矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全真理を知ることからして自分を知る事につながらなければ意味を成しません。

2012年07月31日 | Weblog
私が世間しがらみから離れた生活をするようになって暇で退屈する時間が多くなったのですが、それでも趣味嗜好娯楽・過激刺激を求めることにもならずにいますから、その分だけ穏やかな時間が過ぎることになっています。

それもどうやら、日々の生活が自然界の中だけに人工的なものが多くありませんから、それで気分が和らぐものと思われます。
と言うのも、普段ならテレビやビデオ映像が仲間の如くに接する時間が多かったのに、過疎地暮らしが長くなるほどにテレビ離れになっていますが、なんでそうなったのかを思い起こすと、まずテレビは一方通行でしかも受身で見ていること、また事実実話であっても企画演出装飾されて人工的であること、それが事実ではない脚色ドラマになると変化刺激が過激なほど見応えがあるので現実離れし過ぎているところがあります。

ところが時間がゆっくりと流れている変化刺激のない自然界でいるとその人工的なものが騒々しくなるようです。
ところがその人工的で騒々しい形の中に長くいるとそれに慣れてしまってそれ以上の人工的で騒々しい形を追い求める事になるようです。

だから何事も大型化されて大勢の人で賑わい混乱し騒がしいほどに集まることで満足する事にもなっています。
そこで若者が賑わいを求め過激を求めることにもなっていますが、それが精神体に相当な負荷を背負わせているようです。
その過去は若者であったものが年老いてその過激な賑わいの中に取り残されているのも困った事になっています。

また自然界を見慣れていると人工物は勿論のこと、山林に大掛かりに植林されている杉やヒノキ林が違和感にもなっているし、人工的な見応えのある庭園や自然が多い公園や草花の公園さえも不自然に見えるようになります。
やはり成り行き任せの「そのまま・このまま・あるがまま」が自然なのです。

最近のことですが、完全真理を学び知る仲間の一人が耕栄さん離れファバラ離れしつつ肝心の完全真理まで離れたかのように伊勢白山道なる人に魅せられていますが、それを裏返せば完全真理だけでは学び足らずだったということになりますが、それをも裏返せば完全真理を学び知っていることが自分のもの・本物になっていなかったことになります。

何故にそうなるのか?、私に言わせれば自己縮小の実践が出来ていなかったことに尽きますが、その実践に無理があるのもうなずけるだけに、いつしか完全真理に戻ることになると思いつつもほっといてその成り行きを見守るしかありません。

その伊勢白山道が説くことにあるのが(詳しくは知りませんが)「先祖を敬う」ことにあるようでして、その先祖を敬うことが薄れるように仕組まれたのが物質経済であり、それらからして神を敬うことがなくなっているというような概要のようですが、その先祖も何世代にわたって物質経済を支えてきた矛盾がありますから、先祖という特定の形ではなくしてその先祖を創造した宇宙・神なるその自然界を意識することがその先祖にもつながり神にもつながりますから、結局はこの世の物質経済・自己拡大から離れて自然界に接する自己縮小の生き方に変えればいいわけです。

だから寄り道・回り道しても「完全真理」に戻ることになります。
しかし自己縮小がなければ完全真理も伊勢白山道なるものも「絵に描いた餅」や中途半端なままに止まりますし、その自己縮小が無理なことからして、またあちこちに寄り道・回り道・遠回りしながら結果的にはすべて中途半端に終わることでしょう。

その伊勢白山道なる人はサラリーマンでして、自分の思いを5年前からブログに書いていて、その主だった事柄を書籍にして出版販売したようですが、その程度で止まればいいが、愛読者から持ち上げられ敬われることからして自己拡大になるかもしれません。

その物質経済に限らずとも巷の趣味嗜好娯楽からも精神世界離れになっているし、その趣も人工的ですからストレスになっています。
しかもその趣味嗜好娯楽で癒されていると思い違いしていることにさえ気付いていません。

その人工的なことで満足することが少ない過疎地の私の所へ来た人が癒されている事実がありますが、しかし変化刺激性が薄いことからして長居できません。 また来る回数もごく限られています。
それだけに自己縮小もそこそこにして変化刺激に親しんでいることにもなります。
特に若者ほど自己縮小が無理になります。

そこで完全真理以外にも意識を使うことにもなるのです。
だからやはり有事に巻き込まれることで自己縮小になるしか他にないようです。

しかし有事になったらなったでその有事に意識が使われますから完全真理・実践どころではなくなることでしょう。
またどんなに指摘・アドバイスされても聞く耳がないかもしれません。

すなわち「どうしようもない」のが不完全意識の人間なのです。
その事を一番よく知っているのも同じ不完全意識の私です。
でもその自分に気付いているから(自分を知っているから)飽きもせずにブログを書いているのです。

だから完全真理を知ることからして自分を知る事につながらなければ意味を成しません。
だから一本道一筋にならずにして無駄な寄り道回り道になるのです。

だから自己縮小が必然にもなるのです。
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人が集まっても「どうする」こともできないことが自力で<どうにでも>なる事実があります。

2012年07月30日 | Weblog
私の「知りたがる」「やりたがる」意識からして「他力依存」も少ないことからして、信じて頼ることやまして盲信することにもなりませんから、何かと客観的になりそして分析することにもなっています。

そこで不完全意識の人間同士が集まっても「どうしよう」もなく、それだけに尚のこと力を集め競い合いその拡大を図ることでこれまた「何とかしよう」とするも、それも儚い虚しい結果になっているのに、それでも仲間意識でいるだけに「何とか」なっています。

その形に学識知識教養やの専門家や医科学や政治経済から信仰・宗教や摩訶不思議な能力を持つ人の集団組織団体がありますが、それら人並み以上のものを持つ者やその仲間の集まりでもってしても「どうにもならない」中途半端なままに推移している事実があります。

そこで「何で!」と考えていると「他力」に頼る事に自らの<自力>を使っているというような矛盾に気付きました。
例えば他力を生み育て増やし磨きあげてその他力を使って拡大したり将来を託したり、医科学やの技術や機械器具を開発してそれに頼ることや、また特別な能力の者を祀り上げて信じ頼りその恩恵を受けたがる集団などがあります。

すなわち不完全な他力で何とかしようとしているのですから何で自分の思い通りになるでしょうか。

だから不平不満になるし不信感にもなるし不安心配・恐れを持つことになるのも当たり前なのです。
その不満・不足・不信・不安が自分一人だけであれば到底ながら生きている気がしません。

ところが同じ仲間がいると一抹の不安とその裏返しの一安心がありますから、それで何とか生きていけるわけです。
また自分一人だけだと援助救済・他力を頼み難いがその仲間が多いほどに他力を頼み易くなります。
だから何かと人同士が集まりたがるわけです。

しかし一時の集まりですから不都合になればその関係が崩壊しています。
そこで絆が言われますが、その絆さえも一時の関係ですから、それが不都合になれば絆を断ち切る裏切ることも平気です。
だから不完全意識の人間同士どんなに集まっても「どうしようも」ないのです。

そこで他力依存のために自力を使う自己拡大をやめて、必然からして自力を使うことになれば自ずと自己縮小になって行きます。
ところが仲間がいなければ不安心配にもなり孤独感にもなります。

それを例えば、死に掛けているのに病室・小部屋に誰もいなければ叫びたくもなるでしょう。
ところが身近に同じ仲間がいれば同類哀れみで心丈夫にもなります。

そんなことからして自らが自己縮小して行くことには相当に無理があります。
となるとやはり世間一般的な有事やまさかの有事や最後の審判まがいの有事によって余儀なく自己縮小の形になるしかありません。

しかし他力依存から脱した自己縮小ではないだけにこれまた他力依存で解決したがりますが、そこで心機一転してその有事を味わう自己縮小意識になれば、地獄に思えていたことが地獄ではなくして自分の意識次第でそれが「どうにでもなる」ことに気付きます。

すなわち「どうする」こともできないことが「どうにでもなる」ことに気付き悟ることになります。

だから「人が集まる」ことで解決できなくても「独自独歩」の自らの自力でもって解決できる事になるのです。
そして「人間は意識で生きている」ことを自覚納得確信になるわけです。

ところが世間一般的な有事ではやはり他力依存で多くを解決して元に戻りたい意識にもなります。
しかも自然災害のような大掛かりな事になれば頼まなくても救済してくれますからそれに甘える事になっても当然です。
それも必然ご縁ですから(欲張らずに)その成り行きに任せておけばいいことになります。

そして一度どん底を味わったのだから、そのどん底以上のことは喜び感謝になればいいのです。
またそれより深いどん底になっても成り行きに任せておけばいいのです。

そしてそのどん底を恐れない、不安心配に思わない自信になれば、それらから守りたがる意識も消えて、安心安全の心持で暮らすことにもなります。
そうなると病室や小部屋で一人静かに生きていても不安心配の孤独感にもならずに生きていることを味わえる心境にもなります。

兎に角、困った時の神頼みの他力依存が消えて、独自独歩の自力と自信の成り行き任せに生きることになれば、如何なる有事を恐れることにもなりませんから、その有事が有事にもなりません。

すなわち(死に至ることにならなかったことからして)生きているだけで十分な穏やかな平常心で、有事にも動揺しない(有事が有事ではなくなる)(地獄が地獄とは思えない)(否定反発・不安不信のない)(苦も楽もない)安心安全の最高の贅沢を味わいながら暮らせるのです。
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見せ掛け形・成した形よりも、人の意識を(自他共に)見極めるほうが重要になるのです。

2012年07月29日 | Weblog
不完全意識を持つもの同士の人間関係も同じ不完全ですから、その人間関係に係わってその苦楽を味わうことよりも、宇宙・神・愛の仕組みに任せて「ほっとく」ことを書いていますから、人情も愛情も義理も恩義もない薄情者の如くに思っているかもしれません。
しかし人並みの人情・愛情も恩義を持っているからこそ、その裏のことも書けているのです。

しかも宇宙・神の愛でもってしても「どうすること」も出来ませんし、その神がかり奇跡や超能力や信仰宗教の教祖・導師・先生でも同じことですから、それら他力に頼ることなく、まして信頼し願望し祈願することでもなく、自らの意識は自らして修正改革するしか手立てのないことを自覚確信納得自信でもって書いています。

しかも私の過去においては、その人情愛情でもって事を成していたこともあるだけに、その裏表・苦楽を十分すぎるほどに味わっていたからこそ、その裏表の苦楽を完全真理に照らし合わせて書くことが出来ているのです。

霊能者とご縁があったときに「お仕組み」必然ご縁の実在真実を知りましたし、そのお仕組みが起こる原因が想念・思い・意識にあることが確信自信にもなりました。
ところがそのお仕組みを呼び込むのも自分の意識が原因だから、そのお仕組みが奇跡的なことであっても、それが他力によるものではなくて自力によること、すなわち宇宙・神のお陰さまもあるが、それを呼び込む・受け取るだけの意識を自らが持っていたのが原因であること、だから神仏や超能力のお陰(裏の力)もあるが、そのお陰を受ける意識・資格の無い者にはお仕組み奇跡が起きないことを自覚確信でもって学び知ったのです。

だから耕栄さんからエネルギーを受けて心が軽くなることがあっても(その受け取る質量は人様々だが)、その耕栄さんのエネルギーを受け取るだけの意識力・霊力・感性を持ち合せていたから起きたことになるわけです。だから否定反発・不信感が強い人ほど受け取るのが難しいのは事実です。
※超能力を持つ者も個性役割の「お役」を果たしているだけですかなんら特別ではありませんし、私たち皆がそれぞれの個性役割でもってそのお役を果たしているのと同等です。

このことを自力で学び取る学識知識教養にも言えることです。
聞く耳や見る目の見聞・意識力・意欲があった時やそれを記憶する気になったその部分的なことだけに限られます。
すなわち選び取ったことや良いとこ取りしただけで偏っていますから全部すべて丸取りしたことにはなりません。
だからそれらの裏表の真実事実を味わってこそ全部を知った事になります。

ところが思い思惑判断が加わらなければその学識知識教養も絶対的に必要ありません、かえってその学識知識教養があるから判断することが多くなりますが、それだけに思い思惑が絡み必然ご縁の成り行き任せに出来なくなります。
その点から言えば私は無学・無知識・無教養でしたから、自らが判断せずに成り行きに任せていられたのです。

これらのことを身近な人間関係でも言えることです。
聞く耳も無い人に何を言っても無駄で余計なことで無理なことを言っている事になります。
それが聞く耳でもって相談されても、素直謙虚に聞く耳が無ければ無駄になるし、素直謙虚に聞くことが出来てもそれが都合の悪いことになるとそっぽを向かれます。

※だから学識知識教養も自分好みの自己選択であり、すべてを知ったことでもないし、また見えない世界・精神世界・宗教真理に係わることも、また自らに起きた出来事・有事さえも、自分の都合がいい「良いとこ取り」の自己選択が原因にありますから、その意識が原因のその結果の自己責任になるわけです。

ところが時たまにアドバイスしたことで事がうまく運ぶときがありますが、それも必然ご縁から成るようになっただけのことであって、たとえ他力のアドバイスが無くても本人の自力でもって遅かれ早かれ成せることだったのです。
だからアドバイスした者がアドバイスした事に自惚れたり自己満足することではありません。

だから他力で成せないことでも(必然ご縁のお仕組みから)自力で成せるときがあるのです。
だから先を急いだり欲張らなくても必然としたときにそのお仕組みが起きて成るようになっていく事実があるのです。
しかしその人にまだ必然としないことを成り行きに任せても、成らないことは成らないのです。
それでも急ぎ欲張り自力を超えた無理をする事になったりまた他力に頼る事になったりしてそれが自己拡大になっているのです。

その成り行き任せが他力本願意識だったり、また絵に描いた餅を(意識して)眺めているだけだったり、また二兎・二股・あっちとこっちの二つの神を追い求めるどっちつかずの場合は、その結果が出ないままが続いたり、どっちつかずの中途半端なままになるのも当たり前です。

また時たまに神仏や超能力者の他力を信じて事が成せるときもありますが、その信じる意識力・エネルギー・行動力・自力から成せたことでもありますから、(他力を当てにしなくても)自らの意識力からして遅かれ早かれ成ることだったのです。
だから他力本願や他力願望や祈願からしてその思いが叶ったと(勘違いして)思うことにもなっているのです。
しかもその手を貸した者までが自分が成したと思い込むから変なことになっているのです。
※意識しているわけでもない「果報者は寝て待て」「棚ぼた」式でただ待っているだけでは無理があります。

だから神仏や神がかり奇跡を成す人に感謝する事になって当然ですが、特別に金銭物品を献上しなくても罰が下ることにもご機嫌を損ねることにもなりません。
だから成らないことは成らないが、成ることは成ることからして、それを特別に思う意識・特別意識のほうが問題になりやすいのです。
だから授受関係で係わる者双方が謙虚な意識であることが望ましいわけです。
これらのことが学べたのも愛にあふれた謙虚な霊能者とご縁があったからです。

そこで否定反発排除しない意識でもって、知りたがる意識、自分でやりたがる意識、その意識でもって必然ご縁があるまで待つ、その意識力・余力からして(見える形に成ることがなくても)自らの意識でもって何かと「気付く」ことが出来るのです。

だから姿・形で成ることよりも、内面の意識で気付き悟ることになることが本物になるのです。
だから見せ掛け形・成した形よりも、その人の意識を(自他共に)見極めるほうが迷ったり惑わされずにすむのです。
だからすべては意識にあるのです。
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成り行き任せの私に仕組まれた必然ご縁の結果と否定反発・不信感が原因で仕組まれる結果の事例

2012年07月27日 | Weblog
私が仕組まれ続けて現在の過疎地に始めてきたのが、これまた仕組まれて(偶然)シドニーオリンピックの開催日でした。
と言うのも予定していたのはそれより一週間ほど早い日でしたが、その地所を紹介してくださる方の都合で延期となりましたが、その日は土砂降りの大雨でした。

その地所を紹介してくれた大学助教授の方とのご縁も仕組まれ続けた結果ですし、紹介くださる地所もその人が田舎暮らしをするための物件でしたが勤務の都合から(奇遇・偶然)私に紹介してくださることになったのです。

そして現地の物件まで道案内をかねて親切にも同行してくださったのですが、その日がシドニーオリンピックの開催日だったわけですし、しかも最初予定していた日は土砂降りの雨なのに(偶然)当日の天気は快晴でしたから不思議なものです。

ところが(偶然が)それだけではありません。
2000年の節目の年のオリンピックであったこと。オリンピック初の聖火台が「水」の中から出てくる演出。オリンピック初の民族解放を意味する原住民(アボリジニ)が参加出演したこと。

そして私的なことにもなりますが、霊能者から私が四国を治める役割があると言われていたこと。その四国のへそ(要)といわれる山間部で暮らしていること。その四国がオーストラリア大陸と裏表の関係で意識的につながっていること。そして夫婦として旅行するのが結果的に最後となったのがオーストラリアであり、それが私にとって始めての海外旅行(招待旅行)でした。

また聖火台が水の中から出てくる演出は2001年からは(固体の氷意識が融けて)「水意識の時代」に移行するという象徴であり、私が宇宙エネルギーの「水」に係わることから仕組まれて意識変わりが起きているのと(偶然にも)一致しているわけです。
※(偶然)すなわち「必然ご縁」のお仕組みを意味します。

また敷地の境界線の隣に「船戸神社」が奉られていますが、その神社の由来に太古の宇宙船(宇宙意識体)と関わりがあるようです。
だからか(ブログにも紹介していますが)UFO現象・異次元現象・摩訶不思議が一年に一度程度起きています。
ちなみに去年と今年は「氷」の彫刻的現象が起きています。

ところで私が若いころから「否定反発」することも無く「成り行き任せ」にしていられたのも学歴・学識知識・教養が無かったことが幸いしていた結果になりますが、それを霊能者に言わせれば「封じ込められている」と言われるように、それも仕組まれたことになるわけです。
そして「やりたがる」のも学歴学識教養が無いことの裏返しだと思いますし、「知りたがる」のもその反動だと思います。
すなわち封じ込められていたからこその結果にもなります。

また放任的に育っていたから遊ぶことばかりしていたので手足の器用さもありますし、創意工夫することも得意としていますし、なんたって怖さ知らずで臭い汚い暗いと忌み嫌うことも無く、それが何でもやりたがることにもなっているし、自分がやりたいだけに他力に依存しないし、それが自信にもなっていますし、死に掛けたことが何度かあるだけに人間死する時がこなければ死ぬことも無いと悟ったところもありますし、また不安心配・恐れることは不信感ですから、その不信感の原因である否定反発が無いから怖がることにもならないのです。

だから病気や死を否定反発しなければその病気や死を怖がることにはなりません。
しかし健康診断を受けることは怖がって否定反発している事になります。
その健康診断を受けていれば絶対安心とならないことは皆さん承知のはずです。
なのに用心に越したことは無いと思うのは不信感があるからです。

だから否定反発の不信感があると成り行き任せに出来ないだけではなくて、その不信感・否定反発意識が周りの人様まで巻き込んでいる事実に気付くことです。
すなわち自己結果の自己責任だけではなくして他者まで巻き込んで迷惑なことや苦労させることにもなるのです。

また病気が心配で健康を意識しすぎるとそれが健康管理・体調管理が強くなり、健康診断の結果内容に過剰反応して、それが医者や薬剤・常備薬・サプリメントの過剰になり、その良いとこ取りの裏が出て困った事になっています。

それら医科学は自然界の葉っぱ一枚創造できない不完全です。
だから自然界・宇宙・神に任せておくほうが安心安全でいられるのです。
しかし自己拡大で忙しくしていますから手っ取り早い良いとこ取りで済ませているのです。

すなわち自然界で生まれ育ち生かされているのにその自然界・宇宙・神までも不信感でもって生きている事になります。
その不信感は自力・自信の無さであり、それが他力依存になり、その他力をうまく使いこなして自己拡大しているのですから、その自己拡大を終わらすことが無ければ安心安全の心持で暮らすことは出来ません。
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人を集めたがる者の意識とその人の下に集まりたがる人の意識の裏表

2012年07月27日 | Weblog
人が集まることで良いことも悪いこともあるのがこの世ですから、人が集まるほどにその良いことも悪いことも拡大するようです。
そこでその良いとこだけを取りたくて、これまた人が集まることにもなっています。

だから私の場合は「人が集まらない所」でいると心が落ち着いておれます。
そんな私が必然ご縁からして「人が大勢集まる所」でいると違和感が増すのも、私を含めて何がしの欲をもって集まっているからですが、それでも成り行き任せにしている私ですから、われ先に求め欲しがることにはなりません。だから落ち着いた心境で客観的に見聞している事になります。

過去の宇宙エネルギーの浄水器のときも耕栄さんの講演会でもあったことですが、奇跡現象が起こると言われる物をひな壇の上から見せて、此れが欲しい人は集まってください、となるわけですが、数に限りがあることからして奪い合うじゃんけん勝負になります。
その主催者の意図がどうであれ、我先にとひな壇の下に駆け寄り、そこに集まった参加者同士が奪い合う事になっていることに大きな違和感がありました。
また主催者が数に限りがあるものを何で持ち込んで皆に奪い合う競争をさせるのか、その意図が不明なだけに尚のことその違和感も大きいものがありました。

だから人を集めたがる者も、またそんな人の下へ集まりたがる人の意識に問題があると私は思っています。

これらと同じく人を大勢集めたがる信仰宗教やそれに類する形・団体にも言えることですが、教祖教団の良いところも広まるがその裏の悪いことも同時に広がっている事実に気付いている人は少ないと思います。
しかも主催者側は自分が正しいと思っていますからその裏の部分に自らが気付くはずもありません。

私が過疎地で暮らすようにって独り身の時間帯が多いことからして犬猫・鶏・ヤギを飼育することにもなりましたし、そのヤギや犬猫や鶏と接し触れ合うことで人が集まることにもなると目論んだ事実があります。
それが不安心配から寂しいと思う孤独感からではなくして、千夜を一夜に思えるくらいの摩訶不思議・精神世界・田舎暮らしを真剣に語り合える「仲間欲しさ」からです。

しかし田舎暮らしに関心がある者もまた摩訶不思議や精神世界に関心を示す者もその必然真剣性に欠けていて一種の物見見物が含まれているだけに、その変化刺激や娯楽性が乏しい自然があるだけでは目論みが外れました。

また仲間と思えている中にも不理解・無関心・不調和がありますから、単なる枯れ木の賑わいに終わって帰ることにもなっています。
それが虚しさ孤独感になったことがあるだけに、深い会話が出来ないでもその枯れ木の賑わいを味わう事に意識を切り替えました。
それでもありがたいことに時おり先方の必然から長電話で深い会話になるときがあります。
と言うことは必然が無ければ多くは無駄な時間に終わるわけです。

それらを実際に味わっているだけに人を集めたがる人の意識も理解できるし、その人の下に集まりたがる人の意識も予測できるし、また摩訶不思議を成して見せる人の下に集まる人が多いのもうなずけるわけです。
そして主催者が大勢の人に囲まれることが(認められていると思えることから)楽しくも嬉しくもなるのです。
しかしそれが知らず知らずにして自己拡大意識に慣れている可能性もあります。

そして人を集めたがるものが世直し人救いの救世主・特別意識になる可能性に加えて、その人の下に集まる人が信頼し尊敬し祀り上げることからして、その者が救世主・特別意識のミイラ取りがミイラになることもあるし、ただ信じるだけの信者意識の人が多く集まることにもなるわけです。
だから過去の釈迦やイエスらや古今東西のその類を含めて言えることですが、それら開祖教祖の下に大勢の人が集まることがやがて信仰宗教・組織団体に変化拡大して行きこの世を賑わす一方で問題も多く作り続けているわけです。

すなわち良いとこ取りしたがる人が集まることにも裏表があるのです。
しかも大勢の人が集まって皆が都合の良い事になった事実はどこにもありません。もしも人が集まって皆が都合の良い事になるのならばこの世に何の問題も無いはずです。

だから人を集め集まれば人を救えるかもしれないと自惚れたり、また他力によって救われるかもしれないと信じて集まる事になれば、当然ながら真実事実とは違った形になるのです。
だから自分の思い意識に似合った(選んだ)宗教思想真理から多くを学び知り気付く独自独歩であれば自己責任だけですし人様を巻き込むことやまた巻き込まれることにもなりません。
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客寄せパンダの超能力があれば

2012年07月27日 | Weblog
私の生き方生活を自己縮小のし過ぎではと思っている人がいるかもしれませんが、誰でもが持っている不完全意識は消えることなくしっかりと隠れ持っています。
だから過疎地であれ街中であれ、皆さんも同じくして、出るものは出るのです。

ところが人様が少ない過疎地や世間のしがらみから離れていれば、出るものが出ても、人様を巻き込むことがその分だけ少ないのです。

ところで私が人様と接する機会が多い街中でいれば、その挨拶代わりにの立話・会話が絶対的に必要になりますが、その世間一般的な挨拶代わりの会話が出来ないだけに足早に離れて行くことにもなるし、私に聞く耳が無いだけに相手にも失礼なことにもなるし、それが私にはストレスになっています。

とにかく人様の一般的な話題・無駄話を聞くその意識がまったく無いのです。
だからそんな会話をするのもそんな会話を聞くのも私には苦手なのです。
だから尚の事に会話が下手くそなのです。

それが若い時からですから、それで商売・事業が成り立っていたのもおかしなことですが、それがおとなしくて正直・真面目・素直にも見られていました。
また親戚同士が集まれば、私はおとなしい人になっていましたから、静かに座っているだけで通用していたのです。
しかも私に気遣いすることでその私が困ったことになっているのがすぐにも読み取れますから相手も執拗にはなりません。

それが仕事に係わる会話であれば専門的なことですからその会話には不自由しません。
それに学友・友人・知人の関係になるのも趣味や娯楽を通してですから会話には困らなかったのです。
だから見栄や世間体を気にすることなく素直に自分を出していたのです。

その世間話が苦手で仲間作りが苦手で恋愛下手で家族の会話が下手でも結婚し子育てし家族揃って遊びに出かけたりしながら、しかも贅沢三昧もできたのですから世の中は不思議なものです。
だから私がどんな性格個性であろうとも「成り行き任せ」で成るようになっているのです。
しかもこんなブログを書く事になっているのが自分の中でも「何で!」「まさか!」なのです。

そして猛暑日が続く中でも室内気温が(湿度は高いが)札幌並みの涼しい部屋で昼寝したりブログを書くなり、また冷房の効いたパチンコに行くなりして、誰にも気兼ねなしに、誰にも迷惑かけずに、思うがままに食って寝て糞をして、収入目的と言うよりも暇つぶしのパートに出かけ、そこのオーナーは若い時から精神世界に親しんでいましたから、時たま精神世界の深い会話を楽しんでいますが最近はその回数や時間が増えています。

だから過去最高の贅沢を天国が如くに味わっています。
何故なら趣味嗜好娯楽やの変化刺激のその裏表・苦楽の殆ど無い生活を味わえていることからして、それ以上の贅沢はどこにも見あたらないからです。
ただ残念なのは独自独歩で仲間がいないことです。
もし此れで客寄せパンダの超能力でもあれば口伝で人が集まるかもしれません。
そこで「水信仰」「成り行き任せ信仰」「超霊界」とでも銘打っていれば巷の竹の子集団に早変わりすることでしょう。
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宇宙の法則、宇宙・神・愛意識の仕組みとなる「必然ご縁」の成り行き任せに生きることになると

2012年07月26日 | Weblog
私は放任主義的に育てられていた関係からして(概ね)成り行き任せに生きてきましたから、入学・学業成績・卒業・就職も成り行き任せでしたし、結婚も仲人任せ、その新婚生活も子育ても家業・商売も成り行き任せ、楽しく遊ぶために稼ぎ、家族そろって出掛けるために、当時ではあまり実施されていなかった日曜日を休業にして(米屋と牛乳屋)親から文句を言われるがそれも気にしないで生活を楽しむために仕事をしているような感じでした。

その中にパソコンブームがあり、それにいち早く取り組んで情報交換・掲示板に顔を出していたら当時では聞きなれない「健康食品」を知りそれに取り組み、それが奇跡的効果効用のある特殊機能健康食品に進化し、それが「波動」エネルギー・奇跡的効果のある浄水器に進化し、それが「水に縁がある」(竜神さん)霊能者が我が家に訪れ、それでまったく無関心だった霊魂霊界・想念の世界を知る事になったわけです。

そこで違和感でもっていた神仏・偶像・神社仏閣殿堂教会・お墓仏壇やの崇拝や祈願やの信仰・宗教やまた精神世界・摩訶不思議を売り物にした組織団体やそこに皆して大勢が集まりたがるその心理やテレビなどで世間に目立つ活動をしている人などのその不完全さの事実を学び知る事になりました。
だから私の持ち前の違和感が真実事実・自信確信になる「渡りに船」のお仕組みになったわけです。

その成り行き任せの中には否定反発排除はありませんが、私の中に違和感があると(潜在的否定)「何で!」となるわけです。
しかしその違和感を漂わせないことからして(当時の私にご縁があるはずも無い)霊能者とのご縁が長く続いたのです。

また違和感を漂わせる事になるのに白や黒一色の特別な着衣や派手な法衣を着て如何にもそれらしく見せる形や人集め金集め団体化している形や修行托鉢布教している形やの一般世間的ではないことに違和感があります。

しかし私の中に否定反発排除したがるところがあると成り行き任せには出来ません。
だから無差別殺人事件や驚愕の殺人事件やサリン事件やその類の場合やまた電磁波嫌いの白ずくめ集団やタレント歌手が入信して教祖の言われるままに集団結婚して話題となった宗教団体にしても、私の中には否定反発排除よりも「何で」の違和感で止まります。

そして世間の集合意識が原因からして仕組まれ(その集合意識・間違った想念に早く気付きなさいと見せ示す仕組み)その仕組みの「お役」でやらされているとして受け止めていますし、テロや凶悪な犯罪事件でも否定反発排除する意識にはなりません。
またそれら人災であれ、また予想だにしなかった自然災害であっても、それらは氷山の一角・前兆としてみていますから、それらを危惧することはあっても、感情的に哀れ可哀そうにと同情することにはなりません。

それだけに尚のこと(自らの意識も含めて)その真実・事実を知りたがることにもなりました。
だから様々な信仰宗教や摩訶不思議をも成り行きから多く見聞することにもなりました。

そしてその必然ご縁が仕組まれたのが「完全真理」だったのです。
またそこで執着の無い自己縮小が言われ、その形といえる過疎地暮らしを既に実感でもって味わっていましたから、その完全真理も「渡りに船」の自信確信にもなったわけです。

その成り行き任せの来るものは拒まず去るものは追わずのその必然ご縁を説明すると
私は遊びでも仕事でも結婚でも家族生活も摩訶不思議も殆どが成り行き任せですから、その進行前や進行中に障害やクレームが出たり邪魔するものが入ると、自分の思いを優先することよりも、それも成り行きに任せてきました。
だから成らないことは成らなかったが、成ることは成りましたから、その無理の無い結果が現在です。

また摩訶不思議や精神世界を知りたいことから本屋さんで選り好みするのも必然になりますが、その本を実際に購入したらそれがご縁になりますが、しかし私の場合は本屋さんに無縁ですから、その必然ご縁からして先方の関係者から本が贈られてくることが何度かありましたが、その本の見出しタイトルを読むだけで終わることが続くとそれ以降誰からも本が贈られてくることがなくなりました。

次に講演会の場合だと、講演会のことを知ってそれに参加したいと思っても、その当日に先約があれば必然ご縁が無かった事になりますので、それを無理して行けば欲になりますし、その欲からして惑わされたり、また客観性が薄れて方向性の違う信者意識の結果にもなりやすいようです。

また「気付く」のも必然のご縁ですから、思い思惑があるなかにふと気付くことがあると、その思い思惑を後回しにして気付いたことを優先します。
またその先々の思い思惑でもって動いているとそのことに意識が多く使われますし、また心なし急ぐことにもなり、それが家屋火災騒ぎや交通違反や事故や怪我にもつながりますが、急ぐことでもないと気付いたことで思い止まったことからして覆面パトカーやネズミ捕りに引っ掛かることを避けられたり車両事故やまた火災・災害・損害・危害を免れることは事実にあります。

また思い思惑・期待・理想目的や憧れとは違って(強い意識でなくて)直感・感性から気付き目覚めその必然性に気付いたことで、その行動の中に不安心配不信感も無く(迷いが無く)成り行きからしてスムーズにいくようなら必然ご縁になります。

これらの事柄を信じるか否かではない事実だと学び知るにも、欲張らない無理しない執着しない他力をあてにしない素朴な意識の成り行き任せにしておいて、尚のこと全知全能の宇宙・神・愛の仕組みに気付くその意識になる必要があるわけです。
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宇宙・神は「ひとつ」だから、その宇宙・神を説くのも同じはずなのに、何故か様々に違っています。

2012年07月25日 | Weblog
それは全知全能の宇宙・神の愛意識を感じ取った者のそれぞれの想念・思いが含まれていることからして不完全なのです。
その不完全な個人的な思いの入り混じった不完全な宇宙・神を説いているのに「私は正しい」(私の神が正しい)と思い込んでいますから、他の宇宙・神を説くものを不信感・敵対意識・競争意識でもって不安心配の心持でいます。

だから勢力争いの抗争・戦闘・戦争・侵略戦争や早い者勝ちの布教争いや他の信者の改宗を無理強いするような形もありました。
しかも同じ宗派勢力圏内の中でも勢力争いやサタン狩りや魔女狩り異端児扱いまでもありました。

またその信仰・宗派の元となった神がかり的な開祖・教祖・指導者ら自らが「邪悪な者」を排除する名目で人殺し戦争を仕掛けている史実もあります。
今で言う正義・聖戦です。

と言うことですから、当然ながら現在の山田耕栄さんの説く完全真理の講演会の中にも時々不完全意識が出てきても当然です。
しかし判断の伴わないあるがままの宇宙・神の愛意識・完全意識をそのままに感じ取ったのは山田耕栄さんが初めてです。
だからこの世で始めての完全真理といわれるわけです。
※それ以前に私が知っていたのは(水面下で一人歩きしていた)宇宙的霊能者が言われていた「否定反発排除のない愛の時代」(地球維新)が訪れるでした。

しかしその耕栄さんの個人的な思い・想念が完全真理と混ざり合うことで不完全な真理や信仰宗教のように思う人がいても不思議がありません。
だから中にはインチキ・カルトに思う人もいますが、そう思われている山田耕栄さんやそのファバラがどうであれ、完全真理は完全ですから矛盾も妥協もない事実が語られています。

だから同じくして私のブログにも完全真理と私の思いが書かれたものが入り混じっています。
その私の思いの中に強まっているのが神がかり奇跡を見せて人を集め金を集めているその違和感ですが、その神がかり奇跡を否定しているわけではありませんで、必然性があってのことです。

また同じく前項に書いた信仰宗教を否定しているのではありませんで、必然とする者がいるからその形が実在存在できているのです。
しかしその宇宙・神を説く形の中に不完全な事実が隠れていることは(私の思いからも)しっかりと書いています。

ところが何で「宗教化」になっていったのだろうという自問自答で判りかけてきたのが、過去の釈迦やイエスが修行苦行した事実からして言えば(耕栄さんは修行していませんが)、自らが神の領域・神意識に達したかったその思いを持っていたからこそ修行する事や苦行に耐えることができたと思われます。
すなわち自らがまだ未熟だと自覚していたからだと思います。

それと同じく、完全真理の講演会で(完全意識になるために)「皆さんと一緒にやりましょう」と耕栄さん自らが声を上げていましたし、また講演会に参加している人が実践できなくて離脱して耕栄さん独りになっても独自でやり続けるとも言っていましたから、その己の未熟さを自覚できていたのならば、(私に言わせれば、食べる事に事欠いても)耕栄さん自らが完全意識になるための独自独歩の歩みになって当然なのに、何で(一人では寂しいから?仲間が欲しから?)大勢の人を一同に集める(主張・誇示する)必要があったのかと言う違和感が私にあったのです。

すなわち(神がかり超能力をもっていても)誰もが未熟なゆえに、過去の人もまた現在の人も、我が道の独自独歩の歩みやまた思うがままの修行行脚や聖地行脚やまた洞窟やお堂にこもったりまた艱難辛苦の荒行・修行が成されている事実からして言えば(自らの未熟さを知っていながらも)(自らが大勢の人前に出て)人集め金集めの信仰宗教・教祖の如くに講演していることに私の違和感があっても当然だと思っています。

私が思うに、日頃の生活・人間関係そのものが修行と同じですから、それを素直素朴にして自己拡大することなく完全意識に近づく実践をしながらも、時として必然ご縁があれば自分が知る宇宙・神・愛の完全真理の説明がある程度で十分だと私は思っています。
また必然からそれが単行本になったりネット・ブログで公開される事になったり、また人づてに広まったり、時として必然ご縁から集まりに顔を出すことがあっても、自らの日常生活・自力生活に支障がない程度なら、それが普通であって特別とはならないと思います。

何故こんな文書を書くかというと、不完全意識の人間をどうすることもできない事実を実感で学び知っているからです。
だからイエスや釈迦や耕栄さんであっても、人様のことはどうすることもできないのだから、自らが独自独歩で自分の道(完全意識に近づく道筋)を進むしかないと思っています。
すなわち自らがミイラ取りにならないように(世直し人救いの思いにならないように)(自己拡大にならないように)謙虚・素朴に生きることが肝要だと思っています。

と書くのも、初期のころから完全真理を学び知りファバラを愛用している私や娘や姉二人や知人や講演会に参加している大勢の人を含めて(耕栄さんが笛や太鼓で音頭とっても)皆が皆ともに中途半端なままに止まっている事実があるし、完全真理や耕栄さんやファバラから離れていく人がいることからして、どうにもならない・どうしようもない事実に思えるわけです。
すなわち無理なことを無理に成そうとしている違和感があるのです。

だから大勢の人を集めて講演したり奇跡を成して見せることよりも(信じる人・信者さんを増やすことよりも)、宇宙意識といわれる耕栄さん自らの普段の生活の中の独自独歩の自己縮小のお手本を語ったり、ご縁あってこられた人にその事実を見せるような形であったり、また仲間意識が如くに仕組まれ必然ご縁から集められ集まる程度で(縮小された形で)十分だと私は思っています。

(私としては)なんたって不完全意識の人間関係に係わることが少なくなった今の私の独自独歩の静寂な生活・変化刺激特別が少ない生活・趣味嗜好娯楽の少ない生活・食って寝て糞をするだけのような(どうしようもないままの)単調な生活が一種の修行のようにも思えている私ですから、私とは違う生活をしている宇宙意識の耕栄さんの家族関係・実生活・見える形を(私的なことは公開されていないだけに)「参考」のためにもしばし覗いてみたい心持になっています。
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この世の表を経験しその裏をも経験して、その裏表のすべてを実感・事実で知ることになればいいのです。

2012年07月24日 | Weblog
このブログによって神がかり奇跡・超能力・信仰宗教・教祖・導師・先生離れしている人もいるかもしれません。
また完全真理の講演会や耕栄さんやファバラから離れているかもしれません。
また趣味嗜好娯楽・刺激快楽から離れることになっているかもしれません。
また不完全なこの世やその人間関係から離れる(気にしない)ことになっているかもしれません。

それとも完全真理の理解もその実践も中途半端に止まっている人やまた期待していたファバラ効果が無かったりして既に他の真理・神様・奇跡様に乗り換えている人もいるかもしれません。
そのファバラにしても結果が出る人も出ない人もいるし、一度結果が出ても二度三度と続かなかったり、また結果が出てもその結果がいつまでも続くとはかぎりませんし、また高額商品だけに愛用し続けることから離れる人もいるでしょう。

また耕栄さんやファバラ信者のままで完全真理の理解が未熟でしかも自己縮小に無理があることからして、そんな未熟な自分を棚に上げておいて耕栄さんの脱税のことやファバラ効果の性に転換して既に離れている人もいるようですが、その耕栄さんやファバラがどうであれ完全真理は絶対の完全ですから、それが理解できている人なら他の真理や神様・奇跡様探しや自分探しの道に進むことにはならないとおもっています。

とにかく信者意識になるのは容易いことですが、完全真理を深く理解するには絶対的に自己縮小の実践が必要となります、しかし既に自己拡大しているだけにそれが世間的ではないだけにどうやら無理があるようですが、その無理までして会得することでもありません。
だから私の周りの人たちも絶対性が薄れて実践がなおざりになっている事実がありますから、仕組まれたその必然ご縁が活かされていません。

だからこのブログで日常の当たり前に思える中での事例を事細かく書いているのです。
そこで意識の切り替えでプラス思考にして不便不都合な地獄を天国に思う努力をするのではなくして、その地獄が地獄ではないことを実践でもって味わい学び知り、その地獄と思えるような経験を通してその表の(特別ではない)天国を実感でもって味わい知ることになればいいのです。

だから表を経験してその裏をも経験して、その裏表のすべてを実感・事実で知ることになればいいのです。
だから自己縮小を実感で味わいそこで自己拡大の過ちを実感でもって学び知り気付けばいいのです。

また前もって思い巡らしての不安心配を持ったりまた思惑期待することのない「成り行き任せ」自然体で生活していればいいのです。
だから有事になればその有事を味わえばいいことですから、そこで無理をして元通りに戻すことよりもそれに慣れ親しめばいいのです。
だから病気になれば(不安心配するよりも)その病気を味わいながらも自力・治癒力に任せておけばいいのです。
それを人工的な医科学の良いとこ取りの他力依存で解決しようとするからその裏の弊害副作用のしっぺ返しを味わうことにもなっているのです。

そこで自分に出来るやりたいことをやるが、しかし今はやりたくないときはほっとき、必然になってからやればいいのです。
だからゴミ屋敷同然になっていても不都合に思わなければそのままにしておけばいいのです。
臭かろうが汚かろうが薄暗かろうが散らかり放題であろうが生きていく生活に支障がなければ大したことではないのです。

しかしそれでは我慢ならない人ならば、それを自らの力・自力でやればいいのです。
それを(自分の思いを自分で解決しないでおいて)人様他力に頼ることからして、また人様に押し付け無理強いするから、その人間関係がおかしなことにもなるのです。

だから我慢ならないのであれば、そこから離れて別離・別離すればいいのです。
それでは尚更に困ることなら、そのゴミ屋敷を気にしないようにするか、否応なしに自らの力・自力でもって片付ければ解決するのです。

すなわち不平不満は人様の行為行動のその意識が原因ではなくして、自分の頭の中の思いになって出てきたことですから、その自分が解決するしかないし、それが道理・真実・真理なのです。
それを何故か勘違いして、それを神がかり奇跡・超能力・信仰宗教・教祖・導師・先生に頼ってから解決したがるところがあるのです。
その「自分で解決できない」ことを他力に頼ってすべて解決できることがあれば既にこの世の中に何の問題もなくなります。

それを言い換えれば「他力依存」(自己拡大)を無くして「自力で成す」(自己縮小)その意識力・精神力を求められているとも言えるわけです。
となれば此れまでの他力依存の自己拡大とその反対の自力で成す自己縮小からしてその矛盾を味わい知る事にもなり、その自己拡大に進むことが破壊に進むことを知りますから、当然ながら無理も執着もない素朴な意識の自己縮小の実践が進むはずです。

このままに時代が進化拡大してSF小説のような地球になることは絶対にありません。
またどんな大掛かりな神がかり奇跡・超能力でもってしても、また超科学技術が開発されても、末期的な自然環境とその人類の破壊崩壊を防ぐことはできません。せいぜいその時間を延長するのが精一杯です。

そのことを概ね知っている人が多いのに、それでも今の我が身に起こることなく無難にすんでいれば、孫子の代になる頃には信じる神様仏様や神がかり奇跡・超能力や超科学医学でもってして何とかなっているのではと、自分勝手な思惑でもって今を生きているのかもしれません。
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不便不都合から一番大事なもの「自由」を得た感じで、大げさに言えば時代の奴隷から解放された感じです。

2012年07月23日 | Weblog
他力に頼ることで自己拡大できることから言えば、その他力に依存しなくなれば自力だけで成すことになりますから自ずと自己縮小になります。
それも元々から自力だけで成していればそれが当たり前の普通ですから自力で何を成しても自己拡大にはなりません。
ところがそれに他力が加わることからして自力以上のことが成せてその拡大もできるようになるわけです。

その他力に人様の人力を使うことがありますが、その人様の人力に頼りすぎることからして己の自力を多く使わないで楽チンになろうとすれば、それが自分の思い通りにしたがる思惑や理想になりますし、その他力に期待することになったり、その他力を多く使ってもっと欲張ることも可能になります。
すなわち楽チンでもって欲張ることも出来ることからしてそれが自己拡大の形にもなっているのです。

ところが人様のその人力を使って事を成そうとしていたり、事を成していて思惑通りに都合よくなっていたのに、その思惑通りにならなくなったときに裏切りが言われているわけです。
だから他力依存の思惑期待から自己拡大もできるが裏切りにもあるわけです。
だから恋人、夫や妻、我が子・両親、従業員・社員・社長、棟梁・弟子、師匠と弟子、親分・子分などの人間関係が破綻崩壊することにもなるわけです。

また使い勝手の良い・都合の良い・便利な機械や道具や器具の他力でもって時間短縮や楽チンでもって動き働くことからして成すことが多くなり拡大することも出来ます。
またスイッチポンの快適便利な生活も可能になって天国のような思いも出来ますが、その裏の地獄のような思いもすることになるその矛盾が伴います。

しかもそれらが原因からして地球環境や人間関係の破壊崩壊になっているその事実があります。

また現代医科学の良いとこ取りの薬剤によるその弊害副作用が深刻になっていることに気付いていないかもしれません。
それどころか生体移植手術やの神の手を持つ術者を褒め称え敬う意識からしてその医科学が拡大もしていますが、その裏では症例症状が更に進化拡大して深刻なことにもなっていることに気付いていないかもしれません。
だから絶対に安全といえない原子力の応用でその危機が深刻にもなっています。

ところが自力で事を成すことが多かった昔ほど人が集まって成すことが多かったのは事実です。
そして人それぞれの個性・役割の自力能力でもって取り組んでいましたから、力持ちはその役割を果たすことで認めてられていましたし小柄な人はそれに似合った動きをしますし、男性は男性の女性は女性の、手先が器用な人や創意工夫・アイデアの得意な人、狩や耕作が好きな人等などが集まることで成すことを成していましたから、皆が皆必然でしたしお陰様でありお互い様の意識がありました。

しかし時代と共に良いとこ取り意識(能率主義・効率主義)拡大意識・欲張り意識からして比較競争意識も強くなりました。
また見栄や世間体などの自尊心・プライドを持つことにもなりました。
そして生きる為の衣食住がその評価の対象にもなり、その一次産業・能力よりも高度な産業・能力に憧れることにもなりました。
だから専門・専属・能率主義が集まる拡大化が進み、それらから落ちこぼれる人・事業者が増えている事実があります。

ところが私は皆が避けて通りたいはずの過疎地暮らしが仕組まれて始まったり、これまた仕組まれた牛舎のパートに出掛ける生活になってからどんどん意識変わりしだしたのです。
そして昔ほど(太古ほど)人間らしく生きていた事実にも気付いたのです。
それがブログに書いている事柄ですが、とにかく自力でもって生きることの真価を知った感じですから、過去の自己拡大で生きていたことや他力依存でいた頃のその精神的ストレスが自らの自己破壊に突き進んでいることにも気付いたわけです。

しかも独り身の生活から勝手気ままな自由を味わえていることが人間として開放された感じですから、不便不都合から一番大事なものを得た感じでして、大げさに言えば時代の奴隷から解放された感じです。

だからこのままに静かに死に至っても後悔することにはならないと確信しています。
だから尚更に他力に頼るよりも自力で生きていたいし、その自力が使えなくなれば「その分だけ」他力に頼ればいいことだし、その他力も及ばない状況事情になればあきらめるだけです。

(何が無くなっても平気だから)そこで欲を言えば穏やかな死を迎えてあの世に旅立ちたいという思いがあるくらいです。
だから尚更に無理しないでただ成り行きを味わっているのです。

車の通る気配や人の気配もない街灯もない静寂が寂しい事にならずに、害獣や害虫と言われるものたちが身近にいて、至る所にクモの巣があり、緊急・救急時にも不便で、不潔・臭い汚いと言われる牛舎に出かけ、スーパーとコンビニとホームセンターへ買い物に行くくらいと一円パチンコに遊びに行くくらいのお粗末にも思える生活が「最高の贅沢」にも思えているのですから、欲張り無理して人を蹴落としてまでの贅沢三昧をしなくても、楽ちん呑気でもって最高の贅沢が味わえているのです

だから「人間は意識で生きている」のです。
だからその意識次第でどうにでも変われるのです。
だから他力では「どうすること」もできなかったことが自力によって解決できるのです。

それが価値観の転換・意識改革と言われることであり。
それによって地球人類が救われることになり。
それが自らを救うことになり、ついでに人様をも救っていることにもつながるのです。
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