矛盾偽善の無い完全真理と自己縮小=孤独と自由=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

不完全なこの世を<完全>に成すことが出来る真理・・・「完全真理」

2009年10月29日 | Weblog
釈迦やイエスが修行してみて悟ったことに・・・修行をすることは無駄なことだと・・・弟子達に伝えたそうですが・・・その修行が(イエスや釈迦は気付いていなかったが)自分の<欲>で行なわれていることだから・・・無駄な結果になるのは当然のことです。

その無駄な修行が苦行難行・艱難辛苦に耐える荒行とは限りません。
私達が日々喜怒哀楽や生老病死に感情をあらわにしていることが精神を酷使している修行にもなっています。
人を責め自分を責める不平不満が原因で不安心配や怒りや嫉妬・仕返し復讐心・やけくそ破壊意識で悩み苦しんでいるのも無駄な精神修行にあたります。
先を目指す理想目的を持って頑張り続けていることも、無駄な修行で目指しているの同じです。
自力では成しえないことを成そうとする努力で心身ともにエネルギーを無駄に浪費しているのも無駄に修行しているのと同等です。

思い悩み混乱したり、思考錯誤してみたり、葛藤することも無駄に精神修行をしていることになります。
自分の作品に自分の思いを込めようと日々模索したり、道を極めようと努力しているのも同じです。
勝者・ナンバーワンを目指して日々鍛錬しているスポーツ選手や登山家や冒険家も同じです。
世の為人の為に役立つことを目指している学者先生や政治家や企業家も色々と無駄な修行を重ねているのです。
比較競争差別し合い、いつ裏切られ切り捨てられるやら分からない会社や人間関係に情熱精魂を込めているのも、善行奉仕活動を意識して励んでいるのも、無駄な修行をしているのと同じになります。
過去の釈迦やイエスのように修行を重ねている人も・・・釈迦らの教えを守らずに無駄なことをしているのです。

そんな修行めいたことをやらなくても、今の自分に出来ることを当たり前にやっていれば十分なのです。
学者先生の素質を持っているのなら、それを普通・当たり前に出すだけで十分なのです。
芸術文化に適した才能技術があるのなら、それを当たり前に出していればそれで十分なのです。
子育てや家事に適した才能技術があれば、ただそれを出していれば十分なのです。
自分の素質・個性役割が役立つときに、その仲間同士が集まって協力し合うことがあったり、その時々で皆の先頭に立って出来ることがあればそれで十分なのです。
また・・・自然界がすべてを教えてくれているのだから、それを学び知り調和を乱さないようにして・・・自分の得意とする科学・医学や化学産業・工業産業や土木建築や自然産業に従事しているだけで十分なのです。

・・・それらを特別に思うことから・・・愛が愛ではなくなるのです。
だから、自分が役に立っているか否かを思い考え判断することではないのです。
・・・自分に判らないところで役立っているのが本物・愛なのです。

だから自分の生き様を他の人が見て・・・それを先輩先生・お手本に思う人や反対に否定反発したり卑下する人が居ても、そう思った人の為のお手本や気付きを与えることになったりして、何かで必ず役立っていることになるのです。
だから・・・衣食住が足らない貧乏であっても、身体に障害があっても、入院していても、死にかけていても、死にたいと思っていても、何にもしていなくても・・・いま生きていれば愛なのです。

今の自分に出来ること・自力を出しているだけで・・・その役割個性・愛を果たしているのです。
それがどんな役割・個性であっても・・・他と形に違いがあるだけで愛に差は無いのです。
宇宙万物、皆が居るから(お陰様の関係で)皆が生きていけるのです。
それが本物の愛・完全なのです。

たとえ自分が何かミスって加害者になっても、それでも皆と「お互い様」の関係なのです。
だから自分が被害者側になっても、それもお互い様だから他を責めることは出来ないのです。
・・・「そのまま、このまま、あるがまま」にしておくのが愛なのです。

ところが・・・自分さえ良ければの個人意識を出すから愛ではなくなるのです。
その愛の無い個人意識の善悪・優劣・損得で判断することから差が出ているのです。
また、自分にあるもので十分満足していれば「ありがたい」ことになるのに、その自分に無いものを欲しがることから、互いに奪い合う競争になったり、働きすぎて他の仕事や顧客を奪っていることになっていたり、詐欺窃盗や搾取策略・嘘偽りの偽善で他から奪う事になったり、暴力・武力・侵略・戦争で奪うことにもなるのです。

その原因が過不足を思う不平不満から起きているのです。
その不平不満の原因が先ほどの「良い悪い」で判断している個人意識にあるのです。

だからその「個人意識」を出さなければ・・・無駄な修行をすることもなくなるのです。
そして比較競争・差別・戦争の無い自由・平等・平和な生き方が当たり前の世の中になるのです。
とは言っても・・・今の世の中を自分の自力で変えることは出来ません。
また、他力で世の中が変わったとしても、自分が変わっていなければその世の中に順応することは出来ません。
だから、まず自分が先に変わらなくてはならないのです。

それを教えてくれているのが・・・不完全なこの世を<完全>に成すことが出来る真理・・・「完全真理」です。
コメント

教育・政治・経済を改革チェンジしても「焼け石に水」だから・・・「終」わりと新たな「始」まりが・・・

2009年10月22日 | Weblog
この世で見える宇宙万物すべては「意識」で成り立っています。
その意識が原因となってこの世の姿形を成していますから、その姿形は原因の結果になります。
だから原因と結果は同じですから、現れた結果を見てその原因を知ることができますが、しかしその結果を見て良い悪いで判断すれば矛盾する事になり、その結果はすでに事実ではなくなりますから、当然ながら事実結果の原因を見ることには出来ませんから、問題原因を何一つ完全に解決することは不可能になります。
・・・だから結果にいくら対処しても「焼け石に水」となり・・・どんなに時代が変わっても「良い悪い」の矛盾に苦悩・混乱・思考錯誤の葛藤が続くことにもなります。

そんな「この世」を改革・チェンジするために・・・過去の歴史から現在に至るまで様々な偉人・ヒーロー英雄が現れてきました。

中には「教育」に原因があると思っている人たちが、昔の寺小屋時代から続いて教育に熱心に取り組んではいるのですが、ところが全ての人に満遍なく教育することが不可能なことから教育格差が出てきたり、その教育を国家の指導で十分に受けたとしてもまた同じように格差が生まていますし、その教育格差がまた別な格差を作る原因にもなっていますから、教育では到底無理だとなります。

また「政治」によって世の中を改革することを目指してきた有名な政治家も次々と現れてきましたが、(日本に限らず)自国を守り豊かさを確保し強力にするためには「与えて奪う」策略や「欲しいものを奪う」しかなくて、経済侵略や他国に言いがかりをつけては軍隊・軍事力によって侵略したりして戦争まで引き起こした過去が何度かあります。
しかもその成果を一方的に国民に知らし見せることで正当化し、その策略・武力行使・抗争・戦闘・侵略・戦争は自国の安心安全を守るため、その正義を守るために必要とまで思わして洗脳していることからも、今も布教戦略・思想戦略・援助救済戦略・経済戦略で他国を思うがままに支配侵略したり武力行使や軍事戦略で侵略侵攻することが昔から続いています。

そして教育や政治で良くならないのなら併せて「経済」で立て直そうとして、(日本に限らず)今度は経済発展・経済成長を掲げる政治家や学者先生や起業家やが経済の仕組みやを色々と変えてきました。
またそれらに加担していた科学・医学もまだ未熟で不完全がゆえに「創造と破壊」の両面・裏表を繰り返し次第に進化発展しながら同時進行してきましたが・・・
それでも人間の心は豊かになりませんでしたから、更に衣食住・財や趣味嗜好娯楽や名誉権利権威で満足度・幸福感を高めたがる欲が欲を産み増え続けて、結果的には更に苦悩・混乱・破壊が進化増幅し続けることにもなり、時代と共に人間関係や自然界の衰退・荒廃・破壊・破滅が進んだ結果が出てきました。
・・・それでもお構いなしで、自分の生活が豊かになったことだけを喜び堪能している人も多いようですが・・・
そんな中にも・・・言い訳正当化程度のエコに取り組む人も出てきましたが、それも実質「焼け石に水」にしかなりません・・・

そして思想哲学を掲げるものや苦行難行の修行をしてまでも精神世界や神仏を説き明かす宗教家や神がかり的な人なども歴史上に次々と現れてきましたが、未だにどれも中途半端で完全を成していません。
すなわち中途半端で止まっているのだから、完全ではないのだから「いい加減」に諦めればいいのに、今も尚引き継がれていると言うことは、すべてが(教育・芸術・科学・医学・政治・経済・宗教関係など)世の為人の為ならずにして自分の為に主張顕示したり自己満足していることであったり、それらに関わる者達の生活の維持安定や組織活動やその拡大拡充の為に役立っているようなものですが・・・それも言い訳正当化して上手く誤魔化しています・・・

しかもそれだけではないのです・・・自らの立場・名誉・権利・権力の肩書きを「守り闘う」ために・・・ 
宇宙の必然から生まれた新たな「完全真理」やその宇宙の全知全能のエネルギー・意識エネルギーから創造されたファバラエネルギーを広めることを否定反発拒否する「抵抗」組織の役割まで果たしているのです。
そして必ずと言っていいほど・・・誰もが「そんなはずは無い」の一言で片付けたり、実際に確かめたわけでもないのに・・・そんないい加減な嘘に私は騙されないぞ・・・とガードーを強固頑固にしています。
・・・このような事例は歴史を見ても分かるようにたくさんあります。
・・・そして昔ほど、その組織力や策略謀略によって「闇に消し去られた」事例が多いようです。

★しかし今度ばかりはそうはなりません★
・・・過去は不完全が原因でしたが、今回は「完全」だからです。
そして宇宙の必然で真理・完全真理と完全意識エネルギーが創造されているからには・・・またそれを押し進め広める方々もすでに用意されていますから・・・成るものは必ず「成り」ます。
しかもこの世の情勢事態が悪化するほどに・・・闇が深くなるほどに小さな光(完全)が見えやすくなる道理から、完全への気づきが広がることと併せて・・・これからも宇宙の光・宇宙の意識エネルギーが強く射し込んできますから、遅かれ早かれ・・・そう遠くは無い年数で・・・そうなる「時」がくるだけです。

原因と結果は離れていませんから(当然のことのように原因と同じ結果が出てきますから)・・・原因である宇宙誕生以来、その宇宙の必然・仕組み(全知全能)によって此れまでの全てが成るようになった結果・現在の事実が出ていますから・・・不完全は不完全が当然であり、「完全」は「完全に成る」のが当然なのです。

★それをもっと分かりやすく説明すれば・・・★
今回の有史以来の「完全」がもしも不完全の結果に終わったと仮定したならば・・・これまでの全知全能の完全な宇宙が不完全だったことになってしまいますから・・・
今の宇宙・万物が実在ではなくて、非実在の夢や幻で見ている事になり、無いものを有るように思っていることになり、人類さえも実在していないことにもなり、全宇宙すべてが「無」になってしまいます。

しかし・・・完全は完全として宇宙万物すべてが実在しているのは事実ですから・・・
ゆえに人類有史以来・・・初めての完全真理であり、今回で完全になるのだから・・・「初で最後」と言われている訳ですし・・・一度終わり、新たに始まる・・・終は始まりの意味になります。

そして、一度古い人間の皮を脱ぎ捨てることで「良い悪い」を持たない新たな人間になり、その8次元意識の地球人類として生きながらえながら、そこでまた切磋琢磨して次の高次限界・宇宙に行くことになる仕組みが用意されている・・・と言われているのです。
このことがたとえ洗脳であっても「大丈夫」です・・・成るものは必ず成るのだから・・・困ったことにはなりません。
そして実際に困った事になるのは・・・完全を「信じ」て意識しなかった人や否定反発・不信感を持っている人達になります。
コメント

意識体である人間は「言葉」を使って表現していますから、その言葉に人の意識が入っています。

2009年10月21日 | Weblog
意識体である人間は「言葉」を使って表現していますから、その言葉に人の意識が入っています。
そして人の意識の入った言葉に矛盾があるのを知らずに「信じる」と一種の洗脳されたことになります。
また、それを信じる多数意見・集合意識によって常識化され正当化されたりしていますから、それに反することをすればたとえ事実であっても非常識(嘘偽り)として受け止められて、それを否定排除されることにもなります。

だから私たちは、矛盾のある不完全な常識や科学や医学を正当化するためのある種の洗脳を受けているのと同じになっています。
またその洗脳化・常識化によって知らない間に束縛制限支配されているのですが、それに気づいていない人も多いようです。

国家のリーダーは愛国心を言い、企業のリーダは愛社精神を言い、親方は愛弟子を言いますが・・・
これらの愛は・・・恋愛で使う愛と同じで・・・真の愛ではなくて、愛の言葉を上手に使って裏では自分に都合が良いように束縛制限支配したがっているだけです。
だから・・・都合が悪くなると手のひらを返したように裏切ることが出来るのです。
しかし・・・愛はどんなことがあっても裏切りません・・・だから「完全な愛・完全な神」と言われるのです。

「損をして得をとれ」は単なるプラス思考の言葉だけではなくて、(親切心・奉仕・救済救援救護を掲げていても)最初から得すること利を得ることを考えての・・・偽善、騙しのテクニック、詐欺・搾取・策略・謀略にも使われています。 
だから存在感・好感度・知名度アップや国家戦略や経済戦略によく使われています。

転ばぬ先の杖、石橋をたたいて渡るのは・・・単なる自己保身の意味だけではなくて、人をまったく信用していない人間不信の「不信感」にもなりますが、その人間不信・不信感を持つ原因にあるのが・・・自分に「自信」が持てない人間失格にあります。
また神を信じていても人を信じていなければ偽善になります。

天罰が下る、親の因果は子に報いるなどは「戒め」の言葉になりますが、それらは完全・真実ではない宗教家・教祖などが唱える説法を正当化するためや方便で使ったことであり、神仏の他力で起こる「戒め」は実在しません・・・自己責任の自らが招いた結果です。
だからその反対言葉の「神のご加護」や神のご褒美といった他力も実在しません・・・神は「あるがまま」にあるだけで、どんなことがあっても良い悪いで差別したりしません・・・だから差の無い・裏の無い完全は神・神意識、愛・愛意識なのです。

「愛」「喜び」「感謝」「美味しい」「満足」・・・などの言葉に価値観をつけて大きい小さいや多い少ないと思えば、その二つの間に「差」が出来て不完全になりますから(完全な一つではなくなるから)、自分の価値観をつけた思いは非実在になりますから、たとえ満足しても皆と同等・価値の満足とは違っていて、自分の思いの中の満足感や余計な価値観をつけた「自己満足」になります。

「価値」と「価値観」の違い
100円は100円であり、その金額の価値は何処へ行っても変わりませんが、ところが金額は同じであってもそれを多いと思ったり少ないと思えば、その多い少ないと思うのは自分の価値観ですから100円が100円ではなくなります。 すなわち不完全な100円となり、100円であって100円ではないようになり、事実とは異なっていますから非実在の100円になってしまうのです。

だからお金の価値と同じように・・・人間は人間なのに、その一人の人間を(価値観で)良いや悪いの二つに分離すると完全な人間ではなくなり「不完全」な人間となるのですが・・・完全であれば実在・事実で見れますが・・・不完全な人間意識は実在・事実で見ていることにならずに、頭の中で想像して実在しているように思っていることになります。 
そしてその頭の中には、良い悪い・善人悪人・神と悪魔の二つの意識を持った人間らしきものが住み着いていることにもなります。

だから・・・100円が100円ではなくなるような不完全な意識の人間が何をやっても完全なことは絶対に出来ません。
だから・・・この世は不完全で不安定で不自由で不平等で不平不満に思う・・・そんな意識が満ち溢れているのです。
だから・・・いい加減な妥協をしたり、矛盾を正当化したりして、見せ掛けの不完全な安心安全を思ったり言うしかありません。

しかも・・・価値観の高いもの、良いものを選ぶ「欲」がありますから・・・優れた衣食住や財や名誉や権力権利を持つ人を特別扱いにして(価値観を高めて)、自分もそんな特別な価値のある人間になろうと頑張り続けることにもなっているのです。
そんな中にも・・・取らぬタヌキの皮算用をする人や、果報者は寝て待てとか、絵に書いた餅を眺めているだけの人もいます。

過去の偉人をナンバーワンと思って信仰崇拝の対象にしている人も大勢居ます。
私は私だからとオンリーワンで頑張っている人も居ます。
でも、皆が一番の裏の無い「オールワン」を意識している人は殆ど居ないでしょう・・・言うだけの人は多いかもしれませんが・・・

昨日は過去のことですからもう事実ではありませんし、明日のことをいくら考えても思い想像ですから現実事実にはなりません。
だから昨日や明日ではない、今日の「今を生きる」ことが重要になるのです。
そして百聞は一見にしかず、論より証拠で「事実」を見ることです。

「すべてはひとつ」で完全です。 だから事実は一つです、しかしその事実に良い悪いをつけると二つに分かれて不完全になるのです。
そしてその不完全から「完全」な自由平等平和を生み出すことは不可能となるのです。
その不可能なことを可能にしようと無駄に浪費を重ねているのが「この世」であることを知ることです。

事実は事実であっても、頭の中では事実が事実ではなくなるのが人間の思い想像です。
そして事実の価値が価値観に変化するのも人間の頭の中で起こることです。
その事実で生きていなければ存在していることにはなりませんから「存在感」を示さなければなりません。
それが「私は正しい」の自己主張になり、それを顕示・誇示して存在感を示すことから国家社会の問題化にも発展しているのです。
だから・・・問題解決に「チェンジ」「政権交代」しても中味は変わらずに上っ面・形だけが変わるのです。

不完全な人間が作り上げた不完全な人間界では・・・何をやっても不完全しか生まれないことを肝に入れておけば・・・その不完全で非実在のあらゆる問題に迷い悩み思考錯誤・葛藤することも無くなり、不完全で非実在の世間の網の中に自らが「頭を突っ込んで」抜け出せなくなることも無くなり、また過去の未練執着や未来を思う執着心が消えて自ずと穏やかな心で「あるがまま」の事実で暮らすことになります。

特別・差別を表す言葉で「ナンバーワン」が古くからよく使われていますが、此れからは「オンリーワン」でもない、すべてが同じである「オールワン」の世の中が宇宙の仕組み・完全意識エネルギーによって準備されていますから、近い将来必ず実現します。
・・・しかし・・・この世が差の無いオールワンになっても自分の意識の中に良い悪いの差・差別意識があれば、差の無い新たな世の中に存在・実在で生きることは不可能になります。
・・・だから・・・他力のリーダーをチェンジさせることではなくて、自らが完全真理によって意識改革していくことです。
コメント

常識によって洗脳され牛耳られ束縛支配され差別されることになる

2009年10月19日 | Weblog
完全な真実・事実には洗脳は入れないが、不完全には自己暗示や他者暗示の洗脳が入っています。
だから不完全な。

卵を見れば誰もが卵と見ますから完全ですが、卵を見て鳥だと言えば不完全になります。
だから不完全は事実を見ていませんから、矛盾していて、あいまいだったり、妥協だったりします。
そして事実ではないことを事実に見せかけるのには・・・言い訳したりして正当化するしかありません。
その結果・・・事実ではないのに・・・「私は正しい」と思い込み、それを主張したり顕示誇示することにもなっています。

その正当化されたことを丸呑みして信じれば洗脳されたも同然になります。
しかも正当化されたものが集合して常識や道徳・伝統風習にもなっているのです。
その不完全を信じているのが我々だと気づいている人は少ないでしょう・・・

完全な宇宙の全知全能で創造された自然界は完全ですから調和が取れています。
ところが不完全意識の人間が生み出した現代科学や医学や産業技術なども不完全ですから、それらの影響を受けて自然界の調和が崩れ弊害・副作用・公害などが現実に出ています。
そんな不確かな科学や医学の(良いとこ取りした)データーを信じている人が大勢います。

また常識は人の集合意識から生まれたものですから全員一致の完全ではありませんが、その常識を「正しい」と信じている人が大勢います。
しかも集合意識から外れた少数派を非常識扱いにして否定反発排除したがるのがこの世にあります。
例えば、葬儀は悲しみを表すのが常識であり、葬儀の参列者が派手な服装をしていたり笑顔でいれば非常識と言われます。
また服装で男は右前で女は左前とか髪型・着付けに至るまで、また夫婦は一婦制に限り、重婚・浮気・不貞・近親相姦・レズやホモはだめと・・・あれはダメでこれは良いからと善悪で判断することが常識化され、いつの間にやらそれが正しい事にされ、それも時代いと共に次第に増えていき・・・それがマナーや道徳・風習や伝統にもなっていることから、その常識・マナーで要らぬ苦労・浪費を重ねたり、意識しすぎて気疲れしたりして、常識・伝統風習道徳で自他共に牛耳られ束縛制限・差別されて自由平等が妨げられているのです。

また非常識に入る不潔・不衛生が主要原因で感染症や病気症状になるとは限りません。
反対に・・・黴菌は悪いから全部殺してもよい・・・その悪者扱いにする過剰意識に問題・原因があります。
・・・病気の原因は意識にありで・・・過剰意識・意識負荷・ストレスが大きく影響しています。
また病原菌や感染ウイルスやガン細胞になるガンそのものも意識体ですから、守り闘って相手を殺そうとすると対抗してくるのも当たり前で抗体を持つことになるし、たとえそれらを薬剤や手術で排除して姿形が消えても、それらの意識・命は永遠に生きていますから転移再発や感染は(形を変えてでも)続きますから・・・だからこの世からは無くならないばかりか増えているでしょう・・・

そして・・・細菌ウイルスのその役割個性が違っていても人間と同じ意識体ですから・・・悪者扱いで守り闘わなければ・・・すなわち相手(細菌ウイルス)の存在を認めていれば活動が穏やかになり安定してきますから、あとは成り行き任せにして病気と仲良く付き合っていれば・・・寿命が尽きる時でなければ・・・元々の生命力や自然界のエネルギーによって次第に症状・病気が回復治癒していきます。

その実例にあるのが・・・大腸菌O-157騒動のときに・・・大病院で菌を殺しにかかって重症化したが、ある小さな病院では下剤で菌を体内から出した患者は軽症ですんだ事例が有名です。
・・・でも下剤と抗生物質を投与するのとでは病院の儲けが違いますから・・・経営優先VS患者優先・・・その病院側の意識が患者の病気・症状の回復を遅れさせたり回復が早まる原因にもなります。

他にも、潔癖症の人ほど拒否反発する意識が強いことから体質も同じように拒否反応を示すことになり(原因と結果は放れていませんから)、アレルギー体質の皮膚炎になったり、「私は正しい」に執着している人が花粉や植物アレルギーを持つことにもなります。

結局は・・・多数派の集合意識の常識を信じていれば・・・少数派を否定反発排除することになり、結果として事実や新たな真実を見逃す原因にもなり・・・その結果・・・今もなお危険な赤信号の横断歩道を皆で渡っている・・・ようなものになり・・・
それが原因となって今も問題・結果が出続けているし、今後とも問題・結果が出続ける事からすれば(赤信号を渡っているのだから)少しも油断することは出来ません・・・だから心穏やかに安心して暮らすことは不可能でしょう・・・
コメント

普通の常識に思っていた喜怒哀楽・生老病死・伝統風習道徳は特別意識

2009年10月15日 | Weblog
此れまでの私の生き様は・・・主に必然(お仕組み・ご縁)に恵まれてきたことが一番にありますが・・・
その原因ともなる直感・思い付き・感性によって気づいたことを意識しながらにいて(その思いを巡らし想像するだけではなくて)、意識していたからこそ来るその時そのチャンスをとにかく一度は試してみることにしていました。
それが仕事であれ趣味嗜好娯楽であれ精神世界や宇宙エネルギーであれ・・・その「お試しの連続」が結果的には・・・成る様になって・・・苦悩することも少なく無難に無理なくやってこれたようです。

そして性格的には・・・喜怒哀楽や生老病死やその冠婚葬祭に冷静すぎて・・・薄情者に思っていました。
だから・・・我が子の誕生から両親や身内の死に対しても同じでしたし、家族・身内に対しても、また私自身のことでも喜怒哀楽はあまりありませんでした。
だから・・・世間では常識となっている生老病死やその喜怒哀楽の中にある、その伝統・風習・道徳にある冠婚葬祭やお祝い事や病気見舞いに対しては・・・何か無駄なことをしていると違和感を持っていながらも、仕方なく世間に合わせてやっていたようなものです。
しかも世間的な話題から、自分の力が及ばない国家政治経済の世情にも無関心だから・・・尚のことに・・・新物・目新しいことや今まで知らなかったことに意識がいったようです。

そして幼い頃から楽しく遊ぶことが第一だったから無学歴・無教養の生き方を自分で選んだようですし、また世間の神仏・仏壇・お墓などの宗教的事柄は否定的でしたから儀礼で手を合わす事さえ違和感がありましたのと、生老病死・冠婚葬祭・風習の儀礼・作法に無関心だから、自分の恥をさらすことにもなるその儀礼・作法・挨拶さえも出来ずにいましたから・・・能無し・薄情・無作法な人物に思われていたかもしれません。

その原因が・・・「自分が意識」していることや自分が直接関わりあっていること意外にはあまり関心興味が無いことから(自己中心だから)、(学業成績を含めて)その関係ない他ごとに意識を向けられない性格・タイプになっていたのです。
・・・自分が意識している事には精一杯やるが(その反面)意識していないことは・・・どうでもよかったのです。
だから意識が遠のくと当然ながら関心も薄れますが・・・その時にはもうすでに次の新たな事が必然で始まりつつありました。
その繰り返しが幾度となく続いて今日がありますが・・・今の完全真理とファバラでそれも完結となる自信確信が有ります。

だから此れからも同じですから・・・ちなみに私の身の回りで起きる事件や事故や怪我や病気や死に対してもまったく同じですから・・・それら今後のことは家族親戚や親しい人に前もって伝えています。
その一つに、私の死後の葬儀やお墓や仏壇や法要回忌をしなくてよいと家族に伝えていますが・・・その意味からも大学病院に献体登録を済ませています。

そして・・・今回新たに思いついたのは・・・死につながる病気やガンになったときに・・・その死が迫っているからこそ私に出来ることがありました。
それは・・・入院手術や抗がん剤に頼らないこと(守り闘わないこと)・・・そして毎回の食事は気軽に食べたれる牛乳と卵とパンとご飯だけにして、果物はバナナやミカンで十分として・・・ 
そして科学や医学で言われているような栄養・成分とはまた違った・・・「生命体」であることを支えている原因エネルギーとも言える宇宙意識エネルギー・常温核融合から新たに創造されたファバラ製品を使うだけにして・・・他のものは不要として、余命・寿命が尽きるまで続けてみることです。

そして特に未練・思い残していることや執着していることもないので、死ぬ前に・・・誰彼に一目でも会いたいとか、一度でも何々をしてみたいというような、今までと違う特別なことは必要ありませんから・・・普段道理で十分です。
そして誰にでも起こる(当たり前の)病気や死に対して特別な感情・動揺の不安心配・恐れや悲しみを持つ必要もなければ・・・見舞いは不要としていますから・・・そのお見舞い感覚ではない遊び感覚で立ち寄ってくれれば・・・私がすでに孤独死・野垂れ死にしているかもしれないので第一発見者になる可能性があるが・・・ とにかくいつも通りに山へ遊びに来る感覚で来て・・・私に気遣うこともなく、そのままにゆっくりとすごしてから帰ることにして・・・ 
いずれ危篤状態で身内が集まることになっても・・・普段の会話をしながら・・・ただ私の死を待つだけにして・・・
やがて・・・孫などが気づいて・・・軽い口調で「じいちゃんが死んでいるよ」となり、それに合わせたかのように・・・そう、もう死んだのね・・・じゃ、遺体解剖の大学病院にあとは任せることにして・・・と、あっさりと後片付けをして帰ってもらえば・・・それで十分です。

そんな私が過疎地で暮らすようになった当初は・・・単なる自己逃避に思えるときがありましたが・・・逃避ではなくて「意識」変わりしていて、その生き方や考え方が違っていたのが原因でその結果が出ているだけなのです。

すなわち冠婚葬祭・慶事凶事を伝統風習化させたのは見栄や世間体ですから・・・どうでもよかったのです。
普通に楽しく生きていればいいものを・・・余計な生老病死や喜怒哀楽で大きく感情を揺り動かすことでもなかったのです。
そして仕事や趣味嗜好娯楽で自分の思い通りにして自己満足したり、それを主張や顕示・誇示することでもなかったのです。

そして・・・すべてに「大きい小さい」はなく・・・当然ながら大きな喜び満足も小さな喜び満足も「同じ」同等だったのです。 
その大きな喜び満足を欲しがっていたのは・・・同等価値に差を付けて「価値観」で満足していたかったのと、自分の存在を「生きている実感」ではない「存在感」で自己満足を味わっていたり、それを(自分の存在感を)他に示して主張誇示・誇示するためだったのです。

すなわち・・・普通の当たり前に生きていれば十分なのに・・・特別に生きることで他と「差別」したがる欲で生きているのです。
コメント

喜怒哀楽・生老病死、趣味嗜好娯楽や恋人夫婦家族関係の「好き一元」と裏の無い事実「あるがまま」

2009年10月12日 | Weblog
私たちは良いと悪いで判断して生きていますから、良い日と悪い日もあります。
だから完全な自然界の仕組み・必然で起こる天気さえも人間は良い悪いで判断しています。
それとは違って・・・天気を喜び、曇りや雨の日も喜ぶのなら・・・裏が無い「あるがまま」に事実・現実を受け止めていますから、良い悪いで判断している事になりません。

同じことですが・・・新なた生命・赤ちゃんが生まれた時に喜び、反対に死を悲しめば・・・喜怒哀楽・生老病死の矛盾で生きていることになりますが、赤ちゃんが生まれたことも成長していくことも怪我したり病気したり死んでいくことも、その一つ一つの事実だけを受け止めていれば、その時だけの事・その時の結果だけで終わります。
・・・「今を生きる」ことになります。

ところが一つのことを良いと悪いの二つに使い分けていると・・・先ほどの天気のように矛盾した結果が出てきて・・・喜怒哀楽・生老病死で喜んだり悲しんだり、その矛盾で悩み苦しむことにもなります。
だから事実を受け止めていれば、喜びは喜びであり悲しみは悲しみのそれ限り(一回)の事実だけで終わりますが・・・良いや悪いで思うと未練執着になり更に拘ることになればずーッと引きずり続ける事になります。
・・・そのことを「過去未来の非実在で生きる」または「想像空想の仮想世界で生きる」と言われています。

そうなると更に未練執着を次から次と抱え込むことにもなりますから、その未練執着の思いで頭の中が一杯になり、それに連動・連鎖して意識・精神・心と言われるものが混乱・葛藤することにもなります。
それが現実の不注意事故や精神異常や犯罪の怪我や病気・ノイローゼ・認知証、自殺や他殺や戦争やテロの原因にもなっています。

そして恋愛関係や趣味嗜好娯楽関係にもあることですが・・・「好き」になることがありますが・・・それも好き嫌い(良い悪い)の選択ではなくて、ただ必然で好きになった「好き一元」であれば問題は起きません。

ところが好きになったのに・・・理想目的・思惑期待の結果を求めたりすると、その結果が気に入らなければ裏切られたことになり「嫌い」になりやすいが・・・その「結果」をあまり気にしなければ(執着しなければ)・・・その関係を続けることができます。

しかし本来は・・・「結果」を求めない「あるがまま」に好きになるのが・・・「好き一元」です。
だから・・・その「好き一元」であれば・・・結果を求めていませんから・・・恋人・夫婦が(何するでもなく)共に居るだけでも至福を味わえますし、また趣味嗜好娯楽も好きだから楽しくて飽きることはありませんし上達もしていきます。

しかし現実には・・・恋人や夫婦や家族の好き合う関係・・・恋愛や夫婦愛や家族愛と言われる・・・好き合う関係は感情で成り立っていますから「好き一元」になり難いのです。
また趣味嗜好娯楽なども・・・比較競争することから間違った方向の問題意識を持って、それが問題化につながるのです。

だからこの辺で良い悪いで思い考え執着することをやめて・・・一つ一つの現実をあるがままに見てそれで終わりにするのです。
そうすれば・・・好きで始まれば好き一元で、恋人家族が好きなら好き一元で、その関係がずーッと続くことが出来るのです。

★参考★ 
このブログで・・・人間界の必然から創造された趣味嗜好娯楽・恋愛や夫婦・家族の形を「否定」しているものではありません。
現実にそれらの形には比較競争・差別や束縛制限支配関係が有ることの事実を書いているのです。

★参考★
病気や怪我・症状が出ることは結果ですから、その原因である意識のあり方を教えてくれる「ありがたい」ものです。
また死も結果ですから、原因の元の意識の世界に戻るわけですから、お金を稼ぐこともない衣食住の要らない生き方に変わるのだから「ありがたい」ことになります。
だから・・・この世に生まれ死ぬことも「ありがたい」ものだから・・・すべてが「ありがたい」お陰様・感謝の「裏の無い」一元の世界でなければならなのです。
コメント

山田耕栄さんが説く「完全真理」は不完全な私たちの意識を改革するものです。

2009年10月10日 | Weblog
始まりなき終わりなき(大元の)宇宙は「意識」で成り立っています。
その見えない意識が原因で、見える結果が宇宙の形です。

そして宇宙は「ひとつ」です・・・宇宙が二つあると言う人はいません。
だから宇宙から生まれた宇宙・地球・人類・万物は形・役割使命が違っても<差>はなく皆が同等です。

その宇宙・万物の意識は「ひとつ」しかありません。 それを「命」とも言いますが、命が二つある人は居ません。
だから「意識」「命」は一つで完全です。

そして完全なる全知全能の宇宙が神とすれば、その宇宙から創造された地球の動物・植物・鉱物・水や空気や微生物に至るまでの万物すべてが全知全能の働き・役割をしている神の一つになります・・・それを「一神にして多神」の関係と言われます。

そして宇宙も人間も万物も全知全能の仕組み・働きがあるからこそ、意識・命が実在で「生きて」存在している形になります。
その形を成している存在だから人間に見ることが出来ているのです。

その「完全」から生まれた内の一つでもそれが神ではないと思えば・・・全てが「ひとつ」ではなくなり、二つ以上ある事になりますから・・・それでは「不完全」になり、当然ながらその人の意識は不完全な意識の人になります。

そして完全だから「原因と結果は」一切離れていません。 原因があるから結果が出ているのです。
その原因が命の意識から出たものであれば、その結果の原因は意識にあります。

だからすべての原因は意識にあり、すべての結果は意識が原因のなのです。
だから宇宙・万物「すべてが意識」であり、その意識が生きていることを命と言っているのです。

その原因である意識に「良いと悪い」の二つの思いを持つと、その良いと悪いの二つの内のいずれかの一つを選ぶことになりますから、もはや完全では無くなり不完全になります。

だから「良いと悪い」(善悪・優劣・損得)を持っている人は不完全な意識の人になります。
だから「私たち」は不完全な意識を持った人間になります。

その私たち不完全な人間の一つの意識の中に良いと悪いの両面「表と裏」の二つを持っていますから、どうしてもその裏表を交互に使い分けることになりますが、その不完全な意識が原因となって働き動いていますから、当然ながら結果も裏表の矛盾がある不完全なものになります。
だから「この世」は不完全なのです。

だから・・・原因がなければ結果は出てこないことから言えば・・・頭で何も思い考えなければ当然頭の中に何も思い浮かびません・・・ところが天国があると思えばそれを裏打ち立証させるための地獄と思えるところが必要になります。

すなわち実在でないものを実在に思わせるためには、無と有の裏表を作らなければ(比較対照する形が無ければ)非なる実在を想像することは出来ません。
だから「表」を善なる天国とすれば、相反する「裏」が悪い地獄にしなければ無を有にすることができません。

すなわち良いも悪いも実在していないのに・・・神代の頃から嘘偽りを教えられたものを此れまで延々と引き継がれているから・・・良いと悪い(天国と地獄)が実在していると思い違いしているのです。 それが人間であり、この世の人間界の生き様になります。

その良い悪い(善悪・優劣・損得)で思い判断すれば当然ながら、自分に都合が良い「良いとこを取って」都合が悪い「悪いことを排除」したがりますから、どうしても比較判断して「差」を持つことになり、しかもその差の結果が自分に気に入らなければ「人を責めたり・自分を責める」ことになり、それが原因で不平不満を持つようになったり、不安心配の他者不信や自己不信の不信感を持ったり、腹を立てて怒ったり、仕返しあだ討ち制裁の復讐心を持ったり、やきもち嫉妬・ジェラシーを持ったりしますが・・・未練執着すればするほど・・・誰かを立てれば誰かが引っ込む世の中ですから・・・完全な解決策が無いまま「どうにもならなくなる」のがこの世の常であり矛盾ですから、その堪ったうっ憤を晴らすのが物や形を壊す破壊行為・破壊意識になります。
その破壊行為・破壊意識が・・・喧嘩暴力・離別離婚・自殺や他殺や戦争やテロや特攻爆撃や自爆テロの原因にもなっています。

・・・そして最後の最後が・・・核爆弾による地球人類の破壊というストーリーで終わりますが、地球万物の意識・命は宇宙に漂い続け、必然・必要があったときに再び生命体・意識体となって形付けられるときが来るのが・・・「始まりなき終わりなき」全知全能の宇宙の仕組みにあります。

長々と説明していますが・・・これら全ての結果の原因は・・・自分さえ良ければの比較判断する「良い悪い」を持った事にあります。

だから、たった「一つの原因」から多くの様々な結果が出ていることを知らない限り、何をやっても無駄なこと(無駄に意識・命エネルギーを浪費していること)になり、そのいい加減な中途半端のままにずーっと引きずり続けて苦悩・混乱・思考錯誤・葛藤が絶えませんから、(意識・命エネルギーを使って生きてはいるが)「生きている」価値は何処にも見当たりません。

だから思い思惑の(非実在)結果に自己満足し自己主張し自己顕示・誇示して・・・生きている振りをして見せる・・・カッコつけて生きているつもりになっているだけです。

そんな今の私たちの生き方・意識を改革してくれるのが「完全真理」です。
コメント

田舎暮らしで、価値観・自己満足ではない、足りるを知る満足を味わっています。

2009年10月09日 | Weblog
田舎暮らしといえば・・・快適便利な街中の暮らしぶりを田舎に持ち込んでいる人も居ますし、創作活動を静かな田舎でやっている人も居るし、自給自足のような暮らしをしている人も居るし,無農薬の自然栽培をしている人や昔の暮らし・知恵を実践している人と、いろんな場合があるとは思いますが、生活様式や住む場所を変えてみただけの人が多いと思います。

私の場合はそれらに当たらないと思っています・・・確かな収入源は国民年金の月5万円ですが・・・ 
真理で言われる生老病死を気にしないで、喜怒哀楽や比較競争を無くして、守り闘わない実践を意識しておりますし、自己満足で現実から逃避する趣味嗜好娯楽は必要なくなっているし、大元の原因を知っているから世間の話題や問題にこだわることもないし、同じように世間的な慣例風習や道徳や常識に束縛制限されたくないから、当然ながら必要最低限のお付き合いにもなりますし、来るものは拒まず去るものは追わずの自然体で接することにもなり、ご縁お仕組みの必然で人と接することにもなり、その多くは私と同じ完全真理意に目覚めた仲間の人や真理を知りたがる人やブログの仲間になります。

見栄や世間体やしがらみを持っていないし、特に定まった仕事や作業も無くて・・・時々ご近所のお手伝いやアルバイトが有ったりしますが・・・季節ごとの草刈と犬や鶏に餌を与えるくらいですから・・・一般的な生活様式や慣例に束縛制限されることが無い代わりに・・・暇で退屈することになりますが・・・それだけに「完全真理」の実践を意識していることが多いので・・・そのことをブログに書き込む時間は十分にあります。

また・・・過去の世間体や見栄やしがらみ・自縛から開放されただけに今更見栄や世間体を気にすることもなく、当然ながら世間の常識・風習・伝統・道徳の不完全を悟り知っていますから、そのことについて気にしたり迷い悩むこともありません。 そして世間的な冠婚葬祭・お祝いやお見舞いごとに関わることを遠慮していることを予め説明して理解していただいております。

そして質素倹約を「目指している」のではなくて・・・使えるものを無駄にしたくない、また新品でなくても無料で頂いた中古・リサイクル品でも十分だと納得して使っているし、それらを汚れて不潔・古臭い・かっこ悪い・不便に思うこともなく、いま有るものや使われなくて放置されているものなどを創意工夫して使う面白さや自分で修理修繕して使える限り使い続ける面白さを知ったのです。

だから・・・落ち目が原因で稼ぎがなくて貧乏をしているのではなくて・・・「月5万円の年金で生きるのに困らないから」・・・仕事で稼ぐ必要がなくなったのです。

また食事時に関係なく「空腹」になってから食べますから何を食べても美味しく味わっていますし、保存の利く塩サンマや塩さばを焼いて食べるのが何度続いても「美味し」ものになりますから、他の値段の高い食材を選んで食べなくても十分満足していますから、いつもの買出しで買うものが概ね決っています。 そして必要なものの中で売れ残りの値引き商品があればそれを喜んで買っていますし、果物も安いバナナやミカンを美味しく頂いていますから、他の季節の果物を欲しがって食べることはありません。

だからこそ・・・時折り季節の果物や、盛り合わせの刺身や寿司や、手作りの寿司ご飯や赤飯やお餅などを親切に頂いたときは、人様から頂いた喜びと、それが食べられる喜びと、いつもとは違う味を美味しく味わえる楽しさがありますから、まだ食べてもいないうちから何だか豊かな気持ちにさせてくれます。

だから・・・過去の贅沢三昧・快適便利な生活を追い求めていたことが・・・すべて自己満足だったことが分かったのです。
そんなことから・・・暇で退屈しているのに山の中で何とか暮らしていけるし、幸せとか充実しているとかではない・・・過不足のない調和のある暮らしに満足しているようです。

その田舎暮らしで味わい知ったことにあるのが・・・ 車は車の価値があれば十分ですから、新品で輝いていなくても中古や凸凹やサビ付いていても、車の価値・役割に「差」は無く同じなのです。 それを良い悪い・優劣・損得の値打ち・価値観で評価判断しているのは見栄や世間体・プライドを満たす自己満足になるのです。
だから・・・生活様式全般(衣食住や必需品や付帯する諸々)を含めて、それらを良い悪いの価値観で判断しなければ自己満足の贅沢も無くなるのです。

だから思惑期待を叶えてくれる、無理して得る自己満足よりも・・・ いま有るものに満足を知る、無理なく得たり与えられたものに満足する、過ぎた特別を望み求めない・・・ けち臭い質素倹約でもない、不足不満でもない、足りる満足を知ることで・・・ 他の人はどうであれそれをいちいち気にせずにいれば、自分の生き方に安らぎ安心と自信めいたものが味わえることから・・・生活様式・状態に関係なく・・・生きていることが何となく楽しい事になるのです。

そして・・・生きることに必要が無い特別なものは捨てたことだし・・・意識的には衣食住や健康や寿命さえも、それを「失う」ことに不安も恐れも消えかけていますから・・・失うことから守り闘うことになる未練執着も消えかけていますから・・・ 過去未来に拘らないで、束縛制限の無い自由を誰気兼ねなく楽しんでいられるのです。

だから何かと・・・良い悪いの喜怒哀楽・生老病死を押し付けられ、先入観で決め付けられ、束縛制限支配され、比較競争の勝ち負け・優劣・損得の差で見られ、表面とは違う裏心では否定反発・不信感で見られ、矛盾することをいい加減な妥協や言い訳正当化で誤魔化されたりしているから、生きることだけでストレス・気兼ね・気疲れになる、そんな矛盾・不完全なこの世の仕組みや人間関係や生活を大事に守り闘わないで、また見栄・世間体・プライド・しがらみ・理想や欲望などの背負った荷物を置いて身軽になれば・・・その分だけ世間の他力や金銭物質に頼らないですむことから・・・やる気・自信・自力があれば・・・不自由しない自由とその独自の生き方を味わい楽しめるようです。

★参考★
大勢の人が身近にいても・・・人それぞれの意識は・・・私が優先の自己中心・個人意識ですから・・・人それぞれが別なことを意識して生きています(しかも個人意識の不完全意識ですから、愛の完全意識からは離れています) ・・・だから皆と一緒にいても互いの意識は別々に離れています。
しかも・・・人は「意識で生きて」いますから、それぞれの意識が離れた関係なら・・・皆と一緒にいても孤独関係になります。
・・・生まれる時も、生きている時も、死ぬ時も、人間は孤独なのです。

だから不完全な関係(自分さえ良ければ)自己中心の関係であっても・・・人が寄り集まったり肌を寄せ合ったりしていなければ<生きた心地>がしないのです。
その生きた心地の「心地」は=(生きている実在・存在ではなく)=「存在感」になります。
・・・だから実在で「生きている」のではなく、生きている感じの「つもり」ですから・・・生きていることの価値は実在しなくなります・・・だから代わりに存在感の価値観を示しては自己満足し、その存在感・価値観を人様に知って認めて欲しくて自己主張し、更にその存在感・価値観を高めるために己を顕示したり誇示しているのです。
コメント

必然・ご縁・お仕組み・宇宙の法則・自然の法則、意識の世界の摩訶不思議

2009年10月05日 | Weblog
宇宙は意識であり、その宇宙から生まれた万物は意識を持った意識体ですから、その宇宙と一体となって万物すべての意識と(スーパーコンピューターや人間の神経組織のように)網羅されていますから・・・世間で言うような「偶然・奇遇」はなくて、すべてが必然・ご縁・お仕組みであり、その選択によって(他の意識と複雑に絡み合いながら)一定の規則正しさで動き続けていますから、その途中結果が今の形で現れていても、まだまだこれからも(永遠に)結果は出続けます。
それを「宇宙の法則」「自然の法則」とも言われています。

だから昔の人が言うように・・・袖触れ合うも多少の縁・・・と言って(たとえ小さな出会いであっても)そのお仕組み・ご縁の必然・必要を意識して暮らすことが肝要になります。
また「来るものは拒まず、去るものは追わず」・・・執着せずに成り行き任せの自然体・あるがままに生きることも言われています。

ところが「欲」を持つと、小さな出会いよりも自らが探し求めた大きな出会いを欲しがります。
そして結果を急ぎ慌てて出すために、その効率・効果を高めるために、色々と作戦・策略・攻略を計画したり、陰謀で搾取策略を図ることもあります。
その結果望んだ大きな成果を挙げることも出来るようになります。
だが、その分だけ気苦労も労力も多くなり時間さえも無駄にできなくなり、欲で接する時間ばかりが多くなって心休まる時間がどんどん少なくなっていきます。
すなわち・・・良いとこばかり取っても、同時に悪いことにもなっているのにはなかなか気づきません。
それが今の自然環境であり、国際・社会・人間関係であり、家族・家庭の人間関係・愛情関係でもあります。

ところが・・・あまり欲を持たずに、自分の背丈に似合う適したことをやっていると気楽にやれるから疲れません。
そして気楽で疲れなければ楽しいことにもなり、充実したことにもなります。
それが先生学者であれ凡人であれ役目に差は無いから、自分に出来ることを単にやっているだけの普通意識であればいいのです。
そして時間に余裕があれば気づくことも多くなり、無理をしなくても次第に役割個性が磨かれて幅広く奥深く歩むことにもなり、余裕で人と接することで優しくもなり思いやりも出てくるようになるというものです。

ところが・・・自分の欲ばかりで忙しくしていれば時間の余裕も心の余裕もありませんから、手短に自分が得をすることばかり考えるようになることから、心に空間・隙間や深い溝が出来てしまい、その心の隙間に=魔(ま)が悪(あく)=悪魔・邪心が入り込み、自分が思うままに人を操り支配し牛耳ることを目指すようになりますが、その結果をいくら出しても切がありませんから、やがて息切れしたり失敗をして深い溝に自らが転落して這い上がれないような羽目に遭うことにもなります。
そうならなくても(概ね)・・・自分で掘った谷で山を作る事になるから、その自らが作った山や谷に苦労することになります。

と言うことですが、今の完全真理を知る以前から・・・ここに書いたような事例を一度一歩でも歩んできた私ですから・・・摩訶不思議ともいえる必然・ご縁・お仕組みの数々のお陰で今の私があることも分かっているし、まったく信じていなかった霊界・4次元を知る事になったり、異次元物体生物や一生に一度見ることも出来ないような貴重な自然現象を見ることが出来たり、あの世に似た意識だけの世界を白昼の日中時間だけ擬似体験したこともあるし、過去において世間に認められカッコよく生きようとしたその努力の過ちにも気づいているし、その見栄や世間体やしがらみに縛られていたのが今では開放されているから、いろんな形の束縛制限支配関係やその人間関係・愛情関係の矛盾やその錯覚間違いにも気づいていますし、欲を持たずに与えられるまで「待つ」こと・・・すなわち急ぎ慌てないでも、必然・お仕組み・ご縁が起きて何とか自分なりに自然体で無理なく事が順調に運ぶことも数々ありましたので・・・ それで学び知る真理と我が身を照らし合わせてブログに書き込んでいます。
コメント