でもこの先は判りません、ひょっとして此れまでのうっぷんが爆発して、やけくそになってとんでもない事をやらかすかもしれません。 それが犯罪や事件になって・・・何であの子が?あの人が?・・・となっているのです。
明日は我が身の状態なのが昨今であり、この先々に起こりうることなのです。

不平不満が犯罪や事件や事故に結びつくだけでなく、肉体的・精神的・感情的な病を患うことにもなります。 俗に言う「ストレス」症候群ですね。
ストレスを押さえ込む人は精神疾患や心筋梗塞や脳梗塞になりやすいといわれています。
かといってストレス発散が小言や怒りになって身近な人に向けれられると困ったことになるし、金品に向けられると生活苦や過労になるかもしれないし、せいぜい適当な趣味嗜好娯楽で止まっていて欲しいと思いますが、一度はじまるとエスカレートしていくのがありまして、意識変わりしない限り止まることはありません。 例え前と違っているようでも向かう方向性や形が違っているだけで、まったく同じ事を繰り返しているだけです。
それが自己満足であり自己主張や自己顕示につながっているのです。

しかもそれらが豊かな生活の経済発展を促し、伝統風習道徳を盛上げているのです。
そしてそれらが「常識」化され、「正当」化されているのです。
いわゆる「私が正しい」の「正義」感にもなっているのです。
不平不満が正義にもなるのです。

親に縛られ、家族に縛られ、学校・教育に縛られ、職場社会に縛られ、常識道徳に縛られ、そんな我らが「私は正しい」と常識で思っているから自他共に縛ることにもなり、あらゆる制限や条件付の束縛支配(見えない闇に支配されている)関係にあります。 だから時代が進むごことにストレスを抱え込む事が多くなっているのです。
そのストレス発散が物を壊したくなる「破壊」行為=環境破壊や人間崩壊=につながり、衝動で「やけくそ」になることが暴力・犯罪・事件であり、有事の際に突発的動揺・衝動から起こる様々な形・現象なのです。

人間本来は自由平等の個性で生まれ、生きていけます(大切なことです)。
それを良い悪いで分離判断することから間違った世の中になっているのです。
だから正義・感では自由平等平和を望めないが、良い悪がなくなれば自由平等平和になるのです。

自分らしく生きる

2008年07月20日 | Weblog
当たり前の生活の中に真理があり、何時でも・何処でも・誰もが実践できる真理でなければ真理とは言えません、条件や制限があれば嘘偽りの偽善になります。

大金をつかって海外にまで出向くこともありません。
特別な場所、神社仏閣教会教団へ行くことでもありません。
艱難辛苦の荒行や修行をすることでもありません。
決められた時刻や曜日にお祈りすることでもありません。
肉や酒が禁止、断食などで飲食が制限されるものではありません。
掲げた理想目的のうたい文句に自由平等平和を言っていながら、その形や中味に制限束縛差別があるのが今までの教え真理です。すなわち偽善なのです。
更に差別を持つということは良い悪いの裏表があり、その矛盾も持っています。
だからいくら熱心にやっていても(矛盾が思い悩む原因だから)思い悩む混乱から開放されることは絶対にありません。信じるに与えしない真理になります。
しかし盲信しているものや信じている振りをしているものには矛盾に気が付きません。
だから本当の神を知りません、だから内心では矛盾する神と葛藤しているかもしれません、それは特別な神や真理を信じているからです。

何時でも何処でも誰にでも実践できるのが本当の真理です。
いっさいの制限束縛支配されない真理が本物になります。
そして、いっさいの矛盾が無いのが完全真理です。
完全から完全が生まれるが、矛盾からは矛盾しか生まれません。
その矛盾だらけの世の中が現在です。

裏表の矛盾で生きていて楽しいはずはありません。
互いに裏切り裏切られる関係・不信感から心が休まるはずもありません。
不平不満、心配不安、怒り嫉妬で生きているのが精一杯です。
しかしそれでは生きていけないから趣味趣向娯楽・刺激を次々と追い求め続けたり、何か事ある毎に自らが首を突っ込んで自己満足・自己主張・自己顕示して「生きている振り」をして自他共にごまかしているだけです。
しかも皆が皆同じように生きているからそれが当たり前・正当に思っているのです。
だから今の自分が思い悩み葛藤していることの原因に気付き学び知ることやその解決となる実践を自らがしたがらないのです。

誰かが何とかしてくれる他力をあてにしているのか・・・自分・自力より先に、他力的な方向や特別なものを捜し求めているような気がしています。 たぶん自分独りでは何にもできないと思い込んでいるからでしょう・・・
だから自分の力で家庭や世間や世の中の形を変えることは無理でも、自分独りだからこそ出来るのが真理を知ることであり実践することなのです。
しかもそれが人間本来の生きていく方向性を示すものです。

人それぞれだから、皆と共に歩めなければ自分ひとりの自力で歩くしかないのです。 
すべて自己判断と自己責任で動いているのです。 自分が選択した通りの人生・人間を生きているのです。 しかも生き方・形よりも内面の意識が重要なのです。
生き方・能力・形の大きい小さいに関係なく、善悪や優劣損得勘定にも関係なく、たった一つの小さな愛で楽しく生きていても十分なのです。
人の事を気にするから自分のことが気になるのです。
何事にも執着せずに平然としていて、自分に出来ることを自分らしく当たり前にやっているだけで十分なのです。 それ以外やそれ以上のことは愛ではなくなり、過ぎた特別意識の偽善になるのです。

田舎暮らしと真理の実践

2008年07月18日 | Weblog
<あるがまま>に「ある」ものを「持つ」のは執着になる
<あるがまま>に「ある」ものを「除く」のは差別になる
<あるがまま>に「ある」ものを「頂く」のは感謝になる
<あるがまま>に「ある」ものを「あるがまま」にしておくのが愛
<あるがまま>に「ある」ものを「分離・評価」するのが個人意識

家屋から一歩出れば自然がいっぱいの過疎地で暮らすくらいだから、私は外気・風を感じるのが好きです。 だから周囲の木々の枝打ちや背丈の高い草木を刈り払い見通しをよくし、その見通しのよい開放感と気流・風通しを大切にしています。 また風通しの為に部屋の窓を開けたとき、敷地内に放し飼いにしている白いヤギと自然の風景が調和していて、それを少しでも眺めると何となく心が癒された感じがします。
そして庭に雑草と言われる草花が生い茂りますがむやみに除きません、その草花たちのおかげで夏の陽射しの照り返しが和らいで涼しくなるし、土ほこりも無くて緑が目に優しいから。 その何処にでも生い茂っている小さな草花もよく見れば個性があって美しいものです。花屋さんで並んでいる価値のある花と同じです。 ちなみにその希少価値・価値観が差別になるのです。

山林や山道に珍しい価値ある山野草を根こそぎ採取して(略奪)持ち帰る人もいますが、風景と同じで、あるべき所にあるのが美しいのです。そして訪れた人達が身寺の染む事が出来るのです。 風景を持ち帰る事が出来ないように、その山野草を見たければ何度でも出かけて来ればいいのです。 風景も山野草も同じ自然の美しさです。 それを形や価値観で差別をしたり、自分のものとして持ちたがるのが個人意識です。

敷地内近辺にあるワラビ・ゼンマイ・ツクシ・ミョウガ・イタドリ・蕗にふきのとう・たらの芽・野イチゴなどの山菜は(根こそぎ奪わない限り)山菜が好きな人が頂いて持ち帰る事が出来ます。 そして毎年味わい楽しめます。

食品の賞味期限は気にしませんから値引き半額は歓迎しています。 不衛生と言われる汚れやばい菌やカビや害虫もあまり気になりません。 虫に刺されて痒くなるのが困るくらいです。 医者に行くような大怪我をしても、医者や薬に頼らずに宇宙エネルギーと治癒力で治しています。 

風を感じるのが好きですからオートバイによく乗ります。 
そして車に乗ると夏場でもクーラーを使うことは無く、窓を開けっ放しで走ります。 寒い冬でも(ヒーターの温風で足下を暖め)窓を開けて走ります。 
また長い下り坂を下りる時はクラッチをオフにしてエンジンブレーキは使いません。 省エネになるし自然を感じるだけの静かさがあります。

生活の安定よりも心の安定を意識している今の私には貧乏・質素倹約がお似合いですから、趣味嗜好娯楽はありません。 そして元々から教養もなく(必要としなかったから)、絵画芸術音楽のセンスがありませんから必要としません。 だから音楽芸術鑑賞なども無く、新聞や雑誌・本を読むことは殆どありません。 それでも私に必要な情報は捜し求めなくても自然・必然で与えられ入ってきますから苦労しません。 
人との交流は「来るものは拒まず、去るものは追わず」で成り行き任せにしています。 しいて言えば世間話はあまり好きではありません、だから世間で言うところの普通の会話(回数や時間)が乏しいです。 世間の姿形ではないところの見えない世界・意識の世界を意識して暮らしているからです。
だから世間体や見栄や、離れて暮らす家族のことや、自分の老後のことや怪我や病気や死のことはあまり気にしていませんから(形全般に執着しないから)気楽に生きています。
ところが同じ意識で通じ合う相手が(嫁いで家族を持っている)娘だけでして、他にご縁ある方たちは真理を理解しているようでも、実際の生活と真理の実践が離れていて、真理が別物扱いにされている点が気になるところです。

始まりの「原因」があれば、必ず「結果」が出る真実

2008年07月15日 | Weblog
今の世の中が矛盾だらけに気付いているでしょうか?
未だに正義感の過ち矛盾に気付いていない人たちも大勢います。
神を説く宗教に矛盾や差別があり、それを言い訳正当化して「私は正しい」と言い張り隠し通していること、そして過ぎた守り意識からくる宗教闘争や宗派の争いで人殺しが未だに続いていること。

軍事力増強や核競争・核武装してきた軍事大国が他国の軍備拡大や核武装を批判して押さえ込み、自分だけが優位に核を持っていたがる矛盾と「私が正しい」の偽善。
今の先進国が今まで勝手し放題で環境汚染や自然破壊をして経済発展してきたのに、後に続く発展途上国に文句をつける身勝手さや矛盾と「私が正しい」の偽善。
多数派が少数派を押さえ込む民主主義・国家が「私が正しい」と錯覚勘違いする偽善。
弱いものいじめの制裁報復が「私が正しい」の偽善。
しかし、これらのことを云々と言ってもいまさら「どうしょうもない」ことであり、たとえ百論の議論を重ねても終わりませんので遠慮します。

しかしこれらのことで「不信感」がどんどん高まっているのは事実です。
それに加えて多くのウソや隠し事がばれている時でもあります。
そのことを「闇を照らす光り」が強まっていると言い表していますが、それを単純に解釈すれば大いに歓迎できる事柄に思えますが、実はその闇を持っているのは私たちなのです。 闇を照らされて困ったことになっているのは私たちなのです。
マスコミニュースで伝えられていることすべてが私たちに突きつけられている現実です。

それと闇意識が耐えられなくなって核の脅威が現実になるとさえ言われています。
核保有国のリーダー達が自分たちの存在感を失った時、大嘘がばれた時に言い訳正当化できなくなった時、また「私は正しい」から相反する者に対する憎しみ報復復讐心やジェラシーが高まって爆発した時の「やけくそ」から、「持っているものは使いたくなる」心境から核戦争を引き起こす可能性も大です。 そのときに核を使うことに国民の民意を多数決で問う選挙なんかありません、選出されたリーダーだけの意志でいきなり始まります。

騙され裏切られる事が多くあっても、この先の安全安心はあまり期待できません。
現れ見えてきた結果ばかり気にして大元の原因を見極めてこなかったツケをいま突きつけられているのです。 しかもまだまだ序の口です。
何故なら、闇を照らす光りが高まると闇の心を持っている人間がもう地球では存在できなくなるのです。 すなわち闇意識(個人意識・三次元意識)が光(神・愛・高次元意識エネルギー)に耐えられなくなることから(光り・愛に溢れた新たな次元の地球になるから)、人間ではない居場所の意識体として永遠に全うすることになるのです。
だからそうなる以前に個人意識・矛盾・偽善を捨てていかなければならないのです。

その個人意識をなくしていくためにこの世で初めての「良い悪いを持たない」という完全真理が現れたということは・・・始まりの「原因」があれば「結果」が必ず出るように、もう既に意識改革・維新が「成るように」展開されているのです。 
大切なことなのでもう一度説明しますが・・・「原因と結果は離れていない」道理・真理からも解かるように・・・原因である完全真理が世に出てきた以上(いい加減なまやかし・嘘・偽善ではないから)、裏切られることもなく結果が出て必ず「成る」のです。

・・・始まりの原因があれば(遅かれ早かれ)結果が出るという・・・真実なのです。

自分に何ができるの、神・愛を裏切ること

2008年07月14日 | Weblog
地球温暖化・環境問題、核問題・戦争とテロ、エネルギー資源や食糧問題など様々な大きな問題を抱え込んでいますが、今あらわれ出ている結果に対処する方法・試行錯誤・対策では絶対に問題は解決できません。 あれこれと言い訳正当化して結果的には先延ばしされたり、環境・状況の形が少し変わっていくのが精一杯です。
しかも原因が取り除かれていないのだから「成るようになって」人類の危機や地球崩壊がどんどん近づいているだけです。

自分の力でこれら集合意識で現れている世の中社会・環境を変えることは出来ません。
まして自分さえもままならないのに身近な人たちや家族などもとうてい無理ですから、家庭の中でさえ思うようには働き動かないで裏切られる一方です。 

この世の現れている様々な問題はすべて過去のことなのです。
その過去のことをどんなにいじくり回しても思うようには行きません、せいぜい自己満足・主張・顕示するのが精一杯です。 成らないものは成らないのです。 そしてその中からリーダーが台頭してきたり、政治経済家や権力者から独裁者・救世主意識の人までが出てきたりして、また同じような事・似たようなことを繰り返すのが過去の歴史にあります。

だからこそ、現れ出た結果・過去のことよりもその原因である個人意識を改革しない限り繰り返し輪廻するだけなのです。
そして改革を他に求めることでもないのです、自らが自力でやることなのです。
それで世の中社会や身近な人達が変わらなくても自分さえ変われればいいのです。

だから世の中社会全体環境を変えるために自分が生まれてきたのではありません。
自らが新化(意識次元上昇)するためにこの地球の人間に生まれてきたのです。
一角の人、ヒーロー、実力者権力者、偉人・聖人君子、世直し救世主になるためにいま生きているのではありません。 それにセレブ・ゴージャス・リッチな生活を夢見るために生きているのではありません。

自分の個性であるがままに生きている事が愛であり神ですから、多くの経験体験鍛錬を積んで人様に愛を与えられる身分に成りたいとか、艱難辛苦修行などを積んで神様・救世主に成りたがるのは自分自身への裏切りであり愛・神にたいする裏切りになります。

愛・神は特別ではないのです。
今あるものが愛であり神、何処にでも普通にある当たり前が愛・神です。
だから人それぞれの個性で生きる、「そのまま、このまま、あるがまま」に生きる。
そして万物すべてのお蔭様に感謝して生きる、お互い様の調和で生きる。

愛や神のことをそんなに難しく考えることではなかったのです。
人様の事を気にせずに、よそ見やわき目も振らずに、己の信じるままに感じるがままに生きていても大丈夫なのです。
大した事が出来ないまま生きているだけでもいいのです、それを良い悪いで分離判断さえしなければいいのです、生きる事が愛でありすべてが愛であり神だからです。
しかし今の世の中に良い悪いがまかり通っているのは事実ですから、事実は事実でほっといて自分が良い悪いを持たなければいいのです。
素直謙虚さがあればそれが愛・神だと気付くのにあまり時間は掛かりません、ただ実践は簡単ではありません、それでも愛・神を知った限りには意識し続けることは出来ます、その意識し続けることも実践になります。