孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

孤独が当たり前であり、それが不完全な人間の定めなのです。

2013年10月30日 | Weblog
私が過疎地で単身生活するようになったことは
然るに自分さえ良ければの結果になります。
然るに妻を失望させ、然るに裏切ったことにもなります。

ところが私と行動を共にしなかった妻も自分さえ良ければの形になります。
然るに私も妻も共に加害者でもあり被害者でもありお互い様の関係になります。

ゆえに何れが先であれ後であれ何かが起こる可能性がいつもあるのです。
だから精神世界に身を置いた生き方になったのが妻であって私が取り残される可能性もあったわけです。
然るに仏門に下ったり入信することになるのが妻であればそれを反対するのが私だったりするその可能性もあるのが夫婦&人間関係です。
然るに妻も私も浮気する可能性もあったしそれが原因で離婚にもなったかもしれません。

だから自分さえ良ければで自分の都合の良い方を優先するのです。
しかしそれが出来なければ不平不満を抱いたままに暮らすことになり然るに何かと愚痴小言を思いまた言い合う仲にもなるのです。
然るにその原因が誰が先で誰が後でもないのです、然るにお互いが持っていることが出るか出ないかだけのことです。

そんなヘンテコな人間関係&夫婦関係でありながらも共に暮らせるのもそれも自分のご都合が優先されるからです。
だからそのご都合が最悪になると別居離婚にもなるのです。

然るに生まれ出るときも生きているときも死ぬときも孤独なのです。
だから孤独が当たり前でありそれが不完全な人間の定めなのです。

然るに孤独が孤独感になれば寂しい辛いことにもなりますが、しかし孤独であれば誰に気兼ねすること無く自由勝手気ままに生きていくことが出来のです。

然るにその孤独を活かせないのは自力自信の無さです。
そしていつしか見向きもされずに置いてきぼりになるかも知れません。
だからその自力自信を付けなければ先行き孤独感を味わうことにもなります。

然るに皆の中でいながらにしてその孤独感を味わっている人も多いはずです。
だからその孤独感を自由のある孤独&独自独歩にするチャンスなのかもしれません。

そして見栄張らずに頑張らずに欲張らずに楽チンでもって自由に生きるその実践が味わえるかもしれません。

不完全な人間関係を気にせずに自由と孤独で呑気気楽の楽チンを味わえば欲張る事になりません。

2013年10月29日 | Weblog
完全なる宇宙&神&愛意識には矛盾がありません、然るに良い悪いで判断することはありません。
しかし、あるがままの自然体の完全意識を味わっているものの未だ矛盾意識を味わっていませんから、そこで矛盾意識の人間がこの世に創造されました。
然るにその矛盾意識を味わうのが人間の役割使命です。

だから勉強ばかりせずに遊ぶことも味わっています。
また遊ぶ事に熱中したりまた仕事に集中することも味わっています。
然るに仕事の後の休息も味わっています。
また仕事を怠けることも味わいまた遊ぶ事に飽きることも味わっています。

そして冒険危険なことも味わいまた安全安心を味わっています。
また探究心・研究熱心にもなるがまた中途半端も味わっています。

そして欲張って得するときや欲張って損をすることも味わっています。
また欲張らなくて損することや欲張らなくて得することも味わっています。

然るに比較競争差別してその矛盾を味わっています。
然るに人間関係の矛盾も味わっています。

然るに自己満足と不平不満を味わっています。
また不信感や正義感からしてその守り戦うことも味わっています。

然るにこの世の様々な矛盾を味わうも未だ完全を味わっていません。
然るにその原因は良い悪いで判断してその良いとこ取りをしたがるその欲にあります。

ところが欲があってもその欲を出さなければその矛盾を味わずに済みます。
そしてその矛盾を味わうことが少ないほど精神が安定します。

然るにその穏やかな精神がずーっと長く続くほどに不完全な矛盾のあるこの世やその人間関係を気にすること無く生きていけますから、然るに孤独ながらも自由意識でもってして呑気気楽の楽チンを味わいます。

然るに欲張っていた不完全な矛盾のある生き方とまたその矛盾の無い生き方の両方を味わうことになり、然るにその矛盾のない生き方のアリガタサを学び知り気付き悟ることになります。

然るに宇宙&神&愛意識を実感でもって味わい、然るに本物の精神世界を悟ったことになります。
然るに欲はあってもそれを出して欲張らずに生きていくことが出来るのです。

然るに宇宙意識&神意識&愛意識を実感でもって悟り一歩近づいたことになります。
そしてその生き様の続きは来世に引き継がれるようです。

仙人が如くに名声足跡を残さずに人間を終えるのが真の精神世界の悟りを開いた者と言えるでしょう。

2013年10月28日 | Weblog
過去の釈迦やイエスもまた神懸り奇跡の超能力者や霊能者や宗教家や思想哲学者や先人先生が説くその精神世界は理想目的&主義主張を言っているだけです。
だから現実に不可能なことであったり、また良かったり悪かったりと矛盾があったりして完全では有りません。
然るに不完全です。

ちなみに天地創造とか全知全能とか言われる宇宙&神に「欲」はありません。
然るに欲があるのは人間だけです。
だから不完全なのです。

然るに精神世界に係わるのにその欲があれば不完全になって当然なのです。
だから人集め金集め欲絡みの精神世界になっているのです。

昔から言われている仙人ともなれば人間を超越していますから、然るに欲を出す事も無く、然るに人を集めることも無く、然るにその名前や形跡足跡を残す事無く静かにこの世を去っていったと思われます。
然るにその仙人と言う形も理想目的だったのかもしれません。

然るにこの世に名声を残している人も生まれたときは赤ちゃんでした。
そして育ちながらにしてその時代の賢人知識人先人先輩や後輩や周りの人や両親などから見聞してその能力力量を蓄えたりまた自らの感性&意識で気付いたことが付け加えられてその人物に至ったはずです。
然るに欲を出さなければ仙人が如くに跡形無く終わっていたはずです。

そんな中に神懸り奇跡を成す超能力者や霊力者やまた占い予言予知をする人などが次ぎから次と現れ出ては消えていますが、然るにその名を轟トドロかせて名声を得ています。

然るに人間を超越したのではなくして俗世間で欲を出していたのは事実です。
然るにそれを奇跡の人とか何がしの神と称するのも欲です。

そしてその欲が大きくなるほどにその不完全さが目立つようにもなります。
然るに「欲は魔物」と言われる由縁です。

だから仙人が如くに足跡&記録を残さずにして(記憶されることも無く)人間を終わるのが真の精神世界の悟りを開いた者と言えるでしょう。
だから摩訶不思議の世界&見えない世界&神仏霊魂の世界やの精神世界で無名の人が、然るに欲を出さずにしてこの世を全うし、然るにあの世の高次元界に辿り着いているかも知れません。

ちなみに私とご縁があった霊能者が水面下で自費でもって必然ご縁のところに出向いてそのお役を果たしていましたが、然るにその霊能者がお役を果たしてこの世から姿が消えると、然るにその霊能者とご縁があったことのその記憶がやがて消えて、然るに会得した事だけが言い伝えられて残ると言っていたことを思い出しました。

だから私たちが精神世界を学び知りその意識で生きていくからには欲を出さないようにして生きていくしかありません。

然るに精神世界の基本はこの世や人様のことでは無くして己が一人の生き様になります。
そして必然ご縁のこの世で生きながらにして自力と自信の独自独歩になります。

浮世離れした田舎&過疎地暮らしも、様々な生活様式がテレビ報道されています。

2013年10月27日 | Weblog
この世の矛盾や人間関係の不完全さを味わった者が浮世離れした生活をするために田舎&過疎地に移り住む事例が数多くありますが、それをテレビ取材して報道された事例も数多くありました。

然るに私も(初期の頃)候補者として取材されましたが(本番になれば)スタジオに出演することが出来そうもないので結果的にはボツになったことがあります。

また私が過疎地に移住する事になったきっかけの大学助教授もそれ以前に既に取材され報道されていました。
その大学助教授の生活ぶりは旧家の廃屋を無料で借用しての質素倹約で、然るに不便を楽しむような生活ぶりでしたから中古品や廃品再利用していましたし、風呂は薪で沸かしていましたし、その風呂や洗濯の水は雨水タンクが主で飲み水は他所から汲んで長い道のりの山道を一輪車で運んでいました。

ところがそれ以外の田舎暮らし&過疎地暮らしのテレビ報道ではパンケーキの工房で地元直販していたり、またその教室を開いて人を集めていたり、また絵画や陶芸教室や手芸装飾手作り教室を開いたりして人を集めているのがありました。
また大邸宅を新築して友人知人を招待し宿泊できる部屋を数部屋作ったり、また大きな旧家を移築改築して客人を招き入れる設備を施したり、また大きな丸太小屋をゲストハウスにしたり、また本格的な露天風呂や岩風呂を設けたりして、何かと大掛かりにしている場合もあります。

然るにその田舎暮らしを楽しむためだけならばとやかく言いませんが、しかし精神世界に目覚め悟り超越したので、然るに田舎暮らし&過疎地暮らしで浮世離れした生き方をしているとなるとその矛盾があります。

然るに田舎で暇で退屈しないように予め準備万端整えての生き方が、然るにそれが精神世界に身を置いている生き様だとなれば偽善になると思います。
しかも精神世界を知ったかぶりして人様に語り聞かせたり、また己の精神世界を執筆出版しているとなると、然るにそれは言うだけ書くだけの精神世界になり、然るに人気取りの目立ちたがりやの私は正しいの自己主張になります。

然るに田舎暮らしを楽しむことから始まったのがやがて精神世界に目覚めることになればそれは自然体になります。
しかしそれでも楽しむために何かと欲張りその自己満足を繰り返していれば精神世界で生きることが本物にはなりません。

だからその欲張ること、然るに自己満足することが無くなる生き方に変わっていかなければ悟りを開くことにはなりません。
然るに田舎暮らしの形だけでは無くして更に自己縮小することになり、然るに食って寝て糞をするだけのような単調な日々になり、然るに暇で退屈するも趣味嗜好娯楽&自己満足が必要なくなるほどに精神修養し成長していかなければなりませんが、その道のりは長く一夜にしては成せません。

それでも楽しく生きることからして今度は「楽ラクに生きる」ことに変わればその楽ラクに生きる中に味わい深いものがあることにも気付き、然るに自己満足で楽タノしく生きることも次第に減ってきます。
そして更に単調になり、然るにその有り余る時間を如何にして過ごすか、その時間つぶしが日課にもなります。

しかし幸いなことに自然界の中でいますから何かと時間つぶしが出来ます。
そして見つけ出したことや思い立ったことを行動すればその結果は見える形で現れますが、しかしそれが結果成果と言うほどではありませんから、然るに自己満足にもなりません、然るに人様に自慢することにもなりません。

そんな単純単調な生き様生活が続くほどに自己満足することがどんどん減りますから、然るにその自己満足&趣味嗜好娯楽に意識が使われなくなるほどにその分だけ己の意識の有り様&精神世界に目覚め気付くことにもなります。

然るに浮世離れした精神世界に身を置いて生きていることになります。
そして呑気気楽の楽チンですから(それを一度味わえば)二度と浮世には戻らないでしょう。

然るにそれが健康体であるほどに長く続くでしょう。
そしてお金や物よりもその健康が一番大切なこともやがて悟ります。
さすれば何が無くても今生きていることで十分に思える生活になります。

然るに不安心配&恐れ怒りのない心穏やかな安心安全の心持で日々生きていくことが出来るようになります。
然るに必然ご縁の成り行き任せの自力自信のある生き方が次第に板に付いてきます。

私たちの人生の殆どが単なる「時間つぶし」になっているその現実を知る。

2013年10月26日 | Weblog
私たち不完全意識の人間は何を成してもその結果も不完全ですから、然るに食って寝て糞をしながら生きていることの他は「時間つぶし」で生きているのと同然になります。
しかもその弊害副作用まで伴っていますから、当然ながら自然環境も人間関係も変な結果になっていきます。

然るに頑張り努力し効率良く成果を上げてもそれは一過性ですからその後も頑張り努力し続けなくてはなりません。
然るにそのお陰で贅沢三昧の豪勢な生活が出来ていてもしかしそれも単なる時間つぶしでしかありません。
然るにその自己満足でご満悦になるもその内心は何か物足りないはずです。
然るに様々な趣味嗜好娯楽に興じてこれまた時間つぶしをしているのです。

然るに時間短縮のスイッチポンの生活様式からしての暇なときに小説やドラマや映画の純愛や熱烈な恋愛や過激なほどの憎悪復讐劇やまた痛快活劇冒険物を見ることもありますが、然るにその中の主人公の気分やまた傍観者の立場になってあれこれと思いを廻らし味わうものの、然るに本物ではないからそれも単なる時間つぶしになるのです。

また海外旅行や名所旧跡やの観光旅行や温泉巡りや娯楽施設やショッピングや食べ歩きなどに興じるも、また新手の目新しい事に魅せられて手出しするのも然るに一時の時間つぶしになります。

然るにそれらが見聞知識教養のためと正当化しても、然るにそれらを自慢げに人様に言って聞かせて自己満足するだけで終わります。

然るに生きることに精一杯であれば時間つぶしは必要ありません。

そしてそれら時間つぶしが出来る裏ではその分だけの苦労や苦悩を味わって疲れているはずです。
だったら簡単手短にして単純素朴さが味わえるそんな楽ラクな生き方からしての時間つぶしであれば、然るにそのほうが苦が少なくて賢い生き方になると思いますが、しかしその苦の少ない生き方にすれば当然その分だけ必然的に生活を縮小する事になりますので、然るに目立ちたがり屋で見栄や世間体を重要に思う人には無理な事になっています。

然るに楽チンでもって同じ時間つぶしをしている私から見れば、それはご苦労なことでお疲れさんでお気の毒な事に思えるわけです。

然るに私たちの生き様人生の殆どが生きるためというよりも人生を楽しみたいその欲からして時間つぶしをしているようなものです。

ところがその欲張りのその「結果を求めて」時間つぶしをしているのではなくして、その欲張りの「原因を無くする」ために時間つぶしをしているのであればその先々に活かされ役立つ事になります。

そして皆さんは何れの時間つぶしを選択しているのですかと私から問い掛けているわけですが、異論反論があれば書き込んで下さい。

「不確かな」人間関係から開放された自由と孤独と自力から「確かな」生き方を味わっています。

2013年10月25日 | Weblog
入学し就職し恋愛や結婚をすることが人生で最も重要な事に思っている人も多いと思いますが、然るにそれが思うがままになっている人はまずいないでしょう。
然るに思うがままにいかないのが人生だと気付いている人も多いと思います。

なのに未だに思うがままに成そうとしているはずです。
そしてそれが思うがままにいかないとその自力自信の無さからして然るに他力に頼ろうとするところもあります。

ゆえに信仰宗教や予言予知や運勢占いや異次元や奇跡やの摩訶不思議に関心を持ち、然るにそれらに思い思惑期待するようになります。
然るにその思い思惑期待通りになることが有っても、それは途中結果であってその先のことは不確かですし、然るに己の自力自信の無さは相変わらずです。

ちなみに私は入学も就職も結婚もその後のことも概ね成り行き任せでした。
然るに成るようになったところで、それなりの自力を出しながら、それなりに人生を歩んでいます。

ところが今思えば自分のことだけなら熱中も集中も出来て何ら問題が無かったのにその中に人様が係わることになると然るに良いことにも悪いことにもなりましたが、ところがその良かったことまでがやがて害を及ぼすことになるその弊害も味わうことになりました。

然るにそれが仕事関係や夫婦関係にありました。
そして成り行きながらも(結果的には)それらとケジメをつけたようになって人里離れた過疎地で単身暮らしになりました。

そして「不確かな」人間関係から開放された結果になり、然るにその自由と孤独と自力からしての「確かな」生き方を味わっています。

だから人間関係に邪魔されないで思うがままの生き方が出来るようになり、そして人様に思い思惑やその期待を持つことのその過ちにも気付いているのです。
然るに自由と孤独と自力からして(不確かな人間関係から)裏切られない生き方になったのです。
然るに己の意識が原因のその自己結果を味わうだけになりました。

然るに誰もが自由と孤独からして思うがままに生きられるはずなのに、また現状がその孤独の状況になっているのにその自由を味わっていないとなれば、然るに思うがままに生きられないことからして虚しくも侘しくも寂しくもなり、然るにその孤独が孤独感にも変わるのです。

ハッキリ言って
自分さえ良ければの個人意識とその不確かな人間関係からして絶対的に皆が孤独なのです。
それを何とか誤魔化し紛らわしているのが趣味嗜好娯楽&変化刺激快感快楽なのです。

然るに年を重ねるごとに(若さ情熱を失いつつ)その趣味嗜好娯楽さえも侘しくなりますし、然るにその夫婦家族が共に行動することもその会話もどんどん減りますから、然るに同じ屋根の下で居ながらにしての孤独&孤独感を味わうことになります。

然るにそれでも元気な内は何とか持ち堪えられますが内心では耐え難いところまできているかもしれません。
然るにその元気な内にその生き様を変えなければそのチャンスさえも失う時がきます。
然るにそれが何らかの仕組まれ有事が起きたときです。

そしてその有事に執着して心を乱したままに生きた心地もせずにいたり、然るに生きてはいるが死んだも同然の廃人同様になったり、また自力でもってして立ち直ることをせずにして、その自力自信の無さから他力を懇願してそれに頼る事になったり、またその他力&援助救済を欲張ったりまた我先に先取り横取りしたりするようになったりして、然るに精神世界に程遠い生き様になるかもしれません。

然るにその有事から這い上がってくることで精一杯のはずですから、然るにそのままに人生を終わることになるかもしれません。
だからパチンコ「花の慶治」が如くに「それで宜しゅう御座いますか」と書いているのです。

釈迦やイエスや神懸り超能力者や思想哲学者等が説くことだけが精神世界ではありません。

2013年10月22日 | Weblog
釈迦やイエスや神懸り超能力者や思想哲学者等が説くことだけが精神世界ではありません。
しかもそれら輩が説く内容が真実事実であってもそれは理想目的&思惑期待であって本人が実際に実践してそれが本物になっているわけではありませんから、然るにそれを実践して本物になっている人もいません。

然るに言うだけ聞くだけの精神世界になります。
然るに論じることでは長けていますから人様を納得確信させることは可能ですし、論じることでは同じ似たような輩に引けをとりません。
しかし中味が本物になっていないから、然るに様々なことを多く語る中に何処かしこで不確かなことを私は正しいとばかりに主張正当化していますから、その矛盾やほころびボロが必ず出ているはずです。

然るに隠し持っている不完全意識が出て不完全な形にしているのです。
その原因は何らかの「欲」絡みだからです。
そしてその欲絡みにこれまた欲絡みの人が加わり集っているのです。

だからそれを見極められるだけの学びも必要になりますが、然るに己に欲が有れば定かに見極めることは出来ません。
それどころか信頼と盲信や陶酔や自己洗脳からしてそれに参加加担することにもなり、時には宣伝広告塔&布教活動の役割までするかもしれません。
然るに私も過去にその経験経緯が一時的にありました。

またこのブログもニックネームながらも自己主張をして目立ちたいために書いているようなものですが、しかし特定の人や組織団体の物真似としてではなくして、私の生き様の中にあるそれらの精神世界の裏表やその真実事実を書いているつもりでいます。

然るに私が思い考えたその理想目的を悟ったが如くに書いているのではなくして、その悟りに至ったその原因が今の生き様の中にありますから、然るにその悟りに至ったその原因とその結果を同時に見聞することが出来ます。
だから奇跡を見ることができなくても私の悟りを(開いていますから)見ることが出来ます。

そして結論に至ったのが、然るに持ち前の不完全意識はどうしようもなく、然るに何を成しても結果的には無理無駄で余計な事になりますから、然るに「欲張らない」然るに「気楽&楽チン」でもってして「必然ご縁」のままに無理なく生きていくしかありません。

然るにその欲張らないことが無理であれば、然るにこの世でもあの世でも「どうしようもない意識&命」のままのその繰り返しになります。

自他共にして学び知り気付いた精神世界のすべては「貴方の中」にあることです。

2013年10月20日 | Weblog
効率能率を良くすればその分だけ時間短縮した結果になりますが、然るにその裏が出れば命取りの危険が生じます。
然るに歩くよりも自転車が早く、その自転車よりもオートバイや自動車が早くなりますが、然るにその危険性が高まります。
然るに危険が伴う作業場や工場で能率効率を良くすれば然るにその安全性を高めなければなりません。

ところが結果が先で原因が後になるのがこの世ですから、
然るに前もって安全対策が成されていると言っているその矢先にも事故が起きていますから、然るに最初からその安全策は成されいなかったことになります。
然るに万全を期しても万全ではないのがこの世です。
然るに絶対的な安全安心が無いのです。
だから不安心配&危機感不信感で生きることになるのです。

なのに何で危険な原子力発電所が稼動したのでしょう。
然るに効率が良いその良いとこ取りの欲からしてです。
然るに危険原因よりも効率の良い結果を優先先取りしたからです。

然るに交通事故で一生を台無しにする可能性があるのにその車を乗り回すことはなかなかやめられません。
然るに原子力発電の危険も車に乗るのも同じ危険なのですから、その危険を回避するのであれば、然るにそれらを使わなければ問題ありません。

然るにその車に乗ることの形結果が云々では無くして、然るにその良いとこ取りするその原因意識の有り様が問題なのですから、然るにその精神世界を論じる必要があるのです。
ところがしかしその精神世界さえも結果が先で原因が後のその不完全さが罷り通るのですから、余程の見極め精神力が必要になります。

然るに「欲張らない」ことを説いている人の集まりがあるでしょうか、
また人が集る所に欲が渦巻いていると説く人がいるでしょうか、

然るに精神世界に魅せられた人が寄り集まっているのは其処に何か優れた形や何か得することがあるからではないのでしょうか、
然るにそれも欲ではないでしょうか。

然るに貴方は欲張りますか、然るに欲張ったほうが得ですか、
然るに欲張らなければ貴方は損しますか、
一体全体その得や損は何処にあるのでしょうか、
然るに貴方の中にあることです。

然るにベジタリアンが良くて肉食が悪いのでしょうか、
然るに太陽が良くて月は悪いのでしょうか、
一体全体誰が決めたことなのでしょうか、
然るに不確かな事を信じた貴方の中にあることです。

その得や損や良い悪いが無いのが然るに真の精神世界です。
然るに善悪損得優劣の結果形のある精神世界はそれらに関心がある人を集めその人心を操るための邪な意識の者が牛耳る形になります。
然るにそれら形に巻き込まれるのは欲張り見栄張りする者や自力自信の無い弱い精神からしてです。
然るに貴方の精神&意識が原因なのです。

神仏霊魂の世界&精神世界に身を置いたからとてこの先に特別なことはありません。

2013年10月19日 | Weblog
私の中にある思いを書きながらにしてそれがまた新たな気付きになりながら今日至っていますが、

一番目にして
まず巷の神仏霊魂の世界&信仰宗教が説く半分は本物で半分はインチキの中途半端な精神世界に身を置いて生きる人や、また神懸り奇跡の超能力や霊力に思いを寄せている人やまた魅せられて期待している人も含めて、
この先もそのままに続くか、または似たような箇所に乗り換えながらも、
しかし、その生き様&意識に変化と言えるほどの変化も無く、然るにそのままに推移していくことでしょう。

二番目にして
自分さえ良ければの不完全意識ながらも真実の精神世界に目覚め、然るにその精神世界に身を置いて生き続けるために仏門に下るが如くや清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟でもってして実践する人が一人や二人くらいは出てくるかもしれませんが、
しかし残る人は中途半端にしてそのままに続くことになるでしょう。

然るに一番目の人も二番目で残る人も
この先に待っている様々な仕組まれ有事でもってして気付く事になっても、然るにそれでは有事の後だけにその気力&余力&自立生活力&自力自信の精神力も弱く、然るに時すでに遅しの結果になるでしょう。

三番目にして
此れまでの生き様からして、然るに自らの意識から気付きながらにして執着することが次第に無くなっていて、然るに成り行き任せで無理も無く、然るに頑張り欲張り見栄張り心を張り詰める事無く平穏にして生きている人も、
然るにその分だけ楽にして生きることが続くくらいでこの先に大きな意識の変化修正も無く、然るにそのままに楽にして死ねればそれで本望でしょう。

然るに神仏霊魂の世界や真実の精神世界に身を置いたからとて、然るに前もって思い望み期待していたほどにもならずに、
然るに精神世界と言えども何ら特別が無く今のままに似通ったその精神状態が続くことになります。

然るに次元上昇が有るか無いかも一度この世を去りあの世とやらの霊魂の世界&意識の世界に還り戻ってのことになると思います。

しかし宇宙の流れ&仕組みに沿って次元上昇に至ることが出来ても其処には一切の特別はありません。
然るに憧れ羨むことも無く、然るに期待に胸を膨らませ躍らせることも無く、然るにワクワク・ソワソワ・ドキドキ・トキメクことも無く、
また悲しむことも哀れむことも無く
然るに情熱を燃やすことも無く、
然るに苦楽の無い平穏な時間&宇宙時間が過ぎていくだけの、然るに変化刺激の無い単純で素朴な世界のはずです。

だから自分さえ良ければのその良いとこ取りすることも無く、然るに頑張ることも欲張ることも見栄を張ることも無く、然るにそれぞれの個性役割を出し合う自由平等で調和の人間関係があります。

然るにこの世で味わえなかった個性役割&自由平等調和の人間関係を味わうことが主体になると思います。
だから必然ご縁の関係で共に過ごしたりまた離れたりすることがあっても、然るに結婚や浮気や離婚や再婚といわれる形、然るに束縛制限支配関係や否定反発し合うことにはなりません。

然るにこの世で矛盾を味わい、然るにその矛盾の無い精神意識の世界のアリガタサを知るための、然るにその予行練習がこの世だと思っています。
然るに波乱万丈の人も、欲絡み他力絡みの人も、また素朴にして生きている人も、
その意識のその結果がこの先で待っているだけのことです。

然るにこの先自らの意識が原因からして招き呼び込んだ必然ご縁のその仕組みの結果を味わうだけです。
然るにこの世もあの世も自らの「意識が原因」からして成るようになるだけのことです。

効率の良い時間短縮の特急で生きていきますか、それとも鈍行に乗り換えて余裕で生きていきますか。

2013年10月17日 | Weblog
一日24時間をどの様に過ごすか、その過ごし方にも精神の学びがあります。
然るに効率良くすれば時間短縮して成果を上げることも出来ます。
然るにコンクリートブロックを一個持って運ぶよりも同時に2個運ぶほうが効率が良くなります。
しかし一個のほうが二個よりも簡単で楽ですし安全性があります。
そこで皆さんは何れを選びますか? 

然るに過去の私は頑張り欲張り見栄張りして二個運びましたが、現在は一個を二回運ぶその心持で暮らしています。
そのほうが単純簡単で手っ取り早くて深く考えないですむし、少し余計な時間が掛かるが体力的に楽チンであり、然るに安全だから気も楽にやれるのです。

ところが効率が悪いと言われることになります。

然るに急ぎ慌て時間短縮して特別急行でやるよりも然るに普通の鈍行でゆっくりと時間をかけて味わうほうが心いくまでの余裕余力でしてその味わいが深くなるからです。
然るに一日に二個三個とやるよりも然るに時間をかけて一個の方が精神世界にマッチしていることに気付いたのです。

然るに効率よく時間短縮したがる意識を持っているということは、然るに時間を効率よく使いますから、その時間短縮した分だけ他事を成すことになります。
然るに結果的にはあれもこれもと気忙しくもなりますので、然るに心身が疲れ気味にもなります。
然るに皆さんも様々な事に手出し口出しして気忙しくしておりますから、然るに気疲れしているはずです。

それゆえに呑気気楽を味わうようになればその事実に気付くでしょう。

だから自己拡大を味わった後で自己縮小を味わうとその自己縮小の真価に気付くことができるのです。
だから残るは自己縮小の実践なのです。

然るに効率よくコンクリートブロックを二個持って運ぶことは「一寸先は闇」のその闇の中に自らが進んでいる事と気付けば然るに自己縮小が進むのです。

然るに昔よりも現在のほうが効率能率成果を追求してきただけに地球環境も人間関係も危機的なほどに「闇が濃い」のは事実です。
然るにそれでも効率を選んで(同じ集団で)特別急行列車に乗って生きていきますか、
それとも(空席の目立つ)各駅停車の鈍行列車に切り替えて(独自独歩で)ゆっくりと余裕でもって生きていきますか。