孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

宗教真理&精神世界を理解するのは簡単なようで複雑難解なところもあります。

2013年05月25日 | Weblog
ちなみに「楽しく」生きるよりも<楽に>生きることを理解できてもそれが実践されて実際にそれを味わっていない限りは自分のもの(本物)になっていません。
となると概ねにして(実践意識になるために)更に深く理解する必要性が出てきます。

すなわち学び知った精神世界を納得確信できていないからその実践も出来ないし、その実践をする気になってもやはり深く学び知ることがなければ実践する自信が出てきません。

だからこのブログの「楽に生きる」「自己縮小」を知っても、その自己縮小が出来ないからその必然性を知るために「完全真理」の基本を理解し納得確信する必要が出てくるのです。

ちなみに奥深く理解する必要性の無い人ほどに既に実践されている事柄が多いはずです。
例えば「執着」しないで呑気さを十分に味わっている人なら、もう既に自らして気付き学んでいるから執着しないでいられるのです。
でなければ今も何かと執着することが多いはずです。

それを言い換えればこのブログを読んだときに既に自分のものになっている事柄が有れば更に深く学び知らなくてもそのままにして(自ら自問自答して)気付いていきますから、いつの日かこのブログを読んだときに奥の深い真理が難なく素直に理解できるようになっているはずです。

だから前もって分厚い書物を読み漁らなくても、またネットで検索しまくらなくても、前もって精神世界の前知識を増やさなくても実践できる人はいつの間にやら自らがその道に進んでいるはずです。
俗に言う結果を求めた先付けではなくして、結果が出たあとで気付く後付になっているはずです。
それが俗に言う自然体になるのです。

だからとて知識を否定しているのではありません。
知識で知ったからこそ(後付で)気付けたわけですから。
ゆえに「自分のもの」(本物)になっているのか否かだけです。

すなわち単なる知識のままに終わるのか、それともその知識が役立つのか、ですが、その知識が不完全な事柄かそれとも完全なのかの見極めも重要です。
それならこのブログの書き始めからして何度も読み返していれば(次第に)理解できることが増えていくはずです。

何たって私自身も(事の始まりは)初心者でしたし、しかも(後で気づく後付の)鈍感なところがありますから、暇で退屈な時間つぶしに(娘との成り行きからして手元にあった)完全真理の録音テープ100本あまりを半年間以上かけて(その中で聞き取りやすい50本は)順繰りに三回以上は聞き直しました。

だから最初は時間つぶしに聞いていたのが少しずつ理解納得が進むほどに聞く耳になり、その事と次第の道理が私の見聞知識や体験経験やまた「何で」の違和感が一本線上につながるほどに更に納得確信に至りました。

そこで今までまったく知らなかったその真実を知る喜び楽しさがありましたし、知れば知るほどに奥行きが深いことからして今も飽きずに続いていますから、いつの間にやら自らの精神世界の中で自問自答しながらも日々呑気気楽に生きているような感じになっています。

ちなみに宗教に入信したり仏門に下ったり冥想や修行をする人が居るのも納得出来ます。
何たって精神世界を知れば知るほどに奥を極めたくなるのも当然だからです。

ところがどっこい巷の宗教真理は矛盾していますから結果的には思考錯誤し悩み迷い葛藤する事になり、最初のときの楽しさが薄らいで次第に苦悩するはずです。
ゆえに極めるほどに悩み続けてそして精神異常&うつ状態からして廃人同様になったり自殺をする人もいます。

なのに宗教真理に係わったことが生き甲斐に思えるようならばそれは単なる自己満足であり、その矛盾するその偽善にまったく気付かないままにいるのか、それとも惑わされたままに洗脳&陶酔しているのかもしれません。

この件に関して苦言があれば思う存分書き込んでください。
と言うよりもブログの最初から真剣に読めば反論の余地がないことに気付いて「実」のある学び実践になります。j