釈迦やイエスが修行してみて悟ったことに・・・修行をすることは無駄なことだと・・・弟子達に伝えたそうですが・・・その修行が(イエスや釈迦は気付いていなかったが)自分の<欲>で行なわれていることだから・・・無駄な結果になるのは当然のことです。
その無駄な修行が苦行難行・艱難辛苦に耐える荒行とは限りません。
私達が日々喜怒哀楽や生老病死に感情をあらわにしていることが精神を酷使している修行にもなっています。
人を責め自分を責める不平不満が原因で不安心配や怒りや嫉妬・仕返し復讐心・やけくそ破壊意識で悩み苦しんでいるのも無駄な精神修行にあたります。
先を目指す理想目的を持って頑張り続けていることも、無駄な修行で目指しているの同じです。
自力では成しえないことを成そうとする努力で心身ともにエネルギーを無駄に浪費しているのも無駄に修行しているのと同等です。
思い悩み混乱したり、思考錯誤してみたり、葛藤することも無駄に精神修行をしていることになります。
自分の作品に自分の思いを込めようと日々模索したり、道を極めようと努力しているのも同じです。
勝者・ナンバーワンを目指して日々鍛錬しているスポーツ選手や登山家や冒険家も同じです。
世の為人の為に役立つことを目指している学者先生や政治家や企業家も色々と無駄な修行を重ねているのです。
比較競争差別し合い、いつ裏切られ切り捨てられるやら分からない会社や人間関係に情熱精魂を込めているのも、善行奉仕活動を意識して励んでいるのも、無駄な修行をしているのと同じになります。
過去の釈迦やイエスのように修行を重ねている人も・・・釈迦らの教えを守らずに無駄なことをしているのです。
そんな修行めいたことをやらなくても、今の自分に出来ることを当たり前にやっていれば十分なのです。
学者先生の素質を持っているのなら、それを普通・当たり前に出すだけで十分なのです。
芸術文化に適した才能技術があるのなら、それを当たり前に出していればそれで十分なのです。
子育てや家事に適した才能技術があれば、ただそれを出していれば十分なのです。
自分の素質・個性役割が役立つときに、その仲間同士が集まって協力し合うことがあったり、その時々で皆の先頭に立って出来ることがあればそれで十分なのです。
また・・・自然界がすべてを教えてくれているのだから、それを学び知り調和を乱さないようにして・・・自分の得意とする科学・医学や化学産業・工業産業や土木建築や自然産業に従事しているだけで十分なのです。
・・・それらを特別に思うことから・・・愛が愛ではなくなるのです。
だから、自分が役に立っているか否かを思い考え判断することではないのです。
・・・自分に判らないところで役立っているのが本物・愛なのです。
だから自分の生き様を他の人が見て・・・それを先輩先生・お手本に思う人や反対に否定反発したり卑下する人が居ても、そう思った人の為のお手本や気付きを与えることになったりして、何かで必ず役立っていることになるのです。
だから・・・衣食住が足らない貧乏であっても、身体に障害があっても、入院していても、死にかけていても、死にたいと思っていても、何にもしていなくても・・・いま生きていれば愛なのです。
今の自分に出来ること・自力を出しているだけで・・・その役割個性・愛を果たしているのです。
それがどんな役割・個性であっても・・・他と形に違いがあるだけで愛に差は無いのです。
宇宙万物、皆が居るから(お陰様の関係で)皆が生きていけるのです。
それが本物の愛・完全なのです。
たとえ自分が何かミスって加害者になっても、それでも皆と「お互い様」の関係なのです。
だから自分が被害者側になっても、それもお互い様だから他を責めることは出来ないのです。
・・・「そのまま、このまま、あるがまま」にしておくのが愛なのです。
ところが・・・自分さえ良ければの個人意識を出すから愛ではなくなるのです。
その愛の無い個人意識の善悪・優劣・損得で判断することから差が出ているのです。
また、自分にあるもので十分満足していれば「ありがたい」ことになるのに、その自分に無いものを欲しがることから、互いに奪い合う競争になったり、働きすぎて他の仕事や顧客を奪っていることになっていたり、詐欺窃盗や搾取策略・嘘偽りの偽善で他から奪う事になったり、暴力・武力・侵略・戦争で奪うことにもなるのです。
その原因が過不足を思う不平不満から起きているのです。
その不平不満の原因が先ほどの「良い悪い」で判断している個人意識にあるのです。
だからその「個人意識」を出さなければ・・・無駄な修行をすることもなくなるのです。
そして比較競争・差別・戦争の無い自由・平等・平和な生き方が当たり前の世の中になるのです。
とは言っても・・・今の世の中を自分の自力で変えることは出来ません。
また、他力で世の中が変わったとしても、自分が変わっていなければその世の中に順応することは出来ません。
だから、まず自分が先に変わらなくてはならないのです。
それを教えてくれているのが・・・不完全なこの世を<完全>に成すことが出来る真理・・・「完全真理」です。
その無駄な修行が苦行難行・艱難辛苦に耐える荒行とは限りません。
私達が日々喜怒哀楽や生老病死に感情をあらわにしていることが精神を酷使している修行にもなっています。
人を責め自分を責める不平不満が原因で不安心配や怒りや嫉妬・仕返し復讐心・やけくそ破壊意識で悩み苦しんでいるのも無駄な精神修行にあたります。
先を目指す理想目的を持って頑張り続けていることも、無駄な修行で目指しているの同じです。
自力では成しえないことを成そうとする努力で心身ともにエネルギーを無駄に浪費しているのも無駄に修行しているのと同等です。
思い悩み混乱したり、思考錯誤してみたり、葛藤することも無駄に精神修行をしていることになります。
自分の作品に自分の思いを込めようと日々模索したり、道を極めようと努力しているのも同じです。
勝者・ナンバーワンを目指して日々鍛錬しているスポーツ選手や登山家や冒険家も同じです。
世の為人の為に役立つことを目指している学者先生や政治家や企業家も色々と無駄な修行を重ねているのです。
比較競争差別し合い、いつ裏切られ切り捨てられるやら分からない会社や人間関係に情熱精魂を込めているのも、善行奉仕活動を意識して励んでいるのも、無駄な修行をしているのと同じになります。
過去の釈迦やイエスのように修行を重ねている人も・・・釈迦らの教えを守らずに無駄なことをしているのです。
そんな修行めいたことをやらなくても、今の自分に出来ることを当たり前にやっていれば十分なのです。
学者先生の素質を持っているのなら、それを普通・当たり前に出すだけで十分なのです。
芸術文化に適した才能技術があるのなら、それを当たり前に出していればそれで十分なのです。
子育てや家事に適した才能技術があれば、ただそれを出していれば十分なのです。
自分の素質・個性役割が役立つときに、その仲間同士が集まって協力し合うことがあったり、その時々で皆の先頭に立って出来ることがあればそれで十分なのです。
また・・・自然界がすべてを教えてくれているのだから、それを学び知り調和を乱さないようにして・・・自分の得意とする科学・医学や化学産業・工業産業や土木建築や自然産業に従事しているだけで十分なのです。
・・・それらを特別に思うことから・・・愛が愛ではなくなるのです。
だから、自分が役に立っているか否かを思い考え判断することではないのです。
・・・自分に判らないところで役立っているのが本物・愛なのです。
だから自分の生き様を他の人が見て・・・それを先輩先生・お手本に思う人や反対に否定反発したり卑下する人が居ても、そう思った人の為のお手本や気付きを与えることになったりして、何かで必ず役立っていることになるのです。
だから・・・衣食住が足らない貧乏であっても、身体に障害があっても、入院していても、死にかけていても、死にたいと思っていても、何にもしていなくても・・・いま生きていれば愛なのです。
今の自分に出来ること・自力を出しているだけで・・・その役割個性・愛を果たしているのです。
それがどんな役割・個性であっても・・・他と形に違いがあるだけで愛に差は無いのです。
宇宙万物、皆が居るから(お陰様の関係で)皆が生きていけるのです。
それが本物の愛・完全なのです。
たとえ自分が何かミスって加害者になっても、それでも皆と「お互い様」の関係なのです。
だから自分が被害者側になっても、それもお互い様だから他を責めることは出来ないのです。
・・・「そのまま、このまま、あるがまま」にしておくのが愛なのです。
ところが・・・自分さえ良ければの個人意識を出すから愛ではなくなるのです。
その愛の無い個人意識の善悪・優劣・損得で判断することから差が出ているのです。
また、自分にあるもので十分満足していれば「ありがたい」ことになるのに、その自分に無いものを欲しがることから、互いに奪い合う競争になったり、働きすぎて他の仕事や顧客を奪っていることになっていたり、詐欺窃盗や搾取策略・嘘偽りの偽善で他から奪う事になったり、暴力・武力・侵略・戦争で奪うことにもなるのです。
その原因が過不足を思う不平不満から起きているのです。
その不平不満の原因が先ほどの「良い悪い」で判断している個人意識にあるのです。
だからその「個人意識」を出さなければ・・・無駄な修行をすることもなくなるのです。
そして比較競争・差別・戦争の無い自由・平等・平和な生き方が当たり前の世の中になるのです。
とは言っても・・・今の世の中を自分の自力で変えることは出来ません。
また、他力で世の中が変わったとしても、自分が変わっていなければその世の中に順応することは出来ません。
だから、まず自分が先に変わらなくてはならないのです。
それを教えてくれているのが・・・不完全なこの世を<完全>に成すことが出来る真理・・・「完全真理」です。